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'''長谷川 健太'''(はせがわ けんた、[[1965年]][[9月25日]] - )は、[[日本]]の元[[サッカー選手]]・サッカー指導者・[[スポーツ解説者|サッカー解説者]]。[[静岡県]][[清水市]](現:[[静岡市]][[清水区]])出身。
'''長谷川 健太'''(はせがわ けんた、[[1965年]][[9月25日]] - )は、[[日本]]の元[[サッカー選手]]・サッカー指導者・[[スポーツ解説者|サッカー解説者]]。[[静岡県]][[清水市]](現:[[静岡市]][[清水区]])出身。


現役時代は[[フォワード (サッカー)|フォワード]]として活躍し、右45度から放つ豪快なキャノンシュートを得意としていた。また、右足から繰り出される正確な[[クロスボール]]は「ケンタリング」とも呼ばれた。
現役時代は[[フォワード (サッカー)|フォワード]]として活躍し、{{要出典範囲|右45度から放つ豪快なキャノンシュートを得意としていた。また、右足から繰り出される正確な[[クロスボール]]は「ケンタリング」とも呼ばれた。|date=2021-04}}


== 来歴 ==
== 来歴 ==
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小学6年時には[[清水FC]]の一員として[[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会|全日本少年サッカー大会]]優勝、[[静岡県立清水東高等学校]]時代は小学生時代からの盟友[[大榎克己]]、[[堀池巧]]と共に[[清水東三羽烏]]として高校サッカーで活躍した。
小学6年時には[[清水FC]]の一員として[[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会|全日本少年サッカー大会]]優勝、[[静岡県立清水東高等学校]]時代は小学生時代からの盟友[[大榎克己]]、[[堀池巧]]と共に[[清水東三羽烏]]として高校サッカーで活躍した。


[[筑波大学]]を経て1988年に[[日本サッカーリーグ]]1部の[[日産自動車サッカー部]](現[[横浜F・マリノス]])へ入部。同年からの2年連続三冠(リーグ、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]、[[JSLカップ|JSL杯]])に貢献した。
[[筑波大学]]を経て1988年に[[日本サッカーリーグ]]1部の[[日産自動車サッカー部]](現[[横浜F・マリノス]])へ入部。同年からの2年連続三冠(リーグ、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]、[[JSLカップ|JSL杯]])に貢献した。1990年、[[アジア競技大会|アジア大会]]終了後の怪我で日産を退部、怪我をしていながらオファーを出した清水への移籍を決断した<ref>{{cite web | url=http://tsukubaway.com/column/sportsperson/452| title=長谷川健太| publisher=tsukubaway| accessdate =3 April 2021}}</ref>


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1991年に[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]設立に際して誕生した地元の[[清水エスパルス]]に入団。1993年、1stステージ第7節の[[ジェフ市原・千葉|ジェフ]]戦でJリーグ初ゴールを挙げたるなど、初年度36試合10ゴールを挙げた<ref name=dj/>。1996年のJリーグカップでは準決勝の[[湘南ベルマレ|ベルマーレ]]戦で1ゴール<ref>{{cite web | url=https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=2354| title= 1996Jリーグヤマザキナビスコカップ 準決勝| publisher=data.j-league| accessdate =3 April 2021}}</ref>、決勝[[ヴェルディ川崎]]戦で先制ゴーを決めるど<ref>{{cite web | url=https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=2355| title= 1996Jリーグヤマザキナビスコカップ戦| publisher=data.j-league| accessdate =3 April 2021}}</ref>クラブの初タイトル獲得に貢献した。1999年にはJリーグセカンドステージ優勝に貢献し、この年の天皇杯を最後に現役引退した。Jリーグ通算では207試合に出場47ゴール、Jリーグカップでは41試合12ゴールを挙げた<ref name=dj>{{cite web | url=https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=249| title= 長谷川健太| publisher=data.j-league| accessdate =3 April 2021}}</ref>

日本代表としては、1989年の[[サッカーイラン代表|イラン]]戦で代表デビュー<ref name=samurai/>、1990年のアジア競技会以降は代表から遠ざかっていたが、1993年開催のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選直前の[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール]]戦で約3年振りに日本代表に復帰、同予選では4試合に出場、[[サッカーイラク代表|イラク]]戦では59分までプレー<ref name=samurai>{{cite web | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19931028/| title= FIFAワールドカップアメリカ94 アジア地区最終予選 vsイラク| publisher=samuraiblue| accessdate =3 April 2021}}</ref>、[[ドーハの悲劇]]を経験した。1995年の[[ダイナスティカップ]]、[[サッカー韓国代表|韓国]]戦まで代表でプレー、Aマッチ通算27試合に出場した<ref>{{cite web | url=https://www.asahi.com/articles/ASJ8W0DX3J8VUTQP02B.html| title=長谷川健太| publisher=asahi.com| accessdate =3 April 2021}}</ref><ref>{{cite web | url=http://jfootball-db.com/players_ha/kenta_hasegawa.html| title=長谷川健太| publisher=jfootball| accessdate =3 April 2021}}</ref>。


=== 監督時代 ===
=== 監督時代 ===
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=== その他 ===
=== その他 ===

* [[1990年]]の[[北京市|北京]]・[[アジア競技大会|アジア大会]]終了後、練習中に右膝を痛めて手術を受けることになり、一から出直すつもりで、日産を退部。清水への移籍を決断した。

*私生活では23期日産ミスフェアレディで、現在コメンテーターなどで活躍中の女性と結婚している。
*私生活では23期日産ミスフェアレディで、現在コメンテーターなどで活躍中の女性と結婚している。



2021年4月4日 (日) 03:33時点における版

長谷川 健太
名前
愛称 ケンタ
カタカナ ハセガワ ケンタ
ラテン文字 HASEGAWA Kenta
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1965-09-25) 1965年9月25日(58歳)
出身地 静岡県静岡市清水区
身長 177cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW (WG)
利き足 右足
ユース
1981-1983 静岡県立清水東高校
1984-1987 筑波大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1991 日産自動車 33 (9)
1992-1999 清水エスパルス 207 (45)
代表歴2
1989-1995 日本の旗 日本 27 (4)
監督歴
2000-2004 浜松大学
2005-2010 清水エスパルス
2013-2017 ガンバ大阪
2018- FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。1999年12月31日現在。
2. 1995年2月26日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

長谷川 健太(はせがわ けんた、1965年9月25日 - )は、日本の元サッカー選手・サッカー指導者・サッカー解説者静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身。

現役時代はフォワードとして活躍し、右45度から放つ豪快なキャノンシュートを得意としていた。また、右足から繰り出される正確なクロスボールは「ケンタリング」とも呼ばれた。[要出典]

来歴

選手時代

小学6年時には清水FCの一員として全日本少年サッカー大会優勝、静岡県立清水東高等学校時代は小学生時代からの盟友大榎克己堀池巧と共に清水東三羽烏として高校サッカーで活躍した。

筑波大学を経て1988年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)へ入部。同年からの2年連続三冠(リーグ、天皇杯JSL杯)に貢献した。1990年、アジア大会終了後の怪我で日産を退部、怪我をしていながらオファーを出した清水への移籍を決断した[1]

1991年にJリーグ設立に際して誕生した地元の清水エスパルスに入団。1993年、1stステージ第7節のジェフ戦でJリーグ初ゴールを挙げたるなど、初年度は36試合10ゴールを挙げた[2]。1996年のJリーグカップでは準決勝のベルマーレ戦で1ゴール[3]、決勝のヴェルディ川崎戦では先制ゴールを決めるなど[4]クラブの初タイトル獲得に貢献した。1999年にはJリーグセカンドステージ優勝に貢献し、この年の天皇杯を最後に現役引退した。Jリーグ通算では207試合に出場47ゴール、Jリーグカップでは41試合12ゴールを挙げた[2]

日本代表としては、1989年のイラン戦で代表デビュー[5]、1990年のアジア競技会以降は代表から遠ざかっていたが、1993年開催のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選直前のコートジボワール戦で約3年振りに日本代表に復帰、同予選では4試合に出場、イラク戦では59分までプレー[5]ドーハの悲劇を経験した。1995年のダイナスティカップ韓国戦まで代表でプレー、Aマッチ通算27試合に出場した[6][7]

監督時代

浜松大学~清水エスパルス

引退後はNHKでのサッカーの解説者、サッカーの指導者として浜松大学サッカー部監督を務めた。

2005年シーズンに古巣・清水の監督に就任。監督1年目は経験のなさを指摘され、チームも降格・入れ替え戦ラインをさまよい低迷したが、2年目の2006年シーズンからは岡崎慎司といった若手選手を積極的に起用することでチームの世代交代を成功させ4位と躍進を遂げた。その後も上位を保ち、優勝経験がありながらも経営難時代から低迷が続いたエスパルスを見事復活させた。タックル数が極端に少ない緻密なゾーンディフェンスを敷くとともに市川大祐太田宏介児玉新らのサイドバックの攻撃参加を最大限に生かすサイド攻撃を徹底させる戦術も機能した。

2009年シーズンは第28節の広島戦を終えた時点で10年ぶりにリーグ首位に立ったものの、第29節で最下位の大分に敗れ、その後5連敗を喫するなど1勝もできず、シーズン7位に終わる。

2010年シーズンは、開幕から12試合負けなし(8勝4分)と好発進。W杯前の前半戦をリーグ首位で折り返すも、第18節の横浜F・マリノス戦で敗れてからは2勝2分け6敗、ナビスコ杯も準決勝で敗退した。

2010年シーズンの第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝戦の対鹿島戦を最後に監督を退任。リーグ戦では就任初年度を除き一桁順位をキープし続けたが、カップ戦では3度決勝に進出しながらいずれもタイトルを逃してしまった。

サッカー解説者~ガンバ大阪

2011年からはサッカー解説者に復帰し、NHK BS1(同3月までNHK衛星第1テレビジョン)「Jリーグ中継」を始め、プレミアリーグセリエAのテレビ中継解説者等を務めた。2012年ロンドンオリンピックではジャパンコンソーシアムの解説者として男子サッカーを担当した。

2013年、J2ガンバ大阪の監督に就任[8]。J2降格の原因となった守備の立て直しに着手しつつ、ガンバの持ち味である攻撃サッカーを継承。序盤こそやや躓いたものの、それまで出場機会が乏しかった若手選手を積極的に起用し、中盤以降は安定した内容で昇格圏を維持し1年でのJ1昇格とJ2優勝を達成した[9]

J1に復帰した2014年は、前半戦こそ苦戦を強いられ一時は降格圏内に落ち込んだが、後半戦に入ると一気に巻き返し昇格1年目ながらG大阪を9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年のJリーグアウォーズでは自身初の最優秀監督賞を受賞。Jリーグで選手経験を持つ監督としては4人目、現役時代の所属と異なるクラブを率いての受賞は初となった。また、9月には日本人監督としては西野朗以来となるJ1通算100勝目を達成した。さらに、この年ナビスコカップと天皇杯も制し、Jリーグの日本人監督としては初の国内三冠を達成した[10]

2015年、監督として初挑戦となったACLはJリーグ勢最高のベスト4に進出するも、準決勝でこの年ACLを制した中国の広州に敗れた。国内ではリーグ戦で3位に入りCS出場権を獲得。準決勝で年間2位の浦和を破るも決勝で年間1位の広島に敗れリーグ連覇を後一歩で逃した。ナビスコカップも準優勝となったが、天皇杯では2連覇を達成した。

FC東京

2018年からは、FC東京を指揮。永井謙佑ディエゴ・オリヴェイラなどの活躍もありシーズン前半までは好調を保っていたが、夏の移籍マーケットで補強に失敗するとその後急失速。最終的には6位で終了した。

2019年は久保建英のブレイクもあり一時は首位に立つなど好調をキープ。最終節の横浜F・マリノス戦まで優勝の可能性を残したが、試合に敗れ最終的に2位でフィニッシュ、ACL出場権を獲得した。

2020年は6位に終わり、2年連続のACL出場権獲得はならなかった。

エピソード

ブラジル留学

日産自動車サッカー部に入部した1988年、2か月間のブラジル留学を経験した。これは加茂周の計らいとオスカーの仲立ちにより実現したもので、長谷川はJSLカップ開幕を前に渡伯し、サンパウロFCの2軍の練習に参加した。ちなみに清水秀彦が帯同している。当初は練習のみに参加する予定であったが、監督のカルロス・アルベルト(後に読売クラブ監督)に実力を認められ、特別措置として、2軍の公式戦2試合に出場した。結果は上々で、長谷川はチームに残らないかと勧誘されたという[11]

『ちびまる子ちゃん』との関わり

  • 漫画家のさくらももことは清水市立入江小学校の同級生であり、代表作『ちびまる子ちゃん』には長谷川自身をモデルにしたサッカー好きの少年「ケンタ」がクラスメートとして登場する。長谷川とさくらは『ちびまる子ちゃん』の舞台である3年生のときに同じクラスだったわけではないが、5年生から6年生の高学年の時期は同じ組のクラスメートであった。長谷川自身はさくらももこの事を全く覚えていなかったという[12] が、さくらももこが2018年8月15日に乳癌で死去したことが同年8月27日に報じられた際には、クラブのTwitterを通して追悼コメントを発表した[13]
  • 上記の『ちびまる子ちゃん』に、長谷川をモデルとしたケンタが登場した経緯は、長谷川が日産に所属していたころに遡る。当時日産の寮住まいだった長谷川のもとにさくらから電話がかかって来て、「漫画に描いていいですか?」と尋ねられ、長谷川は「俺でよければ」と了承したことからケンタが『ちびまる子ちゃん』に登場したという[14]。長谷川は、自身がモデルとなったケンタをテレビアニメで観て、「不思議な感じですね」と語っている。
  • 尚、大野くんと杉山くんは長谷川健太と長谷川健太の親友をモデルにしており、ちびまる子ちゃんに「長谷川健太本人のケンタくん」と「長谷川健太をモデルにした大野くん」の2人が出ている。

その他

  • 私生活では23期日産ミスフェアレディで、現在コメンテーターなどで活躍中の女性と結婚している。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1988-89 日産 13 JSL1部 18 4 5 0
1989-90 11 5 3 0
1990-91 9 4 0 4 0
1992 清水 - J - 10 2 3 0 13 2
1993 36 10 1 0 4 1 41 11
1994 44 9 1 0 1 1 46 10
1995 21 3 - 0 0 21 3
1996 24 7 16 7 3 2 43 16
1997 9 30 5 6 2 1 0 37 7
1998 31 9 5 0 5 2 41 11
1999 J1 21 2 2 1 2 1 25 4
通算 日本 J1 207 45 41 12 19 7 267 64
日本 JSL1部 33 9 12 0
総通算 240 54

その他の公式戦

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 27試合 4得点(1989年 - 1995年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1989 11 1
1990 6 2
1991 0 0
1992 0 0
1993 5 0
1994 2 0
1995 3 1
通算 27 4

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1989年6月11日 日本の旗 日本東京 インドネシアの旗 インドネシア 5-0 勝利 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選
2 1990年9月26日 中華人民共和国の旗 中国北京市 バングラデシュの旗 バングラデシュ 3-0 勝利 アジア競技大会
3
4 1995年2月25日 オーストラリアの旗 オーストラリアシドニー オーストラリアの旗 オーストラリア 1-2 敗戦 親善試合

指導歴

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 Jリーグ杯 天皇杯 ACL
2002 浜松大 - - - - - - - 2回戦敗退 -
2005 J1 清水 15位 34 39 9 12 13 ベスト8 準優勝 -
2006 4位 34 60 18 6 10 予選リーグ敗退 ベスト8 -
2007 4位 34 61 18 7 9 予選リーグ敗退 ベスト8 -
2008 5位 34 55 16 7 11 準優勝 ベスト8 -
2009 7位 34 51 13 12 9 ベスト4 ベスト4 -
2010 6位 34 54 15 9 10 ベスト4 準優勝 -
2013 J2 G大阪 優勝 42 87 25 12 5 - 3回戦敗退 -
2014 J1 優勝 34 63 19 6 9 優勝 優勝 -
2015 2位 34 63 18 9 7 準優勝 優勝 ベスト4
2016 4位 34 58 17 7 10 準優勝 ベスト8 -
2017 10位 34 43 11 10 13 ベスト4 4回戦敗退 -
2018 FC東京 6位 34 50 14 8 12 予選リーグ敗退 4回戦敗退 -
2019 2位 34 64 19 4 8 ベスト8 3回戦敗退 -
2020 6位 34 57 17 6 11 優勝 - ベスト16
J1通算 - 306 - 204 76 89
J2通算 - 42 - 25 12 5
J通算 - 348 - 229 80 83

タイトル

選手時代

高校
大学
日産自動車
清水エスパルス
  • ヤマザキナビスコカップ:1回(1996年)
  • J1リーグ 2ndステージ:1回(1999年)

監督時代

ガンバ大阪
FC東京
個人

著書

長谷川が静岡朝日テレビスポーツパラダイス』にて行なったゲストとの対談をまとめたもの。

関連項目

脚注

  1. ^ 長谷川健太”. tsukubaway. 2021年4月3日閲覧。
  2. ^ a b 長谷川健太”. data.j-league. 2021年4月3日閲覧。
  3. ^ 1996Jリーグヤマザキナビスコカップ 準決勝”. data.j-league. 2021年4月3日閲覧。
  4. ^ 1996Jリーグヤマザキナビスコカップ 決勝戦”. data.j-league. 2021年4月3日閲覧。
  5. ^ a b FIFAワールドカップアメリカ94 アジア地区最終予選 vsイラク”. samuraiblue. 2021年4月3日閲覧。
  6. ^ 長谷川健太”. asahi.com. 2021年4月3日閲覧。
  7. ^ 長谷川健太”. jfootball. 2021年4月3日閲覧。
  8. ^ “2013シーズン ガンバ大阪 長谷川健太監督就任のお知らせ”. ガンバ大阪オフィシャルサイト. (2013年1月1日). http://www.gamba-osaka.net/news/news_detail.php?id=4496 2013年1月1日閲覧。 
  9. ^ “守備を整備しながらも破壊的な攻撃力で他を圧倒。ガンバを一年で昇格させた長谷川監督の手腕”. フットボールチャンネル. (2013年11月7日). http://www.footballchannel.jp/2013/11/07/post11271/ 2013年11月25日閲覧。 
  10. ^ “ガンバを三冠に導いた長谷川健太監督の「三大革命」”. sportiva. (2014年12月14日). http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2014/12/14/post_799/ 2014年12月14日閲覧。 
  11. ^ 加茂周『モダンサッカーへの挑戦』(講談社)
  12. ^ さくらももこ「ももこのしゃべりことば」ニッポン放送出版 1992年
  13. ^ 「ちびまる子ちゃん」“ケンタ”のモデル・長谷川健太監督 小学校の同級生さくらももこさん悼む” (2018年8月27日). 2018年8月28日閲覧。
  14. ^ FC東京・長谷川監督 「ちびまる子ちゃん」ケンタ誕生秘話明かす「本人から電話がかかってきた」” (2018年8月29日). 2018年8月29日閲覧。

外部リンク