栗山英樹

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栗山 英樹
野球日本代表 侍ジャパン 監督 #89
日本ハム監督時代
(2013年3月9日 阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都小平市
生年月日 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1983年 ドラフト外
初出場 1984年10月8日
最終出場 1990年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
栗山 英樹
生誕 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
日本の旗 日本東京都小平市
教育 東京学芸大学
職業 プロ野球選手
プロ野球監督
野球解説者
野球評論家
スポーツジャーナリスト
大学教授
活動期間 1984年 -
代表経歴 ヤクルトスワローズ選手(1984年 - 1990年)
テレビ朝日野球解説者(1991年 - 1993年、2001年 - 2011年)
TBSテレビ野球解説者(1993年 - 2000年)
TBSラジオ野球解説者(1993年 - 2011年)
スポーツニッポン専属野球評論家(1991年 - 2011年)
東京学芸大学講師
白鷗大学教授(2008年 - )
北海道日本ハムファイターズ監督(2012年 - 2021年)
日本代表監督(2021年 - )
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栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 - )は、東京都小平市[1] 出身の元プロ野球選手外野手、右投両打)、プロ野球監督。マネジメントは有限会社オフィスマリーン。

選手引退から監督就任までの間は、野球解説者スポーツジャーナリストのほか、白鷗大学教授としても活動していた。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務めた後、2021年に野球日本代表監督に就任した[2]。現在は北海道日本ハムファイターズプロフェッサー。

日本のプロ野球監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに栗山が史上初めてである[注 1]

経歴

プロ入り前

野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[3]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。

創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う[4]。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している[4]。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。

東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃して4年時には社会人・朝日生命へ内定[5]、その後プロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄[6]

ヤクルトスワローズ選手時代

1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。

さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは、5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲームに出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。

このオフには若松勉[注 2] が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[7]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301を記録した。

しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため長期入院を余儀なくされた。栗山は、いつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという[8]

結局、翌1987年ユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥ってレギュラーを外された。復活を期する栗山は、再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988年のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。

1989年には、開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治が1番に固定されると2番に回り、37犠打を記録した。シーズン序盤は攻守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、6月中旬にメニエール病の症状が再発すると打率が急降下した。そのため8月以降は先発を外れることもあり、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。なお、斎藤雅樹がプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成した同年7月15日の対巨人戦では、9回表二死で打席に立ち初球を一直に打ち取られ最後の打者となった。

しかし、メニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990年野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーの座を奪われた。それでも、途中出場となった4月7日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せたが、メニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため極度の不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。

栗山は、特別な才能に恵まれているわけではない自分にとっては、120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができなくなってしまった以上はプロ生活を続けられないと考え、この年限りで現役を引退した[9]

現役引退後

1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年、2001年 - 2011年)、TBSテレビTBSラジオ(1993年[10] 以降、テレビ解説は2000年まで[注 3])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。

2004年から白鷗大学助教授、2007年から准教授、2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[12]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鷗大学に籍を残している。

TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生

北海道栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。(後述参照)また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からは、HBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。

2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。

2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督古田敦也の引退により監督候補の一人として挙がったが、実現しなかった(最終的に高田繁が就任)

2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[13])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。

2011年11月3日、北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した[14]。契約期間は2年[14]。11月9日には就任会見が行われた。背番号は私淑する三原脩(元日本ハム球団社長)にあやかって「80」となった[15][16]

北海道日本ハムファイターズ監督時代

2012年
監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークス東北楽天ゴールデンイーグルス)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージでソフトバンクを無傷の4連勝(リーグ優勝チームのアドバンテージの1勝を含む)で降し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは2勝4敗で敗れ、日本一達成とはならなかった。日本シリーズ敗退後、栗山との確執が報道された投手コーチの吉井理人が退団した[17]。しかし、吉井は後に2016年から一軍投手コーチとして復帰し、2018年に退団。
2013年
2年契約の2年目だったが、キャンプ直前の1月25日に糸井嘉男がトレードでオリックス・バファローズに移籍が決まると、その翌日に球団は急遽、栗山と2014年までの契約延長を発表した。高卒1年目の大谷翔平を二刀流で起用し、話題を集める。大谷は打撃でも期待に応え、投手では3勝を挙げるなど投打で采配に応えた。陽岱鋼盗塁王(球団史上初)、新外国人のミチェル・アブレイユ本塁打王のタイトルをそれぞれ獲得し、4番の中田も初の3割を達成するなど明るい話題が多かったが、吉川が前年から成績を大きく落とし、前年オフに移籍した田中賢介や糸井の穴埋めができず、中田も骨折で終盤離脱するなど苦戦し、優勝した楽天に18.5差をつけられ、8勝16敗と大きく負け越し、西武に9勝15敗、千葉ロッテマリーンズに10勝14敗と上位3球団に負け越して、12年ぶり最下位でシーズンを終えた。チーム防御率は5位、失策はリーグワーストの88を記録した[18]。前述の通り契約延長により、2014年も指揮を執ることとなった。
クジ運が悪く、2013年10月25日のドラフト会議では、松井裕樹柿田裕太岩貞祐太を立て続けに外し続けた。なお、競合ドラフトの同日3連敗は、2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来となった。
2014年
大谷が日本プロ野球初の同一シーズンでの10勝10本塁打を達成し、抑えに武田久が離脱したことで増井浩俊を起用し、これが当たり増井は抑えに定着した。最終的にチームは3位となり、2年ぶりにクライマックスシリーズ進出を決めた。CSではファーストステージで2位のオリックスに2勝1敗で勝利し、ファイナルステージではソフトバンクと対戦したが3勝4敗で敗れた。
2015年
79勝62敗2分となり、リーグ優勝した2012年の勝率、勝利数を上回る好成績を残したが、この年のリーグ優勝チームのソフトバンクには12ゲーム差をつけられ2位となった。クライマックスシリーズでは、3位のロッテに1勝2敗で敗れた。
2016年
開幕から首位を独走したソフトバンクに一時最大で11.5のゲーム差をつけられながら、6月19日から7月11日まで球団新記録となる15連勝などで猛追。特に、監督就任からケガを除き一貫して4番打者として起用し続けた中田が不振に陥った際、6月27日の対西武戦では好機で中田に代打矢野謙次を送ったり、開幕から不調が続く守護神増井を8月から先発に転向させたりするなどの策を講じた。また、開幕から打撃が好調の大谷が先発投手の試合において、DHが使用できるパ・リーグ主催試合でありながら、スタメンに敢えてDHを使用せず「投手・大谷」を入れ(5月29日の対楽天戦など)、7月にマメの影響で大谷の登板が不可能となった際には、二軍降格ではなく指名打者として一軍に帯同させながら、9月の投手復帰に向けた調整をさせた。天王山となった9月21日、22日のソフトバンク最終2連戦では2連勝しマジックを点灯させると、9月28日の対西武戦に勝利し4年ぶりのリーグ優勝を果たした(最大11.5ゲーム差からの大逆転劇は、1996年の巨人が首位広島と最大11.5ゲーム差だったのを捲って以来2例目である)。クライマックスシリーズでもファイナルステージで2位のソフトバンクを4勝2敗で降し、4年ぶりに日本シリーズへの出場権を獲得した。そして、広島東洋カープと対戦した日本シリーズを4勝2敗で制覇し、球団としては10年ぶり3度目、自身としては初の日本一を獲得した。また、日本一を決めた第6戦は2009年に開場したマツダスタジアムで行われたため、同球場の初代胴上げ監督となった[注 4]。11月2日に1年契約を延長したことが発表された[19]
2017年
開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。4月に6連敗と10連敗を繰り返し、4月を最下位で終えた。5月3日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが交流戦初戦でDeNAに敗れて5位に転落してからは順位を上げることも出来ず、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに4勝18敗と大きく負け越した。それでも7月26日のロッテ戦で2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。8月に入ってからは、8月16日のロッテ戦で約2か月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、11勝10敗と5月以来の月間勝ち越し、9・10月も16勝13敗と勝ち越してシーズンを終えた。なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。最終順位は5位で2013年以来4年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。
2018年
二軍監督に栗山と現役時代ヤクルトで同僚だった(なお、荒木の結婚式の司会は栗山が務めた)荒木大輔が就任[20]。前年守護神を務めた増井がオリックスへ移籍したこともあり、新外国人のマイケル・トンキンを守護神に抜擢し、交流戦以降は4年目の石川直也を起用するなど投手陣を再編成し、西武との優勝を争い後半戦から失速したが、2年ぶりAクラスとなる3位でシーズンを終了した。クライマックスシリーズファーストステージでは2位・ソフトバンクに1勝2敗で敗退した。オフには、三塁手のブランドン・レアードが退団し、ロッテへ移籍した。
2019年
オリックスのエースだった金子弌大が加入。この年、開幕当初はオープナーを採用し、実際に加藤貴之堀瑞輝を、第2先発として金子を起用し、5月以降は本来の先発でも起用した。前半戦は2位で終えるも、8月以降は9連敗を喫するなど5勝20敗と大きく負け越し、9月は10勝10敗と5割だったが、8月の失速が響き5位に終わり、最下位のオリックスに15勝8敗2分と唯一の勝ち越しで交流戦も8勝9敗1分で残り、パ・リーグの4球団に負け越した。
2020年
開幕直後から低迷し、故障者の続出や外国人選手の不振など誤算、優勝したソフトバンクに20ゲームをつけられ、ソフトバンク戦は6勝17敗1分と大きく負け越した。栗山の采配については、週刊ベースボールに昨季から導入した「オープナー」が機能しているとは言えず、開幕から1割台に低迷している清宮幸太郎を最終戦までファームに降格させないなど、采配と育成のビジョンに疑問の声と指摘された[21]。失策はリーグワーストの75、捕逸もリーグワーストの13[22]、チーム防御率は2004年以来16年ぶりの4点台の4.02、チーム本塁打数は89本で2年連続となるリーグワーストタイとなった[23]。04年の北海道移転後では、球団史上初の2年連続Bクラスとなる5位に終わった。11月17日、畑佳秀球団オーナーに今季の報告を行った席上で続投を要請され、1年の契約延長で合意した。
2021年
就任10年目のシーズンは、中田の出場停止処分や主力選手の不振、選手・コーチの新型コロナウイルス感染症が大きく響き、またしても開幕から不振に喘いだ。そのまま最下位を独走し、8月25日の試合で日本ハムの自力優勝の可能性が消えると、9月25日の試合で日本ハムの自力CS進出の可能性が消えた。そして、10月16日に栗山が2021年シーズン限りで日本ハムの監督を退任することを発表した[24]。なお、最下位は脱出したものの、3年連続Bクラスの5位で終了。11月1日に退任に関する記者会見が行われ、感謝の意を述べた[25]

監督退任後

2022年からはテレビ朝日(テレビ朝日のみ本数契約、系列CS・BSを含む)ゲスト解説者を務める。 2022年4月1日、北海学園大学特任教授に就任したことが発表された。[26]

侍ジャパン監督時代

2021年11月30日、野球日本代表監督を務めることが発表された[27]

選手としての特徴・人物

選手として

俊足巧打のスイッチヒッター。外野守備のスペシャリストでもあり、1989年にはゴールデングラブ賞を受賞している[28]

人物

独身で、結婚歴は無い。先述のように学生時代には教職員免許を取得し、解説業や評論家を務める傍ら東京学芸大学や白鳳大学にて教員業に就いている。日本ハムの監督就任当初は実際の自宅は東京にありながらも、栗山町に生活拠点を置いていたが2015年中に正式に栗山町に自宅を構えた。木田優夫によると、野球道具を集める趣味で栗山町の家はその倉庫となってしまい、近くにもう一つ家を建てて住んでいるという。(後述の、栗の樹ファームを参照)

栗山は自称「原マニア」というほど原辰徳を尊敬しているとメディアなどで語っている。きっかけは栗山が東海大相模のセレクション受験時に、当時スターだった原から声をかけられたことだという[29]

日本ハムの監督就任後は、コミュニケーションの一環で大抵の選手を下の名前や愛称で呼んでいる[30]

敗戦後のインタビューでは度々「俺が悪い」と発言していた。

マスコミの前では敗戦時や大型連敗時でも個人批判や厳しい言葉を滅多に発さないが、ロサンゼルス・エンゼルスへ移籍した大谷には、マスコミの前でも厳しく苦言を呈することが度々あった。そこで「満足」してしまっては慢心がうまれ、より魅力的なプレーヤーになることができず、良い結果を出せなければ「二刀流」ひいては大谷自身に批判が集まるのは事理明白で大谷を批判し、新たな目標を提示できるのは立場上監督である栗山しかいないからであると述べている[31]。別のインタビューで栗山は、「オレが認めてしまったら、その瞬間に(大谷の)成長が終わってしまう怖さを感じている。だから、絶対に認めないし、心の底から『まだまだ』と思っている」と明かした。この厳しい姿勢は清宮にも向けているらしい[32]。しかし、大谷に対して厳しい言葉を発している一方で、裏では「体、大丈夫か?」と気遣いの言葉をかけており、大谷を守るために厳しくやっていたことを明かし、それは大谷も栗山の本心を理解しているはずだと思っている[33]

北海道胆振東部地震の影響で札幌ドームでの試合に影響が出ていた中、日本ハムのある選手は「本当に僕たちは試合をやっていいんですかね……」と被災者への申し訳なさを漏らした。すると栗山は「われわれは野球をやれることへの感謝を持ちながら野球をする使命がある。1人でも元気になってもらえるなら意味があるはず。その姿が大事。それが見せられないようならプロ野球球団が存在する意味がない」と言葉を紡いだ[34]

日本ハム監督時代に選手の間柄だった宮西尚生は「(栗山監督は)一言で言うなら、選手想い。絶対に選手を批判したりとか、信用をなくすとかはしない。ずーっと信用し続けてくれる。そういう監督でしたね。この監督のためなら、体がつぶれてでも投げたいと思える人でした」と語っている[35]

栗の樹ファーム

栗山は、苗字が同じということから、スポーツジャーナリスト時代の2002年北海道夕張郡栗山町に同町の市民らと協力して、少年野球場「栗の樹ファーム」を作った。栗山は自ら野球場を作りたいという考えを持ち、1999年に上映されたアメリカの映画「フィールド・オブ・ドリームス」に感銘し、自らの私財を投じて、全面天然芝の野球場や、ログハウスには、栗山のコレクションしている世界各地の野球関連グッズの展示コーナーを設けた[36][37]。ここでは飲み物の提供や、より野球や道具を身近に感じてもらえるようにという想いで、バットなど一部の道具は入館した一般人も手に取れるように選手名と背番号をともに表記し展示している。(なお、COVID-19の影響により2022年時点で休業しているため、従来のように展示品の観覧や手に取ることなどはできなくなっている。)普段の施設運営は一般の従業員が行っているが、栗山自身も現地にいる場合がある。

「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、日本芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した[38][39]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1984 ヤクルト 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1985 29 18 18 9 5 1 0 0 6 1 1 0 0 0 0 0 0 1 1 .278 .278 .333 .611
1986 107 258 239 34 72 5 0 4 89 14 8 5 9 0 4 0 6 26 0 .301 .329 .372 .701
1987 72 99 92 13 18 1 1 0 21 5 0 1 3 0 3 1 1 7 3 .196 .229 .228 .457
1988 90 370 338 33 112 11 4 0 131 17 7 5 20 0 7 0 5 33 0 .331 .354 .388 .742
1989 125 484 420 49 107 18 3 2 137 26 4 4 37 4 17 2 6 34 5 .255 .291 .326 .617
1990 69 109 96 15 22 0 1 1 27 4 3 0 10 0 2 0 1 7 3 .229 .253 .281 .534
通算:7年 494 1339 1204 153 336 36 9 7 411 67 23 15 79 4 33 3 19 108 12 .279 .308 .341 .649

年度別監督成績

リーグ公式戦



























2012年 日本ハム 1位 144 74 59 11 .556 - 90 .256 2.89 51歳
2013年 6位 144 64 78 2 .451 18.5 105 .256 3.74 52歳
2014年 3位 144 73 68 3 .518 6.5 119 .251 3.61 53歳
2015年 2位 143 79 62 2 .560 12.0 106 .258 3.62 54歳
2016年 1位 143 87 53 3 .621 - 121 .266 3.06 55歳
2017年 5位 143 60 83 0 .420 34.0 108 .242 3.84 56歳
2018年 3位 143 74 66 3 .529 13.5 140 .251 3.77 57歳
2019年 5位 143 65 73 5 .471 13.0 93 .251 3.76 58歳
2020年 5位 120 53 62 5 .461 20.0 89 .249 4.02 59歳
2021年 5位 143 55 68 20 .447 14.0 78 .231 3.32 60歳
通算:10年 1410 684 672 54 .504 Aクラス5回、Bクラス5回
  • 2021年度シーズン終了時
  • 順位の太字は日本一
ポストシーズン










2012年 日本ハム パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークスパ・リーグ3位) 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツセ・リーグ1位) 2勝4敗=敗退
2014年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
オリックス・バファローズ(パ・リーグ2位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出

ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
(※3)
2015年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) 1勝2敗=敗退
2016年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) 4勝2敗=日本シリーズ優勝
2018年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) 1勝2敗=敗退
  • ※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
  • ※2 アドバンテージの1勝を含む。
  • ※3 ディスアドバンテージの1敗を含む。

表彰

記録

初記録
その他の記録
監督としての記録
節目の記録
  • 500勝:2018年9月2日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(ZOZOマリンスタジアム)、3-2で勝利 ※史上30人目(球団史上3人目)[45]
  • 600勝:2020年8月15日、対千葉ロッテマリーンズ11回戦(ZOZOマリンスタジアム)、9-0で勝利 ※史上24人目(球団史上2人目)[46]

背番号

  • 46(1984年 - 1989年)
  • 4(1990年)
  • 80(2012年 - 2021年)

関連情報

著書

単著
共著
  • 『スポーツ新人類たちへ:軽やかにスポーツを語ろう:栗山英樹対談集』(ソニー・マガジンズ、1993年4月、ISBN 4789708020
  • 『栗山英樹のスポーツおもしろランド』シリーズ(保立浩司絵、小峰書店
    • 『スポーツと食べ物のひみつ』(1996年7月、第1巻)ISBN 4338134011
    • 『スポーツのうそ・ほんと』(1996年9月、第2巻)ISBN 433813402X
    • 『ためしてみよう!スポーツのふしぎ』(1996年11月、第3巻)ISBN 4338134038
    • 『うまくなるコツとひみつ 1:野球・陸上競技・バスケットボール編』(1997年1月、第4巻)ISBN 4338134046
    • 『うまくなるコツとひみつ 2:サッカー・バレーボール編』(1997年3月、第5巻)ISBN 4338134054
  • 『Get sports:テレビ朝日『ゲット・スポーツ』:野球を極める』(2003年5月、アスキー・コミュニケーションズ。南原清隆との責任編集)ISBN 4776200481
監修
  • 『言葉の魔球:野球名言集』(2005年10月、出版芸術社)ISBN 4882932849
  • 『わが子をプロ野球選手に育てる本:体・眼・心・食のスペシャリストが指導』(2005年10月、マキノ出版。立花龍司・真下一策・児玉光雄・海老久美子著)ISBN 4837670490
  • 『メジャーリーガーになれるか?!』(2008年7月、泉書房)ISBN 978-4-86287020-9
訳書

連載

出演番組

テレビ

解説者のみならず、スポーツ情報番組を主体に司会者としても活動した。

テレビ朝日ANN系列各局
長島三奈とともに、スタジオ司会と全国高等学校野球選手権大会各都道府県代表校への大会中取材を担当。
コメンテーター兼リポーター。長嶋とともに、全国高等学校野球選手権大会地方大会を随時取材していた。
TBSテレビ
  • JAPAN MAJOR BASEBALL(1993年 - 2000年。解説)
  • JNNニュースの森(プロ野球年末総括やシーズン前の順位予想で出演した)
  • JNNスポーツ&ニュース(1993年 - 1997年、メインキャスター。本人の歌う『天使というより魔法使い』がエンディングテーマに使われた)
  • オールスター感謝祭(1993年4月3日、1993年10月9日、1994年4月2日、1994年10月1日、1995年4月1日、1995年9月30日、1996年3月30日、1996年10月5日、1997年3月29日、1997年10月4日、1998年3月28日)
  • スポーツマンNo.1決定戦(第8回芸能人サバイバルバトルまでのメインリポーター)
NHK総合テレビ

ラジオ(特記ない限り、パーソナリティとしての出演)

TBSラジオ
HBCラジオ
FM NACK5
  • 栗山英樹 Dream Navigation(2000年4月 - 2011年12月)
  • 栗山英樹 NEXT INNING
  • サタデー・オン・ザ・ウエー
  • ハロー・サンシャイン
  • ゲット・ユア・ドリーム
  • 夢の翼に
各地のAM局
STVラジオ
  • 栗山英樹の野球場に行こう!(2012年2月5日 - 。毎月第1日曜19:00 - 19:30の『ぞっこんほっかいどうアワー』枠で放送)

CM

音楽

  • 「好敵手/それぞれの旅」(1992年7月25日・シングル)※2曲ともさだまさしの作詞作曲。
  • 『フォー・シーズンズ』(1993年9月26日・アルバム)

ゲームソフト

映画

脚注

注釈

  1. ^ 日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物で、リーグ制覇・クライマックスシリーズ制覇・日本選手権シリーズ制覇を達成したのも史上初である。
  2. ^ 翌年から打撃コーチ補佐兼任。
  3. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『ホームラン』2001年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)の解説者名鑑内で「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた[11]
  4. ^ 2016年まで、現在のマツダスタジアムでセ・リーグ優勝監督・CS制覇チーム監督の胴上げが行われたことは一度も無く、同球場での日本シリーズ開催は2016年が初めてであった。なお、2016年の広島のセ・リーグ優勝の胴上げは東京ドーム(9月10日の巨人対広島戦)で行われた。

出典

  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、204ページ
  2. ^ 【担当記者解説】栗山英樹氏が侍ジャパン新監督に選ばれた理由とは?”. 日刊スポーツ (2021年12月3日). 2021年12月5日閲覧。
  3. ^ a b 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』[要ページ番号]
  4. ^ a b 「栗山英樹 熱中甲子園」スポーツニッポン、2009年8月10日6面。
  5. ^ 東京中日スポーツ 1985年1月21日付
  6. ^ プロ不合格に幻の長嶋内閣入り。“日本一”栗山監督を作った2つの転機”. THE PAGE (2016年11月1日). 2017年5月26日閲覧。
  7. ^ 『1984ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1984年)36頁
  8. ^ 『栗山魂』130~133頁
  9. ^ 『覚悟』53頁
  10. ^ 『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。
  11. ^ 2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧 - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより
  12. ^ 経営学部 経営専攻紹介 教員紹介 教員紹介詳細”. 白鷗大学. 2011年9月4日閲覧。
  13. ^ 高野連、元プロ栗山英樹さんの取材に特例許可”. 読売新聞 (2009年8月3日). 2011年10月17日閲覧。
  14. ^ a b 栗山氏 日本ハム新監督就任 「責任をひしひしと感じている」”. スポーツニッポン (2011年11月3日). 2011年11月3日閲覧。
  15. ^ 栗山新監督が背負う!三原魔術の「80」(1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(2011年11月10日付記事)[リンク切れ]
  16. ^ 栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ! - デイリースポーツonline(2011年11月10日付記事)
  17. ^ 中日スポーツ:ハム激震 吉井投手コーチも退団 栗山監督との確執が原因 2012年11月5日
  18. ^ 週刊ベースボール、2013年12月30日号、p54-p55
  19. ^ 栗山英樹監督契約延長のお知らせ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2016年11月2日配信
  20. ^ “日本ハム・荒木2軍監督、来季から1軍投手コーチ就任へ!投手陣の再建と整備担う”. サンケイスポーツ. (2020年11月29日). https://www.sanspo.com/article/20201129-K5DPAEQXTFLFLEHF5OZJ4FN5AU/ 2020年12月1日閲覧。 
  21. ^ 【12球団監督採点簿】最高得点は工藤監督、最低得点の監督は誰?”. 週刊ベースボールONLINE (2020年11月30日). 2021年12月5日閲覧。
  22. ^ “2020年度 パシフィック・リーグチーム守備成績”. NPB. (2020年12月1日). https://npb.jp/bis/2020/stats/tmf_p.html 2020年12月1日閲覧。 
  23. ^ 日本ハム栗山監督正式続投「もう1回丸裸になって」|日刊スポーツ”. 日刊スポーツ. 2020年11月17日閲覧。
  24. ^ 栗山英樹監督退任のお知らせ”. 北海道日本ハムファイターズ (2021年10月16日). 2021年10月16日閲覧。
  25. ^ 栗山英樹監督が退任会見”. 北海道日本ハムファイターズ (2021年11月1日). 2021年11月2日閲覧。
  26. ^ 侍ジャパン監督 栗山英樹氏が特任教授に就任” (2022年4月1日). 2022年4月2日閲覧。
  27. ^ 日本放送協会 (2021年11月30日). “野球日本代表 前日本ハム監督 栗山英樹氏の監督就任 正式決定”. NHKニュース. 2021年12月1日閲覧。
  28. ^ 日ハム新監督・栗山英樹氏 守備別グラブ選びの極意を語る”. NEWSポストセブン (2011年12月5日). 2021年9月28日閲覧。
  29. ^ 【日本ハム】栗山監督、自称「原マニア」原辰徳氏を祝福「オーラが光として見えた」”. スポーツ報知 (2018年1月16日). 2022年11月7日閲覧。
  30. ^ 栗山監督「ヒロミは岡ちゃん」ドラ1伊藤をヒロ呼び”. 日刊スポーツ (2021年1月19日). 2021年9月28日閲覧。
  31. ^ なぜ栗山監督は大谷に厳しいのか SHIGEFIKA PONDAN.2016年10月12日
  32. ^ 「そんなことでは褒めません」――日ハム栗山監督の清宮指導はなぜ厳しい? Full-Count
  33. ^ 大谷、厳しい言葉の裏で栗山監督が守ってくれた「本心は理解しているつもりです」 日刊スポーツ.2017年12月26日
  34. ^ ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 p.109.
  35. ^ 【日本ハム】14年連続50試合登板の宮西尚生 栗山監督は「体がつぶれてでも投げたいと思える人」”. スポーツ報知 (2021年10月26日). 2021年11月5日閲覧。
  36. ^ 栗の樹ファーム公式サイト(スポーツニッポン内)
  37. ^ 日本ハム・栗山監督 「栗の樹ファーム」から始まった10年間の歩み 「ここに来ていなければ…」 2021年10月27日 スポニチアネックス
  38. ^ 第2回(平成21年)日本芝生文化大賞受賞コメント”. 日本芝生学会. 2021年11月5日閲覧。
  39. ^ 2009年度日本芝生文化大賞についての報告”. 日本芝生学会. 2022年11月7日閲覧。
  40. ^ “栗山監督に正力賞「本当におこがましい。辞退したいくらい」”. スポニチアネックス. (2016年11月18日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/18/kiji/K20161118013745000.html 2016年11月18日閲覧。 
  41. ^ 2011年 第46回テレビ朝日ビッグスポーツ賞” (PDF). 2017年7月27日閲覧。
  42. ^ テレビ朝日『第47回 ビッグスポーツ大賞』ワールドプロレスリング賞にオカダ・カズチカが受賞!”. 新日本プロレスリング (2013年1月19日). 2017年7月27日閲覧。
  43. ^ 大谷が萩野公介、ベイカー茉秋らと「同世代トーク」”. Full-Count (2017年1月13日). 2017年7月27日閲覧。
  44. ^ 北海道命名150年 「キタデミー賞」、最優秀作品賞は「北海道」、主演男優賞に「ヒグマ」 | AdverTimes(アドタイ) by 宣伝会議”. AdverTimes(アドタイ)宣伝会議が運営する、広告界のニュース&情報プラットフォーム. 2021年5月13日閲覧。
  45. ^ “栗山監督500勝 大沢、水原に次ぐ日本ハム歴代3位”. 日刊スポーツ. (2018年9月3日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201809030000333.html 2021年4月24日閲覧。 
  46. ^ “日本ハム栗山監督600勝 選手第一主義貫き9年”. 日刊スポーツ. (2020年8月15日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202008150001017.html 2021年4月24日閲覧。 
  47. ^ サンケイスポーツ (2014年7月3日). “テレ朝系SPドラマで栗山監督、美姫さん、工藤氏が友情競演!”. 2014年7月3日閲覧。
  48. ^ 参考:栗山英樹氏のサインボールをゲット!『ワースタ5』発売記念キャンペーン! - 『電撃オンライン』2001年4月25日付
  49. ^ 第一三共ヘルスケアホームページ内に掲載されていた、CM情報 - インターネットアーカイブ2008年9月17日付保存キャッシュ

参考資料

関連項目

外部リンク