エフゲニー・プルシェンコ

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オリンピック
フィギュアスケート
2006 男子シングル
2002 男子シングル
エフゲニー・プルシェンコ
Evgeni Plushenko
2004世界選手権のエフゲニー・プルシェンコ
基本情報
国: ロシア ロシア
生年月日: 1982年11月3日(25歳)
出生地: ソーニェチヌイ
身長: 178 cm
元コーチ: アレクセイ・ミーシン
元振付師: セルゲイ・ペチュホフ
所属: Yubileyny Sports Palace
ISU パーソナルベスト
SP+FS トータル: 258.47 2006 トリノ五輪
ショートプログラム: 90.66 2006 トリノ五輪
フリースケーティング: 167.81 2006 トリノ五輪

エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコロシア語: Евгений Викторович Плющенкоラテン翻字: Evgeni Viktorovich Plushenko1982年11月3日 - )は、ロシア男性フィギュアスケート選手。ロシア人名愛称ではジェーニャ。なお、ロシア語の発音では「イヴギェーニイ・ヴィークタラヴィチュ・プリューシンカ」が近い。

2006年トリノオリンピック男子シングル金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック男子シングル銀メダリスト。2001年2003年2004年世界選手権優勝。欧州選手権5度、グランプリファイナル4度、ロシア選手権7度優勝。

目次

人物

幼少期は決して裕福とはいえない環境で育った。地元のスケートリンクが閉鎖された為、サンクトペテルブルクでフィギュアスケートを学ぶ様に勧められる。しかし家族全員が都会で暮らす余裕はなかった為、11歳の少年は約一年間、一人で生活をした(この決断は彼自身が両親に懇願したものである。彼はそうまでしてもスケートを学びたかった)。 母親を呼び寄せてからは父親の仕送りで二人で暮らすようになる。都会での生活は貧しく食費がないときは街でビンを集め売り、そのお金でパンを買った。コーチであるアレクセイ・ミーシンはプルシェンコの第一印象を「やせっぽっちのチキンのようだった。脂のない、安いチキンのような」と語ったことがある。

ユーモアのある明るい性格でも知られ、アイスショーエキシビションでは、女装やかぶりものをしたり、肉襦袢(じゅばん)に金色のブリーフパンツという姿で腰を振りながらトム・ジョーンズの"Sex Bomb"に合わせて踊るなど、奇抜なパフォーマンスも平気でこなす。2006年10月・12月に来日した際も、ショーの最中に笑いをとるコスチュームで現れ観客を喜ばせた。トリノオリンピック後のアイスショー仲間である荒川静香は彼の事を「15歳くらいの少年みたいで対応に困る絡み方(いたずら)をしてくる」と笑いながら語ったことがある。

ロシアへの愛国心が強く、サンクトペテルブルグ市議会での議員活動や後進の育成にも力を注いでいる。2014年冬季オリンピックソチへの招致運動にも積極的に参加し、ソチでの開催決定に貢献した。また、低迷が続くロシアの男子シングルの現状を非常に心配していると語っており、競技復帰への強い意欲を示している。しかし膝の状態が回復せず、競技復帰は果たせていない。

2005年6月18日にサンクトペテルブルクで結婚。2006年6月15日には3450g、52cmの男児誕生。名前は当初クリスチアン・エヴゲーニイヴィチ・プリュシチェンコ(Кристиан Евгенийвич Плющенко)となっていたが、後にクリスチアンからイェゴールに変わった。

交友関係

オリンピックで二度メダルを手にしたフィギュアスケーターヴィクトール・ペトレンコには幼い頃から憧れを抱いている。プルシェンコが14歳の時ペトレンコに勝利して気まずく思っていた時、ペトレンコの方から祝福の言葉をかけプルシェンコを励ましたという。このエピソードは、何度もプルシェンコ自身の口から語られており、今なお彼を尊敬し続けている。チェコのトマシュ・ベルネル、アメリカのジョニー・ウィアーなどは、プルシェンコに憧れている事を何度も公言しており、彼等とはショーでの共演を通じて良好な関係を築いている。

2003-2004シーズン以降、自身のプログラムの作曲をハンガリーのヴァイオリニスト兼作曲家のエドウィン・マートンに依頼しており、エキシビジョンアイスショーではマートンの生演奏に合わせてプルシェンコが演技をする事が多い。プライベートでも大変仲が良い。また、イリーナ・スルツカヤとは子供の頃から大変仲が良く、一時期には恋愛関係のゴシップまで出たほどであった。アレクセイ・ミーシンコーチは、ロシア国籍の有力選手やコーチが次々とアメリカ等外国に流出していく情勢の中でロシアに残ってトレーニングを続けているのはプルシェンコとスルツカヤだけだと語った事がある。

アレクセイ・ヤグディンとの確執がよく噂され、あるインタビューで「(同じコーチのもと)ヤグディンと一緒に練習していたとき、彼から学んだことはありますか?」という問に「Nothing!(何もない)」と答えている。またアレクセイ・ヤグディンも自伝の中で不仲を語ったことがある。しかし、2006年秋にロシアで放送された番組内では握手を交わして抱き合う姿が報じられた。その後、火災現場で二人で記念写真をとっていたり、来日時に電器店で浅田真央のポスターの真似をし、ふざけ合っている写真がマスコミに掲載された。なお本人達はインタビューでは揃って、両者の間にはライバル関係以外の険悪なものは無かったと発言している。

経歴

ハバロフスク近郊のソーネチヌイСолнечный)に生まれ、4歳でスケートを始める。11歳の頃、地元のスケートリンクが閉鎖されたため家を出て、彼のフィギュアスケートの才能を見込んだサンクトペテルブルグのアレクセイ・ミーシンの保護下で経験を積む。この頃は後にライバルとなるアレクセイ・ヤグディンもミーシンの指導を受けていた。14歳で世界ジュニア選手権に優勝。15歳にして4回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させるなど、早くからその才能を開花させていた。

1997-1998シーズンからシニアクラスに本格参戦する。3回転ジャンプは当然のこと4回転ジャンプも軽々と決める様は日本の解説者から「精密機械」の異名をとった。正確無比なジャンプに男子には珍しいビールマンスピン・ビールマンスパイラルと高い表現力を武器に、グランプリシリーズスケートアメリカロシア杯、1998年ヨーロッパ選手権2位、1998年世界選手権3位と瞬く間に世界のトップクラス入りを果たす。翌シーズンからは主要なISU公式競技会で次々と優勝を重ね、ヤグディンとハイレベルな接戦を繰り広げた。2001年世界選手権ではヤグディンを抑えて初優勝。オリンピック直前のグランプリファイナルでは2回目のフリースケーティングでヤグディンに逆転され2位に終わる。この敗戦によりオリンピック迄僅か1ヶ月の中、急遽フリープログラムをカルメンに変更する。猛練習を重ねプログラムを完成させるも右足首を痛めてしまう。

2002年のソルトレイクシティオリンピックではショートプログラムで出だしの4回転ジャンプで転倒をして4位、フリースケーティングでは4回転-3回転-3回転の3連続ジャンプに挑戦するも最後のループでステップアウトしてしまい結果はフリー2位、総合も2位で銀メダルに終わる。2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場。

2003年世界選手権2004年世界選手権と2連覇。2005年世界選手権ショートプログラムを終えた後に、痛めていた股関節の悪化の為棄権。その後ドイツで鼠径ヘルニアの手術を受けた。2005年6月18日に結婚。

2006年2月16日に行われたトリノオリンピックでは、ショートプログラムで90点台をマークし2位に10点以上の差をつけて首位にたち、フリースケーティングでは4回転-3回転-2回転も成功させただ一人160点台をマーク、総合で2位に30点近い大差をつけ金メダルを獲得した。その後行われたエキシビションでは、晴れ晴れとした表情で大活躍しフィナーレでは難度の高い3回転アクセル-3回転トウループ-3回転ループをも軽々と決めた。

2006-2007シーズンは競技には出場せずに休養することを宣言した。2006年6月15日には男児誕生。2008年2月現在離婚調停中。2007年3月にサンクトペテルブルグ市議会議員選挙に公正ロシア党から出馬し当選、議員活動も開始した。

2007-2008シーズン直前の7月、以前から痛めていた膝の半月板除去手術を受ける。術後の状態があまり好転しなかった為に予定していた今シーズンの競技復帰を断念。全競技会を欠場すると発表した。しかし来季への復帰に向けてコーチと共に11月以降本格的な訓練を開始した。

2008年夏には2度目の膝手術が予定されている。本人は今もアマチュア復帰への強い意欲を持っているものの、今後の動向は身体状態に左右されると思われる。

スケート技術

演技

2004年世界選手権まで使用されていた旧採点方法の技術点で、満点である「6.0」を最も多く出した選手である。芸術点でも6.0(満点)を何度もマークし、新採点システム移行後は演技構成点の諸要素で8点台をほぼ毎回マークしている。

ジャンプ

「4回転からの3連続コンビネーションジャンプ」を武器としていた。

  • 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた選手である(1999年NHK杯)。現在まで最も多く(ISU公式競技会で20回近く)この『4回転からの3連続コンビネーションジャンプ』を競技会で成功させている。
  • 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた選手でもある(2002年ロシア杯)。02年ロシア杯フリー、02-03GPファイナル第2フリー、03年ワールド予選の3回成功しているが、彼以外にISU公式競技会でこのジャンプを成功させた選手は誰一人いない(なお、現在の採点法であるISUジャッジングシステムの下では4-3-3コンビネーションの価値はかなり減少しているといえ、プルシェンコ自身もISUジャッジングシステム施行後はプログラムに取り入れていない)。

スピン

女子より一般的に筋肉量が多く体が硬いとされる男子では珍しい、ビールマンスピンビールマンスパイラルを得意としていたが、2005年に背中の手術をしてからは封印している。

ステップ

トリノオリンピックのショートプログラムのサーキュラーステップでは、驚異的な速さと細やかさで最高難度のレベル4(GOE加点2.14)を獲得した。

主な戦績

大会/年 95-96 96-97 97-98 98-99 99-00 00-01 01-02 02-03 03-04 04-05 05-06
冬季オリンピック 2 1
世界選手権 3 2 4 1 1 1 棄権
欧州選手権 2 2 1 1 1 2 1 1
ロシア選手権 6 4 3 1 1 1 1 1 1 1
GPファイナル 5 3 1 1 2 1 2 1 辞退
GPスケートアメリカ 2
GPスケートカナダ 1 1
GPエリック杯 1
GPロシア杯 4 2 2 1 1 1 1 1 1 1
GPNHK杯 1 1 1
GPボフロスト杯 1 1 1 1
フィンランディア杯 7 3 1
世界Jr.選手権 6 1

シニア


プログラム 曲名
EX The Soldiers
Sirtaki
Go Crazy by Prince


脚注

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  1. ^ 2002/2003 ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
  2. ^ 2001/2002 ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
  3. ^ 順位決定方法については2000/2001 ISUグランプリファイナルを参照のこと。
  4. ^ 順位決定方法については1999/2000 ISUグランプリファイナルを参照のこと。

外部リンク