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「ベニート・ムッソリーニ」の版間の差分

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参考文献よりムッソリーニの黄禍論中華民国空軍訓練支援、「アドワの報復」、第二次エチオピア戦争について加筆。
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1931年に[[国粋大衆党]]を結成した[[笹川良一]]はムッソリーニの崇拝者であり、ファシスト党に似せて党員に黒シャツを着せていたほどであった。[[1939年]]には笹川は、飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。なおこの訪欧については[[山本五十六]]の後援があったという<ref>[[笹川良一]]参照。『続・巣鴨日記』26-30ページ</ref>。
1931年に[[国粋大衆党]]を結成した[[笹川良一]]はムッソリーニの崇拝者であり、ファシスト党に似せて党員に黒シャツを着せていたほどであった。[[1939年]]には笹川は、飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。なおこの訪欧については[[山本五十六]]の後援があったという<ref>[[笹川良一]]参照。『続・巣鴨日記』26-30ページ</ref>。


[[1931年]]の[[満洲事変]]勃発後、ムッソリーニは[[満洲]]を巡って[[日本]]と対立する[[中華民国]]に急接近し、[[1933年]]以後には[[中華民国空軍]]訓練のための[[軍事顧問]]を[[中国]]に派遣している<ref>[[古川(2007b)|古川(2007b:307)]]</ref>。
1936年に締結されていた日独防共協定に、1937年11月にはイタリアも加入し、[[日独伊防共協定]]を締結する。1940年には[[日独伊三国軍事同盟]]が締結され。1940年(昭和15年)には「ムッソリーニペン」という万年筆が発売されるほどであった{{sfn|山崎充彦|2006|pp=202}}。この同盟を元に、[[1941年]]12月にイギリスやアメリカとの間に開戦した日本を追ってアメリカに宣戦布告し、その後日本が占領下に置いた[[ペナン]]にイタリア海軍の[[潜水艦]]「[[グリエルモ・マルコーニ級潜水艦|ルイージ・トレッリ]]」を送り、イギリスに対する[[通商破壊戦]]に[[大日本帝国海軍]]の潜水艦とともに従事させた。

[[File:1938 Naka yoshi sangoku.jpg|thumb|260px|[[1937年]]11月に締結された[[日独伊防共協定]]を記念する[[日本]]の[[はがき|絵葉書]]。「仲良し三國」と書かれたこの絵葉書には[[日本]]の[[近衛文麿]][[内閣総理大臣]]、[[ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]][[総統]]と共に[[イタリア]]のベニート・ムッソリーニ[[ドゥーチェ|統領]]の写真も掲載されている。]]
[[1931年]]の時点で4200万人に達していたイタリアの過剰人口問題解決の為、[[イタリア人]]の農業入植の適地として当時独立を保っていた[[エチオピア帝国]]に目を向けたムッソリーニは、既に領有していた[[イタリア領エリトリア]]と[[イタリア領ソマリア]]と[[エチオピア]]を合わせた「東アフリカ帝国」の建設を構想した<ref>[[#岡倉(1999)|岡倉(1999:209-211)]]</ref>。[[1934年]]にイタリア領ソマリアとエチオピア国境付近の[[ワルワル]]で「[[ワルワル事件]]」を引き起こした後、ムッソリーニは[[1935年]][[10月2日]]の演説で「[[アドワの戦い|アドワの報復]]」を訴え<ref>[[#岡倉(1999)|岡倉(1999:208)]]</ref>、翌1935年[[10月3日]]に[[イタリア軍]]がエチオピアに進攻し、[[第二次エチオピア戦争]]が勃発した<ref>[[#岡倉(1999)|岡倉(1999:211-219)]]</ref>。イタリア軍は[[毒ガス]]を用いて皇帝[[ハイレ・セラシエ1世]]の帝国親衛隊を含む[[エチオピア軍]]を撃滅した後、[[5月5日]]に首都[[アディスアベバ]]を攻略、[[ピエトロ・バドリオ]]率いる部隊が入城した<ref>[[#岡倉(1999)|岡倉(1999:219-229)]]</ref>。第二次エチオピア戦争に前後して、[[1935年]]から[[1936年]]にかけての日本の民間社会では[[右翼]]の[[黒龍会]]を中心にした[[大アジア主義|大アジア主義者]]によるエチオピア支持キャンペーンが発生し、日本からは[[日本刀]]や[[医薬品]]などがエチオピアに送られ、[[高知県]]では[[エチオピア饅頭]]が発売されたが、日本政府は第二次イタリア・エチオピア戦争を「第二の[[満洲事変]]」と看做す国際社会の反応に留意し、この戦争に[[中立]]を保った<ref>[[#古川(2007b)|古川(2007b:308-311)]]</ref>。[[第二次エチオピア戦争]]終結後、それまで[[エチオピア]]を支持してきた日本の政財界の要人は[[満洲]]に於ける日本の権益とエチオピアに於けるイタリアの権益を取引することを選び<ref>[[#岡倉、北川(1993)|岡倉、北川(1993:45-46)]]</ref>、[[1936年]]に日本と[[ナチス・ドイツ|ナチス政権のドイツ]]の間で締結されていた[[日独防共協定]]に[[1937年]]11月にはイタリアも加入し、第二次エチオピア戦争以前に[[黄禍論]]を唱えていたムッソリーニのイタリアと日本は[[日独伊防共協定]]を締結した<ref>[[#岡倉(1999)|岡倉(1999:258-259)]]</ref>。
{{See also|エチオピアと日本の関係#第二次イタリア・エチオピア戦争と日本|第二次エチオピア戦争|イタリア領東アフリカ}}

[[1940]]に[[日独伊防共協定]]が発展し、[[日独伊三国軍事同盟]]が締結され。1940年(昭和15年)には「ムッソリーニペン」という万年筆が発売されるほどであった{{sfn|山崎充彦|2006|pp=202}}。この同盟を元に、[[1941年]]12月にイギリスやアメリカとの間に開戦した日本を追ってアメリカに宣戦布告し、その後日本が占領下に置いた[[ペナン]]にイタリア海軍の[[潜水艦]]「[[グリエルモ・マルコーニ級潜水艦|ルイージ・トレッリ]]」を送り、イギリスに対する[[通商破壊戦]]に[[大日本帝国海軍]]の潜水艦とともに従事させた。


=== 宗教政策 ===
=== 宗教政策 ===
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結局の所、多くの歴史家は自らの生命線となったドイツとの友好を守るために、不評覚悟でユダヤ教徒を犠牲にしたのだと考えている。半ば傀儡政権と化したRSI時代にはナチスおよびヒトラーの圧力に屈して[[アロイス・ブルンナー]]らによるイタリア南仏進駐領でのユダヤ教徒の強制送還を許可するなどしたが、依然として反ユダヤ主義とは距離をとっていた<ref>[http://books.google.it/books?id=gRdUvDLC3pgC&pg=PA281&lpg=PA281&dq=italians+in+nice+1942&source=bl&ots=P-0834YT1R&sig=L0GSW_P29GS1OLGUmSao1QAlq2c&hl=it&ei=Pv_eTNGHO8SBlAelpMC0Aw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=10&ved=0CE4Q6AEwCQ#v=onepage&q=italians%20in%20nice%201942&f=false Italians and Jews in Nice 1942/43]</ref>。
結局の所、多くの歴史家は自らの生命線となったドイツとの友好を守るために、不評覚悟でユダヤ教徒を犠牲にしたのだと考えている。半ば傀儡政権と化したRSI時代にはナチスおよびヒトラーの圧力に屈して[[アロイス・ブルンナー]]らによるイタリア南仏進駐領でのユダヤ教徒の強制送還を許可するなどしたが、依然として反ユダヤ主義とは距離をとっていた<ref>[http://books.google.it/books?id=gRdUvDLC3pgC&pg=PA281&lpg=PA281&dq=italians+in+nice+1942&source=bl&ots=P-0834YT1R&sig=L0GSW_P29GS1OLGUmSao1QAlq2c&hl=it&ei=Pv_eTNGHO8SBlAelpMC0Aw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=10&ved=0CE4Q6AEwCQ#v=onepage&q=italians%20in%20nice%201942&f=false Italians and Jews in Nice 1942/43]</ref>。


一方、[[黒色人種]]に関しては「アフリカから報告を受ける度に不快だ。今日も黒人と同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい植民者が7年もしないうちに帝国を潰す」「混血を生まず、美を損なわないようイタリア人にも人種意識が必要だ」と愛人に語り、差別意識をより露骨に見せている<ref name="mainichi20100222"/>。黄色人種については基本的には白色人種より劣ると考えつつ、同時に敬意や脅威も抱くという、ヒトラー同様の[[黄禍論]]的な観点を持っていた<ref name="mainichi20100222"/>。
一方、[[黒色人種]]に関しては「アフリカから報告を受ける度に不快だ。今日も黒人と同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい植民者が7年もしないうちに帝国を潰す」「混血を生まず、美を損なわないようイタリア人にも人種意識が必要だ」と愛人に語り、差別意識をより露骨に見せている<ref name="mainichi20100222"/>。黄色人種については基本的には白色人種より劣ると考えつつ、同時に敬意や脅威も抱くという、ヒトラー同様の[[黄禍論]]的な観点を持っていた<ref name="mainichi20100222"/>。[[1934年]]頃に[[エチオピア帝国]]の[[アラヤ・アババ]]と[[日本]]の[[黒田雅子]]の縁談が持ち上がり日本と[[エチオピア]]が政治的、経済的に接近していた際には<ref>[[#古川(2007a)|古川(2007a:303-305)]]</ref>、エチオピアを侵攻を目論んでいたムッソリーニは[[黄禍論]]を唱えて日本を非難している<ref>[[#古川(2007a)|古川(2007a:05)]]</ref><ref>[[#古川(2007b)|古川(2007b:307)]]</ref>。ムッソリーニが黄禍論を唱えていた時期にはイタリアの[[マスメディア]]も[[反日]]的な報道を行っていた<ref>[[#岡倉、北川(1993)|岡倉、北川(1993:39)]]</ref>。


== 第二次世界大戦 ==
== 第二次世界大戦 ==
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*1928年:王国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関「ファシズム大評議会」に立法権限を移動、独裁体制を確立する。
*1928年:王国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関「ファシズム大評議会」に立法権限を移動、独裁体制を確立する。
*1929年:[[ラテラノ条約]]可決。[[バチカン市国]]建国と引き換えに教会から独裁支持を取り付ける。
*1929年:[[ラテラノ条約]]可決。[[バチカン市国]]建国と引き換えに教会から独裁支持を取り付ける。
*1934年:[[ワルワル事件]]勃発。
*1935年:[[第二次エチオピア戦争]]勃発。
*1935年:[[第二次エチオピア戦争]]勃発。
*1936年:[[エチオピア帝国]]併合。[[エリトリア]]と合わせて[[イタリア領東アフリカ]]を形成する。同年には[[フランコ政権]]を支持して[[スペイン内戦]]にも介入。
*1936年:[[エチオピア帝国]]併合。[[エリトリア]]と合わせて[[イタリア領東アフリカ]]を形成する。同年には[[フランコ政権]]を支持して[[スペイン内戦]]にも介入。
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* {{Cite journal|和書|author=光富省吾 |title=ヘミングウェイとムッソリーニ(1)|date=2004|publisher=福岡大學 |journal=福岡大學人文論叢|volume=35|number=4|naid=110000327692 |pages= 1659-1680|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=光富省吾 |title=ヘミングウェイとムッソリーニ(1)|date=2004|publisher=福岡大學 |journal=福岡大學人文論叢|volume=35|number=4|naid=110000327692 |pages= 1659-1680|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=村上信一郎 |title=ムッソリーニの転向と反教権主義|date=1977|publisher=イタリア学会 |journal=イタリア学会誌 |volume=25|naid=110002959142 |pages=88-104|ref=harv}}
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* {{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]]、[[北川勝彦]] |translator= |editor= |others= |chapter=第2章 日本とエチオピア |title=日本 - アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦まで |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版発行 |date=1993年10月15日 |publisher=[[同文館]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-495-85911-0 |volume= |page= |pages=29-61 |url= |ref=岡倉、北川(1993)}}
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* {{Cite book|和書|author=[[古川哲史]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第43章 結びつく二つの「帝国」――大正期から昭和初期にかけて |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=299-306 |url= |ref=古川(2007a)}}
* {{Cite book|和書|author=[[古川哲史]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=307-312 |url= |ref=古川(2007b)}}

== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|ベニート・ムッソリーニ}}
{{Wikiquote|ベニート・ムッソリーニ}}

2014年5月4日 (日) 22:21時点における版

ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ
Benito Amilcare Andrea Mussolini
イタリア王国の旗 イタリア王国
国家指導者およびファシスト党統領
国家統領
任期
1925年12月24日[1] – 1943年7月25日
君主ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
前任者自身(第27代首相)
後任者ピエトロ・バドリオ(第28代首相)
イタリア王国の旗 第27代イタリア王国首相
任期
1922年10月31日 – 1943年7月25日
君主ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
前任者ルイージ・ファクタ
後任者ピエトロ・バドリオ(第28代首相)
イタリア植民地帝国第一元帥
大元帥統帥権
任期
1938年3月30日 – 1943年7月25日
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とサービング
前任者創設
後任者廃止
初代 イタリア社会共和国統領
任期
1943年9月23日 – 1945年4月25日
前任者創設
後任者廃止
個人情報
生誕 (1883-07-29) 1883年7月29日
イタリア王国の旗 イタリア王国
ドーヴィア・ディ・プレダッピオ
死没 (1945-04-28) 1945年4月28日(61歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国
ジュリーノ・ディ・メッゼグラ
死因処刑
国籍イタリア人
政党イタリア社会党
ファシスト自治革命行動
ファシスト革命行動
戦闘者ファッショ
ファシスト党の旗 国家ファシスト党
共和ファシスト党
配偶者イーダ・ダルセル(前妻)
ラケーレ・グイーディ(後妻)
出身校フォルリンポーポリ師範学校修了
指導教官ヴァルフレード・カルドゥッチ
職業教師新聞記者政治家軍人
宗教カトリック(形式上)
無神論者
署名
兵役経験
所属国イタリア王国の旗 イタリア王国
所属組織 イタリア王国陸軍
軍歴1914-1917
最終階級軍曹(第一次世界大戦)
大元帥(第二次世界大戦)
部隊第11ベルサリエリ連隊
戦闘第一次世界大戦
第二次世界大戦

ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリア政治家教師軍人

第40代イタリア王国首相。イタリア社会党で活躍したのち追放され、ファシズム理論を独自に構築し、一党独裁制に基づいた統治を確立し実践した。

概要

ファシスト党ドーチェ (統帥)としてファシズム運動を展開し、ローマ進軍によって首相に任命され、ファシスト政権を樹立した。1925年1月3日の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、12月24日に従来の閣僚評議会議長首相職)より権限の強い「国家統領」(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を創設して自ら初代統帥に就任、同時に首相職を含めた複数の大臣職を恒久的に兼務することで独裁体制を確立した(ムッソリーニ政府)。

1936年にエチオピア帝国征服によりサヴォイア家が帝位を兼ねる様になると(イタリア植民地帝国)、統帥職に加えて「帝国の創設者」「ファシストの指導者」という肩書きが加えられた[2]。議会の指導下にあった軍の掌握にも努め、国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との共同就任という形で統帥権(第一元帥)を奪取した。

零落の切っ掛けは第二次世界大戦に対する判断であった。当初、第一次世界大戦の様な塹壕戦による泥沼化を予想して、中立的な態度を維持していた。だが一ヶ月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した[3]1943年7月25日、ファシスト党内でのクーデターによって失脚、北イタリアを掌握したナチス・ドイツの支援によってイタリア社会共和国を建国して抵抗を続けるが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚する。1945年4月25日、連合軍に援助された共産パルチザンに捕らえられ略式裁判により銃殺され、生存説を避けるために遺体はミラノの広場に吊るされた。

ムッソリーニは政治思想の一潮流であるファシズムの創始者という点において、政治理論家としても重要である。ムッソリーニは既存の様々な思想(ナショナリズムコーポラティズム国家サンディカリスム帝国主義反共主義)を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した[4]。政治家としての主な業績はまず政権初期の1924年から1939年まで行われた経済政策が挙げられる。この政策はラツィオ州の湿地帯(en:Pontine Marshes)の開拓に代表される公共投資労働者保護、公共交通機関の統制など多岐に亘った。宗教政策では普仏戦争以来の教皇領問題に解決案を提示して、ラテラノ条約の締結によるローマ・カトリックとの和解に成功した。対外政策では植民地、および経済植民地への影響力強化を推進して海外市場の拡張に努めた[5]

経歴

少年時代

ムッソリーニの生家

ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニは1883年7月29日、イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという小村に、鍛冶屋アレッサンドロ・ムッソリーニと教師ローザ・マルトーニの長男として生まれた[6][7]。父アレッサンドロは熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり[6]、息子にメキシコ合衆国の初代大統領独立英雄ベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレミハイル・バクーニンの腹心でもあり、後にイタリア社会党に参加するアンドレア・コスタにちなみアンドレアと名付けた[8]。三人兄弟の長兄として二人の弟がおり、アルナルド・ムッソリーニとエドヴィージェ・ムッソリーニという名であったという[9]

父は社会主義無政府主義共和主義が入り混じった独特な思想を持っていた[10]。幼い時は父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって[11]、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたガリバルディジュゼッペ・マッツィーニ愛国主義的な共和主義に傾倒した[12]。後にムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディたちを賞賛する発言を残している[10]

父は鍛冶屋を継がせるつもりだったが、母の意向からプレダッピオにあった二年制の義務教育学校のあと、ファエンツァにあるサレジオ会寄宿学校に進学。この学校では、学費の大小によって生徒の待遇が異なり、ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、貴族や教会を憎んだという。学業成績は優秀だったものの、教師に石を投げつけ、喧嘩相手をナイフで刺し、ミサを妨害するなど暴力事件を引き起こす問題児であった。五年生の時に退学処分を受ける[13]。 その後エミーリア街道沿いの小都市フォルリンポポリにあった宗教色のない寄宿学校ジョズエ・カルドゥッチ学校に入学、義務教育を終了している。カルドゥッチはノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人で、この学校は彼の弟のヴァルフレード・カルドゥッチが校長であった。成績は優秀で、同じヴァルフレード・カルドゥッチが校長をしていたフォルリンポポリの師範学校へ進んだ[11]

青年時代

ファシスト党
党旗
党旗
組織
イタリア戦闘者ファッシ
ファシスト党
黒シャツ隊
共和ファシスト党

歴史
ローマ進軍
第二次世界大戦

人物
ベニート・ムッソリーニ
マリネッティ
it:Michele Bianchi
イタロ・バルボ

関連項目
ファシズム
サンディカリスム
アナキズム
国家社会主義
ボリシェヴィキ
ジョルジュ・ソレル
ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
ジョヴァンニ・ジェンティーレ
未来派
日独伊三国軍事同盟
ローマ式敬礼
ローマ帝国
イタリア王国
イタリア社会共和国

著作
ファシズムの教義

Portal:イタリア
Portal:古代ローマ ·

1901年師範学校を優等な成績で卒業、政府より教員免状を付与される[7][8]。イタリア最大の川であるポー川のほとりにあるグァルティエリという町の小学校教師の職に就くが、狭い地方に閉じこもるのに嫌気が差して退職し、スイスに出る[6]。スイスでは石切職人や左官屋として働いたが、一時は浮浪者にもなった。スイス時代の不安定な生活のなか、ジョルジュ・ソレルシャルル・ペギーヴィルフレド・パレートフリードリヒ・ニーチェエルネスト・ルナンギュスターヴ・ル・ボンらの思想を学び、政治への関心を高めていった[14]。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」「私自身はソレルに最も負ってる」とまで賞賛している[6][15][16]

またスイスに亡命していたウラジーミル・レーニンやレーニンの秘書アンジェリカ・バラバーノフらと出会い、親交を深めた[17]。レーニンからドイツ語フランス語を学んだ(のちにレーニンはベニートを「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と賞賛し、後年のムッソリーニもレーニンを「優れたオーケストラの指揮者」と高く評価した)。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった[18]1903年に起きた大規模なゼネストに参加してスイス警察にマークされ[19]1904年ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束、国外追放処分を受ける[18]

帰国後、イタリア軍の選抜部隊である狙撃隊(ベルサリェーリ)に入隊した。軍では当初、反体制派の人物として監視されていたが、間もなく模範兵として評価されるようになる。入隊間もない1905年2月17日に、母ローザは危篤状態となり、彼は急遽プレダッピオに戻ったが二日後の19日に亡くなった。兵役の間、ドイツロマン主義ドイツ観念論ベルグソンスピノザを研究。 1906年9月、除隊し、オーストリアとの国境に近い東北部の小さな町トルメッツォで小学校に復職。フランス語検定試験に合格し、その結果、高等学校教諭の資格を獲得[20]

この頃、イタリア社会党に正式に入党。1908年2月ドイツ語を話せたことからオーストリア領トレントの党支部に派遣され、機関紙『労働者の未来』の編集に参加する。ドイツ文化への傾倒は深く、政治議題だけではなく近代ドイツ文学についての論文などを執筆。1910年にミラノ市の党本部に戻って『La Lotta di Classe(階級の闘争)』の編集に関わった後、1911年 - 1912年イタリア・トルコ戦争に対する帝国主義批判・反政府運動で頭角を現し[21]、危険人物として逮捕され半年間、投獄される。その後も改良主義者の排除が認められて、党中央の日刊紙『アヴァンティ!(前進!)』編集長となり[22]、発行部数を2万部から10万部にまで伸ばした[22]。この時期から既に地域の新聞などで「ドゥーチェ」(指導者)の渾名で呼ばれるなど、若手政治家の筆頭と見なされていた。

同じ時期に、「ベロー・エレティコ」(真実の異端者)の筆名でフス派の預言者ヤン・フスを「殉教者」とし、その遺志を継いだフス軍の十字軍への勝利を賞賛する伝記小説を発行、痛烈にカトリック教会を攻撃した。

ムッソリーニは「我々共通の永遠の教師」としてカール・マルクスの思想に心酔しており、「危機の時代にあっては、中間的諸階級はその利益と思想にもとづいて、基本的階級のどちらか一方に引きつけられる」(1914年)と階級闘争を肯定する主張をしていた。しかしムッソリーニは教条的な社会主義者ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家でもあった。一例を挙げれば反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから反キリスト思想の影響を受けている[23]。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端の存在であった[23]。ムッソリーニは(社会主義の一派である)マルクス主義決定論社会民主主義改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じており、ニーチェの思想による社会主義の補強を試みた[23]

ムッソリーニの「階級の破壊」「万国の団結」を目指す平等主義国際主義的な社会主義は、「民族の団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」とする民族主義的な社会主義へと変化していった。

第一次世界大戦

参戦運動と社会党除名

第一次世界大戦に従軍した当時のムッソリーニ

1914年、帝国主義的な利害衝突の果てに第一次世界大戦が勃発した際、必ずしも各国の社会主義者は祖国による戦争行為に反対しなかった。そればかりか幾つかの組織は戦争への参加を歓迎すらした[24]。一部の社会主義者の間では愛国心や自国社会の防衛などから、他国に対する戦争に賛同する動きが展開された(社会愛国主義社会帝国主義)。ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリーで高まる国家主義の流れに加わるこうした社会主義たちが現れていた[25]。イタリアでは熱狂的な民族主義者である詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオイレデンティズムを掲げて参戦運動の先頭に立ち[26]自由主義政党のイタリア自由党ダンテ・アリギエーリ協会と共に参戦運動を行っていた[27][28]

その中でイタリア社会党を中心とする社会主義系の諸派は参戦主義と平和主義に分かれて対立した状態に陥っていた[29]。革命的なサンディカリスト(労働組合主義)の勢力は真っ先に参戦を訴えたが、主流派でありムッソリーニが属する社会党は戦争反対を議決してゼネストを決行した(赤色の一週間[30]。ムッソリーニも当初は党幹部として表面的には中立論を支持したが[31]、戦争が民族意識を高めると考えて『アヴァンティ!』1914年10月18日の長文論説「絶対的中立から積極的効果的中立へ!」の発表から徐々に参戦派に傾斜し始めた[32]。この主張は10月20日の党中央委員会で否決され、ムッソリーニは『アヴァンティ!』編集長を辞任した[33]

ムッソリーニはオーストリアハプスブルグ王朝との戦いをイタリアの宿命とする国家主義・民族主義者の主張を支持し[31]、ハプスブルグ家(およびホーエンツォレルン家)を中心とする中央同盟を「反動的集団」として糾弾することで社会主義者の参戦運動を正当化した[34]。封建的なハプスブルグ家やホーエンツォレルン家、更にはオスマン帝国スルタン制を崩壊せしめることは異国の労働者階級を解放することに繋がり、国際主義的にも社会主義を前進させられると主張した[34]。連合国にも封建的なロシア帝国のロマノフ家が含まれているという反論には、「戦争による動員が君主制への権威を削ぎ落し、同地の社会主義革命を後押しするだろう」と返答している。

11月18日、独自に社会主義日刊紙『イル・ポポロ・ディターリアイタリア語版』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した[33]。同紙は発行部数8万部に達した。この時期ムッソリーニには、ボローニャの日刊紙イル・レスト・デル・カリーノイタリア語版編集長フィリッポ・ナルディイタリア語版[33]ゼネラル・エレクトリックフィアットアンサルディといった大資本[33]、さらにはイタリアへの参戦工作を行っていたフランスイギリス政府からの資金援助、そしてに当時の外相アントニーノ・カステロ (サン・ジュリアーノ侯爵)イタリア語版からの援助があったと見られている。創刊後にはたちまち資金源を巡って黒い噂が飛び交い、11月24日に社会党は除名処分を行った[33]。ムッソリーニを除名したイタリア社会党に対しレーニンは「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と呟いたという[35]

この参戦論への転向はしばしば批判的に語られる「経済的理由」からではなく、戦争を革命に転化するというこれまで通りの社会主義的思想のためであったと歴史家レンツォ・ディ・フェリーチェイタリア語版は指摘している[33]。またムッソリーニを含めたイタリアの反教権的社会主義者にとってはバチカンが親オーストリア=ハンガリー帝国であるという通念があった[36]

従軍

社会党除名後もムッソリーニは基本的な政治的立場は左翼であるという立場を維持し[33]、「革命的参戦運動ファッシ」「国際主義参戦ファッシ」という「革命」「国際主義」を冠した組織で参戦運動を展開(ファッシという言葉は社会党時代にも団結の意味で使っていた)した。これが戦後にに設立された「イタリア戦闘者ファッシ」の土台となる。そしてイタリア王国が秘密協定によって連合国に参戦すると、ムッソリーニは他の参戦論者たちの例(参戦論者の多くは自論の責任を果たすため、積極的に従軍した)に習い、徴兵を待たず陸軍へ志願入隊した。

従軍時も自ら望んで最前線への配属を希望し、前線の山岳戦闘や塹壕戦で勇敢な戦いぶりを示して下士官(軍曹)にまで昇進した。上官の推薦状において、ムッソリーニは「彼の昇進を推薦する理由は軍における手本とするべき行動――勇敢な戦い、落ち着き払った態度、苦痛に対する我慢強さ、軍務に対する熱意と秩序ある行動を見せたことによる」と称賛されている。従軍中にはパラチフスを患い[37]、次いで塹壕内での手榴弾による爆発で重傷を負っている[22]。後者の怪我で傷痍軍人として名誉退役することになるが、治療後もムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り[37]後遺症神経痛に悩まされることになった。

復員後は『イル・ポポロ・ディターリアイタリア語版』の運営に戻り、チェコ軍団についての記事を執筆している。

ファシズム運動

イル・ポポロ・ディターリアイタリア語版に掲載された「ファシストについての宣言」

大戦終結後、イタリア王国は戦勝国の地位と南チロルイストリアの併合を勝ち取った。しかし民族主義者はスラブ系とイタリア系住民が混淆したダルマチアの併合が民族自決論の前に阻まれたことを「講和会議の敗戦国」「傷つけられた勝利」と感じ、自国政府や旧連合国への批判を強めていた。また英仏の様な賠償金を獲得できず、大戦による戦費の浪費によって訪れた不況は労働者の間で社会主義の台頭を後押しした。ムッソリーニは戦勝で民族主義が高まる一方、社会不安が広がる情勢に危機感を抱いていた。1917年、ムッソリーニは参戦運動以来の繋がりがあったイギリス政府から初代テンプルウッド子爵サミュエル・ホアを通じ、政界進出に向けた資金援助を受け始めた[38]

1921年総選挙後の議席数
  共産党
  社会党
  急進党
  社会民主党
  人民党
  自由党
  国民ブロック

政治活動においてムッソリーニは「祖国に栄光を与える、精力的で断固たる態度を持った人物」の登場が必要だと説いた[39]。ムッソリーニは主流派の社会主義に幻滅しており、後に「思想としての社会主義は既に死に絶え、悪意としての社会主義のみが残っていた」と回想している[40]1919年3月23日、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ」を設立し、200名が参加した[39](300名との説もある[36])。創設メンバーは左翼的色彩が強かった[36]。同年、「戦闘者ファッシ」を通じて始めた運動の説明として、ファシスト・マニフェスト(ファシストについての宣言)を出版した。

この宣言が出された初期段階のファシズムは国家サンディカリズム(国家組合主義)とフューチャリズム(未来派)の強い影響を受け、社会問題の解決を階級闘争ではなく階級の融和に求める部分に特徴があった。幻滅を感じつつあった社会主義の「良い点」を取り込む姿勢もあり、ヴィルフレド・パレートの影響を受けるなど習合的な政治運動であった(パレート自身も後にムッソリーニを評価している)。古い思想家ではプラトンの「国家」が挙げられ[41]一党独裁による寡頭支配についての理論的根拠となった。共和主義的な観点からは王権の縮小、貴族院の廃止、女性参政権政教分離などを主張した。こうした諸思想の中で最も多大な影響を与えたのは革命的なサンディカリストであったジョルジュ・ソレルの思想である。ムッソリーニはソレルを「ファシズムの精神的な父」と呼び、ソヴィエト連邦ヨシフ・スターリンと共に哀悼の意を表明している。

対外的な主張としては旧来のイレデンティズムを拡張した、生存圏理論の一種として地中海沿岸部の統合を目指す不可欠の領域(Spazio vitale、スパッツィオ・ヴィターレ)が唱えられた[42]。ムッソリーニは資源に乏しいイタリアが不完全な大国から完全な大国となり、また膨大な失業者を救うには新規領土の獲得意外に方法はないと考えていた。イタリア民族にとっての父祖となるラテン人が作り上げた「ローマ帝国」を引き合いに出し、ヴェネツィア・ジュリアを筆頭とした地中海世界を今日の帝国イタリア植民地帝国)が再統合する大義名分とした[43][44]。「不可欠の領域」に基いた同化政策は政権獲得直後の1920年代、新規編入されたイストリアのスロベニア系住民と南チロルのオーストリア系住民に対して最初期に行われた(イタリア化)。

ムッソリーニによるファシズム運動は革新的であり、保守的でもあった。こうした古典的な分類に収まらない政治運動を右派・左派ではなく第三の道(今日的な意味での第三の道とは異なる)と呼称する動きが存在した。

政界進出

ブスト・アルシーツィオを訪問するムッソリーニ(1924年

イタリア戦闘者ファッシによるファシズム運動が開始されたが、当初ムッソリーニは創設者ながら積極的に組織運営に関与せず、部下に実務を任せていた[36]1919年11月16日、設立年の年末に総選挙(1919年イタリア総選挙)が実施されたが、この選挙ではイタリア社会党と同年に結党されたイタリア人民党の競り合いに注目が集まり、「戦闘者ファッシ」は特に存在感を示せなかった。集まった創設メンバーの90%が2、3年で脱退し[36]、党内の左派勢力が退潮していった。ムッソリーニ自身も党内右派の主張に舵を切り、政治主張から反教権主義を取り下げるなどの修正を加え[45]ジョヴァンニ・ジョリッティ首相の自由主義政権を支持した。ただし後述する様に、ムッソリーニ個人は社会主義者時代から晩年まで一貫してキリスト教を蔑視していた。また党内左派の主張を完全に捨てたわけではなく、8月に始まった工場労働者の工場占拠闘争には条件付きながらも支援の姿勢を示している[46]

ガブリエーレ・ダンヌンツィオがフィウーメ(現リエカ)を占拠する事件を起こし(カルナーロ=イタリア執政府)、更に本国政府を動かすべく首都ローマへ執政府軍を進軍する動きを見せると、ムッソリーニは反乱を支持して戦闘者ファッシを戦力提供する密約を結んだ[47]。しかし政府のフィウーメ自由都市化を定めたラパッロ条約に一転して支持を表明し、ダンヌンツィオを裏切る形となった。仲違いというわけではなく、最初からジョリッティ政権との取引材料として関係を利用したとみられている[47]。政争を利用して勢力を伸ばし、更に社会主義勢力の退潮に乗じて党の私兵(黒シャツ隊)を動員して急速に勢力を伸ばし、直接行動を通じて北イタリアおよび中部イタリアで一定の影響力を持った。こうした努力によって1921年までに党員数は数十万名を数えるようになり、小規模組織から影響力のある政党へと成長した。

1921年5月15日の選挙(1921年イタリア総選挙)でムッソリーニはイタリア・ナショナリスト協会など複数の国粋政党からなる統一会派国民ブロックイタリア戦闘者ファッシを参加させた。国民ブロックは全体票の19.1%となる約126万票を獲得する勝利を得て、第1党のイタリア社会党と第2党のイタリア人民党に続いて第3党となった。議会では代議院の535議席中105議席を与えられ、その内の35議席がムッソリーニを含めたファシスト運動に賛意を示す議員であり、20議席がファシズムに理解を示すナショナリスト協会出身であった。ファシズム派が多数を占めた国民ブロックはやがてムッソリーニの支持基盤として機能していくことになる。また国民ブロックとは別に単独擁立した候補も2名当選した。

1921年11月9日、ローマ党大会でイタリア戦闘者ファッシを国家ファシスト党(ファシスト党)に改名、サンディカリストの政治家ミケーレ・ビアンキを初代書記長に任命した。

クーデター

ムッソリーニと行軍するミケーレ・ビアンキ党書記長および黒シャツ隊

議席を得た後も議会政治に頼らず、早期に権力掌握を目指すムッソリーニの意思は変わらなかった。ムッソリーニは人民党・自由党・急進党・社会民主党の連立による第二次ルイージ・ファクタ政権に対して、民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始めた。ミケーレ・ビアンキ党書記長、イタロ・バルボ党支部書記、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ代議員、エミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥らファシスト四天王を始めとするファシスト党の議員・私兵組織(黒シャツ隊)が各地で武装蜂起し、最終的に首都ローマを占拠してムッソリーニを首相に擁立する計画が立てられた。軍もこの動きに呼応して1922年10月18日には一部の軍将官が密かにムッソリーニへ蜂起の援助を約束している。

1922年10月24日、ナポリ党大会でムッソリーニは6万名の群集に向かって「私たちの計画は単純なものだ。我々が祖国を統治する」と演説した[48]。演説と同時に反乱が始まり、ポー平原では政府の主要施設が黒シャツ隊に占拠される事態となった。1922年10月26日、ルイージ・ファクタ首相は第一次世界大戦開戦時に宰相職を務めたアントニオ・サランドラ元首相から、退陣に応じない場合はムッソリーニがこのままローマを武装占拠する構えであることを通告された。ファクタ首相はサランドラ元首相やムッソリーニの提示した和解案を信用せず、最終的に戒厳令の発動に踏み切る決意をした。

黒シャツ隊は退役兵の民兵組織であり、戒厳令による鎮圧が始まれば容易に抑え込めることが予測されていた。また一部の軍将官による協力も、王軍の総司令官たる国王の命令があれば直ちに停止することは明白であった。しかし謁見したファクタ首相に対して、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令の発動を拒否して命令書に署名しなかった。民兵部隊は既にミラノなどを手中に収めており早期鎮圧を疑問視する声もあり、そもそも反王党派のイタリア社会党・共産党にファクタ連立政権は弱腰で王党派から不信感を抱かれていた。

1922年10月29日、首都ローマ黒シャツ隊2万5000名が入城する中、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は謁見したムッソリーニに対して組閣を命じる勅令を出した。1922年10月31日、新たに国家ファシスト党と人民党・自由党・社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立した。以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。スペインでは失敗した「ファシストによる立憲君主制維持」はイタリアでは成功したのである。

ヴァイマル共和政アドルフ・ヒトラーがローマ進軍を参考にしてミュンヘン一揆を、ポーランド第二共和国ユゼフ・ピウスツキが五月革命を実行に移している。

独裁の開始

1924年総選挙後の議席数
  共産党
  統一社会党
  社会民主党
  人民党
  自由党左派
  自由党
  ファシスト党

政権の座に就いたムッソリーニであったが、この時点では武力を背景にしつつも独裁的な政権というわけではなかった。初期のムッソリーニ政権は国家ファシスト党とそれを支持する国民ブロック、および中道右派の自由党・人民党、中道左派の社会民主党の連立政権であった。内閣もファシスト党出身の閣僚は首相であるムッソリーニを含めて僅か3名に留まった。

国家ファシスト党選出のアテルノ・ペスカーラ男爵ジャコモ・アチェルボ議員により、選挙法改正案が提出された(アチェルボ法)。同法では全体の25%以上の得票を集め、かつ第1党となった政党が3分の2の議席を獲得し、残った議席を第2党以下に得票率に応じて分配するとする内容であった。小政党乱立による連立政治や野合を防ぎ、一党独裁制による政治権力の集中を意図していた。

野党の共産党・社会党はアチェルボ法に反対しており、また国家ファシスト党が所属する国民ブロックでも意見が分かれたことから成立は当初疑問視されていた。しかしムッソリーニは自身の国民的人気と巧みな政権内の利害調整によって最大与党の人民党・自由党を懐柔し、並行してクーデターで活躍した黒シャツ隊を動員した恫喝も用いるという硬軟織り交ぜた手法で反対派を切り崩し、遂にはアチェルボ法を議会で可決させた。1923年2月1日、黒シャツ隊を正式に予備軍事組織として政府軍の指揮下に収め、国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN)に改称した。

1924年4月6日の選挙(1924年イタリア総選挙)で国民ブロックと合併した国家ファシスト党が優勢を維持し、選挙後のアチェルボ法適用が確実となった。この選挙で白票を投じた投票者は全体の6%(前回選挙は1%)で、投票率は63.8%(前回選挙は58.4%)となった。最終的に有効票の64.9%を得た国家ファシスト党が選挙法改正に基いて374議席を配分され、前回の第1党で国家ファシスト党と連立を組むイタリア人民党は39議席、最大野党のイタリア社会党および統一社会党は46議席と明確な差が付けられた。急速に膨張したファシスト党内部では軋轢が生まれるほどで、ムッソリーニは大規模な党員追放と指導部改組を行った[49]

1929年/1934年総選挙後の議席数
  ファシスト党

ムッソリーニは建前上は議会政治・多党制を維持していたが、今や政権内の全閣僚がファシスト党出身で占められ、ムッソリーニ自身も首相職以外に外務大臣・内務大臣・植民地大臣・国防大臣を兼任する立場となっていた。イタリアの民主制は急速に後退していたが、1924年6月に批判の急先鋒であった統一社会党書記長ジャコモ・マッテオッティの暗殺事件を契機に大規模な反政府運動が発生した。党の地方組織からも党指導部の体制やムッソリーニ政権に対する批判が集まり、大戦前のムッソリーニ政権にとって最大の危機となった(ファシスト政権初期の内紛)。しかしこの最中でもムッソリーニ個人の権威は党内で揺らぐことはなく[50]1925年には共産主義・社会主義・無政府主義の諸勢力を議会外で鎮圧して危機を乗り越えた。

内紛を制した後は労働組合の解散・言論出版取締令、ムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したことを理由に首相の暗殺計画は未遂でも死刑を適用するといった統制的な法律を次々と可決させた。1925年1月3日の議会演説でムッソリーニは独裁制の推進を公言、同年の12月24日に首相に代わる新たな役職として国家統領イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を創設・就任した。論者によって違いはあるが、概ねこの時からムッソリーニの独裁は開始したと見なされている。

1927年、控訴が認められない国家保護特別裁判所を設置して治安権力を掌握した。1928年9月、ファシスト党の諮問機関である大評議会が国家の最高諮問機関に定められ、党を王家や議会に並ぶ国家の権威に位置付けている。1929年3月24日の選挙(1929年イタリア総選挙)は国家ファシスト党以外の参加が認められず、投票用紙には「Si(スィ、はい)」「No(ノ、いいえ)」の二項目だけ記された。

事実上の翼賛選挙となった選挙を経て、国家ファシスト党は全議席を獲得した(一党独裁)。

独裁体制

1938年撮影

個人崇拝

当時のジャーナリストは「女学生たちは、映画スターのように彼にあこがれてしまい、彼の言葉はすべての人が読めるように、村の壁に大きく書かれた。・・・1932年、軍事演習のとき、とおくの緑の丘や、樹木や、教会の尖塔などに取り囲まれた、黄色い株のある広い田野を彼は歩いていた。農夫たちは、上気し、息せき切って四方から集まってきた。ムソリーニを見、彼の身体に触り、声をかけるためにである。・・・彼の秘書の一人が革の財布をもって後ろに従っていた。カードを配る賭博師のような手つきで札束を配っていた。見る見るうちに彼の後ろには、狂喜した数千人の人たちの行列ができた。しかし、彼のいつものような無表情なかたい顔には、何の動きも見せなかった。・・・・町の広場に集まって、彼の演説を聞いている群衆を見た人は、その光景を決して忘れることはないだろう。モザイク細工の部品のように、ぎっしりと頭が並び、すべての目は一つの焦点、すなわち、彼が演説しているバルコニー、スタンドに向けられているのだ。それは、何か不気味なぞっとするような光景であった。」[51]と書き残しており、国内の人気の程が窺われる。

イギリスやアメリカなどの民主主義国家でも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、1920年代前半のアメリカの新聞でも好意的に報道された[52]。辛口な論評で知られたウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。詩人のエズラ・パウンドもムッソリーニに心酔した一人である。一方で新聞記者でもあったアーネスト・ヘミングウェイは政権奪取間もない頃からムッソリーニを批判していた[53]

経済政策

初期にはアルベルト・デ・ステファニイタリア語版に経済政策が任され、民間企業を国有化することなく、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復し失業者も減少し、生産力も増した(ただし、インフレーションが同時にあった)。治安も改善して、特にマフィアをはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、そのほとんどが壊滅状態に追い込まれたために犯罪件数は減少した。

しかし、1929年世界恐慌の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までイタリアはソビエト連邦の次に国有企業が最も多い国となった[54]。ドイツに比べイタリアは軍事費より公共事業費が多かった。

軍事政策

ムッソリーニはパリ講和会議によって傷つけられたイタリアの威信回復には実力が不可欠であると考えており、バルカン諸国やトルコを牽制するための軍備充実と、就任後まもなくからドデカネス諸島への遣艦計画やコルフ島事件に見られるような積極政策をとったが[55]、この方針はイタリア軍幹部と大きく相違していなかった[56]。軍備の拡張が大いに進められ、空中艦隊構想や新型戦艦空母の建造など海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備を更新した。当時のイタリア王国軍は第一次世界大戦で勇敢に戦う兵士に対して、骨董品じみた装備や乏しい弾薬物資で戦闘に従事させねばならなかった苦い経験があり、ムッソリーニ自身も従軍経験からそのことを深く理解していた。

イタリアの軍備は増強が図られたが、そもそもイタリアの装備や物資の不足は工業力の脆弱さを遠因としており(第二次世界大戦後までイタリアは農業国であった。工業の北部と農業の南部という概念は戦後復興後のことである)、経済政策に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。また経済面で頓挫したムッソリーニは民衆の歓心を買うために乱暴な対外政策を進めたが、これはイタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵対してしまうという致命的な結果をもたらした。

経済・資源・工業力と全ての面で行き詰ったムッソリーニの軍備増強は名前だけのものと化し、軍需大臣ファブグロッサは「早くとも1949年まで大規模な戦争は不可能である」とムッソリーニに通告しており、軍部の上層部もほとんどがこの意見に同意していた。しかし当時のムッソリーニに戦争以外の選択肢を取る政治的余裕は無く、結局開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を挙げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上が定員割れを起こした状態で戦地へ向かった。

イタリア軍は装備の旧式化や兵員・物資の不足に加え、人材面でも将軍・参謀の大部分が第一次世界大戦の戦訓を奉じる「古典主義者」と質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で示された。エジプト侵攻ギリシャ侵攻では圧倒的多数の兵力にもかかわらずイギリス軍やギリシャ軍に撃退され、ドイツが増援部隊を派遣している[57]。その一方で、件のアフリカ戦線を始めとする各地で戦果を挙げた部隊も存在し、またRSI軍は士気旺盛に戦いドイツ軍から信頼を得ていた。

対外政策

当初アドルフ・ヒトラーはムッソリーニを尊敬していたが、ムッソリーニは学識や政治経験の差、および外交路線の利害からヒトラーを嫌っていた。1934年6月にヒトラーとの初会談が行われたが、「血の巡りが悪い男だ」「あんな奴は嫌いだ」と述懐している。1934年7月25日ドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニは友人であったドルフースの暗殺に激怒、ブレンナー峠に王国軍を展開して併合に反対意志を示している。その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となった。しかしイタリアの敗勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になり、1943年の失脚後は完全に格下の扱いとなった。

日本ではムッソリーニと交友があった下位春吉の存在が知られている。下位はナポリ国立東洋学院大学日本語教授で、第一次世界大戦時にイタリア軍に志願入隊し、アルディーティ(決死隊)の一員として戦役をはたし、ガブリエーレ・ダンヌンツィオと知己を得た。1919年9月のフィウーメ占領にも参加し、ダンヌンツィオの密使としてムッソリーニとの連絡役を務め、ムッソリーニの信頼を得たといわれる1926年、下位は日本に帰国し、ムッソリーニに関する著作を多く出版した[58]。その後も下位は幾度も訪伊してムッソリーニらと情報を交換しており、1927年には下位が監督した記録映画「ムッソリーニ」が公開されている[59]

1928年には沢田謙が日本における最初のムッソリーニ伝記「ムッソリニ伝」を著し、日本でも次第にムッソリーニに対する興味が高まった。この年には小山内薫が脚本の「ムツソリニ」や宝塚少女歌劇等、ムッソリーニを主題とした演劇が複数上演された。また同年「白虎隊の話に感銘を受けたムッソリーニが寄贈した」という名目で、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱がイタリアから会津若松市(当時は若松市)の飯盛山に送られている[60][61]

1931年に国粋大衆党を結成した笹川良一はムッソリーニの崇拝者であり、ファシスト党に似せて党員に黒シャツを着せていたほどであった。1939年には笹川は、飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。なおこの訪欧については山本五十六の後援があったという[62]

1931年満洲事変勃発後、ムッソリーニは満洲を巡って日本と対立する中華民国に急接近し、1933年以後には中華民国空軍訓練のための軍事顧問中国に派遣している[63]

1937年11月に締結された日独伊防共協定を記念する日本絵葉書。「仲良し三國」と書かれたこの絵葉書には日本近衛文麿内閣総理大臣ドイツアドルフ・ヒトラー総統と共にイタリアのベニート・ムッソリーニ統領の写真も掲載されている。

1931年の時点で4200万人に達していたイタリアの過剰人口問題解決の為、イタリア人の農業入植の適地として当時独立を保っていたエチオピア帝国に目を向けたムッソリーニは、既に領有していたイタリア領エリトリアイタリア領ソマリアエチオピアを合わせた「東アフリカ帝国」の建設を構想した[64]1934年にイタリア領ソマリアとエチオピア国境付近のワルワルで「ワルワル事件」を引き起こした後、ムッソリーニは1935年10月2日の演説で「アドワの報復」を訴え[65]、翌1935年10月3日イタリア軍がエチオピアに進攻し、第二次エチオピア戦争が勃発した[66]。イタリア軍は毒ガスを用いて皇帝ハイレ・セラシエ1世の帝国親衛隊を含むエチオピア軍を撃滅した後、5月5日に首都アディスアベバを攻略、ピエトロ・バドリオ率いる部隊が入城した[67]。第二次エチオピア戦争に前後して、1935年から1936年にかけての日本の民間社会では右翼黒龍会を中心にした大アジア主義者によるエチオピア支持キャンペーンが発生し、日本からは日本刀医薬品などがエチオピアに送られ、高知県ではエチオピア饅頭が発売されたが、日本政府は第二次イタリア・エチオピア戦争を「第二の満洲事変」と看做す国際社会の反応に留意し、この戦争に中立を保った[68]第二次エチオピア戦争終結後、それまでエチオピアを支持してきた日本の政財界の要人は満洲に於ける日本の権益とエチオピアに於けるイタリアの権益を取引することを選び[69]1936年に日本とナチス政権のドイツの間で締結されていた日独防共協定1937年11月にはイタリアも加入し、第二次エチオピア戦争以前に黄禍論を唱えていたムッソリーニのイタリアと日本は日独伊防共協定を締結した[70]

1940年日独伊防共協定が発展し、日独伊三国軍事同盟が締結された。1940年(昭和15年)には「ムッソリーニペン」という万年筆が発売されるほどであった[71]。この同盟を元に、1941年12月にイギリスやアメリカとの間に開戦した日本を追ってアメリカに宣戦布告し、その後日本が占領下に置いたペナンにイタリア海軍の潜水艦ルイージ・トレッリ」を送り、イギリスに対する通商破壊戦大日本帝国海軍の潜水艦とともに従事させた。

宗教政策

1870年のイタリア王国成立後、イタリア政府とローマ教皇庁の関係は断絶していたが、長く続いた緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙ったムッソリーニは、1926年にバチカンに歩み寄る姿勢を示した。これを受けてバチカンはイタリア政府との交渉を開始、3年の交渉を経て1929年に「ラテラノ条約」と呼ばれる政教条約が結ばれた。

ラテラノ条約によって、教皇庁のあるバチカン一帯が「バチカン市国」としてイタリア政府から政治的に独立した区域となることが認められた。イタリア政府はローマ教皇庁に対し、対外的に永世中立であることとイタリア国内の政党間の争いにおいて特定の政党に与しないことを求めたほか、1870年の教皇領の没収への補償として教皇庁への資金調達を行い、教皇庁はこれを承諾し、長きに渡る両者の関係はここに修復に至った。

北アフリカなどでのイスラム教勢力に対しては常に友好的に接して、ファシスト党がイスラム教の庇護者であると宣伝した[72]

民族・人種政策

ヒトラーと共に
ミュンヘン会談においてイギリスのネヴィル・チェンバレン首相と談笑するムッソリーニ
列車から降りるムッソリーニを迎えるヒトラー

ドルフースの暗殺以降、ムッソリーニはファシズムとナチズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人種政策(特にノルディック・イデオロギーアーリアン学説)の多くを拒絶し、反ユダヤ主義からも距離を取り始めた。ムッソリーニは人種主義を少なくともヒトラーよりは遥かに敬遠した。彼は人種主義よりも民族主義に重きを置き、民族浄化イタリア化)による植民地や新規領土の同化を推進した[73]

こうした態度はナチスとの論争に発展、ナチスは文化的統合を重視するイタリア・ファシズムは生物学的な純化を棄却しており、「白人(アーリア人種)の雑種化」に貢献していると批判した。対してファシスト党は(ヒトラー自身も認めるように)ナチスが蔑視するところの「スラブ」との境目に位置し、またイタリアと同様に統一が遅れたドイツにどれだけの「純粋な血統」があるのかと批判した。ムッソリーニ自身も「アーリア人種について」という1934年の演説でヒトラーを辛辣に批判している。

彼らの言う人種はどこにいる?アーリア人とやらがどこにいる?それは何時から存在した?そもそも存在するのか?空論、神話、あるいはただの詐欺か?…我々は既に答えを知っている。「そんな人種は存在しない」と。様々な運動、物珍しさ、麻痺した知性…。我々は繰り返すだろう。「そんな人種は存在しない」と。

ただ一人、ヒトラーを除いては。 — Benito Mussolini, 1934.[74]

アーリア人理論に対する批判で知られるエーミール・ルートヴィヒが人種についての私論を尋ねた時、ムッソリーニはこう述べている。

「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。…大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家のほとんどはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。' — Benito Mussolini, 1933.[75]

1934年にバーリで行われた党大会でもムッソリーニは改めて北方人種理論に対するスタンスを公表している。

30世紀にもわたるヨーロッパの歴史は、アウグストゥスに後援されたヴェルギリウスが素晴らしい文学を紡ぐ間、山奥で火を焚いていた人間の末裔が述べる戯言を冷笑する権利を諸君に与えている — Benito Mussolini, 1934.[76]


ムッソリーニは「彼らは古代ローマの頃からその土地に居る」として、ユダヤ系イタリア人がイタリア社会にとって既に不可分であると述べている[77]。ファシスト党の幹部にもユダヤ系イタリア人が多数おり、党幹部エットーレ・オヴァッザはユダヤ系党員による機関紙「La Nostra Bandiera(我らの旗)」を創設している[78]。更にフランス戦後に成立したイタリア南仏進駐領域では積極的にユダヤ人弾圧に協力したヴィシー政権に対して、フランス各地のユダヤ教徒を受け入れる命令を出している[79][80]。ドイツ側はこれに強く抗議し、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外務大臣はムッソリーニに不満を表明している[81]

1938年以降、侵略政策により国際的に孤立したイタリアとドイツが急速に接近すると、ニュルンベルク法を参考にした人種法(マニフェスト・デッラ・ラーザ)が制定され、それまでファシスト政権に協力していた多くの政治家や科学者が亡命を余儀なくされた。ゲットーの復活や市民権の制限などを含めた同法はファシストの間でも大変に不評であり[82]、そればかりか長年ユダヤ教徒と敵対してきたカトリック教会すらも批判した。ムッソリーニはローマ教会や党内の批判に対して「私は人種主義者だ」と表明しているが[83]、自身も先の南仏進駐領域での保護政策を継続させ、また本土でのゲットー政策もドイツの様に強圧的なものではなかった[84]

加えて晩年に古参党員のブルーノ・サパムタナトとの会話で反ユダヤ政策が本心ではなかったことを告解している。

人種法は避けれるものだったし、私の意図するものでもなかった。ポポロ・ディタリアでも見れば分かることだろうが、私はローゼンベルク神話など信じてはいない — Benito Mussolini, 1943.[85]

結局の所、多くの歴史家は自らの生命線となったドイツとの友好を守るために、不評覚悟でユダヤ教徒を犠牲にしたのだと考えている。半ば傀儡政権と化したRSI時代にはナチスおよびヒトラーの圧力に屈してアロイス・ブルンナーらによるイタリア南仏進駐領でのユダヤ教徒の強制送還を許可するなどしたが、依然として反ユダヤ主義とは距離をとっていた[86]

一方、黒色人種に関しては「アフリカから報告を受ける度に不快だ。今日も黒人と同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい植民者が7年もしないうちに帝国を潰す」「混血を生まず、美を損なわないようイタリア人にも人種意識が必要だ」と愛人に語り、差別意識をより露骨に見せている[83]。黄色人種については基本的には白色人種より劣ると考えつつ、同時に敬意や脅威も抱くという、ヒトラー同様の黄禍論的な観点を持っていた[83]1934年頃にエチオピア帝国アラヤ・アババ日本黒田雅子の縁談が持ち上がり日本とエチオピアが政治的、経済的に接近していた際には[87]、エチオピアを侵攻を目論んでいたムッソリーニは黄禍論を唱えて日本を非難している[88][89]。ムッソリーニが黄禍論を唱えていた時期にはイタリアのマスメディア反日的な報道を行っていた[90]

第二次世界大戦

ドイツによる侵攻を受けたフランスの敗北が決定的になった1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日日独伊三国同盟を調印してドイツ・日本との密接な関係を確認した。その後の1941年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてアメリカにも宣戦布告するなど、日本・ドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格的に参戦した。

ドイツ軍のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とヒトラーと共に(1941年)

戦いは地理的な要因から概ねイギリスとその衛星国および植民地を相手にしたものであったが、工業力に乏しいイタリア王国の軍勢は装備や物資面でイギリス軍に大きく差を付けられていた。 陸軍は37個師団だが、小銃は1891年製、弾薬1カ月分、軽装甲車3トン半。空軍はよく整備されていて700機。海軍はまずまず。 資源備蓄は鉄鋼2週間分、鉄鉱石6カ月分、ニッケル20日分などで、爆弾も不発弾が混じり、軍靴も数キロ歩くと穴があくというお粗末さだった。[91] 当時イタリア海軍は世界第4位の戦艦数を誇っていたが、石油などの燃料を英米に依存していたため、1943年には燃料が枯渇して大型軍艦の行動がほぼ不可能となってしまい、満足な作戦が行えなくなった。

ソマリランドの占領や遣露部隊の活躍など部分的な成果はあったものの、イギリス領ケニア、英・エジプト共同領スーダンへの侵攻、ギリシャへの侵攻などは不調に終わった。またドイツの要請に応じて行ったエジプト遠征もイギリス軍に敗北した。日増しに拡大する戦局を前にイタリアは他の枢軸国同様、ドイツへの従属を深めていく。

振るわない戦局はムッソリーニの威信を失わせ、1943年7月に行われた連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、王室や軍部、そして党の一部がムッソリーニ解任へ動き始めた。ドイツとの同盟に反対したムッソリーニの娘婿のチャーノ外相、ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する古参ファシストで元駐英大使ディーノ・グランディ伯爵[92]らはムッソリーニの責任を追及し、独裁権と統帥権を国王に返還する動議を提出した。7月24日に開催されたファシズム大評議会は、グランディの動議を可決した。7月25日には国王に解任を告げられ、王宮を出た直後に逮捕された。

ムッソリーニの後任として、ピエトロ・バドリオ元帥が首班を務めることとなった。新政府と連合国との休戦交渉の末、1943年9月8日に連合国と単独休戦したが、まもなくイタリアの北半分はドイツ軍によって占領された。

グラン・サッソ襲撃とイタリア社会共和国

救出されたムッソリーニ

その後、アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」に幽閉されていたムッソリーニは、9月12日にナチス親衛隊オットー・スコルツェニー中佐に救出されローマへと連れ出され、その後ヴォルフスシャンツェでヒトラーと落ち合う。

なお、失脚前にソ連との単独講和交渉を行ったものの失敗に終わったことや、胃潰瘍による体調不良に悩んでおり意気消沈していたムッソリーニは、このまま政界からの引退を望んだが、ドイツが支配下に置いた北イタリア地域においてムッソリーニの利用価値があると感じていたヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得した。

ドイツの支援を受けてムッソリーニは北イタリアにイタリア社会共和国RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任した。RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下でドイツ軍と共に連合国軍に対して勇敢に戦ったが、政府そのものは事実上ドイツの傀儡政権であり、大病を患い消沈していたムッソリーニもドイツ軍の徹底的な監視下に置かれるなど、昔日の勢いはなかった。内政面ではかなり社会主義的な政策を推し進めた。

RSI軍とドイツ軍によるイタリアでの戦いが終焉すると、勝者となったパルチザンが次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始め、ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦めた。同盟関係にあった大日本帝国からも内密に潜水艦での亡命の打診があったがこれを丁重に断っている。ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答したという[93]

最期の時

処刑地点
ブレダッピオの記念碑

ムッソリーニはスイスに向かい、そこから中立国でヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされている。既にスペインへ家族と子供たちを亡命させていたこともこれを裏付けている。しかし車両は移動途中のコモ湖付近で第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に捕捉され、旅団の政治委員ウルバーノ・ラザッロが身分証明を求めて車列に近付いた。同乗していたローマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチとその兄マルチェッロ・ペタッチはスペイン外務省の在伊領事と身分を偽ったが、程なくムッソリーニが搭乗していることが発覚した[94]。一行は旅団指導部による指示を仰ぐためにメッツェグラ市へ護送され、途中でマルチェッロが脱出を図ったとして射殺されている。メッツェグラ市でムッソリーニはディ・マリアという人物の民家に幽閉され、裁きを待つことになった。

ガリバルディ旅団の指導部は予想外の出来事に動揺しつつも、他に拘束していたファシスト政権の要人たちと合わせて一挙に略式裁判で葬るという決断を下した。最初から法の裁きを受けさせる気がなかったという点で、これは不法な人民裁判であった。翌日、ムッソリーニを初めとした15名の政府要人がギウリーノ・デ・メッツェグラという市街地の郊外に移動させられ、そこで全員が射殺される事になっていた。熱烈な共産主義者として祖国自由解放議会から処刑の責任者に選ばれたウォルター・オーディジォは幽閉されているムッソリーニとクラレッタを輸送車両に乗せて処刑場に向かった。

ギウリーノの広場に用意された処刑場で彼らを並ばせると、ムッソリーニから離れようとしなかったクラレッタにまず銃撃が浴びせられた。ムッソリーニはクラレッタが倒れると自らの胸元を示して「心臓を撃て」と語り、オーディジォは胸を撃ち抜いた。しかしムッソリーニは荒い息になりながらもこれを堪え、オーディジォが更に銃弾を胸に撃つと遂に倒れた。他の要人たちは二人の処刑が終わった後、日が暮れるまでに全員が処刑された[95]

処刑後

1945年4月29日、ガリバルディ旅団はムッソリーニの生存説を払拭することも含め、その死を公布するために遺体をトラックで辺境であるメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。午前3時、ミラノに到着した輸送部隊は衣服を着けたままの要人たちの遺体をロレート広場に投げ出して晒し者とした。この歴史的事件の舞台となった広場は現在パルチザンの英雄行為を讃える名前に改称されている[96]。広場に集まっていたパルチザンは十数体の遺体に罵声を投げかけ、銃撃を浴びせたという。

やがて遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられたが、これはファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での絞首刑に対する意趣返しの意味合いがあった。パルチザンに捕えられていたあるファシスト党員は、かつてムッソリーニを神の如き存在と賞賛したことを論われ、逆さ吊りになったムッソリーニの遺体を指し示されながら死刑を宣告された[97]。しかし彼は射殺される直前に遺体へ敬礼したことで、パルチザンは激高し彼の遺体も広場に吊るした。

群集が散会した後、広場に下ろされたムッソリーニの遺体はミラノ郊外の墓地に埋葬されたが、墓には支持者による利用を防ぐために無名の石碑が設置された。だが戦後に遺体はネオファシストによって密かに掘り起こされ、別の土地へと持ち出された。実行犯と思われる数名が拘束されているが、彼らが真犯人かどうかは議論が続いている。最終的に右派系の政治団体によって正式な墓を作るべきだとする運動が起こされ、遺体は生家のブレダッピオに記念碑を作りそこへ改葬された。現在でも記念碑はファシズムやその系譜にある政治思想を支持する人々、およびムッソリーニを好意的に評価する人々による献花が絶えないことで知られている。

略年表

  • 1883年:イタリア王国のロマーニャ地方の小村プレダッピオで鍛冶職人アレッサンドロ・ムッソリーニの長男として生まれる。
  • 1901年:エミリア地方フォルリンポポリへ移住。同地の師範学校で学び、教員免状を取得。またイタリア社会党の党員となる。
  • 1902年:グァルティエリの小学校教師として奉職するが、同年の間に教師を辞めて隣国スイスを旅する。亡命中のレーニンと知り合い、知遇を得る。
  • 1903年:スイスのイタリア語圏で大規模なゼネストを指導。スイス政府から監視対象とされる。
  • 1904年:ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束、国外追放処分を受ける。
  • 1905年:二年間の兵役義務(~1906年)
  • 1906年:兵役を終える。トルメッツォに移住、同地で教師に復職する。
  • 1908年:イタリア社会党トレント党支部に配属、オーストリアのイタリア語圏で政治運動を行う。党支部の機関紙『労働者の未来』の編集に参加。
  • 1911年:伊土戦争での反戦運動により政府に拘束され、半年間の懲役刑を受ける。若手政治家の筆頭として注目を集める。
  • 1912年:政治運動に復帰。党内抗争で改良主義者の粛清に辣腕を揮ったことが評価され、日刊紙『アヴァンティ(前進)』の編集長に抜擢。
  • 1914年
    • 国際主義路線を放棄。民族主義と社会主義を結合をした独自の政治理論を着想する(ファシズム)。
    • 第一次世界大戦への参戦を支持し、英国の資金援助を受けて日刊紙『ポポロ・ディタリア』を創刊。反党行為としてイタリア社会党から除名される。
  • 1915年:イタリア参戦に伴い、陸軍に志願入隊。
  • 1917年:手榴弾による負傷で後遺症を負い、名誉退役を勧告される。最終階級は軍曹。
  • 1919年:自らの政治理論を実行に移すべく、退役兵からなる政治団体『戦闘者ファッショ』を結成。反政府集会の妨害などを行う。
  • 1921年:議会選挙に出馬、35議席を獲得して政界入りを果たす。『戦闘者ファッショ』を正式に政党として再編して『ファシスト党』を結成。
  • 1922年:ファシスト党によるクーデターを決行(ローマ進軍)。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の支持を得て自由党政権を転覆させ、臨時政権を樹立する。
  • 1923年:選挙法改正案が可決、得票率25%以下の小規模政党を強制的に解散させる。改正後の選挙では解散政党の支持票を吸い上げ、議席過半数を確保。
  • 1927年:国家保護特別裁判所を設置。政府に治安権限を集中させる。
  • 1928年:王国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関「ファシズム大評議会」に立法権限を移動、独裁体制を確立する。
  • 1929年:ラテラノ条約可決。バチカン市国建国と引き換えに教会から独裁支持を取り付ける。
  • 1934年:ワルワル事件勃発。
  • 1935年:第二次エチオピア戦争勃発。
  • 1936年:エチオピア帝国併合。エリトリアと合わせてイタリア領東アフリカを形成する。同年にはフランコ政権を支持してスペイン内戦にも介入。
  • 1939年:アルバニア戦争勃発。アルバニア王国併合。ドイツのナチス政権と独伊軍事同盟を締結、同年に第二次世界大戦勃発。
  • 1940年:
  • 1941年:物資と工業力に勝るイギリス軍に敗北、エジプト侵攻が頓挫する。他の戦域でも不調が続き、次第にドイツに従属する立場となる。
  • 1943年:米英軍がシチリア島を占領するとクーデターが発生、国王と側近たちに軟禁される。ヒトラーにより救出され、イタリア北部にイタリア社会共和国を建国する。
  • 1945年:家族を亡命させていたスペインへ出国を試みる途中にガルバルディ自由旅団に拘束、銃殺される。

人物像

私生活

元々が師範学校出身の知識人であり、教師としての教育を受けていることもあって大変な勉強家であった。本領である政治学では様々な思想に関する博学な知識を持ち、ジョルジュ・ソレルの修正マルクス主義に深い理解を示して新たな思想であるファシズムを体系化した。他に哲学にも通じてブランキからシュティルナーまで多くの理論を学び、また芸術面では近代ドイツ文学に傾倒していた。加えてドイツ語・フランス語(後者は政府から正式な資格を取得している)に堪能という教養人であった。また演説家としても非常に有能で、感情が高ぶるほど激烈な弁が冴えたヒトラーとは対照的にさわやかな演説をする人物として知られた。

ムッソリーニの愛車と同型車。

若い頃からスポーツを得意としており、毎朝起きたら体操をやりジュースを飲み、最後に乗馬に興じてからシャワーを浴びて朝食をとるのが日課であった。朝食ではパンの他に果物が用意してあり(本人も果物が健康の秘訣だと言っている)、はたまに食べるがはほとんど食べなかったという。モータースポーツを愛好し、国威発揚のためにイタリアの自動車メーカーを国際レースの場に出ることを推奨した他「ミッレミリア」などの国内におけるレースへの支援も欠かさなかった。ちなみに自身の愛車はアルファ・ロメオ社のスパイダー・コルサ(en:Alfa Romeo 6C)であった。

ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で他人を信用せず、友人も作らず常に孤独であったと言われている。

家族

当初、トレント滞在時代に同地出身であったイーダ ・ダルセルと結婚、長男アルビーノ・ムッソリーニを儲けているが後に離別した。1915年12月にラケーレ・グイーディと再婚してエッダヴィットーリオブルーノロマーノ、アンナの三男二女を新たに儲けたが、最初の妻と子については政権獲得後に経歴として隠蔽された。しばしば愛人との関係も噂され、ユダヤ系イタリア人の新聞記者マルゲリータ・サルファッティ、最後を共にしたローマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチなどが一般に知られている[98]。政権期を通じて私腹を肥やすことに興味を持たなかったムッソリーニは、死後にほとんど資産を残さなかったために、遺族は年金以外の収入はなかったと言われている。

前妻イーダは海軍軍人となっていた長男アルビーノの認知を求めたが、独裁政権下のスキャンダルを嫌ったムッソリーニは養育費は払いつつも最後までこれを認めなかった。後に両者は政府の監視下に置かれて行動の自由を奪われ、大戦中に病死した。次男ヴィットーリオは士官学校を経て空軍大尉へ昇進したが、弟よりも素質に欠けていたために途中で映画製作に転じた。戦後にアルゼンチンの別荘へ逃れ、81歳で病死するまで隠居生活を送った。三男ブルーノは有望な空軍士官として名声を集めて、23歳の時にP.108大型爆撃機のテストパイロットに選抜されたが試験操縦中に事故死した。四男ロマーノはピアニストとして教育を受け、政治活動には一切関わらず音楽家として生涯を過ごした。ロマーノの次女でベニートの孫娘にあたるアレッサンドラ・ムッソリーニは政治家として国会議員を務めている。

長女エッダは父の腹心であったガレアッツォ・チャーノ伯爵と結婚して体制固めに貢献したが、RSI時代に夫が投獄されると父と絶縁した。ドイツ国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーと連絡を取って夫を救おうとしたが叶わず、夫の処刑後はスイス亡命を経て戦後イタリアに戻り、85歳で病没した。次女アンナは戦後に一般男性と結婚し、1968年に39歳で亡くなっている。

信仰

無神論者・反教会主義者

ムッソリーニは敬虔なカトリック教徒の母ローザと[99]、反対に根っからの無神論者である父アレッサンドロとの板挟みの中で幼少期を過ごした.[100]。ローザは他の子供たちと同じくムッソリーニに洗礼を受けさせて毎週日曜日には教会のミサに連れて行った。対照的にアレッサンドロは決してミサには参加しなかった[99]。ムッソリーニ自身は先述の通り、カトリック系の寄宿学校での強圧的で階級的な教育制度に激しい嫌悪を感じて、「朝起きると必ずミサへと連れて行かれる」と述懐している[101]

青年期を迎えたムッソリーニは父と同じ反教会主義者・無神論者・唯物論者として自覚した行動を行い[100]、宗教に寛容な社会主義者を批判して洗礼拒否運動を展開した。当時のムッソリーニは「神など居るわけもなく、キリストはただの馬鹿で精神異常者であったことは明らかだ」とキリスト教を侮蔑していた。彼は宗教を信じる人間が頼るべきは教会ではなく精神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだと罵倒した[100]。彼は無神論を最初期に説いたニーチェを尊敬し、彼の理論がキリスト教の欺瞞を明らかにしていると考えた[102]。また信仰心に対する代替物として提案された超人思想についても肯定的であった[102]

政治家に転身した後も反教会主義はムッソリーニの重要な政治的目標の一つであり続け、痛烈な教会批判を繰り返した[103]。彼は社会主義とキリスト教の合同は絶対に避けられるべきで、無神論者ではない社会主義者は政界から追放すべきとまで主張した。しかしキリスト教の中心地として栄えてきたイタリアにおいて、カトリック教徒の支持を集めることは大衆運動で不可欠であった。そのため、権力の階段を登るに連れて自説を押し通すことより政治上の作戦としてキリスト教勢力との協力路線へと切り替えていった。1921年に下院議員として初めて演説を行ったムッソリーニは、「ローマに存在する唯一の普遍的な理念は、ヴァチカンより発せられるものである」と述べ、ヴァチカンとのコンコルダート(政教条約)の締結を主張した[46]

政権獲得後

1924年、子供たちへの洗礼を行わせて教会との和解を国民に印象付け、翌年には10年前に無宗教の結婚式を行ったラケーレと教会での結婚式典を行うパフォーマンスを見せた.[104]。このような路線は最終的に1929年2月11日のラテラノ条約の締結に至る[105]。教会との間で結ばれたラテラノ条約でカトリック教会は新たな教皇領としてバチカン市国を与えられ、正式にローマ・カトリックがイタリアの国教とされた[106]。中絶制度・教会への課税なども合わせて廃止され、フリーメーソンの活動も禁止された[107][108]。当時の教皇ピウス11世はムッソリーニを信心深いキリスト教徒と賞賛し、「イタリアは再び神の土地へと戻った」と宣言している[106]

だが教会に対する懐柔策を進めながらも本心としての侮蔑は持ち続けており、和解の直後に「教会は国の下位に置かれるべきだ」と発言している[105]。またコンコルダートから7年間の間に無数のキリスト教系新聞が発禁処分とされた[105]。教会もムッソリーニの表面的な懐柔に不満を抱き始め、破門処分を検討したとも伝えられている[105]。1932年にピウス11世とムッソリーニの会談が行われて関係修復が図られたが、ムッソリーニは教会に対する賞賛などの社交辞令を決して報道させなかった[105]。彼はファシストはキリスト教に敬意を持っていると世辞を述べ[105]、教皇は「彼は摂理の傍に居る」と賞賛した[103][105]

1938年、第二次世界大戦を前にしてムッソリーニは反教会主義を露にするようになった。彼は宗教の中でも特にキリスト教が最も堕落した宗教であり、「それに比べればイスラム教はまだ合理的で優れた部分がある」と閣僚に語っている。また「教会はイタリアの癌細胞であり、いずれは引き摺り出さねばならない」とも語っていたという[109]。だがこれらの発言は非公式な物に留まり、公ではこうした発言は控え続けていた。晩年となる1943年からキリスト教についての肯定的発言が増え始め[110]、キリストの殉死を引き合いに出した演説も行っている[110]。とはいえ基本的には無神論者のままであったと戦後に妻のラケーレが証言している。

皮肉にもムッソリーニを処刑した共産主義者たちは同じ無神論者であったため、彼の望み通り無宗教様式で遺体を埋葬した。1957年、ムッソリーニの改葬式が行われた際には教会で儀式が行われた[111]

評価

国内での評価はドイツにおけるヒトラーほど低く蔑まれておらず、幾分に悪いイメージもあるもののマフィアを徹底して弾圧したり、積極的な雇用政策を進めたことから比較的に好印象を持たれている。現在でもブレダッピオの記念碑には花が絶えず、ナチスの様に極端なタブー視はされてはいない。ローマ進軍記念日前後の10月下旬には多くの支持者がプレダッピオに集まり、この時期がプレダッピオにとって一番の稼ぎ時となるという。

近代政治思想に多大な影響を与えたファシズムの創始者であり、政治理論家としても重要な足跡を残した。ファシズムについては「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡大した」というジョークが残されている。

現代イタリアに関する影響としては、アメリカの歴史家A・L・サッチャーは政治情勢によって政治的思想を変遷させてきたことを「首尾一貫した不首尾一貫性」と評し、「カヴールガリバルディが苦心して作り上げた近代イタリアを台無しにした」と批判した。一方で依然としてイタリア国内ではムッソリーニとファシズム、そしてファシスト党は強固な支持を得続けている。共和ファシスト党の後進政党であるイタリア社会運動および国民同盟は与党連合の一員として閣僚を送り込み、現在の与党「自由の人民」でも一翼を担っている。

植物学者・ロボット学者の西村真琴(俳優・西村晃の父)は「保育は天業」「保育の営みがある限り、人間社会は有機的に発展する」という観点から、ムッソリーニが掲げた独身税・子無税構想を評価・支持している[112]

映像作品

映画

脚注

  1. ^ 独裁開始はムッソリーニが国家統領(ファシスト党統領)を創設・就任した上で、ファシスト政権で複数の大臣職(空軍大臣・植民地大臣・内務大臣等)を兼務する体制を確立した1925年12月24日以降と見なされている
  2. ^ Image Description: Propaganda poster of Benito Mussolini, with caption "His Excellency Benito Mussolini, Head of Government, Leader of Fascism, and Founder of the Empire...".
  3. ^ Humphrys, Julian (June 2010). BBC History magazine. Bristol Magazines Ltd. ISSN 14698552. 
  4. ^ Hakim, Joy (1995). A History of Us: War, Peace and all that Jazz. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-509514-6 
  5. ^ Warwick Palmer, Alan (1996). Who's Who in World Politics: From 1860 to the Present Day. Routledge. ISBN 0415131618. http://books.google.com/?id=YdMWTvXhVlUC&pg=PA259&lpg=PA259&dq=mussolini's+achievements 
  6. ^ a b c d Mediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 3
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  13. ^ 当初、修道会は小学四年生から五年生への進級は認めず退学処分を決定するが、母ローザの懇願と学年が終わりに近いことから、「五年生への進級は認めるが来年度以降の当校への入学を認めない」とした。
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  60. ^ [1]基石表面にイタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇志の遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ、ローマ元老院と市民より」と刻まれてあったが戦後、占領軍の命により削り取られた。」とある。
  61. ^ 実際には前出の下位春吉が「感激して記念碑を贈ることを希望している」という話を創作して当時の若松市長に伝えたことが発端であったが、新聞報道を通じて著名人の賛助も集まり記念碑を建てざるを得なくなったため、外務省がムッソリーニに打診して贈られたという経緯であった(福家崇洋『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』河出書房新社、2012年、46‐52頁)。
  62. ^ 笹川良一参照。『続・巣鴨日記』26-30ページ
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参考書籍

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  • 岡俊孝「<論説>一九二三年・コルフ島の占領決定とムッソリーニ」『法と政治』第19巻第2号、関西学院大学、1968年、255-292頁、NAID 110000213380 
  • 山崎充彦「15. "ファシスト"ムッソリーニは日本で如何に描かれたか : 表現文化における政治的「英雄」」『龍谷大学国際センター研究年報』第15巻、龍谷大学、2006年、201-226頁、NAID 110005859311 
  • 桐生尚武「ファシズムの危機(一九二三年-二四年)」『明治大学教養論集』第15巻、明治大学教養論集刊行会、1982年、1-36頁。 
  • 光富省吾「ヘミングウェイとムッソリーニ(1)」『福岡大學人文論叢』第35巻第4号、福岡大學、2004年、1659-1680頁、NAID 110000327692 
  • 村上信一郎「ムッソリーニの転向と反教権主義」『イタリア学会誌』第25巻、イタリア学会、1977年、88-104頁、NAID 110002959142 
  • 岡倉登志北川勝彦「第2章 日本とエチオピア」『日本 - アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦まで』(初版発行)同文館東京、1993年10月15日、29-61頁。ISBN 4-495-85911-0 
  • 岡倉登志『エチオピアの歴史』(初版第一刷発行)明石書店東京、1999年10月20日。ISBN 4-7503-1206-1 
  • 古川哲史 著「第43章 結びつく二つの「帝国」――大正期から昭和初期にかけて」、岡倉登志編著 編『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、299-306頁。ISBN 4-7503-2682-5{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 古川哲史 著「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」、岡倉登志編著 編『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、307-312頁。ISBN 4-7503-2682-5{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 

関連項目

外部リンク

公職
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Dino Grandi
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ルイージ・ファクタ
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