五月危機

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五月革命 (フランス)から転送)
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フランスの五月危機(ごがつきき)は、1968年5月におきた、フランスパリでおこわれたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それにともなう政府の政策転換を指す。五月革命ともいう。セックス革命であり、文化革命であり、社会革命でもあった。

短期間でスローガンと要求こそあれ具体的な政治的対案はないままにおわり、キューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東がイコンとしてかかげられた。背景にはフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」があり、それを高度経済成長に湧くパリの学生がみちびき、各国の学生運動に熱をふりまき、より拍車をかけた。

この時代はじめて、世界の若者は発達したメディアをつうじながら、学生運動によってお互いの理念や体験を共有することができるようになった。これによって国の枠組みにおさまらない対抗文化(counter culture)や反体制文化(ヒッピー)を構成するユートピアスティックな「世界的な同世代」という世代的な視座が加速度を増してゆく。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は発言権を強めるようになり、フランスの現代化を推進させた[1]

それはロックや映画、ファッション[2]、アニメ、アートなどに影響を与え[3]、その時代精神というかたちで現代のコンピューター文化へとつながってゆく。

革命をとりまく世界の状況―1968[編集]

1968年は世界レベルで大衆の異議申し立て運動が活発化した年だった。

ベトナム戦争。当時のアメリカの学生たちはテレビから流れるニュースを通じて戦争の惨状を知り、徴兵に反発するようになった。反戦運動はヒッピームーブメントとリンクして、ロック熱を高め、世界の若者に飛び火してゆく。

アメリカでは泥沼化したベトナムに対する反戦運動、中国では文化大革命が熱を帯び、日本では全共闘、東大紛争、こののちの10月2日にはメキシコでトラテロコの虐殺がおきる。ベトナムのテト攻勢やワルシャワ条約機構軍によるチェコへの軍事介入(プラハの春)、メキシコオリンピック、西側の高度経済成長などこの時代の社会はおおきな興奮と混乱の熱気につつまれていた。

旧態依然とした父権的な権力(白人=男性=異性愛)は同時代的な意識をもとめる民衆の挑戦をうけ、その権力の在り方そのものが問われるようになる。五月危機もそうした世界の潮流に呼応するかたちで起きた世界的な大衆運動の一環であり、それ以後のヨーロッパの大衆文化や思考の在り方、意識に消しがたい影をなげることになった。

この権力の在り方や変化そのものを否定的にとらえれば、「危機」であり、肯定的にとらえれば「革命」として見ることができる。

戦後フランスの社会状況[編集]

ド・ゴール大統領。フランス・反ナチ・レジスタンスの象徴的な英雄だったド・ゴールは五月革命では旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴となってしまう。激動する時代の移り変わりのはやさにいちばん驚いていたのは当の大統領だったのかも知れない。

第二次大戦がおわって植民地帝国だったフランスは第四共和政という政権の安定しない政治体制に移行した(1946-1958)。このあいだにベトナムとアルジェリアという2つの旧植民地独立の挑戦をうけ、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)に派兵した。インドシナ戦争で苦戦を強いられたフランス軍は1953年ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムからの撤退を余儀なくされる。さらにフランスはアルジェリアの植民地維持に固執し、議会の混乱を招くと、泥沼のアルジェリア戦争(1954)へと突入してゆく。第四共和政が明確なリーダーシップを採りえない体制であったことから、第二次大戦の国民的英雄ド・ゴール将軍はより大統領権限の強化された第五共和政を樹立(1958)し、アルジェリアやアフリカ各国の独立を容認する。一方で父権的で強い権限での統治スタイルや強力な行政、官僚機構は新しい時代の大衆の反発を招くものでもあった。

Egalité! Liberté! Sexualité![編集]

五月革命の特徴は「学生たち」が状況を先導したところにあり、従来の右翼、左翼を枠組みをobsolète metodo(時代おくれのやり方)としてみせた。つまり、当時のひとびとたちに新しい政治の季節の到来を予感させるものだった。若い学生たちはそれまでの父権的な政府も保守的な労働組合の幹部も同様に後景にかすませ、右左どちらにもよらない「若く流動的な政治姿勢(ファッションとしての政治)」をうちだして、数の力で圧倒した。また彼らは戦後高度経済成長に育ったベビーブーマーであり、急激に数の膨張した大学生だった。1938年、フランスの大学生は6万人にすぎなかったが、それが1961年に24万人、 1968年までに60万5,000人にまでふくれあがる[4]。それまで特権階級の場だった大学は一般に開かれ、よりつつましい階級の家庭の学生の比率が膨らんだ。旧態依然としたド・ゴール政権(ド・ゴール主義)は彼らを発言権のある存在としてはみとめておらず、倦怠と抑圧を感じる学生の不満は高まっていた。彼らは広い意味で「平等」をもとめていた。社会にも、階級にも、帝政の歴史にも、第3世界にも、政治にも。

「Egalité! Liberté! Sexualité!―平等!自由!セクシャリティ!」は革命運動時の学生の重要なスローガンとなった。

古い世代の制度と新しくふくらんだ大学生のあいだでに生じた摩擦はやがてマニフェストをともなったデモやゼネストというかたちで顕在化されるようになる。

発端と終結[編集]

経緯―ストラスブール、ナンテール、ソルボンヌ、カルチエ・ラタン、フランス全土[編集]

1968年のパリ。壁一面に張られた政治的主張のポスター。なにより多様でカラフルでPOPだった。五月革命のヴィジュアルはゴダールとポスターの色彩で彩られる。

事件の発端は1966年以降に起こったストラスブール大学学生運動、教授独占の位階体制に対する民主化要求や既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF[5])、官僚主義への反発からはじまる[6][7]。やがて要求は1964年に創立したばかりのパリ大学ナンテール分校(現在のパリ第10大学、ちなみにサルコジ大統領マクロン大統領もここの卒業生である)へと波紋をひろげ、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動へと発展[8]、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。

のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット[9]」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダー「ジャック・ソヴァジョ[10]」、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者「アラン・ジェスマル[11]」、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキスト「アラン・クリヴィンネ[12]」らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。

5月3日、ナンテール校から追放された学生500人がソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立、膨大な逮捕者をだす。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。

6日には再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、フランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキがおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT[13])とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。

10 日、全国高等教育職員組合 (SNES[14]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者がバリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。11日、それぞれの組合が共同で 13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。13日、ゼネストは成功、100万人のもの人々のマニフェストでパリがあふれた。

14日になると、ストライキは多くのルノー工場に波及し、おおよそ50もの工場が労働者に占拠され、工場の責任者は労働者の手によって拘束され、工場に「赤い旗」が掲げられた。5月17日までに20万人がストライキを決行、この数字は翌日のストライキで200万人にふくれあがり、その後1週間でフランス人労働者のおよそ2/3にあたるおよそ1千万人が参加したと言われる。

学生に占拠され、旗がひるがえるパリ・オデオン座。パリは瞬間的に新勢力に占拠され、またもとの日常へともどっていった。

15日、レフィガロ紙、「権力はストリートにある」と報道。パリ、オデオン座を学生が占拠。タクシ―運転手たちがストライキを宣言。16日、より広域にデモとストがひろがる。17日、フランス共産党が左派の共通プログラムを呼びかけ、鉄道(SNCF[15])もストライキ。 18日、極右勢力による反共産主義デモが行われ、ストラスブール大学で自治が宣言される。19日、フランス国鉄・パリ市交通公団・郵便通信電話局でストライキ、燃料不足が始まる。20日、ほとんど全てのセクターでゼネストに近い状態になった。全学連(UNEF) と フランス民主労働総同盟(CFDT[16]) が記者会見をひらき、談上の「労働者と学生の闘争は同じである」という語はスローガンとなり、教師達の組合の枠を超えてストライキがひろがるきっかけとなった。20日、フランス放送協会(ORFT)は放送を中止する。21日、銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネスト、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。24日にはパリ市庁舎[17]や証券取引所[18]を学生が襲撃、20万人の農業労働者や各大学もストライキに突入し、カトリック教会でも学生の要求に親和的な意見が高まる。デモはパリ市街をまわり「よりみんなの政府」を要求。はじめて2人の死者をだす。

25日、ド・ゴール主義の国務長官ジャック・シラクが主宰で労働者、国、雇用主組織のあいだでの3者間会議が催される。27日、グルネル協定(Grenell agreements[19])を締結。労働条件の改善を手にするも、待遇に不満をいだいた労働者は地方で新たなるストライキへと向かう。29日、全国規模でおおきなデモがおき、パリに共産主義者80万人が集まり、「よりみんなの政府」を連呼した。ド・ゴールは秘密会議を招集する。30日、ド・ゴール大統領は厳粛な調子でラジオを通し市民へむかって演説。30万人規模の「ド・ゴール支持」のデモが保守市民によっておこされた。

以上、五月のはじめから月末にかけて起きたこの多発的な一連の占拠、襲撃、逮捕、デモとストライキによって、フランス政府は第二次世界大戦以来の混乱と危機におちいった。[20][21]

反=組合、反=共産党[編集]

「赤毛のダニー」こと、ダニエル・コーン・ベンディット。五月革命というとフランス人が先導していたと思いがちだが、先導していたのはドイツ人移民だったというところが大陸ヨーロッパらしい。

「モスクワの長女」とも言われるほどソ連と関係が深かった「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織した。だが、当時の共産党幹部ジョルジュ・マルシェは運動のリーダーであるダニエル・コーン=ベンディットらソ連を非難する急進的な学生運動を「アナーキストのドイツ人!」と否定、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠をすすめる学生や労働者を「ニセモノども!」「トロツキスト!」とよんで非難した。党や労働総同盟には学生主導のストライキを組織する力はなく、逆に学生や労働者のほうがより時代にあった根本的な要求をかかげていた。さらに五月革命には党や組合によって、組織されたものではない運動の自由で自発的な性質があり、「反=組合」「反=共産党」の幸福感があった[22]。同じようにスターリン主義に幻滅していた実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルが学生運動家に接近したのもあながち故のないわけではなかった。

異端左翼の集合体[編集]

したがって、実際に五月革命を主導していたのは、「反=スターリニズム」的、「反=ソヴィエト連邦」的なグループだった。トロツキストやマオイスト、アナーキストや学生、労働者、状況主義者(シチュアニスト[23])といった左翼でも正当派(orthodoxe)ではなく、異端派(hétérodoxe)の方だった。これらの性質の違う、さまざまなグループが雑多につどい、運動を高揚させていったところにこの革命の特徴がある。とくに彼らのなかでも若い学生、市民が新しい自由な光を放ち、想像力ゆたかなポスターやスローガンをかかげていたことは運動の色彩あふれる一面でもあった。

事態鎮静化[編集]

政治生命の危機に直面したシャルル・ド・ゴール大統領は、国民議会を解散し、あくる6月に総選挙をすることを約束した。解散にさきだつ5月27日、政府は労働組合との賃上げ交渉に寛大にこたえるかたちで事態の鎮静化をはかった。結果、学生と労働組合はよりよい条件の「グルネル協定」を締結(すべての賃金の10%上乗せと最低賃金の35%引き上げ[24])、労働環境の改善をする。労働者はかならずしも満足しなかったが、この政府の軟化姿勢によって、段階的にデモは消滅へとむかうこととなった。

授業面でも、大学では「五月革命」の精神をとりいれ、学生の自発的なアイデアを議論させる授業が行われるようになり、革命は教育システムに内在化されるものとなった。

対外的には西ドイツ日本イタリアなどの先進国の左翼学生たちに影響を与え、それらの先進国における学生運動をより激しいものにさせていった。やがて西ドイツやイタリアなどではフランス同様教育システムに組み込まれるようになる。五月革命は対案のない不満の爆発ではあったが、それまでの強権的な政権を軟化させることによって、大衆の力を権力に強く印象づける事件だった。

政権右派との抗争事件[編集]

フランス共和国保安機動隊(CRS[25])は動乱の鎮圧にさいして、「SAC[26]」(Civic Action Service―市民行動サービス)と「Occidental group[27]」(西洋ナショナリストグループ)のふたつのグループを組織した。

「SAC」は元レジスタンス剛腕政治家のシャルル・パスクワとアフリカ政策(とりわけ戦争状態にあったアルジェリア)の政府顧問ジャック・フォッカール[28]が設立に関与したド・ゴール大統領への徹底した忠誠が特徴の政府中枢肝いりの民兵組織だった。彼らは動乱の市民にまぎれこみ、さまざまな工作をおこない、運動で負傷した学生を兵舎本部の地下へと拘束した。結果彼らの行動はその忠誠が保守市民に認められ、5月30日におこなわれたド・ゴール支持のカウンターデモを人でいっぱいにした。自由をもとめる学生や市民の攻勢にもかかわらず、ド・ゴールはおおくの保守市民から手堅い支持を集めた。

「Occidental group」は1964年に設立され、主に極右の学生で構成されていた。1968年時点で1500人の構成員がおり、将来保守政治家となるジェラルド・ロンゲ[29]らが参加していた。構成員は生理的に共産主義を「毛嫌い」し、スローガンに「共産主義者とであったら、どこででも殺せ!」を掲げた白人至上主義であり、反ユダヤ主義であり、ベトナム戦争賛成派だった。その襲撃によって運動に参加した学生たちを蹴散らしたが、運動自体を弱める効果はなかった。結局最終的にマオイストやアナーキストとのあいだで抗争事件が勃発し、街頭での過激な暴力闘争となった。1968年10月31日ド・ゴール政権の手によって、解散させられた。

知識人たちの68年[編集]

  • ジャン・ポール・サルトル=戦後フランスを代表する哲学者。マルキストでありながらも、ソヴィエト政権に批判的だったサルトルは五月革命を支持し、運動のなかを熱狂的に走りまわった。革命運動のリーダー、ベンディットとインタヴューもしている。サルトルはキューバにも訪れ、カストロやチェ・ゲバラを知っており、学生の革命に肯定的だった。
  • アンドレ マルロー=アンチファシズムの文学者。68年当時文化大臣だったマルローは同時にレジスタンス時代に知り合ったド・ゴール大統領の熱心な支持者でもあった。マルローの忠誠心は5月30日の「ドゴール支持」のデモへとつづく。終生をつうじてその熱い忠誠の思いはかわることはなかった。
  • ヌーベルバーグを代表する映画監督ジャン・リュック・ゴダール。時代の空気を読むことに長けていたゴダールはそれ以前から五月革命を予見するような作品を撮っていた。著書「ミル・プラトー」で有名なポストモダン哲学者ジル・ドゥルーズはゴダールの姿勢を擁護している。
    ジャン・リュック・ゴダール=ヌーベルバーグ(新しい波)の映画監督。すこしづつ政治的なモチーフに関心を示すようになったゴダールは五月革命にさきだつ1967年に「中国女」というマオイズム的な映画をつくった。この映画はナンテール校の生徒たちに強い影響を与えた。実際五月革命はゴダールのイメージで充満していた。ちょうど五月に開催予定だったカンヌ国際映画祭に対し、トリュフォーやポランスキーらと祭の中止を要求したが認められず、彼らの作品の上映はなくなった(カンヌ映画祭粉砕事件)。
  • ルイ アルチュセール=マルクス主義の哲学者。アンチ=スターリニスト。思想面でおおきな影響を五月革命にあたえたとされる。アルチュセールの生徒たちは青年共産主義マルクスレーニン連盟(UJC(ml))を結成。革命中、大学やストリートで活発に活動する。
  • ギ―・ドゥボールの著書「スペクタクルの社会」。この本は消費される商品と人間との関係性を分析し、五月革命に強い影響を与えた。
    ギ―・ドゥボール=詩人、映像作家、著述家。才能ゆたかな表現者ドゥボールもまた五月革命につよい影響をあたえた一人だった。彼はその著書「スペクタクルの社会」(1967)のなかで、新しい市民社会はスペクタクル(光景、ショー)化する商品をつうじて人間疎外をうむことを指摘した。商品の語る真実っぽさ(スペクタクル)にかこまれ、そのスペクタクルがこそ想像を介する人間関係において具体的な現実になってしまい、個人そのものは商品のなかに解消されてしまう。こういったスペクタクルとリアルの境界を線引きすることがむずかしい状況がこそ消費社会なのであり、それは新しい「状況」をつくることによって批判されなくてはならない(「状況主義」)。ドゥボールの提示したテーゼは68年を経て、いま現在のコンピューター情報社会を鋭く言いあらわしている。

抗議する学生たちの投石[編集]

膨大な逮捕者をだしたデモにおいて、学生の主要な武器のひとつは投石だった。学生や大衆は石畳の舗装された石をほじくり返しては、それを投げるという原始的な方法をとった。これに対して警察はヘルメットと盾で装備をかため、催涙弾と警棒、放水による攻撃をくわえた。「武装した政府」とより「原始的な学生」という非対称性はベトナムにおける「圧倒的軍事力のアメリカ」と「アナログ兵器で立ち向かうベトナム」になぞらえられる。

ベトナムに鼓舞された「原始的」な「DIY精神」という意味で、この投石は当時のパリの雰囲気を色濃くつたえる。

赤い中国とマオイズムへの憧れ[編集]

文化大革命に参加する紅衛兵。五月革命当時のフランスではまだ文化大革命の実態は知らされておらず、フランス人のあいだでは毛思想への過剰な期待がふくらんでいた。

当時のフランスでは赤い中国のGrand Timonier[30]こと毛沢東の著書「Le petit livre rouge de mao」 (「毛沢東語録」)[31]が流行していた。それはパリのENS(高等師範学校)[32]の学生たちを通じてひろまり、左派知識人たちを活気づけ、学生や労働者を団結させる魅惑的なトレンドとなっていた。学生はアメリカの覇権主義にたいする優れた反論、オルタナティヴなモデルとして毛沢東思想を読んだ。したがってベトナムだけではなく、中国への憧れも「五月革命」には投影されている。ただその憧れは体制や革命そのものへの意識の違いから深められることがなく、表面的で過剰ともいえるロマンチシズムに彩られており、ファッショントレンドのように消費された。その意味で五月革命には文化大革命のパロディのような側面もある。さらには学生には政府を転覆させ、新しい政権を樹立する意志もみられなかった。学生は革命家ではなかった。つまり本物の革命ではなくて、学生がおこなうモラトリウムな革命[33]だった。

「造反有理」をかかげた日本の安保闘争同様、現実の政治の枠組みにはそれほど大きな影響をおよぼすことなかったが、フランスがベトナム同様に中国も憧れの対象としたことは、世界状況の変化を反映した興味深い意識の変化でもあった。

いちど、立ち止まって考えてみたフランス人たち[編集]

また五月革命はうなりを上げるスピードと効率の社会システムを、ひとりひとりが「止めて」みる(ゼネスト)というところに意義があった。

つまり、この社会システムそのものを個人それぞれが吟味し、それが自分にとってどのように関わり、どのように意味をもつのか、国家機構という集団性と自分自身という個人性との関係の基本をあらためて問い直してみた運動でもあった。68年当時、パリ、エコール・ド・ボザールの准教授だったブルーノ・ケサンヌは高揚をまじえながら、五月革命について以下のように述べている[34]

「革命に参加したそれぞれの人は、ずっとその人自身と積極的に関わっていたんだ。 それは不公平に妨害工作をしてやろうとしたのでなく、どうやったらフランスが走ることを止めることができるのかということだった。 全世界は、彼らがいったん立ち止まって、その存在条件を社会に反映すべきなんだということに同意していたのさ。」

フランス人たちはこのとき、いちど、立ち止まって考えてみたと言える。

評価[編集]

フランス革命同様に政治的なモチーフからはじまった革命ではなく、大衆の不満から自然発火的にはじまった運動だったとされる。

したがって政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「フリーラブ(自由恋愛)」(学生同士で性交渉する権利)に代表されるような古い価値観を打破するという意識を持って参加する学生もおおかった。この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。「フランス及びドイツでは短期的には成就しなかった革命は五月危機などの主体となっていた学生たちが起こした社会運動によって成し遂げられていった」とされる[35]

短期的には、この最中で行われた総選挙においてド・ゴール大統領派が56議席増やした300議席を確保し圧勝した他、アメリカでは「保守的」とされたリチャード・ニクソンも大統領選で大勝し、日本でも自由民主党が安定多数を堅持した。ハードとしての政権のシステムは維持されたものの、左派の申し立てに融和的とならざるをえなくなった各政権において、左右の対立軸はより流動的で、恣意的、時にファッショナブルなものとなった。各国ともその政治の基盤原理が薄れるようになった。

中長期的には、女性解放、黒人やアジア人への偏見の見直し、セックスやマリファナの再評価、反=帝国主義、ベトナム終戦、マイノリティ運動、LGBT運動、エコロジー運動など現代につながるより幅広い認識をせまる大衆運動のさきがけとなった。この精神はフランスのみならず、アメリカやヨーロッパ、メキシコなどを包括して「68年精神(The spirit of 68)」と呼ばれ、それ以後の大衆文化におおきな影響を与えるとことなった。

五月革命、それから―[編集]

パンクスたちへの波及[編集]

英国人デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。ロンドンパンクはファッションに大きな影響をあたえた。とくにセックスピストルズとヴィヴィアン・ウエストウッドのヴィジョンは衝撃的で、当時肥満ぎみだったファッションやロックに新たなる風をもたらした。

五月革命からしばらくのちの1970年代中盤にはいると、アメリカやイギリスのユースカルチャーの世界に「パンク」が登場する。パンクはアナーキズム、マルクス・レーニン主義、ダダ・ニヒリズムなどを標榜し、よりファッショナブルで、音楽的、よりポップだったが、既成権力に対する挑戦と不満、退屈の爆発、状況主義DIY精神など、その精神そのものは五月革命と通底するところがある。もっともパンクになると、国家機能を停止させ、政府と直接的な政治交渉をするほどの集合的な力は生みださず、ある局所的なムーブメントであり、より情報資本主義に取り込まれやすかった。つまりファッションとしてのヴィジュアル面の影響が強く、真似しやすく、記号としての流通が簡単にできた。そのため政治思想としての反映ではなく、ファッション的な記号として、おおくのデザイナーにインスピレーションを与えることとなった。マルコム・マクラレーンと組んでブティック「SEX」のデザイナーをし、セックス・ピストルズの衣装を手がけた英国のヴィヴィアン・ウエストウッド、川久保玲率いる日本のコムデギャルソン、DIORのデザイナーを務めたジョン・ガリアーノなどその影響は枚挙にいとまがない。

皮肉にも、上述のギ―・ドゥボールが予言してみせたように、五月革命の状況主義精神は、消費社会のなかで、ファッションという「スペクタクルな商品」というかたちで流通するようになった。そして逆にこのことがこそ学生革命としてはじまった五月革命の「革命の限界」を示していると言える。冷戦構造下で、おこなわれた時点で終了が故永遠におこなわれない核戦争(「抑止のプログラム」)と同様に、消費社会体制下で決しておこなわれることのない永遠の憧れとしての革命、若くて未熟なものへの終わらない憧憬、不確かであやふやな訪れないユートピアへの焦れるような憧れ(「不可能性への欲求」)はこれからも商品のなかでいくどなく繰り返されるスペクタクルなクリシェとしての「革命」となった。

パンクはアナーキストではなく、アナーキストになりたい―(I wannna be anarchist[36](Anarchy in the UK-The Sex Pistols))若者だったが、五月革命の学生や知識人もけしてなることのできない共産主義に憧れをいだき、叶わぬユートピア的理想に戦い、奔走したのである。

セックス革命とアンチセックス[編集]

映画プロデューサーのハ―ヴェイ・ワインシュタイン。剛腕プロデューサーとして知られていたワインシュタインはアカデミー賞に多くの作品を送り込む一方で女性へのセクハラを繰り返していた。権力をカサに着たその手口はME TOO運動によって告発され、厳しく非難されることになった。

68年当時、欧米においても性そのものは現在より抑圧されており、性表現や性関係は比較的につつましやかなものだった。ヒッピーのフリーラブスピリットや五月革命などの対抗文化を受けて性はより広範にわたって「表現されるもの」となり、ファッションや広告、映画、小説、アニメ、ゲームなどのマスカルチャーを通じて一般にひろまり、身体意識の高まりを生むこととなった。身体はより透明に見えるもの、意識されなければならないもの、操作可能なものとして、現実世界に登場するようになる。また避妊具の発展、ファッションの簡易化、下着化、性映像の情報化、パーソナルメディアの発達とともに異性間での性交渉も日常にありふれた娯楽となって、より快楽的な側面が強調され、現在に至っている。いっぽうでセックス革命が飛躍的に広域化しことによって、性はまた搾取されるものとしての側面も強めている。対象となる相手の意志をないがしろにした「性の濫用(とくに立場を利用したハラスメント)」はMe too運動のような新しいカウンター運動を生んでおり、肯定的な側面ばかりではないことがうかがわれる。

文化大革命への幻滅[編集]

当時フランスで盛り上がった「毛沢東への憧れ」はやがて文化大革命の実情が明らかになるにつれて、「毛沢東への幻滅」へとかわった。文化大革命とは下からの「革命」ではなく、毛沢東共産党支配を恒久化するための、上からの「中華的ブルジョワ文化の殲滅」であり、毛の夢見た農本主義の完成を目指すものだった。それは五月革命が志向した精神とはかけ離れたところにあった。その意味でフランスのマオイストたちはそれほど誠実に毛沢東と向きあってはいなかったと言える。フランス人によくあるように、漠然としたユートピアを東洋に夢見ていた。もっとも、実際にそれに罪があるというわけではないが、あまりにも無邪気かつ無知でもあり、反=スターリニズムの機運のなかで学生や思想家の呈のいい希望の星となった感は否めない。

けっきょく、毛沢東中国への幻想は消えた。しかし資本主義や消費主義に対するその批判的スタンスとしてフランスから共産主義がなくなったというわけではなく、また資本主義が1929年の世界大恐慌と同様に格差をむき出しにするとき、新たな平等主義の理想郷として新しいかたちでよみがえるだろう。資本主義そのものはシステム的に未完のものであり、批判軸なくしてはそのバランスがハンドリングできない危険性もそなえている。

サブカルチャーの濫用[編集]

キリスト教的な背景を有する欧米社会において、セックス革命というのは「社会の世俗化(vulgar)」を意味する。キリスト教(とくにカトリック)はその教義のなかで快楽のための性行為や中絶、同性愛を厳しく戒めてきた。いまだ性そのものが「悪魔」のイメージで描かれることもおおく、それを人間の「劣化」として受け止める膨大なコンテキストが背景に控える。したがって、このような社会の「世俗化」は眉を顰めさせるような出来ごとであり、従来の価値を愛する保守の市民の根強い反発もある。くわえてサブカルチャーと結びついた麻薬やセックスの自由はおおくの場合濫用をまねく危うさをもつ。つまり、「中毒」や「依存症」になりやすいのである。一面では自由は尊いものだが、同時に濫用の危険性と紙一重のところがあり、革命以後、アメリカのみならず、ヨーロッパもこうした濫用と革新と保守の乖離(世代間乖離)の問題を抱えることとなった。

五月革命の成功体験の内在化[編集]

五月革命は成功したストライキだったが、反面ではフランス大衆のあいだでストライキの敷居が低くなり、ストライキが頻発するようになった。つまり、五月革命という成功体験に縛られ、その再現を望むようになった。フランス社会は個人の自由や尊厳が尊重されるかわりに社会の効率の悪い、気難しい一面をもった社会であり、それが体質として日常化するようになった。どのような社会であれ、いったん「止める」のはいいが、「止まりっぱなし」は問題であり、いずれにせよ、このバランスとのかねあいがなかなかどうして現代社会の難しいところでもある。

五月革命に関連した映画[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Rubin, Alissa J.. “May 1968: A Month of Revolution Pushed France Into the Modern World” (英語). https://www.nytimes.com/2018/05/05/world/europe/france-may-1968-revolution.html 2018年8月25日閲覧。 
  2. ^ “1968年、パリ 五月革命がデザイナーに与えた影響” (日本語). WWD JAPAN. https://www.wwdjapan.com/617762 2018年9月3日閲覧。 
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関連項目[編集]