千日デパート火災
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| 千日デパート火災 | |
|---|---|
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| 現場 | 大阪府大阪市南区難波新地三番町1番地 |
| 発生日 |
1972年(昭和47年)5月13日 22時27分 |
| 類焼面積 | 8763 m2 |
| 原因 | 煙草の不始末 |
| 死者 | 118人 |
| 負傷者 | 81人 |
| 最高裁判所判例 | |
|---|---|
| 事件名 | 業務上過失致死傷事件 |
| 事件番号 | 昭和62(あ)1480 |
| 1991年(平成3年)11月29日 | |
| 判例集 | 刑集第44巻8号871頁 |
| 裁判要旨 | |
| |
| 第一小法廷 | |
| 裁判長 | 大堀誠一 |
| 陪席裁判官 | 角田禮次郎、大内恒夫、四ッ谷巌、橋元四郎平 |
| 意見 | |
| 多数意見 | 全員一致 |
| 意見 | なし |
| 反対意見 | なし |
| 参照法条 | |
| 刑法211条 | |
千日デパート火災(せんにちデパートかさい)は、1972年(昭和47年)5月13日夜、大阪府大阪市南区(現在の中央区)千日前の千日デパート(日本ドリーム観光経営)で起きたビル火災である。死者118名・負傷者81名[1][2]の日本のビル火災史上最悪の大惨事となった[注釈 1]。
「千日デパートビル火災」[注釈 2]という呼称も使われる[3]。また、地名から「千日前デパート火災」とも。[要出典]
21時閉店後の22時27分ごろ、3階ニチイ千日前店の北東側の布団売場付近より出火。火は防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段から上下階に燃え広がり、フラッシュオーバーを起こしながら2階から4階までの範囲に拡大した。一方、火災で燃焼した建材や化繊商品から発生した一酸化炭素と有毒ガスを含んだ大量の煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へ上昇し、7階で営業していたアルバイトサロン[注釈 3]プレイタウンに流れ込んだ。店内にいた181人の客やホステス、従業員らは、火災の通報も受けられず、煙に巻かれて逃げ場を失い、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、脱出用の救助袋から地上へ落下するなどして死者118名、負傷者81名(プレイタウン関係者42名と消防士27名、その他12名を含む)を出す惨事となった。7階からの生還者は、消防隊のはしご車やサルベージシートで救助された者が53名、自力脱出者が8名、窓から商店街アーケードの屋根へ飛び降り助かった者が2名、合計63名である。大阪市消防局は管内の全消防車両の3分の1にあたる84台(救急車12台を含む)を消火作業に投入。はしご車は7台で、管内すべてのはしご車が出場した。消火作業にあたった消防士は596名にのぼった。火災は翌朝14日5時43分鎮圧。同7時41分に鎮火した。延焼範囲は2階から4階までで、床面積合計8,763m2が焼失した。火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されているが、明確な証拠は無く、工事関係者の行動が特定できないこと、警察での取調べに対して供述を二転三転させるなど信用性が疑われたので出火原因の特定はされていない。刑事裁判の判決文においても不明とされている。
千日デパートビルは、大阪で有数の高地価な千日前交差点の角地にあり、家主の日本ドリーム観光は、この時価に見合う賃料収入を確保すべく、多くのテナントを入店させていた。この結果、全館の防火管理責任体制が不明確となっていた。また日本ドリーム観光は、テナントから管理料を徴収し、原則夜間駐在を認めなかった。これは同社が夜間管理を一括して行うことを意味したが、結局その防火管理体制に手抜かりがあり、火災発生から消防署への通報までは約6分(外部リンク欄の「特異火災事例・千日デパート」参照)と比較的速やかに行われたものの「プレイタウン」には火災発生の情報が伝わっていなかった。さらにこのビル自体が1932年(昭和7年)に竣工した大阪歌舞伎座を改装した古い建物であったため、1950年施行の建築基準法に不適合の状態であり、防火シャッターが自動作動するものではなく、火元の3Fで保安係員が防火シャッターを手動で降下できなかったことやスプリンクラー設備が未設置であったことも被害が拡大する要因となった。この事件と翌年起きた大洋デパート火災の出火建物が建築基準法に対し既存不適格であったことで、建築基準法および消防法の大幅な改正が行われる契機となった。
千日デパート火災についての本文を記す前に、千日デパートおよび千日デパートビルと、火災によって多くの犠牲者を出した7階プレイタウンについて説明する。
目次
千日デパートについて[編集]
千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に大阪ミナミの繁華街「千日前」の千日前交差点の南西角に建っていた初代大阪歌舞伎座だった建物を商業施設に改装し、新装開業したショッピングセンターである。経営者は千土地興行(1963年に日本ドリーム観光と改称)で、専門店街や劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊戯場、キャバレーなどが入居する複合商業施設である。なお「デパート」と名乗っているが、旧百貨店法の「百貨店を営む者」には該当しない。千日デパートビルは、鉄骨鉄筋コンクリート屋根構造、地下1階を含む地上7階建で、屋上に塔屋3階建を備えていた[4]。延床面積は27,514.65m2である[4]。消防法施行令の防火対象物区分では特定防火対象物の複合用途・16項(イ)にあたる[注釈 4][5]。火災焼失後は約8年の期間、野晒し状態のままだったが、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり、翌2月から解体工事が始まった。千日デパートビルは解体され消滅した。
千日デパートの開業[編集]
元々は大阪楽天地[6]の跡地に1932年(昭和7年)9月28日竣工した初代大阪歌舞伎座だった建物を、新歌舞伎座の竣工に伴い改装したものである。地下1階から地上5階までを商業施設、6階を演芸場の千日劇場と食堂、7階を大食堂、屋上は遊戯施設としていた。営業時間は朝10時から夜10時までだった[要出典]。開業前は「日本初の大規模ショッピングセンター」と銘打ち[7]、当初テナントから賃料と保証金および付加使用料を徴収する賃貸方式で経営を予定していたので、小売店舗の集合ビルという意味で千日センターと呼ばれるはずだった[8]。ところがテナントの募集に対して応募が低調だったことから、商業施設側が売場を直接経営し、入店するテナントに売場の営業権を与え、商品を納入させて売り上げ金の一定割合をテナントから徴収する納入方式に変更することにした[9]。このことにより「千日デパート」へ名称を変更して営業する運びとなった[9]。1958年当初より千日デパート管理株式会社が営業や管理を担当。1964年(昭和39年)5月以降は日本ドリーム観光の本社組織内に千日デパート管理部を創設し、以降経営を担っていた。千日デパートは『まいにちせんにち、千日デパート』のコマーシャルソングで知られ[要出典]、また屋上に1960年(昭和35年)から設置された観覧車は大阪の名物となっていた。ビル正面には丸にS(Sen-nichiから)の緑色のマークが掲げられ、千日デパートのシンボルとなっていた[10]。
ニチイ入店[編集]
千日デパートは日本初の大型ショッピングセンターとして話題を呼び、開店当初は売り上げが好調だった。年中無休で元日から営業するなど買物客から人気を集めた。だが、しばらくすると開店景気も落ち、全体の売り上げは下降線を辿った[11]。そこへ1967年(昭和42年)3月、大手衣料品スーパーニチイが千日デパート4階にテナントとして入店することになった[11]。千日デパート開業以来、初の大型テナントの入店である。これを機会にニチイ入店の3カ月前、全てのテナントに対する契約が納入方式から賃貸方式に変更された[12]。既存の4階各テナントは、賃料と保証金および付加使用料の新たな支払い契約に応じず、4階フロアから撤退し、4階売場の全てをニチイが独占してニチイ千日前店として営業を始めた[12]。その後ニチイは、同年10月に3階にも出店し大成功を収め、その売り上げは全国のニチイの中で一番になり、千日デパート全体の売り上げも上昇した[11]。なお、3階既存テナントの一部は、千日デパート開業当初からの賃貸契約業者だったためにデパート側からの立ち退き要請に応じず裁判となったが、後に和解が成立。立ち退かずに引き続き同じ場所での営業が認められた[13]。
火災発生当時の千日デパート[編集]
1972年(昭和47年)5月の火災発生当時における千日デパートの主な使用形態は、地下1階が食品館、飲食店、催事場、お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた「サタン」(千土地観光経営)[要出典]、1階と2階は126店舗が出店する専門店街[14]、3階と4階はニチイ千日前店[14]、5階が千日デパート直営の均一スーパー、6階が遊戯場(千日劇場跡)[14]、7階がアルバイトサロンプレイタウン(日本ドリーム観光の子会社である千土地観光が経営)[14]となっており、同じ商業施設内でも各売場ごとに営業者が異なる雑居ビル(寄合百貨店)だった[15][16]。この出店営業スタイルは、千日デパートが1958年に開業した当時から続いていたものである。営業時間は10時から21時まで[17]。7階「プレイタウン」と地下1階の一部飲食店は、デパート閉店以降も23時まで営業をしていた。千日デパートの定休日は水曜日[17]。7階「プレイタウン」は年中無休である[18]。
千日デパートのフロア構成[編集]
火災発生当時の千日デパートフロア構成を以下にまとめた。
| フロア | 床面積(m2) | テナント・設備など |
|---|---|---|
| 塔屋3階 | 134 | 日本装備事務所 電気室など |
| 塔屋2階 | 156 | 日本装備事務所 エレベーター機械室など |
| 塔屋1階 | 200 | 売店 園芸店 ペットショップなど |
| 屋上 | 1,290 | 屋上遊園地など |
| 7階 | 1,780 | プレイタウン メキシコ領事館 文書保管庫など |
| 6階 | 3,350 | 遊戯場 千土地観光事務所 千日劇場跡(ボウリング場へ改装中)など |
| 5階 | 2,049 | 均一スーパー 美容室 ニチイ事務所 店員食堂など |
| 4階 | 3,520 | ニチイ千日前店 ニチイ事務所など |
| 3階 | 3,665 | ニチイ千日前店 店舗(4店舗) 従業員更衣室 歯科医院など |
| 2階 | 3,714 | 店舗(44店舗) 千日デパート事務所 店舗事務所など |
| 1階 | 3,796.96 | 店舗(63店舗) 外周店舗(19店舗) 保安室など |
| 地下1階 | 3,860 | ニチイ食品館・飲食店(27店舗) 催事場(人形館) 電気室 機械室など |
特筆すべき点は以下のとおりである。
- 地下1階から6階までと、7階の一部、屋上および塔屋は、千日デパート管理部が各フロアの経営と管理を担っており、7階「プレイタウン」だけはプレイタウンを経営する千土地観光が営業と管理を行っていた。同じ建物内に入居しているテナントにも拘らず、プレイタウンだけは防火管理上の管理権原が別になっていた[19]。
- 7階「プレイタウン」を除く各テナントは、千日デパートからフロアを賃借して賃料と保証金を納めて営業していた「賃貸業者」であるが、地下1階の人形館と5階均一スーパーは千日デパートの直営である[4]。
- 火災当日1972年(昭和47年)5月13日の時点で、千日デパートは以下の工事を行っていた。
- 3階ではニチイ千日前店で同月23日からの売場改装オープンに伴う電気工事を実施中で、火災当日は数回に分けて工事が進められていた。夜間も工事を予定していて21時から翌朝4時まで作業する手筈になっていた[20]。またこの電気工事にさきがけて千日デパート管理部次長からニチイ千日前店店長に対し、防火の要望書が渡されていた。さらに火災前日の12日には、千日デパート側がニチイと工事業者を集めて工事の要望に関して再度話し合っている。特に喫煙については所定の場所に水を入れた容器を置き、そこで吸うように申し渡していた[21]。
- 6階では旧千日劇場跡をボウリング場へ改装する工事中だった。火災当日は22時30分までの予定で工事が進められていた[22]。
千日デパートの設備について[編集]
千日デパートの出入口、階段、エレベーター、エスカレーターの設置状況は以下のとおりであった。
- 出入口について
- 千日デパート出入口は1階に合計7個所設けられていた。
- 南東出入口をA、その西隣の出入口をB、南西出入口をC、西側出入口をD、北西出入口をE、北東出入口をFと名付けていた。なお北東正面入口(Sマークの直下)にはアルファベット名称はない。それぞれの出入口のアルファベットは各階段の呼称と対応している。B出入口は「プレイタウン」専用、D出入口は従業員通用口である。
- 階段について
- 主な階段は全部で6個所設けられていた。
- それぞれA、B、C、D、E、F階段と名付けられており、AとF階段は、それぞれ1階から屋上まで、B、D、E階段が地下1階から屋上まで、C階段が1階から4階まで通じていたところ、「プレイタウン」に通じている階段はA、B、E、Fの4階段である。なお階段のアルファベットは出入口の呼称に対応している。
- B階段は「プレイタウン」専用階段となっており、おもに「プレイタウン」従業員の出退勤時と、1階専用入口と地下1階「プレイタウン」専用エレベーターホールの間を利用する客と従業員が利用していた。このB階段は鉄扉が二重に設けられたバルコニー付きの非常階段である。
- B階段は、各フロアに出入りするための鉄扉が1階を除いて各階に設けられていたが、「プレイタウン」専用階段になっていたことから7階を除く各階の扉は常時施錠されていた。またA、E、F階段の7階「プレイタウン」の出入口も常時施錠されていた。この措置は、千日デパート側が「プレイタウン」の客や従業員らがデパートの売り場を通り抜けて店に出入りすることを普段から認めていなかったことによる。
- 7階「プレイタウン」に出入りするには、まず1階専用入口からB階段を使って地下1階へ降り、「プレイタウン」エレベーターホールから、2基の「プレイタウン」専用エレベーターのうちのどちらか一つを使って7階まで昇る必要があった。そのために1階のB階段にはフロア(1階売場)に繋がる鉄扉は設けていなかった。
- エレベーターについて
- エレベーターは全部で8基が設置されていた。
- ビル南東部分(塔屋の直下)のA階段周辺に4基が設置されていた。A階段の西隣に単独で1基、A階段の北側正面に3基が横一列に設置されていた。そのうちの2基(ビル南側と北側東寄り)は、地下1階から7階を直通で結ぶ「プレイタウン」専用である。南側エレベーター(以降A南エレベーターと呼ぶ)と北側東寄りエレベーター(以降A北東エレベーターと呼ぶ)は「プレイタウン」専用なので、地下1階「プレイタウン」エレベーターホールと7階「プレイタウン」ホール以外に出入口を設けていない。
- その他2基の北側中央エレベーターと北側西寄りエレベーター(以降それぞれA北中エレベーターとA北西エレベーターと呼ぶ)は、地下1階から屋上まで通じるデパート専用エレベーターである。こちらは7階だけに出入口を設けていない。
- ビルの西部分に3基のエレベーター(以降C西エレベーターと呼ぶ)が設置され、地下1階から4階まで通じていた。デパート専用であるが、4階止まりなので7階には通じていない。
- ビル北西部分に地下1階から屋上を結ぶデパート専用エレベーターが1基(以降D北西エレベーターと呼ぶ)設置されていた。このエレベーターは7階にも出入口があるものの、「プレイタウン」関係者が利用できる場所に設置されていなかった。
- エスカレーターについて
- エスカレーターは、ビルのほぼ中央付近に1階から6階までの間に設置されていた。地下1階と7階には設置されていなかった。1階から4階までは上下行きにエスカレーターが設置されているが、4階から6階までは上り一方向のみで下り方向の設置はない。
消防用設備の設置状況[編集]
千日デパートの消防用設備(消火器、消火栓、火災報知機、熱式感知器、スプリンクラー、救助袋)は、以下のとおりであった。(表中の「―」は設置無しを表す。また「火報」とは火災報知機、「熱感」とは熱式感知器の略、「散水器」とはスプリンクラーのことである)。
| フロア | 消火器(個) | 消火栓(個所) | 火報(個所) | 熱感(個所) | 散水器(有無) | 救助袋(個所) |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 屋上 | ー | ー | 1 | 5 | ー | ー |
| 7階 | 13 | 2 | 1 | 8 | ー | 1 |
| 6階 | 5 | 2 | 2 | 17 | あり | 2 |
| 5階 | 13 | 3 | 2 | 3 | ー | 1 |
| 4階 | 18 | 6 | 4 | ー | ー | 2 |
| 3階 | 24 | 7 | 5 | ー | ー | 1 |
| 2階 | 23 | 7 | 4 | ー | ー | ー |
| 1階 | 23 | 5 | 4 | 1 | あり | ー |
| 地下1階 | 38 | 6 | 3 | 18 | あり | ー |
- スプリンクラー(散水器)の設置については、全館の設置は無かったが、地下1階と1階のF階段周辺、6階旧千日劇場跡の舞台、楽屋、映写室には例外的に設置されていた。
防火区画、防火区画シャッター、売場防火扉の設置状況は以下のとおりである。
| フロア | 防火区画 | 防火区画シャッター(枚) | 売場防火扉(個所) |
|---|---|---|---|
| 7階 | ー | ー | ー |
| 6階 | ー | ー | ー |
| 5階 | ー | ー | ー |
| 4階 | 3区画 | 8 | 3 |
| 3階 | 4区画 | 15 | 2 |
| 2階 | 3区画 | 19 | ー |
| 1階 | 3区画 | 19 | ー |
| 地下1階 | 2区画 | 7 | ー |
- 防火シャッターについて
- 1階の各入口と各外周部には防火シャッターが、また各階段の各階入口に鉄製の防火扉または防火シャッターが備え付けられていた(1階F階段入口を除く)。
- エスカレーター開口部については、3階から4階を結ぶ2基(4階部分)、4階と5階を結ぶ1基(5階部分)、5階と6階を結ぶ1基(6階部分)には、防火カバーシャッターが設置されていた。
- 防火区画シャッター(売場内)について
- 地下1階から4階までは、売場内を防火区画ごとに閉鎖できる防火区画シャッターと防火扉が設置されていた。また5階から7階までは防火区画の設定は無かった。
- 売場内の防火区画シャッターは、一部を除いて手動巻き上げ式ということもあり、普段から閉店後においても閉鎖されていなかった。エスカレーター開口部の防火カバーシャッターは、5階と6階部分を除いて閉鎖されていなかった。
- 3階北側の東西方向に設置されていた4枚の防火区画シャッターは、ヒューズ式自動降下シャッター(80度以上の熱で自動降下)であった。
- 2階F階段の横引きシャッター(階段吹き抜け閉鎖用)は、1965年(昭和40年)から故障していて修理をせずに放置されており、平素から戸袋に収納されたままで使用していなかった。
プレイタウンについて[編集]
プレイタウンは、日本ドリーム観光の子会社「千土地観光」が千日デパート7階で営業していたアルバイトサロン[注釈 3]である。開業は1967年(昭和42年)5月26日。千土地観光が営業する風俗店10店舗のうちの一つであった。1969年(昭和44年)5月には6階の千日劇場跡の一部を使って店舗を拡張した。火災発生のほぼ1カ月前の1972年(昭和47年)4月17日、ボウリング場改装工事が開始されるのに合わせて6階での営業を廃止。同月28日に6階フロアと7階プレイタウンのホールを繋ぐ通路をベニヤ板で仮閉鎖し、ボウリング場改装工事が始まった。
プレイタウンの営業形態は、年中無休で営業時間は平日が17時から23時まで。土日・祝祭日が1時間前倒しの16時から23時まで[18]。主婦などの素人の女性がホステスを務め、ワンセット200円の低料金で気軽に楽しめるとあって人気があり、大阪ミナミでは中クラスの大衆サロンだった[23]。また当時のアルバイトサロンは、キャバレーのようにバンドマンの演奏や歌を聴きながら、またはショーを観ながら飲酒やホステスの接待を受ける形式が一般的だった。プレイタウンは「チャイナサロン」と謳っていたので[24]、ホステスはチャイナドレスを身に着けて接客していた人が多く、店内の装飾も中華風の飾りや、つる草模様の衝立て、深紅の幕で飾られていた[25]。客の収容人数は150名。ホステスが約100名。支配人やボーイなどの従業員は約40名が勤務していた。火災当日5月13日夜のプレイタウンの集客状況は、概ね7割程度の客の入りであったが、7階プレイタウンへ煙が大量に流入してきた22時40分ころ在店していたのは客56名、ホステス78名、従業員47名の合計181名である[23]。火災発生当日は土曜日夜で、いわゆる半ドンであった。当時はまだ週休二日制は一般的ではなかったために、日曜日の休み前日に当たったことから、店内には客が多かった。プレイタウンのホステスは子持ちの母親が多く、奇しくも火災が発生したのは母の日の前日でもあった[26]。
7階プレイタウンの店内は、中央ホールが東西32メートル、南北17メートルの広さがあり、平面は台形のような形をしていた。ホールにはテーブル117個、イス141個、衝立37枚が置かれていた。ホールの北西角部分にはステージ、ステージ裏に小部屋3室、ステージの西隣にF階段入口(ホールに面した電動シャッターと調理場配膳室に直結した鉄扉1枚。常時施錠。)が面していた。ホール出入口はホールの南側にあり、ホール出入口の近辺にレジとトイレと物置が、その先にクロークとエレベーターホールとA階段(常時施錠)、クロークの奥にカーテンで隠された「特別非常階段・B階段(常時解錠)」があった。ホールの西方に調理場、空調機械室、事務所、宿直室、ホステス更衣室があり、それらはいずれも北側の窓に面しており、幅1.23メートルから1.8メートルの狭く入り組んだクランク状の廊下で各部屋が結ばれ、ホールに繋がっていた。最も西側に位置しているホステス更衣室は、外窓2枚のうち1枚はロッカーで完全に塞がれていて、開閉することができない状態となっていた。またホステス更衣室にはE階段に直結した非常扉があり、普段は施錠されていた。
避難設備としては、北東角の窓に救助袋が1つ備えられていた。プレイタウンに通じていた階段は全部でA、B、E、Fの4階段があったものの、特別非常階段のB階段以外には常時鍵が掛けられていた。B階段については、普段からプレイタウン専用階段になっており、従業員の出退勤に利用されていて、とりわけ退勤時にエレベーターが混雑するからと店側がB階段を使って退勤するように推奨していた。プレイタウンに直結した各非常扉の「マスターキー」は、プレイタウン事務所内に保管されていた。またそれらの「予備の鍵」は、1階の千日デパート保安室に保管されていた。
火災の経過[編集]
閉店後に3階で電気工事[編集]
1972年(昭和47年)5月13日土曜日、千日デパート3階ニチイ千日前店の売場改装に伴い、コンセント設置や電気配管などの電気設備工事が行われることになった。工事はデパートの10時開店と同時に始まり、昼休憩1時間を挟んで午後も引き続き行われた。夕方17時頃になると客足が増えて店内が混雑してきたために作業を一時中断し、デパートの閉店後21時から工事を再開すべく、作業員らは一旦現場を離れた。デパート閉店後の21時過ぎ、この日(13日当日)3回目の電気工事が3階で再開された。場所は上り南エスカレーターの南側に隣接したエリアで、翌朝14日4時までの予定であった。工事監督1名と作業員5名の計6名が工事に携わっていた[27][28]。千日デパートの21時閉店以降、デパートビル内で営業していたのは7階「プレイタウン」と地下1階・洋酒喫茶「GRAND PUB」だけであった。
21時30分頃、3階の照明が一斉に消えてしまった。地下1階電気室にいたデパート電気係が、3階で電気工事が行われていること知らずに3階照明の電源を落としたためである。作業に支障が出ることから工事監督は地下1階の電気室へ行き、電源を入れ直した。数分後、3階西半分の照明が復旧し、再び作業が再開された[27][28]。この頃、千日デパート保安係が3階を巡回しているときに作業中の工事人らを目撃している[29]。
3階で火災発生[編集]
22時頃、作業が粛々と進められるなか、工事監督はタバコを吸いながら3階東側の店内をうろついていた[30]。 それから30分ほど経った22時30分頃、作業員の一人が3階東側売場方向から「パリパリ」というガラスの割れるような音がするのを聞いた。ふとその方向に目をやると、高さ1mくらいの赤黒い火炎と黒煙が立ち昇っているのを発見し、すぐさま火災であることを仲間に知らせると同時に西側D階段付近に佇んでいた監督にも報告。作業員らは消火器を探し回ったり、火災報知機を押そうとしたりするなど初期消火活動に奔走した。工事監督は西側D階段を駆け降りながら1階の保安室に向かって「3階が火事や!」と数回叫んだ[30][31]。
3階での火災発見とほぼ同時刻の22時30分過ぎ、閉店後の店内巡回を終えた千日デパート保安係員2名が、保安室に戻ってきた。その直後の22時34分、保安室の火災受信機が3階での火災を検知した。作業員の一人が3階の火災報知機を押したのである。それとほぼ同じくして3階から工事監督の火災発見を知らせる怒声が保安室にも届いた。保安係2名がD階段を昇り、すぐさま3階へ確認に行くと、すでにフロアいっぱいに黒煙が立ち込め、容易に近づけない状態になっていた。なんとか消火栓の場所まで行って消火を試みようとしたが、D階段にも煙が迫ってきていて何も行動が出来ず、作業員ら5名[注釈 5]と保安係2名はD階段で1階へ避難した[32][33]。またこのとき6階の千日劇場跡でボウリング場改装工事に携わっていた工事作業者ら6名が煙の流入で火災に気付き、6階窓からビルの外に出て、資材吊り上げ用ワイヤー(ウインチ)や配管、避雷針ケーブルを伝って全員無事に地上へ脱出した[22]。さらに3階と4階のニチイ千日前店にはニチイ社員が4名滞在していたが、火災に気付き全員無事にビル外へ脱出している。地下1階「GRAND PUB」の客と従業員、デパート電気係と気罐係の計2名もビル外に全員無事に脱出している。
22時39分、火災は急速に拡大し、防火シャッターカバーが閉鎖されていなかった3階エスカレーター開口部から4階へ延焼が始まった[34]。保安係2名は、直ちにデパート保安室に待機していた保安係長に3階が本格的な火災である旨を報告した[35]。
22時40分、保安係長は千日デパート保安室の電話で119番通報をおこなった[36][37][38]。
7階プレイタウンを襲った黒煙[編集]
22時35分、7階プレイタウンでは23時の閉店に向けて「お決まり」の様々な動きが始まっていた。 ステージでのショーが終了した直後のホールとあって人々の動きが激しくなるなか、客とホステスはバンドの生演奏に合わせてラストダンスを踊り、調理場では後片付けがおこなわれ、帰宅する客を見送るホステスらがエレベーターで1階入口へ向かっていた。 すでに接客を終えたホステスらは更衣室で寛ぎ、店内事務所では支配人らが集客を増やすための対策を話し合っているなど、プレイタウンはいつもの土曜夜と変わらない閉店前の様子だった。
22時36分、プレイタウン関係者が最初の異変を感じた。ボーイの一人が専用エレベーターで地下1階から7階へ上がる途中、エレベータードア下部のすき間から白煙が流れ込んで来るのを目撃した。また客の一人がトイレに行こうとしてホール入口の方を見たとき、A南エレベータードアのすき間から白煙が噴き出しているのを目撃した。ホステスの一人もホール入口の方向から白煙がホール内へ流れ込んで来るのを目撃し、演奏中だったバンドマンの一人も天井を流れる白煙の筋を確認しバンドリーダーへ報告。リーダーの指示で演奏を中止しバンドマンたちは楽屋に待機することになった。さらにプレイタウン事務所前に設置してある空調ダクト(リターンダクト)の吸入口からも煙が噴き出し始めた。調理場にいた従業員やボーイらによってダクト吸入口に向かってバケツで水を掛けるなどの消火作業が行われたが何の効果もなく、煙の量は更に増すばかりであった。
22時39分、事務所内にいた支配人は、ホールや事務所前通路が騒がしいことに気付いて事務所の外に出たところ、激しい煙に襲われた。空調ダクトから絶え間なく噴き出す煙に行く手を阻まれたが、状況を確認するためにホールへ向かった。西側ホステス更衣室にいたホステスらは、換気ダクトから噴き出す煙によって逃げ場を失い孤立してしまった。更衣室にいた一人が更衣室に面したE階段から避難しようと考え、施錠されているE階段ドアを開けるために事務所へ鍵を取りに行った。このころにはプレイタウン店内にいたすべての人たちが異様な臭気とホールに流れ込む煙に気付いた。ボーイらはA南エレベータードアから噴き出る白煙をエレベーターの故障だと考え、エレベーターを止めて点検を始めた。またある者はエレベーターのどこかが燃えていると判断し消火器を持ちだすなど店内が俄かに騒がしくなってきた。この直前にA南エレベーターで7階に上がってきたホステス2名とエレベーターホールにいたホステス1名の計3名は煙に驚き、向かい側のA北エレベータにとっさに乗り込み、地上へ脱出した。
22時40分、保安係が119番通報した頃の7階プレイタウンでは、火災の拡大に伴い、A南エレベータードアのすき間から吹き出す煙は、急激にその量を増すと同時に白煙から黒煙へと変わっていった。空調ダクトの煙も次第に黒煙へと変わり、異様な臭気と熱気を大量に噴き出すようになった。客やホステスらは地上へ避難するために、プレイタウンへ出入りするための移動手段として唯一知っている専用エレベーターに殺到し、エレベーターホール前は混乱した状況へと陥っていった。
22時41分、支配人はA南エレベーター東隣のA階段から客らを避難させようと考え、ボーイにA階段ドアの鍵を取って来るように指示したが、ボーイがA南エレベーター西隣に位置するクロークの中を探したものの鍵は見つけられなかった。プレイタウンの避難者らは、エレベータードアから噴き出す大量の黒煙により行動の自由が妨げられたため、ボーイらの指示でホールへと退避した。
22時42分頃、A南エレベーターからの猛煙でエレベーターホールが汚染されるなか、プレイタウンのクローク係の女性従業員がクローク後ろにあるB階段から地上へ脱出した。クローク係は自分の持場のすぐ後ろに使用可能な非常階段があることを平素から知っており、容易に階段を使用して脱出に成功した。
22時43分、消防隊による放水準備作業が開始された。このころ火災は3階エスカレーター開口部から2階へ延焼し始めた。「プレイタウン」では、支配人がレジ係に「落ち着くように」と店内放送で客やホステスらに呼びかけるよう指示した。
逃げ場のない暗闇のガス室[編集]
22時44分、消防隊がデパートビルの北東正面出入口と北西E出入口のシャッターを開けた。これは消防隊が店内に侵入して消火活動するために開けたものだが、この直後に3階と4階がフラッシュオーバーを起こし、それと同時に7階への煙の流入量が、より一層増すことになった。ホール内へ押し戻された人々は、エレベーターにも乗れず、非常階段も使えず、7階から完全に逃げ場を失い孤立状態になってしまった。またどこへ逃げていいのかもわからないまま、避難行動は自主性のないものになってしまい、パニック状態に拍車が掛かっていった。ホール内に押し戻された人の中で窓際やステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント控室の計3室)に移動できた人が窓ガラスを割り、救助を求め出したのはこのころである。またホステス更衣室にいた人たちは、なんとか事務所からE階段の鍵を取り出してドアを解錠し脱出を図ろうとした。しかしE階段はすでに煙で汚染されており、E階段ドアを開けたことで大量の煙を更衣室に入れてしまう致命的な結果となってしまった。
22時45分、3階がフラッシュオーバーを起こし、火災はフロア全体に燃え広がった。このころプレイタウン内を逃げ惑っていたある集団は、ボーイの案内でホール西側物置の中に入り込んだ。この場所は、つい1か月ほど前までプレイタウンが6階でも営業していたときの連絡通路があった場所で、6階でボウリング場工事が始まるのをきっかけに6階店舗と連絡通路が廃止されたのである。その通路部分を閉鎖するためにベニヤ板で塞いでいるはずだったので、事情を知っている者は板を破れば簡単に6階へ避難できるはずだと考えた。ところが壁の工事が予想外に進んでいて、ベニヤ板だと思われていた壁は厚さ27cmのブロック塀に変わっていた。行き場を失った人たちは、壁を壊そうとブロック塀を足で蹴ったり、手で引っ掻いたりした。極限のパニック状態で冷静さを失った人たちは煙を吸いこみ、物置の中で力尽きていった。
22時46分、消防隊による放水が開始された。そして4階がフラッシュオーバーを起こした。窓際に移動した従業員の一人によって北東側の金網窓が開けられ、窓下に設置してあった救助袋が地上に投下された。だが救助袋の先端には「地上誘導用の砂袋(おもり)」が括りつけられておらず、救助袋は2階のネオンサインに引っ掛かってしまった。消防隊員の手により救助袋は地上へ降ろされ、袋先端の把持を通行人らに頼んで7階からの脱出準備が整ったかのように見えたが、救助袋の正しい使用方法「下枠を持ち上げ、袋の入口を開く」ことを7階で知っている者が誰もいなかった。
22時47分、支配人らはステージ裏のF階段(らせん状階段)を使って脱出しようとした。屋上に避難しようというのである。調理場横の鉄扉を開けるには、事務所の中に保管してある鍵を取りに行く必要があるが、換気ダクトからの猛煙で事務所に近づけそうになかった。そこで椅子などをドアノブに叩きつけ、ドアをこじ開けようと試みたが失敗に終わる。
22時48分、次に支配人は、ホールに直接面したF階段出入口シャッターをボーイに開けるように命じた。電動によりシャッターは徐々に開いていった。ところがF階段にもすでに大量の煙が充満しており、シャッターを開けた瞬間、猛煙と熱気はその捌け口を7階プレイタウン店内に求めて一気に流入し、脱出しようとした人々をホール内へ押し戻した。窓際に移動した人のなかで最初に地上へ飛び降りた人が出たのはこのころである。
22時49分、プレイタウンで停電が発生し、プレイタウン店内の照明がすべて消えた。猛煙と暗闇の中で何も見えないまま、プレイタウン内を逃げまどう人々は誰かにぶつかっては倒れ、何かに躓いては転ぶうちに一酸化炭素と有毒ガスによる中毒の影響で、次第に動く者は誰一人いなくなっていった。
地上への脱出、救助、そして終局へ[編集]
22時50分、ホール内で猛煙と熱気の中をかろうじて凌いでいたホステスの一人は、ハンカチで口を押さえながら壁伝いにエレベーターホールへ出て、クローク奥にあるB階段の入口までたどり着き、地上への脱出に成功した。このころは猛煙と熱気、有毒ガス、停電による暗闇により、室内での行動は殆ど不可能になっており、窓際に移動できずにホール中央やF階段近辺、換気ダクト西側を逃げ回った人たち、または物置のなかに避難路を求めた人は、全員が息絶えてしまった。
22時50分から22時55分にかけて、窓際にいた人々もF階段から大量に噴き出す猛煙と熱気による息苦しさで7階窓から地上へ飛び降りたり、救助袋の上を掴まりながら馬乗りになって降下し、途中で転落する者が続出した。またステージ裏の小部屋に逃げ込んだ人々も、多少なりとも猛煙から逃れていたのだが、F階段シャッターの開放によって小部屋にも猛煙が侵入してきて呼吸が困難になっており、一部の人のなかには息絶える者も出始めていた。
22時55分から23時1分にかけて、救助袋から落下してくる人を消防隊が市民の強力を得て設置したサルベージシートで3名を救助することに成功した。このころ消防隊のはしご車による救出活動も本格化し、7階プレイタウン窓から50名を救助した。
23時10分、消防隊によりデパートビル全館の電気を全て遮断した。
23時15分、東側商店街アーケード屋根の上へ飛び降りた2名を救助した。
23時23分、はしご車による救助活動を終了した。
23時30分、消防隊は7階からの要救助者が存在しないと判断し、はしご車による救出活動を終了した。
14日0時頃、火勢が衰えだす。消防隊、救出活動優先から消火活動優先に切り替える。火災鎮圧までの間、ビル外側と内部から延焼階に放水を継続。
1時30分頃、7階から飛び降りや転落などで死亡した人が23名だと消防から発表された。
5時頃、消防隊により7階プレイタウンの内部探索が始まる。
5時8分、消防隊が7階プレイタウンフロアにて多数の遺体を確認した。
5時43分、火災鎮圧。
7時41分、火災鎮火。7階プレイタウンフロア内で96名の遺体を確認。また飛び降りや転落で21人の死亡者を確認し、犠牲者は合計117名となった。7階プレイタウン店内の現場検証後、遺体搬出作業開始。
15日(月曜日)0時15分頃、6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が発見し、消防に通報した。消防隊は6階と7階窓から放水。ボヤ程度で消し止めた。
火災発生から4日後の17日(水曜日)10時15分、7階プレイタウンの窓から飛び降りて重傷を負い、病院に収容されていたホステス1名が死亡した。これで火災の犠牲者は118名となった。 また負傷者は81名でプレイタウン関係者が42名、消防隊員は27名、12名は不明である。
消火活動および救出活動について[編集]
消防隊による消火活動および救出活動の経過[編集]
22時40分、大阪市消防局警防部警備課指令第1係が千日デパート保安係から119番通報を受信。直ちに受理した[37][38]。
22時41分、「ミナミ千日デパート3階出火」の一報を指令所より管内全署に発報。第1次出場が発令された[39]。
22時42分、南消防署[注釈 6]および北消防署より第一陣出場。千日デパートから最も近い東側200mに位置していた南署南坂町出張所2個分隊と、 北側200mに位置していた南署道頓堀分隊が、それぞれ現場に急行し、 デパートビル50m手前まで差し掛かったところで北側の窓から黒煙が噴き出しているのを確認し「第2次出場」を要請した[40]。
22時43分、南坂町および道頓堀分隊が火災現場に到着。南署本署のはしご車、ポンプ車、スノーケル車も現場に到着。放水準備作業が開始された[40]。
22時44分、消火活動のため消防指揮者は千日デパート保安係に対し、デパート北東正面入口とE北西入口のシャッターを開けるよう命じた[37]。 さらに消防指揮者は、デパート北側に特殊車両を配置するよう指示[39]。 シャッターが開放されたと同時に7階プレイタウンの窓から要救助者50名から60名が身を乗り出した[40]。 また3階と4階でフラッシュオーバーが起こったのもこのころである。
22時45分、南署はしご車分隊、7階へはしごの伸長を開始[41]。
22時46分、南署各隊により放水開始。南署南坂町分隊は、7階に要救助者を認めたことから大阪市消防局管内すべてのはしご車の出動を要請した[39]。
22時47分、指令室より特別出動態勢発令[39]。南署はしご車分隊が7階ホステス更衣室窓で救出活動開始。女性2名を救助した[41]。 その後、13分間にわたり救助活動をおこなった[41]。
22時48分、「第3次出場」要請[39]。
22時50分、第2陣現場到着。「第3次出場」発令[39]。
22時51分、西署はしご車分隊、現場に到着[41]。約5分間、方面隊がハンドマイクで救助袋の使用方法を呼びかけた。
22時52分、西方面隊より7階で20名から30名の要救助者確認の報告。東署[注釈 7]はしご車分隊が現場に到着。
22時53分、西署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[41]。
22時54分、西方面隊より7階で50名から60名の要救助者確認の報告[39]。西署はしご車、7階窓から救出開始。13分間に10名を救出した[41]。 阿倍野署はしご車分隊が現場に到着[41]。
22時55分、南方面隊が「7階窓から飛び降りた者が10名」と報告。東署はしご車分隊、はしごの伸長開始[41]。阿倍野署はしご車分隊、はしごの伸長開始[41]。 北署はしご車分隊が現場に到着[41]。南署道頓堀分隊、デパートビル7階にアセチレンガスボンベ40kg1本と酸素ボンベ2本を放置[39]。
22時56分、警察に対し雑踏警備や交通整理などのため機動隊の出動を要請[42]。阿倍野署はしご車分隊、救出活動開始。18分間で20名を救出[41]。
22時57分、北署はしご車分隊、はしごの伸長開始[41]。
22時58分、南方面隊がビル北東部より12名が飛び降りたと報告。北署はしご車分隊、救助開始。10分間に10名を救助[41]。
23時1分、第3陣(第3次出場)現場到着。西方面隊が7階に要救助者が20名から30名いると報告。東署はしご車分隊、救出活動開始。23分間に10名を救出[41]。
23時5分、デパート北側の千日前通に現地指揮本部を設置。消防局長、警防部長、警備課長、各消防署長が出動して方面指揮に当たった[42]。
23時8分、西方面隊よりデパートビル3,000㎡延焼中と報告が入る[39]。
23時10分、南方面隊、40名程度をはしご車で救出中と報告[39]。
23時15分、南署はしご車分隊、救出活動終了[41]。
23時23分、東署はしご車分隊、救出活動終了[41]。
23時25分、西署はしご車分隊、救出活動終了[41]。
23時29分、阿倍野署はしご車分隊、救出活動終了[41]。
23時30分、北署はしご車分隊、救出活動終了。すべての救出活動終了[39]。
23時32分、管内の全消防車両の3分の1に当たる84台(はしご車7台、救急車12台を含む)を投入[43][44]。
0時過ぎ、火勢が衰え出す[39]。
5時43分、火災鎮圧[39]。
7時41分、2階から4階までの8763㎡[45]を延焼して火災鎮火。
消防隊の人命救出活動および救急隊の活動[編集]
はしご車は、大阪市消防局保有の7台すべてが出動し、そのうちの5台(南署はしご車分隊、西署はしご車分隊、東署はしご車分隊、阿倍野署はしご車分隊、北署はしご車分隊)が 人命救出活動に当たった。なおデパートビル南側に配置した住吉署はしご車分隊および北西に配置した東淀川署はしご車分隊は、消火活動に投入された。
南署はしご車分隊の活動[編集]
南署はしご車分隊は、22時42分出場、44分現場到着。デパートビル北側西寄りに配置。45分デパートビル7階ホステス更衣室窓にはしごを伸長。47分救出活動開始。 22時47分から23時までの13分間に、ホステス更衣室窓から女性2名を救出した。救出の際、窓がロッカーで半分塞がれており、斧でガラスを叩き割って救出した。 その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。 ホステス更衣室窓で死亡者7名を取り残す結果になった[46]。
西署はしご車分隊の活動[編集]
西署はしご車分隊は、22時44分出場、51分現場到着。デパートビル北東側正面に配置。 53分デパートビル7階北東側正面のプレイタウン中央部窓にはしごを伸長。54分救出活動開始。 22時54分から23時7分までの13分間に要救助者5名をリフターで救出。 さらに、はしご伝いに自力で降りてきた5名を救出。合計10名(男性5名、女性5名)を救出した。 その後、18分間にわたりり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。 救出窓で死亡者はいなかった[47]。
東署はしご車分隊の活動[編集]
東署はしご車分隊は、22時44分出場。52分現場到着。デパートビル北東側正面東寄りに配置。 23時1分北東側窓1か所(救助袋が設置された窓)にはしごを伸長、01分救出活動開始。順次、東側の窓2か所(商店街アーケードの真上)にはしごを移動。 23時1分から23時23分までの22分間に、合計3か所の窓から8名を救出。5名は、はしごに自力で乗ったが、 2名は窓際で失神している状態のところを消防隊員に引っ張り出され救出に成功、1名はリフターで救出した。 なお、はしごが伸長している最中に2名がはしごに落下してきて地面に墜落、死亡した。 救出窓で死亡者9名を取り残す結果となった。なお東署はしご車分隊は、救出活動終了後に火災防御に当たったが、内部探索は行っていない[47]。
阿倍野署はしご車分隊の活動[編集]
阿倍野署はしご車分隊は、22時44分出場、54分現場到着。デパートビル北東側西寄りに配置。 55分デパートビル7階北東側西寄り窓(バンドマン控室)にはしごを伸長、56分救出活動開始。22時56分から23時14分までの18分間に、 はしご伝いに自力で降りてきた20名(男性17名、女性3名)を救出した。その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、 延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。 バンドマン控室窓で死亡者3名を取り残す結果となった[47]。
北署はしご車分隊の活動[編集]
北署はしご車分隊は、22時42分出場、55分現場到着。デパートビル北側東寄りに配置。57分デパートビル7階の北側東寄りの窓(タレント室)はしごを伸長、 58分救出活動開始。22時58分から23時8分までの10分間に、 10名を救出した。うち8名はタレント室窓からはしご伝いに自力で降下し、うち2名は厨房の窓際で失神しているところを消防隊に引き出されリフターで救出された。 その後、22分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。 厨房窓で死亡者5名を取り残す結果となった[47]。
南坂町分隊の活動[編集]
南坂町分隊は、砂袋(おもり)無しで地上に投下された救助袋が2階のネオンサインに引っ掛かったところを、 消防隊員が二連はしごを立て掛け登り、袋の先端を地上に降ろした。その後、通行人に救助袋先端の把持を頼んだ。 さらに消防車に積んでいたサルベージシートを救助幕として活用。通行人の協力を得てシートを拡げ、 22時55分から23時1分の7分間、7階窓から投下された救助袋で脱出する途中に墜落する者3名(男性2名、女性1名)を救助することに成功した[48]。
その他の人命救助活動としては、出場第一陣(南本署四分隊、南坂町分隊、道頓堀分隊)を中心にビル内部の探索を行い、 7階はもちろんのこと、延焼階も含めて要救助者の捜索に当たった。消防隊の初期活動は、消火活動よりも人命救助優先で進められた。 しかし、濃煙と暗闇により視界が利かず、また熱気により呼吸困難と熱傷に晒されたことからビル内部の探索を断念した。 人命救助優先は、23時30分の救出活動終了が宣言されるまで継続されていた[41]。
救急隊の活動[編集]
救急隊の活動は、大阪市消防局の救急隊12隊(救急車12台)により、負傷者を病院へ搬送した。 7階からの飛び降りや墜落者が出始めたころから救急搬送が活発化し、 はしご車で救出された人たちが50名に達したころにピークを迎えた。 搬送は合計25回、56名の負傷者(即死同然の者も含む)を大阪市内13か所の病院へ救急搬送した[42]。
消防隊の火災消火および火災防御活動[編集]
出場第一陣が22時43分に火災現場に到着、22時46分から放水が開始された。その後に特別体制が発令され、第三出場まで行われた。現地指揮本部が設置され、7時41分の火災鎮火までの間に出動した消防車両は84台(はしご車7台と救急車17台を含む)、投入された消防士は596名にのぼった[43]。投入された消防車両は、普通ポンプ車(PR)25台、普通ポンプ車(P)2台、水槽付きポンプ車(TR)7台、水槽付きポンプ車(T)4台、はしご車(L)7台、スノーケル車(S)5台、屈折放水塔車(W)1台、救出車(R)3台、排煙車(SE)1台、サルベージ車(SA)2台、方面隊車両4台、敏動隊車両(バイク隊)6台、救急車(A)17台である[49]。
主な分隊の消火活動[編集]
- 西成署海道TR分隊
- デパートビル東側から内部侵入し、3階で消火活動をおこなった[51]。
- 西成署津守PR分隊
- デパートビル南西側より内部侵入し、3階と4階で消火活動をおこなった[51]。
- 大正署泉尾TR分隊
- デパートビル南側から内部侵入し、3階で消火活動をおこなった。また、東署スノケール車に給水をおこなった[51]。
被害状況[編集]
人的被害[編集]
千日デパートビル火災における人的被害は死者118名、重軽傷者は81名(うちプレイタウン関係者が42名、消防隊員が27名、残り12名は不明)である。
火災発生当時のデパートビル滞在者[編集]
火災発生時に千日デパートビル内に滞在していた人は212名(GRAND PUBを除く)である。7階プレイタウンで181名、地下1階プレイタウンエレベーターホールまたは1階プレイタウン出入口にプレイタウン関係者が10名、地下1階の電気室と機械室にそれぞれ千日デパート社員が1名ずつ計2名、1階に当直の千日デパート保安係が4名、3階ニチイ千日前店に電気工事作業員ら5名とニチイ社員2名、4階ニチイ千日前店にニチイ社員2名、6階ボウリング場工事現場に工事作業員6名である。7階プレイタウンに滞在していた181名以外のデパートビル滞在者に死者や負傷者は一人もおらず、全員無事にデパートビル外へ脱出している。なお地下1階で営業していた「GRAND PUB」の人員は不明である。
死亡者の内訳[編集]
死者118名は、すべて7階プレイタウンの関係者である。死者の内訳は、性別では男性が49名、女性が69名で、客が34名(男性33名、女性1名)、ホステスが65名、プレイタウン従業員が19名(男性15名、女性4名)である。7階プレイタウンのフロア内で死亡した者が96名(男性43名、女性53名)、7階窓からの飛び降りや転落で死亡した者が9名(男性3名、女性6名)、救助袋からの転落で死亡した者が13名(男性3名、女性10名)である。
7階プレイタウンフロア内の死亡場所[編集]
7階プレイタウンのフロア内で死亡した96名の死亡場所は、ホール中央部で26名(男性14名、女性12名)、ホール客席で1名(男性1名)、ホール窓際で12名(男性3名、女性9名)、トイレで7名(男性4名、女性3名)、レジ・リスト室で4名(男性1名、女性3名)、物置内で13名(男性6名、女性7名)、空調ダクト付近で8名(男性2名、女性6名)、バンドマン室で3名(男性3名)、厨房で5名(男性2名、女性3名)、冷暖房機械室で1名(男性1名)、宿直室で2名(男性1名、女性1名)、ホステス更衣室で7名(男性1名、女性6名)である。
死亡者の死因[編集]
7階プレイタウンフロアで死亡した96名の死因は、一酸化炭素中毒が93名、胸部腹部圧迫が3名である。7階窓からの飛び降りや救助袋からの転落によって死亡した22名の死因は、脳挫滅1名(男性1名)、脳挫傷12名(男性5名、女性7名)、頸椎骨折3名(女性3名)、骨盤骨折2名(女性2名)、胸腔内内臓破裂2名(女性2名)、外傷性ショック2名(女性2名)である。
負傷者[編集]
火災発生時のプレイタウン滞在者181名のうち、7階から自力で脱出できた者が10名、消防隊のはしご車で救出された者が50名、救助袋から地上へ降下中に転落したところを消防隊のサルベージシートで救助された者が3名で、7階からの生還者は合計63名である。負傷者81名について、プレイタウン関係者の負傷者は消防隊による救出または自力脱出した63名のうちの42名で、残りの21名は負傷者にカウントされていない。主な負傷内容は、煙を吸い込むなどして負った一酸化炭素中毒、救助袋に手足を擦り付けるなどして負った熱傷、飛び降りによる腰部骨折、大腿部骨折、肘骨折、打撲、挫傷などである。また消防隊員27名の負傷はおもに一酸化炭素中毒である。残り12名の負傷状況は不明である。
7階からの生還者[編集]
- 自力脱出者
- 7階プレイタウンから生還した者のなかで、自力で脱出できた者が10名いる。まず火災覚知の初期にA北東エレベーターで地下1階まで降下して助かった男性1名と女性2名[注釈 12]、B階段を使用して1階へ脱出した2名(クローク係の女性1名、ホステス1名)、救助袋で降下中に転落したが消防隊のサルベージシートで救助された者が3名(男性1名、女性2名)、7階東側窓から商店街アーケードへ落下、または飛び降りて助かった男性2名である。
- B階段を使って避難した2名の女性
- B階段を使って避難できた2名のうち、クローク係の女性は、エレベーターホールに白煙が漂っているのを感じ、隣の電気室にいる電気係にそのことを知らせた。その直後にボーイにも知らせようとホール内へ向かったが、もうすでに煙の影響で数メートル先も見えない状況になっており、危険を感じてすぐにB階段から避難したという。クローク係の女性は、自分の持場のすぐうしろに非常階段があることをあらかじめ知っており、さらにはクロークがB階段に直結していたことが幸いし自力で脱出できた。またもう1名のB階段を使って避難に成功したホステスは、接客中に煙の流入に気付いて客席からレジに向かったが、店内放送で「落ち着いてください」と流れたので、元の客席に戻ってしばらく座っていたが、ものの数分で煙に巻かれたので避難することにした。猛煙のなか、手探りでフロアを進み、男性用トイレと女性用トイレに交互に入って嘔吐したり、ハンカチを水に濡らして口に当てたりした。そして壁伝いにエレベーターホールに出て、なんとかB階段に辿り着き、無事に地上へ脱出できたという。この女性が猛煙と熱気、暗闇の恐怖に晒されながらもB階段を目指せたのは、普段から出退勤時にエレベーターを使わず「健康のために」という理由でB階段を利用していたからであり、事前に持っていた情報が自力脱出の成功に大きな影響を与えた。
- 7階窓から飛び降りて助かった男性客
- 7階東側窓からアーケード屋根に飛び降りて助かった男性1名(客)がいる。なぜ彼は助かったのか。この男性客は、火災覚知の初期に他のプレイタウン関係者同様、エレベーターホールへ行ったり、他の非常口を目指したりしたが、いずれも使えずに避難が不可能だったので、東側窓に移動した。その後の行動を男性は次のように語っている[52][53]。:(略)……最後の逃げ口として窓へ取り付き、ガラスを割ったがものすごい煙と火に攻められた。別の窓から次々に客とホステスが耳をつんざく悲鳴を残しては飛び降りていった。頼みのツナの梯子車は私の窓にはやって来ず、いっしょにいた5、6人は順々に飛び降りた。私は10数年前から趣味でダイビングをしていたので降りる見当はつけやすかった。歩道にある電柱を支えるロープ(アーケード上の補強ワイヤー)をめがけて飛び降りた。ちょうどおなかの部分がロープに当たり、その反動でアーケードの屋根にドスンと降りて助かった。気が付くと腕時計もなく、下着もおなかの部分でちぎれていた。
- また一方で次のように語った[54]。:二回目に、エビ飛び見たいな形で飛び降りた。ゆっくり降りている、という意識があって、うまくいったと思った
- アーケード屋根に張られた2本のワイヤーをめがけて飛び降りた際に、腹がワイヤーに当たって助かったというのである。肋骨骨折、腹部裂傷の重傷を負ったが、19年間続けていた趣味のダイビング経験が活かされ九死に一生を得た形である。だがそれでも飛び降りるのを1度はあきらめ、10分くらいは窓枠にぶら下がって逡巡してから飛び降りたという。もう1名の男性もアーケード屋根に落下して助かった。この男性は、猛煙と熱気から逃れようと窓枠にぶら下がっているうちに力尽きて垂直にアーケードヘ落下してしまった。だが左大腿部骨折と左肘骨折の重傷を負ったものの、運よく一命を取り留めた。
- 救助袋で脱出に成功した女性
- 救助袋の上を馬乗りになって降下して助かったホステスの一人は、そのときの状況を次のように語った[55][53]。:(略)……私は10何人目かに窓わくを乗り越え、布につかまった。下を見てはいけないと考え、両手に満身の力をこめてすべり降りた。私の両手の上に次の男のひとのおしりがのっかり、すべり降りているうち、まさつで手の平が熱くなり、破れて血が出たのがわかった。でも、この手を離したらおしまいだと思って……
- 地上まであと3、4mのところで手を離し落下、両腕と腿の座創、左足首を捻挫した。
- はしご車による救出者
- 消防隊のはしご車による7階からの救出者は、50名(男性47名、女性13名)で、救出された全員が生還できた。7階プレイタウンフロアからの避難路を探す際に、あまり右往左往せず、いち早く外窓に取り付いた者がはしご車に救われた。体力が残っていた者は窓枠を乗り越え、はしごの先端から自力ではしご伝いに降りてきており、主に男性が多かった。消防隊の救助でリフターに乗せられて降下した者は、窓際で失神していたか体力が弱っていた者、女性であった。
- 統率の取れた集団
- バンドマンら10名は、火災覚知の初期段階からバンドリーダーの指示でステージ裏のバンドマン控室に全員が待機していた。ステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント室)は、ベニヤ板で間仕切りされた簡易的な部屋なのであるが、細かく仕切られフロアから隔絶されていたことで煙の汚染が比較的緩かった。だがF階段の電動シャッターを開けたことでプレイタウンフロアに大量の猛煙と有毒ガス、熱気が流入した。それ以降、小部屋にも煙が大量に入るようになっていた。ドアのすき間に布や鼻紙を詰めて侵入する煙を凌ごうとしたが効果がなかった。そこでバンドリーダーは、部屋に普段から置いてあった野球のバットで窓を叩き割り、一緒に避難している仲間たちに順番に外気を吸わせて救助を待った。バンドマン室の窓に阿倍野署はしご車分隊のはしごが伸びてきて救出が始まったのは22時56分である。はしごの先端に付いていた消防ホースノズルが邪魔してはしごと窓枠の間にすき間ができていた。バンドリーダーは自分の体重を掛けてノズルを折り曲げ、すき間を解消した。その直ぐあとに最初の2名がリフターで降下、その後を18名の避難者がはしごを自力で降りていった。
出火原因[編集]
出火原因については、22時27分の火災発生直前まで3階東側の出火推定場所をタバコを吸いながら1人で歩き回っていた工事監督の失火(煙草の不始末)であると推定された。
工事監督の失火が火災原因とする根拠としては以下のことが挙げられる。
- デパートビルの電気系統には漏電などで出火を起こすような原因は確認できない[56]。
- 出火推定時刻に出火場所の3階にいたのは工事監督1名と工事人4名[注釈 5]だけである[57]。
- 出火推定時刻に作業現場を離れて出火場所付近を歩き回っていたのは工事監督1名だけであり、なおかつ工事監督は歩きながらタバコを2本吸い、火が付いたままのマッチをどこかへ捨てたと供述している[58]。
以上の状況証拠によって工事監督は、1972年5月14日23時45分、現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で大阪府警南署に緊急逮捕された[59]。
警察の取り調べに対し工事監督は以下のように供述した[59]。:
工事終了後の予定であった北側の機械室から東側部分を今後の工事を確かめるため見て回ったり、店内を徘徊していたところ、火災現場に至って煙草が吸いたくなりパイプに煙草をさして口にくわえ、マッチで火をつけたが、その火の消えていないままのマッチをそのまま、布団の上に捨てたか、どこかでパイプに差した煙草に火をつけ、火災現場でパイプを吹いて火のついている煙草を布団の上に飛ばした。
大阪府警捜査一課・南署捜査本部は、1972年6月22日10時から火災現場で工事監督の「マッチを布団の上に捨てた」という供述の裏付けを取るため、出火状況を再現する燃焼実験を実施した。その結果、工事監督が布団売場の布団の上に火のついたマッチを捨てたことが火災原因だと断定した[36]。しかしながら大阪地方検察庁は1973年8月10日「供述に一貫性がなく起訴するに足る証拠がない」として工事監督を不起訴処分にしている[59]。また防火管理責任者等に対する刑事裁判の判決文においても「工事監督の行動や供述を証拠上確定させることができない」として公式には火災原因は不明とされた[58]。「工事監督の供述に一貫性がない」とされるが、例えば「火災報知機のボタンを押してすぐに6階へ119番通報のために走った」との供述をしたが、工事監督からの119番通報を大阪市消防局は受信していない[60]。また「6階で119番通報をしたあと、4階へ降りたが煙に巻かれたので再び6階へ上がり、6階の窓を破ってネオン修理用のタラップに飛び移り、2階へ降りて消防隊に救われた」との証言があるものの[38]、その一方で大阪市消防局の質問調書には「工事人らが避難した後を追って1階へ逃げた」とも答えており[60]、不起訴になった理由は一貫性の無さに加えて信用性の無さも影響している。1974年4月15日に開かれた遺族統一訴訟の口頭弁論で工事監督は「出火地点には近づいていないし、タバコやマッチを捨てたこともない。脅されてなぐられたりして早く釈放されたい一心で調書に署名、押印した」などと述べ、一転して全面否認している[59]。
出火場所[編集]
推定出火場所は、南警察署によると「3階東側の柱12号の南西の布団台」付近、また南消防署長の火災原因決定意見書では「店舗Q」および「ニチイ呉服・寝具売り場」付近と推定された[59]。いずれも第一発見者の工事人が目撃した「赤黒い炎と黒煙」が立ち昇っていた3階東側のエリアである。この付近は、コンクリートの柱、梁、スラブ、金属類以外はすべて燃え尽きていたが、柱やスラブの煤けの程度は他の場所に比べて少なかったことが根拠となっている[36]。
火災および被害が拡大した要因[編集]
千日デパートの防火管理上の問題点[編集]
既存不適格の建物[編集]
千日デパートビルは、1932年(昭和7年)に建設された建物に度重なる改修を加えて使用しており、火災当時(1972年)の建築基準に合わない部分がみられ、いわゆる既存不適格の建物であった。また消防法においても1961年(昭和36年)以前に建てられた建築物かつ防火対象物ということで、現行法規に適合させるまでの猶予を与える「不遡及の原則」に従って遡及適用を免れていた。
共同防火意識の欠落[編集]
千日デパートを経営管理する日本ドリーム観光と、プレイタウンを経営管理する千土地観光とは「親会社と子会社」の関係にあたるのであるが、このグループ会社間では共同で消火訓練や避難訓練を実施したことは一度もなかった。また千日デパートとプレイタウンの間で防火管理の責任者同士が火災や災害が発生した時の通報体制、避難誘導などについて協議したことは一度もなかった。また共同で防火管理をおこなうための協議会を設置する考えすらも無かった。この異なる管理権原者同士の共同防火管理意識の無さを象徴する例として挙げられることは、火災発生の10カ月前に千日デパート管理部は6階以下の階すべてに災害時に全館一斉放送ができる防災アンプ(非常放送設備)を設置したが、7階プレイタウンだけには設置されず、そのことをプレイタウンに通知していなかった。さらには7階プレイタウンから1階保安室へ火災を知らせる火災報知機は設置されていたが、保安室からプレイタウンへ連絡する手段は何もなく、同じ建物内に入居していながら保安室とプレイタウン間の連絡は「外線電話」でおこなうしか手段がなかった。
消防査察の指摘を無視[編集]
千日デパート火災発生の1年前、千葉市の田畑百貨店で閉店後の深夜に火災があったことをきっかけに、消防当局は閉店後の防火区画シャッターやエスカレーターの防火シャッターカバーを閉鎖するように指導方針を大きく変更した。それに伴い大阪市消防局は、1971年5月25日と26日に管内の百貨店や商業施設に対して夜間査察を実施した。同時に南消防署も管内の百貨店などに対して特別点検を実施した。大阪市消防局と南消防署は、査察と点検の結果を各百貨店の関係者を集めて報告し、同時に説明会もおこなった。もちろんその中に千日デパートも含まれており、同デパートの管理課長が出席していた。千日デパートについて市消防局と南署が指摘したことは、
- 2階F階段入口の横引きシャッターが故障していて使えない状態であり、閉鎖できるよう修理すること。
- 各フロアの防火区画シャッターのシャッターラインが確保されていない個所があり、改善すること
- 閉店後にフロアの防火区画シャッター、エスカレーター、階段の防火シャッターを閉鎖すること。
消防署の査察の結果を受けてデパート管理課長は、各テナントの協力を得てシャッターラインの確保は実施したが、2階F階段横引きシャッターの修理と閉店後の防火区画シャッターの閉鎖については実行しようとせず、消防署の指導を無視した。実は2階F階段横引きシャッターの故障については、消防署から再三にわたり改善を指導されており、1970年12月にデパート管理課長は南消防署から2階F階段シャッターの故障について指摘されたが、上司に報告するも何も改善されなかった。その後も一切改善も修理もされず、火災発生日を迎えることとなった。防火設備の設置に関して中途半端な対応を見せていた例として挙げられるのは、自動火災報知機(熱式感知器)についてである。一部の階を除いて自動火災報知機は設置されていたのだが、奇しくも火災階である2階から4階にだけは取り付けられていなかった。
脆弱な保安体制[編集]
千日デパートの防火区画シャッターは一部を除き、そのほとんどが手動式で、地下1階から4階までで合計68枚あった。これを限られた人数の保安係員だけで開店時と閉店時に巻き上げたり、降ろしたりするのは労力的に厳しく、実効性は無かった。千日デパート保安係の職務のうちの一つに「店内諸工事等の立会いならびに監視取締り業務」というものがあり、本来ならば店内工事に際して保安係が工事に立ち会う義務があったところ、昭和40年ころから一部を除いて工事に立ち会っていなかった。千日デパート保安係員は、デパート開業当初の1958年当時は、25~26名の人員がいたものの、1967年(昭和42年)に納入業者制を廃止し賃貸契約制に移行したのを機に人員が削減され、火災当時の1972年(昭和47年)においては日勤専従者2名を含む14名で業務を行っていた。また給与面などの待遇はあまり良くなく、退職者が発生しても、その補充が容易にできる状況ではなかった。したがって保安係だけで68枚の防火区画シャッターを開閉することは難しい状況であった。売場の防火区画シャッターを開店時と閉店時に開閉する協力をテナントから得て実施することも困難な状況であった。テナントの一部はデパート管理部長と交渉して天井裏を倉庫として利用したり、1階外周店舗を物置にして、そこからビル内に出入りできるように改造したり、消火栓の位置を変更したりする者もいて、テナントの防火意識は充分ではなかったからである。また各テナントの多くは、デパートビルの防火管理は、デパート管理部が行うべきものと考えていた。デパート側とテナント側、双方の防火意識は希薄だった。
テナントの宿直を認めず[編集]
ニチイ千日前店は、千日デパート管理部との取り決めで、出店している3階と4階のC、E、F階段の出入口にある防火扉と防火シャッターの閉鎖、エスカレーターの防火シャッターカバーの閉鎖は、ニチイが賃貸契約したときにニチイ社員が閉鎖することで双方が合意していた。しかし、売場内の防火区画シャッターの閉鎖については双方の間で取り決めは成されていなかった。千日デパート管理部は、テナントが閉店後の店内で残業する場合は、デパート管理部に届けを出すことを義務付けており、またテナントが宿直することを認めていなかった。ただしニチイ千日前店の残業だけは例外で、残業は届け出無しに23時まで行えた。その後防火シャッターを閉鎖し、電源切、残留者の絞り出しを確認し、従業員通路を施錠をしたうえでデパート管理部に引き継ぐことになっていた。それと7階プレイタウンに関しては管理権原が完全に別なので独自に宿直員を置けた。各テナントが店内の工事をする場合は、デパート管理部の許可を受ける必要があった。デパート管理部はテナントから付加使用料という名目の管理費を毎月徴収していて、それは保安係の給与に充当されていた。テナントの夜間工事に際してテナント従業員の常駐と宿直を認めていなかったということは、千日デパート保安係が工事の立会いと監視を行う義務があったことを意味する。
7階プレイタウンの防火管理上の問題点[編集]
希薄な防火管理者の当事者意識[編集]
7階プレイタウンは、消防法における防火対象物の一つであり、区分は2項・(イ)にあたる。プレイタウンの管理権原者は千土地観光の社長であり、また防火管理者はプレイタウン支配人が選任されていた。支配人は1971年5月頃に防火管理者に選任されたのであるが、通常であれば支配人に就任(1970年9月)したと同時に防火管理者の任にも就くはずであるが、前任者からの引継ぎに9か月間の空白期間があり、防火管理者の変更届がしばらく出されていなかった。
プレイタウンは蚊帳の外[編集]
千日デパートを経営する日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地観光は、親会社と子会社の関係にありながら、親会社が経営管理するビルにテナントとして入店している子会社の店舗が管理外に置かれ、防火管理上も完全に無視され、7階プレイタウンは孤立状態に置かれておいた。そして千日デパートとプレイタウン双方の管理権原者と防火管理者の両者が防火管理や避難誘導について協議したことは無かった。また共同で行うべき消防訓練や避難訓練を行ったことは一度もなく、そもそもビル火災を想定した対策や訓練を実施する発想がまったく無かった。
消防査察、9つの指摘[編集]
プレイタウンは、消防法が定めるところの防火対象物であるので、個別に消防検査を定期的に受け、不備を指摘された場合は改善に取り組まねばならないが、南消防署の検査では、1970年12月から1971年12月までの1年間に4回もの立ち入り検査(防火査察)を受けていた。そのうちの1971年12月8日の検査で9項目の改善指示を勧告され、同月20日の再検査で以下の事項を再び指摘された。
- 1971年(昭和46年)12月8日の検査で「救助袋の破損している個所を早急に補修するか、新品に交換すること」と指摘されたが一向に改善されないので、
- 救助袋の取替えと使用禁止、その旨を貼紙すること。
- B階段出入口前のカーテンを取り除いて非常口であることを明確化すること。
- 屋内避難階段への誘導灯設置
- 非常警備設備の非常電源付置と自動サイレン、放送設備併置の4項目が放置状態である……と指摘された。
- その他の5項目は以下のとおりである。
- 各防火戸にはドアチェックを付けること
- 南側避難用通路の雑品は避難の支障になるので除去すること
- 舞台と休憩室、更衣室での喫煙管理の徹底
- 店内の装飾用品は防火処理を施したものを使用すること
- 修業点検を確実に励行し火災予防に万全を期すこと
支配人は南消防署の検査に2回立ち会っていて、立ち会わなかった検査については、立ち会った社員から報告を受けていた。そして消防署からの指摘された箇所を上司である千土地観光の社長に報告したが、社長は取り合おうとはしなかった。その後、支配人は進言をすることはなかった。
火災が延焼した要因[編集]
2階から4階までのエスカレーター開口部に設置されている防火シャッターカバーおよび3階E階段出入口の防火シャッターが閉店後に閉鎖されておらず、その部分から最初に上下階へ火災が延焼した。4階から5階に通じているエスカレータ開口部の防火シャッターカバーは、火災時には閉鎖されていたのであるが、4階からの火炎を見事に食い止め、5階への延焼を完全に防いでいる。5階から7階までは延焼による被害は殆どなく、煙によって煤を被っただけである。つまり、もしも2階から4階までのエスカレーター開口部と3階E階段の防火シャッターが火災発生時に閉鎖されていたならば、3階から上下階へ火災が延焼した可能性は低くなっていたと考えられ、3階だけの火災に留めて置けたと思われる。また3階でおこなわれていた電気工事の作業現場周辺の防火区画シャッターは工事作業中に閉鎖しておらず、そのことにより火災を限られた区画内に閉じ込めておくことができなかった。このことについても、もし電気工事をするうえで開けておく必要がある防火区画シャッターを除いて、その他の防火区画シャッターを閉鎖しておけば、さらに火災を3階の極狭い範囲に閉じ込めることができたと考えられており、防火区画シャッター閉鎖の必要性と義務は、後の刑事裁判において重要な争点となった。
千日デパートビルは、昭和36年の消防法施行令制定以前の防火対象物ということで「不遡及の原則」に従い、全館のスプリンクラー設置義務から免れており、自動で火災を消火する設備に頼ることが出来なかった。またその他の防火設備、または消火設備に関しても設置義務の適用から免れており、例えば自動火災報知機、煙感知式自動防火シャッター、排煙設備などは設置されておらず、火災拡大の一因となった。
出火元の3階と4階のニチイ千日前店で取り扱っていた主な商品は、可燃性の衣料品や繊維商品であり、それらの商品が大量に陳列されているところへ火災が発生したため、瞬く間に火災は燃え広がり、フロア全体がフラッシュオーバーを起こしたことで爆発的に延焼するに至った。また2階についてもフロア全体に小売店舗が密集して営業し、商品を大量に陳列していたので、延焼拡大を招き易い状態だった。千日デパートは、昭和30年代から40年代の多くの百貨店や商業施設と同じように、外窓をベニヤ板などで遮蔽し、外光を取り入れないようにして壁の一部、またはインテリアデザインとして利用しており、それにより消防隊の消火活動に後れを生じさせたことも火災拡大の一因として挙げられる。
プレイタウンに大量の煙が流入した要因[編集]
まず挙げられるのがプレイタウンが千日デパートビルの最上階である7階に不幸にも位置していたことである。火災で発生した煙は、火災階で高温になると空気よりも軽くなり浮力が発生し、建物内の竪穴に到達したときに煙突効果で急上昇をはじめる。その速さは秒速3~5メートル毎秒にも達し、ビルの最上階から真っ先に溜まっていくのである。このことから7階プレイタウンが猛煙と有毒ガスに襲われたのは必然だった。
プレイタウン専用のA南エレベータは、地下1階と7階を結ぶ直通エレベーターであり、地下1階と7階のエレベーター出入口を除いてエレベーターシャフト内に開口部は存在しない。ところが2階と3階の天井部分に手抜き工事による隙間が残っていて、火災階である2階と3階の隙間から流入した煙が煙突効果により、エレベーターシャフトを通じてプレイタウンへ大量に流れ込む一因となった[26]。地下1階と7階以外にエレベーターの出入口は設けていないので、2階から4階が延焼した火災でA南エレベーターシャフトに煙が流入することは本来はありえないのである。
エレベーターシャフトの「隙間」とはどのようなものだったかのか。A南側エレベーターシャフトの2階と3階部分の北壁は、床スラブと天井梁との間をコンクリートブロックを積み重ねて塞ぐ構造になっているが、床と天井梁までの高さが3.18メートルあるにもかかわらず、床から立ち上がっているコンクリートブロック壁の高さがなぜか2.39メートルしかなく、ブロック壁と天井梁の間に縦79センチメートル、横1.88メートルの隙間が開いていた。またコンクリートブロック壁の南側に厚さ3センチメートルのモルタル壁が天井梁から88センチメートル垂れ下がっていたが、ブロック塀とモルタル壁との間には約33センチメートルの間隔があり、すき間を埋める役目を何も果たしていなかった。普段は床から2.3メートルの高さに貼られたフロア天井板によって件の隙間は隠されていて、誰もその欠陥に気が付くことはなかった。そして火災発生によりフロア天井板が高熱に晒されて崩落したとき、煙が「隙間」からA南エレベーターシャフト内へ大量に流入し、7階へ上昇していったのである。また3階と同様に2階のA南エレベーターシャフトにも同じような欠陥があり、上下に1.1メートル、横方向に1.83メートルの隙間が開いており、モルタル壁の垂れ下がりは1.15メートルあった。しかしブロック壁とモルタル壁との隙間は、わずか4センチで3階ほどに大きくはなかった。一見すると大量の煙がシャフト内に流入するようには見えないが、実は2階のA南エレベーターシャフトには、天井梁から垂れ下がっているモルタル壁そのものに上下約7センチメートル、横方向10センチメートル、さらに縦3~5.5センチメートル、横10センチメートルの「2つの穴」が開いており、その部分から煙を大量にA南エレベーターシャフトへ流入させた。2階と3階の「隙間」から流入した煙は、煙突効果による上昇で7階プレイタウンのエレベーター出入口から秒間25立方メートル、総量4.5トン、3700立方メートルにおよぶ大量の煙をプレイタウンフロアへ噴出させる結果となった。
火災延焼階である3階と4階、さらには6階と7階を竪穴で垂直に繋いでいる事務所前の空調ダクト(リターンダクト)から大量の煙がプレイタウンに流入した。千日デパートでは、自主的に空調ダクト内に防煙ダンパーを3か所設置していたが、それらはいずれも故障していて肝心な本件火災のときに作動せず、ダクト内が閉鎖状態にならなかったのでプレイタウン内で多くの犠牲者を発生させる一因となったのである。ダクトから噴出した煙は、秒間1.7立方メートル、総量3トン、2500立方メートルであった。空調ダクトから噴き出した煙は特に高温であり、プレイタウン事務所前のダクト吸入口すぐ横に6段で積み上げられていたビールケース(ポリエチレン製)の山が、一列すべて溶け落ちるほどの勢いだった。
7階プレイタウンに通じていた4つの階段のうち、E階段の3階部分と、F階段の2階部分の防火シャッターが一部閉鎖されておらず、その部分からE階段とF階段に大量の煙が流入し、7階へ上昇する結果となった。3階E階段の防火シャッターは、高さが2.48メートルあるにもかかわらず、火災発生時に65センチメートルしか降ろされていなかった。2階F階段については、吹き抜け閉鎖用の横引きシャッターは故障しており、南消防署の査察を受けるたびに修理して閉鎖できるように改善を指導されていたにも関わらず、指導を無視し長年放置されていて、火災発生時にも全く改善されていなかった。それらの部分から大量の煙と有毒ガスが7階プレイタウンへ流入したのであるが、避難しようとした従業員によってホステス更衣室に直結したE階段非常口を開けたために大量の煙を更衣室に流入させる結果となった。また屋上へ避難しようとプレイタウン関係者がF階段シャッターを開けたことにより、秒間9立方メートル、総量12トン、9700立方メートルにもおよぶ致命的な量の煙と有毒ガスおよび熱気をプレイタウンフロアに流入させる結果となった。F階段シャッターを開けた直後に停電が発生し、電動シャッターを再び閉鎖することができなくなったことも災いした。
避難路であるはずの階段室は、7階『プレイタウン』に通じる階段が4個所(A、B、E、F階段)存在していたにもかかわらず(『プレイタウン』から物理上行き来できない2個所の階段(C、D階段を除く)、火元の3階と延焼階である2階の防火シャッターの一部が閉鎖されていなかったために各階段に煙が立ちこめ(B階段を除く)、避難階段としては使えず、防火扉2枚で遮蔽されたバルコニー付きの特別避難階段であるB階段(特異火災事例の図面を参照)が、唯一避難に使える階段となっていた。しかしB階段は煙が流入したエレベーターホールに隣接したクロークの裏側にあり、エレベーターホール横のA階段非常口の鍵が保管されていると思われていたクロークから、支配人の指示でボーイがA階段非常口へ避難するために鍵を取り出そうとしたところ、エレベーターホールへ煙が急速に充満してきたため、客や従業員らはホールへ退避した。ただし煙の量は少し呼吸を我慢して煙を潜って通れる程度であったが、南側エレベータードアから噴き出す大量の煙がエレベーターホールに充満していたこともあり、このB階段を使って自力で避難できたのは、クローク係1名とホステス1名のわずか2名にすぎなかった[26]。また前述のエレベーターシャフトによる煙突効果により、営業中の7階キャバレー『プレイタウン』店内にまたたく間に煙が充満。さらにエレベーターが火災による停電で停止[61]。7階全ての照明も消えたため、客や従業員らは暗闇と猛煙のなかで盲目的かつ自主性のない行動に陥っていった。一部の集団は北東側の窓に設置していた救助袋を使って地上への脱出を試みるものの、正しい使用方法が理解されず、やむなく救助袋の外側にしがみついて降りようとしたが、あえなく地上に墜落し、あるいは客やホステスの中には窓ガラスを割り、22m下の地面またはデパート東側の千日前商店街アーケードの屋根へ目掛けて飛び降りた者もいた。結果、窓からの飛び降りや救助袋からの落下による30名のうち22名が全身挫傷や頭蓋骨骨折などで死亡し、人的被害を拡大させる一因となった。7階から脱出できず、救助もされなかった客や従業員は一酸化炭素中毒や胸部・腹部圧迫により窒息死し、96名全員が7階フロアで折り重なるように倒れて死亡した。7階で死亡した人のなかには、窓枠にしがみつき半身を外に乗り出した状態で絶命していた人もいた。また非常誘導路上に間仕切りが施され、事実上誘導路が消失していたこと[要検証]等、雑居ビルの欠陥を露呈させる事件となった。
火災の教訓とその後の対策[編集]
千日デパート火災の余波[編集]
- 千日デパート火災を受けて消防庁は、火災から2日後の1972年(昭和47年)5月15日に全国の都道府県に対し、危険性のあるビルの総点検を早急に行うよう通達した。特に対象とされたのが、劇場、キャバレー、百貨店などビルの高い階に不特定対多数の人々を収容する用途に供される防火対象物で、また商店、事務所、飲食店などが一つの建物に入居している「雑居ビル」については、避難体制、通報体制、防火消火設備の機能性について重点的に調べることにした[62][63]。
- 消防庁からの緊急通達を受けて大阪市消防局は、1972年(昭和47年)5月15日から1週間かけて大阪市内の「要注意ビル277個所」に対し、総点検を実施した。総点検の結果、277個所のうち、235個所のビルが「防火管理不適当」と判定された。誘導灯の設置が不適当と判定されたビルは171個所、誘導灯の維持管理が不適当だとの判定は163個所、非常警報設備の設置および維持に対して改善を指示されたビルは140個所に及んだ。さらに通路および階段に雑品を置いていたために改善を指示されたビルは140個所、消防訓練実施の改善指示が145個所、避難器具の故障や破損の改善指示が121個所に及んだ。営業しながら改装工事を行っていたビル24個所に対しては防火安全性の確保を指示した。総点検の結果は避難関連指示の件数は合計1014件だった。翌月の6月3日の時点で指示された事項が改善されていないとして、消防法の規定に基づき改善命令が出されたビルは193件、防火管理面の改善指示が340件、警報関連の改善指示が507件、改善命令が74件だった[64]。
- 東京消防庁においても消防庁からの緊急通達に基づき、1972年(昭和47年)5月15日夜に都内の雑居ビル1980個所のうち、代表的な7か所の盛り場について抜き打ちで査察した。その結果は、救助袋の破損があったり、従業員が救助袋の正しい使い方を知らなかったりと、「プレイタウン」と全く同じ状況がみられた。またビル外壁の垂れ幕が救助袋の窓を塞いでいたり、救助袋の収納方法が間違っていたり、避難階段や避難通路が物置状態になっていた店もあった。そもそも救助袋の存在自体を知らない従業員がいるなど、火災時の避難に対する無関心さが浮き彫りになった[65][66]。その後、東京消防庁管内の各消防署が1972年(昭和47年)6月10日までの間に雑居ビルや百貨店を中心に火災時の避難と安全性および防火管理について査察を行った。査察の対象は、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、飲食店などの不特定多数を収容する4階建て以上の1442個所のビルで、消防法における特定防火対象物である。査察の結果は、査察対象の90%が欠陥ビルと判定され、AからDまでの4ランクに分けた判定では、安全性の高いAランク判定がわずか7%という結果となった[64]。
- 1972年(昭和47年)5月16日、第68回国会・参議院地方行政委員会会議において「千日デパート火災に関する件」が「地方行政改革に関する調査」の議題として取り上げられた。火災の教訓として「避難誘導の周知徹底、避難訓練の実施」「複合用途ビルの共同防火管理体制の強化」「避難路を煙から守るための措置」が重要であるとして、建設省や自治省、消防庁などの関係各所が今後の対策に万全を期すことを確認した。また建築基準法や消防法の「既存不適格建物」および「法律不遡及の原則」の問題についても議論された。そのほかにホステスの労災について、はしご車を中心とした消防救助設備について、そしてなぜ火災で燃えていない7階で多くの犠牲者が出たのか、なぜ適切な避難誘導がなされなかったのか、それらについて午前の時間を目一杯使って集中議論された。また衆議院地方行政委員会においても午前および午後の会議で千日デパート火災が議題として取り上げられた。会議の内容は参議院地方行政委員会とほぼ同じであるが、プレイタウンの防火管理者(支配人)について、ある委員は「(プレイタウンで)一番の責任者が救助袋の入口を開け、非常口の鍵を開けるべき人が、一番先に逃げて助かっていて、117名が死亡しているのはどういうことなのか。あとに残された者は何もしようがない」と政府委員に質問した。さらには同日開かれた衆議院建設委員会においても議題として千日デパート火災が取り上げられた。
- 1972年(昭和47年)5月17日夜、渡海自治大臣が消防庁幹部らを伴い、東京都内の地下街や盛り場、屋上ビアガーデンなどを安全パトロールした。地下街については排煙設備、緊急通報体制、防火区画など、最新の設備が整っていて自治大臣も満足したのだが、その後に訪れたキャバレーと屋上ビアガーデンの避難設備があまりにもお粗末で機嫌が悪くなった。6階のキャバレーからエレベータ室を改造した避難ハシゴで屋上に出て、隣のビルの7階に移動するというが、隣のビルの窓が避難ハシゴの代用であり、その窓は普段から鍵が掛かっているところを非常時にボーイがハンマーで叩き割るのが手順……。この実態に渡海自治大臣は「これじゃあ安心して酒も飲めないじゃないか」と呆れかえったという[67][68]。
- 1972年(昭和47年)5月18日、東京・五反田で全国消防長総会が開かれ、至急取り組むべき問題は、高層ビルと地下街においては業種別の用途制限をおこない、可燃物の量を階ごとに制限する、内装に不燃物の使用を義務付ける、非常扉は災害発生時に自動で閉まる装置を取り付けるなどの緊急決議をおこない、法改正を国に働きかけることになった[69][70]。
- 1972年(昭和47年)5月19日、永田町の衆議院第二議員会館で消防演習および避難訓練が実施された。「会館7階で出火、館内に煙が充満、逃げ遅れ多数」という想定で実施された。避難訓練については、特に救助袋を使った避難に重点が置かれた。小渕恵三議員(のちの官房長官、首相)も救助袋の中に入って避難を体験した[71][72][73]。
- 1972年(昭和47年)5月22日、近畿管区行政監察局は、千日デパート火災における行政の運用面を調べた報告を行政管理庁におこなった。その結果、建築基準法、消防法、労働基準法や防災行政に多くの疑問点があることがわかったことから、翌月中旬から全国15都道府県の大都市で行政監察を始めることになった。対象とされたのは地下街、旅館の防災体制全般であった[74][75]。
- 1972年(昭和47年)6月2日、消防庁は消防審議会に対して千日デパート火災を教訓にした新しい検討事項を提出し了承された。消防法に基づき防火管理体制や消防用設備の基準を強化する目的で、防火対象物の管理権原を持つ者の責務、防火管理者の責務、消防計画の提出、避難訓練の届出について具体的な項目が盛り込まれた。また防火管理と消防用設備面で広い範囲にわたって施設側に義務を課す項目が数多く並んでいた。これらの検討項目は審議を経て、消防法と建築基準法の施行令改正の形となって具体化することとなった[64]。
刑事訴訟[編集]
この火災に関して、日本ドリーム観光・千日デパート管理部の管理部次長と管理部管理課長の2名および『プレイタウン』を経営する千土地観光の代表取締役とプレイタウン支配人2名の計4名が、業務上過失致死傷罪で起訴された。このうち千日デパート管理部次長については第一審係属中に死亡したため公訴棄却となったが、残り3被告について第一審(大阪地裁昭和59年5月16日判決)は、3被告全員に無罪を言い渡した。しかし、控訴審(大阪高裁昭和62年9月28日判決)では一転して全員が有罪とされ、上告審においても結論は変わらず(最高裁平成2年11月29日決定)、千日デパート管理部管理課長に禁錮2年6月・執行猶予3年、千土地観光の2被告は禁錮1年6月・執行猶予2年の有罪判決が確定した。
民事訴訟[編集]
千日デパートは火災翌日の5月14日から閉鎖された。デパートの営業再開を急ぎたい日本ドリーム観光は、大阪市建築局の指示に従い、建設省建築研究所に建物の体力診断を依頼した。診断の結果、建物は地震に耐えられる強度がなく、柱などを補強する必要があるというものだった。その結果を受けて日本ドリーム観光は、補強により売場面積が縮小すること、補強費用の負担は新築するのと変わりがない、という理由で千日デパートビルの取り壊しと新しい商業ビルの建設を急ぐためにテナントは強制退去の対象とされた。しかし、これに対し千日デパート再興を願う専門店街側が中坊公平を団長とする訴訟団を結成した上で日本ドリーム観光を相手に訴訟を起こし、新歌舞伎座の前でむしろ旗を掲げて抗議する騒ぎとなった[76]。
千日デパート火災を扱ったテレビ番組[編集]
2015年7月9日には、フジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』で、この事件が再現ドラマや生存者へのインタビューを交えながら詳細に紹介された[26]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ビルに限定しないと1943年に、北海道にあった布袋座でおこった火災で208人が死亡している。
- ^ 事件名、公文書、学術書、出版物においては「千日デパートビル火災」と呼ぶのが一般的である。
- ^ a b 素人の女性がアルバイト感覚で客を接待する酒場のこと。現在のキャバクラに近い。昭和40年代に主に関西で流行った。別名アルサロとも呼ばれる。
- ^ 1972年5月の火災発生当時において16項は(イ)と(ロ)に区分されていなかった。区分されたのは1972年12月の消防法施行令の改正からである
- ^ a b 電気工事関係者は合計6名であるが、このとき作業者の一人は駐車場へ車を取りに行っていて、デパートビルの中にいなかった
- ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に南署を廃止し、浪速署を発足させた。
- ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に東署を中央署に改めた。
- ^ a b c 現中央署管内
- ^ a b c 現浪速本署
- ^ a b c 現浪速署管内
- ^ 現中央本署
- ^ 7階エレベーターホールにいたホステス1名だけとする資料もある。男性客1名とホステス1名の計2名については、A南エレベーターで7階へ昇って来たときに、ちょうど煙が7階エレベーターホールに充満しているのを目の当たりにし、慌てて向かい側のA北東エレベーターに飛び乗り、地下1階へ避難したもので、その2名をプレイタウン滞在者にカウントするかしないかは意見が分かれるところである
出典[編集]
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- ^ “大阪市市民の方へ 5月の教訓 【1972年(昭和47年)】”. 大阪市. 2014年12月17日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年5月9日閲覧。
- ^ “北九州 422回 「絶対あきらめない」谷澤忠彦弁護士”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2008年7月10日) 2014年12月18日閲覧。
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- ^ 「大阪市中央区わがまちガイドナビvol.9&vol.10」を発行しました!“大衆のまちミナミと粋のまち道頓堀〜大衆を育み大衆に愛された千日前、難波と粋のまち道頓堀のミナミの文化とは(裏面) (PDF)”. 未来わがまちビジョン(区民協働による魅力発掘). 大阪市 (2013年3月26日). 2014年12月18日閲覧。
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- ^ a b c d e 室崎 1981, p. 60.
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- ^ 特異火災事例にあるエレベーターで脱出した1名は7Fのエレベーターホールに漂う煙(前述)で火災を認知し、被害が拡大する前に既に引き返していた(災害対応研究会ニュースレター第11号 2003年1月より)。
- ^ 『朝日新聞』1972年5月14日 朝刊3面
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- ^ 『朝日新聞・縮刷版』1972年5月 p.570
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- ^ 『朝日新聞』1972年5月23日 朝刊3面
- ^ 『朝日新聞・縮刷版』1972年5月 p.689
- ^ 中坊公平、松和会、2006、『現場に神宿る 千日デパートビル火災/被災テナントの闘い』、現代人文社
参考文献[編集]
- 岸本洋平 『煙に斃れた118人 - 千日デパートビル大惨事から30年』 近代消防社、2002年。ISBN 978-4421006643。
- 塚本孝一 『予防時報』90巻 社団法人・日本損害保険協会、1972年7月1日。
- 中坊公平+松和会 『現場に神宿る・千日デパートビル火災/被災テナントの闘い』 現代人文社、2006年。ISBN 978-4877982928。
- 村上處直 『都市防災計画論 - 時・空概念からみた都市論』 同文書院、1986年。3051-461201-5259。
- 室崎益輝、日本科学者会議編、 『ビル火災』 大月書店、1982年。ASIN:B000J7KMUC。
- 室崎益輝、大阪都市環境会議編、 『危険都市の証言』 関西市民書房、1981年。ISBN 978-4906120055。
関連項目[編集]
- 火災の年表
- ホテルニュージャパン火災 - 1982年2月8日に東京都千代田区のホテルニュージャパンで発生した火災。本件同様、杜撰な防火管理体制と火災被害が拡大しやすい建物の欠陥施工により死者33名・負傷者34名を出す大惨事となった。
- フラッシュオーバー - 本件火災において発生した火災現象(失敗知識データベース 失敗事例 > 大阪千日デパートビル火災 2015年11月27日閲覧)。
- エスカールなんば - 火災のあった当地に現在建っているビル。
外部リンク[編集]
- 特異火災事例・千日デパート (PDF) - 消防防災博物館
- 大阪千日デパートビル火災 - 失敗知識データベース
- 死者多数を出したビル火災 - 救急・災害医療ホームページ 災害医学・抄読会
- 今月の災害・事故 - 1972年5月 - ウェイバックマシン(2013年6月13日アーカイブ分) - 西日本新聞
