宝来山古墳

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宝来山古墳
Horai-yama Kofun, zenkei-2-2.jpg
墳丘全景
(左手前に前方部、右奥に後円部、右手前に湟内陪冢)
所在地 奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池
位置 北緯34度40分47.86秒
東経135度46分52.39秒
座標: 北緯34度40分47.86秒 東経135度46分52.39秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長227m(推定復原240m?)
高さ17.3m(後円部)
築造年代 4世紀後半
埋葬施設 竪穴式石室
(内部に長持形石棺
被葬者 宮内庁治定)第11代垂仁天皇
出土品 円筒埴輪・形象埴輪
指定文化財 宮内庁治定「菅原伏見東陵」
特記事項 全国第20位の規模[1]
地図
宝来山古墳の位置(奈良市内)
宝来山古墳
宝来山古墳
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垂仁天皇菅原伏見東陵 拝所

宝来山古墳(ほうらいさんこふん[2]/ほうらいやまこふん[3]、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇に治定されている。

全国では第20位の規模の古墳で[1]4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。

概要[編集]

奈良盆地北部、奈良市街地から西方の位置に築造された巨大前方後円墳である。北東方では五社神古墳佐紀陵山古墳などの巨大前方後円墳からなる佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群)の築造が知られるが、宝来山古墳や周辺の小円墳も佐紀古墳群南支群としてその古墳群中に含める説がある[2][4]。文献によれば、古墳はかつては「蓬莱山」とも称されたことや[5]嘉永2年(1849年)には盗掘があったことが知られる[4]明治以降は宮内庁により天皇陵に治定されているため、これまでに本格的な調査はなされていない。

墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成[2][4]。墳丘長は227メートル(一説に240メートル[3])を測るが、これは全国で第20位の規模になる[1]。墳丘表面では葺石埴輪の存在が知られる[6]。墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は330メートルにもおよぶ[6]。周濠の南東部は後世に拡張されているが、その際には外堤の一部が残され現在も小島として浮かぶ[6]。主体部の埋葬施設は、江戸時代の盗掘を記す史料によると竪穴式石室であり、内部には長持形石棺が据えられたと見られる[7][2][8][4]。出土品としては、宮内庁採集資料として円筒埴輪・形象埴輪(盾形・家形・靫形埴輪)等がある[4]

この宝来山古墳は、宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される[3]。奈良盆地北部での巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)に後続し、佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)・五社神古墳(伝神功皇后陵)に先行する築造順序に位置づけられる[3]。特に宝来山古墳の場合はヤマト王権の大王墓と目されるほか[3]、それまでの古墳と異なり、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される[9][10]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第11代垂仁天皇の陵に治定されている[5]

なお宝来山古墳の古墳域は、後世に営まれた平城京では右京の京域内に位置する[4]

来歴[編集]

規模[編集]

東から望む墳丘(右が後円部)

古墳の規模は次の通り[6]

  • 古墳総長:330メートル - 周濠を含めた全長。
  • 墳丘長:227メートル
  • 後円部 - 3段築成。
    • 直径:123メートル
    • 高さ:17.3メートル
  • 前方部 - 3段築成。
    • 幅:118メートル
    • 高さ:15.6メートル

墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされるが、同一水面での周濠としては初期事例になる[10]。ただし江戸時代の史料での周濠は左右対称に描かれる一方、現在の周濠の前方部側南東部は外側に大きく膨らんでおり、これは後世に灌漑のための拡張を受けたためとされる[4]。周濠内に浮かぶ小島(現在の湟内陪冢)は、元々の周濠外堤の一部と推測される[4]

なお、現在の周濠の水位は築造当時の水位より高くなっているとして、元々の墳丘長を240メートル程度と推測する説もある[3]

被葬者[編集]

垂仁陵・安康陵の陵名
垂仁天皇
(第11代)
安康天皇
(第20代)
Emperor Suinin.jpg Emperor Ankō.jpg
古事記 菅原之御立野中 菅原之伏見岡
日本書紀 菅原伏見陵 菅原伏見陵
続日本紀 櫛見山陵 伏見山陵
延喜式 菅原伏見東陵 菅原伏見西陵
現在 菅原伏見東陵
(宝来山古墳)
菅原伏見西陵

宝来山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第11代垂仁天皇の陵に治定している[12][13][14][15]。垂仁天皇の陵について、『古事記』[原 1]では「菅原之御立野中」の所在とあり、『日本書紀[原 2]では「菅原伏見陵」とある[14]。また『続日本紀霊亀元年(715年)条[原 3]では「櫛見山陵生目入日子伊佐知天皇陵」と記載し、守陵3戸を充てると見える[14]。『延喜式諸陵寮[原 4]では遠陵の「菅原伏見東陵」として記載され、兆域は東西2町・南北2町で、陵戸2烟・守戸3烟を毎年あてるとする[14]

以上のほか、『日本霊異記[原 5]では犬養宿禰真老が「諾楽(なら)の京の活目の陵の北の佐岐の村」に居住する旨が記されるほか[5][16]、『東大寺要録』雑事章では「菅原伏見野山陵」と記載される[14]

その後、江戸時代の元禄探陵では、奈良奉行所は分明陵として本古墳を垂仁天皇陵と報告しており(ただしかつては天武天皇皇子新田部親王墓に比定する説もあった)、これが現在に踏襲されている[14][4]。ただし、崇神天皇(第10代)陵や景行天皇(第12代)陵がヤマト王権の発祥地ともされる奈良盆地南東部に位置するのに対して、垂仁天皇陵が奈良盆地北部に位置するのは不自然であり、考古学的な築造順序も食い違うため、『古事記』・『日本書紀』・『延喜式』の時代にはすでに垂仁天皇陵自体の所伝に錯誤が生じていたとする説がある[17]。その説の中では、本古墳が垂仁天皇陵と想定された理由として、宝来山古墳付近を本貫とした土師氏と、垂仁天皇の埴輪説話との関係が指摘される[17]

なお『古事記』・『日本書紀』などでは、垂仁天皇陵と安康天皇(第20代)陵が類似する陵名で記載されており、その安康天皇陵を現陵(考古学的には中世の豪族居館跡か[17])ではなく宝来山古墳近くの兵庫山古墳(現在の垂仁天皇陵飛地い号:後述)に比定する説もある[4]

陪塚[編集]

湟内陪冢(伝田道間守墓)
飛地い号(兵庫山古墳)

本古墳の陪塚(陪冢)は定かでなく、考古学的には伴わなかったものと推測される[18]

宮内庁治定の菅原伏見東陵の陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所[15]。詳細はそれぞれ次の通り。

  • 湟内陪冢(伝田道間守墓、奈良市尼ヶ辻町字西池:位置
    宝来山古墳の墳丘南東の周濠内に浮かぶ小島。宮内庁により田道間守の墓に仮託される[15]。田道間守について、『日本書紀』・『古事記』ではその墓に関する記載はないが、『釈日本紀』所引『天書』逸文[原 6]では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬ったとする[5]。小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の『御陵図』に島の存在が描かれていないため、実際には後世の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測される[4]。ただし『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある[4]。現在は小島の対岸に拝所も設けられている[14]
  • 飛地い号(通称「兵庫山」、奈良市宝来町字堂垣内:位置
    宝来山古墳の北西約200メートルに位置する[4]。考古学名は「兵庫山古墳」[4]。直径約40メートルを測る大型円墳である[4]。江戸時代には牛頭天皇社があったほか、元禄期以後は安康天皇陵に考定する説も散見される[4]。古墳南側には平城京の三条大路が通るはずであり、三条大路はこの兵庫山古墳によって狭められたものと推測される[4]
  • 飛地ろ号(奈良市平松町字北内:位置
    宝来山古墳のくびれ部西方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]
  • 飛地は号(奈良市尼ヶ辻町字中谷(千手谷):位置
    宝来山古墳の南方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]
  • 飛地に号(奈良市尼ヶ辻町字馬田:位置
    宝来山古墳の前方部東方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]
  • 飛地ほ号(奈良市尼ヶ辻町字天王:位置
    宝来山古墳の後円部東方に位置する。内容は詳らかでない。
  • 飛地へ号(奈良市尼ヶ辻町字菅上:位置
    宝来山古墳の北東方に位置する。内容は詳らかでない。

以上のほか、宝来山古墳の後円部西方には削平された古墳跡(平松北内古墳)が認められており、溝の検出や、家形埴輪・鰭付円筒埴輪の出土があった[4]。そのさらに西方でも円形の地割が残っており、そちらも古墳(仮称:宝来塚垣内古墳)の可能性が指摘される[4]。また以上を総合して、宝来山古墳の周囲には従属的な小型古墳群が存在したとする説がある[4]

現地情報[編集]

所在地

交通アクセス

周辺

脚注[編集]

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原典

  1. ^ 『古事記』垂仁天皇段。
  2. ^ 『日本書紀』垂仁天皇99年12月壬子(10日)条。
  3. ^ 『続日本紀』霊亀元年(715年)四月庚申(9日)条。
  4. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。
  5. ^ 『日本国現報善悪霊異記』巻下 第15「沙弥の乞食するを撃ちて、以て現に悪死の報を得し縁」。
  6. ^ 『釈日本紀』巻10(述義6)所引『天書』逸文。

出典

  1. ^ a b c 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2016年6月20日更新版)。
  2. ^ a b c d 宝来山古墳(古代史) 2006年.
  3. ^ a b c d e f 白石太一郎 『古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)』 敬文社、2013年、pp. 188-199。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 今尾文昭 2014年, pp. 79-85.
  5. ^ a b c d 菅原伏見東陵(平凡社) 1981年.
  6. ^ a b c d 垂仁天皇陵古墳(古墳) 1989年.
  7. ^ 宝来山古墳(大和前方後円墳集成) 2001年.
  8. ^ 菅原伏見東陵(平凡社、刊行後版) 2006年.
  9. ^ 広瀬和雄 『前方後円墳の世界(岩波新書1264)』 岩波書店、2010年、p. 139。
  10. ^ a b 今尾文昭 2014年, pp. 88-89.
  11. ^ a b c 奈良市史 考古編 1971年, pp. 62-67.
  12. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  13. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
  14. ^ a b c d e f g 菅原伏見東陵(国史).
  15. ^ a b c 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、pp. 400-401。
  16. ^ 『新編日本古典文学全集 10 日本霊異記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 284。
  17. ^ a b c 森浩一 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 72-84, 93-94。
  18. ^ 今尾文昭 2014年, p. 15.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]