アンジェリカ・バラバーノフ

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アンジェリカ・バラバーノフAngelica Balabanoff, 1878年1965年)はウクライナロシア人の女性革命家イタリア系ユダヤ人の血も引いている。ロシア語では、アンジェリーカ・イサアーコヴナ・バラバーノヴァАнжелика Исааковна Балабановаアンジリーカ・イサアーカヴナ・バラバーナヴァ)、またはアンゲリーナ・イサアーコヴナ・バラバーノヴァАнгелина Исааковна Балабановаアンギリーカ・イサアーカヴナ・バラバーナヴァ)と呼ばれる。

概要[編集]

ウクライナはキエフ近くのチェルニーゴフの裕福な地主の家庭に生まれ、11歳の時にハリコフの女学校へ進学。

19歳の時に母の反対を押し切ってブリュッセル新大学に進んで以来、西ヨーロッパ大学を転々とし、アナーキストエリゼ・ルクリュドイツ社会民主党アウグスト・ベーベルローザ・ルクセンブルクローマではアントニオ・ラブリオーラと出会い社会主義思想と活動を学ぶ。

1900年イタリア社会党に入党、第二インターナショナル事務局員、イタリア社会党機関紙《アヴァンテイ》の共同編集者、ツィンメルヴァルト運動の書記などを歴任してロシア革命を迎え、「封印列車」第2便で革命ロシアに帰国する。
その後レーニントロツキー等と親しく交わりながらコミンテルン(第三インターナショナル)初代の代表書記、ウクライナ外務人民委員を兼ねて、卓越した演説者・アジテーターとして活躍するが、やがて新体制による権謀術数、度重なる反対派の粛清の中で新しく勃興した官僚主義に抗しきれず、レーニンにひきとめられながらも1921年にロシアを去る。 レーニンが彼女のために書いた身分証明には「同志アンジェリカ・バラバーノフは多年にわたってわが党の一員である。彼女は共産主義インターナショナルの最も傑出した同志の一人である」とあった。社会党国際事務局書記、「アヴァンテイ」(パリ)の編集者となる。

レーニンが亡くなった1924年の8月、「メンシェヴィキ的な」考え方をし「社会ファシストの新聞に協力した」ためにロシア共産党から除名するとの通告を受ける。ナチスのパリ侵攻とともにアメリカ合衆国に移り、第二次世界大戦イタリアに「帰国」、1964年までイタリア社会党で活動する。翌年ローマで死去した。

著書[編集]

  • My Life as a Rebel (1938) ‐ 回想録
日本語訳は『わが反逆の生涯 インターナショナルの死と再生』(久保英雄訳、風媒社、1970年、ISBN 483310203X