中臣鎌子

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中臣鎌子
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 鎌子大連公、鎌、賀麻連、黒田連?
主君 欽明天皇
氏族 中臣連
父母 父:中臣真人、母:波恵媛
兄弟 加沼連真若媛連
都夫羅古媛
勝海連磐余連黒田連?、常盤連
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中臣 鎌子(なかとみのかまこ)は、古墳時代豪族中臣氏仏教伝来に際して、これに強く反対した。鎌子の名を持つ中臣鎌足とは別人。

概要[編集]

欽明天皇13年(552年)、百済聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝する可否を群臣に求めた。大臣蘇我稲目は礼拝に賛成したが、大連物部尾輿と鎌子は反対した。天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させたが、間もなく疫病が起こった。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上した。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれた。

系譜[編集]

父は真人連、母は物部大前宿禰の娘である波恵媛で、塩屋牟漏連の娘である都夫羅古媛を娶って、常盤連磐余連を生んだとされるが[1][2]、これは鎌子連と黒田連を同一視した結果と見られる。一方「松尾社家系図」では真人連の子に黒田連を直接置く系譜を伝えている。

勝海連は磐余連または真人連の子ともされるが、真人連は継体朝の人物とされるため、年代的に見て鎌子連の子とする系図が正当であると見られる[3]。また磐余連は実際には勝海連の父ではなく弟であったと見られ、鎌子連の子は勝海連、磐余連の二人であったと考えられる[4]

脚注[編集]

  1. ^ 鈴木真年「中臣氏総系」『諸系譜』第三冊。
  2. ^ 中田憲信「荒木家系譜」『諸系譜』第三十三冊。
  3. ^ 宝賀寿男「三 欽明朝以降の中臣本宗家と鎌足の先祖たち」『古代氏族の研究⑤ 中臣氏 卜占を担った古代占部の後裔』青垣出版、2014年、56頁。
  4. ^ 宝賀寿男「七 月神を祀る種族」『古代氏族の研究⑤ 中臣氏 卜占を担った古代占部の後裔』青垣出版、2014年、141頁。

関連項目[編集]