イリーナ・スルツカヤ

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オリンピック
フィギュアスケート
2002 女子シングル
2006 女子シングル
イリーナ・スルツカヤ
Irina Slutskaya
2005年ロシア選手権でのイリーナ・スルツカヤ
基本情報
代表国: ロシア ロシア
生年月日: 1979年2月9日(30歳)
出生地: モスクワ
身長: 160 cm
コーチ: ジャンナ・グロモワ
振付師: セルゲイ・ペチュホフ
所属クラブ: スポーツクラブ・モスクビッチ
ISU パーソナルベストスコア
トータルスコア: 198.06 2005 ロシア杯
ショートプログラム: 70.22 2005 中国杯
フリースケーティング: 130.48 2005 ロシア杯

イリーナ・エドゥアルドヴナ・スルツカヤロシア語: Ирина Эдуардовна Слуцкаяラテン翻字: Irina Edwardovna Slutskaya1979年2月9日 - )は、ロシアモスクワ出身の女子フィギュアスケート選手。2002年ソルトレイクシティオリンピック女子シングル銀メダリスト。2006年トリノオリンピック女子シングル銅メダリスト。身長160センチ。ロシアでの愛称はイーラ。ロシア語では「イリーナ・エドゥアールダヴナ・スルーツカヤ」が近い。

目次

[編集] 人物

モットーは「Never fall down(決してくじけない)」。母親と自身の病気などの災難やオリンピックでの不本意な結果にも割り切っている。トリノオリンピック後、笑顔で「That's life(それが人生)」とコメントした。

フィギュア界の友人には、女子ではアメリカのミシェル・クワン、男子ではアメリカのジョニー・ウィアーや同国ロシアのエフゲニー・プルシェンコなどがいる。プルシェンコとは子供の頃から大変仲が良く、一時期には恋愛関係のゴシップまで出た。プルシェンコのコーチアレクセイ・ミーシンは、ロシア国籍の有力選手やコーチが次々とアメリカなど外国に流出していく情勢の中で、ロシアに残りトレーニングを続けているのはスルツカヤとプルシェンコだけだと語ったことがある。

過去に何度も来日しており、日本にも根強いファンが多い。バルスという名の秋田犬を飼っている。ゾウが好きで、ゾウのぬいぐるみや置物を集めている。

[編集] 経歴

[編集] 幼少期 - 1998

モスクワ市内の病院でロシア人の母ナタリアとユダヤ人の父エドゥアルトの長女として誕生した。生来身体が弱く、医者に外でのスポーツを勧められた。4歳の時にフィギュアスケートを始め、6歳からジャンナ・グロモワ (Zhanna Gromova) の指導を受けた。現在まで彼女のコーチはグロモワただ1人であり、スルツカヤも強い信頼を寄せている。

1995年、世界ジュニア選手権で優勝。1996年、ヨーロッパ選手権でロシア女子選手初の優勝を飾る。同年世界選手権で初めて銅メダルを獲得した。

1998年の長野オリンピックショートプログラム(ワルツ)ではコンビネーションジャンプでトリプルルッツの予定がダブルルッツとなる失敗を犯し、5位スタートとなる。その後フリースケーティング(ロシア民謡)では、トリプルフリップで手をつくミスがあったものの、3回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させ、技術点・芸術点ともに高い評価を受けた。しかしメダルには届かず、総合で5位入賞に留まった。

長野五輪直後の世界選手権では、優勝したミシェル・クワンに次いで、銀メダル獲得となった。

[編集] 1998 - 2002

1998年-1999年シーズンのロシア選手権は4位に終わり、1999年の世界選手権は代表の選考から漏れた。低迷の大きな要因は思春期で体重増からジャンプの失敗が増え、特にルッツジャンプが跳べなくなったことによる。その後激しいスランプに陥り、スケートをやめることさえ考えたという。そんななか、友人で後に夫となるセルゲイ・ミハイエフが彼女を支えて減量に成功、再び世界の舞台に挑むことになった。1999年8月6日にモスクワ市内のロシア正教会で、セルゲイと結婚した。

2000年にフランスリヨンで開催されたグランプリファイナルフリースケーティング(ドンキホーテ)において3回転ルッツ-3回転ループのコンビネーションジャンプを女子フィギュアスケート史上初めて、公式の試合で成功させた。更にもう1度、3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させ技術点で6.0満点をマークして優勝。

2001年にカナダバンクーバーで開催された世界選手権のフリースケーティング(ドンキホーテ)において3回転サルコウ-3回転ループ-2回転トゥループのコンビネーションジャンプを女子フィギュアスケート史上初めて、公式の試合で成功させた。その後、さらに難易度の高い3回転ルッツ-3回転ループ-2回転トゥループのコンビネーションジャンプに挑戦するもループでステップアウトして不完全な評価となった。結果、ミシェル・クワンに次ぐ2位に終わった。

2002年のソルトレイクシティオリンピック、ショートプログラムはミシェル・クワンに次ぐ2位、フリースケーティング(トスカ)では3フリップで大きくバランスを崩したり、3回転-3回転のコンビネーションを組めなかったことなどが響いて2位、総合でもサラ・ヒューズに次ぐ2位で銀メダルに終わる。

キス&クライでは笑顔を見せていたスルツカヤだが、舞台袖で号泣した姿が全世界にテレビ中継された。ロシア・スケート連盟は判定にある種の意図が入っているのではないかと正式に抗議文書を提出し、ロシア選手団の団長であったヴィクトール・ママトフは「場合によってはロシア代表選手は以降の全競技をボイコットする」と表明したが、この異議は速やかに退けられ、スルツカヤは黙って結果を受け入れて帰国した。失意のままロシアに帰った彼女には、ファンから純金製の金メダルがプレゼントされた。ソルトレイクシティオリンピック全体を通して、ロシアのプーチン大統領は「北アメリカの選手たちは明らかに有利な判定を受けている。このオリンピックがどのような結末を迎えるか、IOCがリーダーシップをもってこの問題を解決出来るかを見守りたい」とクレムリンでジャーナリストたちに持論を述べた[1]

オリンピック直後の長野で開催された世界選手権ではショートプログラム(セレナーデ)で完璧な演技を披露し1位、芸術点で2つの6.0の満点が出た。フリースケーティング(トスカ)でも完璧な演技で1位になり初優勝を果たした。

[編集] 2002 - 2006

2002-2003シーズン、2003年にロシア・サンクトペテルブルグで開催されたグランプリファイナルのショートプログラム (Victory) が終了した夜に、母が重い腎臓病を患っていることを知らされる。母は意識不明の重体に陥るが、チームドクターの適切な処置のおかげで、奇跡的に一命を取り留めた。しかし長期療養が必要だという事実は、彼女に大きな衝撃を与えた。この影響からか翌日のフリースケーティング (La Traviata) には出場したものの、終始険しい表情の演技で、精彩を欠き、2位に終わる。彼女の負担が日に日に増す中、同年彼女自身も自己免疫疾患アレルギー性肉芽腫性血管炎)にかかり、気管支炎を併発、一時期は歩行も困難になった。トイレには這って行かねばならず、「ストレスで毎日泣いていた」という。

2003-2004シーズン、復帰は非常に困難と思われていたが、ロシア・スケート連盟の要請で2004年ドルトムントで行われた世界選手権に出場。病気が完治しないなかの出場であり、練習不足から精彩を欠いた演技で9位に終わったが、約1年ぶりの競技復帰に嬉しそうな表情を見せた。

2004-2005シーズンは、長期のブランクを全く感じさせない強さでISUグランプリシリーズ中国杯ロシア杯グランプリファイナルヨーロッパ選手権世界選手権でいずれも圧倒的なリードで優勝した。特に、地元モスクワで開催された世界選手権では、フリースケーティング(ワンダーランド)で3回転ルッツ-3回転ループに成功、結局3回転ループを3回跳んでしまったため最後のジャンプは無効になったが、それでも高い技術点を取り、演技構成点では5つの要素のうち4つが8点台で、130点を超える得点を獲得し2度目の優勝を果たした。

2005-2006シーズン、2005年12月17日東京国立代々木競技場 第一体育館で行われたグランプリファイナルでは、ショートプログラム(死の舞踏)でいくつかのミスをおかし2位、フリースケーティング (Mario Takes A Walk) でも2位で総合2位に終わった。その後、12月下旬にロシア・カザンで開かれたロシア選手権はインフルエンザのため欠場した。2006年1月リヨンで開催されたヨーロッパ選手権で7回目の優勝を果たし、ソニア・ヘニーカタリナ・ヴィットらの記録を抜いて、同大会の史上最多優勝記録を更新した。

2006年のトリノオリンピック、ショートプログラムでは難度の高い要素を次々に披露、中でもダブルアクセルは解説の佐藤有香に絶賛された。技術点はトップであったが、演技構成点では、彼女の思ったほどの高得点が出ず1位のサーシャ・コーエンと僅差の2位となる。最終滑走となったフリースケーティングでは、前半でコンビネーションの予定が単独のジャンプとなり、中盤ではトリプルフリップがダブルになるなどのミスが続き、後半に得意のループジャンプで転倒、全体的に精彩を欠いた演技となる。結果、荒川・コーエンに次ぐ銅メダルに終わり、悲願の五輪金メダル獲得はならなかった。大会終了後、人前では気丈に笑顔を見せていたスルツカヤだが、一人になると悔し涙を流したという。

[編集] 2006 - 現在

2006年11月6日に引退を表明したとロイター通信が報じたが、後に誤報であったことが明らかになった。スルツカヤ自身が否定声明を出した。さらにエージェントのアリ・ザカリアン、ロシアスケート連盟現会長のピセーエフも否定した。原因は、間違った情報を掲載したロシアのニュースサイトの記事をロイター通信、CNNや日本のニュースサイトが引用し掲載したためである。誤報の元になったロシアのニュースサイトは後に謝罪コメントを掲載した。ただし、31歳となる4年後の2010年バンクーバーオリンピックへ出場を目指すかどうかについては、スルツカヤ自身は明言を避けている。

2007年1月4日に長野のビッグハットで開催された"Japan Super Challenge"にゲストとして登場しEXプログラムを披露。同年3月の世界選手権東京大会は欠場した。4月に入り初めての妊娠と当面の競技・ショー出演休止を発表。

2007年11月15日にロシアの病院で第一子となる男児アルチョムを、2,300グラムと軽量ながら、帝王切開を行い出産。2007年12月からはロシアのアイスショーなどにも出演しており、ビートルズの曲 (Let It Be) にのせた新プログラムを披露している。

[編集] 技術

[編集] ジャンプ

3回転ルッツ-3回転ループのコンビネーションジャンプを2000年のグランプリファイナルで女子選手として史上初めて成功させ、技術点で満点の6.0をマークした。旧採点システム時代に国際大会において技術点6.0(満点)を獲得した女子選手は歴史上彼女と伊藤みどり荒川静香の3人だけである。[要出典]

豊富な種類と高さに定評がある。フリップはやや苦手である。得意なジャンプはループで、コンビネーションの2つ目のジャンプに取り入れることが多いが、単独で跳ぶ場合、くるくる円を描きながら踏み切りに入る流れが特徴的。

[編集] スパイラル・スピン

完璧なビールマン・ポジションを両足で取れる数少ない選手の一人であり、ビールマンスピンは完成度、スピード、ポジションにおいて定評がある。またビールマンスパイラルも得意である。

[編集] 主な戦績

大会/年 93-94 94-95 95-96 96-97 97-98 98-99 99-00 00-01 01-02 02-03 03-04 04-05 05-06
冬季オリンピック 5 2 3
世界選手権 7 3 4 2 2 2 1 9 1
欧州選手権 5 1 1 2 1 1 2 1 1 1
ロシア選手権 3 3 2 3 4 4 1 1 1 2 1
GPファイナル 2 3 4 3 1 1 1 2 1 2
GPスケートアメリカ 3 3
GPスケートカナダ 1 3 1 2
GP中国杯 1 1
GPエリック杯 4
GPロシア杯 1 1 3 1 1 1 3 1 1
GPNHK杯 2 1 2
GPボフロスト杯 1 2 3
フィンランディア杯 1
ユニバーシアード 2
ジャパンオープン 3 3 2
ネーベルホルン杯 1 1
世界Jr.選手権 3 1

[編集] シニア

[編集] 脚注

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  1. ^ スポーツイラストレイテッド2002年2月22日ニュース(フィギュアスケート)
  2. ^ 2002/2003 ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
  3. ^ ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
  4. ^ 順位決定方法については2000/2001 ISUグランプリファイナルを参照のこと。
  5. ^ 順位決定方法については1999/2000 ISUグランプリファイナルを参照のこと。

[編集] 外部サイト