弓月君

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弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王とも称され、始皇帝の後裔とされている[1]

概説[編集]

日本書紀』による帰化の経緯としては、応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した[2]

弓月君はシルクロード通過点となる中央アジアの弓月国から百済(朝鮮半島)を経由して奈良の地へ来たとされている。 『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、始皇帝三世孫、孝武王の後裔であり、『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波多姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。

日本三代実録元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王始皇帝十二世孫である。(子の弓月君は十三世孫に相当。)

考証[編集]

弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献したとされている。

雄略天皇の御代では秦酒公が離散の流れのある中で一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。(詳細は秦氏を参照のこと。)

『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓秦韓)と呼ばれるようになったという記録がある。

『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。(弓月君の帰化の伝承は、この秦韓の歴史に関係するとも考えられてる意見もある。)

脚注[編集]

  1. ^ 熊田(1935,469)
  2. ^ 熊田(1935,469)

参考文献[編集]

関連項目[編集]