エフゲニー・プルシェンコ

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オリンピック
フィギュアスケート
2006 男子シングル
2002 男子シングル
エフゲニー・プルシェンコ
Evgeni Plushenko
2005年ロシア選手権のエフゲニー・プルシェンコ
基本情報
代表国: ロシア ロシア
生年月日: 1982年11月3日(26歳)
出生地: ソーネチヌイ
身長: 178 cm
体重: 72 kg
コーチ: アレクセイ・ミーシン1993年 - )
元コーチ: ミハイル・マコヴィーエフ(1987年 - 1993年)、タチアナ・スカラ(1987年 - 1991年
振付師: エドワルド・スミルノフ、ユーリ・スメカロフ、ダヴィド・アヴディシュ
元振付師: エフゲニー・セレジュニコフ、キリル・シモノフ、アレクセイ・セミョーノフ、ワレリー・ミハイロフスキー、セルゲイ・ペトゥホフ
所属クラブ: Yubileyney Sport Club
ISU パーソナルベストスコア
トータルスコア: 258.47 2006 トリノ五輪
ショートプログラム: 90.66 2006 トリノ五輪
フリースケーティング: 167.81 2006 トリノ五輪

エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコロシア語: Евгений Викторович Плющенкоラテン翻字: Evgeni Viktorovich Plushenko1982年11月3日 - )は、ロシア男性フィギュアスケート選手。サンクトペテルブルク立法議会(市議会)議員でもある。ロシア人名愛称ではジェーニャ。なお、ロシア語の発音では「イヴギェーニイ・ヴィークタラヴィチュ・プリューシンカ」が近い。

2006年トリノオリンピック男子シングル金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック男子シングル銀メダリスト。2001年2003年2004年世界選手権優勝。欧州選手権5度、グランプリファイナル4度、ロシア選手権7度優勝。ロシア連邦スポーツマスター

目次

人物

生い立ち

1982年11月3日ロシア極東ハバロフスク地方の町ソーネチヌイСолнечный)で大工の父ヴィクトルと母タチアナの長男として生まれる。6歳上に姉エレナがいる[1]。両親は出稼ぎの鉄道建設労働者で決して裕福とはいえない家庭だったが、家族の絆は強く、特に母親とは大変深い愛情で結ばれている。

プルシェンコは生まれた時、身長が57センチメートルもあったが体重は2,900グラムしかなかった。とても早い時期から歩き始め、生後9か月になると走り出すなど運動神経の発達した子供だった。言葉を発したのも早く両親を喜ばせたが、虚弱体質だったため時として零下40℃にもなるシベリアの過酷な気候に耐えられず病院への入退院を繰り返し、ついに重い肺炎に罹り数ヶ月の入院生活を送った。治療の甲斐なく一向に熱が下がらない息子の健康を案じた両親は1985年の夏にプルシェンコ家の故郷で気候の温暖なロシア南西部のヴォルゴグラードへ戻ることを決断する[2]

その地で4歳になったプルシェンコは、体質改善のためとダンサーだった祖父の影響もありフィギュアスケートとロシア民族舞踊[3]を習い始めた。当初はレッスンに通うためトロリーバスに乗っても、三駅と進まないうちに具合が悪くなり何度も途中下車しては母親を心配させたが、二つを続ける内に体は鍛えられていき以前のようにすぐに入院する事はなくなった。学校でもじっと座って居られず授業中も動き回りいたずらをするような活発な子供になった。6歳頃になるとどちらの分野でも才能があることが認められ、民族舞踊の教師は「フィギュアスケートをやめ舞踊に専念しなさい」と言い、フィギュアスケートの教師もまた「民族舞踊をやめフィギュアスケートに専念しなさい」と言い、彼のレッスンの時間を取りあった。プルシェンコは自らの意思でスケートを選んだ[2]

選抜チームにも入り順風満帆だった1993年ソ連崩壊の煽りを受け地元に一つしかないスケートリンクが閉鎖される。両親はこれを機に息子に普通の小学生の暮らしをさせようと考えたが、当時のコーチであるミハイル・マコヴィーエフは将来を嘱望される才能が埋もれることを惜しみサンクトペテルブルクアレクセイ・ミーシンの元へ行くよう勧めた。まだ幼い我が子を手放したくない両親は猛反対したが、マコヴィーエフは「これは最早あなた方の問題ではない。ジェーニャはチームロシアに入る人間だ。あなた方が彼の運命を決めることは出来ない」と強く説得。両親はまた息子のスケートへの情熱を知り、彼をミーシンに託す事に同意した。

サンクトペテルブルクでは当初子供が一人で暮らすには不適当な酷い環境で生活した。見かねたミーシンは自分のアパートや自宅にプルシェンコを住まわせた。それまでの栄養状態が悪かったこともあり体格が悪かった当時のプルシェンコの印象を、ミーシンは「痩せっぽちのチキンのようだった」と語っている[4]。約1年後に母親が地元での仕事を辞めペテルブルクに移ってからは、父親からの仕送りやスケート連盟からの月60ルーブルほどの補助費、ミーシンからの衣食住に亘る援助を頼りに二人で暮らし始める。しかし大都市での生活は厳しくある時には母子で空き瓶を集め売り糊口をしのいだほどだった。

17歳になるとかねてより貯めていた賞金を使い家族で暮らすためのマンションを購入。離れて暮らしていた父親と姉夫妻をヴォルゴグラードから呼び寄せ、以後は一家の大黒柱となった。

このような生い立ちながらも本人は至って明るく陽気な性格で知られる。アイスショーエキシビションでは女装[5]着ぐるみ[6]でパフォーマンスを見せたり、トム・ジョーンズの"Sex Bomb"に合わせ、偽の筋肉が縫い付けられた肌色の襦袢と金色のビキニブリーフだけという滑稽ないでたちでストリップダンスを披露するなど[7]、奇抜な演技も楽しげにこなす。アイスショーの仲間である荒川静香は、プルシェンコを「15歳くらいの少年みたいで対応に困る絡み方(いたずら)をしてくる」と評している。

また自身が子供時代に苦労したためか、後進の育成や地方のフィギュアスケート環境の整備にも力を注いでいる。トリノオリンピック後には1993年に閉鎖された故郷のスケートリンク再建のため尽力し、かつてのコーチを再び指導者として招き入れた。2008年末にはアルメニア共和国の首都エレバンに、現地の国家予算から3割の資金援助を受け運営される私立のフィギュアスケートアカデミーを開設することを発表[8]。その他、国際的に低迷しているロシアの男子シングルの現状を憂慮しているとも伝えられる。

政治・ビジネスへの関心

愛国心が強くロシア連邦軍陸軍将校でもある。階級は中尉自衛隊では二等陸尉に相当)。

政治にも関心を示しており、2007年3月にサンクトペテルブルク立法議会選挙に中道左派の第四党公正ロシア・祖国・年金・生活党から出馬し当選。7月には2014年冬季オリンピックソチへの招致運動にも積極的に参加し開催地決定に貢献した。ただし2009年現在は競技復帰にあたって議員活動が妨げになるとして議会へは殆ど出席しておらず、党内外から批判の声もあがっている。

ホテルチェーン経営にも興味を持っており、2008年9月には観光ビジネスの学位を取得した。

趣味

コンピューターゲームバレエなど。刃物ジュエリーの蒐集にも凝っていたが、最近はファッション時計に興味が移行した。お気に入りのファッションブランドプラダヴェルサーチアバクロンビー&フィッチドルチェ&ガッバーナグッチルイヴィトンなど(数年前情報)。

コンピューターゲームはプレイステーションのサッカーゲームがお気に入りで、クラブチームではゼニト・サンクトペテルブルク、ナショナルチームの場合はウクライナ代表ロシア代表を選ぶ。

バレエは11歳頃にフィギュアスケートのために始めた。師事していたマリインスキー・バレエ振付師から「フィギュアスケートの代わりにバレエをやらないか」と誘いを受けたこともあるが、これは母親と相談して悩んだ末に断った[1]。好きな演目は「くるみ割り人形」と「ジゼル」。

また、アイスホッケーサッカービリヤードテニスなどスポーツ全般を愛好。テニスは息子2人がプレーヤーであるミーシンから手ほどきを受けた。サッカー好きでも知られショーの最中には共演者たちと草サッカーに興じている姿も見られるが、子供の頃はその荒っぽさが嫌であまり輪には入らなかったという。

その他、ロシア式サウナバニャを始め風呂をこよなく愛しており、ミーシンとはプライベートでも裸の付き合いをしている。アイスショーや合宿などで海外遠征した際には現地のサウナへ足を運ぶことも多く、日本にも行きつけのサウナがある。

好きな食べ物はフライドチキンイチゴチーズケーキ[9]アイスクリーム、母親が作ったボルシチペリメニ寿司

ペット

ゴールデンという名前のアメリカン・ブルドッグヨークシャー・テリア、ホワイトローズという名前のブリティッシュ・チンチラを飼っている。特にこの2007年末に飼い始めた雄猫にはプーフリク(「丸く膨れてふわふわした」というような意味)という愛称をつけ溺愛しており、記者会見で言及したり自身のサインにイラストを描くこともある。また以前にもラーリャという名のペルシャ (ネコ)を飼っており、ペルシャ猫愛好家と見られている。

信仰

かなり敬虔な正教会信徒で6歳頃両親に懇願し自らの希望で洗礼を受けた。サンクトペテルブルクの聖堂で礼拝していた姿もよく目撃されているが、信仰については「個人的なこと」として語ることは殆どない。

交友関係

ペアアントン・シハルリドゼアレクセイ・ティホノフアイスダンスロマン・コストマロフアクロバット男性ペアのアレクセイ・ポーリシュクらと仲が良い。

女子シングルではイリーナ・スルツカヤと子供の頃から大変仲が良く、一時期は恋愛関係のゴシップまで出たほど。サーシャ・コーエンとは文通していた。

男子シングルでは親しい友人はいないとも発言しているが、アレクサンドル・アブトヴィクトール・ペトレンコバフタン・ムルバニゼとは長い付き合いがある。

幼くして選抜チームやミーシンの門下に入ったため年上のスケーター達から嫉妬され激しいいじめを受けていたプルシェンコを庇った唯一の年長者がアブトだった。そのため少年時代のプルシェンコはアブトを慕っており、現在も友好的関係にある。

オリンピックで二度のメダルを手にしたペトレンコには幼い頃から憧れを抱いており、ヴォルゴグラードのリンクが閉鎖された際には、彼のコーチであるガリーナ・ズミエフスカヤの門下生になる事を望んだ。しかし実家の経済状況のためこれは断念した。そういった事もあり、ペトレンコと初めて知り合った時には緊張のあまり満足に話せなかったほど。14歳の時にはペトレンコに勝利してしまいショックを受け動揺、そんなプルシェンコにペトレンコは祝福の言葉をかけ励ましたという。このエピソードは何度もプルシェンコ自身の口から語られており、今なおペトレンコを尊敬し続けている事を窺わせる。

若手ではチェコトマシュ・ベルネルアメリカジョニー・ウィアーらがプルシェンコに憧れている事を公言しており、ショーでの共演を通じて良好な関係を築いている。

同郷のペアスケーターマキシム・マリニンは同じマコヴィーエフコーチに師事していた幼馴染だった。マリニンは1993年まではシングル選手だったが、5歳年下のプルシェンコに敗れたことが決定打となりペアに転向。その後も友好的な関係を築いていたが、トリノ五輪後のプルシェンコ主催のアイスショーの契約に関してトラブルを起こし、現在は不仲。

2003/2004シーズン以降プログラムの作曲をハンガリーヴァイオリニスト作曲家エドウィン・マートンに依頼しており、エキシビションアイスショーではマートンの生演奏に合わせて演技をする事が多い。プライベートでも大変仲が良い。

元兄弟子で現役時代に激しい火花を散らしたアレクセイ・ヤグディンとは長年の確執が噂される。アメリカメディアからの「(同じミーシンコーチの元で)ヤグディンと一緒に練習していたとき、彼から学んだことは何かありますか?」という問いに対し、プルシェンコが「Nothing!(何もない)」と答えたのは有名。両者はともに自伝の中でこの良好とは言いがたかった関係について言及しているが、インタビューでは「ライバル関係以外の険悪なものは無かった」とも発言している。それを裏付けるように2006年以降、韓国のスケートリンクで発生した火災を背景に二人で記念写真を撮る姿や、来日時のショーの合間に草サッカーに興じる姿、大型家電量販店浅田真央の真似をしてふざけている二人の姿がメディア掲載されている。

コーチのアレクセイ・ミーシンの事は、門下に入った11歳のときから現在に至るまで敬慕している。コーチとしては勿論、少年時代に単身サンクトペテルブルクへやって来たプルシェンコの保護者となったのがミーシンだった。彼は困窮を極め酷い環境で一人生活するプルシェンコを金銭的に援助し、父親代わりに社会のルールやあらゆる事を教え、母親と暮らせるように環境を整えた。こういった事もありプルシェンコはミーシンを「第二の父親」と呼んでいる。

私生活

2005年6月18日サンクトペテルブルクの著名な実業家の娘マリア・イェルマークと結婚。翌2006年6月15日には体重3,450グラム、身長52センチメートルの長男が誕生する。当初クリスチアン・エヴゲーニイヴィチ・プリュシチェンコ(Кристиан Евгенийвич Плющенко)と名付けられたこの男児は、後にマリアの独断によりイェゴールと改名された。マリアとの夫婦関係は結婚後約半年で既に破綻しており、2008年1月には正式に離婚が成立した。

現在はロシアの人気歌手ジーマ・ビラーンのプロデューサーヤナ・ルドコフスカヤと交際中。ルドコフスカヤの元夫はモスクワ市長ユーリ・ルシコフの義兄でInteco社社長エレーナ・バトゥーリナの実兄ヴィクトル・バトゥリン。ルドコフスカヤはバトゥリンとの間に親権や名誉毀損に関する裁判を複数抱えている。

2008年5月にはビラーンとルドコフスカヤのためバックダンサーとしてユーロビジョン・ソング・コンテスト2008に参加。ロシアチームの優勝に貢献した。

経歴

幼少期

1987年2月25日、4歳の時フィギュアスケートを始める。2ヶ月後には初めての試合に出場、15人中7位に入る。7歳の時にサマーラで行われたノービス以下を対象とした競技会クリスタルスケートで初優勝。この頃から既に関係者の注目を集めており、9歳頃には年長者に混じって選抜チームに選ばれていた。このためプルシェンコはソビエトシステムが生んだ最後の遺産と呼ばれることもある。1993年の春に高名なコーチであるアレクセイ・ミーシンを頼り、11歳にして単身サンクトペテルブルクへ移住。

ジュニア

当時ミーシンのチームは1994年リレハンメルオリンピックで金メダリストとなるアレクセイ・ウルマノフや、後に激しいライバル対決を繰り広げる事になるアレクセイ・ヤグディンも師事しているエリート集団だった。しかしプルシェンコはここでも頭角を現し、13歳になるとシニアの大会にも参加するようになる。初出場した1996年世界ジュニア選手権1995年11月開催)では6位入賞を果たす。翌年の1996年11月、14歳になった直後の1997年世界ジュニア選手権では史上最年少で優勝した。

シニア

1997/1998シーズンからはシニアに本格参戦しISUグランプリシリーズスケートアメリカロシア杯、また欧州選手権でも初出場で2位になるなど大健闘。イリヤ・クーリックの棄権により急遽初出場することとなった1998年世界選手権では、弱冠15歳にして表彰台に乗り史上最年少メダリストとなるなど華々しいデビューを飾った。

1998/1999シーズンからは主要な競技会で優勝を重ねるようになり、1999年世界選手権では前年度より1つ順位を上げ2位になる。

だが破竹の勢いで迎えた1999/2000シーズンの世界選手権、プルシェンコはショートプログラムで2位につけつつフリーで大崩れし4位に終わった。

2001年世界選手権では前回王者のヤグディンを抑え初優勝、その他のタイトルも総なめにした。

勢いはこのまま続くかと思われたが、2001/2002シーズンのグランプリファイナルでヤグディンに敗北すると、これに危機感を抱いたプルシェンコチームは急遽フリープログラムビゼーカルメンに変更。約1ヵ月後に迫ったソルトレイクシティオリンピックのため猛練習を重ねプログラムを完成させる。しかしプルシェンコはこの練習により右足首を負傷した。迎えたオリンピック本番ではショートプログラム冒頭の4回転トウループで転倒し、4位でフリースケーティングに臨むこととなった。自力優勝の可能性が消え背水の陣で臨んだフリーでは、4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループという超高難易度のコンビネーションジャンプに挑戦(3つ目のループはステップアウト)、また3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップというこちらも超高難易度のシークエンスジャンプを成功させるなどして追い上げ2位に浮上、銀メダルに輝く。直後の2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場した。

2003年に常に表彰台の1位と2位を争っていたライバルのヤグディンが引退すると、2003年世界選手権2004年世界選手権を2連覇。独走態勢に入る。ただし2004年グランプリファイナルでは、当時のルール下は2回までと決められていたコンビネーションジャンプを3回飛ぶという回数制限違反を犯し、まさかの準優勝となった。

2003年夏に出演した日本のアイスショーで氷の溝にはまり半月板を損傷して以来、故障に悩まされてきたが、自国開催の2005年世界選手権では、ショートプログラムを終えた後かねてより痛めていた股関節の状態も悪化したため棄権。その後ドイツで鼠径ヘルニアの手術を受ける。これ以後、デビュー以来プルシェンコのトレードマークとなっていたビールマンスピンは封印された。

万全とは言えない体調で迎えた2006年トリノオリンピックでは、ショートプログラムで90点台をマークし、2位に10点以上の差をつけ首位に立った。フリースケーティングでも4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループを始めとする殆どの技を成功させ、出場選手の中でただ一人160点台をマーク。総合得点で2位に30点近い大差をつけるなど、圧倒的な実力で金メダルを獲得した。

1995/1996シーズンから現在までに計76の競技会に参加して優勝50回、準優勝14回、3位4回、4位4回、5位1回、6位2回。最も悪い成績は13歳で参加した1996年フィンランディア杯の7位、最後に表彰台を逃したのは17歳で参加した2000年世界選手権の4位。

休養と復帰

2006/2007シーズンは競技には出場せず休養することを宣言。この年からアイスショーを活動の中心に移す。

2007/2008シーズンには競技への復帰を発表し、2007年7月に以前から痛めていた膝の半月板除去手術を受けた。11月からはコーチのミーシンらと本格的な訓練を開始したが、術後の経過が思わしくなかったためこのシーズンの復帰は断念。ショーを中心に活動した。

2008年夏には膝の再手術が予定されていたが、血液循環の治療が一定の効果を上げた事と、復帰がずれ込むことを危惧したため回避。6月から8月までミーシンチームのサマーキャンプに帯同し、フィジカルトレーニングを中心に最新の採点基準に合わせた技術習得に励んだ。8月にはロシアスケート連盟のテストスケートに臨んだ。今後も2010年バンクーバーオリンピックを目標に調整を続ける予定。

スケート技術

演技

2004年世界選手権まで使用されていた旧採点方法式で満点にあたる「6.0」を最も多く獲得した選手である。16歳で初めての6.0を出して以来(1998年NHK杯:男子最年少記録)、新採点方式に移行するまでに技術点で5つ、表現力では70、計75もの満点を獲得した。

新採点システム移行後も演技構成点の諸要素で8点台をほぼ毎回マークしている。

ジャンプ

7歳で初めてのトリプルジャンプを降り、13歳までにアクセルを含む6種類の3回転ジャンプを修得。初めて4回転を降りたのは14歳で、試合に4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションを入れるようになったのは15歳から。「4回転からの3連続コンビネーションジャンプ」を武器としていた。

  • 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させ(1999年NHK杯)、現在までにISU公式競技会で20回近くと、最も多くの『4回転からの3連続コンビネーションジャンプ』を成功させた選手である。
  • 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた選手でもある(2002年ロシア杯2003年グランプリファイナル第2フリースケーティング、2003年世界フィギュアスケート選手権予選)。2008年11月現在、彼以外にISU公式競技会でこのコンビネーションを成功させた選手はいない。
  • その他にも世界で初めてISU公式競技会で3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップと(2002年ソルトレイクシティオリンピック)、4回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた(2004年グランプリファイナルフリースケーテイング)。
  • トウループ以外にも2004年のロシアンカップ第2ステージ・サマラ大会で4回転サルコウを成功している。また練習で5種類の4回転ジャンプを成功させている選手の一人でもあり、2001年ロシア杯フリースケーティングでは4回転ルッツに挑戦したが転倒。
  • エキシビションなどで4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループ-2回転ループ(2001年世界選手権)、3回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループ-2回転ループ(2005年ARD Gala)、3回転-3回転-2回転-2回転-2回転-2回転(欧州選手権2006年ロシア選手権)を披露したこともある。

スピン

フィギュアスケートを始めて間もない頃、プルシェンコはテレビでデニス・ビールマンの演技を目にし言葉に出来ないほどの衝撃を受けた。彼は母親と共にストレッチを始め、ついにビールマンスピンとビールマンスパイラルを自分の技術にした。女子より一般的に筋肉量が多く体が硬い男子、とりわけシニアでこの技を取り入れたのはプルシェンコが初めてだった。しかし2005年に背中の手術をしてからは、この珍しい技術は封印されている。

ドーナツスピンを演技に取り入れた最初の男子選手でもある。こちらもビールマン同様に高い柔軟性を要する技術のためシニアの男子で行う選手は殆どいない。

ステップ

トリノオリンピックのショートプログラムサーキュラーステップでは、驚異的な速さと細やかなエッジワークで最高難度のレベル4(GOE加点2.14)を獲得した。

主な戦績

大会/年 95-96 96-97 97-98 98-99 99-00 00-01 01-02 02-03 03-04 04-05 05-06
冬季オリンピック 2 1
世界選手権 3 2 4 1 1 1 棄権
欧州選手権 2 2 1 1 1 2 1 1
ロシア選手権 6 4 3 1 1 1 1 1 1 1
GPファイナル 5 3 1 1 2 1 2 1 辞退
GPスケートアメリカ 2
GPスケートカナダ 1 1
GPエリック杯 1
GPロシア杯 4 2 2 1 1 1 1 1 1 1
GPNHK杯 1 1 1
GPボフロスト杯 1 1 1 1
フィンランディア杯 7 3 1
世界Jr.選手権 6 1

シニア


プログラム 曲名
SP 映画「戦場のピアニスト」より(Nocturne #20 in C Sharp Minor, op. Posth - Lento con gran espressione by Frédéric François Chopin, arranged by Edvin Marton)
FS Tango Amor by Edvin Marton


脚注

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外部リンク