集団就職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは、かつて日本で行われていた雇用の一形態であり、地方の新規中等教育機関卒者(中学高校卒)が大都市の企業店舗などへ集団で就職すること[1]

当項目では昭和時代戦後期の金の卵(きんのたまご)と呼ばれた若年中卒労働者についても記載する。

概要[編集]

集団就職は戦前から行われていたが、特に広く知られるのは、日本の高度経済成長期に盛んに行われた、農村から都市部への大規模な就職運動のことをさす場合が多い。

戦後期に工場生産システムが大量生産の時代に入り、製造業界では単純労働力を必要としていた[2]

家族経営が多かった小売業飲食業も家族以外に補助的な労働力を求めていた[3]

賃金も農村部より都市部の方が高くて、大量の中卒者が毎年地方の農村から大都市部に移動して、三大都市圏の転入超過人口の合計が40万人~60万人であった[4]

義務教育のみしか卒業していない(後期中等教育を受けていない)中卒者を送り出す側の事情として、特に1970年(昭和45年)頃までの地方では、所得があまり高くなく高等学校などに進学させる余裕がない世帯が多かったので、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した。こうした状況の下、中学校も企業の求人を生徒に斡旋して集団就職として送り出した。

東京都特別区の工場街・商店街のある足立区葛飾区大田区墨田区新宿区江東区などで「金の卵たる中卒者」が多く居住した地区がある。

1950年(昭和25年)に都会では教育熱で学歴インフレが進んでいったので、中学卒業後に就職者が多かった東北や九州などの地方に求人募集の的を絞り、中卒者の求人倍率は、1952年(昭和27年)に1倍を超えて、団塊の世代が中学校を卒業した1963年(昭和38年)~1965年(昭和40年)には、男子・女子とも求人倍率は3倍を超えていた。

集団就職・低学歴労働者の歴史[編集]

戦前における集団就職[編集]

第二次世界大戦前には高等小学校を卒業した人が集団就職する例はあったが[5]、その後の戦時体制により、その実績は乏しいものであった。

高度経済成長期における集団就職[編集]

高度経済成長期における集団就職は、1954年(昭和29年)に東京都世田谷区桜新町商店会が合同で求人を行い。東京都などの斡旋により、地方から中卒者が集団で上京したことに始まるといわれる[1]

移動手段[編集]

典型的な集団就職として、農家の次男以降の子が、中学校高校を卒業した直後に、主要都市の工場商店などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。

一説には1955年(昭和30年)から始まったとされ、東北からは上野駅までの就職列車が運行された[6]。ただし、これには異説もあり、当時の労働省の指導で「集団就職列車」の名称の列車が運行された時期の起点である1963年(昭和38年)を起点と見ることもでき、逆に実態としては1954年(昭和29年)以前からそうした列車が運行されていたとする説もある[1][7]。集団就職列車は1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森上野行き臨時夜行列車から運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が最も多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である。上野駅などでは、中小企業経営者が駅に出向きにいき、各就職先にグループ分けられていた。九州や沖縄県などの離島からは貨客船(フェリー)が運行された。

集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行なわれており、集団就職列車には、そうした組織の職員が同乗していることもよくあった。秋田県では県職業安定課や各地の職業安定所の職員が列車に同乗していた[8] 。また1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)までは、毎年5月の連休前後に東京日本青年館で関東地方に就職した集団就職者を対象とした激励大会を催し、県知事が出向いて挨拶するなどしていた[7]

要因[編集]

人口学的・経済学的要因
戦後の高度経済成長で、大企業サラリーマン公務員は高卒者や大卒者を採用したが、その結果、都市部(東京都、特に足立区)などの町工場や個人商店は人手不足であった。日本の敗戦まで農村では農業は跡継ぎの長男のみが相続していて、田畑を相続できず食えない農家の次男・三男は戦前まで軍隊で養われていた。[9]次男など年少の男性は家督相続したである長男の扶養家族となっていた。次男以下は農業の手伝いをするという社会だった。農村では農家の次男・三男の雇用問題・生活問題・結婚問題があった。東北地方などの農村では一家の平均兄弟数が6人以上が多くて人口が過剰であり、人手不足の都市部と人口爆発の農村部の人口利害が一致した。また、1960年前後にはエネルギー革命が起こってエネルギー源が国内産の石炭から外国産の石油に変わったために国内の炭鉱の多くが閉山に追い込まれ、石炭産業という基幹産業を失った旧産炭地においても余剰人口が急増した。これらの旧産炭地の青少年層も都市部への新たな労働力供給源となった。安い給料で文句を言わず働いてくれる若い人間を京浜工業地帯中京工業地帯の上野駅でノボリを立てて歓迎する雇い主が求めた結果、昭和30年代に15歳から24歳の働き盛りに東京都の人口が一挙に100万人近くも急増する人口の大移動が起きた。[10]
教育学的要因
進学率の問題では、昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率ですら半数程度で、大学進学率に至っては短期大学を含めても1割程度でしかなく、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。
経済学的要因
農業林業漁業第一次産業が中心の社会で自営業が多かったこともある。全日制高校に進学して普通の環境で勉強したくても家庭の事情で進学できず、やむをえず定時制高校に進学する若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が井沢八郎の『あゝ上野駅』の歌に共感したことに象徴されるように東北地方九州地方から4大工業地帯を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。

金の卵(きんのたまご)[編集]

日本昭和時代(戦後期)に高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業から中学校卒業までで、義務教育の期間が9年間に延長された。この学制改革を契機に、昭和20年代から戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

戦前の高等小学校(基本は2年制)が1948年に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれた。彼らが金の卵と呼ばれた。後には、「ダイヤモンド」、「月の石」などとも言われたとされる[6]

高度経済成長を支えたのが金の卵と呼ばれた若者であるが、学力が高く家庭の経済的理由で全日制高校進学が困難となった若者が多くいた。公立中学校卒業後に企業に働きながら定時制高校通信制高校に進学した若者が多くいた。さらに大学の夜間学部通信教育部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(15%~22%の高確率で)やめるものもいた[11]。中卒・高卒の男女は大卒のサラリーマンと比べて給与が低くて、社宅など福利厚生の待遇面でも、大卒と比べて大きな差別を受けていた。

1964年(昭和39年)に「金の卵」の言葉が流行語となった。

生活環境[編集]

公共職業安定所からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も高倍率3.3倍前後であり人手不足であった。企業側から出向いて勧誘を行い、賃金や厚生施設を充実させた[12] 。また高度の技術が習得されていた。

職種としてはブルーカラー(特に製造業)やサービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは職人であり、次に多いのは店員の順番であり、女子の中卒労働者の統計は工員が4割で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて事務員の順で多かった。男子とは異なり、女子は殆どが25歳までに結婚退職する時代であったため、工場での補助作業や事務などといった補助的な職種に就く者が多かった。 労働条件や生活環境もかなり厳しく、離職転職者も多かった[1]。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境であった。

若くしてふるさとから遠く離れ、孤独感や郷愁にかられることの多かったと考えられる地方出身者たちは、同様の境遇に置かれた者同士の交流を切望し、「若い根っこの会」に代表される各種のサークル活動が見られた。

影響[編集]

都市部の人口の増加と村落部の人口減少、それに伴って各種の影響があった。

村落部においては高齢者ばかりの「限界集落」が急増した。都会に大量の若年層の人口流入が見られるようになると、その若者達による若者文化も発生し、都会の生活に影響を与えた。[要出典]

集団就職者の待遇の悪さや学歴の低さから、その子弟の教育水準が低下し、同年代の都市部の学生と集団就職者との間で教育格差が起きた。これはのちに高校全入運動へつながることになる。その一方で定時制高校にも在学する勤労学生もおり、事業所の中には企業内学校を設立したり定時制高校への通学制度を設けたところもあったが、その一方で約束を守らない事業者もあった。[要出典]

安い労働力を大量に供給する集団就職によって日本の高度経済成長が支えられたと言える。また、1967年(昭和42年)の美濃部亮吉東京都知事の誕生を皮切りに1970年代後半まで大都市を中心に見られた革新首長の支持基盤になったとも言われている。

池田内閣は人づくり政策を発表して、教育に力を入れた。技術革新のため知識を備えた高卒以上の若い労働力が必要となり、1966年(昭和41年)度の中央教育審議会の答申では高等学校を少数のエリートコースと、技術労働者養成コースにふるい分ける事が主張された[13]

退潮と終焉[編集]

昭和40年代まで続いた高度経済成長期から安定成長期(昭和50年代)に移ると高校進学率の上昇や産業構造が変化し、集団就職は退潮するようになる。主な要因としては、以下のことが挙げられる。

進学率の上昇
1960年代後半以降は経済が安定し、所得倍増計画により各家庭の所得が増加したことや1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で高校の義務教育化を政治公約にした日本社会党[14] や「15の春を泣かせない」をスローガンとする高校全入運動の取り組みもあり、低所得層には奨学金を給付することで高校進学率が上昇し、高卒労働者が中卒労働者を上回った。新人類世代が進学する頃には高校進学率が高くなったため、中卒者が即戦力とされた技術職は工業高校などの高卒労働者や外国人労働者が担うようになった。鉄道空白地帯の解消など、公共交通機関の整備も高校進学率の上昇に拍車をかけた。例として岩手県三陸町(現・大船渡市の一部)では路線バス以外に公共交通機関はなく、1969年(昭和44年)の高校進学者は約5割に留まっていたが、1970年(昭和45年)には日本国有鉄道(国鉄)盛線(現・三陸鉄道南リアス線)が開業した。盛線は特定地方交通線に指定されるほどの赤字路線であったが、大量輸送と速達性・定時性で優位となる鉄道路線の開業効果もあり、1974年(昭和49年)には約7割に上昇した[15]。なお、盛線は1984年には国鉄から三陸鉄道に経営転換されている。
近代化工業化による合理化による単純労働者の減少
製造業では合理化の一環として工場のオートメーション化を推進させた。その結果、単純労働者の需要が減少し、それまで単純労働者として持て囃されていた中卒者の需要が減少した。オートメーション化のため導入された機器は工業高校卒業以上の知識が必要で中卒者には手に余るものとなり、製造業界は高卒者優遇の時代に突入した。[16]
年少者に対する労働条件・資格取得などの制約
18歳未満の労働者は年少者として扱われるため、国家資格や免許の取得が制限されたり、労働基準法の規定で18歳未満の女子と16歳未満の男子の深夜労働や時間外労働ができなかったり危険有害作業が制限されるなどの制約が多い中卒者(正確には15歳 - 18歳未満の者)の採用を控え、中小企業でも高卒以上を採用することが多くなった。
経済の低迷
1974年(昭和49年)にはオイルショックで経済が低迷したこともあり、労働に際して制約が多い中卒者の新卒採用を控える企業が増加した。

以上の様に中卒者の90%以上が高等学校に進学することで中卒の就職者は1割未満となり、企業でも「高卒以上」学歴を課すようになった。特に中卒者を対象に行っていた集団就職は成り立たなくなり、1970年代以降廃止する地域が現れた。1975年(昭和50年)に最後の集団就職列車が運行され、1976年(昭和51年)には集団就職は沖縄県のみとなったため、1977年(昭和52年)に労働省(当時)は集団就職を完全に廃止した[1]。金の卵たる中卒者の集団就職の時代は終焉する[6]

(参考)現代における低学歴労働者[編集]

高校への全入運動が定着し、低学力・非行・貧困・不登校・病弱・障害など特殊な事情で高校進学が困難な場合を除いてほとんどの中学生が高校へ進学し、高校への進学率が90%を超えたことで「高校も(事実上の)義務教育」と化するようになった。それに加え1985年(昭和60年)にプラザ合意があったバブル時代以降は、円高に伴い製造業が生産拠点を次々と海外に移転させるようになり、中卒者向けの仕事はますます減少した。さらに、平成初期までは理容師美容師に「中卒」でもなることはできたが、現在では中卒で美容師・理容師になることはできなくなり、専門学校卒か高校を卒業して美容学校に入学する方法に変更されたほか、パートやアルバイトなどの非正規雇用ですら高卒以上の学歴を課す企業もあり、中卒者にとっての就職はハードルが高くなった。大学全入時代も到来し、大学の進学率も2009年(平成21年)には50%を超え、現在の日本では高学歴化が進行し、中卒者は社会的少数者となった。

一方で、調理師や伝統工芸、鳶職などの職人相撲力士競馬騎手伝統芸能の役者などは現在でも実力主義が根付いており、個人の技量や意欲に依存されやすいため若年者の起用が優遇され、高い学力を要求されないことから現在でも中卒後に仕事を始める人もいる。トヨタ自動車に中卒後に採用されるトヨタ工業学園認定職業訓練を実施する職業能力開発校)をはじめとする企業内学校の社員兼生徒や、自衛隊に中卒後に採用される陸上自衛隊少年工科学校陸上自衛隊生徒)など、満15歳の中学校卒業後に就職するものもいて、これらの労働者はかつての「金の卵」と同じような雇用形態である。

日本国外における同種の労働者の事例[編集]

複線型教育のドイツでは4年間の初等教育の後、中等教育では進路が職業人向け学校(基幹学校実科学校)と高等教育向けの学校であるギムナジウム(日本の中高一貫校に相当)に分けられている。このような教育課程は「マイスター制」と呼ばれていて、中等教育機関への進学率はギムナジウムが約20%、実科学校が約33%、基幹学校が約47%である。基幹学校卒業生の多くは就職し、工員や職人などになる者もおり嘗ての日本のような「金の卵」に近い雇用形態が未だに根付いている。

著名人[編集]

関連する作品[編集]

以下は映画

参考文献[編集]

  • 加瀬和俊、『集団就職の時代-高度成長のにない手たち』、青木書店、1997、ISBN 4-250-97022-1
  • 青少年問題研究会編 「流入青少年実態調査報告書 -東京都における青少年の流入状況とその後の生活環境・勤務条件について-」1964年(昭和39年)
  • 昭和史戦後編、(著作)半藤一利
  • 早分かり昭和史、時代の流れが図解でわかる、(著者)古川隆久日本大学文理学部史学科教授
  • 「「青年の社会的自立と教育」に関する社会史的研究 : 昭和30年代(1950年代後半から1960年代前半)の秋田県における集団就職に関する資料調査」、『教育学研究室紀要「教育とジェンダー」研究』第6号、2005年、 8-19頁。 NAID 110007129877

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 集団就職とは - コトバンク
  2. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁上段12行目~13行目
  3. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁上段14行目
  4. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁下段4行目~8行目
  5. ^ 1940年に発表された宮本百合子の小説「三月の第四日曜」に、東北から上京する青年たちが描かれている
  6. ^ a b c 畑川剛毅 (2011年7月2日). “昭和史再訪 集団就職始まる 昭和30年3月 金の卵、上野駅に降り立った”. 朝日新聞・夕刊. https://web.archive.org/web/20130623085434/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html 2013--03-15閲覧。  - ウェブアーカイブ
  7. ^ a b 橋本,2005,p.11.
  8. ^ 橋本,2005,pp.10-11.
  9. ^ 『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈 単行本』広瀬 隆 (著)452頁
  10. ^ 『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈 』広瀬 隆 (著)453頁
  11. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁下段14行目~145頁4行目
  12. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久144頁下段9行目~13行目
  13. ^ 世界と日本 (新版 ジュニア版・日本の歴史)329頁
  14. ^ 1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)
  15. ^ 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル別冊No.34 懐かしの国鉄列車PARTⅠ 1980~1983』p.132-133
  16. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久145頁8行目~13行目

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 昭和史再訪セレクションVol.71「集団就職始まる 金の卵、上野駅に降り立った 昭和30年3月」(朝日新聞『どらく~地球発』;全2頁)
1ページ目 ・ 2ページ目 ※何れも現在はインターネットアーカイブに残存