蘇我蝦夷

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蘇我蝦夷
時代 飛鳥時代
生誕 不詳
死没 皇極天皇4年6月13日645年7月11日
別名 豊浦大臣
官位 大臣
主君 推古天皇舒明天皇皇極天皇
氏族 蘇我氏
父母 父:蘇我馬子、母:物部守屋の妹太媛
兄弟 蘇我善徳[1]蘇我倉麻呂
河上娘(崇峻天皇妃)
法提郎女(舒明天皇妃)
刀自古郎女聖徳太子妃)
蘇我入鹿物部大臣
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蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。

名称[編集]

日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人佐伯今毛人鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。

生涯[編集]

蘇我馬子の子で、母は物部守屋の妹・太媛

推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として田村皇子を舒明天皇として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王[2]がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。

舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また蝦夷の子・蘇我入鹿に紫冠(冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と擬し、弟を物部大臣とし、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど、自らを大王に擬する行為があった。一方で子の入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。『日本書紀』は、蝦夷はこの入鹿の行為を怒り、嘆いたと伝えている。

皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が殺害されると、蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。享年59。なお、『日本書紀』によれば、『天皇記』はこの時に失われ『国記』は船恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』巻第二十二、推古十八年(610年)の記事に朝廷の大夫(まえつぎみ)の一人として初めて現れる蘇我蝦夷の年齢は、『扶桑略記』の記述によると25歳となり、推古四年(596年)における蝦夷の年齢は11歳となる。『日本書紀』巻第二十二には、推古四年(596年)冬十一月に蘇我善徳が飛鳥寺(法興寺)の寺司(てらのつかさ、司長)になったことが記されている(法興寺造竟 則以大臣男善徳臣拝寺司)ことから、善徳が蝦夷の兄と推定されている(門脇禎二 人物叢書『蘇我蝦夷・入鹿』吉川弘文館 1977年) 。
  2. ^ 大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は『日本書紀』にはなく、単なる皇子とする者もいる

関連項目[編集]

公職
先代:
蘇我馬子
大臣
626 - 645
次代:
阿倍倉梯麻呂左大臣
蘇我倉山田石川麻呂右大臣