連合国軍占領期後の日本

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連合国軍占領期後の日本(れんごうこくぐんせんりょうきごのにほん)は、1952年の日本国との平和条約施行に伴う日本連合国軍占領の終了・日本の主権回復から、1989年の昭和天皇崩御にともなう昭和時代の終わりまでの期間を指す。第二次世界大戦で甚大な被害を受けたものの、この期間中、日本は大きな経済成長を果たし、経済的な大国となるまでに成長した。

政治[編集]

日本主権回復後(1952年-1970年)[編集]

1952年4月28日、日本国との平和条約の施行に伴い、日本の連合国軍占領は終了した。これにより、日本国の主権が回復したが、朝鮮台湾樺太マリアナ諸島などにおける権利は完全に放棄することとなった。この条約は、日本が集団的自衛権を有することを許可していて、吉田茂首相は同日中に、旧日米安保条約に署名した。

日本が完全に主権を回復する前から、政府は追放された約8万人の社会復帰を行ってきた。軍事費用や天皇の主権についての議論はまだ続いていて、1952年10月の連合国占領後初の選挙において自由党の権力の減少につながった。そして、1954年、自衛隊が設置された。冷戦朝鮮戦争も、アメリカ合衆国に影響された経済発展につながった。また、日本を自由主義陣営に入れるために、アメリカは、多岐にわたる大規模な対日文化外交を展開した[1]

日本国内での政党の解散・結党は続き、1955年11月には保守勢力である自由党日本民主党合併し、自由民主党が結成された。その一か月前の10月には、社会党再統一が行われていた。これにより、55年体制が成立した[2]。そして1964年に創価学会を支持団体として公明党が結党され、初出馬の第31回衆議院議員総選挙(1967年)で社会党と民社党に続く野党となった[3]。1975年まで、公明党は社会党と同様に、日米安全保障条約の破棄を主張していた[4]

1970年代[編集]

1972年に内閣総理大臣に就任した田中角栄は、1974年の金脈問題がきっかけとなり、同年12月に総辞職した。そして、約2年後にロッキード事件が明るみに出ると、田中は逮捕、起訴された[5]。しかし、事件の係争中も、田中は自民党の最大派閥田中派)を率い、数々の内閣を誕生させるなど、1985年に竹下登が派閥を割るまで、「闇将軍」として政界での影響力を持ち続けた[6]

1970年代後半になると、公明党と民社党は日米安保条約を破棄するという主張を減らすようになった。日米安保条約に強い反対を示していた社会党も、厳格な反軍事的な立場を捨てることを余儀なくされた。反軍事的な主張が減っていく中、1976年11月、自衛隊創設後の日本の防衛費は無限に増え続けるのではないかという国内外の懸念を踏まえ、三木改造内閣によって防衛費1%枠閣議決定された[7]

わずか1ヵ月後の同年12月、三木武夫首相の任期満了に伴い、いわゆるロッキード解散が行われ、第34回衆議院議員総選挙が行われた。首相の4年の任期満了に伴う衆議院解散は戦後初であったが、1955年の結党以来、自民党の議席は初めて過半数を割った[8]

1980年代[編集]

1980年6月12日、当時総理大臣であった大平正芳(自民党)が死去した。現職総理の死去は戦後初であった。同年6月22日に行われた初の衆参同時選挙第12回参議院議員通常選挙第36回衆議院議員総選挙)では、弔い選挙となった自民党が圧勝し、西村裁定によって鈴木善幸が総理大臣となった[9]。しかし、第一次教科書問題や財政問題に直面し、1982年10月に突然、同年に行われる党総裁選への不出馬を表明した。

鈴木が不出馬を表明した1982年の自民党総裁選では、中曽根康弘が当選し、同年11月に自民党総裁と第71代内閣総理大臣に就任した。中曽根は、田中角栄の全面的な支持を受けていたことから、「田中曽根内閣」などと揶揄されていた。しかし、中曽根内閣の支持率は高く、50%以上に上ることもあった[10]第2次中曽根内閣が成立するころには、中曽根は国会の中でも強い位置を保持していた[11]

1983年10月、ロッキード事件被告人の田中角栄元首相に対し、懲役4年、追徴金5億円の判決が下った[12]。田中の判決が出てからわずか1か月後、衆議院が解散され(田中判決解散)自民党は過半数割れしたものの、新自由クラブとの連立を樹立し、第2次中曽根内閣を発足させた[8]。1987年11月の第3次中曽根内閣総辞職の15か月前には、自民党が第38回衆議院議員総選挙にて300席を獲得、圧勝していた[13]。しかし、政府は、バブル景気による地価高騰や、インフレーション、3.2%に上る失業率などの問題に直面した。1987年10月20日、自民党総裁任期の満了を控えた中曽根は次期総裁に同党幹事長竹下登を指名した(中曽根裁定)。指名した当日、ブラックマンデーの影響で、日経平均株価は過去最大の暴落を起こした[14]

経済[編集]

戦後初期は、戦争中に失われた産業の復興にささげられ、電気、石炭、鋼や化学薬品への出資が多くされた。朝鮮戦争の特需もあり、1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回り、国民生活も安定していた。軍部に支配された政府の要求から解放された経済は、戦争中での失速からの回復だけでなく、成長率が急上昇し、戦前のそれを上回った(高度経済成長)。1956年に発表された経済白書には、戦後の日本の復興が終わったことを指して『もはや「戦後」ではない』と記述され、流行語にもなった[15]。1960年、池田内閣は、10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表、全国の重工化工業化を図り、日本経済を高度成長の軌道に乗せた[16][17]。1953年から1965年の間、GDPは年間9%以上、製造業と鉱業は13%、建設業は11%、インフラストラクチャーは12%以上拡大した[18]。所得倍増計画の目標は、発表後7年で達成された[16]

日本の教育制度は、日本の近代化に大きく貢献し、結果、日本が非西欧諸国の中でも早く近代化に着手し、成功した国となった[19]。このことから、日本の教育制度は、高い評価を受けている。日本は世界の中でも高い識字率と教育水準を誇り、日本の技術的に先進した経済の実現に貢献している。

1964年東京オリンピックの開催のため、東海道新幹線首都高速道路などのインフラや、国立競技場日本武道館などの競技施設の整備が必要となり、建設業などに特需を生み出した。特に、開催わずか九日前に運転を開始した東海道新幹線は、世界初の高速鉄道として、戦後の日本の経済と技術の成長を世界に誇示した[20]。1968年には、日本最初の超高層ビルである霞が関ビルディング(高さ147m、36階建て)が完成した[21]。このような、「東洋の奇跡」と呼ばれる成長を遂げ、1960年後半、日本は世界第二位の経済大国となった[22]

1971年、ニクソン・ショックが発生。日本経済の混乱を招き、為替市場が固定相場制から変動相場制に移行するきっかけとなった[23]

1973年、第四次中東戦争が勃発し、第一次オイルショックが発生。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。1974年の日本の消費者物価指数で23 %上昇し、「狂乱物価」という造語も作られた。日本は不況でありながら物価が上昇するスタグフレーションという状態に陥り、同年の経済成長率は戦後初のマイナスとなる-1.2%を記録し、高度経済成長が終焉を迎えた[24]

アメリカ合衆国の防衛協力などのおかげで、政府は、経済産業省などを通じて、国内での海外企業の営業を制限しながら、海外での日本企業の産業育成を奨励することができ、冷戦中の日本経済の大きな成長に貢献した。1980年までには、車や電子機器など、多くの日本製品が国外に輸出され、日本の産業はアメリカ合衆国に次いで世界2位となった。しかし、1991年に失われた10年に入ると、日本の経済は低迷した[25]

1940年には、日本での労働組合は政府によって解散させられていた。しかし、戦後日本を占領していた連合国軍は、ニューディール政策に則り、労働組合の復活を支持した。復活した労働組合には共産主義のものも含み、1947年に二・一ゼネストが計画されたが、決行直前に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となった[26]。1970年代に入ると、日本とアメリカ合衆国両方で、労働組合の参加人数が減少していった。これについては、両国の国民が消費者のライフスタイルを受け入れてゆき、肉体労働から離れられるほどの教育を受けられるようになったためだという説がある[27]

外交関係[編集]

日本は、世界経済では中心的な位置を獲得したものの、戦後長く、地球政治英語版に関しては控えめな立場をとっていた[28]

1950年代、日本は、多数の国との国交の回復や外交関係の修復をしたり、1956年の国際連合加盟などを通じて、国際社会での地位を確立した。戦後の完全な外交関係の変更の一例としては、日独関係があげられる。

1960年には、新日米安保条約が衆議院で強行採決され、もともと行われていた反対運動(安保闘争)の活発化を招いた。6月15日には、全学連デモ隊国会議事堂に突入し、東京大学学生の樺美智子が圧死する事態となった[29]。条約が批准された6月23日、岸内閣は混乱の責任を取って、総辞職し、混乱は収まった[30]

戦後の日本人のアメリカ合衆国に対する見方は、1968年と1972年にそれぞれ改善された。1968年には、小笠原返還協定により、小笠原諸島などの南方諸島が日本に返還された。1972年には、沖縄返還協定により、沖縄が日本に返還された。

戦後、日本は中華民国と国交を復活させ、同国が国共内戦敗戦によって台湾への撤退を余儀なくされた時も、関係を保ち続けた。しかし、ピンポン外交によって、国共内戦に勝利し中国を支配した中華人民共和国と米国の緊張が緩和、1972年にニクソン大統領の中国訪問が実現することとなった。これがきっかけとなり、同年に日中共同声明が発表され、日本は中華人民共和国と国交を結び、同時に中華民国と断交した[31]

戦後、北方領土帰属問題について合意に至らなかったため、ソビエト連邦サンフランシスコ講和会議に参加するも日本国との平和条約への調印を拒否するなど、日本との関係には問題があったが、1956年、日ソ共同宣言が発表され、日本とソ連の国交が回復した[32][33]

1972年から1974年の間、田中角栄内閣の下、防衛費を着実に増やし、対米輸出自主規制を受け入れて日米貿易摩擦をいったんは収束させたことで、日本はこれまでより強固だがまだ低姿勢なスタンスを取った。そのうえ、田中内閣は、アメリカ、ソ連、中国などの高官との会談を実施した。しかし、彼がインドネシアタイへ訪問した際には、デモや暴動が発生した。これは、それらの国における反日感情の現われであった。

アメリカ合衆国と日本の関係を改善するため、中曽根康弘首相ロナルド・レーガン大統領の訪問が数回実施された。中曽根が日本の防衛問題について強い姿勢で臨んだことは、一部の米国の高官に好感を与えたが、日本国内やアジアの隣国には良い印象を与えなかった。そのうえ、彼が憲法9条の改正を呼びかけていたことについては国内ではなく外国でも否定的な反応が見られたが、1980年代半ばまでには、自衛隊日米安保条約は徐々に受け入れられるようになっていた。

日本の貿易黒字が増えているのも、当時の日米関係の問題の一つで、第1次中曽根内閣中に過去最高を迎えた。アメリカ合衆国は、日本が円相場を円高にし、市場をもっと開放してアメリカとの貿易を容易にして貿易不均衡を是正するように圧力をかけた。日本政府が主要産業を支援するため、政府が不当な競争を作っていると非難された。政府はこれらの問題の解決のため努力することに同意したものの、主要産業に対する姿勢はほとんど変わることはなく、米国との取引は少ししか行わなかった。

文化[編集]

戦後、特に連合国軍の占領下中、日本の西洋化は進んだ。アメリカの音楽映画が人気になり、日本と西洋両方の影響を受けたアーティストが増えるようになった[34]

この期間中、日本は文化の輸出国にもなった。世界中の若者が、怪獣映画アニメ漫画などの現代的な日本文化を購入するようになった。川端康成や三島由紀夫などの著者も、アメリカやヨーロッパで有名になった。日本の占領後に帰国した米兵が、このような文化を持って帰り、日本にいた次世代の米兵は、格闘技などの日本文化を徐々に人気にすることに貢献した。

年表[編集]

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ 日米文化交流 ― 二国間から多国間の交流へ”. 2022年6月28日閲覧。
  2. ^ 55年体制とは” (日本語). コトバンク. 2022年6月30日閲覧。
  3. ^ 衆院初進出で一躍25議席獲得 (1967年1月) | 写真で読む公明党の55年” (日本語). 写真で読む公明党の55年. 公明党. 2022年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月30日閲覧。
  4. ^ 別枝行夫. “戦後日中関係と公明党”. 2022年6月30日閲覧。
  5. ^ Chalmers Johnson (1986). “Tanaka Kakuei, structural corruption, and the advent of machine politics in Japan.”. Journal of Japanese Studies. 
  6. ^ 田中角栄とは”. コトバンク. 2022年7月8日閲覧。
  7. ^ 1976年11月5日 防衛費GNP1%枠、三木内閣が決定” (日本語). 日本経済新聞 (2020年11月4日). 2022年7月1日閲覧。
  8. ^ a b 政党の栄枯盛衰 再び” (日本語). 日本経済新聞社. 2022年7月5日閲覧。
  9. ^ 8章 大平首相急死”. ビジュアル年表(戦後70年). 朝日新聞社. 2022年7月1日閲覧。
  10. ^ 【政治】中曽根内閣支持率58%に上昇”. デジタルアーカイブ福井. 2022年7月2日閲覧。
  11. ^ Kenneth B. Pyle, "In pursuit of a grand design: Nakasone betwixt the past and the future". Journal of Japanese Studies 13.2 (1987): 243–270. JSTOR 132470
  12. ^ ロッキード事件 田中元首相に実刑判決”. NHK放送史. 日本放送協会. 2020年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月5日閲覧。
  13. ^ 衆参同日選挙で自民党圧勝”. NHK放送史. 日本放送協会. 2022年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月8日閲覧。
  14. ^ 1980年代:ブラックマンデーからバブルへ” (日本語). 日経平均 読む・知る・学ぶ. 日本経済新聞社. 2022年7月9日閲覧。
  15. ^ もはや戦後ではない―経済白書70年(2)” (日本語). 公益社団法人 日本経済研究センター (2016年5月17日). 2022年7月11日閲覧。
  16. ^ a b 1960年9月7日 池田首相が所得倍増計画” (日本語). 日本経済新聞. 日本経済新聞社 (2013年9月2日). 2022年7月12日閲覧。
  17. ^ 高度経済成長”. NHK for School. 日本放送協会. 2021年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月17日閲覧。
  18. ^ Mikiso Hane (1996). Eastern Phoenix. Routledge. pp. 97-124 
  19. ^ 高橋秀子 (1992) (日本語) (PDF). 日本の近代化における教育の役割. https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=24527 2022年7月10日閲覧。. 
  20. ^ 17423.pdf”. 益田市. 2022年7月17日閲覧。
  21. ^ Japan's first skyscraper turns 30”. ジャパンタイムズ (1998年4月17日). 2015年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月17日閲覧。
  22. ^ (2)長期的な経済の低迷”. 国土交通省. 2022年7月17日閲覧。
  23. ^ 金とドルの交換停止とは 変動相場制の契機”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 2022年7月17日閲覧。
  24. ^ 第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)”. 葛飾区史. 葛飾区. 2022年7月18日閲覧。
  25. ^ Takeo Hoshi, and Anil K. Kashyap. "Will the US and Europe avoid a lost decade? Lessons from Japan’s postcrisis experience." IMF Economic Review 63.1 (2015): 110-163. online
  26. ^ Mitsuko Hane (1996). Eastern Phoenix. Routledge. pp. 28, 35 
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  28. ^ Bert Edström (1999). Japan’s Evolving Foreign Policy Doctrine. Palgrave Macmillan London 
  29. ^ 60年安保闘争”. NHK放送史. 日本放送協会. 2022年7月20日閲覧。
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  33. ^ Preface”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年7月18日閲覧。
  34. ^ Mikiko Hane (1996). Eastern Phoenix. Routledge. pp. 173-202 

関連項目[編集]