大和時代

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大和時代(やまとじだい)は、日本の歴史の文献上における時代区分の一つである。初代神武天皇即位から平城京遷都までの時代を指す。かつて大和朝廷が支配した時代が大和時代と一義的に捉えられていたが、その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。このため近年では同時代を3世紀半ばから始まる「古墳時代」と呼称するのが一般的である。

日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが、大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。日本書紀に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

概要[編集]

ヤマト王権による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。日本書紀古事記ではまず初代神武天皇による建国経緯が語られる。具体的な国家事業は第十代崇神天皇による四道将軍の派遣、課税の開始などから始まる。続いて垂仁天皇による灌漑事業、景行天皇日本武尊による九州や関東への遠征、成務天皇による国造の制定、神功皇后による三韓征伐といった国家の発展が語られる。続く応神天皇の治世では多くの渡来人の来朝があり儒教漢字が伝わった。応神天皇の子の仁徳天皇は課税を三年間止めた後で大規模な灌漑事業を実施した善政が知られる。仁徳天皇の孫の雄略天皇は専制的な統治で朝鮮半島への干渉や中国(南朝)への遣使を盛んに行った。しかし雄略天皇が崩御すると天皇(大王)の権力も衰え、大伴物部蘇我の各豪族が先後して実権を握っていった。6世紀前半には仏教が伝来する(日本の仏教の項を参照)。

推古天皇以降の時代は飛鳥時代ともいう。中国からの外圧が強くなると再び中央集権化志向が高まり、聖徳太子の法律(十七条憲法)・官制改革(冠位十二階)を経て、大化の改新645年)後、天皇中心の政治が法体制的に確立していった。さらに遣隋使遣唐使の派遣もあって、農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。朝廷はそれまでの氏姓制度を改め、公地公民制や統一的税制(租庸調制など)を施行し、地方行政機構を改組して中央集権化するなど、律令制の導入を図った。末期の701年には大宝律令が定められる。そして710年平城京遷都をもって大和時代は終わり、本格的律令国家の時代が始まる。

年代[編集]

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)

日本書紀では天皇の在位年数で年代を表している。しかし大和時代の天皇には異常な長寿が多いため、日本書紀の記載を正確な年代とみなすことには無理がある。そこで1世代を30年として単純計算する方法がある。実在が確実である推古天皇の即位が593年なので7世代前の応神天皇即位は古墳時代中ごろの4世紀後半になる。応神天皇陵、仁徳天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳大仙陵古墳は考古学的にも5世紀前半の築造とされている。また応神天皇や仁徳天皇の治世に即位したと日本書紀に記される百済王は、朝鮮半島正史である三国史記では4世紀後半から5世紀初めの王である。なお日本書紀の年代と三国史記の年代はこの段階で120年ずれている。日本書紀の年代を機械的に当てはめれば応神天皇即位は3世紀後半、その母親の神功皇后は3世紀中ごろの人物でなる。3世紀中ごろは魏志倭人伝に記される邪馬台国卑弥呼台与がいた時代であり、日本書紀の神功皇后摂政39年、40年、43年、66年に魏志倭人伝からの引用文がある。ただし邪馬台国や卑弥呼・台与の名は無く「倭の女王」とだけ書かれており、神功皇后と倭の女王を同じとする記述もない。

応神天皇を4世紀後半の大王だとしてさらに遡ると、その5世代前にあたる崇神天皇即位は3世紀中ごろとなる。古墳時代の開始期であり、天皇陵が大規模な前方後円墳に治定されるのも崇神天皇以降である。崇神天皇、垂仁天皇景行天皇成務天皇の陵に治定される行燈山古墳宝来山古墳渋谷向山古墳佐紀石塚山古墳は考古学的にも3世紀後半から4世紀前半の築造である。また3世紀中ごろは前述したように邪馬台国の卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女である倭迹迹日百襲姫命卑弥呼と同一視する説が根強い。百襲姫の墓に治定される箸墓古墳もまた3世紀中頃の築造とされる[1][2]。その近くにある纒向遺跡にもまた邪馬台国の中心地に比定する説があるが、元はと言えば垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。なお日本書紀の年代を機械的に当てはめれば崇神天皇即位は紀元前97年である。

崇神天皇を3世紀中ごろの大王だとしてさらに遡ると弥生時代末期になるため、歴史学的な証明は困難になる。陵墓も考古学的な考証に耐えうるものはなくなる。それでも敢えて年代を想定してみると、崇神天皇より前は十代に渡って親子間での皇位継承なので初代神武天皇即位は前1世紀ごろになる。ただ先代旧事本紀の地祇本紀、天孫本紀に書かれた神・豪族の系図からは神武天皇から崇神天皇までおよそ7~8世代ということが示唆されており、これを考慮に入れるならば神武天皇即位は1世紀ごろとなる。後漢光武帝から倭奴国金印漢委奴国王印?)が授けられた頃である。やや時代が下るが103年には倭国王帥升等が後漢に朝貢している。なお日本書紀の年代では神武天皇即位は紀元前660年であり、明治時代になって神武天皇即位紀元(皇紀)の元年とされた。戦時中の1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が催され、国威発揚に利用された。

あくまでもこれらの年代は大和時代の天皇が実在すると見なした上でのものであり、金錯銘鉄剣銘によって考古学上の実在が想定されうる雄略天皇より前の時代は伝説的なものである。

歴史[編集]

以下、日本書紀古事記における記述からなるべく神話的修飾を除いて記載する。

神武東征[編集]

日向国(南九州)にいた神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東に美しい国があると聞いて東征に出た。日向を出発し筑紫(北九州)へ向かい現在の宇佐市に着く。さらに安芸国広島県)、吉備国岡山県)、浪速国(大阪市)を経て河内国草香邑(大阪府東大阪市)へ至る。河内国北部・現在の大阪府東部は古代には河内湖という湖であり、ここまで船で来ることができた。さらに生駒山を超えて大和国へ入ったが現地勢力の抵抗にあって撤退を余儀なくされた。紀伊半島を回っている間に新宮市付近で嵐にあって船は大破、磐余彦は三人の兄をすべて失う。北上を余儀なくされた一行は熊野地方の豪族を下しながら大和国に再侵攻した。最終的に大和国の征服に成功した磐余彦は橿原宮で初代天皇として即位する(神武天皇)。しかしその後の天皇については九代にわたって具体的な実績の記録がないため、神武天皇を含めた初期天皇の実在は疑われている[3]。(欠史八代を参照)。

勢力拡大[編集]

第十代天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ、崇神天皇)については3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。御間城入彦は大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。また初めて戸口を調査して課役を科した。天下平穏となり御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる。この頃、朝鮮半島南端の任那(加羅)から蘇那曷叱知が派遣されたという。第十一代天皇の活目入彦(イクメイリヒコ、垂仁天皇)は河内国の池を始め、諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにした。相撲埴輪の起源もこの頃とされている。第十二代天皇の大足彦(オオタラシヒコ、景行天皇)は大規模な征服事業を行った。日本書紀によると大足彦は自ら九州に遠征して土蜘蛛熊襲を征伐した。子の日本武尊(ヤマトタケル)の伝説的な活躍もよく知られ、熊襲征伐に続いて東の蝦夷討伐も行った。しかし日本武尊は皇位を継ぐことなく遠征中に早世してしまう。第十三代天皇の稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)は地方行政機構の整備を図った。諸国に命じて行政区画である国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。さらに山河をもって国県を定めた。これは古事記序文でも触れられている。第十四代天皇の足仲彦(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)は日本武尊の子であり、父と同様に熊襲征伐を行ったが道半ばで崩御してしまう。天皇の遺志を継いだ皇后の気長足姫尊(オキナガタラシヒメ、神功皇后)は熊襲を完全に屈服させ、続いて海を渡って朝鮮半島へも侵攻した。朝鮮半島南部の百済新羅は日本へ朝貢するようになり、高句麗好太王碑にも「倭(日本)が百済・加羅・新羅を破り、臣民にしてしまった」とある。

文化流入[編集]

第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、応神天皇)は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、王仁弓月君阿知使主といった面々である。この頃に論語千字文、すなわち儒教漢字が伝わったと言われる[4]。第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国南朝)に遣いを送り、縫製の女工を求めてもいる。これは倭王「讃」の朝貢に比定されてもいる。大鷦鷯の子である第十九代天皇の雄朝津間稚子(オアサヅマワクゴ、允恭天皇)は諸氏族の氏姓の乱れを正す改革を断行した。雄朝津間稚子の子である第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、雄略天皇)は金錯銘鉄剣に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている[5]。大泊瀬幼武は即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくし、専制的な統治を行った。国内では吉備氏の反乱を制し、養蚕を推奨した。国外では高句麗に滅ぼされた百済を復興し、反抗的な新羅へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが倭王「武」の朝貢に比定されている。その後は皇族の少なさが祟り、第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、武烈天皇)の崩御をもって大鷦鷯天皇(仁徳天皇)以来の男系が絶えてしまう。

任那の混乱と仏教公伝[編集]

群臣によって第二十六代天皇に選ばれたのは誉田天皇(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった(継体天皇)。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し、圧迫を受けた加羅任那諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君磐井が反乱を起こす。磐井の乱が鎮圧されると任那には近江毛野が派遣されたが、傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。第二十九代磯城島天皇(欽明天皇)の頃にも任那を巡る様々な交渉が任那日本府を介して行われた。百済からの仏教公伝はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は562年に任那を滅ぼしてしまう。激怒した欽明天皇は新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。その後、百済から伝わった仏教を巡って物部守屋蘇我馬子が対立した。第三十代他田天皇(敏達天皇)は仏教を禁じたが、第三十一代橘豊日天皇(用明天皇)は仏教に帰依した。橘豊日天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き、崇仏派の蘇我氏が勝利して廃仏派の物部氏は滅ぼされた(丁未の乱)。以降約半世紀の間、蘇我氏大臣として権力を握った。第三十二代天皇と据えられたのは他田天皇、橘豊日天皇の異母弟である泊瀬部皇子だった(崇峻天皇)。しかしこの天皇は蘇我馬子と不和になり、592年に暗殺されてしまった。蘇我馬子は代わって額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇(推古天皇)である。

飛鳥時代[編集]

593年、炊屋姫天皇(推古天皇)は橘豊日天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とした。聖徳太子は603年冠位十二階604年十七条憲法を制定し、仏教の興隆に力を注いで天皇中心の国家体制作りを行った。607年には小野妹子らを大唐国()に遣わして皇帝に上表文(国書)を送った。620年には蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。628年に炊屋姫天皇が崩御すると田村皇子が第三十四代天皇として即位した(舒明天皇)。蘇我氏も馬子の子の蝦夷、孫の入鹿に代替わりした。643年、皇后の宝皇女が第三十五代天皇として即位(皇極天皇)。この頃から蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなど蘇我氏の専横が目立つようになった。645年乙巳の変で、葛城皇子(中大兄皇子)・中臣鎌子藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

第三十六代天皇として新たに即位した軽皇子(孝徳天皇)は646年改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。654年に天皇が崩御すると宝皇女が第三十七代天皇として再び即位(重祚して斉明天皇)。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したがその途中で天皇は崩御、中大兄皇子は白村江の戦い新羅連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。中大兄皇子は668年に第三十八代天皇として即位(天智天皇)。全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。

天皇が没すると弟の大海人皇子と息子の大友皇子(第三十九代弘文天皇)との間で672年壬申の乱が起こった。勝利した大海人皇子は第四十代天皇に即位(天武天皇)。都を宮を飛鳥浄御原宮に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。681年には律令の編纂を開始。686年に天皇が没すると皇后の鸕野讚良皇女が第四十一代天皇(持統天皇)に即位して事業を引き継いだ。689年飛鳥浄御原令を制定、690年には庚寅年籍が造られ、692年には公地公民制を基礎とした班田収授法を実施。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子に譲位して第四十二代天皇とする(文武天皇)。701年に大宝律令制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制、古代国家の完成である。天皇の死後、母の阿閇皇女が第四十三代天皇として即位(元明天皇)。710年平城京遷都して大和時代は終わる。

脚注[編集]

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  1. ^ 広瀬和雄『前方後円墳国家』角川書店<角川選書>、2003年7月。ISBN 4-04-703355-3
  2. ^ 白石太一郎『古墳とヤマト政権』文藝春秋<文春新書>、1999年4月。ISBN 4-166-60036-2
  3. ^ 直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8
  4. ^ 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
  5. ^ 『詳説 日本史図録 第5版』山川出版社、2011年、p. 29。

関連項目[編集]