ホテルニュージャパン

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ホテルニュージャパン
Hotel-New-Japan (1993).jpg
ホテルニュージャパン(1993年)
ホテル概要
正式名称 ホテルニュージャパン
設計 佐藤武夫
運営 株式会社ホテルニユージヤパン
階数 地下2階 - 地上10階
部屋数 513室
建築面積 5,287 m²
延床面積 46,697 m²
開業 1960年昭和35年)
閉業 1982年2月10日
最寄駅 営団地下鉄 赤坂見附駅
最寄IC 首都高速都心環状線 霞が関出入口
所在地 〒100
東京都千代田区永田町二丁目13番8号
位置 北緯35度40分32.9秒
東経139度44分19.3秒
座標: 北緯35度40分32.9秒 東経139度44分19.3秒
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ホテルニュージャパン (英称Hotel New Japan) は、かつて東京都千代田区永田町にあったホテルである。1982年昭和57年)の火災事件を機に閉鎖され、廃業した。

運営会社の株式会社ホテルニユージヤパンは現在も存続しており、1990年代までは敷地内で月極駐車場を経営していた。

歴史[編集]

開業まで[編集]

ホテルの敷地は二・二六事件の際に部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地だった。「幸楽」は戦時中、撃墜されたB-29が直撃、大破全焼している。

藤山愛一郎率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、当初は高級レジデンス(アパートメントとも称された)として着工した。だがその後東京オリンピックの開催や高度成長期に急増した宴会等のコンベンションの需要の増加を当て込み建物の北側を除く2/3の部分をホテルに用途変更し1960年に開業した[1]

都市型多機能ホテル[編集]

ホテルの特徴として①大中小14の宴会場と舞台付100畳敷の広間(通常は日本料理店)、②ホテル部と旅館部の2種業態併存、③充実した料飲施設、④ショッピングアーケード、⑤高級レジデンスと多様なニーズに対応した点である。その他にもサルタン風呂、美容室なども備わり後に開業する大阪ロイヤルホテル(現在の大阪リーガロイヤルホテル)、ホテルニューオータニに先駆けた都市型多機能ホテルであった。

また、日本初のトロピカルレストランであるポリネシアンは同ホテルの1階に存在した。

立地条件もTBSNET(日本教育テレビ、現:テレビ朝日)国会議事堂からも至近であり市川雷蔵が結婚披露宴を挙げ政財界・芸能界の利用も多かった。また自由民主党藤山派の拠点のほか、松野頼三も事務所を構えるなど政局報道のたびに同ホテルが舞台なることも多かった。その他1968年にモンキーズ、1970年にスコット・ウォーカーが来日公演時の宿泊施設にもなっていた。

だが、同じく1960年代に開業したホテルニューオータニ、東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル(旧))、ホテルオークラ東京などと比較すると、経営ノウハウや設備面などで見劣りするなどから経営面では苦戦を強いられた。特にホテルの建設に軟弱な地盤等の対策で費用がかかった為、莫大な借入金の負担ものし掛かり、開業時から赤字決算も続いていた。

敷地の地下(ホテル1階とは連絡していないためフロアではない)には高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」があり、こちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半から既に流行や時代の波に取り残されていた。1963年力道山が暴力団員に刺された事件(後に死去)が発生している。(ナイトクラブ自体はホテルニュージャパンとは別営業であり、ホテルが火災に遭い廃業となった後も1989年まで営業を続けていた。)

買収と火災[編集]

跡地に建設されたプルデンシャルタワー

ホテルは1970年代にはいると藤山愛一郎が政界進出で資金流出が続いた点や、また新規事業等の不振から藤山コンツェルンが衰退したことから様々な再建策が模索されはじめた。一時はホテル業界進出を当時検討していた全日空が買収する案があったがレジデンス部分の扱いで折り合いがつかず進まなかった。結果かねてよりホテル業界進出を狙っていた横井英樹率いる東洋郵船が買収することで決定、横井自ら社長に就任して経営にあたることとなった。横井の経営方針は人員の整理や経費削減といった徹底した合理化策であった。その際それまで加湿など集中冷暖房で対応していた空調も対象になり加湿機能を削減し管理されるようになった。

ただ宴会場やロビーにはシャンデリアやフランス製の古家具を置くなど表面上は豪華さを演出する方策もとられた。

結果として、1982年2月8日、貧弱な防火設備と疲弊した労働環境による従業員の対応不全により、宿泊客の火の不始末を原因とした火災によって、ホテルニュージャパンは死者33人を出す惨事に見舞われてしまう。

火災後[編集]

火災後、東京都より営業禁止処分を受け、ホテルは廃業した。横井に対して多額の貸付を行っていた千代田生命保険が、貸付金の担保であったこのホテルを競売により売却することで資金の回収を図ろうとした。しかし、火災等の曰く付きの土地を購入しようという投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有することとなった。その間、都心部でも一際恵まれた好立地でありながら廃墟のまま放置され続けていたが、火災から14年後の1996年になってようやく建物は解体された。跡地は千代田生命が再開発事業に着手したものの、千代田生命自体が2000年10月に経営破綻する[2]。その後、プルデンシャル生命がこの土地と建設途中のビルを買収し、森ビルと共同で建設を進め、オフィスと外国人向け高額賃貸住宅から成るプルデンシャルタワーとして2002年12月16日に完成した。

建物[編集]

建物は、大隈講堂の設計者(佐藤功一と共同設計)や建築音響学の権威として知られる佐藤武夫が設計した。全体の平面構成は、120度の角度で接続する大きな「Y字型」を中心に、さらにその先端にやはり角度120度で同じ奥行きの「Y字型」の枝が接続するという、いわばフラクタル構造の形をした建築であった。これは全室から景色が見られるよう意図したものであるが、その結果まるで迷路のような内部空間となってしまい、後の火災発生時にも避難を困難にした原因のひとつともなった。これには最初同ホテルが高級レジデンスとして計画された影響も大きかった。急な用途変更により、設計者の佐藤武夫も困惑し納期の関係から急ごしらえを余儀なくされたことが悲劇へとつながった。

内装[編集]

内装は日本を代表する工業デザイナー剣持勇が担当した。このホテルのラウンジチェア(実際はロビーラウンジではなくメインバーであったマーメードバーに置かれていた)がMOMA(ニューヨーク近代美術館)の永久収蔵品に選定されるなど、剣持勇の担当した内装は評価が高く、剣持の提唱したジャパニーズモダンの様式を体現したホテルであった。しかし、その後の度重なる内装の小変更によって、次第に剣持オリジナルの意匠が薄れていった。

また前述の強引ともいえる突貫工事の影響により、軽量ブロックなど当時出始めていた新建材を多用せざるを得なかった。それ故に同ホテルはソフト面でのモデルケースとしてだけではなく、後に増大する新建材の実験場ともなっていた。

特に和室は世界的なテキスタイルデザイナーであるエバ=ガデリウスと剣持と共同で壁紙を製作した洋室とは違い、壁等に新建材を多用したためにデザイン面では優れていたものの質感に乏しかったという指摘もある。

脚注[編集]

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  1. ^ 藤山愛一郎の政界進出の煽りでコンツェルンが解体へと向かう中、まさに落日の象徴ともいえるホテルでもあった
  2. ^ 経営破綻後、千代田生命は米国大手金融グループであるAIGに買収、AIGスター生命保険を経て、現在はジブラルタ生命保険に統合されている。