第一次教科書問題

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第一次教科書問題(だいいちじきょうかしょもんだい)は、1982年文部省教科書検定により高校の歴史教科書において中国華北地域への「侵略」を「進出」、韓国の「三・一運動」を「三・一暴動」などと書き換えさせたとする報道をきっかけに、日本国内および外交上に生じた一連の問題[1][2]。中国への「侵略」を「進出」と書き換えさせたとする報道は誤報だったとする意見もあり(#誤報の主張)、その観点から教科書誤報事件と呼ばれることもある。

問題の経緯[編集]

教科書検定をめぐる各社の報道[編集]

1982年(昭和57年)6月26日、大手新聞各紙および各テレビ局は、「文部省(現在の文部科学省)が、教科書検定において、高等学校用の日本史教科書の記述を(中国華北に対する)“侵略”から“進出”へと改めさせた」と一斉に報じた。『朝日新聞』は「教科書さらに『戦前』復権へ・『侵略』表現薄める・古代の天皇にも敬語」[3]、『毎日新聞』は「教科書統制、一段と強化・過去の日本、正当化・“自衛隊合憲”の記述定着」、『読売新聞』は「自衛隊成立の根拠を明記・明治憲法の長所も記述・中国『侵略』でなく『進出』」といった見出しが並んだ[4]

同日付の『東亜日報』では「日本、教科書検定強化、古代の天皇に敬語、侵略の用語を抑制」と二段で簡単に報道しただけであった。約二週間後の7月8日付社説でも取り上げられたが、この時点ではさほど大きな問題になってはいなかった[5]

7月23日、小川平二文部大臣が日教組委員長に「外交問題といっても、内政問題である」と発言したことと、松野幸泰国土庁長官が小川文部大臣に「日韓併合でも、韓国は日本が 侵略したことになっているようだが、韓国の当時の国内情勢などもあり、どちらが正しいかわからない」と語ったことが報道された。これらの発言は中国や韓国で取り上げられ、批判報道が繰り広げられることになった[6] 。韓国ではこの発言を契機に教科書検定が大々的に報道されるようになったと言われている。こうした批判報道を受けて、日本 のメディアも「歴史認識問題」として歴史教科書問題を認識するようになった。

約一ヵ月後中国政府から公式な抗議があり、8月1日には、小川平二文相の訪中拒否を一方的に通告。また、韓国マスコミも反発した。

韓国国内の反応[編集]

共同通信ソウル支局長として韓国マスコミの反発ぶりを最初に日本に伝えたという黒田勝弘は、当時の韓国には、光州事件などを経て成立した全斗煥体制に、政権の正当性に関するコンプレックスがあったため、「反日」で国民を動員したいという事情があったと分析している[7][8]

韓国学学者の田中明はこの誤報事件問題当時の、ソウル在住の日本人の回想を紹介している。その日本人は教科書問題について韓国の新聞社から感想を求められたので「現物を見てからでないとコメントできない。一度それをみせてくれ」と求めたところ、そういうものは社にはないと言われたという。大々的なキャンペーンを張りながら、その基礎となる教科書なりコピーなりを持っているのだと思っていたが、「とすると、日本の報道を鵜呑みにしていて紙面を作っていたのか」と愕然としたという。田中はこの件について、もし日本で進歩陣営による多年にわたるキャンペーンがなかったら、果たして教科書問題は起きただろうか、と疑問を呈し、引き金となった中国の抗議が「日本の新聞報道によると」で始まっていたことは、まことに正直であったとしている[9][10]

1982年の国会答弁[編集]

1982年7月30日の第96回国会衆議院文教委員会にて文部省の鈴木勲初等中等教育局長は、「日中戦争における日本軍の中国侵略が『進出』それから『進攻』という用語に変えられている」という中国からの抗議について説明を求められたのに対し、「この華北への侵略というような点については、今回の検定の教科書を精査いたしましたが、この部分についての該当は当たらない」と答弁した[11]

同日の衆議院外務委員会にて文部省の藤村和男初等中等教育局教科書検定課長は、「表現が誤りだから訂正をしなければならなかったのかどうか」と見解を問われたのに対し、「ことしの春終了しました教科書の検定で、日本史、世界史の中で調べてみますと、原稿が『華北侵略』あるいは『全面的侵略』となっておって、それに意見をつけて『華北進出』『全面的進出』というふうに改められた事例は見当たらない」と答弁した[12]

これらの答弁は、「今年の検定で『侵略』を『進出』と変えた例はいまのところの文部省調査では見当たらない」(朝日新聞、7月30日)。「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていないという」(毎日新聞、7月30日)。「検定前も『日本軍が華北に進出すると…』であり、『中国への全面的侵攻を開始した』である。検定で変わってはいないのだ」(産経新聞、7月28日)というように新聞各紙で報道された。

朝日新聞は、8月14日に「『侵略』を『進出』になどと歴史教科書の記述を検定によって書き改めた、いわゆる歴史教科書問題は、・・・」と報道した。8月25日には「文部省は・・・今回の検定で・・・中国側が指摘しているような、日本軍の華北への侵略、中国への全面侵略の『侵略』を『進出』に変えた例は、いまのところ見当たらない」ことを7月30日に続いて報道し、「朝日新聞社のその後の調査によっても、文部省のこの発言は事実と認められる」と、当初の華北部分については報道が誤報であったことを再度確認する記事を掲載した。

一方、国会での藤村答弁以降すぐに「侵略」を「軍事行動」に書き換え「東南アジアへ侵略」を「東南アジアへ進出」と書き換えた帝国書院版の実例があると指摘され、前述のように「侵略」を「進出」に書き換えるB意見の改善意見が実教出版版「世界史」にも存在していたことも指摘された。以後の国会での論戦は、最初に報道された「華北」部分以外の侵略進出書き換えについてであった。

つまり、華北部分についての書き換えが無かったことが政府説明員の答弁で確認された後は他部分の書き換えを何故したかの追及に変わったのである。政府説明員の答弁は「用語の統一」であったが、質問者は「それでは何故、ドイツや蒙古(モンゴル)は『侵略』で日本は『進出』にしたのか」と詰問した。この論議の果てに宮澤談話が出たのである。[独自研究?]

なお、歴史分野における教科用図書検定では、個別の教科書ごとに全体的な記述の調和を取るということで教科書内の用語使用に言及する「改善意見」(現在の「検定意見」の1部分に相当)もあった。「侵略」などの用語使用にかかわるものもそれに含まれていたと後者は主張しており、1978年には検定前後で「侵略」が「進出」に変わっている具体例があることを指摘している。[要出典]

小川文相は、衆議院予算委員会で、教科書の「訂正容認」と「日中戦争は侵略」との旨を発言するに至った。

政府見解発表と鈴木首相訪中[編集]

また、8月23日には鈴木善幸首相が「記述変更」で決着の意向を示し、8月26日には「日本は過去に於いて韓国・中国を含むアジアの国々に多大な損害を与えた」(「侵略」との言葉は使用されていなかった)とする政府見解(宮澤喜一官房長官談話)を発表した。そして、9月26日には首相自ら訪中して、この問題を中国側に迎合する形で処理しようとした。[要出典]

鈴木内閣は以前に日米同盟についても失言があったことから「外交音痴」と批判されていた[要出典]。10月には総辞職して中曽根内閣が成立している。

近隣諸国条項[編集]

教科書を記述する際、近隣諸国に配慮するという旨の、いわゆる「近隣諸国条項」はこのときの鈴木訪中で生まれたと言われている。

誤報の主張開始と各紙の対応[編集]

書き換え報道があってから2ヶ月後の9月2日、文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』に渡部昇一の「萬犬虚に吼えた教科書問題」が掲載された。また同日発売の『週刊文春』には「意外『華北・侵略→進出』書き換えの事実なし」という記事が掲載された。ここに「侵略進出書き換えは誤報である」との主張がはじまり、9月7日には産経新聞が一面で訂正お詫びを掲載した。

一方、朝日新聞はお詫び記事を掲載せず[13]、「読者と朝日新聞」という中川昇三社会部長名の四段の囲み記事で、「『侵略』→『進出』今回はなし」「教科書への抗議と誤報」「問題は文部省の検定姿勢に」と報じた。「一部にせよ、誤りをおかしたことについては、読者におわびしなければなりません」としながら、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにあるのではないでしょうか」「侵略ということばをできる限り教科書から消していこう、というのが昭和三十年ごろからの文部省の一貫した姿勢だったといってよいでしょう」と書いた。

毎日新聞は9月10日付「デスクの目」で、この問題に触れ、「当初は、これほどの問題に発展すると予測できず、若干、資料、調査不足により読者に誤った解釈を与える恐れがある部分もあった」「不十分な点は続報で補充しており、一連の報道には確信を持っている」と書き、読者の理解を求めている[14]。この経緯を著書で記した後藤文康は、阪神・淡路大震災の際に、『読売新聞』など一部の新聞が「救援物資を運んできた自衛隊の艦艇が、労組の反対で接岸が遅れた」という誤報を出したことに触れ、その後、この「誤報」を元に労組批判を行った政治家や評論家がいたことを指摘し、「労組対自衛隊」という図式の印象が一人歩きしかねないと批判している[15]

2001年の国会答弁[編集]

2001年3月12日の参議院予算委員会において竹村泰子参議院議員は、「侵略を進出と書き直したことによってアジア諸国から猛然と抗議が来たわけですよね」と質問した。これに対して町村信孝文部科学大臣は、「そのような報道があったが、誤報であることが判明した。書き換えた教科書は、その時点では存在していない」と答弁している[16]

一方、同年5月23日の衆議院文部科学委員会で文部科学省の矢野重典初等中等教育局長は、「私どもの確認は、五十六年度の検定で、東南アジアの侵略について、それを進出に改めたという事例があることは事実でございますけれども、今回の一連の報道、また一連のそれへの対応は、中国への侵略を進出に書き改めたという報道が誤りだったということに一つの発端があったことは事実でございます。」という答弁をした[17]

同年5月30日の衆議院文部科学委員会で中西績介衆議院議員はこれらの答弁を受けて、「議事録を読んでも、町村前大臣は、答えの中には中国という言葉は一口も入れていないんです。そして、結局、侵略を進出というような言葉がなかったという言い方をするんです。ですから、私は、中国ということが入っておれば、そこだけについては十分だと思いますよ。しかし、そのことは入っておらない。ところが、この前も確認いたしましたように、文部省も文書にちゃんとして残しておりますように、東南アジアの場合にはちゃんと、侵略を進出と書きかえさせている。同時にまた、たくさんの例があるということをこの前私は挙げましたけれども、侵略を消していろいろな表現に変えておるというのは、これはもう十以上もあるんですね。」と質問した。それに対して岸田文雄文部科学副大臣は「去る五月二十三日の本委員会で、昭和五十六年度に実施した高等学校の教科書検定では、日中戦争に関しては侵略を進出と書き改めた事例はなかったが、日本の東南アジアへの侵略を進出と書き改めた事例があったという答弁をしたわけですが、その五月二十三日の本委員会での答弁と、先ほど申しました町村大臣との答弁、矛盾はしていないというふうに理解しております。」と、中国以外では侵略を進出に書き換えた事実があったことを認める答弁をした[18]

本問題をめぐる議論[編集]

本問題の議論には、歴史学者、教育学者、評論家など多くの人々が参加した。また、侵略という用語をめぐっての議論もあった。

歴史学者の意見[編集]

中村政則は以下のように記している[19]

侵略戦争を否定する保守派・民族主義者のなかには「侵略」を「進出」に書き替えさせた事例は一つもないと主張して、文部省の検定を擁護する人々がいるが、帝国書院の『世界史』の教科書二冊は、「侵略」を「進出」と書き替えさせられている。これは氷山の一角で、検定過程で語句の修正・削除を求められた事例は枚挙にいとまがない。

藤原彰は1994年8月に出版された著書の中でも「文部省の歴史教科書の検定が「侵略」を「進出」に直させた」と書いている[20]

柴垣和夫は同シリーズの別の巻で、「私が本書を執筆している1982年という年は、戦前の日本の朝鮮にたいする植民地支配や中国侵略に関する検定教科書の記述をめぐって、韓国と中国からきびしい批判が噴出した年であるが、その過程で、「侵略」を「進出」に書きかえさせる検定が、まさにこの年からはじまったことが明らかにされている」と書いている[21]

森武麿は一般向け通史『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社において、以下のように記している[22]

1980年代に入ると、このような日本の態度にアジア諸国がきびしい批判の目を向けるようになった。そのひとつは1982年の教科書問題である。文部省検定によって『侵略』を『進出』に書き換えさせたことに対して、アジア諸国の激しい抗議の声が巻き起こった。日本は過去の戦争への責任をまったく忘れているのではないかという中国、韓国、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどの批判は、教科書問題をとおして国際問題に発展した。このため文部省はしぶしぶ検定の改善を指示せざるをえなかった。

中村隆英は1993年出版の『昭和史』において、「日本の韓国と中国への『侵略』という表現を、教科書検定のさい『進出』と直させたという報道は、いちどに韓国と中国を硬化させ抗議がつづいた」と書いている[23]「という報道」という表現にとどめており、藤原よりは事実性が担保されている。[独自研究?]

小島晋治丸山松幸は「1982年7月の日本の文部省の『教科書検定問題』(中国『侵略』という表現を改めさせたこと)に対する中国政府の公式抗議」と記している[24]

笠原十九司は「新聞各紙は、高校社会科教科書の文部省検定結果を報道し、多くの教科書で侵略の記述が薄められ、『侵略』という記述に検定意見がつき、『進出』『侵入』『侵攻』などという記述に改めさせられた」と記している[25]

倉沢愛子は2002年7月に出版された著書において「1982年に、文部省の検定で、日本の高等学校の教科書の記述をアジアへの『侵略』から『進出』という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異議を唱えたのであった」と書いている[26]こちらも「という報道がなされ」とある一方で、「アジア諸国」が具体的にどの国を指すのかを記していない。[独自研究?]

吉田裕は「1982年6月25日、文部省は翌年4月から使用される高校用教科書の検定結果を公表し、翌日の新聞各紙はその内容を詳しく報道した。ところが、この報道によって、文部省が日本の対外侵略を「侵入」や「進出」に、朝鮮の三・一独立運動を「暴動」などと書き直させていた事実が明らかになると、アジア諸国は敏感に反応し、中国や韓国では厳しい対日批判がまきおこる。教科書検定の国際問題化である。この時の初期の報道の一部に「誤報」があったのは事実だが、「侵略」という表現を排除する検定が一貫して行われてきたのは確かである」と記している[27]

秦郁彦は、歴史教科書問題について和田春樹が「韓国と中国の批判が、わが国の反動派、右派に痛撃を与えてくれた」と1983年3月に発言したとし、「日本人としての『国益意識』がほとんど見られない」「こんな心がけで、運動を広げられては我が国益は害される一方と思う」と論評している[28]

教育学者の意見[編集]

山住正己は「とくに歴史教科書の検定は、82年夏に中国・韓国などアジア諸国から歴史を歪曲するものとの強い批判を受けるほど、政府の意図によって強化された」と記している[29]

中内敏夫は「ここ数年、日本がかつて行ったアジアでの軍事行動やその舞台に登場した軍人・兵士・その家族たちを、国の教科書上で復権させる動きが続いている、国際問題にまで発展した日中戦争の性格づけをめぐる「侵略・侵出(ママ)」問題がその一つである」と記している[30]

評論家の意見[編集]

鶴見俊輔は以下のように記している[31]

1982年7月26日、中国外務省は、日本の歴史教科書で中国への「侵略」をあいまいに「進出」と書きかえたことに抗議。

日高六郎は以下のように記している[32]

1982年、文部省が新しい社会科教科書の検定のなかで、日本軍の中国大陸における行動にたいして、「侵略」という表現を認めなかったということが大きく新聞で報道された。反響は国内よりも国外から、とくに中国と韓国とから起った。政府だけではなく、民衆の怒りも爆発した。両国政府は日本政府に抗議し、記述の是正を迫った。結局、鈴木内閣は表現の訂正に応じる方針に転じる。

弁護士の内田雅敏は、「1982年、文部省が教科書検定に際して高校の社会科教科書の記述を『侵略』から『進出』へと書き換えさせていたことが発覚したことを契機として、アジア各国から激しい非難がまき起こった」と記している[33]

内田健三は「不測の波乱が起こった。教科書検定問題である。文部省による歴史教科書の検定で、中国大陸への日本の「侵略」が「進出」と書き換えられたり、韓国の抗日三・一独立運動が「暴動」と表現されているとして、中国と韓国が7月下旬相次いで日本政府に抗議し、記述の訂正を求めてきた」と記している[34]

日韓・日朝関係の研究者の意見[編集]

鄭大均は、戦後における韓国と日本の「眺め合い」の関係を三段階に分けて捉えているが、第二期と第三期の境界にあたる出来事として、この問題を挙げている。なお、一期と二期の境界は日韓国交正常化としている[35]

在日朝鮮人2世である尹健次は、次のように記述している[36]

日本政府が戦後、教科書検定でもっとも問題としてきたのは、戦前のアジア侵略についての記述でした。「1982年教科書問題」と一般的によばれる「事件」がありますが、これはその年に、文部省がそれまでの検定姿勢を一段とつよめようとしたのにたいし、日本の良心的な学者や教員だけでなく、韓国政府・中国政府が反発して「外交問題」にまで発展したものです。/当時、文部省によれば、たとえば朝鮮近代の部分についていうと、朝鮮侵略は「進出」であり、朝鮮民衆の三・一独立運動は「暴動」であり、強制連行は「日本臣民」にたいする「合法的手続」によるものであり、創氏改名は「任意申請」であり、日本語使用の義務は「共用」であり、神社参拝の強要は「奨励」であったというのです。このときは「外交問題」にまでなったため、日本政府は一歩ゆずる姿勢を示していったん「解決」しますが、その後の経過をみると、文部省はそれ以前と同じく、一貫して過去の植民地支配を隠し、日本は戦争の「被害者」であるという検定姿勢をとっているといえます。

メディア論者の意見[編集]

佐藤卓己福間良明は、中国戦線に限れば「侵略」から「進出」への書き換えがあったとする報道は誤報だとした[37][38]。ただし福間は、誤報を「真実」と受け止めがちな素地があったこと、東南アジアでは「侵略」から「進出」への書き換えがあったこと、三・一運動は「暴動」に書き換えられていたこと、をあわせて指摘している[38]

誤報の主張[編集]

諸君!』に掲載された渡部昇一の記事は、板倉由明の調査[39]や8月6日付世界日報「テレスコープ」「実際は変わっていない“教科書”」「一部を誇大に報道」「『侵略』記述は、逆に増加」などを参考にしていた。また、これに先立ち渡部は8月22日放映の『竹村健一の世相を斬る』に出演し、用語を書き改めた教科書が皆無であることを明確に断言していた[40]。『週刊朝日』はこの問題について野坂昭如との対談企画を渡部に持ちかけ、また、「書き換えは存在しない」ことのソースをしきりに知りたがったという。しかし、『諸君!』発売日に『週刊文春』でも「誤報発生のメカニズム」が掲載されてたため、今更対談など行っても無意味と見たかその後週刊朝日は何も言ってこなかった、と渡部は回想している[41]

出典[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 清水美和『中国はなぜ反日になったか』, pp. 113-117.
  2. ^ 毛里和子『日中関係』, p. 122.
  3. ^ 波多野澄雄『国家と歴史』P.138に紙面写真が掲載されている。
  4. ^ 山崎政人『自民党と教育政策』, p. 169山崎は1986年4月21日第1刷発行のこの著書で、この「書き換え」が誤報であったことには一切触れていない。また、教育二法制定のきっかけとなった、山口県における「『中学生日記』の偏向」については具体的なことを書いていない。12p。[独自研究?]
  5. ^ 高崎宗司『「反日感情」』, p. 56.
  6. ^ 三谷文栄 (2012年6月2日). “歴史教科書問題をめぐるメディア・フレームの分析 外交政策とメディアの関係の観点から”. 2017年10月26日閲覧。
  7. ^ 黒田勝弘 『韓国人の歴史観』, p. 211.
  8. ^ 黒田勝弘『韓国人の歴史観』, pp. 213-215.
  9. ^ 田中明『韓国の「民族」と「反日」』, p. 200.
  10. ^ 田中明『韓国の民族意識と伝統, pp. 205-206.
  11. ^ 衆議院 第96回 文教委員会 第17号 昭和57年7月30日”. 国会会議検索システム. 2017年10月28日閲覧。
  12. ^ 衆議院 第96回 外務委員会 第23号 昭和57年7月30日”. 国会会議検索システム. 2017年10月28日閲覧。
  13. ^ 『「従軍慰安婦」 朝日新聞vs.文藝春秋』, p. 10-11当該部分の執筆は西岡力
  14. ^ 後藤文康 『誤報』, pp. 93-97.
  15. ^ 後藤文康 『誤報』, pp. 115.
  16. ^ 参議院会議録情報 第151回国会 予算委員会 第8号
  17. ^ 衆議院 第151回国会 文部科学委員会 第11号
  18. ^ 衆議院 会議録 第151回国会 文部科学委員会 第13号(平成13年5月30日(水曜日))
  19. ^ 中村政則『戦後史』, p. 167-168.
  20. ^ 藤原彰『昭和の歴史5 日中全面戦争』, p. 412「小学館ライブラリー版刊行にあたって」同書の底本は1988年11月に出版されており、同年7月に脱稿したと書かれている。
  21. ^ 柴垣和夫『昭和の歴史9 講和から高度成長へ』, pp. 188-189「藤原彰が編集委員代表である」という記述は同書380-381pに掲載されている。
  22. ^ 井沢元彦『逆説のニッポン歴史観』, p. 42なお、引用部分では「フィリピン」が「フィピン」となっていたので修正している。
  23. ^ 中村隆英『昭和史 下』, p. 787.
  24. ^ 小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書初版1986年、16刷1993年 ISBN 978-4004203360、288p
  25. ^ 笠原十九司『南京事件論争史』, p. 134.
  26. ^ 倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』, p. 239.
  27. ^ 吉田裕『日本人の戦争観』, p. 86.
  28. ^ 秦郁彦『現代史の対決』, p. 91.
  29. ^ 山住正己『日本教育小史』, pp. 249-2502009年12月15日発行の第35刷で確認
  30. ^ 中内敏夫『軍国美談と教科書』, p. 3.
  31. ^ 鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』, p. 642009年7月5日発行の第5刷で確認。底本ではP.295
  32. ^ 日高六郎『私の平和論』, p. 132.
  33. ^ 内田雅敏『「戦後補償」を考える』, p. 185.
  34. ^ 内田健三『現代日本の保守政治』, p. 111.
  35. ^ 鄭大均『日本(イルボン)のイメージ』, p. 97.
  36. ^ 尹健次『きみたちと朝鮮』, p. 174.
  37. ^ 佐藤卓己『八月十五日の神話』, p. 248-249底本では236頁
  38. ^ a b 福間良明『「戦争体験」の戦後史』, p. 231-232.
  39. ^ 秦郁彦『南京事件』, p. 285.
  40. ^ 谷沢永一『紙つぶて』, p. 516.
  41. ^ 渡部昇一『国民の教育』, p. 276.

参考文献[編集]

関連項目[編集]