ジャコモ・マッテオッティ

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ジャコモ・マッテオッティ
フラッタ・ポレージネにあるマッテオッティの墓

ジャコモ・マッテオッティ(Giacomo Matteotti、1885年5月22日 - 1924年6月10日)は、イタリア社会主義者統一社会党イタリア語版英語版の書記を務めた。台頭するファシズムに対峙したが、1924年に暗殺された。

生涯[編集]

ヴェネト州フラッタ・ポレージネ出身。

ボローニャ大学で法学を修めた。若い頃より活発に社会主義運動に参画した。第一次世界大戦に際しては、戦争反対の姿勢をとった。統一社会党の中心人物として、とりわけ1922年のムッソリーニ政権成立以降、ファシスト党ムッソリーニらの批判を続けたが、1924年6月10日にローマで誘拐されたのちに刃物で刺されて殺害され、6日後にリアーノ付近で発見された。犯人としてファシストの5人が浮上し、うち4人が逮捕されたが有罪判決を受けたのは3人で、その3人もまもなく恩赦により釈放された。ムッソリーニがこの一件に関係していると推測されている。第二次世界大戦後の1947年に彼らを含む関係者の裁判が再び行われ、3人が終身刑の判決を受けた。

第二次世界大戦後、ローマに彼の記念碑が建てられた。墓は故郷のフラッタ・ポレージネにある。

関連項目[編集]