千日デパート火災

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千日デパート火災
Sennichi Department Store Building aerial photograph.jpg
火災焼失後の千日デパートビル(1975年3月4日撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
現場 大阪府大阪市南区難波新地三番町1番地および四番町1番地[1][2][注釈 1]
発生日 1972年(昭和47年)5月13日[3]
22時27分(大阪市消防局推定)[4] (JST)
類焼面積 8763 m2[5]
原因 不明(大阪地方裁判所および大阪高等裁判所判断)[6][7][注釈 2][注釈 3]
死者 118人[8][9][10][11]
負傷者 81人[10][注釈 4]
最高裁判所判例
事件名 業務上過失致死傷事件
事件番号 昭和62(あ)1480
1990年(平成2年)11月29日
判例集 刑集第44巻8号871頁
裁判要旨
  • デパート閉店後に電気工事が行われていたデパートビルの3階から火災が発生し、それによる大量の煙が7階で営業中のキャバレー(アルバイトサロン[注釈 5])の店内に流入したことにより、多数の死傷者が生じた火災において、デパートの管理課長には防火管理者として、3階の防火区画シャッター等を可能な範囲で閉鎖し、保安係員等を工事に立ちあわせ、出火が発生した際には、すぐさまキャバレー側に火災発生を連絡させる等の体制を採るべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーの支配人には、防火管理者として階下において火災が発生した際に適切に客等を避難誘導できるように普段から避難誘導訓練を実施しておくべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーを経営する会社の代表取締役には、管理権原者として、防火管理者が防火管理業務を適切に実施しているかどうかを具体的に監督すべき注意義務を怠った過失がある[12]
  • それぞれ業務上過失致死傷罪が成立する[13][14]
第一小法廷
裁判長 大堀誠一[15]
陪席裁判官 角田禮次郎[15]大内恒夫[15]四ッ谷巌[15]橋元四郎平[15]
意見
多数意見 全員一致[15]
意見 なし[15]
反対意見 なし[15]
参照法条
刑法211条
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千日デパート跡地に建設されたエスカールなんばビル

千日デパート火災(せんにちデパートかさい)は、1972年(昭和47年)5月13日[3]大阪府大阪市南区(現・中央区千日前[16]千日デパート日本ドリーム観光経営、鉄骨鉄筋コンクリート造、延床面積2万7,514.64平方メートル、地下1階、地上7階建て、屋上塔屋3階建て[16])で起きたビル火災である[17]。死者118名・負傷者81名[8][9][10][11][18][19]にのぼる日本のビル火災史上最悪の大惨事となった[注釈 6]。「千日デパートビル火災[注釈 7]という呼称も使われる[20]。また、地名から「千日前ビル火災」とも呼ばれた[21]

目次

概要[編集]

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパートの閉店時刻21時から1時間半ほど経った22時27分ごろ[4]、同デパート3階ニチイ千日前店の北東側の布団売場付近より出火[17][22][23]。火は防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段出入口から上下階に燃え広がり、フラッシュオーバーを起こしながら2階から4階までの範囲に延焼した[17][24]。一方、火災で燃焼した建材や内装材、化繊商品から発生した一酸化炭素と有毒ガスを含んだ多量の煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へ上昇し[25][26]、7階で営業していたアルバイトサロン[注釈 5]「チャイナサロン・プレイタウン(千土地観光経営)」に流れ込んだ[27][28]。同店内に滞在していた181人[注釈 8]の客やホステス、従業員らは、火災の通報を受けられずに逃げ遅れ、煙に巻かれて7階に取り残された[29]。その結果、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、救助袋の誤った使用方法によって脱出途中に地上へ落下するなどして死者118名、負傷者81名(プレイタウン関係者47名、消防士27名、警察官6名、通行人1名)を出す惨事となった[8][29][30]

7階からの生還者は、消防隊のはしご車やサルベージシート(救助幕)で救助された者が53名(はしご車50名、サルベージシート3名)[31][32]、階段またはエレベーターを使用するなどして自力で7階から脱出した者が8名(救助袋の上を馬乗りになって降下して助かった5名を含む)[29][32]、7階窓からデパート東側の商店街アーケード屋根へ飛び降りて助かった者が2名の合計63名である[32]。大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(救急車12台を含む)を消火作業に投入[5][33]。はしご車は、管内保有の7台が出場した[5][34]。消火作業にあたった消防士は596名にのぼった[5]。火災は翌朝14日5時43分に鎮圧[5]。そして火災発生から9時間14分後の同日7時41分に鎮火したといったんは発表された。しかし、15日深夜に6階で再び小火が発生したことから消火および防御活動が再開されたため、最終的に鎮火が確認されたのは15日17時30分であった。延焼範囲は2階から4階までで、床面積合計8,763平方メートルが焼失した[5]

火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されたことから[35][36]、火災発生翌日の14日夜、電気工事監督の男が現住建造物重過失失火などの容疑で大阪府警に逮捕された[37]。しかしながら、失火の明確な証拠はなく、火災発生時の容疑者の行動が特定できないことや、警察での取り調べに対して供述を二転三転させるなど信用性が疑われたために、電気工事監督の男は不起訴処分となった[38]。のちの防火責任者などに対する刑事裁判の判決理由において、出火原因は不明とされた[7][6]。また日本ドリーム観光・千日デパート管理部の管理部次長と同管理課長[39]、プレイタウンの支配人[39]、プレイタウンの経営会社代表取締役[39]の計4名が防火管理責任と注意義務を怠ったとして業務上過失致死傷罪で起訴された[37]。公判中に死亡したデパート管理部次長(公訴棄却)を除く3名の被告が、それぞれ一審で無罪となった[40]。その後、検察側が控訴し、控訴審で原判決破棄により有罪となり[41]、上告棄却で3名の有罪が確定した[42]

本件火災の犠牲者遺族会および千日デパートに入店していたテナント業者団体によって、日本ドリーム観光やニチイなどに対して損害賠償訴訟が提起された[43][44]。また日本ドリーム観光とニチイの双方間でも損害賠償訴訟が起こった(提訴と反訴。最終的に双方の間で和解が成立)[45]。遺族会は、日本ドリーム観光などの被告4社が91遺族に対して総額18億5,000万円の賠償金を支払うことで合意したことを受け、和解に応じた[46]。テナント訴訟は、テナント側が日本ドリーム観光に対して保安管理契約の不履行による損害、休業損失とその補償、商品や資産損失に対する賠償、火災以前と同じ条件で再出店できる保証を求めて争った[47]。その結果、中間判決を経て、求めていた賠償金と保証が一部を除いて認められ[47][48]、新ビルオープンの際には以前と同じ条件で再出店できる保証を日本ドリーム観光に認めさせ、双方の間で即決和解が成立した[49]。テナント側とニチイ間の損害賠償訴訟も双方が和解し、ニチイがテナント側に慰謝料を支払うことで決着した[50]

千日デパートビルは、大阪で有数の高地価な千日前交差点の角地にあり[16][51]、家主の日本ドリーム観光は、この地価に見合う賃料収入を確保すべく、多くのテナントを入店させていた[52]。この結果、全館の防火管理責任体制が不明確となっていた。また日本ドリーム観光は、各テナントから付加使用料名目の共同管理費を徴収し[53]、原則として夜間の宿直を認めなかった[54]。これは同社(日本ドリーム観光・千日デパート管理部)が夜間の保安管理を一括して行うことを意味したが[55]、結局その防火管理体制に手抜かりがあり、火災発見から消防署への通報までは約6分(外部リンク欄の「特異火災事例・千日デパート」参照)と比較的速やかに行われたものの[24]、7階プレイタウンには火災発生の通報と情報がまったく伝わっていなかった[23][34]。その結果、プレイタウン滞在者らの避難行動に大幅な遅れを生じさせ、多数の死傷者を出すに至った[8]。また千日デパートと7階プレイタウンの間で非常時の避難計画を話し合う連絡協議会の設置を行ったことはなく[56]、共同で避難訓練を実施したこともなかった[56]。さらには非常時の連絡体制すら話し合っていなかった[56][57]。千日デパートの防火管理責任組織および自衛消防隊組織に7階プレイタウンを含めておらず、共同防火管理や共同避難の意識は完全に欠落していた[57][58]。7階プレイタウンについては、火災時に防火管理責任者または従業員らによる避難誘導らしきものはほとんど行われなかった[59]。平素からの避難計画や避難訓練はおざなりで、防火管理責任者(支配人)が下層階で火災が発生した場合を想定して避難経路をあらかじめ決めておくこともしていなかった[23]

さらに千日デパートビル自体は、1932年(昭和7年)に劇場として竣工した大阪歌舞伎座を1958年(昭和33年)に大改装し、商業施設に用途変更した古い建物であるが[16]、1950年(昭和25年)制定の建築基準法の基準に従い、法律の遡及適用の対象になったことから改築の際に法令の基準を満たす改良が施された[60][注釈 9]。それにより1958年開業当初の千日デパートビルは、建築基準法令に適合していた建物であったが[60][61][注釈 9]、法律の改正が第二次(1959年4月)から第四次(1963年7月)へと段階的に実施されていくたびに既存不適格な部分が増えていった[62]。さらに、1970年(昭和45年)6月の建築基準法改正(第五次改正)および同年12月の建築基準法施行令の一部改正によって、従来よりも既存不適格な状態が多く生じることになった[62]。また消防法および消防法施行令においても既存不適格な状態を多く抱えていた[62]。それらの結果、売場内の防火区画シャッターは自動で作動するものではなく[61]、火元の3階で保安係員が防火区画シャッターを手動で降下できなかったことや[63]スプリンクラー設備が未設置であったことで[64]、火災被害が拡大する要因となった。この事件と翌年起きた大洋デパート火災の出火建物が建築基準法と消防関連法規に対し既存不適格であったことにより、建築基準法および消防法、消防法施行令、消防法施行規則の大幅な改正が行われる契機となった[65][66]

冒頭で千日デパートおよび千日デパートビルと、火災によって多くの犠牲者を出した7階プレイタウンについて説明する。

千日デパートについて[編集]

千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に大阪ミナミの繁華街千日前の千日前交差点・南西角に建っていた初代大阪歌舞伎座を改築し、新装開業した複合商業施設である[16]。経営者は日本ドリーム観光(1958年12月当時の社名は千土地興行。1963年に改称)で[16]、個人店舗が数多く出店して専門店街を形成し、そのほかに劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊技場、キャバレーなどがテナントとして入居していた[16]。なおデパートと名乗っているが、旧百貨店法の百貨店業を営む者または百貨店業者には該当しない[16][67]。火災焼失の1972年(昭和47年)5月14日から全館休業状態になった[68]。その後、一度も営業を再開することなく、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり[69]、千日デパートは、13年5か月あまりの歴史に幕を降ろすこととなった[69]

千日デパートの開業[編集]

1954年(昭和29年)に千土地興行(日本ドリーム観光の前身)の社長に就任した松尾國三は、その当時において不採算に陥っていた大阪歌舞伎座大阪楽天地[70]の跡地に1932年(昭和7年)9月28日竣工)を閉鎖して新たに新歌舞伎座を難波駅近くの難波新地5番町に建設し[71]、空いた旧大阪歌舞伎座の建物を改造して商業施設に改装する構想を立てた[71]アシベ名店街の成功によって自信を持った松尾は、新装開業させる商業施設を心斎橋の既存百貨店に匹敵する小売店舗の集合ビルにするべく計画をスタートさせた[71]。新しい商業施設は、新歌舞伎座開業予定の1958年(昭和33年)10月に続き、同年12月の開業を目指すこととなった[71]。これが千日デパート誕生のきっかけである。開業前は日本初の大規模ショッピングセンターと銘打ち[72]、当初テナントから賃料と保証金および付加使用料(共同管理費)を徴収する賃貸方式で経営を予定していたため、小売店舗の集合ビルという意味で千日センターと呼ばれるはずだった[73]。ところがテナントの募集に対して応募が低調だったことから、商業施設側が売場を直接経営し、入店するテナントに売場の営業権を与え、商品を納入させて売り上げ金の一定割合をテナントから徴収する納入方式に変更することにした[74]。このことにより千日デパートへ名称を変更して営業する運びとなった[74]。1958年12月の開業当初より千日デパート管理株式会社が営業と管理を担当。1964年(昭和39年)5月以降は日本ドリーム観光の本社組織内に千日デパート管理部を創設し、以降の経営を担っていた。地下1階から地上5階までを商業施設、6階を演芸場千日劇場と食堂、7階を大食堂、屋上は遊戯施設としていた[要出典]。営業時間は10時から22時までだった[75]。千日デパートは『まいにちせんにち、千日デパート』のコマーシャルソングで知られ[要出典]、また屋上に1960年(昭和35年)から設置された観覧車は大阪の名物となっていた。ビル正面には丸にS(Sen-nichiから)の緑色のマークが掲げられ、千日デパートのシンボルとなっていた[76]

ニチイ入店[編集]

千日デパートは、日本初の大型ショッピングセンターとして話題を呼び[77]、開店当初は売り上げが好調だった。年中無休で元日から営業するなど買物客から人気を集めた[77]。だが、しばらくすると開店景気も落ち、全体の売り上げは下降線をたどった[77]。そこへ1967年(昭和42年)3月、大手衣料品スーパーニチイ[注釈 10]が4階にテナントとして出店することになった[77]。開業以来、初の大型テナントの入店である。これを機会にニチイ入店の3か月前、すべてのテナントに対する契約が納入方式から賃貸方式に変更された[78]。既存の4階各テナントは、賃料と保証金および付加使用料の新たな支払い契約に応じず、4階フロアから撤退し、4階売場のすべてをニチイが独占してニチイ千日前店として営業を始めた[78]。その後ニチイは、同年10月に3階にも出店し大成功を収め、その売り上げは全国のニチイの中で一番になり、千日デパート全体の売り上げも上昇した[77]。なお、3階既存テナントの一部は、開業当初からの賃貸契約業者だったためにデパート側からの立ち退き要請に応じず裁判となったが、のちに和解が成立。立ち退かずに引き続き同じ場所での営業が認められた[79]

火災発生当日の千日デパート[編集]

1972年(昭和47年)5月13日の火災発生当日における千日デパートのおもな営業形態は、地下1階は食品館、飲食店、直営催事場(人形館)、お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた「サタン」(千土地観光経営)[要出典]、1階と2階は126店舗が出店する専門店街[80]、3階と4階はニチイ千日前店[80]、5階は千日デパート直営の100円・200円均一スーパー[81]、6階は遊技場千日劇場跡)[80]、7階はアルバイトサロン[注釈 5]プレイタウン(千土地観光経営)[80]、屋上は遊園地であった[81]。ビルには雑多なテナントが入居し、同じ商業施設内でも各売場ごとに営業者が異なる雑居ビル寄合百貨店)となっていた[82][83]。この出店営業スタイルは、1958年に開業して以来、変わらずに続いていたものであり、1967年(昭和42年)9月に貸店舗として火災当日の使用状態において建築確認を済ませていた[62]。営業時間は10時から21時まで[84]。7階「プレイタウン」と地下1階の一部飲食店は、デパート閉店以降も23時まで営業していた。定休日は水曜日[84]。7階「プレイタウン」は年中無休である[85]。火災発生当日の1972年(昭和47年)5月13日は母の日の前日ということで、デパート正面にはニチイ千日前店の「母の日」商戦宣伝用の垂れ幕「5月14日は母の日です」と「お母様に感謝のプレゼント」が1本ずつ掲げられていた[86]。ほかに「竹雀の帯・和装品2階」と「南太平洋博・奈良ドリームランド」の宣伝用垂れ幕も掲げられていた[86]。館内のイベントとしては、地下1階催事場で「恐怖の地下室」というスリラー人形展(お化け屋敷)が開催されていた[86]。また5階・直営均一スーパーでは、化粧品メーカーの「100円均一フェア」が開催されており、「スリラー人形展」と同じく正面入口上部に宣伝用の看板が掲げられていた[86]

千日デパートビルについて[編集]

千日デパートビルは、鉄骨鉄筋コンクリート屋根構造、地下1階を含む地上7階建てで、屋上に塔屋3階建てを備えていた[87]。建物の所有者は日本ドリーム観光である。床面積は3,796.64平方メートル[81]、延床面積は2万7,514.65平方メートルである[87]。ビルの高さは、地上(GL)から屋上フロア側壁上端までが30.1メートル[88]、屋上塔屋3階までを含めると40.3メートルである[88]。5階から屋上までのビル中央部から西側にかけてのフロアは、その大部分が劇場のエリアで[89]、そのエリアの6階と7階部分は、舞台と客席につき吹き抜け構造になっていた[88]。また劇場エリアの5階部分は客席の床下[88]、屋上は舞台と客席の屋根の部分であった[88][90]。ビルの2階から6階までの北西フロアは、D階段とE階段の間に囲まれたL字型のエリアが中二階構造になっており、独立した別フロアを形成していた[91]。本ビルは、火災発生当時(1972年5月)における消防法施行令防火対象物区分では特定防火対象物4項に分類されていた[注釈 11][注釈 12][92]。火災焼失後は約8年の期間、営業再開もされずに外壁には金網が張りめぐらされ野晒し状態のまま放置されていたが[93]、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり、翌2月から解体工事が始まった[69]。翌年4月には解体工事が完了し、千日デパートビルは消滅した。1982年(昭和57年)6月20日、跡地に日本ドリーム観光が新たにエスカールビル(地下2階、地上9階建)を建設する運びとなり、その起工式が執り行われた[94]。そして1984年(昭和59年)1月13日に新しいビルはオープンし、その翌日にプランタンなんばの営業が始まった[95]

千日デパートビルのフロア構成[編集]

火災発生当時のフロア構成を以下にまとめた。

火災発生当時・1972年(昭和47年)5月の千日デパートフロア構成[83][96]
フロア 床面積(m2) テナント・設備など
塔屋3階 134.00 企業事務所 電気室 クーリングタワーなど
塔屋2階 156.00 企業事務所 エレベーター機械室など
塔屋1階 200.00 売店 園芸店 ペットショップなど計5店舗
屋上 1,290.00 屋上遊園地など
7階 1,780.00 プレイタウン 空き事務所(元メキシコ領事館) 文書保管庫 空調機械室など
6階 3,350.00 遊技場(ゲームセンター) 千土地観光事務所 千日劇場跡(ボウリング場へ改装中) 従業員食堂など
5階 2,049.00 直営均一スーパー(9店舗) 美容室 ニチイ事務所 ニチイ店員食堂など
4階 3,520.00 ニチイ千日前店 ニチイ事務所 ニチイ商品倉庫 電話交換室 空調機械室など
3階 3,665.00 ニチイ千日前店 店舗(4店舗) ニチイ従業員更衣室 ニチイ寝具呉服倉庫 歯科医院 空調機械室など
2階 3,714.00 店舗(44店舗) 千日デパート事務所 店舗事務所 テナント店員更衣室など
1階 3,796.64 店舗(63店舗) 外周店舗(19店舗)出入口(7か所) 保安室 商品荷捌き場など
地下1階 3,860.00 ニチイ地下食品街 食料品店・飲食店(25店舗) 直営催事場(人形館) 出入口(1か所) 電気室 機械室 重油タンクなど

特筆すべき点は以下のとおりである。

  • 7階プレイタウンを含む各テナントは、千日デパートからフロアを賃借して賃料と保証金を納めて営業していた「賃貸業者」であるが、地下1階の人形館と5階均一スーパーは千日デパートの直営である[87]
  • 千日デパートの管理権原者は、同デパートの店長である[97]。店長は日本ドリーム観光本社の常務取締役の地位にあり、本社総務部長、本社営業企画課長も兼務していた[97]。普段は本社で勤務しており、千日デパート館内に置かれたデパート管理部には週1回程度、短時間顔を出す程度だった[97]。実質的に千日デパートビルの維持管理を統括し、防火管理や設備維持などの業務を担当していたのはデパート管理部次長である[98]。また同デパートビルの防火管理者に選任されていたのはデパート管理部管理課長である[99]。同管理課長は、1967年(昭和42年)3月1日から1968年(昭和43年)10月ごろまでと、1969年(昭和44年)4月30日から本件火災当日まで防火管理者の地位に就き、店長および管理部次長の指揮監督を受け、同ビルの防火管理にあたっていた[97]
  • 千日デパートでは、大阪市消防局南消防署提出の消防計画書に記載されている防火管理責任組織表に従い、防火管理者を7階を除く各階売場の27管理区域に置き、各設備を9つに区分して防火管理を行うことになっていた[100]。また千日デパートの防火管理規定では、デパートビルに出入りする業者にも当該規定を適用することになっていた[57]
  • 7階プレイタウンは、千日デパートのオーナー会社である日本ドリーム観光が全額出資(資本金100万円)して設立した千土地観光が経営するアルバイトサロンである[注釈 5][1]。千土地観光は、日本ドリーム観光の風俗営業部門の経営を担っていた[1]。プレイタウンは、千土地観光が経営する風俗店10店舗のうちのひとつであり、親会社(日本ドリーム観光)が経営する千日デパートビルの7階フロアの一部を賃借して営業していた[1]。またそれらの10店舗は、すべて親会社の日本ドリーム観光の資産であり、子会社の千土地観光が各店舗を親会社から賃借して営業していた[1]。つまり7階プレイタウンは、千日デパートにとって「身内のテナント」であるわけだが、なぜかプレイタウンは千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織からは切り離されており、それらの組織表には組み込まれていなかった[注釈 13][57][58]。千日デパートの防火管理上において7階プレイタウンは、テナントのひとつであるにもかかわらず放置されたも同然の状態に置かれていた。
  • 火災当日1972年(昭和47年)5月13日の時点で、千日デパートは以下の工事を行っていた。
    • ニチイ千日前店の3階と4階の売場では、同月22日から1週間かけて売場改装にともなう大がかりな電気工事が計画されており、火災発生1週間前の5月6日から準備工事が始まっていた。火災当日も準備工事は行われる予定になっており、数回に分けて工事が進められていた[101][102]。デパート閉店後の夜間も工事を予定しており21時から翌朝4時まで作業する手筈になっていた[103]。この電気工事は、ニチイ千日前店が千日デパートから賃借している3階と4階売場の改装工事を計画したことから、1972年(昭和47年)3月に日本ドリーム観光から工事の承認を受けた。しかしニチイ千日前店は、実際の工事に際して日時や内容、人員などに関する届をデパート側に提出していなかった。一方で工事を請け負った元請会社の工事監督は、5月6日から同月26日までは夜間工事になることから配慮を願う旨の「入店願い」を書面で提出していた。またこの一連の電気工事に先がけて千日デパート管理部次長からニチイ千日前店店長に対し、防火の要望書が渡されていた[104]。さらに火災前日の12日には、千日デパート側がニチイと工事業者を集めて工事の要望に関して再度話し合っている[104]。特に喫煙については所定の場所に水を入れた容器を置き、そこで喫煙すること、また吸殻はその容器に捨てるように申し渡していた[1][101]
    • 6階では千日劇場跡をボウリング場へ改装する工事中だった。火災当日は22時30分までの予定で工事が進められていた[81][105]

千日デパートビルの設備[編集]

千日デパートビルの出入口、階段、エレベーター、エスカレーター、空調設備の設置状況は以下のとおりであった。

出入口
  • 千日デパートビルの出入口は、1階に合計7か所設けられていた[106]
  • 南東出入口をA、その西隣の出入口をB、南西出入口をC、西側出入口をD、北西出入口をE、北東出入口をFと名付けていた[81]。なお北東正面入口(Sマークの直下)にはアルファベット名称はない[81]。それぞれの出入口のアルファベット名称は、各階段の呼称と対応している[81]。B出入口は「プレイタウン」専用、D出入口は従業員通用口である[81]。なお、地下1階には、E階段東側に隣接した位置に「ミナミ地下街・虹のまち」(現・なんばウォーク)に直結した出入口が1か所設けられていた[107]
階段
  • 千日デパートビルのおもな階段は、全部で6か所設けられていた[81]
  • それぞれA、B、C、D、E、F階段と名付けられており、AとF階段は、それぞれ1階から屋上まで、B、D、E階段が地下1階から屋上まで、C階段が1階から4階まで通じていたところ、「プレイタウン」に直接通じている階段はA、B、E、Fの4階段である[81]。なお各階段のアルファベット名称は、各出入口の呼称に対応している[81]
  • B階段は「プレイタウン」専用階段となっており、「プレイタウン」従業員(ホステス)の退勤時と、1階「プレイタウン」専用出入口(B出入口)と地下1階「プレイタウン」専用エレベーターホールの間を利用する客と従業員が利用していた。B階段の7階出入口は、エレベーターホールに面したクロークの奥に設けられていた[108]。このB階段は防火扉(鉄扉)が二重に設けられたバルコニーつきの特別避難階段である。
  • B階段は、各フロアに出入りするための防火扉が1階を除いて各階に設けられていたが[81]、事実上「プレイタウン」専用階段になっていたことから7階を除く各階の出入口(2枚ある防火扉の両方)は、常時施錠されていた[109][110]。またA、E、F階段の7階「プレイタウン」の各出入口も常時施錠されていた。この措置は、千日デパート側が「プレイタウン」の客や従業員らがデパートの売り場を通り抜けて店(プレイタウン)に出入りすることを普段から認めていなかったことによって取り決めがなされていた[57]
  • 7階「プレイタウン」に出入りするには、まず1階プレイタウン専用出入口(B出入口)からB階段を使って地下1階へ降り、「プレイタウン」専用エレベーターホールから、2基の「プレイタウン」専用エレベーターのうち、どちらかを使って7階まで昇る必要があった[111]。そのために1階のB階段にはフロア(デパート1階売場)につながる防火扉は設けていなかった[注釈 14]
エレベーター
  • 千日デパートビルのエレベーターは、全部で8基が設置されていた[112]
  • ビル南東部分(塔屋の直下)のA階段周辺に4基が設置されていた[108]。A階段の西隣に単独で1基、A階段の北側正面に3基が横一列に設置されていた。そのうちの2基(ビル南側と北側東寄り)は、地下1階から7階を直通で結ぶ「プレイタウン」専用である[112]。南側エレベーター(以降A南エレベーターと呼ぶ)と北側東寄りエレベーター(以降A北東エレベーターと呼ぶ)は「プレイタウン」専用で、地下1階「プレイタウン」エレベーターホールと7階「プレイタウン」エレベーターホール以外に各フロアの出入口を設けていない[112]
  • そのほか2基の北側中央エレベーターと北側西寄りエレベーターは、地下1階から屋上まで通じるデパート専用エレベーターである。こちらは7階だけに出入口を設けていない[112]
  • ビル西部分のC階段周辺に3基のエレベーターが設置され(以降Cエレベーターと呼ぶ)、地下1階から4階まで通じていた[112]。それらの3基はデパート専用であるが、4階止まりで7階には通じていない[113]
  • ビル北西部分のD階段周辺に地下1階から屋上を結ぶデパート専用エレベーターが1基設置されていた[112]。このエレベーターは7階にも出入口があるものの、「プレイタウン」関係者が利用できる場所に設置されていなかった。
エスカレーター
  • エスカレーターは、ビルのほぼ中央付近に1階から6階までの間に合計8基が設置されていた[112]。地下1階と7階には設置されていなかった[88][114]。1階から4階までの間には、上下方向にエスカレーターが設置されていたが、4階から6階までは上り一方向のみで下り方向の設置はなかった[115]。1階南側の上りエスカレーターを1号、1階北側の下りエスカレーターを2号というように、上り方向を奇数、下り方向を偶数で呼んでいた[115]。5階から6階を結ぶ上りエスカレーター1基については、上り方向のみの単独設置のため「8号」と呼ばれていた[115]
空調設備
  • 千日デパートビルの空調設備は、地下1階と7階に中央方式(単一ダクト調和方式)による空気調和機(以降「空調機」と記す)が各1台ずつ設置され[116]、計2台で全館(塔屋および一部階の特定エリアを除く)の給気と排気が行われていた[116]
  • 地下1階の空調機(A)は、地下1階から3階までの給排気を(3階は排気のみ)[116]、また7階の空調機(B)は、3階から7階までの給排気を行っていた。なお4階の給気系統および5階の排気系統は設置されていなかった[116]。2台の空調機の稼働は、デパート閉店10分前の20時50分までだった。したがって同ビル7階で23時まで営業していた「プレイタウン」には、20時50分以降の中央方式による給排気は行われていなかった[117]
  • 7階設置の空調機(B)については、おもなダクト系統は4つあり、デパートビル南西側を空調する系統、以下同様に北西側、南東側、北東側とに別れていた[118]。なお地下1階の空調機(A)のダクト系統については、7階の空調とは関係ないので詳細は省略する[118]
  • 7階プレイタウンの空調に関係しているダクト系統は、空調機(B)「給排気系の北東系統」で[116]、特に同系統の排気系ダクト(リターンダクト)がデパートビルの北側3階、同4階、同6階、同7階に1か所ずつ設置された排気吸入口を垂直につないでいた[116]。7階の排気吸入口は、プレイタウン事務所前に設置され、店内の空気を吸入して4階を経由し7階別フロア(E階段西側の空調機械室)に設置された空調機(B)へ戻していた[116]
  • 7階に通じている北東系統の給気ダクトは、7階の空調機(B)から配管される際にいったん4階を経由し、5階から7階の各フロアへ空気を送るようになっていた[116]。同様に同系統の排気ダクトも4階を経由してから7階の空調機(B)へ戻っていた[116]
  • 北東系排気ダクト内部の3か所には防火ダンパーが備えられており、4階排気吸入口の上部および5階と6階のスラブ付近に設置されていた[116]。それらの防火ダンパーは、火災の際には華氏165度(摂氏74度)で2か所のヒューズが溶断することでダンパーが作動し、ダクト内部を遮蔽する仕組みになっていた[116]
  • 3階および4階のニチイ千日前店では、独自の空調パッケージによる給気が行われており、3階の北側と南側に各1台ずつ、4階の南側に1台が設置されていた[116]。4階に関してはデパートビルからの給気はなく(排気系統はあり)、ニチイ専用の空調パッケージのみで給気が行われていた[116]。また7階プレイタウンにも独自の空調パッケージが1台設置され、ホール内の給気を行っていた[116]。ニチイ千日前店とプレイタウンの空調は、デパートビル館内のものと独自設置のものとが混在していた[116]。このように同ビルの空調設備の設置状況は、建物の規模が大きく古いこと、また改築や用途変更などの影響で非常に複雑なものになっていた[119]

消防用設備の設置状況[編集]

千日デパートビルの消防用設備(消火器、消火栓、火災報知機、熱式感知器、スプリンクラー、避難器具、放送スピーカー)の設置状況は、以下のとおりであった(表中の「―」は設置なしを表す。また「消火栓」括弧内の数値は消防隊専用栓の数を表す)。

千日デパートの消防用設備設置状況(塔屋2階と塔屋3階を除く)[112][120]
フロア 消火器 消火栓 火災報知機 熱式感知器 スプリンクラー 避難器具 放送スピーカー
屋上(塔屋1階) 9 1(1) 1 5 救助袋1
7階 13 3(2) 1 8 救助袋1 (15)
6階 5 5(3) 2 17 あり 救助袋2 2
5階 13 3(2) 2 3 救助袋1 2
4階 18 6(3) 4 救助袋2 4
3階 24 7(4) 5 救助袋、縄はしご各1 4
2階 23 6(3) 4 縄はしご1 5
1階 23 6(3) 4 1 あり 6
地下1階 38 7(4) 3 18 あり 3
  • スプリンクラー(散水器)の設置については、全館に設置されているわけではなかったが、地下1階と1階のF階段周辺、6階旧千日劇場跡の舞台、楽屋、映写室には例外的に設置されていた。これは1958年(昭和33年)のデパートビル改築の際に、当時の消防法施行条例の基準に従って設置されたものである。また地下1階と1階のF階段出入口周辺に設置されていることについては、階段室の区画がないことに対する予防的措置による[121][注釈 15][注釈 16]
  • 避難口誘導灯、通路誘導灯、誘導標識については、全館各階フロアの必要な個所に設置されていた[120]
  • 警報ベルは、地下1階電気室の主受信機に1台、1階デパート保安室の副受信機に1台が設置されていた。全館に鳴動する警報ベルの設置はなかった[120]
  • 非常放送用の防災アンプは、1階保安室に設置されていた。しかし、7階プレイタウンだけは非常放送システムの対象から外されており、もし全館一斉の非常放送があったとしてもプレイタウンでは聞くことができない状態だった。また、そのシステムの一部は工事中だった[120]
  • 表中のプレイタウン「放送スピーカー(15)」というのは、プレイタウン店内限定の放送設備である[122]
  • 消防隊送水口と採水口が1階にそれぞれ3ずつ備わっていた[57]

防火建築設備の設置状況[編集]

千日デパートビルの防火建築設備(防火区画、防火区画シャッター、売場防火扉、避難階段、階段室防火区画)の設置状況は以下のとおりである。

千日デパートの防火区画および売場防火扉(塔屋2階と塔屋3階を除く)[112][120]
フロア  防火区画  防火区画シャッター  売場防火扉 避難階段 階段室防火区画
屋上(塔屋1階) 4 3
7階 1区画 5 5
6階 2区画 5 5
5階 2区画 5 5
4階 3区画 8 3 6 6
3階 4区画 15 2 6 6
2階 3区画 19 6 6
1階 3区画 19 9 8
地下1階 2区画 7 7 6
防火シャッターおよび防火扉
  • 1階の各出入口と各外周部には防火シャッターが、また各階段の各フロアに通じる出入口には、一部を除いて防火シャッターまたは防火扉(鉄扉)が備えつけられていた(1階F階段出入口を除く)[109]
  • A階段は、地下1階から6階までの各階フロア出入口に防火シャッターが、7階のみに防火扉(鉄扉)がつけられていた(屋上出入口はガラス戸)[109]。B階段は、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)のみが防火シャッターで、その他の各階フロア出入口はすべて防火扉(鉄扉2枚)だった[109]。C階段はすべてのフロア出入口が防火シャッター[109]、D階段はすべてのフロア出入口が防火扉(鉄扉)だった[109]。E階段は、基本的に各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉の両方を備えていたが、5階から屋上までの各階フロア出入口に防火シャッターは設置されておらず、それらの階の出入口は防火扉(鉄扉)のみの設置だった[109]。またF階段は、1階には防火シャッターも防火扉もなく(完全開放状態)、2階以上の各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉(鉄扉)が設けられていた(屋上出入口は鉄扉のみ)[109]
  • 1階各出入口および外周部の防火シャッター、各階段の各階フロア出入口の防火シャッターと防火扉の閉鎖(施錠)は、基本的に千日デパート管理部(保安係)が担当していたが、一部に例外があり、3階と4階についてはニチイ千日前店がA・C・E・F階段の出入口の閉鎖を退社時に担当していた[123]。また6階については千土地観光(プレイタウンの経営会社)がE階段の出入口を退社時に閉鎖し[123]、そして7階のE階段出入口の閉鎖(デパート閉店時)をプレイタウンが担当することになっており[注釈 17]、主要な管理権原者らは、自社が営業しているフロアの防火シャッターと防火扉の閉鎖管理をデパート側から任されていた[123]
  • エスカレーター開口部については、3階から4階を結ぶ2基(4階部分)、4階と5階を結ぶ1基(5階部分)、5階と6階を結ぶ1基(6階部分)には、防火カバーシャッターが設置されていた[109]。また1階から3階までのエスカレーター開口部には防火カバーシャッターの設置がなかった。
  • エスカレーター開口部の防火カバーシャッターの閉鎖は、カバーシャッターが備えつけられている4階から6階のエスカレーターについて、4階部分の閉鎖をニチイ千日前店が、5階から6階までの閉鎖を千日デパート管理部(保安係)が閉店時に行う取り決めになっていた[109]
防火区画シャッター(売場内)
  • 地下1階から4階までは、売場内を防火区画ごとに閉鎖できる防火区画シャッターと防火扉(3階と4階)が設置されていた[124]
  • 売場内の防火区画シャッターは、一部を除いて手動巻き上げ式ということもあり、普段から閉店後においても閉鎖されていなかった[61]
  • 3階北側の東西方向に設置されていた4枚の防火区画シャッターは、ヒューズ式自動降下シャッター(80度以上の熱で自動降下)であった[125]
  • 2階F階段の横引きシャッター(階段吹き抜け閉鎖用)は、1965年(昭和40年)に故障したまま修理をせずに放置されており、平素から戸袋に収納されたままでデパート閉店時に使用していなかった[112]
  • 表中の7階「避難階段5」とは、A、B、D、E、F階段のことであり、プレイタウン関係者が直接使うことができる階段はA、B、E、Fの4階段で、D階段は使うことができない位置に設置されていた[126]

千日デパートビルの保安管理[編集]

千日デパートの保安管理は、デパート管理部に属する保安係が担当していた。保安係は、21時のデパート閉店後から1階出入口および外周部のドアと防火シャッターを閉め、約2時間かけて全館(7階プレイタウンを除く)の客の絞り出しと巡回(7階プレイタウンを除く)、防火シャッターや各扉の閉鎖確認(プレイタウン専用のB階段部分を除く)、火気の点検を行っていた[57][127]。夜間の巡回は、23時30分から翌午前1時30分までと、5時30分から7時30分まで、それぞれ2時間にわたってデパートビル全館を巡回(この時間帯は7階プレイタウンも巡回対象)していた[57]。また午前2時30分に地下1階から2階までを対象にした1時間の巡回も行っていた[57]。すなわち保安係による夜間巡回は、一晩に合計4回行われていたことになる[57]

保安係の勤務体系は、基本的に24時間勤務で14名の人員で業務を担っていた[57]。そのうちの2名は日勤勤務者で、残りの12名を2班6名に分け、各班が24時間交代(勤務時間は9時30分から翌朝9時30分まで)で隔日勤務に就いていた[57]。火災当日の5月13日は、勤務予定5名の保安係員のうち1名が欠勤しており4人体制で勤務を行っていた[注釈 18]。火災当日のデパートビル当直者は、保安係4名のほかに電気係と気罐係の2名も勤務に就いており、地下1階に待機していた[57][127]。なお、各テナントの宿直は、日本ドリーム観光との間で交わしている賃貸借契約の約定ならびに千日デパート管理部の規則により、基本的には認められていなかった[127]。デパート閉店後の残業は、デパート管理部への届け出制になっていたが、ニチイ千日前店だけは例外で、23時までの残業は届け出なしに行うことが認められていた[127]。また7階プレイタウンも宿直に関しては例外扱いで、閉店後のプレイタウン店内に独自の宿直員を置くことが認められていた[57]

プレイタウンについて[編集]

チャイナサロン「プレイタウン」は、1967年(昭和42年)5月16日に千日デパート7階で営業を始めたアルバイトサロン[注釈 5]である。1969年(昭和44年)5月には、千日デパート6階千日劇場跡の一部を使って店舗を拡張した[81]。火災発生のほぼ1か月前、1972年(昭和47年)4月17日に6階の元千日劇場跡でボウリング場改装工事が開始されるのに合わせて、プレイタウンは6階での営業を廃止した[81]。同月28日に6階・元プレイタウン営業エリアと7階プレイタウンのホールをつないでいた階段状の通路部分をベニヤ板で仮閉鎖し、ボウリング場改装工事が始まった[81]。なおプレイタウンの管理権原者は、同店を経営する千土地観光の代表取締役業務部長である[128]。右同人は1964年(昭和39年)6月に日本ドリーム観光から同社に出向しており、1970年(昭和45年)5月から代表取締役業務部長になり、本件火災当日もその地位に就いていた[129]。また千土地観光の代表取締役にはもう1人、日本ドリーム観光の代表取締役社長である松尾國三も名を連ねていた[1]。プレイタウンの防火管理者は同店の支配人である[128]。右同人は1970年(昭和45年)9月1日から同店支配人に就任し、本件火災当日もその地位に就いていた[3]。プレイタウン支配人は、1971年(昭和46年)5月に2日間の防火管理者講習を受講し、同月29日に同店の防火管理者に選任された[3]

営業形態[編集]

営業時間は平日が17時から23時まで[85]、土日・祝祭日が1時間前倒しの16時から23時までで[85]、年中無休だった[85]。主婦などの素人の女性がホステスを務め、ワンセット200円の低料金で気軽に楽しめるとあって人気があり、大阪ミナミでは中クラスの大衆サロンだった[130]。当時のアルバイトサロンは、キャバレーのようにバンドマンの演奏や歌を聴きながら、またはショーを観ながら飲酒やホステスの接待を受ける形式が一般的だった。プレイタウンもその流れに乗り、毎夜ステージでバンドマンの演奏やダンサーのショーが演じられていた[131]。生演奏に合わせて客とホステスがダンスを踊ることも行われていた[131]。プレイタウンはチャイナサロンと銘打っていたため[132]、ホステスはチャイナドレスを身に着けて接客していた者が多く、店内の装飾も中華風の灯籠やモール、つる草模様の衝立て、深紅の幕で飾られていた[133]。客の収容人数は150名[85]。ホステスは約100名が在籍し[85]、支配人やボーイなどの従業員は約40名が勤務していた[85]。火災当日のプレイタウンの集客状況は、おおむね7割程度の客の入りであったが、7階プレイタウンへ火災による煙が大量に流入してきた22時40分から43分ごろに在店していたのは客57名、ホステス78名[134]、従業員ら46名(バンドマン10名とダンサー1名の計11名を含む[134])の合計181名[注釈 8]である[130]。火災発生当日は土曜日夜で、いわゆる半ドンであった。1970年代前半は、まだ週休二日制は一般的ではなかったために、日曜前日にあたったことから、営業時間全体を通して店内には客が多かった。プレイタウンのホステスは子持ちの母親が多く、奇しくも火災が発生したのは母の日の前日でもあった[135]

店内の構成[編集]

7階プレイタウン店内の構成は、中央ホールが東西32メートル[136]、南北17メートル[136]の広さがあり、ホールの平面は台形のような形をしていた[137][138][139]。ホールにはテーブル117個[136]、イス141個[136]、衝立37枚[136]が置かれていた。ホール内の北西角部分には扇形のバンド演奏用ステージが設置され[140]、その前面と客席エリアの間がショースペースとなっていた。ステージ裏には、北西側の外窓に面したベニヤ板で間仕切りされた3室の小部屋(ボーイ控室、バンドマン控室、タレント控室)が設けられていた[140]。またステージ西隣にF階段出入口があり[140]、ホールに面したF階段出入口部分は電動の防火シャッターが設置されており[140]、その部分は常にカーテンで覆い隠されていた。またF階段の防火扉(鉄扉1枚)は、F階段西隣の調理場配膳室に直結していた[140]。F階段出入口の防火シャッターは常時閉鎖され、防火扉も常時施錠されていた。

アーチ状のホール出入口(エントランス)はホールの南側にあり[140]、ホール出入口の西側にレジとトイレが、またレジの北隣にベニヤ板で間仕切りされた物置(6階へ通じていた階段状の旧通路部分。火災発生当時は資材置場として利用)があった[140]。ホール出入口正面(ホール外側)にクロークと電気室があり[140]、クロークの奥にカーテンで覆い隠された[141]特別避難階段・B階段(バルコニー併設。プレイタウン営業中は常時解錠)の出入口(鉄扉2枚)があった[140]。B階段を使用するためにクロークの中に入るには、クロークのカウンター西端の天板(高さ90センチに設置された幅50センチの板[142])を跳ね上げたあと、幅65センチの戸板を押し開く必要があった[143][144]。クロークの東側にエレベーターホールがあり[140]、エレベーターホール南側(クロークの東隣)にA南エレベーターが[140]、エレベーターホールのもっとも東側にA北東エレベーターがあった[140]。これら2基のエレベーターは、プレイタウン専用である[112]。A南エレベーターの東隣に防火扉(鉄扉1枚)を備えたA階段出入口があった[140]。この防火扉は常時施錠されており、出入口前は普段から看板で覆い隠され、その存在が分からないようになっていた[145]

ホール内の西方に調理場(F階段の西隣)、空調機械室、事務所、宿直室、衣装室、ホステス更衣室などがあり[140]、それらはいずれも北側の外窓に面しており[146]、幅1.23メートルから1.8メートルの狭く入り組んだクランク状の廊下で各部屋が結ばれ[147]、廊下の東端でホールにつながっていた[140]。事務所前の廊下には、3階から7階の各階を垂直に竪穴でつなぐ空調ダクト(リターンダクト)の吸入口があり(ただし、このダクトには5階部分に吸入口は設けられていなかった)[148]、ダクトの3か所に防煙ダンパーが備えつけられていた[149]。プレイタウンのもっとも西側に位置しているホステス更衣室は、北側に面した外窓2か所(うち1か所は2枚窓)のうちの1か所がロッカーで完全に塞がれており[140]、窓に直接アクセスすることができない状態となっていた。なおプレイタウンの各外窓は、転落防止や酔客による物品投下などを防止するため、安全上の観点から基本的には普段から開かないようになっていた。またホステス更衣室にはE階段に直結した出入口(鉄扉1枚)があり[140]、普段は施錠されていた[150]。この7階E階段出入口の施錠についてはプレイタウンの担当とされており、デパート管理部から管理を任されていた[151]

店内の避難設備と消防防災関係設備[編集]

プレイタウン店内の避難設備としては、ホール北東角の窓下に救助袋(斜降式)が1つ備えられていた[140][141]。1958年(昭和33年)12月に千日デパートビルが新装開業した際、移動式救助袋が4階から屋上までの各階に設置されたが[64]、プレイタウンの救助袋はそのうちのひとつである。1963年(昭和38年)8月、固定金具を取りつけるための改修が施された(固定式に改造)[151][152]。救助袋の全長は30.21メートル[152]。開口部(脱出するために脱出者が入り込む部分。内径は縦62センチ、横57センチ)は[153]、一辺が85センチの支持棒に上下で取りつけられており(縦枠は78センチ)[154]、平時には倒して収納している上枠支持棒(長さ85センチ)を180度上方へ引き上げることで袋の入口が完全に開く仕組みになっていた[154]。プレイタウン店内の防災関係設備は、消火器14、報知器3、屋内消火栓3、店内放送スピーカー15、誘導灯7、標識版2、防火隊専用栓2、防火区画1、懐中電灯10などが装備されていた[141]。プレイタウンの外窓開口部の大きさは、縦102センチ、横165センチ、床から78センチの位置に設置されていた(北側、北東側、東側の各窓共通。ホステス更衣室の西寄り窓を除く)。窓は救助袋が設置してある北東角の窓に関しては観音開きで窓2枚で構成されていた。そのほかの窓は外突き出し1枚窓で各窓共通である。ホステス更衣室の西寄り窓は2枚窓、厨房窓は換気扇が2つ填め込まれている関係で固定式だった。地上(GL)から7階プレイタウン外窓下枠までの高さは、約25.5メートルである。

プレイタウンに通じていた階段は全部でA、B、E、Fの4階段があったものの[141]、それらの出入口には店の営業中においても常時鍵がかけられていた[3][141][150]。ただし特別避難階段のB階段7階出入口は、プレイタウンの営業中は常時解錠されており[3]、従業員は自由に出入りすることができた[3]。7階B階段出入口については、施錠ならびに解錠の両方をプレイタウンが管理していた。B階段については、普段からプレイタウン専用階段になっており[3]、おもにプレイタウン従業員(ホステス)の退勤時に利用されており[85][3]、とりわけ23時過ぎの退勤時にエレベーターが混雑するからと店側がB階段を使うように指導していた[3][85]

7階各階段出入口の鍵の保管状況[編集]

7階プレイタウンに通じている各階段出入口(A、B、E、F)の鍵の保管状況は、いずれの出入口の鍵もプレイタウン事務所内に保管されていた[155]。B階段出入口については、鉄扉2枚で構成されているため、それぞれに1本ずつ鍵が存在した[155]。つまりプレイタウン従業員が直接使用できる階段出入口の鍵は合計5本である[155]。これらの鍵は、プレイタウンが1967年(昭和42年)5月から千日デパート7階で営業を始めたときに、千日デパート保安室に対し、借用書を提出して借り入れていたものである[156]。一方、千日デパート保安室は、基本的にマスターキーを保有しているため、それらの鍵を使ってプレイタウン各階段出入口をいつでも解錠できる状態にあった[155]。ただし、7階A階段出入口については、デパート保安室にマスターキーは存在せず、プレイタウン事務所に保管してある単一キーが唯一の開閉できる鍵だった[155]。また、プレイタウン関係者が屋上へ避難する際に使用することができる屋上出入口の鍵の保管状況については、「B、E」階段の屋上出入口の鍵だけがプレイタウン事務所内に保管されていた(それぞれ1本ずつで合計2本[155])。それらのマスターキーは、デパート保安室に保管されていた[155]。残りの「A、F」階段の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず[155]、千日デパート保安室にのみ単一キーが保管されていた[155]。これらのことから、プレイタウン関係者の手によって直接開錠可能な屋上の出入口は、B階段E階段だけだったということになる[155]

7階各階段出入口の施錠[編集]

前記のとおり、プレイタウンに出入り可能な7階の各階段出入口は、B階段出入口以外はプレイタウン営業中においても常時施錠されていた。またF階段電動シャッターについても常時電源は切られており、開閉することはできなかった。[157]。この措置の理由は、千日デパート側からすれば、風俗営業店に出入りする客がデパートの売場内に入ったり通り抜けたりすることが保安・風紀の面で好ましくなく、常時施錠することが不可欠であったというのである[57]。また、プレイタウン側からしてみれば、平常時の営業において、従業員専用スペースに面していない階段出入口(A、F階段出入口)を常時施錠しておくことは、無銭飲食防止や防犯上の観点からも都合がよかったのである[57]。またこれらの措置は、大阪府公安委員会からの指導にも基づいて取られていた[158]。プレイタウンに風俗営業の許可を与える際に、風俗営業等取締法第二条または大阪府施行条例第四条の規定に従って「善良な風俗を害する行為を防止する」という観点から[158]、「7階に出入りできる階段出入口の防火扉と防火シャッターは、非常時以外に解放してはならない」という条件がつけられていた[158]

千日デパート側との連絡体制[編集]

非常時における千日デパートとプレイタウン間の連絡体制は、規約や規則などで決められていたものは何もなく[57]、火災の通報についても平時からの申し合わせは何もなかった[57]。また、デパートビル閉店時の保安係による巡回においてもプレイタウン営業中は7階の巡回は行われておらず、プレイタウン閉店時の深夜と早朝帯だけデパート保安係による巡回の対象になっていた[57]

宿直[編集]

千日デパートでは、各テナントの夜間の宿直を認めていなかったところ、例外的にプレイタウンだけは独自に宿直員を置くことが認められていた[57]。宿直の人員は計2名で、プレイタウン男子従業員の1名が宿直員として、またプレイタウン専属の男性保安員が1名、プレイタウン閉店後の店内に宿直し、保安業務にあたっていた[57]。勤務時間は21時30分から翌午前10時30分まで[57]。その間に3回の店内巡回(0時、2時、7時)を行うことになっていた[57]

火災の経過[編集]

閉店後に3階で電気工事[編集]

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパート3階・ニチイ千日前店の売場改装にともない、電気配線用の配管取りつけなどの電気設備工事が行われることになった[159]。ニチイから工事を請け負ったのは「O電機商会」で、工事監督者の設計監理課長1名(以下、工事監督者の設計監理課長のことを工事監督と記す)および工事施工業者「F電工社」の工事作業者5名の合計6名が工事に携わることになった[3]。9時ごろ、工事監督と工事施工会社社長(以下、工事施工会社社長のことをF電工社長と記す)の2名を除く工事作業者4名が千日デパートへ入館した。3階の電気設備工事は、デパートの10時開店と同時に始まり、昼休憩1時間を挟んで午後も引き続き行われた[159]

14時ごろ、F電工社長が千日デパートへ入館した。そして15時30分ごろ、工事監督も入館した。これで3階の工事作業者6名が全員揃った。

16時、7階チャイナサロン「プレイタウン」が開店した[130]。土曜日ということで通常よりも1時間早い開店であった[3]

17時ごろ、客足が増えて店内が混雑してきたために工事作業者らは作業を一時中断し、デパート閉店後の21時過ぎから工事を再開すべく、全員がいったん作業現場を離れた[159]

17時30分ごろから21時前まで工事作業者ら4名は食事に出かけ[159]、工事監督とF電工社長の2人は、難波駅(南海)に併設されている老舗百貨店の屋上ビアガーデンを訪れ食事をとった[159]。そのときに2名は、ビール大ジョッキ2本を飲んだ[159]。その後、工事監督はF電工社長と別れ、難波周辺をぶらついていた。F電工社長と工事作業者4名は、21時前に一般客用の出入口から、また工事監督は21時30分ごろに従業員通用口からデパートビルにそれぞれ再入館し、3階の工事現場に戻った[159][160][161]

21時、千日デパートは閉店時刻を迎えた。各店舗で閉店準備が行われたり、保安係員によって出入口やシャッターの閉鎖が行われたりするなかで、この日(13日当日)3回目の電気設備工事が3階で再開された[102][159]。場所は3階・上り南5号エスカレーターの南西側に隣接した婦人用肌着売場と子供用肌着売場に挟まれた通路付近である[3][162]。工事の手順は、工事再開場所を起点に南側フロアに沿って東方向へ順次工事を進め、南側機械室までの電気配管を行い、北側機械室の分電盤工事、そして北東隅の寝具・呉服倉庫内の配管工事を翌朝14日・4時までの予定で行うことになっていた[162]。引き続き工事監督1名と工事作業者5名の計6名が工事に携わることになっていた[102][159]。ニチイ千日前店の社員4名(うち1名は店長)も3階に2名、4階に2名がデパート閉店後も店内に残り、残業していた。3階のニチイ社員2名は、工事作業者らと同じく3階・西側売場で商品整理などの残務を行っていた[163][164]。6階千日劇場跡では、22時30分までの予定でボウリング場改装工事が行われており、6名の工事作業者が滞在していた。千日デパートの21時閉店以降、デパートビル内で営業していたのは7階「プレイタウン」だけであった。

21時15分、千日デパート保安係員2名による全館を対象にした保安巡回が開始された[57][165]。約1時間半かけて6階から地下1階までの各フロアを巡回し、客の居残り確認、各出入口やシャッターの閉鎖確認、火気の点検を中心に実施された[57][165]。この閉店時の巡回において、7階プレイタウンは常に巡回の対象から外されていた[57][165]。なお、この火災発生当日の閉店時巡回には、千日デパート管理部管理課長が参加する予定になっていたが、なぜか巡回に参加していなかった[166]

21時30分ごろ、3階の照明が一斉に消えてしまった[159]。地下1階・電気室にいたデパート電気係が、3階で電気工事が行われていることを知らずに3階照明の電源を落としたためである[102]。この停電が発生したときに、工事監督がデパート3階の工事現場に戻ってきた[159]。作業に支障が出ることから工事監督はすぐに6階へ行き、電話で地下1階の電気室に対し、3階の照明を点灯してくれるように連絡した[4]。数分後、3階西半分の照明が復旧し、再び作業が再開された[102][159]。このころ、千日デパート保安係員2名が3階を巡回しているときに作業中の工事作業者らを目撃し[131]、工事作業者らに工事届が提出されているかどうかを尋ねた。

3階で火災発生[編集]

22時ごろ、3階と4階で残業していたニチイ社員4名が退館した。3階では配管の折り曲げやネジ切などの作業が粛々と進められるなか[3]、工事監督は作業現場を離れ、1人でタバコを吸いながら照明が消えている暗がりの3階東側フロアのどこかをうろつき始めた[4][167]。工事監督は、しばらくして西側のD階段付近に向かい、その場に佇んでいた[167][4]

22時32分から33分ごろ、工事作業者の一人が3階東側の寝具・呉服売場の方向から「パリパリ」というガラスの割れるような音がするのを聞いた[167][4]。ふとその方向に目をやると、30メートルほど離れた場所で高さ70センチ、幅40センチくらいの赤黒い炎がめらめらと揺らめき、黒煙が入道雲のように天井いっぱいに立ち込めているのを発見した[4][167]。発見者は、すぐさま火災であることを仲間に知らせると同時に、西側D階段付近に佇んでいた工事監督に向かって大声で火災が発生したことを知らせた[4][36]。工事作業者らは消火器を探し回ったり、火災報知機を押そうとしたりするなど初期消火活動に奔走した[36][168]。工事監督は1階のデパート保安室に向かって「3階が火事や!」と数回叫びながら西側D階段を駆け降りた[167][168]

3階での火災発見とほぼ同時刻の22時30分ごろ、閉店後の店内巡回を終えた千日デパート保安係員2名が1階保安室に戻ってきた[169][165]。その直後の22時34分、保安室の火災受信機(警報ベル)が3階の火災を検知した[137][165]。工事作業者の1人が3階の火災報知機を押したのである[36]。それとほぼ同じくして3階から工事監督の火災発見を知らせる怒声が保安室にも届いた[36]。保安係員2名がすぐさまD階段を駆け昇り、3階へ確認に行くと、すでにフロアいっぱいに黒煙が立ち込め、火元へ容易に近づけない状態になっていた[137]。消火器を持って右往左往する工事作業者らに対して保安係員は消火器の使い方を教えたが[5]、すでに初期消火を行える段階ではなく[137]、火災はフラッシュオーバーを起こす寸前にまで達していた[137]。しかし保安係員は、床上50センチ付近に煙が充満していないことを確認すると、工事作業者ら2名を引き連れて床を這いながら、なんとか消火栓がある場所の3、4メートル手前(上りエスカレーター東側)まで行って消火を試みようとした[5]。工事作業者は持っていた消火器の安全ピンを外して消火を試みたが薬剤が噴射されなかった。そのうちに火勢と煙はますます強くなり、周囲が赤黒く澱んできてD階段にも煙が迫ってきた。火元に向かおうとした保安係員らは、火元の確認や防火区画シャッターの閉鎖はおろか消火のひとつもできずに活動を断念し[5]、元の経路を這って戻った。工事作業者ら5名[注釈 19]と保安係員2名はD階段で1階へ避難した[170][169]。火災受信機(警報ベル)は地下1階の電気室にも設置されていたため[120]、デパート電気係は火災検知と同時に3階と4階の主電源をすべて遮断する措置をとった。そのあと電気係は消火器を持ち、Cエレベーターで4階まで上がった。そして消火作業を行おうとしたが、エレベータードアが開いたと同時に猛煙に襲われ手も足も出せず、そのまま地下電気室へ引き返した。またこのとき、6階の千日劇場跡でボウリング場改装工事に携わっていた工事作業者ら6名が煙の流入で火災に気付き、6階窓からビルの外に出て、資材吊り上げ用ワイヤー(ウインチ)や配管、避雷針ケーブルを伝って全員無事に地上へ脱出した[105]。地下1階に滞在していたデパート電気係と気罐係の計2名もビル外に全員無事に脱出している。

22時39分、火災は急速に拡大し、防火カバーシャッターが閉鎖されていなかった3階エスカレーター開口部から4階へ延焼が始まった[171]。保安係員2名は、ただちにデパート保安室に待機していた保安係長に3階が本格的な火災である旨を報告した[172]

22時40分、保安係長は千日デパート保安室の電話で119番通報を行った[36][173][174]

7階プレイタウンを襲った黒煙[編集]

22時30分から22時35分ごろ、7階で営業中のチャイナサロン「プレイタウン」では、23時の閉店に向けて「お決まり」のさまざまな動きが始まっていた[131]。ステージでのショーが終了した直後のホール[133]とあって人々の動きが激しくなるなか[131]、客とホステスはバンドの生演奏に合わせてラストダンスを踊り[131][175]、調理場では後片付けが行われ[176]、帰宅する客を見送るホステスらがエレベーターで1階入口へ向かっていた[131]。すでに接客を終えたホステスらは更衣室でくつろぎ[131][176]、店内事務所ではプレイタウン支配人(店長のこと。以下、支配人と記す)らが集客を増やすための対策を話し合っているなど[131][176]、プレイタウンはいつもの土曜夜と変わらない閉店前の様子だった[131]。このころプレイタウンには客57名、ホステス78名、従業員ら35名、バンドマン10名、ダンサー1名の合計181名が滞在していた。

22時36分から22時39分ごろ、この間にプレイタウン関係者が最初の異変を感じた。ボーイの1人がプレイタウン専用A南エレベーターで地下1階から7階へ上がる途中、エレベータードア下部の隙間から白煙が流れ込んでくるのを目撃した[131][177]。また客の1人がトイレに行こうとしてホール出入口の方を見たとき、A南エレベータードアの隙間から白煙が噴き出しているのを目撃した[131]。ホステスの1人もホール出入口の方向から白煙がホール内へ流れ込んでくるのを目撃し[131]、ステージでのショーが終わってから3曲目の演奏に入っていたバンドマンの1人も天井を流れる白煙の筋を確認し、バンドリーダーへ「火災ではないか」と報告した[178]。バンドマンたちは、バンドリーダーの指示で演奏を中止し楽屋に待機することになった[179]。その後、バンドリーダーは詳しい状況を確認するためにエレベーターホールへと向かっていた[7][180]。一方、プレイタウン事務所前に設置してある換気ダクト(リターンダクト)の吸入口からも煙が噴き出しているのを調理場にいた従業員が発見した[139]。調理場にいた従業員やボーイらによって、ダクト吸入口に向かってバケツで水をかけるなどの消火作業が行われたが何の効果もなく[181]、煙の量はさらに増すばかりであった[182]

22時39分、事務所内にいた支配人は、ホールや事務所前の通路がやけに騒がしいことに気付いて事務所の外に出たところ、換気ダクトから噴き出す激しい煙に襲われた[181]。調理場担当の従業員数名とともに西側のホステス更衣室の方へ行こうとしたが、その方面の通路にはすでに煙が充満しており、支配人らはすぐに事務所前へ引き返した[183]。空調ダクトから絶え間なく噴き出す煙を目の当たりにして、支配人は「階下が火災だ」とこのとき認識したという[183]。その後、支配人は詳しい状況を確認するためにホールへ向かった[184]。西側ホステス更衣室にいたホステスら11名は、換気ダクトから噴き出す煙によって、この段階で逃げ場を失い更衣室内で孤立状態になってしまった[185]。換気ダクトからの煙は、次第に黒煙へと変わり、異様な臭気と熱気を大量に噴き出すようになっていた[181]

22時40分、デパート保安係員が119番通報したころの7階プレイタウンでは、ボーイらがA南エレベータードアから噴き出る白煙をエレベーターの故障だと考え、エレベーターを止めて点検を始めようとしていた[183][186]。またある者はエレベーターのどこかが燃えていると判断し、消火器を持ちだすためにホールを奔走するなど、店内がにわかに騒がしくなってきた[179]。エレベーターホールの状況を確認にきたバンドリーダーは、エレベータードアから噴出する煙の状態を見て、以前に地下1階のプレイタウン・エレベーターロビーで起こった小火のことを思い出していた[183]。そのときはすぐに収まったので今回も同じ状況だろうと考え、バンドマン室へ引き返していった[183]。男性客の1人は、何か焦げ臭く感じると異常事態にいち早く気づき[7]、レジに行って女性従業員に異臭について尋ねていたところ、白煙が漂っているのをじかに確認した[7]。男性客は「これは火災だ」と直感し、避難するためにエレベーターホールへ向かった[7]。また別の男性客も異常に気付きレジに来て「火事と違うか!」と叫び[7]、ホステスから階段の場所を尋ね、その案内に従ってエレベーターホールへ向かった[7]。しかしこの男性客2名は、このあとA南エレベーターから噴出する煙に阻まれ、ホールへと引き返すことになる[183]。このころ、支配人がホール出入口とクロークの中間付近に現れ、エレベーターホール前の様子を見ていた[187]。エレベーター前には7、8人の客やホステスがエレベーターを待っており、そこにいた客やホステスらに変わった様子はなかった[187]。支配人は、クローク付近がいつもより少し薄暗く感じたが、煙の状態も店内に少し立ち込めた程度だったので特別に異常を感じず、大したことにはならないと思った[187]。この煙の状態であれば火災は階下で発生していることもあり、客にはいつものように勘定を済ませて帰ってもらえると思い一安心し、しばらくその場に留まって様子を見ることにした[187]

22時41分、クローク係の女性従業員は、タイムカードの時計を合わせるために時報(117番)に電話をかけ終えたとき[188]、A南エレベーターの方向から二筋の白煙がホールへ流れて行くのを見た[188]。そこで隣の電気室にいる電気係に「エレベーターが故障しているのでは」と告げたところ、電気係は状況を報告するためにホール内へ歩いていった[188]。この直後、火災の急速な拡大にともない、A南エレベータードアの隙間から吹き出す煙は、急激にその量を増すと同時に白煙から黒煙へと変わっていった[183]。クローク係は、煙を排出しようと電気室の窓を開けたところ、窓の外から黒煙が流入してきて生命の危険を感じ、ホール内へ避難しようとしたが、すでにそれすらもできないほどエレベーターホールが煙で汚染された状態になっていた[183]

22時42分、A南エレベーターからの猛煙でエレベーターホールが汚染されるなか、クローク係の女性従業員がクローク後ろにあるB階段出入口からB階段を使用して地上へ脱出した[183][189]。クローク係は、自分の持ち場のすぐ後ろに使用可能な避難階段があることを平素から知っており、容易にB階段を使用して脱出に成功した[189]。このころにはプレイタウン店内にいたすべての人たちが異様な臭気とホールに流れ込む煙に気付いていた[183]。客やホステスらは地上へ避難するために、プレイタウンへ出入りするための移動手段として唯一知っている2基の専用エレベーターに殺到し、エレベーターホール前は混乱した状況へと陥っていった[179]。しかし、A南エレベーターから激しく噴き出す煙によってエレベーターが使用できなくなったことで、避難者らはホール内へ引き返さざるを得なくなった[190]。唯一知っている「地上への逃げ道」が絶たれたことで、人々のあいだにパニックが起こり始めた[191]

22時43分、消防隊の第一陣が到着した。すぐさま消防隊による放水準備作業が開始された[192]。このころ火災は3階エスカレーター開口部から2階へ延焼し始めた[193]。一方「プレイタウン」では、A南エレベーターで7階に上がってきたホステス1名と男性客1名が[7]エレベーターホールに充満している煙に驚き、エレベーターホールにいたホステス1名とともに[7]向かい側のA北東エレベータにとっさに乗り込み、3名は地上へ脱出した[186][194]。支配人は、エレベーターホールが煙で汚染され視界が利かなくなってきたことから[183]、電気室内にある懐中電灯を取ってくるよう従業員に命じたが、見つけることができなかった[183]。その後、エレベーターホールにいた人たちをレジ付近に退避させた[183]。このとき支配人がレジ係に対し「ホステスの皆さんは落ち着いてください」と店内放送で呼びかけるよう指示した[195]。エレベーターホールから退避しようとする人たちと、エレベーターホールへ向かおうとする人たちとの流れが出入口付近でぶつかり合い、混沌とした状況に陥ってきた[196]。地上への避難を求める人たちの混乱に拍車がかかってきたことから、支配人はA南エレベーター東隣のA階段から客らを避難させようと考え[183]、ボーイにA階段出入口の鍵を取ってくるように指示した[183]。しかし、ボーイがA南エレベーター西隣に位置するクロークの中に入ろうとしたものの、猛煙に阻まれクローク内に入ることができずに鍵は見つけることができなかった[183][197]。プレイタウンの避難者らは、エレベータードアから噴き出す大量の黒煙によって行動の自由が妨げられたため、ボーイらの指示で再びホールへと退避した[183][197]

逃げ場のない暗闇のガス室[編集]

22時44分、消防隊はデパート保安係に対し、デパートビル1階の北東正面出入口と北西E出入口のシャッターを開けるよう命じた[198]。これは消防隊が店内に侵入して消火活動するために開けさせたものだが、この直後に3階と4階がフラッシュオーバーを起こし、それと同時に7階への煙の流入量がより一層増すことになった[198]。ホール内へ押し戻された人々は、エレベーターにも乗れず、非常階段も使えず、7階から完全に逃げ場を失い孤立状態になってしまった[191]。またどこへ逃げていいのかもわからないまま、避難行動は自主性のないものになってしまい、パニック状態に拍車がかかっていった[199]。ホール内に押し戻された人の中で窓際やステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント控室の計3室)に移動できた人が窓ガラスを割り、救助を求め出したのはこのころである[200]。またホステス更衣室にいた人たちは、この時点ですでに孤立状態となっていたが、なんとか事務所から鍵を取り出し、E階段出入口を解錠して脱出を図ろうとした[30]。しかし、E階段はすでに煙で汚染されており、鉄扉を解放したことで大量の煙を更衣室に入れることになった[30]。このころには換気ダクトからの猛煙と熱気により事務所のほうへ近づくどころか、更衣室につながる廊下に出ることもできない状態になっていた[198][32]

22時45分、3階がフラッシュオーバーを起こし、火災はフロア全体に燃え広がった[193]。このころプレイタウン内を逃げ惑っていたある集団は、ボーイの案内でホール西側物置の中に入り込んだ[201]。この場所は、つい1か月ほど前までプレイタウンが6階でも営業していたときの連絡通路があった場所で、6階でボウリング場工事が始まるのをきっかけに6階店舗と連絡通路が同時に廃止されたのである[202]。その通路部分を仮閉鎖するためにベニヤ板で塞いでいるはずだったため、事情を知っている者は板を破れば簡単に6階へ避難できるはずだと考えた。ところが壁の工事が予想外に進んでおり、ベニヤ板だと思われていた壁は厚さ27センチのブロック塀に変わっていた[201]。行き場を失った人たちは、壁を壊そうとブロック塀を足で蹴ったり、手で引っかいたりした。極限のパニック状態で冷静さを失った人たちは煙を吸いこみ、物置の中で力尽きていった[201]

22時46分、延焼階に対して消防隊による放水が開始された[203]。そして4階がフラッシュオーバーを起こした[193]。窓際に移動した従業員の1人によって北東側の金網窓(観音開き)が開けられ[204]、窓下に設置してあった救助袋が地上に投下された[204][205][206]。しかし救助袋の先端には「地上誘導用の砂袋(おもり)」がくくりつけられておらず[204][206]、救助袋は2階のネオンサインに引っかかってしまった[205][207]。消防隊員の手により救助袋は地上へ降ろされ(22時47分)[204][207]、救助袋先端の把持を通行人らに頼んで7階からの脱出準備が整ったかのように見えたが(22時49分)[204][207]、救助袋の正しい使用方法「上枠を180度上方へ引き起こし、袋の入口を開いて、袋の中に入って滑り降りる」ということを7階で知っている者が誰もいなかった[30][207]。救助袋の入口を開けなかったばかりに、救助袋は平たく帯状に垂れ下がった状態で、本来の救助器具としての役目を果たすには程遠い状態となっていた[30]

22時47分、支配人らはステージ西隣のF階段(らせん状階段)を使って屋上へ脱出しようとした[208]。調理場東隣のF階段出入口の鉄扉を開けるには、事務所の中に保管してある鍵を取りにいく必要があるが[209]、事務所前の換気ダクトから噴き出す猛煙と熱気で事務所に近づけそうになかった。そこで支配人は、扉に体当たりしたり、テーブルの脚をドアノブに叩きつけたりするなどして鉄扉をこじ開けようと試みたが失敗に終わる[208]

22時48分、次に支配人は、ホールに直接面したF階段の電動シャッターを開けようとした[210]。普段はビロードのカーテンで覆われ、その存在が誰の目にも留まらない電動シャッターは、ボーイが作動スイッチを入れると徐々に巻き上がり開いていった[204]。ところがシャッターを開けた瞬間、階段室に溜まった猛煙と熱気は、そのはけ口を7階プレイタウン店内に求めて一気に流入し、脱出しようとした人々をホール内へ押し戻した[211][212]。ほかの階段と同じようにF階段にもすでに大量の煙が充満していたのだった[211]。これで7階から自力避難するすべがなくなり、地上へ逃れる道は絶たれてしまった[213]。窓際に移動した人の中で最初に地上へ飛び降りた人が出たのはこのころであった[204]

22時49分、プレイタウンで停電が発生し、プレイタウン店内の照明が一斉にすべて消えた[211]。猛煙と暗闇の中で何も見えないまま、プレイタウン内を逃げまどう人々は誰かにぶつかっては倒れ、何かにつまずいては転ぶうちに一酸化炭素と有毒ガスによる中毒の影響で、次第に動く者は誰一人いなくなっていった[211]

地上への脱出、救助、そして終局へ[編集]

22時50分、ホール内で猛煙と熱気の中をかろうじて凌いでいたホステスの1人は、ハンカチで口を押さえながら壁伝いにエレベーターホールへ出て、クローク奥にあるB階段の出入口までたどり着き、地上への脱出に成功した[214][215]。このころは猛煙と熱気、有毒ガス、停電による暗闇により、室内での行動はほとんど不可能になっており[216]、窓際に移動できずにホール中央やF階段近辺、空調ダクト周辺を逃げ回った人たち、または物置の中に避難路を求めた人たちは、全員が息絶えてしまった[217]

22時50分から22時55分にかけて、窓際にいた人々もF階段から大量に噴き出す猛煙と熱気による息苦しさで7階窓から地上へ飛び降りる者が続出し始めた[216]。消防隊のはしご車による救助を待ち切れずに、まだ伸長している最中のはしごに縋ろうとして地面に落下する人もいた[218]。東側の商店街アーケードの屋根を目がけて飛び降りた人たちは、薄いプラスチック板で作られた屋根を突き破り、無残にも地面に叩きつけられていった[219]。また唯一の避難器具「救助袋」の外側に掴まりながら袋の上を馬乗りになって滑り降りた人たちは、摩擦熱に耐えられずに地上へ落下したり、また滑り降りる途中で力尽きて墜落したりする者が続出した[220]。またステージ裏の小部屋に逃げ込んだ人々も、多少なりとも猛煙から逃れていたが、F階段シャッターの開放によって小部屋にも猛煙が侵入してきて呼吸が困難になってきたために、一部には息絶える者も出始めていた[216]

22時55分から23時1分にかけて、救助袋から落下してくる人を消防隊が市民の協力を得て設置したサルベージシートで3名を救助することに成功した[221]。このころ消防隊のはしご車による救出活動も本格化し、23時23分までの間に7階プレイタウン窓から50名を救助した[222]

23時10分、消防隊によりデパートビル全館の電気をすべて遮断した[159]

23時15分、消防隊は、東側商店街アーケード屋根の上へ飛び降りた2名を救助した[223]

23時23分、消防隊は、はしご車による救助活動を終了した[159]

23時30分、消防隊はこの時点で7階からの要救助者が存在しないと判断し、はしご車による救出活動をすべて打ち切った[224]

14日(日曜日)0時ごろ、火勢が衰えだす[203]。消防隊は、救出活動優先から消火活動優先に切り替えた。火災鎮圧までの間、ビル外側と内部から延焼階に放水を継続した[225]

1時30分ごろ、7階から飛び降りや転落などで死亡した人が23名だと消防から発表された[203]

5時頃、消防隊により7階プレイタウンの内部探索が始まる。

5時8分、消防隊が7階プレイタウンフロアにて多数の遺体を確認した[203]

5時43分、火災鎮圧[226]

7時41分、「火災は鎮火した」といったんは発表された[226]。7階プレイタウンフロア内で96名の遺体を確認。また飛び降りや転落で21人の死亡者を確認し、犠牲者は合計117名となった[227]。7階プレイタウン店内の現場検証後、遺体搬出作業開始。

14日23時45分、大阪府警南署は、火災当日夜に千日デパートビル3階・ニチイ千日前店で電気工事を行っていた工事監督を現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で緊急逮捕した[228]

15日(月曜日)0時15分ごろ、6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が発見し、消防に通報した。消防隊は6階と7階窓から放水。ボヤ程度で消し止めた[229]

6階での小火を受けて、消火困難個所および内在物品などのくすぶりがまだビル内に残っていると判断し、消防隊は消火および防御活動を再開することにした。15日17時30分、正式に「火災鎮火」と発表された。

火災発生から4日後の17日10時15分、7階プレイタウンの窓から飛び降りて重傷を負い、病院に収容されていたホステス1名が死亡した。これで火災の犠牲者は118名となった[230]。また負傷者は計81名で、プレイタウン関係者47名、消防隊員27名、警察官6名、通行人1名である[231][232]

6月22日、火災発生場所と推定される3階ニチイ千日前店の東側売場において、大阪府警捜査一課および南署捜査本部によって燃焼実験が行われた。その結果、5月13日夜にビル3階で電気工事を行っていた工事監督が現場に捨てたマッチの擦り軸が火災原因であると断定した[233]

消火活動および救出活動[編集]

消防隊による消火救出活動および警察による警備活動の経過[編集]

22時40分、大阪市消防局警防部警備課指令第1係が千日デパート保安係から119番通報を以下の内容で受信した[173][174]

消防局 「こちら119番です」
通報者 「千日デパートビル火事です」
消防局 「何階が燃えているのか」
通報者 「3階が火事です」
消防局 「電話は何番ですか」
通報者 「××××(電話番号)、保安係」
消防局 「わかりました」[173]

大阪市消防局は火災通報をただちに受理した[173]
なお火災通報時の気象状況は、天候=曇り(雲量10)、風向=東北東、風速=5.5メートル、気温=摂氏17.9度、湿度=69パーセント、実効湿度=63パーセントであった[234]

22時41分、「ミナミ千日デパート3階出火」の一報を指令室より管内全署に発報。第1次出場が指令された[203]

22時42分、南消防署[注釈 20]および北消防署より第一陣出場。千日デパートからもっとも近い東側200メートルに位置していた南署南坂町出張所2個分隊と、北側200メートルに位置していた南署道頓堀分隊が、それぞれ現場に急行し、デパートビル50メートル手前まで差しかかったところで同ビル北側の窓から黒煙が噴き出しているのを確認し、南坂町分隊は「煙気あり」を即報。走行中に「第2次出場」を要請した[192]

22時43分、南坂町および道頓堀分隊が火災現場に到着。南署本署のはしご車、ポンプ車、スノーケル車も現場に到着。放水準備作業が開始された[192]

22時44分、消防指揮者は千日デパート保安係員に対し、消火活動のためにデパート北東正面出入口とE北西出入口のシャッターを開けるよう命じた[173]。さらに消防指揮者は、デパート北側に特殊車両を配置するよう指示した[203]。シャッターが開放されたと同時に7階プレイタウンの窓から要救助者50名から60名が身を乗り出した[192]

22時45分、南署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[235]。同時刻に大阪府警は110番通報を受信した[233]

22時46分、南署各隊により延焼階に対して放水が開始された[203]。南署救急隊は、7階に10名以上の要救助者を認めたことから大阪市消防局管内すべてのはしご車の出動を要請した[203]

22時47分、指令室より特別出動態勢が発令された[203]。南署はしご車分隊、7階ホステス更衣室窓で救出活動を開始。同窓から2名を救助した[235]。その後、13分間にわたり救出活動を行った[235]。南坂町PR分隊は、7階北東角の窓から投下された救助袋が2階ネオンサインに引っかかったため、はしごを立てかけて登上し、地上へ降ろす作業を行った[173]

22時48分、南坂町PR分隊が「第3次出場」を要請した[203]。大阪府警、火災現場に警察官を派遣。現場付近一帯の交通規制を開始した[233]

22時49分、南坂町PR分隊は、20名程度の通行人に地上に降ろされた救助袋先端部分(出口)の把持の協力を要請した[173]

22時50分、消防隊出場第2陣が現場に到着。「第3次出場」が発令された[203]

22時51分、西署はしご車分隊が現場に到着[235]。約5分間にわたって方面隊が7階プレイタウンからの脱出者に対し、ハンドマイクで「飛び降り制止」と「救助袋の正しい使用方法」を呼びかけた[173]

22時52分、西方面隊より7階で20名から30名の要救助者確認の報告[203]。東署[注釈 21]はしご車分隊が現場に到着[235]

22時53分、西署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[235]

22時54分、西方面隊より7階で50名から60名の要救助者確認の報告[203]。西署はしご車分隊、7階北東中央窓から救出を開始。13分間に10名を救出した[235]。阿倍野署はしご車分隊が現場に到着[235]

22時55分、南方面隊が「7階窓から飛び降りた者が10名」と報告。東署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[235]。阿倍野署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[235]。北署はしご車分隊が現場に到着[235]
南署道頓堀PR分隊は、デパートビル6階のボウリング場工事現場にアセチレンガスボンベ40キロ1本と酸素ボンベ同2本が放置されていると報告した[203]
南坂町分隊は、15名程度の通行人の協力を得てサルベージシート(救助幕)を設置し、救助袋から落下してくる者の救助を開始、3名を救助した[173]。その後、はしご車からの落下に備えて23時15分まで救出活動を行った[173]

22時56分、南方面隊は大阪府警に対し雑踏警備や交通整理などのために機動隊の出動を要請した[233]。阿倍野署はしご車分隊がバンドマン室窓で救出活動を開始。18分間に20名を救出した[235]

22時57分、北署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[235]

22時58分、南方面隊がビル7階北東部窓より12名が飛び降りたと報告。北署はしご車分隊、タレント室窓および厨房窓で救出活動を開始。10分間に10名を救出した[235]

23時1分、消防隊出場第3陣(第3次出場)現場に到着。西方面隊が7階に要救助者が20名から30名いると報告[203]。東署はしご車分隊、東側2か所および北東角(救助袋投下窓)の計3個所の窓で救出活動を開始。23分間に10名を救出した[235]。大阪府警機動隊1個中隊が火災現場に到着した[233]

23時5分、消防隊はデパートビル北側の千日前通路上に現地指揮本部を設置した[233]。消防局長、警防部長、警備課長、各消防署長(計8消防署署長)が出場して方面指揮にあたった[233]。また4方面隊で情報収集を行い、人命救助、防御活動、広報活動を行った[233]

23時8分、西方面隊よりデパートビル3,000平方メートルが延焼中と報告が入る[203]

23時10分、南方面隊、40名程度をはしご車で救出中と報告[203]

23時15分、南署はしご車分隊、救出活動終了[235]

23時23分、東署はしご車分隊、救出活動終了[235]

23時25分、西署はしご車分隊、救出活動終了[235]

23時29分、阿倍野署はしご車分隊、救出活動終了[235]

23時30分、北署はしご車分隊、救出活動終了。消防隊は、すべての人命救出活動を終了した[203]

23時32分、大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(はしご車7台、救急車12台を含む)を投入した[33][236]

23時35分、大阪府警は、機動隊1個中隊第2陣を火災現場に配備した[233]

14日0時過ぎ、火勢が衰え出す[203]。消防隊は火災鎮圧までの間、延焼階に対する消火活動と火災防御活動を継続した。
大阪府警は負傷者の搬送、捜査活動、警備隊などを現地指揮するための府警本部長を長とする現地警備本部を設置した[233]
道頓堀PR分隊からデパートビル6階のボウリング場工事現場に「ガスボンベが放置されている」との一報を受け[203]、大阪府警警備本部は千日前通からの避難命令を出した[233]。警察官の出動は総数678名にのぼり、負傷者の救護搬送、交通規制、雑踏警備にあたった[233]

5時43分、火災鎮圧[203]

7時41分、2階から4階までの8,763平方メートル[237]を延焼して火災はいったん「鎮火」したと発表された。大阪府警、火災延焼階と7階プレイタウンの現場検証を実施。検証終了後に遺体搬出活動を行った[233]

15日0時15分ごろ、デパートビル6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が目撃し119番通報した。消防隊は6階と7階窓から放水し、小火程度で消し止めた。消防隊は消火困難箇所および内在物品などのくすぶりがまだデパートビル内に残っていると判断し、消火および火災防御活動を再開した。

15日17時30分、火災鎮火[238][239]

消防隊および救急隊の人命救出活動[編集]

はしご車は、大阪市消防局保有の8台のうちの7台が出場し、そのうちの5台(南署はしご車分隊、西署はしご車分隊、東署はしご車分隊、阿倍野署はしご車分隊、北署はしご車分隊)が人命救出活動にあたった[235]。なおデパートビル南側に配置した住吉署はしご車分隊および北西に配置した東淀川署はしご車分隊は、消火防御活動に投入された[240]

南署はしご車分隊の活動[編集]

南署はしご車分隊は、22時42分に出場、44分に現場に到着した。デパートビル北側西寄りに配置。45分、デパートビル7階ホステス更衣室窓にはしごを伸長。47分、救出活動開始。22時47分から23時までの13分間に、ホステス更衣室窓から女性2名を救助した。救助の際、窓がロッカーで半分塞がれており、斧でガラスを叩き割って失神している2名を引っ張り出して救助した。その後、同窓で15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御にあたった。ホステス更衣室窓で死亡者7名を取り残す結果になった[241]

西署はしご車分隊の活動[編集]

西署はしご車分隊は、22時44分に出場、51分に現場に到着した。デパートビル北東側正面に配置。53分、デパートビル7階北東側正面のプレイタウン中央部窓にはしごを伸長。54分、救出活動開始。22時54分から23時7分までの13分間に、失神状態の1名を含む要救助者計3名をリフターで救助。さらに、はしご伝いに自力で降りてきた7名を救出。合計10名(男性5名、女性5名)を救出した。その後、18分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御にあたった。救出窓で死亡者はいなかった[242]

東署はしご車分隊の活動[編集]

東署はしご車分隊は、22時44分に出場、52分に現場に到着した。デパートビル北東側正面東寄りに配置(アーケード入口前)。23時1分、北東側窓1か所(救助袋が設置された窓)にはしごを伸長、救出活動開始。順次、東側の窓2か所(商店街アーケードの真上)にはしごを移動。23時1分から23時23分までの22分間に、合計3か所の窓から8名を救出。5名ははしごに自力で乗ったが、2名は窓際で失神している状態のところを消防隊員に引っ張り出され救助に成功、1名はリフターで救出した。なお、はしごが伸長している最中に2名がはしごに落下してきて地面に墜落し、死亡した。救出窓で死亡者9名を取り残す結果となった。なお東署はしご車分隊は、救出活動終了後に火災防御にあたったが、内部探索は行っていない[242]

阿倍野署はしご車分隊の活動[編集]

阿倍野署はしご車分隊は、22時44分に出場、54分に現場に到着した。デパートビル北東側西寄りに配置。55分、デパートビル7階北東側西寄り窓(バンドマン室)にはしごを伸長、56分に救出活動開始。22時56分から23時14分までの18分間に、はしご伝いに自力で降りてきた20名(男性17名、女性3名)を救出した。その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御にあたった。バンドマン室窓で死亡者3名を取り残す結果となった[242]

北署はしご車分隊の活動[編集]

北署はしご車分隊は、22時42分に出場、55分に現場に到着した。デパートビル北側東寄りに配置。57分、デパートビル7階の北側東寄り窓(タレント室)にはしごを伸長、58分き救出活動開始。22時58分から23時8分までの10分間に、10名を救出した。うち8名はタレント室窓からはしご伝いに自力で降下し、うち2名は厨房の窓際で失神しているところを消防隊に引き出されリフターで救助された。その後、22分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御にあたった。厨房窓で死亡者5名を取り残す結果となった[242]

南坂町分隊の活動[編集]

南坂町分隊は、砂袋(おもり)なしで地上に投下された救助袋が2階のネオンサインに引っかかったところを、消防隊員が二連はしごを立てかけて登り、袋の先端を地上に降ろした。その後、通行人に救助袋先端の把持を頼んだ。さらに消防車に積んでいたサルベージシートを救助幕として活用。通行人の協力を得てシートを広げ、22時55分から23時1分の7分間、7階窓から救助袋で脱出する途中に墜落してきた者3名(男性2名、女性1名)を救助することに成功した[221]

そのほかの人命救出活動としては、出場第一陣(南本署四分隊、南坂町分隊、道頓堀分隊)を中心にビル内部の探索を行い、7階はもちろんのこと、延焼階も含めて要救助者の捜索にあたった。消防隊の初期活動は、消火活動よりも人命救助優先で進められた。しかし、濃煙と暗闇により視界が利かず、また熱気により呼吸困難と熱傷に晒されたことからビル内部の探索を断念した。人命救助優先は、23時30分の救出活動終了が宣言されるまで継続されていた[235]

救急隊の活動[編集]

救急隊の活動は、大阪市消防局の救急隊12隊(救急車17台)により、負傷者を病院へ搬送した[233]。7階からの飛び降りや墜落者が出始めたころから救急搬送が活発化し、はしご車で救出された人たちが50名に達したころにピークを迎えた。搬送は合計25回で、56名の負傷者(即死同然の者も含む)を大阪市内13か所の病院へ救急搬送した[233]。担架隊は10隊が投入された[33]

消防隊の火災消火および火災防御活動[編集]

出場第一陣が22時43分に火災現場に到着、22時46分から放水が開始された。その後に特別体制が発令され、第三出場まで行われた。現地指揮本部が設置され、7時41分の火災鎮火までの間に出動した消防車両(消防隊)は合計85台(はしご車7台と救急車17台を含む)で、投入された消防士は596名にのぼった(非番の100名を含む)[33]。投入された消防車両は、普通ポンプ車(PR)25台、普通ポンプ車(P)3台、水槽つきポンプ車(TR)7台、水槽つきポンプ車(T)4台、はしご車(L)7台、スノーケル車(S)5台、屈折放水塔車(W)1台、救出車(R)3台、排煙車(SE)1台、サルベージ車(SA)2台、方面隊車両4台、敏動隊車両(バイク隊)6台、救急車(A)17台である[243]

おもな分隊の消火防御活動[編集]

  • 南署南坂町R分隊[注釈 22]
    • 7階から転落してくる者の救助活動、照明灯火作業および酸素ボンベ充填作業を行った[244]
  • 南署道頓堀PR分隊[注釈 22]
    • デパートビル西側から内部侵入し、ホース2本を使用して3階で消火活動を行った[244]
  • 南署本署PR分隊[注釈 23]
    • デパートビル西側から北側で放水する西成分隊の屈折放水塔車に給水、および南側で放水する北署本署スノーケル車に給水を行った[244]
  • 南署本署TR分隊[注釈 23]
    • デパートビル西側から内部に侵入し、3階と4階で消火活動を行った[244]
  • 東署上町PR分隊[注釈 22]
    • デパートビル南東側からビル南側で放水する住吉はしご分隊と、ビル北側で放水する南署本署スノーケル車に給水を行った[245]
  • 南署恵美須TR分隊[注釈 24]
    • デパートビル南東側より北側と南側から内部に侵入し、各延焼階で消火活動を行った[245]
  • 南署立葉T分隊[注釈 24]
    • デパートビル東側から住吉はしご車分隊への給水、および南側から内部に侵入し、4階で消火活動を行った[245]
  • 南署立葉PR分隊[注釈 24]
    • デパートビル南側から内部に侵入し、4階で消火活動を行った[245]
  • 南署本署S分隊[注釈 23]
    • デパートビル北側から上層階に向けて放水を行った[245]
  • 西成署海道TR分隊
    • デパートビル東側から内部に侵入し、3階で消火活動を行った[245]
  • 東署T分隊[注釈 25]
    • デパートビル北東正面出入口から内部に侵入し、2階で消火活動を行った[245]
  • 西成署津守PR分隊
    • デパートビル南西側より内部に侵入し、3階と4階で消火活動を行った[245]
  • 大正署泉尾TR分隊
    • デパートビル南側から内部に侵入し、3階で消火活動を行った。また、東署スノーケル車に給水を行った[245]

被害状況[編集]

人的被害[編集]

千日デパート火災における人的被害は、死者118名[9][10][11]、負傷者81名で[10]、負傷者のうちプレイタウン関係者47名[246][10]、消防隊員27名[247]、警察官6名、通行人1名である。

火災発生当時のデパートビル滞在者[編集]

火災発生時に千日デパートビル内に滞在していた人は212名[248]である。7階プレイタウンで181名[注釈 8][248]、地下1階プレイタウンエレベーターホールまたは1階プレイタウン出入口近辺にプレイタウン関係者が10名(ホステス9名、ボーイ1名)[248]、地下1階の電気室と機械室にそれぞれ千日デパート社員が1名ずつ計2名[248]、1階に当直の千日デパート保安係員が4名[248]、3階ニチイ千日前店に電気工事作業員ら5名[248]とニチイ社員2名[248]、4階ニチイ千日前店にニチイ社員2名[248]、6階ボウリング場工事現場に工事作業員6名である[248]。7階プレイタウンに滞在していた181名以外のデパートビル滞在者に死者や負傷者は1人もおらず、全員無事にデパートビル外へ脱出している。

死亡者の内訳[編集]

死者118名は、すべて7階プレイタウンの関係者である。死者の内訳は、男性が48名[249]、女性が70名[249]、客が34名(男性33名、女性1名)[249]、ホステスが65名[249]、プレイタウン従業員が19名(男性15名、女性4名)[249]である。7階プレイタウンのフロア内で死亡した者が96名[250](男性43名、女性53名)[134]、7階窓からの飛び降りや転落で死亡した者が9名[9](男性3名、女性6名)[134]、救助袋からの転落で死亡した者が13名[9](男性3名、女性10名)[134]である。

7階プレイタウンフロア内の死亡場所[編集]

7階プレイタウンのフロア内で死亡した96名の死亡場所は、ホール中央部で26名[250](男性14名、女性12名)[139]、ホール客席で1名[250](男性1名)[139]、ホール窓際で12名[250](男性3名、女性9名)[139]、その他のホール内で7名[250](男性4名、女性3名)[139]、トイレで7名[250](男性4名、女性3名)[139]、レジ・リスト室で4名[250](男性1名、女性3名)[139]、物置(ホール西側資材置場)内で13名[250](男性6名、女性7名)[139]、事務所前換気ダクト付近で8名[250](男性2名、女性6名)[139]、バンドマン室で3名[250](男性3名)[139]、調理室で5名[250](男性2名、女性3名)[139]、冷暖房機械室で1名[250](男性1名)[139]、事務所内宿直室で2名[250](男性1名、女性1名)[139]、ホステス更衣室で7名[250](男性1名、女性6名)[139]である。

死亡者の死因[編集]

7階プレイタウンフロアで死亡した96名の死因は、一酸化炭素中毒が93名(男性40名、女性53名)[251]、胸部腹部圧迫が3名(男性2名、女性1名)である[9][251]。7階窓からの飛び降りや救助袋からの転落によって死亡した22名[250]の死因は、脳挫滅1名(男性1名)[252]、脳挫傷12名(男性5名、女性7名)[252]、頸椎骨折3名(女性3名)[252]、骨盤骨折2名(女性2名)[252]、胸腔内内臓破裂2名(女性2名)[252]、外傷性ショック2名(女性2名)[252]である。

負傷者[編集]

火災発生時のプレイタウン滞在者181名[注釈 8]のうち、7階から自力で脱出できた者が10名(男性4名、女性6名)[253]、消防隊のはしご車で救出された者が50名(男性37名、女性13名)[235]、救助袋から地上へ降下中に転落したところを消防隊のサルベージシートで救助された者が3名(男性2名、女性1名)で[252]、7階からの生還者は合計63名(男性43名、女性20名)である[134]。負傷者81名について、プレイタウン関係者の負傷者は消防隊による救出または自力脱出した63名のうちの47名で[8]、残りの16名は負傷者に計上されていない。おもな負傷内容は、煙を吸い込むなどして負った一酸化炭素中毒[254]、救助袋に手足を擦りつけるなどして負った熱傷[254]、飛び降りによる腰部骨折、大腿部骨折、肘骨折、全身打撲、打撲、挫傷などであり[252]、そのほかショック症状、急性結膜炎による負傷もあった[254]。また消防隊員27名の負傷はおもに一酸化炭素中毒である[247]。警察官と通行人の具体的な負傷状況は不明であるが、警察官6名は軽傷、通行人1名は中傷に分類されている[232]

7階からの生還者[編集]

自力脱出者
7階プレイタウンから生還した者の中で、自力で脱出できた者が10名いる。まず火災覚知の初期にA北東エレベーターで地下1階まで降下して助かったホステス1名[注釈 26]、B階段を使用して1階へ脱出した2名(クローク係の女性1名、ホステス1名)[255]、救助袋の上を馬乗りになって降下し、脱出に成功した者が5名(男性3名、女性2名)[255]、7階東側窓から商店街アーケードへ落下、または飛び降りて助かった男性2名[255]である。
B階段を使って避難した2名の女性
B階段を使って避難できた2名のうち、クローク係の女性は、エレベーターホールに白煙が漂っているのを感じ、隣の電気室にいる電気係にそのことを知らせた[253]。電気係は現状を知らせようとホール内へ向かっていった[253]。その直後にA南エレベーターから噴き出す煙の量が急激に増してきて、数メートル先も見えない状況に陥ったために、クローク係の女性は危険を感じてすぐにB階段から避難したという[253]。クローク係の女性は、自分の持ち場のすぐ後ろに避難階段があることをあらかじめ知っており、さらにはクロークがB階段に直結していたことが幸いし自力で脱出できた[253]。またもう1名のB階段を使って避難に成功したホステスは、接客中に煙の流入に気付いて客席からレジに向かったが[252]、店内放送で「落ち着いてください」と流れたため[252]、元の客席に戻ってしばらく座っていたが、煙に巻かれたため避難することにした[252]。猛煙と停電による暗闇の中、手探りでフロアを進み、男性用トイレと女性用トイレに交互に入って嘔吐したり[252]、ハンカチを水に濡らして口に当てたりした[252]。そして壁伝いにエレベーターホールに出て、なんとかB階段にたどり着き、無事に地上へ脱出できたという[252]。この女性が猛煙と熱気、暗闇の恐怖に晒されながらもB階段を目指せたのは、普段から退勤時にエレベーターを使わず「健康のために」という理由でB階段を利用していたからであり[252]、事前に持っていた情報が自力脱出の成功に大きな影響を与えた[252]
7階窓から飛び降りて助かった男性客
7階東側窓からアーケード屋根に飛び降りて助かった男性客1名は、火災覚知の初期にほかのプレイタウン関係者同様、エレベーターホールへ行ったり、ほかの非常口を目指したりしたが、いずれも使えずに避難が不可能になったため、東側窓に移動した。そのときの状況を男性は次のように語っている。
友達と飲んでいたら急に煙が店内にたちこめたので、火事だと思い、エレベーターの乗り場へ飛んで行った。しかしここはすでに人でいっぱいのため、反対側の非常口へかけつけたが、これも使えなかった。火が店内まで回り、キャーッという悲鳴がうずまき、客もホステスもパニック状態だった。最後の逃げ口として窓へ取り付き、ガラスを割ったがものすごい煙と火に攻められた。別の窓から次々に客とホステスが耳をつんざく悲鳴を残しては飛び降りていった。頼みのツナの梯子車は私の窓にはやって来ず、いっしょにいた5、6人は順々に飛び降りた。私は10数年前から趣味でダイビングをしていたので降りる見当はつけやすかった。歩道にある電柱を支えるロープ(アーケード上の補強ワイヤー)をめがけて飛び降りた。ちょうどおなかの部分がロープに当たり、その反動でアーケードの屋根にドスンと降りて助かった。気が付くと腕時計もなく、下着もおなかの部分でちぎれていた〔ママ[256][252] — 男性客N.M.さん、産経新聞 1972-05-14
また一方で次のように語った。
二回目に、エビ飛び見たいな形で飛び降りた。ゆっくり降りている、という意識があって、うまくいったと思った[257] — 男性客N.M.さん、週刊朝日 1972-05-26
アーケード屋根に張られた2本のワイヤーをめがけて飛び降りた際に、腹がワイヤーに当たって助かったという。肋骨骨折、腹部裂傷の重傷を負ったが、19年間続けていた趣味のダイビング経験が活かされ九死に一生を得た形である[258]。それでも飛び降りるのを1度はあきらめ、10分くらいは窓枠にぶら下がって逡巡してから飛び降りたという[259]。もう1名の男性もアーケード屋根に落下して助かった[255]。こちらは、猛煙と熱気から逃れようと窓枠にぶら下がっているうちに力尽きて、垂直にアーケードヘ落下したが左大腿部骨折と左肘骨折の重傷を負いつつも一命を取り留めた[255]
救助袋で脱出に成功した女性
救助袋の上を馬乗りになって降下して助かったホステスの1
人は、そのときの状況を次のように語った。
私はボックスでお客さんにビールをついでいました。もうみんなめちゃくちゃ、どこへ逃げていいかわからず、とにかく強そうな男の人にくっついていけばと思った。そばにいた背の高い人の背広のそでを握りしめて、窓のところまでたどりつきました。私は10何人目かに窓わくを乗り越え、布につかまった。下を見てはいけないと考え、両手に満身の力をこめてすべり降りた。私の両手の上に次の男のひとのおしりがのっかり、すべり降りているうち、まさつで手の平が熱くなり、破れて血が出たのがわかった。でも、この手を離したらおしまいだと思って……〔ママ[260][252] — ホステスM.K.さん、読売新聞 1972-05-14
ホステスは、地上まであと3、4メートルのところで手を離し落下、両腕と腿の座創、左足首を捻挫した[252]
はしご車による救出者
消防隊のはしご車(計5台)による7階からの救出者は50名[171][261](男性37名、女性13名)で、救出された全員が生還できた[171]。7階プレイタウンフロアからの避難路を探す際に、あまり右往左往せず、いち早く外窓に取りついた者がはしご車に救われた。体力が残っていた者は窓枠を乗り越え、はしごの先端から自力ではしご伝いに降りてきており、おもに男性が多かった。消防隊の救助でリフターに乗せられて降下した者は、窓際で失神していたか体力が弱っていた者、女性であった。
統率の取れた集団
バンドマン10名は、火災覚知の初期段階からバンドリーダーの指示でステージ裏のバンドマン控室に全員が待機していた[262]。ステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント室)は、ベニヤ板で間仕切りされた簡易的な部屋であったが、細かく仕切られフロアから隔絶されていたことで煙の汚染が比較的緩かった。だがF階段の電動シャッターを開けたことで7階プレイタウンに大量の猛煙と有毒ガス、熱気が流入するようになり[212]、それ以降は小部屋にも煙が大量に入るようになっていた。バンドマンらはドアの隙間に布や鼻紙を詰めて煙を凌ごうとしたが効果がなかった[200]。そこでバンドリーダーは、部屋に普段から置いてあった野球のバットで窓を叩き割り[200]、一緒に避難している仲間たちに順番に外気を吸わせて救助を待った[200]。バンドマン室の窓に阿倍野署はしご車分隊のはしごが伸びてきて救出が始まったのは22時56分である[263]。はしごの先端についていた消防ホースノズルが邪魔してはしごと窓枠の間に30センチほどの隙間ができていた[263]バンドリーダーは自分の体重を掛けてノズル(ホースの先端部分)を折り曲げ、すき間を解消した[264][要出典]そのすぐあとに最初の2名がリフターで降下、その後を18名の避難者がはしごを自力で降りていった[264]

物的損害[編集]

建築物および装備品の損害
本件火災によって損害を受けた千日デパートビル(鉄骨鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、地上7階建て、地下1階および屋上塔屋3階を含む、建築面積3,770.21平方メートル、延床面積2万7,514.64平方メートル(屋上および塔屋3階部分を含む)[239])の延焼範囲は、同ビル2階から4階までで、床面積合計1万899平方メートルのうち8,763平方メートル(80.4パーセント)が焼損し、延床面積の割合では31.8パーセントに及んだ[238][239]。延焼階ごとの焼損割合は2階が床面積3,714平方メートルのうち3,192平方メートル(86パーセント)[238][239]、3階が床面積3,665平方メートルのうち3,218平方メートル(88パーセント)[238][239]、4階が床面積3,520平方メートルのうち2,353平方メートル(66.8パーセント)である[238][239]。延焼階より上の各階は階段、空調ダクト、電気配管、エレベーターシャフトからの煙や熱気の流入によってフロア全体と商品および装備品などに多量の煤煙がかかる損害を受けた[265]。5階の一部フロアでは、空調ダクトの隙間から流入した熱気の影響で、天井板が崩落した[266]。6階と7階ではフロアの一部で限定的な焼損がみられ、5月15日未明に6階ボウリング場改装工事現場(千日劇場跡)で小火が発生し、床の一部が焼損した[267]。また7階プレイタウンでは、事務所前の空調ダクトから熱気を伴った多量の煙が店内に流入し、ダクト吸入口周辺の天井、壁、事務所ドアなどの焦損、または廊下に積み上げられていたビールケースおよびビール瓶などの一部を熔解させる損害を出した[268]。延焼階より下の各階では、消火活動に使われた多量の消防用水が上階から流れ込み、その影響により地下1階と1階で商品や装備品などが冠水し損害を受けた[269]。千日デパートビル以外のおもな損害としては、千日前商店街アーケードのプラスチック製屋根が7階からの飛び降りによって天板に穴が開き、その一部が破損した[270]
損害額
大阪市消防局が公表した罹災者提出の申告書によると[271]、火災焼失による被害額は建物で19億5,000万円、収容物で16億7,937万7,000円、合計36億2,937万7,000円である[271]。収容物の損害額内訳は、商品12億2,395万2,000円、什器備品(装備品)3億695万3,000円、その他1億4,847万2,000円である[271]

出火原因[編集]

出火原因については、出火推定時刻22時27分(大阪市消防局推定)[36]の火災発生直前まで3階東側の出火推定場所(寝具・呉服売場付近)をタバコを吸いながら1人で歩き回っていた工事監督の失火であると推定された[36]

工事監督の失火が火災原因とする根拠としては、以下のことが挙げられる。

  1. デパートビルの電気系統には漏電などで出火を起こすような原因は確認されなかった[6][272]。21時30分ごろ(火災発生の1時間前)、ニチイ千日前店の店長が3階売場の点検を行ったところ、出火推定場所に異常は見られなかった[160][161]。また同時刻に保安係員2名によって3階の巡回が行われたが、北側と南側の二手に分かれて同階を点検したところ、出火推定場所に異常はなかった[131][160][161]
  2. 出火推定時刻に3階にいたのは工事監督1名と工事作業者4名[注釈 19]だけである[35][6]
  3. 出火推定時刻の10分ほど前に、工事監督が出火推定場所である東側売場の方へ歩いていくのを工事作業者に目撃されている[273]。また出火推定時刻に作業現場を離れて出火推定場所付近を歩き回っていたのは工事監督1名だけである[6][274]
  4. 工事監督は、歩きながらタバコを2本吸い、火がついたままのマッチを布団の上に捨てたと供述している[6][274]
  5. 工事監督が供述したタバコかマッチを捨てた場所と、出火推定場所が一致する[273]

以上の状況証拠によって工事監督は、1972年5月14日23時45分、現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で大阪府警南署に緊急逮捕された[228]

警察の取り調べに対し工事監督は以下のように供述した。:

工事終了後の予定であった北側の機械室から東側部分を今後の工事を確かめるため見て回ったり、店内を徘徊していたところ、火災現場に至って煙草が吸いたくなりパイプに煙草をさして口にくわえ、マッチで火をつけたが、その火の消えていないままのマッチをそのまま、布団の上に捨てたか、どこかでパイプに差した煙草に火をつけ、火災現場でパイプを吹いて火のついている煙草を布団の上に飛ばした。〔ママ[228] — 電気工事監督、危険都市の証言 1981

大阪府警捜査一課・南署捜査本部は、1972年6月22日10時から火災現場で工事監督の「マッチを布団の上に飛ばした(捨てた)」という供述の裏付けを取るため、出火状況を再現する燃焼実験を実施した[275]。その結果、工事監督が布団売場の布団の上に火のついたマッチを捨てたことが火災原因だと断定した[275]。しかしながら、大阪地方検察庁は1973年8月10日、「供述に一貫性がなく起訴するに足る証拠がない」として工事監督を不起訴処分にしている[228]。また防火管理責任者などに対する刑事裁判の判決文においても「工事監督の行動や供述を証拠上確定させることができない」として、公式には火災原因は不明とされた[6][7][274]

「工事監督の供述に一貫性がない」とされるが、最初の供述では引用で記したとおり「3階でタバコをふかしながら歩いているうちに、パイプのタバコをふかしたまま捨てた」であったが[273]、その後「火のついたマッチの軸を捨てた」に変わり[273]、そして「自分がマッチで放火した」と言い出した[273]。さらに追及すると「火のついたタバコを捨てた」「タバコを吸うときにつけたマッチの火が消えているのを確認しないで捨てた」などと言うなど[273]、供述を二転三転させている(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[273]。工事監督の供述には客観的な状況と合わない部分も見られた[273]。たとえば「火災報知機のボタンを押してすぐに6階へ119番通報のために走った」との供述をしたが、工事監督からの119番通報を大阪市消防局は受信していない[276]。また「6階で119番通報をしたあと、4階へ降りたが煙に巻かれたので再び6階へ上がり、6階の窓を破ってネオン修理用のタラップに飛び移り、2階へ降りて消防隊に救われた」との証言があるものの[174]、その一方で大阪市消防局の質問調書には「工事人らが避難した後を追って1階へ逃げた」とも答えており[276]、不起訴になった理由は一貫性のなさに加えて信用性のなさも影響している[273]

直接的な証拠がないこと、目撃者がいないことも不起訴の理由となっている[273]。実際のところ、工事監督の自供以外に犯行を裏付ける証拠が存在せず、犯人であると断定するには証拠が乏しく、起訴したとしても公判を維持できないか、もしくは被疑者を有罪にできる可能性がきわめて低いと判断したことから大阪地検は不起訴処分にしたという(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[273]。仮に火のついたままのマッチを布団の上に捨てた場合、どれくらいの量の布団に火がつけばあのような火災になるのか、前記のとおり警察は火災現場で燃焼実験を行ったが[233][275][273]、その結果は1メートル以上の高さの布団に火がつけば、本件火災のレベルに達することが判明した[273]。たとえ無意識であったとしても、常識的に考えて高さ1メートルの布団の上に火のついたままのマッチを投げ捨てることなどあるだろうか、という疑問と不自然さも不起訴に至った理由として挙げられている(政府委員・法務省刑事局長の答弁から)[273]

不起訴に至った理由としてもうひとつ挙げられるのは、工事監督以外に失火か放火に関与した者が別にいるのではないかと疑念が持ち上がったからである[273]。火災発生2週間ほど前の4月30日夜、千日デパート4階・ニチイ千日前店の婦人服売り場で、何者かが商品の婦人服にいたずら書きをした事件があった[273]。さらに火災発生当夜、デパート閉店後に3階・E階段出入口の防火シャッターが閉鎖されていたことは保安係員によって確認されているが、なぜか火災発生時に防火シャッターは開いていた[273]。この2つの事実が確認されているため[273]、大阪地検は工事監督を起訴することに慎重にならざるを得なかった背景もある(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[273]

1974年4月15日に開かれた遺族統一訴訟の口頭弁論で、工事監督は「出火地点には近づいていないし、タバコやマッチを捨てたこともない。脅されて殴られたりして早く釈放されたい一心で調書に署名、押印した」などと述べ、一転して全面否認している[228]

日本ドリーム観光は、1974年(昭和49年)7月9日に被疑者(工事監督)の不起訴処分は不当だとして検察審査会に審査申立を行った[273]。同年12月5日から9日までの間に6回の審査会議が開かれ[273]、議決に向けての流れができあがったところに、1975年(昭和50年)1月14日、遺族3名が被疑者(工事監督)の不起訴処分に納得できないとして検察審査会に申立を行った[273]。遺族3名からの申立については、審査を申し立てたのが被害者本人ではないことから、即日却下された[273]。しかし、検察審査会の職権により、日本ドリーム観光の審査申立に併合する形で審査が進められることになった[273]。その結果、1月16日に「被疑者(工事監督)の不起訴は相当である」と結論が出された(最高裁判所事務総局刑事局長の答弁から)[273]。これによって一事不再理の原則から工事監督の不起訴処分が確定した。

出火場所[編集]

出火推定場所は、南警察署によると「3階東側の柱12号の南西の布団台」付近、また南消防署長の火災原因決定意見書では「店舗Q」および「ニチイ寝具・呉服売り場」付近と推定された[228]。いずれも第一発見者の工事人が目撃した「赤黒い炎と黒煙」が立ち昇っていた3階東側のエリアである。この付近は、コンクリートの柱、梁、スラブ、金属類以外はすべて燃え尽きていたが、柱やスラブの煤けの程度はほかの場所に比べて少なかったことが根拠となっている[36]

火災および被害が拡大した要因[編集]

千日デパートの防火管理上の問題点[編集]

既存不適格の建物[編集]

千日デパートビルは、1932年(昭和7年)に建設された建物に度重なる改修を加えて使用しており、火災当時(1972年)の建築基準に合わない部分がみられ、いわゆる既存不適格の建物であった[277]。また消防法令においても1961年(昭和36年)以前に建てられた建築物かつ防火対象物ということで「前法不遡及の原則」に従って、現行法令の基準を満たす消防用設備などの設置義務の対象からは外され、遡及適用を免れていた[277]

共同防火意識の欠落[編集]

千日デパートは、1958年(昭和33年)の開業当初から複合用途の商業施設だったが、ビル全館を同一の管理権原者(千日デパート管理会社)が管理する防火対象物として消防計画が提出されていた[278]。ところが1967年(昭和42年)に異なる管理権原者である「プレイタウン」と「ニチイ千日前店」が同ビルに出店したことから防火管理体制が複数に分かれるきっかけになった[278]。特に7階プレイタウンは、独自の防火管理者を選任し、個別に防火管理をおこなう体制になっていた[278]。1969年(昭和44年)に消防法が改正され、管理権原が分かれている複合用途防火対象物は共同防火管理が必要な対象物に改められたが、同デパートは消防署からの度重なる指導にもかかわらず、火災発生当日に至るまで共同防火管理体制を取ろうとはしなかった[278]。火災発生2か月前の3月に千日デパートとミナミ地下街関連の6つの関係者は、消防署の指導で会議を開き、4月1日に「ミナミ地下総合共同防火管理協議会」を発足させ、その発会式を同月13日におこなった[278]。組織や機構などを話し合う前に本件火災が発生したが、肝心のデパートビル内における共同防火管理体制は引き続き等閑となっていた[278]

千日デパートを経営管理する日本ドリーム観光と、プレイタウンを経営管理する千土地観光とは「親会社と子会社」の関係にあるが、両社間で共同の消火訓練や避難訓練を実施したことは一度もなかった[279]。また千日デパートとプレイタウンの間で防火管理の責任者同士が火災や災害時の通報体制、避難誘導などについて協議したこともなかった[280]。また、共同で防火管理を行うための協議会を設置する構想すらもなかった[279]。異なる管理権原者同士の共同防火管理意識のなさを象徴する例として、火災発生の10か月前に千日デパート管理部は、6階以下の階すべてに災害時に全館一斉放送できる防災アンプ(非常放送設備)を設置したが、7階プレイタウンだけには設置されず、そのことをプレイタウンに通知していなかった[279]。さらにはプレイタウンから1階保安室へ火災発生を知らせる火災報知機は設置されていたが、全館の火災を知らせるために7階で鳴動する火災報知機(警報ベル)の設置はなかった[279]。また保安室からプレイタウンへ緊急通報する手段は、内線電話と外線電話の両方があったものの、それはデパート営業時間内(21時まで)に限られていた。デパート閉店後の保安室とプレイタウン間の連絡は、同じ建物内に入居していながら「外線電話(一般加入電話)」で行うしか手段がなかった[279]

消防査察の指摘を無視[編集]

火災発生の1年前(1971年5月)、千葉市の田畑百貨店で閉店後の深夜に火災があったことをきっかけに、消防当局は商業施設閉店後の防火区画シャッターやエスカレーターの防火カバーシャッターを閉鎖するように指導方針を大きく変更した[281]。それにともない大阪市消防局は、1971年(昭和46年)5月25日と26日に管内の百貨店や商業施設に対して夜間査察を実施した[282]。同時に南消防署も管内の百貨店などに対して特別点検を実施した[282]。大阪市消防局と南消防署は、査察と点検の結果を各百貨店の関係者を集めて報告し、同時に説明会も行い、千日デパートの管理課長も出席していた。同デパートについて市消防局と南消防署が指摘した内容は以下のとおりである[282][283]

  1. 2階F階段・吹き抜け閉鎖用横引きシャッターが故障していて使えない状態であり、閉鎖できるよう修理すること[283]
  2. 各階フロアの防火区画シャッターのシャッターラインが確保されていない箇所があり、改善すること[283]
  3. 閉店後に各階フロアの防火区画シャッター、およびエスカレーター開口部と各階段出入口の防火シャッターを閉鎖すること[283]

消防署の査察の結果を受けて管理課長は、各テナントの協力を得てシャッターラインの確保は実施したが、2階F階段横引きシャッターの修理と閉店後の防火区画シャッターの閉鎖については実行しようとせず、消防署の指導を無視した[284][283]。2階F階段シャッターの故障については、消防署から再三にわたり改善を指導されており、1970年(昭和45年)12月にも管理課長は南消防署から同シャッターの故障について指摘されていたが、そのことを上司に報告するも、何も改善されなかった[284][283]。その後も一向に改善も修理もされず、火災発生日を迎えた[282]。防火設備の設置に関する中途半端な対応の例として、熱式感知器は一部の階を除いて設置されていたが、火災延焼階である2階ないし4階にだけは取りつけられていなかった[285]

脆弱な保安体制[編集]

千日デパートの保安管理は、日本ドリーム観光の千日デパート管理部に所属する保安係がその業務を担当していた[286]#千日デパートビルの保安管理 保安係員の主たる任務は、商品や各店舗の保安監視および安全管理、火災などの災害または盗難等の予防監視ならびに警備取り締まりであるから[287]、デパート閉店後の館内巡回は重要な業務であり、防火シャッター等の閉鎖確認も災害発生を未然に抑えるうえで重要である[288]。また店内工事に際して保安係員が立ち会うことも各テナントに対する保安管理面の責務として必要と考えられるところ、同デパートでは、人員の削減などにより十分な保安体制が確立されない状況となっていた[289]。同デパートでは、消防当局からの指導で売場内の防火区画シャッターを閉店後に閉鎖するように指導されていた[125]。同デパートの防火区画シャッターは一部を除き、そのほとんどが手動式で、地下1階から4階までに合計68枚設置されていたが、これを限られた人数の保安係員だけで開店時と閉店時に開閉するのは労力的に厳しく、実効性はなかった[290]。保安係の職務のひとつに「店内諸工事などの立ち会いならびに監視取り締まり業務」があり、本来ならば店内工事に際して保安係員が工事に立ち会う義務があったところ、昭和40年ころから一部を除いて工事に立ち会っていなかった[291]。保安係員は、開業当初の1958年当時は25、26名の人員がいたものの、1967年(昭和42年)に納入業者制を廃止し賃貸契約制に移行したのを機に人員が削減され、火災発生当時の1972年(昭和47年)には日勤専従者2名を含む14名(2班6名、24時間勤務、隔日交代)で業務を行っていた[292]。また給与面などの待遇はあまりよくなく、退職者が発生してもその補充が容易にはできなかった[292]。したがって保安係員だけで68枚の防火区画シャッターを開閉することは難しく、テナントの協力を得て売場の防火区画シャッターを開店時と閉店時に開閉することも困難な状況であった[292]。またテナントの多くは、デパートビルの防火管理はデパート管理部が行うべきものと考えていて[292]。デパート側とテナント側、双方の共同防火意識は希薄だった[292]。ただし、のちの防火管理者らに対する刑事裁判やテナント訴訟において、デパート管理部の防火責任者が消防当局からの指導があるにも拘らず、防火区画シャッター閉鎖の体制づくりを怠っていたことが火災被害拡大の原因であると認定されたことから、同シャッター閉鎖の実効性は現にあり、テナントの協力を得ることでも同シャッター閉鎖は実現できたと考えられている[293]

テナントの宿直を認めず[編集]

千日デパート管理部では、各テナントが閉店後の夜間に宿直することを認めていなかった。これは保安係員が各テナントの商品や店舗に対する安全管理を担っていることを意味していて、各テナントとの間に保安管理契約が存在することは明らかであった。またその履行も成されなければならないところ、同デパートの保安係員は火災当日の閉店後に3階で電気工事が行われているにも関わらず、その工事に立ち会わなかった。同階で火災が発生した後に防火区画シャッターを閉鎖し、消火器や消火栓などを用いて初期消火を行うことができず、7階で営業中のプレイタウンに対して火災発生を知らせずに人的被害を拡大させ、その保安管理体制の杜撰さが露呈した。またテナントに対する保安管理契約の存在が明らかであるのに、工事の立会や喫煙管理などの防火管理をテナントに丸投げしていたことも問題点としてあげられる。出火元となったニチイ千日前店は、賃貸契約時のデパート管理部との取り決めで、同店が出店している3階と4階の階段C、E、Fの出入口に設置してある防火扉と防火シャッターの閉鎖および4階エスカレーターの防火カバーシャッターの閉鎖は、ニチイ社員が閉店時に実施することで合意していた。しかし、売場内の防火区画シャッターの閉鎖については双方の間で取り決めはなされておらず、閉鎖はされていなかった(他のテナントも同様)。デパート管理部は、各テナントが閉店後の店内で残業する場合は、同管理部に届けを出すことを義務づけていた。ただしニチイ千日前店の残業は例外で、届け出なしに23時まで行うことができた。残業が終わったあとは、売場の防火シャッター(3階と4階の階段出入口および4階エスカレーター2基)を閉鎖し、照明などの電源を切り、客などの居残りを確認し、従業員通路(D階段出入口)を施錠をしたうえで同管理部に引き継ぐことになっていた。7階プレイタウンに関しては、管理権原が完全に別であるため、独自に宿直員を置くことが例外的に認められていた。またプレイタウンでは23時閉店以降の店内巡回を保安係に委託しており、プレイタウンを経営する千土地観光が保安係員1名分の人件費を負担していた。

7階プレイタウンの防火管理上の問題点[編集]

希薄な防火管理者の当事者意識[編集]

7階プレイタウンは、消防法令で規定される防火対象物のひとつであり、区分は「特定防火対象物・第2項(イ)」にあたる[294]。したがって管理権原者の指導監督の下に防火管理者を選任して防火管理にあたる必要がある。プレイタウンの管理権原者は千土地観光の取締役であり、また防火管理者はプレイタウン支配人が選任されていた[295]。通常であれば支配人に就任(1970年9月)したと同時に防火管理者の任にも就くところであるが、前任者からの引き継ぎに9か月間の空白期間があり、防火管理者の変更届がしばらく出されておらず、実際に選任されたのは1971年(昭和46年)5月だった[295]

蚊帳の外に置かれたプレイタウン[編集]

千日デパートを経営する日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地観光は、親会社と子会社の関係にありながら、親会社が経営管理するビルにテナントとして入店している子会社の店舗が管理外に置かれ、防火管理上も完全に無視され、7階プレイタウンは孤立状態に置かれていた[296]。そして千日デパートとプレイタウン双方の管理権原者と防火管理者が防火管理や避難誘導について協議したことはなかった[296]。また共同で行うべき消防訓練や避難訓練を行ったことは一度もなく、そもそもビル火災を想定した対策や訓練を共同で実施する発想がまったくなかった[296]

消防査察、9つの指摘[編集]

プレイタウンは、消防法令が定める特定防火対象物であり、定期的に個別の消防検査を受ける。南消防署が実施した検査では、1970年(昭和45年)12月から1971年(昭和46年)12月までの1年間に合計4回の立ち入り検査(防火査察)を受けていた。そのうちの1971年12月8日の検査では以下の9項目の改善指示を勧告された。[297][178]

  1. 救助袋の破損している個所を早急に補修するか、新品に交換して使用可能な状態にすること[178]
  2. B階段出入口前のカーテンを取り除いて非常口であることを明確化すること[178]
  3. 屋内避難階段には、非常電源を付置した通路誘導灯を設置すること[178]
  4. 非常警報設備に非常電源を付置するとともに自動式サイレンおよび放送設備を設置すること[178]
  5. 各防火戸にはドアチェックを取り付けること[162]
  6. ホール出入口南側の避難用通路の雑品は、避難の支障になるため除去すること[162]
  7. 舞台、休憩室、更衣室での喫煙管理を徹底すること[162]
  8. 店内の装飾用品は防炎処理を施したものを使用すること[162]
  9. 修業点検を確実に励行し、火災予防に万全を期すこと[162]

また立入検査の指示書に「特記事項」として以下のことが記されていた。指示書の宛名は日本ドリーム観光社長の松尾國三になっていた[298][297]

貴チャイナサロン「プレイタウン」での避難施設は常に有効を期し、管理を強化して災害発生時に人的被害の絶無を期して下さい[298][297] — 大阪市消防局南消防署、近代消防1987(308)

再三にわたる改善指導を無視し続ける日本ドリーム観光社長とプレイタウン防火管理者に対して、消防当局が業を煮やしている様子が伺える文言である。しかも「1ないし4」の改善項目は、本件火災で人的被害拡大を招いた要因と大きな関連があり、プレイタウンの防火管理上の問題点を見事に指摘していた[299]

12月8日の検査後、プレイタウンは同月20日に再検査を受けたが、前回の検査で指摘された事項のうち「1ないし4」の4項目が未だ改善されずに放置状態であると指摘された[178]。特に「救助袋」に関しては以前の検査でも破損について指摘されていて、1970年12月と1971年6月に「救助袋の早急な補修」を指示されていた[300]。また1971年7月には「救助袋の取替えをおこなう間の使用禁止、その旨を張り紙して実行」を指示され[300]、それからわずか5か月後の検査でも何ら改善されていなかったのである。支配人は南消防署の検査に2回立ち会っており、立ち会わなかった検査については、立ち会った社員から報告を受けていた[300]。そして消防署からの指摘事項を上司である千土地観光取締役に指示書を見せて報告したが、取締役は万が一にも救助袋を使う状況にはなるまいとの安易な考えと、費用の嵩むことは後回しにしたいとの思いから、業者に見積もりをさせることすら指示せず、曖昧な態度に終始した[301]。その後、支配人は上司に改善を進言することはなかった[300]。救助袋の破損個所を補修をした場合に掛かる費用は1万5,000円程度で、新品に取り換えた場合は20万円程度である[302]。千土地観光では、5万円を超える支出は親会社である日本ドリーム観光の承認を必要としていたことからしても[1]、補修程度であれば独自の予算を使って容易に処理できた[302]。新品に交換するにしても、親会社の規模(資本金76億円[1])や消防当局からの再三にわたる改善指導があることを報告して説得したならば、日本ドリーム観光としても適切に対応したであろうと推認された[302]

「救助袋の破損」とは、ネズミによって齧られたと推定される「大きな穴」が救助袋の入り口上部付近に開いており、1970年12月の検査のとき、すでに指摘されていたものである[302]。本件火災後に警察などが現場検証を行った際に救助袋を調べたところ、件の穴は1971年12月の検査の時よりも大きくなっていて、小さなものも含めて穴の数が増えていた[303]。脱出者が救助袋を使用したことによって「穴」が裂けたり、布が破れたりしたと考えられるが、それらのうちで「最も大きな穴(45ないし55センチメートル径で4つの裂け目)[304]」を目の当たりにした脱出者たちの不安感と恐怖感は相当なものがあっただろうと考えられた[303]。さらには救助袋の出口(先端)に地上誘導用のおもり(砂袋)が括り付けられていなかった不備もあり、安全に地上へ脱出できる避難器具とは到底言えない状態だった[302]。本件の救助袋使用において、入り口を引き起こして袋を開かなかったことで多くの墜落者が発生したが、仮に袋の入り口を開こうとした場合、窓枠の外側に填められていた「金網枠(客の転落防止および物品投下防止用)」の下側突き出し部分が邪魔になって、入り口が完全に開かない状態だったことが判った[304]。救助袋の長さ(展開状態の長さ)が「30.21メートル」で、7階の高さ約25.5メートルに対して十分な斜度を保つ長さが無かったことも判明した[304]。プレイタウンの救助袋は、保守管理がなされていなかったことによって生じた破損だけではなく、設置や機能面においても問題があったのである[304]

改善項目「2および3」についても、普段から避難階段の出入口が店内装飾用の幕で隠されていたり(B、F階段)、看板を立て掛けてその存在を消したりしていて(A階段)、非常口の場所が店内の構造に詳しくない客や新規従業員などには判らないようになっていた[145]。唯一安全な避難階段とされた「B階段」の出入口は、エレベーターホールに面したクロークの奥にあり、扉そのものが幕で覆い隠されていることもあって、なおさら人目に付かない状態にあった[85]。B階段の非常口を示す誘導灯はクロークカウンター上部の天井に近い梁の高い位置に設置されており、天井から垂れ下がっている装飾用の中華風灯篭の影響で誘導灯が見えづらかった[150]。またそれを視認できたとしても、一見するとクローク内のどこが非常口なのか理解できない状態だった[150]。本件火災後に大阪市消防局がプレイタウン従業員の生存者39名(ホステス21名、ボーイ8名、従業員5名、バンドマン5名)に対して「非常口」について聞き取り調査をおこなったところ[305]、「プレイタウンの非常口(A、B、E、F階段出入口)を知っていたか」との問いに「全部知っていた」と答えたのは28パーセントであり、「一部だけ知っていた」と答えたのは約半数の52パーセントで「全く何も知らなかった」と答えた人が18パーセントいた[306]。「一部だけ」と答えた人のうち「B階段を知っていた」と答えた人が92パーセントいて、「全部知っていた」と答えた人を合わせれば、その認知度は全体で74パーセントである[306]。ホステスについては「B階段を知っていた」と答えた人が約85パーセントと圧倒的に多かった[306]。これは退勤時にエレベーターが混雑するからとB階段を使用するように推奨されていたことが影響していると思われる。またホステス更衣室に直結した「E階段を知っていた」と答えたホステスは100パーセントだった(ホステス21人中の全員)[306]。普段から使用しているとか、持ち場や休憩所に直結しているなど、自分にとって関心がある階段出入口は認知度が高いということである[306]。従業員の間では認知度が高い「B階段」であったが、結局は実際に同階段から脱出に成功したのはわずか2名だけであり[307]、たとえその存在を知っていたとしても階段の構造を熟知し、そのうえで適切な避難誘導と日頃からの避難訓練が伴わなければ、せっかくの安全な避難階段も役に立たないのである[306]。新規採用が多く、従業員の出入りが激しい風俗店では、店内に詳しくない者が多くいるのは当然であり、ましてや一見客ともなれば何も判らないのだから、非常口のありかを明確化しておくことは防災管理の基本である。したがってプレイタウンの防火責任者が責務を果たさず、消防当局の指導に従わなかったことが被害を拡大させた一因であるといえる[306]

火災が延焼した要因[編集]

開けっぱなしのエスカレーター開口部[編集]

2階から4階までのエスカレーター開口部に設置されている防火カバーシャッターおよび3階E階段出入口の防火シャッターが閉店後に閉鎖されておらず、その部分から最初に上下階へ火災が延焼した[308]。4階から5階に通じているエスカレーター開口部の防火カバーシャッターは、火災時には閉鎖されており、4階からの火炎を食い止めて5階への延焼を完全に防いでいる[308]。5階から7階までは延焼による被害はほとんどなく、煙によって煤を被っただけである。つまり、もしも3階から4階までのエスカレーター開口部と3階E階段の防火シャッターが火災発生時に閉鎖されていたならば、3階から上下階へ火災が延焼した可能性は低くなっていたと考えられた。また3階で行われていた電気工事現場周辺の防火区画シャッターは作業中に閉鎖しておらず、火災を限られた区画内に閉じ込めることができなかった。工事をおこなう上で開放を要するものを除いて、その他の防火区画シャッターを閉鎖しておけば、さらに火災を3階のごく狭い範囲に閉じ込めることができたと考えられており、防火区画シャッター閉鎖の必要性と義務は、のちの刑事裁判において重要な争点となった。

前法不遡及の原則[編集]

千日デパートビルは、昭和36年の消防法施行令制定以前の防火対象物ということで「前法不遡及の原則」に従い、全館のスプリンクラー設置義務から免れており、自動で火災を消火する設備に頼ることができなかった。また、そのほかの防火設備、消火設備に関しても設置義務の適用から免れていた。たとえば自動火災報知機、煙感知式自動防火シャッター、排煙設備などは設置されておらず、火災拡大の一因となった。

大量の可燃性商品[編集]

出火元の3階と4階のニチイ千日前店で取り扱っていたおもな商品は、可燃性の衣料品や繊維商品であり、それらの商品が大量に陳列されているところへ火災が発生したため、瞬く間に火災は燃え広がり、フロア全体がフラッシュオーバーを起こしたことで爆発的に延焼するに至った。また2階についてもフロア全体に小売店舗が密集して営業し、商品を大量に陳列していたため、延焼拡大を招きやすい状態だった。千日デパートは、昭和30年代から40年代の多くの百貨店や商業施設と同じように、外窓をベニヤ板などで遮蔽し、外光を取り入れないようにして壁の一部、またはインテリアデザインとして利用しており、それにより消防隊の消火活動に遅れを生じさせたことも火災拡大の一因として挙げられる。

プレイタウンに大量の煙が流入した要因[編集]

ビル最上階で営業していたプレイタウン[編集]

プレイタウンは最上階である7階に位置していた。火災の煙は、建物内の竪穴に到達すると煙突効果で急上昇を始める。その速さは秒速3メートルから5メートルに達し、ビルの最上階から真っ先に溜まっていく[309]。7階が猛煙と有毒ガスに襲われたのは必然だった[310]

エレベーターシャフトの隙間[編集]

プレイタウン専用のA南エレベーターは、地下1階と7階を結ぶ直通エレベーターであり、両階のエレベーター出入口を除いてエレベーターシャフト内に開口部は存在しないはずである。ところが2階と3階の天井部分に手抜き工事によると推定される隙間があり、火災階から隙間を通じて流入した煙が煙突効果により、エレベーターシャフト内を上昇してプレイタウンへ大量に流れ込む一因となった[135][5]

A南エレベーターシャフトの2階と3階部分の北壁は、床スラブと天井梁との間をコンクリートブロックを積み重ねて塞ぐ構造になっているが、床から天井梁までの高さが3.18メートルあるにもかかわらず、床から立ち上がっているコンクリートブロック壁が2.39メートルしかなく、天井梁との間に縦79センチメートル、横1.88メートルの隙間が開いていた[5][34]。またコンクリートブロック壁の南側(内側)に厚さ3センチメートルのモルタル壁が天井梁から88センチメートル垂れ下がっていたが、ブロック塀とモルタル壁との間には約33センチメートルの間隔があり、隙間を埋める役目を果たしていなかった[5][34]。普段は床から2.3メートルの高さに貼られたフロア天井板によって件の隙間は隠されており、誰もその欠陥に気が付くことはなかった[5]。そして火災が発生してフロア天井板が高熱に晒されて崩落したとき、煙が「隙間」からA南エレベーターシャフト内へ大量に流入した[5][34]

また2階のA南エレベーターシャフトにも同じような欠陥があり、上下に約1.1メートル、横方向に約1.83メートルの隙間が開いており、モルタル壁の垂れ下がりは1.15メートルあった[5][34]。ブロック壁とモルタル壁との隙間は平均して約4センチメートルで3階ほど大きくはなかったが[5][34]、モルタル壁そのものに上下約7センチメートル、横方向約10センチメートル、さらに縦約3から5.5センチメートル、横約10センチメートルの「2つの穴」が開いており[149][34]、その部分から煙がエレベーターシャフト内に流入した。その結果、7階エレベーター出入口からは秒間25立方メートル、総量4.5トン、3,700立方メートルにおよぶ煙がプレイタウンホール内へ噴出した[311][149][7]

空調ダクトから噴出した煙と熱気[編集]

火災延焼階である3階と4階、さらには6階と7階を竪穴で垂直につないでいるプレイタウン事務所前の空調ダクト(リターンダクト)吸入口から大量の煙が噴出した[27]。千日デパートでは、自主的に空調ダクト内に防火ダンパーを3か所設置していたが[312][149]、それらはいずれも火災時に作動せず、プレイタウン内で多くの犠牲者を発生させる一因となった[312][149]。ダクト吸入口から噴出した煙は、秒間1.7立方メートル、総量3トン、2,500立方メートルであった[311][149]。空調ダクトから噴き出した煙は特に高温であり、事務所前のダクト吸入口すぐ横に7段で積み上げられていたビールケース(ポリエチレン製)の山が、一列すべて溶け落ちるほどの勢いだった[135][313]

階段防火シャッターの故障および開放[編集]

7階プレイタウンに通じていた4つの階段A、B、E、Fのうち、E階段の3階および6階出入口と、F階段の2階吹き抜け閉鎖用シャッターおよび同階段3階出入口が閉鎖されておらず、その部分から大量の煙が流入し7階へ上昇した[314]。E階段3階出入口の防火シャッターは、高さが2.48メートルあるにもかかわらず、火災発生時に65センチメートルしか降ろされていなかった[315][149]。2階F階段の吹き抜け閉鎖用の横引きシャッターに関しては、普段から故障していて閉鎖できない状態にあり、南消防署の査察を受けるたびに修理するようにと改善を指導されていたが、長年放置され火災発生時にもまったく改善されていなかった[315]。ホステス更衣室から避難しようとした従業員が同更衣室西側に直結したE階段非常口を開けたために大量の煙が同更衣室に流入した[316]。また屋上へ避難しようとしたプレイタウン関係者がF階段電動シャッターを開けたことにより、秒間9立方メートル、総量12トン、9,700立方メートルにおよぶ煙と有毒ガスおよび熱気が7階フロアへ大量に流入した[311][149]。F階段電動シャッターを開けた直後に停電が発生し、電動シャッターを再び閉鎖することができなくなったことも災いした[211]

なぜプレイタウンで多くの犠牲者が出たのか[編集]

火災発生の報知および情報が7階に伝わらず[編集]

7階プレイタウン滞在者に対して、火災発生の報知および正確な情報がまったく伝わらず、異常覚知が大幅に遅れ、初期の避難行動を起こす機会を失った。火災発生直後に電気工事作業者の1人が3階の火災報知機を押したが(22時34分ごろ)、それはデパートビル全館に火災発生を知らせる自動火災報知機ではなく、1階保安室に火災を知らせる機能しかなかったため、プレイタウンには火災発生の情報がまったく伝わらなかった。それどころか、火災状況の報告を受けた1階保安室がデパート閉店後のプレイタウンに対して持っている唯一の連絡手段「外線電話(加入電話)」で連絡すらしなかった。このためプレイタウン滞在者は火災発生の正確な情報を素早く受け取り、7階から迅速に避難する機会を失った。消防隊の第一陣は現場到着の際、デパートビル保安係員に対し「上はやっているのか(=プレイタウンは営業しているのか)」と尋ねたところ、保安係員らは何を聞かれているのか意味が理解できず、答えられなかったという。また保安係員は、なぜプレイタウンに通報しなかったのかと問われ「当然7階では火災に気付いていると思ったから連絡しなかった」と答えている。

プレイタウン関係者らは、7階に流れてきた煙について、ある者はエレベーターの故障が原因だと考え[317]、またある者は地下1階のプレイタウン専用ロビーで小火があったのだろうと考え[317]、以前にも同じことがあったから今回も大丈夫だと判断した[317]。さらには漂っている煙はプレイタウン電気室が火災を起こしているからだと思い込んだ者もいた[186]。調理場にいた従業員らは空調ダクトから噴き出す煙と熱気に対して、ダクトのどこかが火元だろうと考え、訳も分からずダクト吸入口にバケツで水をかけ続けた[317]。ホールにいた客やホステスらの中には「調理場で魚か干物でも焼いているんだろう」と考えた者さえいた[180]

7階に煙が流入したことを関係者らが最初に覚知したのは22時35分から36分ごろであり、大量の黒煙と有毒ガスが流入するまで約4、5分の時間があった。この間に何らかの方法で火災の正確な情報がプレイタウンに知らされていれば、まったく意味のない無駄な消火活動をしたり、漫然と煙が漂う状況を見過ごしたりすることなく、すぐさま避難行動に移れたと考えられている。その時点でまだ稼働していたエレベーター、もしくはB階段でいくらかの避難は可能だった。火災初期に迅速な避難がなされていれば、ホステス更衣室と宿直室に滞在していた11名を除いて、170名程度のプレイタウン滞在者は無事に地上へ避難できていた可能性が高いとされている[318]

防火責任者らによる避難誘導は行われず[編集]

支配人をはじめとする従業員らによる、組織的かつ迅速で適切な避難誘導はほとんど行われなかった。従業員らによる避難誘導らしきものは、レジ係が支配人の指示で行った「ホステスの皆さんは落ち着いてください」という店内放送と[319][195]、煙が充満したエレベーターホールに殺到した者たちをホールに押し戻すためにボーイらが発した「こちらには行けない」「下がって」というような制止の言葉[197]、両手を広げて避難者の流れを押し止める手振りだけである[179]。防火管理者であるプレイタウン支配人は、平素より下層階で火災が発生した場合を想定した避難方法や避難経路をまったく考えておらず、客や従業員らに対する避難誘導ができなかった。プレイタウンでは自衛消防組織なるものを作り、防火に対する気構えは見せていたが、あくまでもプレイタウン内の火災発生時に迅速に消火活動を行う目的であって、下層階で発生した火災に際して客や従業員らを避難誘導することを念頭に置いたものではなかった[320]

防火管理者は、従業員を対象にした避難訓練をほとんど行っていなかった。火災の前年(1971年)に消火器の使用方法と点検に加えて実施してはいたが、参加者はわずか26名で、全従業員の4分の1にも満たず、訓練の効果は認められなかった。避難訓練の際にプレイタウンやデパートビルの避難設備などに関する正確な情報を避難誘導を行うべき従業員らに与えなかったことにより、誤った情報による避難誘導で物置の中へ誘導された者がいたり、救助袋の正しい使用方法を避難者が理解できずに墜落死を招いたりした。また防火管理者である支配人は、客や従業員らに対する避難誘導においても最高責任者の立場であるにもかかわらず、避難誘導も行わず、真っ先に消防のはしご車で救出されている。

唯一の安全な避難階段、有効に使われず[編集]

プレイタウンは地下1階と屋上をつなぐ4つの階段(A、B、E、Fの各階段)につながっているが、そのうちのA、E、F階段については常時施錠されていて使用不可能であり、防火扉2枚で遮蔽されたバルコニーつきの特別避難階段であるB階段(特異火災事例の図面を参照)が、唯一避難に使える階段となっていた。B階段は事実上プレイタウン専用の階段になっており、プレイタウンの営業中は地下1階と7階の扉に鍵はかけられておらず、関係者が自由に使用することができた。また地下1階と7階を除いては各フロア出入口は施錠されており、火災の発生時に煙や火炎の流入を抑え、B階段内を煙による汚染から防ぐ機能を備えていた。

火災の初期に消防士の1人がB階段を駆け上がって内部探索を行った際に、4階まではまったく煙も炎もなく、難なく昇れたという。しかし5階まで来たとき、上階から黒煙が降り注いできて消防士の行く手を遮った。それでもなんとか6階まで行ってみたが、それ以上の侵入は不可能だったという。それは、B階段自力脱出者2名が7階B階段の扉を開放したまま脱出したため、7階に流入した猛煙がB階段にも流れ込んだためである。つまり、7階のB階段出入口の鉄扉2枚が完全に閉まっていた状態なら、B階段はすべての階で安全な状態になっていたと考えられ、刑事裁判においても裁判所は「B階段こそが安全確実に地上へ避難できる唯一の避難階段である」と認定した。

パニックの発生[編集]

客や従業員らが通常の情報として知っている「唯一の脱出(移動)手段」である2基のエレベーターが猛煙の噴出と、ボーイらの制止によって使用を断念させられ、初期の避難行動が完全に絶たれたことにより、プレイタウンの避難者たちは、火災の正確な情報と避難誘導がほとんどないなかで、どこへ逃げていいのか、どこへ向えばいいのか、誰に従えばいいのかがまったく分からなくなり、ホール内が停電で暗闇になったことも相まって極限のパニック状態に陥っていった[321]

冷静に行動できなくなった人たちは、フロア内をあてもなく右往左往し、無駄に体力を消耗した。あたかも地面がすぐ目の前にあるかのように感じられ、いま飛び降りさえすれば猛煙と熱気から逃れられるという錯覚から、飛び降りてしまった人々が多数いたことは、まさにパニック状態による異常な心理状態がもたらしたものである[322]。またプレイタウン内の死亡者の中に、死因が「胸部腹部圧迫による窒息死」という者が3名いた。これはパニック状態になって逃げ惑う群衆に押しつぶされたか、または転んだ時に踏みつけられたかによる状況で死亡したと考えられている。極限のパニックゆえに冷静な判断力が避難者から失われた結果、プレイタウンのフロア内または飛び降りなどで多数の死亡者が出ることにつながった。

一方で、B階段を使って脱出に成功したクローク係とホステスの計2名のように、あらかじめ避難に必要な情報を持っていたことは重要であり、非常事態発生時に生き延びる確率が上がる[323]。体力や運動神経の機敏さも重要である。ダイビングの経験を生かしてアーケードのワイヤー目がけて飛び降りて助かった男性客などはその典型である[324]。無駄な行動や合理性を欠いた行動を慎むことは特に重要であり、消防のはしご車で救出された人たちは、飛び降りや物置のブロック塀破壊などの行為に走らず、冷静に我慢して窓際で救助を待ったことで助かる確率が高まった。またバンドマンたちのようにリーダーの指示に従い、無駄な行動を行わず小部屋に待機していたことにより生存につなげられたことは、統率の取れたリーダーの下で行動することの重要性を示すものである[325]。いち早く窓際に移動した人たちは、空間(間取り)を熟知していたことで救出される確率を高めた。これらはボーイなどの従業員に多かった。

そのほかの要因としては、プレイタウンは酒場ということで、客やホステスの中にはアルコールの影響により正常な判断ができなかったり、避難行動が緩慢になったりしたケースもあったと考えられる。実際、男性客1名が客席で座ったまま死亡している。消防の救出活動においては、千日前通の違法駐車車両により、はしご車の部署が遅れ、救出活動に遅れを生じさせた。またデパートビル東側の商店街アーケードの存在が、はしご車による円滑な救出活動の妨げとなったことも挙げられる。

火災の教訓とその後の対策[編集]

千日デパート火災の余波[編集]

消防庁、各都道府県に対し雑居ビルに対する緊急点検実施を通達
  • 千日デパート火災を受けて消防庁は、火災から2日後の1972年(昭和47年)5月15日に全国の都道府県に対し、危険性のあるビルの総点検を早急に行うよう通達した。特に対象とされたのが、劇場、キャバレー、百貨店などビルの高い階に不特定対多数の人々を収容する用途に供される防火対象物で、また商店、事務所、飲食店などがひとつの建物に入居している「雑居ビル」については、避難体制、通報体制、防火消火設備の機能性について重点的に調べることにした[326][327]
  • この通達を受けて大阪市消防局は、5月15日から1週間かけて大阪市内の要注意ビル277か所に対し、総点検を実施した。結果、277か所のうち235か所のビルが「防火管理不適当」と判定された。誘導灯の設置が不適当と判定されたビルは171か所、誘導灯の維持管理が不適当との判定は163か所、非常警報設備の設置および維持に対して改善を指示されたビルは140か所に及んだ。さらに通路および階段に雑品を置いていたために改善を指示されたビルは140か所、消防訓練実施の改善指示が145か所、避難器具の故障や破損の改善指示が121か所に及んだ。営業しながら改装工事を行っていたビル24か所に対しては防火安全性の確保を指示した。避難関連指示は合計1,014件だった。6月3日の時点で指示された事項が改善されていないとして、消防法の規定に基づき改善命令が出されたビルは193件、防火管理面の改善指示が340件、警報関連の改善指示が507件、改善命令が74件だった[328]
  • 東京消防庁においても同通達に基づき、5月15日夜に都内の雑居ビル1,980か所のうち、代表的な7か所の盛り場について抜き打ちで査察した。その結果は、救助袋の破損があったり、従業員が救助袋の正しい使い方を知らなかったりと、「プレイタウン」とまったく同じ状況がみられた。またビル外壁の垂れ幕が救助袋の窓を塞いでいたり、救助袋の収納方法が間違っていたり、避難階段や避難通路が物置状態になっていた店もあった。そもそも救助袋の存在自体を知らない従業員がいるなど、火災時の避難に対する無関心さが浮き彫りになった[329][330]。その後、東京消防庁管内の各消防署が6月10日までの間に雑居ビルや百貨店を中心に火災時の避難と安全性および防火管理について査察を行った。対象は、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、飲食店などの不特定多数を収容する4階建て以上の1,442か所のビルで、消防法における特定防火対象物である。結果は、対象の90パーセントが欠陥ビルと判定され、AからDまでの4ランクに分けた判定では、安全性の高いAランク判定がわずか7パーセントという結果となった[331]


本件火災、国会で議題に
5月16日、第68回国会・参議院地方行政委員会会議において「千日デパート火災に関する件」が「地方行政改革に関する調査」の議題として取り上げられた[62]。火災の教訓として「避難誘導の周知徹底、避難訓練の実施」「複合用途ビルの共同防火管理体制の強化」「避難路を煙から守るための措置」が重要であるとして、建設省や自治省、消防庁などの関係省庁が今後の対策に万全を期すことを確認した[62]。また建築基準法や消防法の「既存不適格建物」および「法律不遡及の原則」の問題についても議論された[62]。そのほかにホステスの労災について、はしご車を中心とした消防救助設備について、なぜ火災で燃えていない7階で多くの犠牲者が出たのか、またなぜ適切な避難誘導がなされなかったのか、などについて、午前の時間を目一杯使って集中議論された[62]。また同日開かれた衆議院地方行政委員会においても、午前および午後の会議で本件火災が議題として取り上げられた[332]。内容は同日の参議院地方行政委員会とほぼ同じであるが、プレイタウンの防火管理者(支配人)について、ある委員は「(プレイタウンで)一番の責任者が救助袋の入口を開け、非常口の鍵を開けるべき人が、一番先に逃げて助かっていて、117名が死亡しているのはどういうことなのか。あとに残された者は何もしようがない」と政府委員に質問した[332]。同日開かれた参議院建設委員会、参議院議員運営委員会、衆議院法務委員会においても本件火災が議題として取り上げられた[333][334][335]。同日の参議院議員運営委員会においては「議員調査団」の派遣が決定され、本件火災現場で現地調査を実施することになった[334]。同様に衆議院においても被害状況調査のための議員調査団の派遣が決められた[158]。現地調査の結果は、参議院では5月26日の議院運営委員会において[336]、また衆議院では5月24日の災害対策特別委員会で報告された[158]。そのほかにも下記の国会各委員会で本件火災が議題として取り上げられた。
  • 5月17日、参議院災害対策特別委員会[60]
  • 5月18日、参議院社会労働委員会[337]
  • 5月23日、参議院運輸委員会[338]
  • 6月8日、6月16日、衆議院地方行政委員会[65][66]


自治大臣、都内盛り場などをパトロール
5月17日夜、渡海元三郎自治大臣が消防庁幹部らを伴い、東京都内の地下街や盛り場、屋上ビアガーデンなどを安全パトロールした。地下街については排煙設備、緊急通報体制、防火区画など、最新の設備が整っていて自治大臣も満足したが、その後に訪れたキャバレーと屋上ビアガーデンの避難設備があまりにもお粗末で一転して機嫌が悪くなった。あるキャバレーでは、避難する際に6階からエレベータ室を改造した場所から避難はしごで屋上に出て、隣のビルの7階に移動するというが、隣のビルの窓が避難はしごの代用であり、その窓は普段から鍵が掛かっているところを非常時にボーイがハンマーで叩き割るのが手順である、という実態に渡海自治大臣は「これじゃあ安心して酒も飲めないじゃないか」と呆れかえったという[339][340]


全国消防長会総会、再発防止について議論
5月18日、東京・五反田で第24回全国消防長会総会が開かれ、火災の再発防止に向けて至急取り組むべき課題が議論された。本件火災に基づいて国に要望すべき事項とされたのは以下のとおりである。
  1. 防火管理責任体制の強化
  2. 高層ビルと地下街における業種別の用途制限ならびに可燃物量を階ごとに制限
  3. 内装の不燃化基準強化
  4. 防火区画、排煙設備等の基準強化
  5. 避難経路の安全確保のため屋外階段またはバルコニーやタラップ設置義務の強化
  6. 災害発生時に作動する非常扉の自動閉鎖装置取付
  7. 既存建物に対するスプリンクラー設備や自動火災報知設備の遡及適用
これらについて提案がなされ、関係法令の改正を自治省消防庁を通じて関係省庁に要望することが緊急決議された[341][342][343]


衆議院議員会館で避難訓練実施
5月19日、永田町の衆議院第二議員会館で消防演習および避難訓練が実施された。「会館7階で出火、館内に煙が充満、逃げ遅れ多数」という想定で実施された。避難訓練については、特に救助袋を使った避難に重点が置かれた。小渕恵三議員(のちの官房長官、首相)も救助袋の中に入って避難を体験した[344][345][346]


行政監察局、本件火災についての行政運用面を調査
5月22日、近畿管区行政監察局は、千日デパート火災における行政の運用面を調べ、行政管理庁に報告した。その結果、建築基準法、消防法、労働基準法や防災行政に多くの疑問点があることがわかったことから、翌月中旬から全国15都道府県の大都市で行政監察を始めることになった。対象とされたのは地下街、旅館の防災体制全般であった[347][348]


消防審議会、法令改正の検討事項提出
6月2日、消防庁は消防審議会に対して千日デパート火災を教訓にした新しい検討事項を提出し、了承された。消防法に基づき防火管理体制や消防用設備の基準を強化する目的で、防火対象物の管理権原を持つ者の責務、防火管理者の責務、消防計画の提出、避難訓練の届出について具体的な項目が盛り込まれた。また防火管理と消防用設備面で広い範囲にわたって施設側に義務を課す項目が数多く並んだ。これらの検討項目は審議を経て、のちに消防法と建築基準法の施行令改正の形となって具体化することとなった[349]


火災実験の実施
1973年(昭和48年)5月9日、東京・霞ヶ関の空きビルとなった「旧厚生省・第一別館」を使ってビル火災の燃焼状況を調査するための実物火災実験が行われた[350]。実施したのは建設省建築研究所、自治省消防研究所、通産省製品科学研究所で、実験は同館2階に千日デパート火災の出火当時と同じ量に相当する化繊2トン、木材2トンの「合計4トン」の可燃物を設置し点火した[350]。その結果、点火14分後に5階に煙が充満、通気口より激しく噴き出し始め、33分後に毎分1,000立方メートルの強制送風を開始したところ、階段部分の煙は薄らいだが、出火階はバックドラフト現象を起こした[350]。この実験で各階における煙の流動性、一酸化炭素濃度と強制送風による避難路確保の可能性などについて計測し、今後のビル火災対策上の貴重なデータを得た[350]

法令の改正[編集]

千日デパート火災を教訓として、全国消防長会総会、消防審議会などで再発防止に向けた議論および検討がなされた結果、国会審議を経て消防法令、消防規則、建築基準法令が改正されることになった[351][352]

本件火災以降に改正された消防法令および規則は、1972年(昭和47年)12月1日に消防法施行令の一部改正(政令第411号)[351]、1973年(昭和48年)6月1日に消防法施行規則の改正(自治省令第13号)[351]、1974年(昭和49年)6月1日に消防法の一部改正(法律第64号)[351]、1974年6月1日に消防施行令改正(政令第188号)、1974年7月1日に消防法施行令の一部改正(政令第252号)[351]、1974年12月2日に消防法施行規則の一部改正(自治省令第40号)である[351]。また建築基準法令については、1973年(昭和48年)8月23日に建築基準法施行令の一部(政令第242号)が改正された[353]。本節では、改正された法令のうち消防法令の「消防法施行令・政令第411号(1972年)」と「消防法・法律第64号(1973年)」について、また「建築基準法令の建築基準法施行令・政令第242号(1973年)」について記すことにする。また表示制度の端緒となった「消防設備『良』マーク制度」についても併せて記すことにする。

なお、この節の本文で記した法令の内容、用語、条項は、当該法令が改正された当時(1972年から1974年まで)のものである。したがって現行(2019年)の法令とは異なる部分がある。

消防法施行令の一部改正(政令第411号)[編集]

1972年(昭和47年)12月1日、消防法施行令を一部改正する政令が公布された(政令第411号・第17次改正)[354]。施行は1973年(昭和48年)6月1日で、一部は公布日に施行された[355]。本件火災では、火災発生の報知と情報がプレイタウン滞在者に伝わらなかったことで多数の逃げ遅れにつながったこと、管理権原者および防火管理者の責務と役割に不明確な部分があったため、避難誘導や防火管理の不手際につながったこと、また安全な避難口(B階段)の場所がプレイタウン滞在者には分からなかったことなどにより、多大な人的被害を出したことへの教訓を活かすため、これらを重点的に見直す内容となった[356]。改正のおもな内容を以下にまとめた。

防火管理に関する事項
1.防火管理者を定めるべき防火対象物の規定を強化した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナなどの特定防火対象物の用途に使われる部分が存在する複合用途防火対象物で「収容人員が30人以上」の防火対象物は、防火管理者を定めなければならないとされた[357][358]。従来は「収容人員50人以上」となっており、不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設について、より規定を厳しくした[359]
2.防火管理者の資格を明確化した。
防火管理者の業務を遂行するには、防火に関する知識を有している必要があり、管理権原者との間で連携が取れていなくてはならない。防火管理者の資格を有しているものは、管理する防火対象物において、適切に業務を行える管理的または監督的地位にあることと定められた[360]。従来は防火管理者の資格が定義されていなかった。
3.管理権原者および防火管理者の責務を強化した[354]
防火管理者は、防火管理上の業務を行うときは、管理権原者の指示や判断を求めなければならないとされた[361][358]。また管理権原者は、防火管理者に対して必要な指導と監督を行い、防火管理者の業務を実施させる責務を負うとされた。従来は防火管理者の責務として「誠実にその職務を遂行しなければならない」としか条文に書かれていなかった[359]。また管理権原者の防火管理者に対する指導監督的役割を明確化した。
また防火管理者は、省令の定めにより消防計画を作成し、それに基づき消火、通報、避難訓練を定期的に実施しなければならないとした[362][359]。従来は「省令の定めに」という部分が抜けていた[359]。この条項は政令公布日(1972年12月1日)に施行された[355]
4.共同防火管理を要する防火対象物の範囲を拡大した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナなどの特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物は、地下を除いて階数が3以上のものが共同防火管理が必要とされた[363]。従来は「地下を除いて階数が5以上」とされていて、以前よりも範囲を拡大し基準を厳しくした[364][365]。不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設を対象とした。
防炎防火対象物に関する事項(省略) 防炎防火対象物を参照。
消防用設備等に関する事項
1.スプリンクラー設備
(ア)特定防火対象物のうち平屋建て以外の防火対象物で床面積が6,000平方メートル以上のものには、スプリンクラーを設置しなければならないとされた(自治省令で定める部分を除く)[366][367]
従来は、百貨店などの建物で、売場面積の合計が9,000平方メートル以上かつ4階以下、または6,000平方メートル以上の場合は5階以上の建物が対象とされていたが、階数の規定をなくし、より設置基準を厳しくした[368]。また平屋建てについては避難が容易であることから設置対象から外した[368]
(イ)特定防火対象物に使用する部分がある複合用途防火対象物で、特定防火対象物の用途に使われる部分の床面積の合計が3,000平方メートル以上の階のうち、当該部分がある階全体にスプリンクラーの設置が義務づけられた[369][370]
従来は、雑居ビルなどの場合、用途ごとに防火対象物の基準を適用してスプリンクラー設置の有無を決めていたが、複合用途防火対象物は、使用時間が用途によって異なること、防火管理が別々に行われること、また不特定多数の不案内な人たちが多く利用することを考慮し、設置基準をより厳しくした[371]。該当部分だけにスプリンクラーを設置したのでは消火効果が十分に発揮できないこともあり、該当する階全体に設置するよう改められた[372]
(ウ)防火対象物の11階以上の階にはスプリンクラーの設置が義務づけられた[373][374]。従来は、11階以上の階に関して特定防火対象物で防火区画された部分以外の面積が100平方メートルを超える場合に設置義務があったが、高層階は消防活動が困難なことから、防火区画や建築基準の如何にかかわらず、設置を義務づけた[371]。またスプリンクラーヘッドの技術基準も強化された[375][376]
2.自動火災報知設備
(ア)百貨店、飲食店などの特定防火対象物で延べ面積が300平方メートル以上に自動火災報知設備の設置が義務づけられた[377][378]
従来は、500平方メートルで設置の義務があったが、不特定多数の利用者が出入りする建物については、火災の早期発見および早期通報が重要であるとして基準が強化された[379]。千日デパート火災においては、火災の報知と通報、情報伝達が早期になされなかったことで多数の死傷者を出すに至っている。
(イ)複合用途防火対象物で延べ床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積が300平方メートル以上のものは、自動火災報知設備の設置を義務づけられた[380][381]
(ウ)防火対象物の11階以上の階に設置を義務づけた[382][383]
自動火災報知設備の基準に関しては、劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、病院、社会福祉施設、サウナおよび特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物については、既存の建物においても「遡及適用」の対象とされた[384][352]。この基準は1975年(昭和50年)12月1日から施行するとされ、設置完了までの猶予期間が設けられた[355]
3.漏電火災警報器
特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物について、延床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積合計が300平方メートル以上、契約電流50アンペアを超える複合用途防火対象物に漏電火災報知器の設置を義務づけた[385][383]
従来は、複合用途防火対象物については、「それぞれの用途」に対して適用されていたものを用途を問わず50アンペアを超える場合には設置を義務づけていた[386]
4.非常警報設備
不特定多数を収容する施設においては、火災発生時に避難が円滑に行われなければならない観点から、音声による誘導が必要であるとし、放送設備の設置が義務づけられた[383]
対象となったのは複合用途防火対象物で収容人員が500人以上のもの[387][386]。劇場、キャバレー、百貨店、飲食店、サウナ公衆浴場で収容人員300人以上のもの[388][386]。寄宿舎・共同住宅、学校、図書館・美術館で収容人員800人以上のもの[389][386]
5.避難器具
(ア)防火対象物の3階以上の階のうち、避難階または地上に直通する階段が2以上設けられていない階で、収容人員10人のものには避難器具の設置を義務づけた[390][391]。これは、いわゆる「ペンシルビル」の避難対策で新設された。
(イ)避難器具の設置および維持に関する技術基準が強化された(詳細省略)[392][391]
6.誘導灯および誘導標識
(ア)特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物に避難口誘導灯、通路誘導灯、客席誘導灯および誘導標識を設ける場合は、建物全体に誘導灯を設置するように義務づけられた[393][394]。従来は、用途ごとに設置基準が定められていたが、避難を一体的に行う必要があることから改められた。
(イ)「避難口」を明示した表示も認められることになった[395][394]。従来の誘導標識は「避難する方向を明示するもの」と定められていた[394]。本件火災の被害拡大の一因として、唯一の安全な避難階段であるB階段の避難口の場所が分からず、ほとんどのプレイタウン滞在者が脱出できなかったことへの教訓である。
7.適用が除外されない消防用設備[注釈 27]
消防法第十七条の二第1項で定める消防用設備等のうち、自動火災報知設備に関しては、当該規定を適用する防火対象物に特定防火対象物を新たに加えた[396][397]。従来は旅館、ホテル、宿泊所、病院、療養所、文化財だけが適用の対象とされていた[398]
消防法施行令・別表第一に関する事項
従来の複合用途防火対象物「16項」を「16項(イ)」と「16項(ロ)」に区分した[399][400]
本件の千日デパートのような特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途の建物(いわゆる雑居ビル)は、建物に不慣れな不特定多数の人々が利用するため、火災が発生した場合に避難が困難になるおそれがあり、危険度がきわめて高いことから「16項(イ)」を新たに作り、分類し直した。従来の「住居兼店舗」または「住居兼倉庫」を想定した複合用途防火対象物は「16項(ロ)」とした[400]
従来の「16項」の条文は、「前各項(1項から15項)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」とだけ書かれており、「16項(イ)」は、「前各項に掲げる防火対象物以外の防火対象物のうち、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもので、1項から4項まで、5項(イ)、6項または9項(イ)に掲げる防火対象物の用途に供される部分が存するもの」と定義され、「雑居ビル」および「商業ビルなどの大規模な複合用途」という概念が明確化された[400]消防法施行令・別表第一を参照。

消防法の一部改正(法律第64号)[編集]

1974年(昭和49年)6月1日、消防法の一部を改正する法律が公布された(法律第64号)。

千日デパート火災発生から約10か月、未曾有の大災害からの警戒心からだったのか、しばらくは治まっていた大規模なビル火災が再び起こり始めていた[注釈 28]。1973年(昭和48年)3月8日に起きた福岡県北九州市の済生会八幡病院火災(死者13名、負傷者3名)を皮切りに[356]、同年5月28日には東京新宿歌舞伎町の第6ポールスタービル火災(死者1名)[356]、6月18日には北海道釧路市オリエンタルホテル火災(死者2名、負傷者35名)[356]、そして9月28日には大阪府高槻市の西武高槻ショッピングセンター火災(死者6名、負傷者13名)が発生した。年末に向けて、より一層の火災への警戒が高まりをみせていた。「秋の火災予防運動」が展開されていた最中の11月29日、熊本県熊本市下通の大洋デパートで白昼に火災が発生し、死者104名[401][402][403][注釈 29]、負傷者124名[404][注釈 30]を出す大惨事が再び起こった[353][352]。政府や消防関係当局は、千日デパート火災の惨事を教訓に消防および建築関係法令などを改正し、避難訓練の実施を図り、消防設備などの検査や査察を強化するなど、さまざまな対策や再発防止を図ってきた[353][352]。しかし、その努力が不十分だったことが明らかになり、ついに消防法令において既存不適格の防火対象物に対し「消防用設備等設置の遡及適用」を行うことになった[353][352]

消防法改正のおもな内容
既存の防火対象物に対して消防用設備などの遡及適用を新設した[351][353][352]。特に重要な内容は、特定防火対象物のうち、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、旅館、病院、公衆浴場(サウナ)、複合用途、地階がある建物、地下街については適用除外を除くとしたことである。つまり、それらの用途については、たとえ既存不適格状態であっても、要件を満たした場合には例外なく法令で定められた消防用設備を技術基準に従い設置する義務を負うということである。また用途変更の場合も遡及適用の対象とされた。さらに法施行時に既存不適格の特定防火対象物が大規模な工事(新築、増築、改築、移転、修繕、模様替え)を行っていた場合には、消防用設備などの技術基準を遡及適用するとした。用途によって消防用設備などの設置を完了しなければならない期限を具体的に定めた。百貨店、地下街、複合用途の特定防火対象物については、1977年(昭和52年)3月31日までに(施行日は翌日の4月1日から)[351]、また旅館、病院その他の特定防火対象物は、1979年(昭和54年)3月31日(施行日は翌日の4月1日から)までに消防用設備等の設置を完了することとし、その維持を義務づけた[351]
遡及適用される消防用設備などは、以下の設備が対象とされた。
  • 消火設備については、消火器、屋内消火栓、スプリンクラー設備、水噴霧消火節など、屋外消火栓、動力消火ポンプ
  • 警報設備については、自動火災報知機、ガス漏れ火災警報設備、漏電火災警報器、消防機関通報設備、非常警報器具、非常警報設備
  • 避難設備については、避難器具、誘導灯、誘導標識
  • 消火活動に必要な施設については、連結送水管、排煙設備、連結散水設備、非常コンセント設備など

そのほかには、防火管理に関する事項として、防火管理者の業務が法令や規定、消防計画に従って行われていないときは、防火対象物の管理権原者に対して必要な改善措置を命令することができるようにした[352]
命令は、消防計画を定めていない場合、消防計画を届けていない場合、避難訓練が行われていない場合に発動することができ、違反には罰則が設けられた。また消防用設備などの検査を受けること、また消防用設備などの点検および報告を行うことが義務づけられた[352]。違反には罰則が設けられた。

建築基準法施行令の一部改正(政令第242号)[編集]

1973年(昭和48年)8月23日、建築基準法施行令の一部を改正する政令が公布され(政令第242号・第13次改正)[405]、1974年(昭和49年)1月1日に施行された[406]。ただし第136条の改正規定は公布日から施行とされた[407]

本件千日デパート火災と1973年3月の北九州済生会病院火災においては、煙によって多数の死傷者を出すに至ったことから、本政令改正のおもな要点は、煙対策と避難施設の規定に関して行われ、それらを強化する内容となった[405][352]。改正のおもな内容を以下にまとめた。

防火区画に関する規定強化
常時閉鎖式防火戸の導入を規定し、防火区画における防火戸の常時閉鎖を原則とした[405][352](防火区画・第112条)。
1.耐火建築物等の防火区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]または乙種防火戸[注釈 32]は、面積が3平方メートル以内で常時閉鎖状態を保持する防火戸で、直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖するもの、またはその他の防火戸は以下の各号の構造にしなければならないとされた[408]
(ア)随時閉鎖することができること[408]
(イ)居室から地上に通じているおもな廊下、階段、その他の通路に設ける防火戸は、当該戸に近接して当該通路に常時閉鎖式防火戸が設置されている場合には、従来の規定は適用されない[408]
(ウ)当規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]および乙種防火戸[注釈 32]にあっては、建設大臣の定める規定に従って、火災により煙が発生した場合または火災により急激に温度が上昇した場合のいずれかに自動的に閉鎖する構造にすること[409][352]。また建築基準法令の規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]、または建築基準法令の規定による区画に用いる乙種防火戸[注釈 32]にあっては、避難上および防火上支障のない遮煙性能を有する構造とすること[409]
従来においても防火戸は、「随時閉鎖、手動開閉可能、火災による温度急上昇で自動閉鎖」の規定はあったが、煙が発生した場合に自動閉鎖すること、煙を遮蔽する性能を有する構造に関してまでは規定していなかった[410]
千日デパート火災では、プレイタウンに直結していた特別避難階段「B階段」出入口の扉2枚は、ドアチェックが装備されていなかったとみられ(随時閉鎖機能がない扉)、2名の脱出者がB階段を使用して脱出したあと、扉2枚が開け放たれた状態になっていた。その影響で7階フロアから煙がB階段に逆流し、消防隊の内部探査に支障をきたした。
防火設備としての防火戸 特定防火設備としての防火戸を参照。
防火ダンパーの材質、性能などを具体的に規定した[407][352](防火区画・第112条の16)。
1.空調ダクトが耐火構造の防火区画を貫通する場合に設ける防火防煙ダンパーは、以下の場合に自動で閉鎖する構造にすることとされた[409]
(ア)火災により煙が発生した場合[411]
(イ)火災によりダクト内が急激に温度上昇した場合[411]
2.防火防煙ダンパーの構造は、前記(ア)(イ)以外に以下の構造にすることとされた[409]
(ア)鉄製であること。また鉄板の厚みは1.5ミリ以上であること[409]
(イ)ダンパーが閉鎖した場合に防火上支障のある隙間が生じないこと[412]
(ウ)建設大臣がダンパーとしての機能を確保するために必要があると認めて定める基準に適合する構造とすること[412]
従来も防火防煙ダンパーの設置は規定されていたが、その技術基準があいまいで「防火上有効にダンパーを設けること」としか規定されていなかった[413]
千日デパート火災では、プレイタウン事務所前の廊下に設置していた空調ダクト吸入口から大量の煙が流入したことで多数の死傷者を出すに至った。ダクト内には防火防煙ダンパーが3か所設置されていたにもかかわらず、いずれも作動しなかった。
2以上の直通階段設置を義務付ける用途の範囲を拡大
2方向避難の原則から2以上の直通階段を設ける場合の適用範囲を拡大した[407][352](2以上の直通階段を設ける場合・第121条)。
建築物の避難階以外の階が以下の各号に該当する場合には、避難階または地上に通じる2以上の直通階段を設けなければならないとされた[414]
1.酒場やキャバレー、ナイトクラブなどの用途に使用する階(新設)[415]
ただし、5階以下の階で居室の床面積が100平方メートルを超えず、避難バルコニーまたは屋外通路などがあり、避難階から地上に通じる規定の直通階段が設けられており、避難階の直上または直下の5階以下の階で床面積が100平方メートルを超えないものは除外される[416]
2.病院または診療所に対する規定に対し、新たに児童福祉施設などを加えた[417]
病院または診療所の用途に使われる階で、その階における病室の床面積の合計または児童福祉施設などの用途に使われる階で、その用途の居室面積の合計が50平方メートルを超えるもの[417]
3.6階以上の階に居室がある場合[418]
ただし、1から3に掲げた用途に使用する階以外で、その階の居室床面積の合計が100平方メートルを超えず、その階に有効な避難バルコニーまたは屋外通路などおよび既定の地上へ通じる直通階段が設けられているものは除く[417]
従来は「6階以上の階」とは規定されていなかった[417]
4.5階以下の階で居室の床面積の合計が直上階で200平方メートル、その他の階で100平方メートルを超えるもの[419]
従来は「5階以下の階」とは規定されていなかった[417]
避難階段および特別避難階段の構造を強化した[407][352](避難階段および特別避難階段の構造・第123条)。
(ア)屋内に設ける避難階段の階段に通じる出入口には、常時閉鎖式防火戸である甲種防火戸もしくは乙種防火戸、またはこれ以外の法令が規定する甲種または乙種防火戸を設置すること[420]、また直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖する戸および戸の部分が避難する方向に開くことができるものとすることとされた[420]
(イ)特別避難階段の出入口に設ける甲種防火戸または乙種防火戸の構造は、屋内からからバルコニーまたは附室に通じる出入口には規定の甲種防火戸を[421]、バルコニーまたは附室から階段に通じる出入口にも同じ甲種防火戸をつけることとされた[421]
地下街の区画の規定(地下街・第128条の3)
1.地下街の各構造が他の地下街の各構造と接する場合は、耐火構造の床もしくは壁、または法令で規定する常時閉鎖防火戸である甲種防火戸で区画しなければならない[422]
2.地下道においても前項と同じ構造で区画するとした[422]
新たに防火戸の技術基準を高めた規定を適用した[423]
内装制限の強化
特殊建物に対する内装制限を強化した[352](特殊建築物等の内装・第129条)。
特殊建築物の居室の壁および天井の室内に面する部分の内装仕上げは、3階以上で不燃材料または準不燃材料であること[424]。ただし、3階以上に居室を有しない建築物は従来どおり不燃材料、準不燃材料または難燃材にすることができるとした[424]
従来は「3階以上の階」という規定がなかった[423]

なお以下の項目は省略した。木造等の建築物の防火壁(第113条)、共同住宅の住戸の床面積算定等(第123条の2)、非常用の昇降機の設置を必要としない建築物(第129条13の2)、敷地内の空地および敷地面積の規模(第136条)。

消防設備「良」マーク制度の導入[編集]

1972年(昭和47年)11月28日、「予防査察の強化について」と題する消防庁次長通達が出され(消防予第198号)、「消防設備良マーク制度の導入」が決められた[425]。制度の適用対象は特定防火対象物の第一種査察対象物かつ耐火建築物とされた[425]。これは消防用設備などの設置が法令の基準を満たしている特定防火対象物に「良マーク」を与えて入口などに表示させ、防火管理者などの認識を深めて消防用設備などの完全履行を促し、防災意識を高めることを意図した制度である[426]。国の指導による表示制度導入は初めての試みであった。この表示制度は、のちの「特例認定制度(適マーク)」や「優良防火対象物認定表示制度(優マーク・東京消防庁)」などの表示マークや公表制度、認定制度全般につながるきっかけとなった制度である[425]

全国に先駆けて東京消防庁が制度の導入を決めた。1973年(昭和48年)3月から4月にかけて、都内のホテルや旅館など2,735件の特定防火対象物について、東京消防庁全67消防署が一斉に立ち入り検査を実施した[426]。その結果、消防用設備などが完備され、防火管理も適正に行われている「95の施設」に対して「良マーク」が交付されることになった[426]。交付は5月19日から開始され、有効期間は1年。立入検査の結果によって更新されるが、有効期間内であっても法令違反などがあった場合は回収するとした[427]。また「良マーク」は、建物の出入口の見やすい位置に掲示することが義務づけられた[427]。自治省消防庁の通達に基づいて実施される制度であることから、各消防本部の実状に応じて全国的に実施していく予定とされた[427]。「良マーク」制度の運用が広がりを見せようとした矢先、大洋デパート火災が発生し、再び大きな被害が出てしまった。このあと消防法令の改正が行われたことなどから1974年(昭和49年)12月、東京消防庁は「良マーク」の運用を凍結した[425]

刑事訴訟[編集]

本件火災に関して大阪府警特別捜査本部は、1973年(昭和48年)5月29日に以下の管理権原者および防火管理者らを業務上過失致死傷容疑で大阪地方検察庁に書類送検した[428]。送検されたのは日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長、同保安係長の計3名およびチャイナサロン「プレイタウン」を経営する千土地観光・代表取締役とプレイタウン支配人の計2名、ニチイ千日前店店長の合計6名である[428]。大阪地方検察庁刑事部は1973年8月10日、書類送検された6名のうち、日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長の2名および「プレイタウン」を経営する千土地観光代表取締役とプレイタウン支配人2名の計4名を業務上過失致死傷罪起訴した[429]。デパート管理部保安係長およびニチイ千日前店店長の計2名は、証拠不十分により不起訴処分となった[430]。右2名の不起訴理由は、保安係長については保安室の火災報知機によって火災を覚知しておきながら7階プレイタウンに連絡せずに同階滞在者の避難を遅らせた容疑によって送検されたところ、保安室で火災を検知したころには7階でも煙の侵入を覚知していたことは明らかで、通報しなかったことに落ち度はないと判断された[431]。またニチイ千日前店店長については、店内工事に際して監視責任を果たさなかった容疑で送検されたところ、工事立会人を置かなかったことは確かに落ち度であるが、火災発生と電気工事を関連させる証拠がないと判断され、いずれも不起訴処分が確定した[430]

刑事訴訟第一審は、大阪地方裁判所で1984年(昭和59年)5月16日に判決が出され、デパート管理部次長を除くその他の3被告全員に無罪を言い渡した[153]。なおデパート管理部次長については、第一審係属中に死亡したため1977年(昭和52年)6月30日に公訴棄却となった[432]。検察は原審判決には事実誤認があるとして控訴した[433]控訴審は、大阪高等裁判所で1987年(昭和62年)9月28日に判決が出され、原判決破棄で一転して被告人全員が有罪とされ[434]、千日デパート管理部管理課長に禁錮2年6月・執行猶予3年、千土地観光の2被告には禁錮1年6月・執行猶予2年の有罪判決が言い渡された[434]。3被告は判決を不服とし、最高裁判所の判断を仰ぐため上告した[435]上告審は、1990年(平成2年)11月29日に最高裁判所第一小法廷で判決が言い渡され、裁判官全員一致の意見で上告は棄却となり、3被告の有罪が決定した[14]。火災事件発生から裁判終結まで、実に18年6か月の歳月が経過していた[435]。なお本件火災発生の翌日に「O電機商会」の電気工事監督が現住建造物重失火および重過失致死傷の容疑で逮捕、送検されていたが、被疑者本人の供述以外に証拠は存在せず、供述の内容も二転三転して一貫性がなく、のちに否認に転じるなど、犯人と断定する証拠がないとして1973年8月10日、大阪地方検察庁刑事部は工事監督の不起訴処分を決定した[428]#出火原因

以降、本節ではデパート管理部管理課長を「被告人A」、千土地観光取締役を「被告人B」、プレイタウン支配人を「被告人C」と記す。なお公判係属中に死亡したことにより公訴棄却になったデパート管理部次長については「被告人D」もしくは「管理部次長」と記す。

第一審[編集]

千日デパートビル火災の刑事裁判は、上記起訴の被告人4名について、業務上過失致死傷罪での責任を問うことになった[436]。高度経済成長に伴う都市の過密化や建物の高層化、深層化が急激に進み、複合用途に使われる「雑居ビル」も激増している状況下で、テナントなどの管理機構が複雑に入り組んだ高層ビルで火災が発生した場合において、失火の当事者ではなく、ビルまたはテナントの防火管理責任者および管理権原者が刑事責任を追及されるのは、日本では異例ということで注目される裁判となった[436]

起訴状の要旨[編集]

大阪地方検察庁の各被告人に対する過失認定によれば、本件火災は、千日デパートの防火管理責任者(被告人Dおよび同A)が3階でおこなわれた閉店後の夜間工事に際して、日頃からの防火区画シャッターの点検整備を怠り、火災発生時に同シャッターを閉鎖せず、保安係員を工事に立ち会わせなかった注意義務違反により、同階東側で発生した火災を売場の一区画だけで食い止めることができず、火災を拡大延焼させ、発生した多量の煙を7階で営業中の「プレイタウン」に流入させた過失を「第一」とし[437]、次に7階プレイタウンの管理権原者および防火管理責任者(被告人Bおよび同C)が階下の火災発生による煙の流入によって客や従業員が避難すべき状況があるにもかかわらず、それらに対する避難誘導を失念し、救助袋の保守点検を怠り、日ごろの避難誘導訓練を実施しなかったことにより、客らに対する適切な避難誘導および救助袋による脱出救助を不能にした過失を「第二」とした[437]。以上の2つの構成による各過失が競合した結果、被害を拡大させ、重大な死傷結果を発生させた、というのが検察の見解である[437]
大阪地方検察庁刑事部の起訴状の要旨は以下のとおりである。(被告人の地位、業務内容は省略)
被告人Dおよび同Aについて(第一) 被告人D及び同A(千日デパート防火管理責任者)の両名は、同ビルが直営あるいは賃貸の店舗で雑多に構成され、3階もニチイのほか、株式会社「M」等4店舗が雑居するいわゆる複合ビルで、6階以下の各売場は、21時に閉店し、その後は、各売り場の責任者等は全く不在であり、7階の「プレイタウン」だけが23時まで営業しているという特異な状況にあり、しかも、火災の拡大を防止するため、6階以下の各売場には、建築基準法令に基づき、床面積1,500平方メートル以内ごとに防火区画シャッターが、それぞれ設置されていたのであるから、平素から右シャッターを点検、整備したうえ、6階以下の各売場の閉店時には、保安係員をして、これらシャッターを完全に閉鎖させ、閉店後に工事等を行わせるような場合でも工事に必要な部分のシャッターだけを開けさせ、保安係員を立ち会わせるなどして、なんどき火災が発生しても、直ちにこれを閉鎖できる措置を講じ、以って火災の拡大による煙が営業中の「プレイタウン」店内に多量に侵入するのを未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、右シャッターを全く閉鎖せず、ニチイ店内の工事に際しても、保安係員を立ち会わせることなく、漫然これを放置した過失により、火災を3階東寄り売場の一区画(床面積1,062平方メートル)だけで防止することができず、火災を拡大させて多量の煙をビル7階に通じる換気ダクト、らせん階段等により「プレイタウン」店内に侵入充満させた[438][429][38] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)
被告人Bおよび同Cについて(第二) 被告人Bおよび同C(プレイタウン防火管理責任者)の両名は、閉店後の6階以下で火災が発生した場合、多量の煙が営業中の「プレイタウン」店内に侵入充満することが十分予測されたのであるから、平素から従業員を指揮して客らに対する避難誘導訓練を実施し、煙が侵入した場合、速やかに従業員をして客らを避難階段に誘導し、若しくは救助袋等を利用して避難させ、もって、客らの逃げ遅れによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、右階段等の状況を把握することなく、また、備付の救助袋(一個)が一部破損し、その使用が困難な状態にあったのに、新品と取替え、あるいは修理することなく、漫然これを放置した過失により、火災で発生した煙が店内に侵入した際、客らに対する適切な避難誘導及び救助袋等による脱出救助を不能にさせた[438][429][38] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)
過失の競合

以上により(第一および第二)、被告人4名らの各過失の競合により、「プレイタウン」店内で遊興中の客及び従業員のうち、Kほか117名を一酸化炭素中毒等により死亡させ、さらにSほか41名に対し一酸化炭素中毒等の重軽傷を負わせたものである[注釈 33]

罪名 業務上過失致死傷罪 罪条 刑法第211条前段[438][429][38] — 大阪地方検察庁刑事部、判例時報1985(1133)


求刑

検察は、被告人Aに対して禁固2年6月、被告人Bに対して禁固1年6月、被告人Cに対して禁固1年6月をそれぞれ求刑した[439]

弁護人らの主張[編集]

公判廷において弁護人らは、被告人Dおよび同Aについて、以下の理由により無罪であると主張した[440][441]
  • デパート閉店後に6階以下の階で火災が発生した場合、公訴事実のような経路で煙が7階プレイタウン店内に流入することは予見できなかった[440][注釈 34]
  • 防火区画シャッターを夜間閉店後に毎日常時閉鎖する義務はない[440]。このことについて弁護人らは以下の根拠を挙げた[440]
    • 千日デパートの防火区画シャッター(売場内)は、地下1階から4階までの間に全部で68枚あり、巻き上げは手動式で[注釈 35]、これらをすべて開店時に巻き上げるには多大な労力と時間を要し、数名の保安係員だけでは到底毎日開閉できない[440][注釈 36]
    • 防火区画シャッターの開閉装置は、同一列にあるものは全て各シャッターに隣接する柱の同一側にあるため、いったん閉鎖すると反対側から開けることが出来ない[440]
    • 各防火区画シャッターには潜戸(くぐりど)が無いため、売場の防火区画シャッターを全部閉鎖してしまうと閉店後の保安係員の巡回が極めて困難になる[440]
    • 開閉が困難な手動式防火区画シャッターは、1958年当時の建築基準法施行令においては適合していたものであり、当時の法令では火災発生の際に閉鎖できれば足りると考えられていた。その後、法令の遡及適用が為されなかったのだから、同ビルの防火区画シャッターについては、設置当時の法令基準での使用方法で足りるのであり、夜間常時閉鎖の義務はない[440]
  • テナントがおこなう工事にデパート管理部の保安係員が立ち会う義務はない[440]
被告人Bおよび同Cについても、以下の理由で両被告は無罪であると主張した[440][442]
  • プレイタウンでは、消防当局の指導の下に消防訓練をおこなっていた[440]
  • 同店内に煙が充満し、客らがパニック状態に陥ったために避難誘導ができるような状態ではなかった[440]
  • ホール出入口からB階段に至る通路に煙が急速に充満したため、B階段へ行けば安全に避難できるとは判断できなかった[440]
  • 救助袋は破損していたものの使用可能な状態にあり、袋の入口を起こせなかった理由は、従業員が使用方法を知らなかったからではなく、救助袋の投下を知った客らがその場へ殺到したために投下作業中の者らが脇へ追いやられたことが原因である[440]

第一審判決[編集]

第一審判決は、1984年(昭和59年)5月16日に大阪地方裁判所で言い渡された[272]。主文は「被告人3名はいずれも無罪」であった[443]。検察が主張した被告人らの火災被害の予見可能性および各注意義務については、その存在が概ね認められたが、各注意義務の履行、結果回避の可能性、火災発生と人的被害との因果関係、業務上の過失責任については、その大半が認められなかった。弁護人らの被告人に対する無罪主張がほぼ認められた形の判決となった。大阪地裁が「被告人3名を無罪である」と判断するに至った理由の要約を判決文を引用する形で以下に記す。なお公訴事実、認定事実、火災事件の概略等は、当記事の前各節で記している内容と同様なので省略した。

本件火災原因についての判断[編集]

本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際にタバコを吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、この点を証拠上確定することは出来ず、結局、出火原因は不明と言わざるを得ない[6][35]

大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Aの各注意義務および過失責任の有無[編集]

大阪地裁は被告人Aの過失責任に関して、プレイタウンに煙が流入する予見の可能性、デパート閉店後の防火体制、防火区画シャッター閉鎖の必要性、防火区画シャッター閉鎖の体制づくり、保安係員を工事に立ち会わせる義務、それぞれについて検討をおこない、以下の判断を下した。

被告人Aが防火管理者として為すべき業務
被告人Aは、日本ドリーム観光管理部管理課長として同会社が直営し、あるいは賃貸して営業している千日デパートビルについて、その維持管理の統括者である同管理部次長を補佐するとともに、1969年(昭和44年)4月30日から本件火災同日まで、同ビルの防火管理者として同ビルについての消防計画を作成し、これに基づき消火・通報・避難等の訓練の実施、消防用設備等の点検整備、避難または防火上必要な構造および設備等の防火管理上において必要な業務に従事していた[444]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
煙がプレイタウン店内に流入する予見の可能性
  • 千日デパート閉店後は、6階以下の一部の階には少数の滞在者がいるのみだが、7階プレイタウンには多数の客や従業員が23時まで滞在しているのであり、防火管理者は同デパートの防火体制を考えるうえで、これらのことを念頭に置かねばならない[444]
  • 6階以下で火災が発生した場合、耐火構造の建物ゆえに7階まで燃え広がる恐れは少ないが、同デパートには煙を多量に発生させる可燃物(商品や内装材)が多数存在しているのは明らかであり、その煙が階段や換気ダクトなどを通じて7階まで到達することは充分に考えられる[444]
  • 弁護人らは「被告人AがA南エレベーター、階段(E、F)、換気ダクトを通って煙がプレイタウンに流入することは予見できなかった」と主張したが、同ビルで火災が発生した場合、煙が上層階に流入する具体的な経路までは予見できなくても、プレイタウンに煙が流入する恐れがあることは予見できたと認められる[444]
  • 大阪市消防局および南消防署は、福田屋百貨店火災を教訓に管内の百貨店などに対して防火研究会と説明会をそれぞれ1回ずつ実施した[444][注釈 37]。さらに消防当局は田畑百貨店火災を教訓とした夜間査察[注釈 38]や特別点検[注釈 39]を実施し、その結果を説明する防火指導会[注釈 40]および説明会[注釈 41]をそれぞれ1回ずつ開いた[445]。合計4回開かれた説明会などに被告人Aは3回出席していた[445]。また欠席した1回についてはデパート管理部の保安係長が出席し、その内容の報告を受けていたのであるから、各階段や換気ダクトが煙道になり、多量の煙が同店に流入することがあり得ることは充分に予見できたと認められる[104]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
千日デパート閉店後の防火体制
ニチイ千日前店の売場改装工事に際して、デパート管理部次長はニチイ千日前店店長に対して工事の要望書を交付し、被告人Aと管理部次長がニチイと工事業者らを集めて要望事項を伝えているが、そのなかで喫煙については所定の場所であらかじめ水を入れた大きな容器を置き、そこでタバコを吸うように要望していることが認められるから、火の不始末による火災予防について、いちおうの対策は講じていた[104]。大阪市内の大手百貨店では、閉店後の工事に際して部外者が店内に入るときは、百貨店側が喫煙用のバケツ等の容器を用意し、それを使用させていたことこが認められるから、それらの事例に比べて、右のような要望をしただけで喫煙用の容器等をニチイや工事関係者に用意させていた被告人らの措置は、火災予防の措置としては不十分であるが、火災原因が不明である以上、火災予防措置に落度があったとしても、この点をとらえて被告人Aの過失を問うことは出来ない[104]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
閉店後に防火区画シャッターを閉鎖しておくことの必要性
  • 3階東側売場で発生した火災を同エリアだけで食い止めるには、北側と南側に設置されている2か所の空調機械室間を南北に一直線で結ぶ6枚の防火区画シャッターを閉める必要があったが、工事作業者らが3階で火災を発見したあとの火災の拡大と急速な煙の充満した状況によって、ボタン操作で降下可能な6枚の防火区画シャッターのスイッチがある東側には近づけなかった[104]。また保安係員を工事に立ち会わせることの実現性は低く、訓練も受けていない工事作業者らが防火区画シャッターを閉鎖することは出来なかった[104]。結局のところ、工事に際して開けておくべき防火区画シャッターと防火扉以外は、あらかじめすべて閉鎖しておき、火災発生時には開けておいた2枚の防火区画シャッターを直ちに閉鎖する方法しか火災を食い止める手立てはなかった[446]
  • 夜間は保安係員5名と電気・気罐係2名がデパートビルに勤務(宿直)しているが、仮に2階から4階の間で火災が発生した場合、それらの階には熱式感知器が設置されていないことから、速やかに火災を発見し、保安係員などが現場に駆けつけ初期消火や防火区画シャッターを閉鎖できる体制になかったことは明らかである[447]。また地下1階もしくは1階で火災が発生した場合を考えてみても、初期消火に必ずしも成功するとは限らず、保安係員らが19枚もある1階の防火区画シャッターをとっさに閉鎖できるかどうかは疑わしい[447]。保安係員らが、平素から防火区画シャッターを閉鎖する訓練を受けていたとしても、初期消火の傍らで冷静に行動できるとも限らず、潜戸のない同デパートの防火区画シャッターのどこを開けてどこを閉めるのかを判断するのは難しい[447]この点を考えても防火区画シャッターは閉店後にそのすべてを閉鎖しておく必要がある[447]
  • 大阪市消防局は、田畑百貨店火災の発生を受けて、夜間の防火区画シャッター閉鎖を指導する方針に改めたことから、千日デパートに対しても同シャッターを閉店後に閉鎖するように指導していた[447]。その査察の際に被告人Aと保安係長は、消防局係官に対して「防火区画シャッターを降ろすのは簡単だが、手動式なので巻き上げに時間が掛かり、少ない保安係員で57枚ある同シャッターを巻き上げるのは困難なために閉鎖していない」と答えている[447]。それに対して消防係官は「上司に改善を要求すべきだ」と答えたところ、被告人Aは後日上司に「電動式に替えられないか」と尋ねているのであり、少なくとも同被告人は、夜間の防火区画シャッター閉鎖の必要性は認識していた[447]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない旨の弁護人らの主張に対する判断
  • 同ビルの売場に設置されている防火区画シャッターは、同シャッターを設置した1958年(昭和33年)当時の法令基準には適合していたものであり、その後の法令の改正でも遡及適用はされなかった[290]。その一方で同ビルの各階段出入口の防火シャッターは当初から電動巻き上げ式のものが備わっており、日本ドリーム観光の考えでは階段出入口は常時閉鎖する必要があり、売場の防火区画シャッターは火災発生時だけ閉鎖できれば足りると判断し、それらを設置したと考えられる[448]。しばらくはその取扱いで特に問題が無かったところ、田畑百貨店火災による夜間の防火区画シャッター閉鎖が消防当局から指導され、夜間常時閉鎖の必要性が存在するようになった以上、日本ドリーム観光は、その体制を早急に整えるべきであった[448]
  • 1階から4階までの計61枚の防火区画シャッターのうち、3階の自動降下式4枚を除く57枚の同シャッターを毎日閉店後に閉鎖し、開店前に巻き上げるには、1枚につき3分から5分の時間を要する[448][注釈 42]。保安係員のうち、シャッターの巻き上げに割ける人員は最大3名に過ぎず、これらが1名平均19枚を巻き上げなければならないことを考えると、作業効率の観点から巻き上げ完了まで1時間35分程度の時間が必要になる[448]これを実現可能にするためには人員を増員するか電動式に替える体制を整えない限り難しい[448]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
防火区画シャッターを閉店後に閉鎖できる体制づくり
売場内の手動巻き上げ式防火区画シャッターを毎日閉鎖するための体制づくりとしては、以下の3点が考えられる[448]
  1. 保安係員を増員する[448]
  2. デパート管理部の他の従業員にも担当させる[448]
  3. テナント従業員の協力を得る[448]
  • 「1」については、待遇面が良くないことから欠員の補充が困難であった。日本ドリーム観光は保安係員の待遇改善には消極的であり、保安体制強化のために増員することにも消極的であったため、被告人Aが上司に保安係員の増員を働きかけても実現は難しかった[292]
  • 「2」については、火災当日の同管理部の出勤表によれば、9時30分ごろまでに保安係員を含めて54名が出勤していたことが認められ、各々が1枚から2枚の防火区画シャッターを巻き上げれば、それほど時間もかからず可能であった[292]。しかしながら、本来の業務以外の作業を保安係員以外の従業員におこなわせることは、労使間で労働条件を変更する交渉をおこなうことになり、日本ドリーム観光が労働条件の変更に応じるような状況にあったという証拠がない[292]。また被告人Aと管理部次長が従業員側に労働条件の変更を申し入れたとしても火災当日までに実現できたかは断定が難しい[292]。さらには保安係員について、24時間勤務明けの際に交代要員の協力が得れるかどうか検討したところ、結局のところ防火区画シャッター閉鎖に割ける人員は最大3名で、早出の対応も必要になるが、待遇面の悪さから労働加重を強いるような要請に対して従業員の協力が得られたかどうか疑問である[292]
  • 「3」については、そもそもテナント側は防火区画シャッターの存在をあまり重要視しておらず、シャッターライン上に商品や商品台などを置いており、火災当日も地下1階で7枚中2枚、1階で19枚中11枚、2階で19枚中8枚、3階で15枚中11枚、4階で8枚中3枚がシャッターを閉めた場合に下まで完全に降りない状態だった[449]。各テナントは、防火区画シャッター閉鎖に対して非協力的であり、被告人Aの上司に直接交渉して天井裏を倉庫にしたり、1階外周店舗を物置にしたりしていて、デパートビルの防火管理は専らデパート管理部が行うべきものと考えていた[449]。ニチイについては、3階と4階を賃借した際に、売場に面した階段C、E、Fの各出入口の防火シャッターと防火扉の閉鎖ならびにエスカレーター防火カバーシャッターの閉鎖をデパート側との合意に基づき、同店の従業員が閉店時におこなう取り決めがなされていた[292]。しかし売場内の防火区画シャッター閉鎖については、双方の間で何らの取り決めもされていなかった[292]。同シャッター閉鎖の実現については、シャッターラインの確保は他のテナントと同様の問題があったうえ、同シャッターを毎日開閉するとなると、ニチイとしても従業員の労働条件に関係してくることから、同管理部がシャッター閉鎖の協力をニチイに求めたとしても、それを容易く実現できたかは疑問である[292]したがって仮に同被告人が各テナントに協力を要請しても防火区画シャッターの夜間閉鎖や巻き上げ作業の協力を得るのは著しく困難であり、同シャッター閉鎖を実現できたかは甚だ疑問である[449]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
本件火災当日だけでも防火区画シャッターを閉鎖しておくことの可能性および過失責任
  • 3階の工事に際して、火災延焼を防止するために防火区画シャッターを閉鎖する場合、1階から3階までの間にはエスカレーターの防火カバーシャッターが設置されていないので、1階から2階までのエスカレーター周辺の防火区画シャッターを合計32枚閉めなければならず、3階についても工事に必要な個所を除いて9枚の防火区画シャッターを閉めなければならない(ただし3階から4階のエスカレーターには防火カバーシャッターが備わっている)[450]。結局のところ1階から4階までの57枚ある防火区画シャッター全部を閉めるのと大差が無くなることから、デパート閉店後の工事に際して平素から防火区画シャッターを開閉できる体制が整っていなければならない[450]。工事がある日だけ防火区画シャッターを閉鎖するにしても、結局は毎日閉鎖する場合と同じ問題が生じるのであり、本件火災までにこれらの問題が解決できたという証明ができない[450]
  • 被告人Aは「自分がデパート店長や管理部次長に働きかけ、テナントの協力を得られるような方策を講じ、閉店後に防火区画シャッターを閉鎖すべきであった」とか、「平素から防火区画シャッターを閉鎖しておけば、自然とシャッターラインも確保されるようになったと思う」と供述しているが、どのような方策を講じればそれらが実現するのか、具体的なことを何も供述していないのであり、防火区画シャッター閉鎖の実現性は状況的に可能であったとは認められない[450]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
したがって本件火災当日、あらかじめ防火区画シャッターを閉鎖していなかったために火災が拡大したことについて、被告人Aと管理部次長の過失責任を問うことは出来ない[451] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
3階工事現場に保安係員を立ち会わせることについての日本ドリーム観光側の義務
  • 千日デパートの職務分掌によると、保安係の職務の一つに「店内諸工事等の立会いならびに監視取締り業務」が挙げられていた[291]。しかしながら昭和40年以降から店内の工事に際して、一部のテナント工事を除き、保安係員が工事の立会いをおこなうことはなかった[291]。日本ドリーム観光と各テナントとの売場賃貸借契約では、デパート閉店後にテナントが宿直することを禁じ、閉店後の残業についてはデパート管理部への届け出を必要とし、売場や施設の改造をおこなう場合は事前にデパート管理部の許可を得る必要があった[291]
さらには各証拠によると各テナントは・・・
  1. 付加使用料名目の共同管理費を賃料と一緒に毎月支払っていて、それは主に保安係員の給与に充てられていたこと[291]
  2. 各テナントの各売場は、デパート閉店後においては宿直員不在のために無防備な状況に置かれており、通常は各テナントが同デパート店内で工事をおこなう場合、テナントの従業員が工事業者を監督するために居残っていたこと[291]
  3. テナントによる店内工事に関して、商品等の管理についてはテナント従業員が現場にいるのであれば他者が管理する必要は認められないこと[291]
  4. テナントが工事を監督する場合、主に工事の進捗確認をおこなうのであるから、目の届く範囲は工事現場とその周辺に限られること[291]

・・・など、以上の諸点を考えると、日本ドリーム観光と各テナントとの間では、閉店後にテナントが不在の間は、その売場の管理を日本ドリーム観光がおこなう管理契約が結ばれていたと認められる[291]

  • テナント従業員が工事のために居残っている場合は、保安係員を立ち会わせる義務はないが、工事に関係ない他の不在テナントとの関係では、防犯と防火、その他の事故防止のために日本ドリーム観光は、保安係員を工事現場に立ち会わせて、その周辺を警備する義務を負っていたと解釈できる[291]
  • 3階売場については、ニチイがフロアの大半を賃借していたものの、その一部に他のテナントが4店舗営業しており、それら4店舗は火災発生当時に従業員は不在であり、ニチイがおこなう工事にニチイの従業員は1人も立ち会っておらず、日本ドリーム観光は保安係員を工事に立ち会わせるべき義務があった[291]
  • 被告人Aは、防火区画シャッター閉鎖の問題、デパート内に燃えやすい商品が大量に置かれていた状況、保安係員などの人員の現状を鑑みれば、万が一の火災発生に備えて3階工事現場に保安係員を立ち会わせるよう管理部次長に要請すべきであった[291]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
保安係員を工事に立ち会わせなかったことについての被告人Aの過失責任
  • 火災当日の保安係員の夜間勤務体制は欠勤者が1名いたために4名であり、そのうちの1名は従業員通用口の受付を担当し、1名は保安室内で監視業務をおこなっており、残りの2名が店内の巡回を担当していた[291]。店内巡回は必ず2名一組で実施されており、1名だけでは安全上問題があることから工事に立ち会うために人員を割くことはできず、巡回担当の2名のうちの1名を工事に立ち会わせることは不可能であった[291]。また非番の保安係員を臨時に宿直させることは24時間勤務体制なので実現は難しかった[291]
  • 日本ドリーム観光の取締役の地位にある千日デパート店長が、テナントが売場でおこなう工事については、大工事の場合を除き、当該テナントが立ち会うべきで、日本ドリーム観光側から立会人を出す必要はないとの見解を取っており、また同社は保安係員の増員については消極的であった[452]
  • 保安係員の増員や、また他の部門の社員を工事の立会いに充当することも新たな経費が必要なことから実現は難しかった[452] 同社がテナントから徴収していた付加使用料名目の共同管理費は、保安係員の給与に充てられており、本件火災当時にはテナントに対して3度目の値上案を提示し、テナントが検討中という状態だった[452]このことから被告人Aと管理部次長が上司であるデパート店長に対し、工事に立ち会うための人員確保を進言したとしても容認されて実行されたかどうかは疑問である[452]。また同被告人らにこれらの措置を取る権限があったと認める証拠がない[452]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上のことから、本件火災当時、千日デパートビル3階の電気工事に保安係員を立ち会わせる必要があったとしても、被告人Aおよび管理部次長がこれを実行できたとの証明はないことから、これらが可能であったことを前提とする同被告人の過失責任を問うことは出来ない[452] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Bおよび同Cの避難誘導に関する各注意義務および過失責任の有無[編集]

大阪地方裁判所は、被告人Bおよび同Cの過失責任に関して、消防訓練の実施、両被告の防火意識、B階段の安全性、避難計画を立てた場合の煙流入の予見可能性、B階段へ避難誘導した場合の結果回避、救助袋のメンテナンスの必要性と可能性、救助袋を使用しての避難訓練の必要性、 救助袋を使用した避難誘導の可能性、救助袋による避難誘導が実行できた場合の結果回避の可能性と因果関係、それぞれについて検討をおこない、以下の判断を下した。

防火対象物としてのプレイタウン
プレイタウンは、前記のとおりの規模、利用形態のキャバレー(アルバイトサロン)であるから、消防法令により、その管理について権限を有する者が防火管理者を定めるべき防火対象物であることは明らかである[452]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Bの管理権原者としての業務
被告人Bは、1970年(昭和45年)5月にプレイタウン等を経営する千土地観光の代表取締役に就任している[452]。千土地観光の運営は人事や経理面で親会社の日本ドリーム観光から大きな制約を受けているものの、千土地観光の日常業務は代表取締役で実権を握る「デパート管理部次長」を除く被告人Bら4名の取締役において処理し、プレイタウンほか2店については被告人Bが各店の支配人を通じてこれらの管理を担当していたのであるから、同被告人はプレイタウンの管理について消防法8条の定める「権原を有する者」に該当する[452]。したがって同被告人は、同条の定めるところに従い、防火管理者を定め、これに消防計画の作成、右計画に基づく消火、避難等の訓練の実施、消防に使用する設備、消火活動上必要な施設等の点検及び整備、避難または防火上必要な構造および設備の維持等、防火管理上必要な業務をおこなわせるべき義務を負い[452]、これらの点について、防火管理者およびその他の従業員を指揮、監督する業務に従事していたものである[452]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Cの防火管理者としての業務
被告人Cは、1970年(昭和45年)9月1日にプレイタウンの支配人になり、1971年5月29日付で同店の防火管理者に選任されたものであるから[452]、防火管理者に就任後は、消防法8条の定めるところに従い、同店について消防計画を作成し、これに基づく消火、避難等の訓練の実施、消防に使用する設備の点検および整備、避難または防火上必要な構造および設備の維持等、防火管理上必要な業務をおこなう義務を負い、右業務に従事していた[452]。なお、同被告人が支配人に就任後、防火管理者に選任されるまでの間、同店には防火管理者が選任されていなかったが[452]、被告人Cは、被告人Bを補佐して来店した客らの安全確保に万全を期すべき支配人の職責を有していたことに照らして、右期間中も管理権原者である被告人Bの指揮、監督の下に、右同様の防火管理上必要な業務を果たすべき立場にあった[452]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
プレイタウンにおける消防訓練の実施状況及び右両被告の防火意識
  • 被告人Cが支配人に就任後におこなわれた消防訓練は1回だけで、ステージ付近から出火したことを想定して初期消火、通報、避難をおこなうものであった[452]。その時間の大半が南消防署から指導に来た係官から消火器による初期消火の必要性や避難についての説明に費やされた[452]。そのなかでは「B階段が最も安全であるから同階段から避難するように」という指導は為されず、4か所の階段のうち、火や煙が流れてくる方向とは反対方向にある階段へ逃げる指導がおこなわれた[452]。本件火災のような煙だけが店内に流入した場合を想定して煙の中を突っ切って逃げることや、ビル全体としての総合的な訓練の必要性までは指導されなかった[452]。また救助袋についても被告人Cが消防当局から使用方法や説明を口頭で受けたことはなかった[453]
  • 被告人Cは、プレイタウン店内の火元や火災の予防については気を配っていたものの、実際に火災が発生した場合の対策については、6階以下の階で火災が発生した場合はおろか、店内から出火した場合について何も考えていなかった[453]。被告人Bについても同様で、デパートビルの6階以下の階で万が一に火災が発生した場合を念頭に置いて、被告人Cらプレイタウン従業員を指導監督したことはなかった[453]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段の安全性について
  • 階段A、E、Fについては、火災により煙が充満していたことは明らかであり、B階段は、その構造上において同デパートの売場から二重の鉄扉で遮断されている[453]。また火災初期に消防隊員が内部探索のためにB階段を駆け上がったところ、4階付近までは問題なく行けたが、5階より上は黒煙に汚染され侵入が不可能であった[453]。これは7階プレイタウンからの脱出者がB階段出入口ドアを開けっぱなしにした結果であるから、もしドアが閉鎖されていれば煙の流入は無かったことからB階段は通行可能だったと考えられる[453]
  • 被告人Cが、平素からB階段の状況を把握し、6階以下の階で火災が発生した場合に安全な避難路はB階段しかないことを認識して、従業員に対しそのことを教育し、たとえクロークに煙が充満していても、そこを突っ切ってB階段から避難するように指導、訓練するとともに[453]、救助袋の正しい使い方を従業員に徹底させ、少なくとも投下訓練をしておけば、火災の初期においては同店の滞在者を地上まで無事に避難させられた、と一応考えられる[453]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
被告人Cが防火管理者として業務を忠実に遂行した場合、同被告人が立案したであろうと考えられる避難計画および流入する煙についての予見可能性
  • 被告人Cが防火管理者としての業務を忠実におこなうためには、ビル火災の特徴および避難のあり方、各階段の構造を知ったうえで避難経路を決めなければならないが、同被告人がそれを知りうるためには、防火管理者の講習を受けた際にテキストとして使用した「防火管理の知識」と題する冊子を読むと同時に消防訓練等の機会を得て、消防関係者の指導を受けるしか方法がないと思われる[454]。ところが同被告人は、冊子の内容が難しく、面白くもない本だと思って読んでいなかった[454]。しかしながら同被告人は防火管理者として多数の客や従業員を避難させる業務上の責務を負っているのであるから、必要な知識を習得するように努めるべきなのは当然のことである[455]理解できる部分だけの拾い読みでも、ビル火災に関する最低限の知識は得られたはずである[455]
  • その知識を使えば、プレイタウンに通じている4つの階段のいずれかを使って地上に避難させるべきだと気付き、どの階段が最も安全であるかということに考えが及ぶ[455]。階段A、B、E、Fの各々の構造や状況、6階以下の階で火災が発生したときの煙の侵入経路を検討すれば、B階段が安全確実に地上に避難することができる唯一の階段である、との結論に至ることは十分可能だったと認められる[455]
  • B階段が唯一の安全な避難階段であれば、次にクロークからB階段までの誘導を考えなくてはならない[456]。しかしクロークの中に入るためには幅65センチメートルのカウンター端の出入口を通らねばならず、幅からして1人ずつしか通れないのであるから、避難誘導する際にはホール出入口とクローク付近に従業員を数名配置しなければならない[456]。クロークに殺到する客らの混乱を抑えつつ、円滑にクロークを通りぬけさせなければ、全員を無事にB階段から地上へ避難させるのは困難になる[456]
  • 次に被告人Cは、ホールからクロークにかけての間が煙で充満する場合も検討しなければならない[456]。6階以下の階で火災が発生した場合にクローク付近に煙が流入してきそうな場所は、A階段か2基のプレイタウン専用エレベーターが考えられるが、7階のA階段出入口は鉄扉で常時閉鎖されており、多量の煙が侵入する可能性は少ない[456]。2基の専用エレベーターについても地下1階と7階以外に出入口が存在しないこと、地下1階エレベーターホールと地下1階売場の間は防火扉で遮断されていることを考えれば、この2つが煙の侵入経路になるとは考え難い[456]。しかしながら実際はA南エレベーターの2階と3階部分の天井付近に隙間があり、その部分からエレベーターシャフトに多量の煙が流入した[456]。その隙間については、火災によって天井が崩落するまでは誰にも気づかれなかった欠陥であり、被告人Cがこれに気付いていたとは考え難いから[456]、同被告人が防火管理者として業務を忠実に遂行して避難計画を立てる場合は、ホールとクロークの間にエレベーターシャフトから煙が流入して充満することがない前提に立つものと考えられる[456]
  • 検察官は「建築工事においては手抜き工事がおこなわれることは、社会通念上においては予測できることであるから、エレベーターシャフトから煙が流入する可能性は充分にあった」と主張する[456]。しかしながら、エレベーターシャフトの手抜き工事を予想できるのであれば、B階段についても壁や防火扉の設置部分に欠陥があると予想する余地があり、B階段は煙が侵入しない階段であると考えることも出来なくなる[456]。逆にB階段に手抜き工事がないものと考えるのであれば、エレベーターシャフトに手抜き工事がないものとして考えても不合理はない[456]。B階段は構造が完全で、エレベーターシャフトには隙間がある、と考える特別な事情があることを窺わせる証拠もない本件においては、プレイタウンの防火管理者がその業務を忠実に遂行していれば、避難については前記のようなことを考えて従業員を指導したであろうと考えざるを得ない[456]
  • 6階以下の階で火災が発生した場合、その発生場所によってはプレイタウン専用エレベーターのシャフト内(又はB階段)に煙が流入する可能性が予測できる[456]。それは地下1階のプレイタウンエレベーターロビーまたは1階プレイタウン出入口で火災が発生した場合である[456]。しかしながら、地下1階ロビーにある可燃物は少量であり、防火扉で売場と遮断されていること、また1階プレイタウン出入口についても同様で、多量の煙が7階に流入するとは考えられない[456]消防当局は、火元から遠い方へ避難するという「2方向避難」について指導していたのであり、この場合はB階段よりもF階段から地上へ避難するのが最適である[457]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
これらのことを考えると、被告人Cが煙が噴き出す方向に避難するという発想が浮かんだとは考え難く、煙が如何なる方向から来ても、B階段から避難する計画を立てることは出来なかったと言わざるを得ない[458] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段へ避難誘導する方法での結果回避の可能性
  • 被告人Cが前記のような避難計画を立てていた場合、ホール出入口からクロークまでの間に煙が充満していなければ、避難誘導する従業員を適切な場所に配置し、客や従業員らをB階段に誘導して避難させられたと考えられる[458]。しかしながら実際は同被告人がクローク前へ行ったころにはエレベーターシャフトから多量の煙が流入してきていたのであり、従業員を配置して避難誘導させるには困難な状況となっていた[458]。それでも避難誘導をおこない、B階段へ誘導するためには、同被告人が指示を出し、従業員らが先導して客らをその方向へ案内するしかない[458]。だが、それも出来ないほど多量の煙がエレベーターシャフトから流入し、同被告人の予想をはるかに超えるほど頭の中が混乱したであろうと考えられる[458]したがって同被告人が事態を正確に理解し、B階段が安全な避難路であると判断して対処できたとは考え難い[458]
  • 被告人Cの判断が適切で、従業員らに対して指示を出せたとしても、クローク付近に充満した煙の状況では、避難経路に不案内な客らが猛煙のなかを通り抜ければ安全であると信じて、混乱なく行動できるかどうかは疑問である[458]仮に何名かが煙の中を突っ切ってB階段へ避難したときに、大勢の避難者があとに続いて殺到し、クロークの中を通り抜けられずに大混乱が起こることは必至であり、同被告人がその混乱を抑えることは困難である[458]
  • 最初にA南エレベーターから噴き出す煙に気付いた従業員らは、事務所前の換気ダクトから噴き出す煙には気付いていないのであり、被告人Cや消防当局からの指導で避難訓練を受けていて、訓練内容を理解したうえで、直ちに避難誘導を実行していたとすれば、煙とは逆の方向、すなわちF階段から避難しようと考えたはずである[458]よって、客や従業員らが出入口からクロークの間へ出て来るものがあれば、ホールへ戻るように押し止めたと考えられる[459]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
B階段へ避難誘導しなかったことによる両被告人の過失責任
被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して、避難経路等について十分に調査検討したうえで避難訓練を実施していたとしても[301]、同被告が立てたであろうと考えられる避難計画を前提とすれば、エレベーターシャフトから多量の煙が噴き出して、クローク内などの付近一帯に煙が充満しているという予想外の状況に直面して、煙の中を突っ切ってでもホール内にいる者らをB階段へ誘導するほかないとの判断を寸刻の間に成し得て、同階段への誘導を指示することが同被告人と同様の立場にある何人かをその立場に立たせても[301]果たして避難誘導が可能であったか大いに疑問であり、また、仮に右誘導を指示していたとしても、本件死傷者の全員が無事にB階段から脱出して、本件死傷の結果を回避し得たかは甚だ疑問であると言わざるを得ない[301] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上の次第で、被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して避難計画を立て、これに従って避難訓練を実施しなかったことは、防火管理者としての義務を果たさなかった重大な落度であると言うべきであるが[301]、B階段から客や従業員らを避難させなかったことについて、同被告人の過失責任を問うことは出来ないものと言わざるを得ず[301]、そうであるならば、被告人Bの指導監督が十分でなかったことの責任を問うことも出来ない[301] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)

被告人Bおよび同Cの救助袋による避難に関する注意義務および過失責任の有無[編集]

救助袋の取替え若しくは補修の必要性とその可能性
  • 前記の各状況(B階段への避難誘導の可能性)により、同店から避難するには、消防隊のはしご車による救助に頼るほかは、救助袋を使用するしか方法が無かった[301]被告人Bおよび同Cは、救助袋を使用した避難訓練を一度も実施したことがなく、救助袋の破損があったことによって消防当局からの再三にわたる取替えか補修を指示されていたにもかかわらず、それを放置していたことは明らかである[301]
  • プレイタウンは7階の高層階にあり、店内の照明を暗くしたホールに多数のボックス席が所狭しと置かれ、営業中は、200名程度の客と従業員が滞在するなかで店内の状況を把握していない一見客や酔客などが多かったことが認められ、その状況で火災が発生すれば、避難に手間取り、逃げ遅れる者が多数出ることは充分に予測できる[301]。ゆえに同店の支配人であり防火管理者である被告人Cは、救助袋の重要性を認識し、上司である管理権原者の被告人Bに対して救助袋の取替えか補修をするよう働きかけ、その実現に努めると同時に、救助袋を使った避難訓練を実施すべき業務上の注意義務を負っていた[301]
  • 被告人Bも、同店の管理権原者として被告人Cからの報告を受け、消防署の指示を把握したならば、速やかに救助袋の取替えか補修をおこない、火災発生時の客や従業員らの安全確保に万全を期すべき業務務上の注意義務を負っていた[301]救助袋の破損状況からすれば、維持管理が万全に行われていたとは言い難いから、被告人Bおよび同Cは消防当局の指示に従い、早急に救助袋の取替えか補修を講じるための責務を果たすべきだったのは明らかである[301] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用しての避難訓練の必要性
  • 消防署の指導下でおこなう救助袋を使った降下訓練は、実施されても1年に1回くらいで、被告人Cが降下訓練をおこなうとしても頻度は同程度と考えられる[460]。消防当局は、火災が発生した場合の避難の基本は、避難階段を利用することを優先すべきであると考えていた[460]。そのことから消防署が指導したとしても、救助袋は逃げ遅れた少数の者の避難を想定した補助的な避方法難との考えに立っていたたことが窺える[460]。実際に指導があっても、その線での指導内容に止まったであろうと考えられる[460]
  • 被告人Cがおこなった自衛消防訓練でも、消防署は1つの避難階段が使えなくなったときは、反対側の避難階段から逃げるようにという指導をしたのであって、すべての避難階段が使用できなくなる場合の指導はおこなわれなかった[460]そのことから本件のようにB階段に通じる通路およびその他の避難階段が煙により避難路としては使えず、プレイタウン滞在者が1つの救助袋もしくは消防隊のはしご車に頼って避難せざるを得ない状況を想定した避難訓練をおこなえたとは到底言えない[460]
  • 1回限りの救助袋を使った降下訓練であっても、救助袋の使用方法や入口の開け方くらいは訓練に参加した者なら習得できたと認められる[460]救助袋の収納ボックスには「使用方法」が表示されているので、普段それを読んでおきさえすれば、訓練をおこなわなくても使用できそうだが、やはり緊急事態に直面すれば慌ててしまい、難なくできることも出来なくなることはあり得るので、実際に降下訓練を実施し、救助袋の取り扱いを身に付けておくべきだった[461]
  • 被告人Cは、自衛消防隊構成員について降下訓練に参加させる責務を負っていた[462]また訓練に不参加であった者に対して、救助袋を降下可能な状態にするまでの一連の操作過程、救助袋の出口を最低6名で把持しなければ安全に降下が出来ないことを日頃から指導しておくべきであった[462] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を利用しての避難誘導及び結果回避の可能性ないし因果関係
救助袋使用についての被告人Cの状況判断の可能性
被告人Cが救助袋による降下訓練を実施していたとしても、ホール出入口からクローク付近の煙の状況で避難が困難である以上は、救助袋による避難しかあり得ないと判断できたかどうかは疑わしい[462]実際に救助袋を地上に投下した従業員が、当初から救助袋による避難しか方法が無いと判断して救助袋の設置場所に行ったかは疑わしく、たまたま頭に浮かんだか、煙から逃れようと窓を開けようとした際、偶然に救助袋を見付けたと考えるのが相当である[462]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用して避難訓練ができていた場合と、地上における出口把持の時期
救助袋を使用しての避難訓練ができていれば、救助袋を投下し、地上で出口を把持することがもう少し早くできていたことも考えられるが、火災時の諸事情を勘案すると、本件よりも投下が早まったとは考えられず[462]救助袋の先端に誘導用の砂袋が付いていたとしても救助袋を使用して降下可能な状態になったのは、せいぜい1分程度早まったと認められる(22時48分)[462]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋が設置された窓への避難誘導の可能性
被告人Cが救助袋による避難誘導を決意し、店内の放送設備を使って客らを救助袋が設置してある窓際に誘導するよう指示させたとしても、ホール内には2方向(A南エレベーターと事務所前空調ダクト)から煙が流入していたのであり、酔客が多いなかでは理性的な行動を取る心理状態にあったとは認め難いので[462]統制の取れた避難誘導は極めて困難であったと認められる[463]したがってバンドマン室などの小部屋に避難していた者らを除く150名程度が救助袋が設置された窓際に駆け付けたとしても、収拾のつかない大混乱状態に陥ったであろうことは充分に予測できる[464]F階段の電動シャッターが開いたことから、右の混乱に拍車が掛かったことは明らかである[464] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
更衣室に居たホステスらについての結果回避の可能性
ホステス更衣室にいた11名については、事務所前の換気ダクトから噴き出す猛煙によって更衣室から事務所前に至る通路は、もはや避難路としては使えない状態であり(22時40分の時点で)、E階段にも煙が充満していたことから、救助袋のある窓へ避難誘導することは不可能な状態であったことが認められる[464]。よって11名の結果を回避する可能性はなかった[464] 
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
救助袋を使用しての避難訓練ができていた場合と結果回避の可能性ないし因果関係
仮に救助袋の入口が開いていて降下可能な状態になっていたとしても、降下推定所要時間とホール内における致死限界推定時間等を総合して考察すると、ホール内にいた150名程度とステージ裏の小部屋に居た者ら全員が救助袋を使用して無事に地上へ脱出し得たとは到底考えられない[464]その一部が脱出に成功したとしても、誰が脱出し得たのかを特定する術が無いから、同被告人が本件被害者らを窓際まで誘導しなかったことと、本件被害者らの死傷の結果との間には、因果関係が存在する証明がないというべきである[464]仮に救助袋の入口が開いていて、使用可能な状態になっていた場合に、救助袋で避難し得た可能性がある67名(認定の検討内容は省略)が全員無事に地上へ脱出できたのか。以下の諸点を考えると、全員が無事に避難脱出できたかどうかは疑わしく、誰が救助袋を使用できたかを特定するのは困難である[465]
  • 救助袋を使用した避難脱出が可能かどうかを判断するうえで考慮すべき諸点
    • F階段の電動シャッターが開いてホール内に多量の煙が急速に充満し、ホール内にいた者らの呼吸をより一層困難にした[466]
    • プレイタウン店内で停電が発生し(22時49分)、避難者らの不安感と恐怖感が強まった[466]
    • ホールに面した6か所の外窓の寸法からすれば(縦102センチメートル、横165センチメートル)、身を乗り出して外気を吸えた者は、せいぜい67名のうちの半数程度だと推定できる[466]
    • はしご車による救助が始まっているにも拘らず、それを待ち切れずに窓から飛び降りたり、救助袋の外側を掴まって降下したりする者が続出しており、避難者らは煙と熱気による極限状態に追い込まれていたと推認できる[153]
    • 救助袋の開口部の設置が不安定な状態で、脱出を補助する者がいなければ、救助袋の中に入るのが困難であった[153]
    • 救助袋を使用した降下実験の結果によれば、20名程度が降下するのに1分程度かかるという[153]。しかし、実験結果と実際の火災事件とでは諸条件が全く異なり、実験結果は参考にならない[153]。煙と熱気が流入し、混乱した状況では実験結果の3倍から4倍は時間が掛かったであろうと考えられる[153]
    • 下層階からの煙によってプレイタウン店内が致死限界に達するまでの時間が10分程度であった[153]
    • 入口が開いていなかった救助袋の上を跨って降下して避難を可能にしたのは、救助袋が使用できない危険な状態だったことで降下を躊躇した者らが、他の窓に移動して救助袋の付近が混雑していなかったとも考えられる[153]
大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
まとめ
以上のことにより、被告人Bおよび同Cが注意義務を果たし、救助袋の取替えまたは補修をおこない、同被告人らが避難訓練をおこなっていたとしても、本件被害者らの死傷の結果を避けられたとの証明はない[153] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)
結論
よって、被告人3名については、いずれも犯罪の証明がないものと言わざるを得ないから、刑事訴訟法336条により無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判決する[153] — 大阪地裁刑事第6部、判例時報1985(1133)


「被告人全員無罪」の判決を受けて検察は、第一審判決には事実誤認があるとして、大阪高等裁判所に控訴した(検事控訴)[433]


控訴審[編集]

大阪高等検察庁の控訴趣意によれば、原判決(第一審判決)が以下の判断について、いずれも証拠の評価、取捨選択を誤った結果、事実を誤認したものであり、これが原判決に影響を及ぼしたことが明らかである、という[2]

  • 被告人A(千日デパート管理部管理課長)について、その注意義務の存在を肯認しながら、各注意義務を履行することは困難であり、結果回避を認め難いとした点[2]
  • 被告人B(千土地観光取締役)と同C(プレイタウン支配人)の業務上の関係性[2]
  • 従業員らがプレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から噴き出す煙に気付いた時刻の認定[2]
  • 被告人Cがホール出入口付近に状況を確認に来た時刻の認定[2]
  • 被告人Bおよび同Cの各注意義務違反の存在を肯定しながら結果回避の可能性を認め難く、因果関係の存在の証明もないとした点[2]


求刑

検察は原審同様に、被告人Aに対して禁固2年6月、被告人Bに対して禁固1年6月、被告人Cに対して禁固1年6月をそれぞれ求刑した[439]


弁護人らは、被告人Aの注意義務の存在について争うとし、それに対して大阪高裁は、原判決の認定の当否について検討、判断するとした[99]。また、それらの判断は被告人Bおよび同Cの過失責任の有無に関係があるので、両被告の各注意義務についても検討、判断するとした[99]

控訴審判決[編集]

控訴審判決は、1987年(昭和62年)9月28日に大阪高等裁判所で言い渡された[433][467]。主文は「原判決を破棄する。被告人Aを禁錮2年6月に、被告人B、同Cをそれぞれ禁錮1年6月に各処す。この裁判の確定した日から被告人Aに対し3年間、被告人B、同Cに対し2年間、それぞれ刑の執行を猶予する[468](以下略)」とされ、一転して原判決破棄で被告人全員が有罪となった(破棄自判)[2]。大阪高裁は、原判決において被告人A、B、Cそれぞれの職務上の役割、防火管理者としての業務上の注意義務が存在することを詳細に理由を付けて説明しているところは適切で肯認できるとした[99]。また、公訴事実および事実認定において、控訴審では原審と異なる認定をしている点がある[2]。大阪高裁の事実取調べの結果を総合すれば、プレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から煙が流入したことに従業員らが気付いた時刻(原審では22時40分認定)と[2]、被告人Cがホール出入口付近に様子を見に来た時刻(原審では22時42分)およびその状況以外は、原審とほぼ同一の事実であると認められた[2]

控訴審が原審の事実認定と異なる判断をした点
  • プレイタウン事務所前の換気ダクト開口部から煙が噴き出していることに被告人Cおよび従業員らが気付いた時刻は、原審認定では22時40分であるが、控訴審では22時39分と認定した[469]
  • 被告人Cが階下で火災が発生したと覚知した時刻は、原審認定では22時40分であるが、控訴審では22時39分と認定した[469]
  • 被告人Cがホール出入口付近へ状況を確認に来た時刻は、原審認定では22時42分であるが、控訴審では22時40分と認定した[469]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

大阪高裁の上記の認定は、被告人Cがプレイタウンに滞在する客や従業員に対して「唯一安全な避難路であるB階段」への避難誘導を為し得た可能性、救助袋を使用しての避難誘導および避難脱出の履行、結果回避の有無、それらについて判断するうえで重要な証拠になること、また同被告人の過失責任の判断にも関係してくることから、関係者の供述および証言、証拠に基づき再検討された結果、新たに認定されたものである。それに対して弁護人らは、所論において原審判断の正当性、関係者供述の信用性および矛盾点を主張して反論したが、その大半が所論は採用できないとして認められなかった[469]。なお上記認定について、大阪高裁が原審と異なる認定をした理由、根拠、検討は省略する。

大阪高裁の判断は、不特定多数の利用者が出入りする雑居ビルにおいて、建物の防火管理に従事する者に高い注意義務を課したものであり[470]、たとえ共同防火管理体制に不備があったとしても、防火管理者として従事する者は、危険を予見し、可能な限り結果回避措置を取るべき注意義務があり、それを怠れば、失火の当事者でなくても厳しく刑事責任を問われることを控訴審逆転有罪判決は鮮明にした[470]。テナントが防火管理に非協力であるとか、組織の中で権限が少ない防火管理者が上司に進言しても防火体制が改善されないとか、それを理由にして責任を逃れることは許されず、尽くすべき注意義務を果たせ、という司法判断である[470]。また控訴審の判決は、複合用途防火対象物の共同防火管理体制の確立を推進するうえで、極めて判決の意義が大きく、社会的に要請される防火管理の責任とその内容が明確になったという意味でも一定の方向性が示された[471]

控訴審において大阪高裁が被告人3名に対して、原判決破棄で逆転有罪判決を言い渡した理由、弁護人および検察官の所論の判断、原判決の説示および判断に対する検討、それぞれについて大阪高裁の判決文を引用する形で、その要約を以下に記す。

被告人Aの業務および各注意義務[編集]

被告人Aの防火管理者としての業務および義務
原審認定のとおりである[444][99]#原審・被告人Aが防火管理者として為すべき業務

それに加え、被告人Aは防火管理者としての業務を実行するため、日本ドリーム観光管理部保安係員に対する指導監督権も有していたことが認められる[99]

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予見可能性および結果回避義務について
火災で発生した煙がプレイタウン店内に流入する予見の可能性について、'被告人Aは、大阪市消防局や南消防署が主催したビル火災についての研究会や説明会に3回出席しているのであり、ビル火災における煙の上昇経路やその危険性の説明を受けているのであるから、千日デパートビルにおいて6階以下の階で火災が発生した場合は、煙がいずれかの経路を通て7階プレイタウンに流入する恐れがあることをビルの防火管理責任者として理解し得たはずで[472]したがってプレイタウンに在店する客や従業員の生命身体に危険が及ぶことがあり得ることを十分に予見できたものと言わなければならない[472]
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被告人Aの右注意義務についての弁護人らの所論に対する判断
(ア)防火区画シャッターを閉鎖する義務に関して
  • 弁護人らは「防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない」と主張したが[440]、原審において「千日デパートでは、閉店後に売場の防火区画シャッターを閉鎖すべき状況が現にあり、また消防当局からの指導によって被告人Aが同シャッター閉鎖の必要性を知っていた以上、日本ドリーム観光としては、その体制を早急に整えておくべきであった[290]」と説示したところは肯認できるので、弁護人の所論は採用できない[61]
  • 弁護人は「防火区画シャッターを閉鎖する法令は無く、被告人Aが同シャッター閉鎖を認めなかったのは当然で、火災当日も同シャッターを閉鎖する義務はなかった」と主張した[440]。それに対する大阪高裁の判断は以下のとおりである。
    • 工事作業中に工事監督とF電工社長の間で交わされた会話のなかで、金属カッターから発生する火花が商品に飛ぶ恐れがあるため、両名の間で以下のようなやり取りがなされた[61]。「工事監督が『布か何かを被せて養生しろ』と言ったことに対し、F電工社長は『布を被せても同じだ』と答え、それに対して工事監督は『無いよりかはましだ』」と返答した[61]。また工事監督は、火の付いたタバコを機械に擦り付けたり、床に捨てて足で踏み消したりしており、火災が発生する恐れが無かった工事とはいえないし、火気の管理が厳しくなされていたとはいえず、弁護人らの所論は失当で採用できない[61]
(イ)保安係員を工事に立ち会わせる義務について
  • 弁護人らは「ニチイがおこなった火災当日の工事は、危険性はなく、火気を使用するものでもないので、監督業務はニチイに任されば十分であり、日本ドリーム観光から保安係員を派遣して立ち会わせる事情なない。また工事関係者の喫煙についても、ニチイに対して文書で注意するように要望済みで、被告人Aが工事立会いを不要と判断したのは当然で、火災当日の工事に保安係員を立ち会わせる義務はなかった」と主張した[61]。それに対する大阪高裁の判断は以下のとおりである。
    • 日本ドリーム観光と各テナントの間には、閉店後にテナントが不在の時は売場の管理は日本ドリーム観光がおこなう管理契約が売場賃貸借契約に付随して締結されていた[128]火災当日は、ニチイの従業員は1人も工事に立ち会っておらず、被告人Aもそのことを確認すらしていない[128]ニチイは、共同管理費を収めていることから保安管理上の立会いは、デパート管理部が行うものと考えており、そのようなものを置いたことはなかったので、工事元請の工事監督らに一切を任せていた[128]。さらには工事現場には吸い殻入れさえ用意されていなかった[128]火災当日において、3階の工事現場で工事監督が火の付いたタバコを機械に擦り付けて消しているのであり、工事監督は自己の喫煙管理が出来ていなかったことが認められる[128]以上のことから、弁護人らが「被告人Aが保安係員の工事立会いを不要だと判断したのは当然だ」などとは到底言える状況にはなく、これらを前提とする弁護人らの所論は認められない[128]
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被告人Bと同Cの業務および各注意義務[編集]

被告人Bおよび同Cの業務
いずれも原審認定のとおりである[452][128]#原審・被告人Bの管理権原者としての業務 #原審・被告人Cの防火管理者としての業務
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7階に煙が流入し、客や従業員に危険が及ぶ予見の可能性
被告人Cは、防火管理者の資格を得る講習を受けた際に用いた「防火管理の知識」という冊子を手許に置いていて保管してい[128]た。その冊子の中には「ビル火災における特徴、煙の危険性や流動性、煙が上階に走煙する際の経路、防火シャッターなどの遮蔽性」などについて書かれているのであり、同被告人は当然その知識を知り得たはずで、被告人Bについても同様のことが言える[128]。とすれば、両被告は、千日デパートの6階以下の階で火災が発生した場合、火災によって生じた多量の煙と一酸化炭素が階段や換気ダクト等のいずれかの経路を通ってプレイタウン店内に流入することがあり得ることに考えが及ぶ[128]したがって客や従業員の生命に危険が及ぶ恐れがあることを十分に予見できたと言わなければならない[128]
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結果回避義務(注意義務)
(1)6階以下の階で火災が発生した場合を想定した避難計画を立て、これに従って避難訓練を実施すべき義務
被告人Cが防火管理者の講習や「防火管理の知識」の内容を把握したうえで、千日デパートビルの構造や各階段の状況、出入口や防火シャッターの閉鎖状況を平素より事前に確認しておけば、B階段こそが安全確実に地上に避難することができる唯一の階段である、との結論に達することは充分に可能だった[473]以上の認識が被告人Cにあるとすれば、防火管理者として次に客や従業員をB階段へ誘導する方法を考えなければならないが、150名程度のプレイタウン滞在者が火災発生を知れば、真っ先にエレベーターホールへ避難してくることが予想されるから、まずはエレベーターのほうに向かうことを制止し、クロークの方へ向わせなければならない[473]。その際に幅が65センチメートルしかない狭いクロークカウンターに客らを誘導するのだが、ホール出入口とクローク付近に従業員を数名配置し、殺到する避難者を円滑に通り抜けられるようクローク内へ誘導しなければならない[473]したがって6階以下の階で火災が発生した場合は、従業員に対して速やかにB階段から客らを避難するように指導、訓練する義務があったというべきである[473]
(2)救助袋の点検、補修及び使用方法等を周知すべき義務
(ア)救助袋の取替え、補修の必要性とその可能性
被告人Cは、プレイタウンの防火管理に当たる者として、有事における救助袋による避難の重要性を認識し、平素から救助袋を点検し、破損があれば補修するか新品に交換するなどして、有事の際に救助袋を使用できるよう維持管理に努めるべき注意義務があると言わなければならない[302]1970年(昭和45年)12月の消防当局の立入検査で救助袋の破損や不備を把握し、その後に2回おこなわれた立入検査でも救助袋の速やかな取替えか補修を文書で指示されているのであるから、同被告人は管理権原者である被告人Bに対して、消防当局からの指示を単に報告するだけに留まらず、防火管理上の必要性を訴えて速やかに取替えか補修するように積極的に働きかけ、その実現と維持管理に努め、避難訓練を実施すべき業務上の注意義務があった[302]被告人Bにおいても、被告人Cからの報告と消防当局からの指示事項を知った以上は、救助袋の取替えまたは補修をおこない、万が一の場合に客や従業員らの安全確保に万全を期すべき業務上の注意義務があった[302]
(イ)救助袋を使用しての避難訓練の必要性
プレイタウンに設置されていた救助袋のキャビネット(金属製の覆い)には、使用方法が貼付されていたが[474]、これを平素から読んで使用方法を理解していたとしても、実際の緊急事態においては、ただ単に知識として頭に入れていただけでは慌ててしまい、日頃は簡単にできることも出来なくなる恐れは十分にあるのだから、実際に救助袋を使用した避難訓練をおこない、取扱いの一連の過程を身に付けておくべきだった[474]訓練をおこなうとしても、消防署係官が立ち会う年1回程度の訓練は総合訓練にならざるを得ないところ、被告人Cにおいてはプレイタウン従業員全員に訓練を受けさせるべきだが、それが事実上困難でも、同店の自衛消防組織の構成員は訓練に全員参加させる義務を負っていた[474]被告人Cにおいては、救助袋が降下可能になる一連の過程や操作、地上で救助袋を把持する人数が最低でも6名必要で、それが確認できなければ降下できないなど、最低限の知識は日頃から従業員に指導訓練しておくべきであった[474]
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まとめ
以上のことから、原審が被告人A、B、Cにつき、各注意義務を認定したのは正当である[475] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

各注意義務の履行可能性ないし結果の回避可能性について[編集]

被告人Aについて[編集]
(1)同被告人の各注意義務の履行可能性
(ア)千日デパート閉店後に防火区画シャッターを閉鎖すべき注意義務の履行可能性
千日デパート閉店後に防火区画シャッターを閉鎖することについては、被告人Aが消防当局から指示指導を受けているのであり、同被告人が上司に上申するなどしてデパート管理部において、その実行方針を立てさえすれば、実現が可能であったと認められる[475]
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(イ)宿直保安係員による防火区画シャッターの開閉作業
1階から4階までの売場内に設置されている防火区画シャッターは、手動巻き上げ式で合計57枚あるが、閉鎖についてはボタンを押すことでシャッターの自重により降下するので、容易に閉鎖できる構造である[475]したがってテナントの協力でシャッターラインの確保さえできていれば、閉店時の巡回に保安係員が閉鎖するのは容易である[475]また被告人Aらデパート管理部が防災上の重要性をテナント側に説明し、防火区画シャッター閉鎖についてテナントの協力を求めていれば、難なく実行できたと考えられる[475]しかしながら巻き上げ(開放)については、開閉装置にハンドルを差し込み、手で回して巻き上げねばならないので、ある程度の時間と労力を必要とする[475]。1枚あたりの巻き上げ時間は移動も含めて3分程度であり、当直の保安係員5名のうちの3名が1階から4階までの防火区画シャッターを1人あたり19枚巻き上げるとすれば、所要時間は1時間程度である[475]。5時30分から7時30分までおこなわれる4回目の館内巡回が終了したあと、3名の保安係員で手分けして同シャッターを巻き上げれば、交代時間(午前9時30分)までに作業を完了し得るものと考えられる[475]
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(ウ)防火区画シャッターの開閉作業についてのその他の方策
被告人Aが上司(千日デパート店長)に防火区画シャッター閉鎖の必要性を進言していたなら、上司はこれに対応した体制づくりを実行したと考えられる[476]ニチイや各テナントに対し、消防当局から福田百貨店火災田畑百貨店火災の教訓に鑑みて閉店時の防火区画シャッター閉鎖について指導され、早急にシャッター閉鎖の実行を迫られている事情を説明して協力を求めたならば、テナントとしても商品などの安全性にかかわる事柄であるから、防火区画シャッター閉鎖の協力は得られたと推認できる[476]
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(エ)上司に進言しての体制づくり
  • 被告人Aの上司は「もし同被告人から消防署からの指導や申し入れが正式にあったと聞いていれば、会社としては消防当局と相談しながら、前向きに閉店後の防火区画シャッター開閉を検討することになったと思う」と供述しており[477]、同被告人が防火管理者として防火区画シャッター開閉の重要性を認識し、それを実行するための具体的な方策を検討して上司に具申していたならば、テナントとの作業分担についての話し合いもできたので、比較的容易に実現できたと考えられる[477]
  • 日本ドリーム観光は、保安管理体制の強化に関して消極的であったというわけではなく、過去には消防当局からの指導に対しては、誠実にそれを履行していた向きも認められる[477]
例えば・・・
  1. 1966年(昭和41年)ころに消防署からシャッターラインの確保を指導された際には、それに従ったこと[477]
  2. 1969年(昭和44年)ころに消防署からの指導で非常口への誘導灯の増設がおこなわれたこと[477]
  3. 本件火災の前年(1971年)に消防署の指導で6階以下の階に非常放送設備を設置したこと[477]

・・・の各事実である。

以上のことから、被告人Aが防火管理者として職務を誠実に実行し、上司に対して必要な進言をしていれば、同ビルの管理権原者である千日デパート店長としても、防火区画シャッターの夜間閉鎖の必要性を認識し、理解したうえで、これに対応した体制づくりを実行したであろうと推認できる[477]
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(オ)テナントの協力
  • 各テナントの協力で夜間の防火区画シャッターを閉鎖することは可能であった[478]千日デパートビルの3階と4階を賃借していたニチイ千日前店店長の証言によると、「もしデパート管理部から閉店後の防火区画シャッターの閉鎖を消防当局からの指導があったので閉鎖してもらいたい、との要請があった場合、保安係員だけでは手が足りないのであれば、覚書の条項とは関係なしに当面は現状のままで協力しただろう」と述べているので、ニチイの協力を得られたのは明らかである[478]ニチイ千日前店には、男子店員が毎日約60名出勤していたことが認められ[478]、3階と4階の防火区画シャッターは合計19枚であり、1人が1枚開閉するとして、交代で開閉すれば1人につき3日に1回開閉すればよいのであり、格別の負担とはならない[478]。これが実現したとすれば、保安係員が開閉する防火区画シャッターは1階と2階の合計38枚となり、開閉作業はかなり軽減されることになり、極めて容易なものとなる[478]
  • ニチイ以外のテナントの協力を求めることについては、1966年(昭和41年)ころの消防署の指導でシャッターラインの確保が一時的に実現している[479]。その後に同シャッターの閉鎖は徐々に行われなくなり、シャッターラインに商品台などが置かれ、本件火災では同シャッターを閉鎖しようとしても完全に閉鎖できないものもあった。だが、それらは容易に移動させることが可能な状態にあり、デパート管理部が毎日防火区画シャッターを閉鎖する体制を整えておけば、シャッターラインの確保はできた[479]さらにはテナント組合の組合長は、デパート管理部に対して防火区画シャッターを毎日閉鎖するよう申し入れをおこなっていたことがあり、テナント側としても防火管理に強い関心を持っていたことが認められる[479]。1階と2階の店舗において、防火区画シャッターが掛かる店舗は、1階が16店舗、2階が14店舗であり、シャッター内部の店舗まで含めると1階が22店舗、2階が17店舗なので、各店舗に1枚か2枚の巻き上げを分担してもらえば足りるので[479]1階から2階においても防火区画シャッターを巻き上げる作業をおこなう体制を実現し得たと考えられる[479]
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まとめ
以上のことから、被告人Aが福田屋百貨店火災および田畑百貨店火災の教訓によって消防当局からの閉店後の防火区画シャッター閉鎖の指導を受け、早急にその実行を迫られている旨を各テナントに告げて協力を求めたのであれば、商品の安全確保に関わることであるから、各テナントの協力を容易に得られたであろうと推認され、右協力を得るのに特段の支障があったとは考えられない[479] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(2)原判決の説示に対する判断(防火区画シャッター閉鎖について)
  • 原判決では「防火区画シャッターを巻き上げるには、1枚につき3分から5分は掛かるのであり、3名の保安係員で1階から4階までの合計57枚を1人あたり19枚巻き上げたとすると、1時間35分を要するので、時間の掛かる作業を毎日少数の保安係員で行うことが実現可能であったかは極めて疑わしいと言わざるを得ない[448]」と説示したが[479]、1枚当たりの巻き上げ時間は、被告人Aや原審証人の推測に過ぎず、実測や実験に基づくものではないので原審判断は失当である[479]
  • 原判決では「防火区画シャッターの巻き上げ作業は、その体制を整えない限り実現不可能である」とし、体制づくりの方法や可能性を論述し、「いずれの方法も履行の可能性が無い[480]」旨説示し[479]、さらには「被告人Aが防火区画シャッターの閉鎖の重要性を上司に進言したとしても実現可能であったとは認められない[480]」としているが、同被告人が上司に必要な進言をしたのであれば、それに対応した体制づくりを行ったであろうことは前記のとおり推認できる[481]。防火区画シャッターの夜間閉鎖が実現しなかったのは、同被告人が上司にそのことを進言しなかったからであり、原判決の右判断は失当である[481]
  • 原判決では「防火区画シャッターの巻き上げ作業を実行する保安係員の増員は困難である[292]」との理由に「日本ドリーム観光においては、保安係員を減員していて保安管理体制強化に消極的だった[292]」と説示したが[482]、保安係員が減員になったのは、1967年(昭和42年)に千日デパートの営業方式が納入業者制から賃貸契約制に変更されたからであり、従来の保安係員の半数が必要なくなったからである[482]。本件火災当時、保安係員が減員された事実はなく、保安係員の増減が問題になったこともなかった[482]。また日本ドリーム観光が保安管理体制強化に消極的だったという根拠はないので、右判断は失当である[482]
  • 原判決は防火区画シャッターの夜間閉鎖について「各テナントの協力を得るのは困難である」とした[449]。またニチイについて「ニチイの売場で毎日のように防火区画シャッターを夜間に閉鎖するには、ニチイ従業員の労働条件に関係してくるから、デパート管理部がニチイに協力を求めても実現できたかは疑問である[292]」としているが[482]、前記のとおり、ニチイはデパート管理部から要請があれば同シャッターの夜間閉鎖に協力したであろうことが認められるので、右判断は失当である[482]
  • 原判決では、ニチイ以外の各テナントの協力によるシャッターラインの確保やシャッター閉鎖について「各テナントはそれに対して非協力的であり、被告人Aの上司に直接交渉して天井裏を倉庫にしたり、1階外周店舗を物置にしたりしていて、デパートビルの防火管理は専らデパート管理部が行うべきものと考えていて、仮に同被告人が各テナントに協力を要請しても防火区画シャッターの夜間閉鎖や巻き上げ作業の協力を得るのは著しく困難であり、実現できたかは甚だ疑問である[449]」と説示したが[482]、前記のとおり、各テナントも防火管理や商品の安全については高い関心を持っており、同被告人が各テナントに事情を説明すれば協力は容易に得られたと推認できるので、右判断は失当である[482]
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(3)右シャッター巻き上げ作業についての弁護人らの所論に対する判断
弁護人らの所論では「保安係員を防火区画シャッターの巻き上げ作業という重労働に従事させることになれば、労働基準法に定める労働時間の制限法規の適用除外を受けることができなくなり、千日デパートビルの保安体制を根本的に改めなくてはならず、右作業に従事させるのは物理的に可能であったとしても、社会的には不可能である」と主張した[482]。しかしながら、各シャッターの開閉はデパート管理部の職務分掌の規定上、保安係員の担当業務であり、実際に1階各出入口のシャッターや階段回りの防火シャッターは宿直の保安係員が毎日巻き上げを行っているのであり、売場内の防火区画シャッターの巻き上げも保安係員の担当職務に含まれると解釈できること[482]、大阪市内の各百貨店では、防火区画シャッターが手動式の時代であっても宿直の保安係員等が閉店後に必ずその閉鎖を行っていたことが確認されているので[482]、以上の点からすれば、防火区画シャッターの巻き上げが労働時間制限法規の適用除外を受けることができなくなるとは容易に断定できず[482]、被告人Aが管轄の労働基準監督署長に対し、防火区画シャッターの巻き上げ作業を行うことを内容とする除外申請を全くおこなったこともないのに、右適用除外を受けられなくなる旨の仮定論を前提とするものであるから、不当であると言わざるを得ず、所論は到底採用できない[482]
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(4)工事現場に保安係員を立ち会わせるべき注意義務の履行可能性
原判決の説示に対する判断(原審・保安係員を工事に立ち会わせなかったことについての被告人Aの過失責任)
  • 当直の保安係員または非番の保安係員を臨時に工事に立ち会わせる実現性
火災発生当夜は、5名体制の保安係員のうち1名がたまたま欠勤して4名体制になったに過ぎず、そのような状態でも保安管理体制を維持しなければならない[483]被告人Aが工事の立会いに何らの指示をせず、保安係員を工事に立ち会わせなかったために管理上の不備が生じたとすれば、被告人Aの責任というべきで、原審の判断は失当である[483]
  • 日本ドリーム観光が工事の立会人を出す必要性
管理権原者である千日デパート店長は、ニチイ売場でO電機商会が施工していた電気配管工事に関して「ニチイが工事の責任を持つべきであり、被告人Aが右工事に立ち会う必要はない」と供述しているが[482]、日本ドリーム観光と各テナントとの間で締結されている管理契約上はテナントの工事に保安係員が立ち会う義務があるのに、これを知らずになされた供述であり、そもそも被告人Aからの進言はなく、夜間に防火区画シャッターを閉鎖しなければならないこと、ならびにその重要性を認識していなかったことが前提となるものである[483]。したがって、千日デパート店長の見解は、被告人Aの責任を左右するものではなく、日本ドリーム観光が保安管理体制の強化に消極的であったとはいえない[483]
  • 保安係員の増員および他部門の社員を工事立会いに充当する実現性
共同管理費の値上げをテナント側が理由もなく拒絶していたものでないことは明らかである[484]日本ドリーム観光は、テナント側に対し過去に2度値上げを要求したが、そのときの値上げ理由は管理費の不足であったが、その根拠が乏しかったことから、テナント側で調査したところ、むしろ毎月のように余剰金が出る状況であった[484]。これは千日デパート開業当初からの坪2500円という額を据え置きしているところにテナント数が増えて管理費収入が増加する一方、管理部の人員が減少して収支の均衡が取れていたからであった[484]。千日デパート店長は、火災発生の1か月半前に3度目の値上げ要求を出したが、その理由を従業員の昇給や衛生費の増加で210万円不足しているというものであったが、テナント側が調査をおこなったところ、共同管理費の約70パーセントが人件費で占められていて、その対象となる従業員の職務分掌を明らかにするよう要求していたところ、デパート管理部の職務分掌が提出され、それを検討しているところで本件火災が発生した[484]以上のことからテナント側が理由もなく管理費の値上げに反対していたわけではないと認められる[484]むしろテナントは、必要な経費であれば値上げもやむを得ないと考えていて[484]、もしも日本ドリーム観光が防火管理上、必要な措置を講ずるために共同管理費の正当な増額を要求したのであれば、テナントがこれを受け入れた可能性は充分にあったと考えられる[484]したがって共同管理費の値上げ交渉問題があって経費面から保安管理体制の強化が図れない趣旨の原判決の判断は失当である[484]
  • 「デパート管理部から工事に立ち会う人員確保の措置を取る独自権限があったかどうか」についての控訴審判断
原審が「被告人Aや管理部次長が売場の工事をおこなう場合に、千日デパート管理部から工事に立ち会う人員を確保する措置を取る独自の権限があったかどうか認めるに足る証拠がない[452]」としたが、被告人Aは原審公判廷で「店内で行われる工事については、事前に申請がなされた段階で立会いを付けるべきかどうかを自分が判断し、管理課の職員を立ち会いさせることにしていた[484]。テナントの工事であっても、日本ドリーム観光の施設、電気、気罐、空調等に関連のある工事には管理課で立会いを付けていた[484]」「工事に保安係を立ち会わせるどうかの判断は、一応次長と相談したうえではあるが、私がしていた。保安係が次長直轄になった以降も同様である」と供述し[484]、また千日デパート店長も同公判廷で、「工事の立会い等の指示は職務上からいえば管理部次長である[484]」「デパート自体の工事の保安体制もテナントの工事の場合と同じで、工事の立会いは管理課の課長又は課員である」と供述しているので[484]、管理部次長は、管理部の3課(総務課、管理課、営業課)を統括し、同部の職務全般について同部の従業員を指揮監督する権限を有していたのであるから[484]、防火管理者であり、同部管理課長でもある被告人Aから欠勤した保安係員の補充要員またはテナント工事の立会い要員を確保する要請があれば、同部所属の他の従業員立会いのために臨時の当直を命令することができ、またそのような措置を取るべき義務があったのは当然であり[484]、被告人Aとしても自己の指揮監督する管理課の課員のなかから臨時の当直要員を指定して工事に立ち会わせることもできたことは明らかであり、原判決の前記判断は失当と言うべきである[484]
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まとめ
被告人Aは、各注意義務を履行する可能性があったのであるから、前記の各注意義務を尽くしていれば、3階での火災発生直後に工事立会いの保安係員において、煙の発生によって初期消火が不能と判断した時点で、工事のために開けておいた2枚の防火区画シャッターを閉鎖できたと推認できる[485]。3階売場の防火扉や防火区画シャッターが完全に閉鎖されていたならば、本件火災の延焼範囲は同ビル3階東側部分の防火区画内に限定され、防火区画シャッターを通り抜ける煙の量も少なく、7階プレイタウンに侵入する煙はA南エレベーターシャフトのみになり、出火30分近くまではB階段からの避難が可能であることが認められ[485]、被告人Cとプレイタウン従業員らがA南エレベーターから煙の流入に気付き、1階の保安室に電話で問い合わせて火災の発生場所や状況等を知り得る時間的余裕もあり、店内にいた客や従業員ら181名全員は、被告人Cの適切な避難誘導と相まって、B階段または救助袋を併用することによって完全に避難し得たと考えられ、本件火災による死傷の結果を回避し得たことが認められる[485] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Bおよび同Cについて[編集]
(1)同被告人らの各注意義務の履行可能性ないし結果回避の可能性
  • 被告人Cが22時39分に事務所前の換気ダクトから噴き出す煙に気付き、そのときに階下での火災を覚知し、そのあとクローク付近へ様子を確認に行った22時40分の時点では、A南エレベーターから流入して来る煙は少量であった[486]。この段階で従業員らに火災発生を通報し、直ちに従業員を指揮してB階段への避難誘導を開始するとともに、救助袋による避難準備を進めることが可能であったと認められる[486]しかも平素からの避難訓練が行き届いていれば、22時39分から40分ごろのプレイタウンに流入した煙の量はさほど多くなかったのだから、同被告人からの指揮を受けた従業員らは比較的冷静かつ沈着に行動することが可能で、B階段への誘導および救助袋の投下に至る一連の作業は、手順どおり迅速におこなえた[486]。遅くともB階段への誘導は22時40分ごろまでに、救助袋の降下準備完了は22時45分までには為し得たと認められる[486]
  • 煙がクローク付近へ多量に充満してきた段階においても、B階段を使って自力脱出したホステスの状況に照らしてみれば、煙の中を突っ切てもB階段からの避難は可能で[487]、被告人Cが冊子「防火管理の知識」の内容を十分に把握していたのであれば、姿勢を低くし、ハンカチなどで口や鼻を覆い、呼吸を少なくしてクロークを通り抜けB階段へ行くように客らに指示して避難誘導をおこなっていれば、少なくとも停電のころ(22時49分)までにはクロークからB階段への避難誘導は可能だった[487]またクロークカウンターの65センチメートル幅の出入口についても、自動改札機の通り抜け実験で幅が55センチメートルの改札口において、毎分60名から70名の人数が通過できたと認められたのであるから[488]、本件火災の状況では30名から35名程度は通り抜け可能だというべきであり、被告人Cの適切な避難誘導があればB階段からの避難は可能であったと認められる[488]
  • このことは大阪科学技術センタービル火災において、適切な避難誘導が実施されたことにより、ビル内に滞在する679名全員が無事脱出し得た事例によっても裏付けられる[488]。この火災では、防火管理者が放送設備を用いて「3階で火災です。中央階段を利用せず、東階段から避難してください」と避難放送をおこない、その情報を得てから煙によって全く前が見えない状況下で避難した者が在館者の48パーセントいた[488]。適切な放送と避難誘導がおこなわれたことにより、パニックによる重大な結果は起きなかったと認められる。したがって防火管理者において避難階段を明示し、避難誘導が適切に行われたならば、煙が充満した経路を突っ切ってでも避難し得ることを実証したものと言えるのである[488]
  • 救助袋による避難についても、救助袋を使用しての降下実験では、1分間に20人程度の降下が可能であると認められ[488]、緊急事態に直面した本件火災においては、従業員の指示や介添えがあったとしても、そのとおりに降下できたかは疑問があるが、1分間あたり10名程度は降下可能であったと認められ、数分間あれば客らの相当数を避難させられたと認められる[488]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
まとめ
被告人Bおよび同Cが各注意義務を尽くして、千日デパートビルの6階以下の階で火災が発生した場合には、通常は唯一安全な避難路であるB階段へ客らを速やかに避難誘導させるとともに、適正に維持管理された救助袋を使用するなどの方法により、プレイタウン店内に在店する客らの安全を確保するための消防避難計画を策定し、これによる避難訓練を実施していたならば[489]、本件火災が発生して煙がプレイタウン店内に侵入した際に、同店内にいた被告人Cにおいて、平素の訓練の成果を発揮して、速やかにB階段への避難誘導、救助袋を使用しての避難等、危急に際しての適切な措置を取ることができ[489]、ホステス更衣室にいた11名を除くその他の本件プレイタウン在店者全員は、B階段からの避難誘導に加え、救助袋による避難方法が併用されることによって、安全に避難し得たことが認められるから[489]右更衣室にいた11名を除くその他の本件被害者(死亡109名、受傷40名)の死傷の結果を回避し得たものと認められるのである[489] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(2)原判決の説示及び弁護人らの所論に対する判断
B階段への避難誘導に関して
(ア)原判決が事実を誤認し、判断を誤った部分
原判決では「本件火災当時に死傷者を出すことなくプレイタウン店内から避難することが可能だったか否かについてみるに、4つの階段のうち、避難に使えるのはB階段のみであり、22時50分ころにホステス1名がクロークを通り抜け、B階段を使って避難出来ているので、クロークさえ通り抜けられればB階段は通行可能だったと認められる。被告人Cが平素からB階段の状況を把握し、6階以下の階で出火した場合の安全な避難路としてはB階段しかないことを十分に認識して、従業員にそのことを教え、たとえクロークに煙が充満していてもそこを突っ切ってB階段から避難誘導するように指導訓練しておけば、22時50分ころまでならB階段と救助袋を使って同店内に滞在していた全員を地上まで無事に避難させられたのではないかと、一応考えられないではないのである[453]。」として幾つか理由を挙げ、「被告人Cが6階以下の階で火災が発生した場合を想定して避難経路等について十分に調査検討のうえ、避難訓練をおこなっていたとしても、エレベーターシャフトからの猛煙でクローク付近が急速に汚染されるという予想外の状況に直面して、B階段への避難誘導が果たして可能だったのか大いに疑問であり、仮に避難誘導が可能だったとしても全員の死傷の結果を回避できたかどうかは甚だ疑問であると言わざるを得ない[301]」としたのは事実を誤認し、その判断を誤ったものであり失当である[489]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
(イ)被告人CがB階段からの避難計画を立てることの可能性
原判決が、被告人Bおよび同Cの以下に掲げる各注意義務について・・・
  • 「6階以下の階で火災が発生した場合でも、プレイタウンが他の階から完全に遮断された気密構造になっていない以上、同店内に煙がどこからか流入して来る恐れがあるから、煙の具体的な流入経路や速度については分からないまでも、とにかく速やかに客や従業員を避難させる必要がある」[455][490]
  • 「6階以下の売場で出火した場合、1階売場も火災となっていることは十分考えられるから、F階段を利用して避難することは危険である」[455][490]
  • および「6階以下の売場で出火した場合には、その時刻の如何を問わず、各階段A、E、Fを避難路とするのは危険であり、B階段こそが安全確実に地上に避難できる唯一の階段であるとの結論に被告人C自身が到達することは十分可能であった」[455][490]

・・・との各認定に前記(2)(ア)の原判決説示は矛盾する[490]

  • また「煙が如何なる方向から来ようともB階段から避難するとの避難計画を立てることはできない[458]」との説示についても、「被告人Cとしては、むしろ6階以下の階で火災が発生した場合、プレイタウンが他の階から完全に遮断された気密構造になっていない以上、その煙があらゆる経路を経てプレイタウン内に流入する恐れのあることを予測し、通常は唯一安全な避難路であるB階段への避難誘導計画を策定しておけば足り、またこれ以外にはないのであって、煙が如何なる方向から来ようともB階段から避難するとの避難計画を立てることはできない[458]」とする原判示は相当でない[490]
  • 仮にそれが予想外の事態であったとしても、B階段こそはビルの構造上、各売場とも完全に遮断されていて、通常は唯一安全な避難路であることには何ら変わりはないのであるから、B階段への避難誘導を断念すべき理由は全く見出し難いのである[490]
  • また、消防署の指導上で言われる「2方向避難」というのは、あくまでも基本的に安全性の高い避難経路を常に2方向以上確保したうえで、火災が発生した場合、その状況によって安全確実な方向に避難するような体制を整える必要があることを言うのであって[490]、プレイタウンのように、6階以下の階で火災が発生した場合、「B階段こそが唯一安全な避難階段」であるときには、2方向避難の前提を欠くのであって[490]、たとえB階段の方向に煙が流れていたとしても、同階段から煙が流入し、あるいは同階段自体に煙が充満していたわけではないから、当然B階段に避難誘導すべきであり、この点の原判決には誤りがあると言うべきである[490]
  • しかも、本件火災の場合のように、北側事務所前換気ダクト開口部からの煙のほか、クローク前やエレベーターの前にも煙が流入していたとすれば、むしろ6階以下の階での火災がある程度規模の大きなものであることが十分予想されるので[490]、仮に的確な避難計画を立てていたとすれば、B階段への避難誘導とともに当然救助袋による避難にも全力を注ぐことになるはずで[490]最も危険度の高い「F階段」に誘導するのが最適の方法である、などというような無謀な発想は起こり得ないものと言わなければならない[490]原判決の避難計画に関する判断は、被告人Cらにおいて現実には消防避難計画について右のような検討を全く加えておらず、何らの避難計画も立てていなかったのであるから、仮定論を前提とするものである上、その内容自体にも矛盾や誤りがあると言わなければならない[490]
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(ウ)本件火災における被告人CのB階段への避難誘導の可能性
原判決の説示は、この点についても、被告人Cが消防計画の策定、避難誘導訓練を全くおこなっていなかったのであるから、原審判示は仮定論を前提とするものであるうえ、原審説示の内容そのものも以下に述べるとおり、誤りがあると言わなければならない[490]
  • 同被告人は、B階段の安全性を全く認識していなかったために、的確な避難誘導の行動を開始し得ないまま、漫然クローク付近に赴き、同所でしばらく様子を見ているうちに、エレベーター昇降路から流入している煙が次第に増量して付近が徐々に暗くなってきたことから、ようやく客や従業員の避難を考えるに至り[491]、近くにいた従業員に電気室から懐中電灯を取って来るよう指示し、右従業員が電気室へ行って戻り、懐中電灯を見付けることができなかった旨報告するのを待って、レジ付近まで戻り、ボーイらに指示してA階段の出入口の扉を開けさせようとしたのであり[491]同被告人の避難誘導の行動は、方法において誤りがあったのみならず、その着手が著しく遅延したものと言うべきである[491]
  • 被告人Cがクローク付近まで行ったのは、「エレベーターの昇降路から多量の煙が噴き出し始めた直後であった」との誤った事実認定を前提に、B階段への避難誘導を決断することは困難であったとする原判決の判断は明らかに失当であって[491]右のとおり、被告人Cがクローク付近に至ったときは、B階段への避難誘導に何ら支障のない状態であり[491]この時点で明確な対処を怠ったことは同被告人の落度であると言うべきである[491]
  • もともとプレイタウンにおいては、6階以下の階で出火した場合の安全な避難路は、通常はB階段しかないのであるから[491]、エレベーター昇降路から煙が流入したとしても、B階段自体からも煙が流入するというような異常な状況にない限り、クロークへ進入する経路が煙により遮断されるまでの間は、万難を排してB階段へ避難誘導すべきであり[491]、もし的確な避難計画を立て、避難訓練をしていたならば、寸刻の間にそのような判断を為し得たはずであり[491]それができないということは、すなわち右のような避難計画を立て、訓練を行う事を怠っていたことによるものであって、B階段からの避難誘導を決断することが困難であったとする原判決の判断は到底肯認できない[491]
  • 原判決は「客や従業員に対し、B階段に避難するよう指示したとしても、当時の状況では、大きな混乱が起きて避難出来たか否か疑問である」とする[491]。しかし、この点については、「大阪科学技術センタービル火災」の事例において説示したとおり、本件のような危急の事態に遭遇した場合、群衆は、避難誘導指揮者の適切かつ明確な指示があれば、これに従って安全な場所を求めて危険をも省みずに行動することは群衆心理の常識とも言うべきであり[492]、このことは、証人Sの当審公判廷における供述からも伺われるところであるから、被告人Cや従業員の明確な指示さえあれば、大きな混乱が起きることなくB階段への避難誘導は可能であったと認められる[492]
  • 本件の場合には、実際にホールからの出入口であるアーチ付近では、ホールへ向かう者とクロークへ向かう者とが衝突し、混乱した状況にあったことが認められるが[492]、しかし、これは被告人Cらが適切な避難誘導を迅速かつ的確に行わず、専用エレベーター前のホールに出て来る客をA階段から避難させようとし、クロークに誘導しようとする者と、逆にこれを押し止める者とがあって、避難誘導に当たるべき従業員の指示が混乱したことによる当然の結果である[492]
  • 結局、被告人Cらは、適切な避難誘導を為し得なかったため、同店が大混乱状態に陥ったものであり[492]、同被告人らによる適切、かつ、明確な避難誘導を受け、すべての客らがB階段に向け1つの流れとなって避難していたとするならば、火災という非常事態のため、多少の混乱が生じたとしても、クロークの出入口付近に殺到して大混乱を来たし、避難誘導を不可能にするという事態に立ち至ったとは考えにくい[492]
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(エ)従業員らによるB階段への避難誘導の可能性
原判決では「従業員Mらが被告人Cがエレベーターホールにやって来るまでに換気ダクト開口部からの煙の吹き出しについて知り得ないのだから、仮に6階以下の階で火災が発生した場合の避難訓練を受けていて、直ちに避難誘導に取り掛かったとしても、B階段ではなく、F階段から客らを避難させようと考えたであろうから[459]、本件のようにエレベーターホールに押し寄せる客らを押し止め、ホールへ戻るよう指示したと思料される[459]。」・・・とするが、日頃から避難訓練を徹底していれば、従業員は唯一安全な避難路であるB階段に客らを誘導していたものと認められ[492]、最も危険な「F階段」を避難路と考えたり、ホールからエレベーターホールへ向かう人達を押し留めたりするという行動に出るはずもなく[492]、クローク前の異常な混乱した状態を招くこともなかったことは明らかで、原判決の説示は失当である[492]
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(オ)B階段の安全性
弁護人らの所論では「B階段は必ずしも安全ではない」と主張する[492]。それは・・・
  1. 1階のB階段入口が木製扉であること[492]
  2. 地下1階エレベーターホールと地下飲食店街とは鉄扉1枚で繋がっているので、仮に地階の飲食店で火災が発生した場合にB階段へ火や煙が入り、同階段が使用不能になることが十分想定されること[492]
  3. 以前に地下1階「プレイタウン」エレベーターホールで小火が発生したことがあること[492]

・・・以上の点で「B階段は唯一安全な避難階段ではあり得ない」というのである[492]

しかしながら、地下1階から6階までのB階段と千日デパートの売り場間の鉄扉は、常時閉鎖されているのであり、B階段に火や煙が入る可能性は低い[492]。B階段に火や煙が入るとすれば、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)で出火し、その火や煙がB階段を通じて7階へ上昇する場合しか考えられない[492]。B階段には、地下1階エレベーターホールに可燃性の装飾があり、1階同専用出入口には木戸や絨毯、ビロードカーテンが、またB階段の階段室には木材や段ボールが置かれていたものの、それらの量はそれほど多くなく、1階同専用出入口は、プレイタウン営業中はその扉が大きく開けられ、道路に面していることが認められているところ、可燃物が燃えたとしてもB階段の安全性を左右するほど火や煙が同階段に入り、充満する可能性は低いと言わざるをえない[492]。以上のことから、B階段が唯一安全な避難階段であるというべきであるから、弁護人らの所論は採用できない[492]
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救助袋による避難行動に関して

原判決は、被告人B、同C両名について、救助袋の整備を怠り、救助袋を使用しての避難訓練をおこなっていなかった注意義務違反を認めながら、救助袋による避難の可能性を否定し、被告人両名の過失責任をも否定したが、原判決の判断は以下のとおり、事実を誤認し、その判断を誤ったものであるから失当である[493]

(1)救助袋の避難方法としての位置づけ
原判決では避難訓練および訓練指導の内容について「消防当局が火災の場合の避難方法としては、あくまでも避難階段を利用しての避難を優先すべきであって、救助袋は本来の避難路から逃げ遅れた極少数の者を対象とした補充的な避難方法であるにすぎないとの考え方に立っていたことが窺えるので、消防署係官の指導がなされたとしても、その線に沿った内容の指導に止まったであろうと考えられることなどから、本件のようにB階段へ通ずる通路及びその余の避難階段が、いずれも煙のために現実には避難路となり得ず、在店者のほとんどが、1個の救助袋若しくは消防署のはしご車に頼って避難せざるを得ないような場合を想定した避難訓練まで為し得たとは到底言えない[460]」旨説示する[494]。原判決が指摘するように、火災の場合の避難手段としては、避難階段を使用しての避難が優先されるべきであって、救助袋による避難は補完的なものであるのは、そのとおりである[494]したがって「避難階段が使用不能になった場合の指導」などというものは本来はあり得ない[494]。防火対象物が、そのような状態であるならば、欠陥対象物なので消防署は安全な避難路確保について指導するはずであり、避難路が確保されていないことを前提に救助袋による避難訓練を指導することなどなく、全階段が使用不能になった場合を想定しての訓練指導の有無を論じる原判決は、その前提において誤りがある[494]要するに救助袋の使用方法について指導と訓練をおこない、有事の場合にこれを使用できるようにしておきさえすれば足りるのである[494]
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(2)本件火災時における救助袋による避難行動の可能性
  • 原判決では「被告人Bおよび同Cが、各注意義務を尽くし、救助袋の補修や取替えをして、これを使用して避難訓練をしていたとしても、本件では救助袋による避難の可能性を認めることは困難である」として、その可能性を否定した[494]。しかしながら、前記説示のとおり、右注意義務を尽くしていれば、B階段からの誘導に加え、右救助袋による避難方法が併用されることによって、ホステス更衣室にいた11名を除く、その余の在店者全員が安全に避難し得たというべきであり[494]、これを困難ならしめる特段の事情を否定する根拠として挙げられる諸事情は、次に述べる通り失当である[494]
    • 原判決が救助袋による避難判断を為し得る時間を「22時42分」としたのは誤りで、しかも救助袋の投下を決意することについて、「救助袋による避難しかあり得ないと判断した場合にのみ行われる」との前提自体も誤りである[494]被告人Cが6階以下での火災を覚知してクローク付近に様子を見に来た時点では、エレベーターから噴き出す煙はさほど多くなく、在店者も混乱した状況には陥っていないのであるから、直ちに従業員を指揮して避難階段への誘導とともに、救助袋を投下して避難路を確保すべき注意義務を忠実に履行していたならば、従業員らを救助袋設置の部署につけ、救助袋の投下を実行することは十分に可能だった[494]。避難するための時期を失して混乱状態に陥ったあとの状況を前提として、その可能性を否定する原判決の右判断には重大な誤りがある[494]従業員にしても、平素から避難訓練を受けていれば、被告人Cの指示を待つまでもなく、煙の流入に気付いた時点で自発的に救助袋の投下作業に取り掛かるはずである[494]。従業員が「たまたま窓際で救助袋を発見した」と供述したのは、まさに被告人Cが消防計画の策定、避難誘導訓練を全く怠っていて、適切な指示が為されなかった事実を裏付けるものである[494]
  • 原判決は「救助袋を使用して降下可能な状態になったのは、本件の場合よりもせいぜい1分程度早い22時48分ごろであった」旨説示するが、これは、たまたま救助袋が設置されている窓際に行った従業員らが救助袋に気付いて投下した時刻が22時46分ごろであったことを前提にしている[495]。もし被告人Cの指示が徹底し、従業員に対する避難訓練ができていれば、それよりももっと早い時間に降下可能な状態にできたことは前述のとおりであるから[496]、その前提が間違っているばかりか、救助袋の投下が遅れたとしても、被告人Cがクローク前からホールへ引き返して来た時点で直ちに救助袋の投下を指示し、救助袋が使用可能な状態に整備され、従業員が取扱い方を知っていれば、遅くとも22時45分から46分ころまでには避難可能であったと認められるので[496]こうした前提を無視した原判決の判断は誤りである[496]
  • 原判決では、被告人Cが救助袋による避難を決意し、従業員に対し客らを救助袋が設置してある窓際に誘導するように指示した場合を想定し、その後に起こりえる結果を説示して[463]、救助袋が設置された窓際への誘導の可能性を否定している[496]。しかしながら原判決の判断は、被告人Cが22時44分から45分ころに救助袋による避難誘導を決意した場合を想定している時点で重大な誤りがある[496]被告人Cは22時39分ころには階下で火災が発生したことを覚知してるのであり、同被告人がクローク付近に来た22時40分過ぎころに、直ちに避難誘導の指示などの適切な行動を開始し得たはずであって[496]、これを怠り、避難誘導の時機を逸して混乱状態に陥ったあとの状況下における避難誘導の可否を論じることは、右原判決の内容について、検討を加えるまでもなく失当である[496]
  • 原判決は「以下のような状況下において、仮に救助袋の入口が開き、22時48分ころ、これを使用して降下が可能な状態になっていたとしても、降下所要推定時間およびホール内における致死限界推定時間等を総合して考察すると、ホール内にいた150名と楽団室及びボーイ室にいた者ら全員はもとより、ホール内にいた150名くらいの者全員が右救助袋を利用して無事地上に脱出したとは考えられない[464]」旨説示し[496]、その根拠として、具体的個別事情を挙げて種々検討を加えているが、原判決は 救助袋の使用開始可能時刻を22時48分としている点で誤っている[496]そもそも救助袋による避難はあくまでも補完的なものであり、本来はB階段を利用して適切な避難誘導が為されるべきで、それは22時49分ころまでは可能であった[496]。B階段への誘導のほか、これを補完するものとして救助袋による避難方法を併用することにより、ホステス更衣室に滞在していた11名を除く在店者全員が安全に避難し得たことは前述のとおりである[496]したがって救助袋のみによる全員の避難救助の可能性を論じる右原判決は根本的に誤りであり、原判決が挙げる具体的個別事情を検討するまでもなく、原判決の右判断は失当である[496]
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(3)救助袋による避難方法の補完性に関して
弁護人らの所論は「消防署の指導においては、救助袋は補助的用具とされ、可能な限り階段から脱出し、それでもなお避難者が残るときに救助袋の使用が考えられているから、火事を覚知すれば、まず階段による避難を考え、それも無理となって次に救助袋を使用することになるのであって、いくら訓練を重ねても、状況を判断せずに直ちに救助袋を投下するなどということにはならない」旨主張する[497]。被告人Cは、事務所前換気ダクトの開口部から煙が噴き出しているのを現認し、階下で火災が発生したことを覚知した時点で、同被告人は煙のためにホステス更衣室に行けず、その後にホール出入口へ向かった[497]。そしてクローク付近へ行った際には、通常の唯一安全な避難階段であるB階段近くのエレベーターホールにも煙が流入する状況に遭遇したであり、店内の煙の状況のほか、店内の勝手を知らない客、または酔客もいたことから、避難に手間取り、避難階段から逃げ遅れる者もあることが予測できた[497]。したがって遅くとも同被告人がクローク付近に赴いた22時40分過ぎ以降には、B階段からの避難誘導を開始するとともに、救助袋を使用しての避難にも配慮し、従業員らを指導して、その投下作業にも取り掛からせるべきであったと考えられるので、所論は採用できない[497]
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ホステス更衣室にいたホステスら11名について結果回避を否定した理由

本件火災当時、ホステス更衣室にいた11名については、被告人Bおよび同Cが注意義務を尽くしていたとしても、11名の死傷の結果を回避する可能性は無かったというべきである[498]
22時39分から40分ころには、事務所前換気ダクト開口部からの煙のために同更衣室へ通じる通路が遮断され、同通路は避難路としては使うことができず[498]、それ以外の方法を考えてみても、事務所西側の宿直室を通って同更衣室に行くことも、被告人Cが事務所ドアを開けた際に事務所内へ勢いよく煙が流れ込んで充満し、その通路を遮断したであろうと推認されるところであり[498]、被告人Cが22時39分ころに階下での火災を覚知して以降、前記更衣室の滞在者11名がB階段や救助袋のあるホール窓際へ避難誘導させることは不可能であったと認められ、右在室者の死傷の結果を回避できなかったというべきである[498]なお検察官の所論では「被告人Cは、22時44分から45分ころまではB階段に、あるいは救助袋のあるホール窓際に11名を避難誘導することは可能であった」と主張する[498]。しかしながら、右所論は原判決の「ボーイらがE階段から避難しようと考えてホステス更衣室へ向かった22時44分から45分ころの時点における右通路の煙の状況」を根拠にして、ホステス更衣室に在室する11名の避難誘導の可能性を論じているのみであって[498]、右時刻以前は同更衣室からの避難誘導が可能であったとの判断をしているものではないうえ、前述のとおり、22時39分から40分ころには同更衣室に至る通路は避難路としては使えない状態であることは明らかであるから、検察官の所論は採用できない[498]

大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

各注意義務の懈怠(過失)と因果関係[編集]

被告人Aについて
前記の各注意義務を尽くしていたなら、被告人Cらの適切な避難誘導と相俟って、プレイタウンに在店していた客や従業員ら181名全員が安全に避難し得たと認められるので[499]、同被告人の過失と本件被害者全員(死者118名、受傷者42名の計160名)の死傷の結果との間に因果関係が存するのは明らかである[499]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Bおよび同Cについて
前記の各注意義務を尽くしていたなら、ホステス更衣室にいた11名を除くその他のプレイタウンに在店していた客や従業員全員が安全に避難し得たと認められる[500]。死亡者118名のうちホステス更衣室で死亡した9名を除く109名の死亡の結果は、右被告人両名の過失と因果関係があるのは明らかである[500]。また受傷者42名のうちホステス更衣室にいて消防隊のはしご車に救出された2名を除くその他40名については、その受傷の結果は右被告人両名の過失と因果関係があることは明らかである[500]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
被告人Aと被告人Bおよび同Cの各過失の競合
以上の認定説示から明らかなように本件被害者160名(死亡者118名、受傷者42名)のうち、ホステス更衣室にいた11名(死亡者9名、受傷者2名)を除く149名の死傷の結果について、被告人Aの過失と被告人Bおよび被告人Cの過失とが相乗的に作用したことによるものであるから、右被告人3名の過失の競合によるものと認めるのが相当であり[13]、ホステス更衣室にいた11名の死傷の結果については、被告人Bおよび被告人Cには過失はなく、被告人Aのみの過失によるものと認められるから、過失の競合は否定される[13]
大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
結論
被告人Aについては本件被害者全員に対し、また被告人BおよびCについてはホステス更衣室にいた11名を除くその他の全被害者に対し、それぞれ業務上過失致死傷罪が成立するのは明らかである[13]。原判決が各被告人らの業務上の各注意義務を肯認しながら、これを怠った被告人らに対し、本件結果の回避可能性が無いとして、あるいは因果関係が証明できないとして、被告人らの過失責任を否定して無罪を言い渡したのは事実を誤認したものであって、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである[13] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)

自判[編集]

(罪となるべき事実、証拠の目標、法令の適用は省略)

一部無罪の理由
被告人B、同Cに対する本件公訴事実中、火災発生時にホステス更衣室にいて死傷した11名については、前記のとおり、右両被告人がそれぞれの注意義務を尽くしていたとしても、各人の死傷の結果を回避することはできなかったと認められるから、右11名に係わる業務上過失致死傷の点は、犯罪の証明が無いと言うべきであるが[13]、右11名とその余の有罪となった本件被害者に対する右被告両人の所為は、科刑一罪に関係あるものとして公訴を提起されたことは明らかであるので、主文において無罪の言い渡しをしなかったものである[501] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
量刑の理由
本件千日デパートビル火災による死亡者は118名、負傷者は42名の多数にのぼり(ただし、そのうち死亡者9名、負傷者2名については、被告人B、同Cに過失責任はない)、ビル火災事故としては稀にみる大惨事というべきであるところ、その出火原因は証拠上確定できず不明であるが、このように多数の死傷者を出すに至った原因は、防火管理の業務に携わる被告人らにおいて、複合ビルの最上階で遊ぶ多数の客や従業員らの生命、身体の安全を確保するという最も重要で基本的な心構えに欠けていたところから、右業務上遵守すべき基本的な注意義務を果たさなかったことによるものであり[501]、殊に、被告人Aについては、大阪市消防局の係官から、他の百貨店での火災の教訓に照らして千日デパートの閉店時に売場内の防火区画シャッターを閉鎖するように指導を受け、また被告人B、同Cについても、所轄消防署の係官から破損した救助袋の補修もしくは取替えを再三にわたって指示されていたにもかかわらず、火災が発生することはあるまいとの安易な考えから、それぞれ右指導、指示を軽視して前記注意義務の履行を怠り、かかる重大な結果を招いたものであって、被告人らの過失は重いものがあると言わなければならない[501]。加えるに、本件火災時におけるプレイタウン店内の状況は、先に詳しく認定したように、遊興中の客やホステスら従業員は、被告人Cらの適切な避難誘導もなく、階下から流入する猛煙に追われて避難路を見いだせないまま、同店内を逃げまどい、ある者は7階の窓から飛び降りを余儀なくされ、また、ある者は使用方法についての指示もなく帯状に垂れ下がった救助袋を伝って脱出を図ったが、摩擦熱のため手を放すなどして転落して、その余の大部分の者は、B階段から自力脱出した者および、はしご車で救助されたものを除いて、同店内に充満した一酸化炭素を吸引して死亡するに至ったものであって[501]、被害者らには客はもちろんのこと、従業員にも特段の落度はないうえ、その被害状況は極めて悲惨であり、死亡した被害者の無念はもとよりのこと、受傷者の中には相当の重傷の者もあり、死亡した被害者の遺族や受傷した被害者等の被害感情も、原審公判廷での数人の遺族の証言を待つまでもなく、厳しいものがあること[501]、さらに、本件火災が社会に与えた衝撃は極めて大きいものがあることなどの諸点に照らすと、被告人らの刑責は誠に重いと言う他はない[501] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)
情状酌量の理由
しかしながら、他方、本件火災がこのように重大な結果に至った原因として、被告人らの過失以外に、同ビル3階での本件火災を知った宿直保安係員の誰もが、千日デパートとプレイタウン間の共同防火管理体制が整っていなかったこともあって、火災発生及びその状況等をプレイタウンに通報しなかったために、被告人Cらにおいて早期に適切な避難誘導を為し得なかった面があること[502]、また、プレイタウン専用の南側エレベーター昇降路の壁の一部に同デパート開業当時の手抜き工事によると思われる隠れた隙間があったために、これが右昇降路からの煙の進入路となったほか、北側換気ダクト内に設置された3個所の防火ダンパーが同様に欠陥工事により作動したかったため、煙が同ダクト内を上昇して7階の開口部からプレイタウン店内に流入したことを指摘することができ、これらの点について、被告人3名に特段責められるべき点はないこと[502]、日本ドリーム観光、千土地観光等と本件死亡被害者の遺族及び傷害被害者との間に示談がほぼ成立し、損害金の支払いも終わっていること[502]、被告人3名はいずれも前科前歴がなく、これまで真面目な社会生活を送ってきた者であること[502]、さらに、被告人Aについて、当時、売場内の防火区画シャッターの閉鎖を命じる直接の法令上の根拠がなく、消防当局も、本件より1年前の市内百貨店の夜間一斉査察のころまでは、千日デパートに対して右閉鎖を指導したことはなく、同査察の際の指導も口頭でなされただけで、店長らに対する文書による指示は為されていないこと[502]、多数の巻き上げ式シャッターを毎日少数の保安係員に閉鎖させることについては、労務対策等に問題が生じることは避けられないうえ、これを電動巻き上げ式のものに取り替えるについては相当な出費を要するところ、社内的に厳しい経費支出規制が為されていたなどの事情もあり、右シャッター閉鎖義務不履行の責任を防火管理者とはいえ、一課長に過ぎない同被告人にすべて負わせることは、酷に過ぎる嫌いがあること[502]、被告人B、同Cについて、プレイタウンの北側換気ダクト開口部および南側エレベーター昇降路の2方向から噴き出す煙が、被告人Cらをして客等に対する適切な避難誘導を困難にした一面があり、この点は右被告人両名の過失責任を左右するものではないが、量刑上は考慮すべきであること[502]、被告人Cが防火管理者に選任されてから1回だけおこなった消防訓練(プレイタウン店内のステージから出火した想定での訓練)の際、消防署の係官から、階下で出火した場合にはB階段へ避難するようにとの指導は特になされなかったこと[502]、被告人Bはプレイタウンを経営する千土地観光の代表取締役であったが、実質上の経営権を有しておらず、同会社は親会社の日本ドリーム観光から経費支出等につき厳しく規制されていたことなど[502]、被告人3名について、いずれも酌量すべき点があり、以上の諸般の情状を総合的に勘案すると、被告人3名の責任は重大であるが、それぞれにつき刑の執行を猶予するのが相当である[502]。よって、主文のとおり判決する[502] — 大阪高裁刑事第7部、判例時報1988(1262)


控訴審判決を受けて、被告人らは判決を不服として最高裁判所に上告した[435]


上告審判決[編集]

1990年(平成2年)11月29日、最高裁判所第一小法廷で開かれた上告審において、裁判官全員一致の意見で判決が言い渡され[15]、主文は「本件上告を棄却する」とされ[23]、3被告の有罪が決定した[435]

最高裁判所は、弁護人1名の上告趣意のうち、憲法38条3項違反を主張したことについて、被告人C(プレイタウン支配人)の捜査段階での自白調書のみによって同被告人を有罪にしたものでないことは明らかであるから前提を欠く、とした[23]。また、その他の主張については、意見を言うことを含めて、実質は事実誤認および法令違反の主張であり[23]、さらに弁護人4名の上告趣意についても、事実誤認および単なる法令違反の主張であるから、いずれも適法な上告理由に当たらない、とした[23]。最高裁判所は、判決にあたり被告人A、同B、同Cの過失責任について、職権によって検討を加えた[23]

被告人Aの過失について
  • 原判決では「本件火災の拡大を防止するためには、デパート閉店後に1階から4階までの売場内の防火区画シャッターを全部閉め(3階の自動降下式の4枚を除く)、工事が行われている場合は、工事に関連する防火区画シャッターのみを開け、保安係員を工事に立ち会わせ、あらかじめ開けておいたシャッターについては、いつでも閉鎖できるような体制を整えておくべきであり、被告人Aが右義務を履行できなかったような事情は認められない」として、その注意義務を肯定した[8]
  • 閉店後の千日デパートで火災が発生した場合、従業員が不在になった各売場には多量の商品や可燃物が置かれているのであり、また5名体制の保安係員による防火および防犯等の保安管理は脆弱な状況下にあったので火災が容易に拡大する恐れがあった。したがって日本ドリーム観光としては、火災の拡大を防止するために法令上の有無を問わず、可能な限り様々な措置を講ずるべき注意義務があったことは明らかである[8]。本件火災に限定して考えると、夜間工事が行われていた3階売場の防火区画シャッターを一部を除き全部閉鎖し、保安係員またはこれに代わるものを工事に立ち会わせ、出火に際しては直ちに出火場所側の防火区画シャッターを閉める措置を講じるとともに、プレイタウン側に火災発生を連絡する体制を採っておきさえすれば、煙は防火区画シャッターで区切られた部分に封じ込められ、7階プレイタウンへの煙の流入量を減少させることができたはずであり[8]、保安係員またはそれに代わるものが保安室を経由してプレイタウン側に火災発生の連絡が入ることと相俟って、同店の客及び従業員を避難させることができたと認められる[8]。日本ドリーム観光としては、すくなくとも右の限度において注意義務を負っていたと言うべきであり、原判決においても肯定されていると解される[8]
  • 日本ドリーム観光の千日デパート管理部管理課長であり、千日デパートの防火管理者である被告人Aとしては、自らの権限により、上司である管理部次長の指示を求め、工事が行われる本件ビル3階の防火区画シャッター等を可能な範囲で閉鎖し、保安係員またはこれに代わる者を立ち会わせる措置を採るべき注意義務を履行すべき立場にあったと言うべきであり、右義務に違反し、本件結果を招いた被告人Aには過失責任がある[8]
最高裁、判例時報1991(1368)
被告人Cの過失について
被告人Cは、プレイタウンの防火管理者として、平素から救助袋の維持管理に努め、従業員を指揮して客らに対する避難誘導訓練を実施し、煙が店内に侵入した場合、従業員は速やかに客らをB階段に誘導し、あるいは救助袋を使用して避難させることにより、客らを避難の遅延による事故発生を未然に防止すべき注意義務があった[8] 被告人Cは、あらかじめ階下からの出火を想定し、避難のための適切な経路の点検をおこなっていれば、B階段が安全確実に地上に避難できることができる唯一の通路であるとの結論に達することは十分可能であったと認められる[8]。被告人Cは、建物の高層部で多数の遊興客を扱うプレイタウンの防火管理者として、本件ビルの階下において火災が発生した場合、適切に客らを避難誘導できるように、平素から避難誘導訓練を実施しておくべき注意義務を負っていたと言うべきである[8]。したがって、保安係員らがいずれもプレイタウンに火災の発生を通報することを全く失念していたという事情を考慮しても、右注意義務を怠った被告人Cの過失は明らかである[8]
最高裁、判例時報1991(1368)
被告人Bの過失について
被告人Bは、プレイタウンの管理権原者として、同店の防火管理者である被告人Cとともに、同被告人が負っていたのと同様の注意義務があった[8]。被告人Bは、救助袋の修理または取替えが放置されていたことなどから、適切な避難誘導訓練が平素から十分に実施されていないことを知っていたにも関わらず[15]、管理権原者として、防火管理者である被告人Cが防火管理業務を適切に実施しているかどうかを具体的に監督すべき注意義務を果たしていなかったのであるから、この点で被告人Bの過失は明らかである[15]
最高裁、判例時報1991(1368)
最終結論
よって、刑事訴訟法414条、386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する[15] — 最高裁、判例時報1991(1368)


→冒頭インフォボックス「最高裁判所判例」も参照のこと。

民事訴訟[編集]

千日デパートは火災翌日の5月14日から閉鎖された。営業再開を急ぎたい日本ドリーム観光は、大阪市建築局の指示に従い、建設省建築研究所に建物の耐震診断を依頼した。診断の結果、建物は地震に耐えられる強度がなく、柱などを補強する必要があるというものだった。その結果を受けて日本ドリーム観光は、補強により売場面積が縮小すること、補強費用の負担は新築するのと変わりがない、という理由でビルの取り壊しと新しい商業ビルの建設を急ぐためにテナントは強制退去の対象とされた。しかし、これに対しデパート再興を願う専門店街側が中坊公平を団長とする訴訟団を結成したうえで日本ドリーム観光を相手に訴訟を起こし、新歌舞伎座の前でむしろ旗を掲げて抗議する騒ぎとなった[503]

本件火災を扱ったテレビ番組[編集]

あすへの記録「パニック 災害時の人間行動」[504]
7階プレイタウンの滞在者らが火災の発生に気付いたとき、どのように行動し、その如何によってどのように生死を分けたかを生存者の証言や専門家の調査および動物実験などを通じて、人間がパニックに陥ったとき、なぜ冷静に行動できないのかを分析した番組。
2000年(平成12年)2月18日には『NHKアーカイブス〜急成長の軋み』内で再放送された。
かんさい情報ネットten.「深層究明 ゲキ追 千日デパート火災の記憶」[505][リンク切れ]
火災鎮圧から間もない千日デパートの内部を撮影したカメラマンと照明係の記憶、生還したバンドリーダーとバンドメンバーの証言、犠牲者の遺体が安置された大融寺住職および遺族会弁護士の回想、防災研究の第一人者・室崎益輝教授の話を交え、千日デパート火災に関わった人たちの記憶を辿る番組。
奇跡体験!アンビリバボー「国内史上最悪と言われたビル火災」[506][リンク切れ]
この火災について再現ドラマや生存者へのインタビューを交えながら詳細に紹介された[135]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 火災当時はデパートの敷地が二つの住所に跨っていて、東寄り4分の3が三番町一番地、西寄り4分の1が四番町一番地であった。
  2. ^ 防火管理者らの業務上過失致死傷罪を裁いた一審判決の判決理由のなかで、大阪地裁は「本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際に煙草を吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、工事監督の行動を証拠上確定することは出来ず、火災の原因は不明と言わざるを得ない」と述べたことによる。また大阪高等裁判所で開かれた控訴審判決の判決理由においても火災原因は不明とされた。
  3. ^ ただし大阪府警察本部の検証結果では、工事監督が火の消えていないマッチの擦り軸を布団の上に投げたことによって発生した(煙草の不始末)と断定したが、被疑者を起訴するには至らなかった。
  4. ^ 内訳は、プレイタウン関係者47名、消防隊員27名、警察官6名、通行人1名である。
  5. ^ a b c d e 素人の女性がアルバイト感覚で客を接待する大衆サロンのこと。キャバクラの元祖。昭和40年代に主に関西で流行った。別名アルサロとも呼ばれる。
  6. ^ ビルに限定しないと1943年に、北海道にあった布袋座でおこった火災で208人が死亡している。
  7. ^ 事件名、公文書、学術書、出版物においては「千日デパートビル火災」と呼ぶのが一般的である。
  8. ^ a b c d 7階プレイタウンへ大量の煙が流入してきた22時42分から43分ごろにA南エレベーターで地下1階から7階へ昇ってきた男性客1名とホステス1名は、7階エレベーターホールに充満した煙に驚き、斜め向かい側のA北東エレベーターへとっさに乗り込み、地下1階へ脱出した状況が確認されているが、この2名についてはプレイタウン滞在者に含めていない。
  9. ^ a b 建築基準法・第三条によれば、原則として既存建築物に対しては法律の遡及適用はおこなわないとしているが、その適用が除外される場合があり、第三条2項によれば既存建築物が「増築、改築、修繕、大規模な模様替え」をおこなった場合は遡及適用の対象になると規定していることから、1958年(昭和33年)に大規模な改築と用途変更をおこなった千日デパートビルは、1950年制定の原法と1957年の一次改正法には適合した建物であった。
  10. ^ 企業としては1996年にマイカルに社名変更、2011年にイオンリテールに吸収されて解散。店舗ブランドとしては1990年にサティに転換し消滅。
  11. ^ 本件火災発生当時(1972年5月)の消防法施行令・別表1に定める防火対象物区分では、いわゆる「雑居ビル」「複合用途」という概念は明確にされておらず、当時の「16項」が規定していた用途とは「前各項(1から15項まで)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」であり、これはすなわち「店舗と住居を兼ねた建物」を念頭に置いたものであった。したがって千日デパートビルは、特定防火対象物「4項(=百貨店、マーケットその他の物品販売業を営む店舗又は展示場)」に分類されていた。
  12. ^ 現行(2019年)の消防法令に照らした場合、千日デパートビルは「16項(イ)=複合用途防火対象物のうち、その一部が劇場・集会場等、酒場・風俗店等、飲食店、百貨店・スーパーマーケット、旅館・ホテル、病院・養介護施設・保育園等、サウナにおいて、これらの防火対象物の用途に使われているもの」に相当するが、本件火災発生当時(1972年5月)の16項は「(イ)と(ロ)」に区分されていなかった。区分されたのは1972年12月の消防法施行令の改正からである。(ロ)とは「(イ)で掲げた複合用途防火対象物以外の複合用途防火対象物」のことである。
  13. ^ 南消防署提出の消防計画書による。消防計画書は毎年1回更新されていたが、1971年(昭和46年)5月更新の時点では7階プレイタウンは、千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織に組み込まれていなかった。
  14. ^ ただし、プレイタウン1階専用出入口(B出入口)に直結したB階段昇り口には、木製扉が設けられていて、プレイタウン閉店時には同店従業員が7階B階段出入口と同時に同扉を施錠していた。
  15. ^ 1958年(昭和33年)当時は、全国共通の消防法施行令は制定されておらず、地方自治体が独自に定めた施行条例の基準で設置されていた。消防法施行令の制定は1961年(昭和36年)からである。
  16. ^ 6階旧千日劇場跡は、ボウリング場改装工事中であり、火災時にスプリンクラーの機能が残っていたかどうかは不明である。
  17. ^ 実質的には常時閉鎖状態だったが、一部のホステスは、普段からE階段出入口を使って デパート内に出入りしていたと証言している。
  18. ^ 保安係員1班6名のうちの1名は、年休を取るために必ず休む決まりになっており、通常の夜間勤務は実質5名体制であった。
  19. ^ a b 電気工事関係者は合計6名であるが、工事作業者の一人は22時25分ごろに駐車場へ車を取りに出掛けており、火災発生時および火災発見時にデパートビルの中にはいなかった。
  20. ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に南署を廃止し、浪速署を発足させた。
  21. ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に東署を中央署に改めた。
  22. ^ a b c 現中央署管内
  23. ^ a b c 現浪速本署
  24. ^ a b c 現浪速署管内
  25. ^ 現中央本署
  26. ^ エレベーターを使って自力脱出に成功した人について、多くの資料はプレイタウン滞在者のホステス1名としている。A南エレベーターで7階へ上ってきた男性客1名とホステス1名の計2名については、7階へ昇って来たときに、ちょうど煙が7階エレベーターホールに充満しているのを目の当たりにし、プレイタウン滞在者のホステス1名と一緒に慌てて向かい側のA北東エレベーターに飛び乗り、地下1階へ避難したもので、その2名をプレイタウン滞在者に計上するかしないかは意見が分かれるところである。多くの資料では計上していない。
  27. ^ 法令が改正された場合、新しい法令規定の適用を必ず受ける消防用設備、という意味。自動火災報知設備は、そのうちの一つ。
  28. ^ 11月6日に北陸トンネル火災が発生しているが、当該火災は鉄道車両の火災事故なので、ビル火災がテーマの当記事では考慮に加えなかった
  29. ^ 大洋デパート火災の死者数については、火災発生当日で100名、その後48時間経過した時点で3名増え、合計103名となった。ところが火災発生から7年経過した1980年12月16日に火災による一酸化炭素中毒の影響で国立熊本病院に長期入院していた負傷者1名が死亡したことにより、最終的に死者は104名となった。多くの資料はこの「7年後の死者1名」を計上していない。
  30. ^ 負傷者数については、資料によってその数は区々であるが、警察庁発行の「昭和49年度版・警察白書」によれば、最終的な負傷者数は「124名」となっている。なお大洋デパートの防火管理者や火元責任者らに対する刑事裁判においては、裁判所が認定した負傷者数は「67名」であった。これは被告らの過失によって負傷させられた客および従業員の人数なので消防隊員や消防団員などの負傷は含まれておらず、全体の負傷者数とは異なっている。
  31. ^ a b c 現行の法令が規定する「特定防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能1時間を有するものをいう。
  32. ^ a b c 現行の法令が規定する「防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能20分を有するものをいう。
  33. ^ 検察および裁判所が認定した負傷者42名は、全体の負傷者81名のうち、消防士および警察官などのプレイタウン関係者以外の負傷者34名を含めていない。つまり被告人らの過失によって負傷させられたと認定した負傷者数が42名ということである。プレイタウン関係者の負傷者は合計47名であるが、そのうちの5名については、被告人らの過失による負傷とは認定されなかった。
  34. ^ プレイタウン専用A南エレベーター昇降路の2階および3階の天井付近に、手抜き工事によってできたと推定される隙間が開いており、その部分から煙が流入した。また3階から7階までを竪穴で垂直に繋ぐ空調ダクト内に設置されていた防火ダンパーが火災発生時に機能せず、事務所前ダクト開口部から煙が噴出した。
  35. ^ 閉鎖については、ボタンを押すことでシャッターの自重により降下する仕組みで、作業は容易だった。
  36. ^ ハンドルを10回転させたときのシャッター巻き上げ量は約14センチメートルであるから、防火区画シャッターの高さ(長さ)が2.48メートルであることを考えると、巻き上げ完了までに177回転を要する。ハンドルの重さ、疲労による作業効率の低下を考慮すると最短でも1分半は掛かる。
  37. ^ 1970年9月29日、南消防署主催・防火研究会(福田屋百貨店火災)。被告人A欠席。代理で保安係長が出席。 1970年10月3日、大阪市消防局・説明会(福田屋百貨店火災)。被告人A出席。
  38. ^ 1971年5月25・26日、大阪市消防局・夜間査察(田畑百貨店火災)。被告人A立会い。
  39. ^ 1971年6月上旬、南消防署・管内百貨店特別点検(田畑百貨店火災)。被告人A立会い。
  40. ^ 1971年6月1日、大阪市消防局・夜間査察の結果説明および防火指導会(田畑百貨店火災)。被告人A出席。
  41. ^ 1971年6月11日、南消防署・特別点検の結果説明会(田畑百貨店火災)。被告人A出席。
  42. ^ 次のシャッターへ移動する時間も含まれる。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度40分0.1秒 東経135度30分9.4秒