高原直泰
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名前 | ||||||
愛称 | タカ スシボンバー | |||||
カタカナ | タカハラ ナオヒロ | |||||
ラテン文字 | TAKAHARA Naohiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1979年6月4日(45歳) | |||||
出身地 | 静岡県三島市 | |||||
身長 | 181cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 清水エスパルス | |||||
ポジション | FW | |||||
背番号 | 19 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1998-2002 2001 2002-2006 2006-2008 2008-2010.7 2010.7-2010.12 2011- |
ジュビロ磐田 → ボカ・ジュニアーズ ハンブルガーSV フランクフルト 浦和レッズ 水原三星 清水エスパルス |
105 (58) 6 ( 1) 97 (13) 38 (12) 63 (10) 12 ( 4) 28 ( 8) | ||||
代表歴2 | ||||||
2000-2008 | 日本 | 57 (23) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2010年12月23日現在。 2. 2008年5月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
高原 直泰(たかはら なおひろ、1979年6月4日 - )は、静岡県三島市出身のプロサッカー選手。ポジションはフォワード。清水エスパルス所属。元日本代表。
来歴
ジュビロ磐田時代
各年代で日本代表に選出され、1994年にはU-16代表としてアジア選手権に出場。
1998年にジュビロ磐田に入団し3月21日の開幕戦の京都パープルサンガ戦で途中出場、初出場・初得点を挙げる。
1999年にはワールドユースで3得点を挙げ準優勝、シドニーオリンピックでは3得点を挙げGL突破、A代表では2000年アジアカップに出場し優勝、またベストイレブンに選ばれる。
2001年8月にアルゼンチンの名門・ボカ・ジュニアーズのオファーを受けて移籍し6試合で1得点を挙げた。12月にトヨタカップでの凱旋帰国が期待されたが、直前でメンバー落ちしてしまい出場が叶わずなど、必ずしもチーム首脳から確固たる信頼を得ていたとは言えなかった。2002年初頭、アルゼンチンの経済情勢が悪化し通貨価値が1週間で半分以下になるなど情勢が混乱したことを理由にボカから契約解除となった。帰国後、磐田に復帰し2002年のJリーグ開幕を迎える。
2002年、日韓W杯直前にエコノミークラス症候群[注 1]を発症し落選。しかしその後復帰し、JリーグアウォーズでMVP、得点王(26得点、史上最年少)の二冠を獲得。
ブンデスリーガ時代
ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVのオファーを受けて完全移籍。一年目で連続無失点記録を継続中だったオリバー・カーン擁するバイエルン・ミュンヘン相手にゴールを決めるなどし、リーグ戦を16試合(先発は12試合)3得点で終える。しかし続く2003-04シーズンは、リーグ戦29試合(先発22試合)に出場するも2得点という結果に終わる。2004-05シーズン、トーマス・ドルが監督に就任するとシーズン序盤は先発から外れるも、第6節のヘルタ・ベルリン戦で2ゴールを記録しレギュラーを獲得、リーグ戦31試合(先発は26試合)に出場し、FW中最多の7得点を挙げた。翌2005-06シーズンはリーグ戦21試合(先発は6試合)出場1得点で終えた。
2006年ドイツW杯アジア1次予選にFW中最多出場でシンガポール戦の1得点。最終予選はイラン戦に出場後、負傷を理由に欠場し、無得点に終わる。
2006年5月、ドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ3年契約で移籍。6月に2006年ドイツW杯のメンバーに選出される。開幕前に行われた強化試合で地元ドイツ相手に2ゴールを挙げる大活躍を見せたが、本大会はグループリーグ3試合で無得点に終わった。12月3日、アレマニア・アーヘン戦で3得点を挙げ、ブンデスリーガにおける日本人初のハットトリックを達成するなど、1ヶ月で6得点を挙げる。
2007年、5月5日のホームのアーヘン戦で得点を決め、自己記録更新中の同リーグシーズン通算得点を11とした。また、欧州主要リーグでの年間二桁得点の達成は、1998-99シーズンに中田英寿(当時ペルージャ)が達成して以来の快挙であった。この活躍もあってフランクフルトは1部に残留を決める。この年のフランクフルトサポーターが選ぶMVPにも選出されている。3月24日、キリンチャレンジカップ、ペルー戦で代表に復帰し、オシムジャパン体制で初得点を挙げる(試合は2-0で勝利)。アジアカップでは4得点を挙げ、アジアカップにおいて日本人初の得点王に輝くが、2007-08シーズンはひざのケガでスタートが出遅れ、またフリードヘルム・フンケル監督との起用法における対立もあり、出場機会が激減した。その後、岡田ジャパン体制になってからは代表に呼ばれなくなった。
浦和レッズ時代
代理人であるトーマス・クロートと話し合いをした上で、浦和レッズとコンタクトがとれるかを確認。浦和側がFWの補強を望んでいたこともあり、移籍金1億8500万円、年俸1億8000万の3年契約[1]。2008年1月11日に約6年ぶりのJリーグ復帰となる移籍が決定。しかし、フランクフルトで試合出場機会が減ったことによるコンディション不良、また、長谷部、小野の移籍、ポンテもケガで出遅れるなどのパサー不足という状況もあり、2008年は合計8得点(リーグ6点、ACL1点、ナビスコ杯1点)に終わり、期待以上の働きをすることはできなかった。
2009年は前シーズン限りで現役を引退した内舘秀樹に志願して、背番号7から馴染み深い背番号19に変更した[注 2]。この年はキャンプ、練習試合で好調を維持し、J1開幕戦(対鹿島アントラーズ戦)でスタメン出場を果たしたが、その試合で結果を出すことができず、次戦(対FC東京戦)からはエジミウソンにスタメンを譲ることとなった。その後はしばらく途中出場が続いたが、ナビスコカップ予選リーグ第5節、対ジュビロ磐田戦でシーズン公式戦初ゴールを記録したのを皮切りに好調を維持し、貴重なゴールを決めて勝利に貢献する時期もあったが、徐々にチーム状態が悪化し、更に自身も不慣れな左右のMFで起用される中で勢いを失い[注 3]、スタメンを外れることも多くなっていった。最終的には合計6得点(リーグ4点、ナビスコ2点)という前シーズンを下回る成績でシーズンを終えた。
2010年は開幕前から既に構想外であり海外キャンプにも帯同しなかった、その理由として7月10日の会見で監督のフォルカー・フィンケより「去年の時点で今夏の移籍は決まっており、本来は昨冬に移籍するはずだった」ので「構想内の選手だけで練習するのは当然」とされた[2]。同年7月23日に韓国Kリーグの水原三星ブルーウィングスに完全移籍した[3]。移籍金は約4190万円[4]、年俸は減額となるが差額は浦和レッズが負担している[5]。
韓国時代
水原での期待は大きく、Kリーグ最大の人気カードである対FCソウル戦では2ゴールをマークし「とにかく最高!!」と自身のブログで喜び爆発させた[6]。シーズン終了後に自身のブログで「俺はこのチームで自分らしさを取り戻す事が出来たと思っています」と語った[7]。
清水エスパルス時代
2011年シーズンはフロント主導でチーム改革を進める清水エスパルスから得点王を狙える大砲としてオファーを受け、1年契約+1年オプションの年俸2500万(2400万と報じたメディアもある)で完全移籍した[8]。5月22日J1第12節大宮戦で2ゴール、4ヵ国(日本、ドイツ、韓国、アルゼンチン)リーグ通算100ゴール達成。[9]
人物
- 新人時代、ジュビロ磐田で共にプレーしていたドゥンガに言われた「調子に乗るなよ」という言葉を大切にしている[注 4]。
- 車好きであり、浦和時代にベストカーのインタビューで現在の愛車は三菱・トライトン、ドイツ時代は同じく三菱のランエボに乗っていたと語った。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1985年 - 1991年 三島山田サッカースポーツ少年団
- 1992年 - 1994年 東海大一中学校
- 1995年 - 1997年 静岡県立清水東高等学校
- プロ経歴
- 1998年 - 2002年 ジュビロ磐田
- 2001年 ボカ・ジュニアーズ (レンタル移籍)
- 2003年 - 2006年 ハンブルガーSV
- 2006年 - 2007年 アイントラハト・フランクフルト
- 2008年 - 2010年7月 浦和レッドダイヤモンズ
- 2010年7月 - 12月 水原三星ブルーウィングス
- 2011年 - 現在 清水エスパルス
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | 磐田 | 19 | J | 20 | 5 | 6 | 4 | 2 | 0 | 28 | 9 |
1999 | J1 | 21 | 9 | 1 | 0 | 3 | 1 | 25 | 10 | ||
2000 | 24 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 26 | 10 | |||
2001 | 13 | 8 | 2 | 2 | - | 15 | 10 | ||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2001-02 | ボカ | 30 | プリメーラ | 6 | 1 | ||||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | 磐田 | 32 | J1 | 27 | 26 | 0 | 0 | 3 | 0 | 30 | 26 |
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
2002-03 | ハンブルガー | 32 | ブンデス1部 | 16 | 3 | - | - | 16 | 3 | ||
2003-04 | 29 | 2 | 3 | 1 | 3 | 1 | 35 | 4 | |||
2004-05 | 31 | 7 | 0 | 0 | 1 | 0 | 32 | 7 | |||
2005-06 | 21 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 23 | 2 | |||
2006-07 | フランクフルト | 19 | 30 | 11 | 0 | 0 | 4 | 4 | 34 | 15 | |
2007-08 | 8 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 10 | 1 | |||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2008 | 浦和 | 7 | J1 | 27 | 6 | 3 | 1 | 1 | 0 | 31 | 7 |
2009 | 19 | 32 | 4 | 8 | 2 | 0 | 0 | 40 | 6 | ||
2010 | 4 | 0 | 1 | 1 | - | 5 | 1 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | 水原 | 22 | Kリーグ | 12 | 4 | - | - | 12 | 4 | ||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2011 | 清水 | 19 | J1 | 28 | 8 | 4 | 1 | 1 | 0 | 33 | 9 |
2012 | |||||||||||
通算 | 日本 | J1 | 196 | 76 | 27 | 11 | 10 | 1 | 233 | 88 | |
アルゼンチン | プリメーラ | 6 | 1 | ||||||||
ドイツ | ブンデス1部 | 135 | 25 | ||||||||
韓国 | Kリーグ | 12 | 4 | ||||||||
総通算 | 349 | 106 |
その他の公式戦
- 1998年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1999年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2000年
- スーパーカップ 1試合0得点
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国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | |||
2003-04 | ハンブルガー | 32 | 2 | 0 |
2005-06 | 7 | 0 | ||
2006-07 | フランクフルト | 19 | 5 | 2 |
通算 | UEFA | 14 | 2 | |
AFC | ACL | |||
2008 | 浦和 | 7 | 4 | 1 |
2010 | 水原 | 22 | 1 | 0 |
通算 | AFC | 5 | 1 |
その他の公式戦
- 2004-05
- UEFAインタートトカップ 1試合0得点
- 2005-06
- UEFAインタートトカップ 3試合0得点
経歴
- 1998年3月21日 - Jリーグ初出場、初得点 - 京都パープルサンガ戦 (ジュビロ磐田スタジアム)
- 2000年2月13日 - A代表初出場(アジアカップ予選) - シンガポール戦 (マカオ)
- 2000年2月16日 - A代表初得点(アジアカップ予選) - ブルネイ戦 (マカオ)
代表歴
出場大会など
- U-16、U-17日本代表
- 1994年 AFC U-17選手権 カタール大会 (優勝)
- 1995年 FIFA U-17世界選手権 エクアドル大会 (グループリーグ敗退)
- U-19、U-20日本代表
- 1998年 AFCユース選手権 タイ大会 (準優勝)
- 1999年 FIFAワールドユース ナイジェリア大会 (準優勝)
- U-23
- 2000年 シドニーオリンピック (ベスト8)
- A代表
- 2000年 AFCアジアカップ2000 (優勝)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 (グループリーグ敗退)
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2007年 AFCアジアカップ2007 (4位)
試合数
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2000 | 11 | 8 |
2001 | 4 | 0 |
2002 | 4 | 1 |
2003 | 8 | 2 |
2004 | 5 | 1 |
2005 | 7 | 2 |
2006 | 5 | 3 |
2007 | 9 | 6 |
2008 | 4 | 0 |
通算 | 57 | 23 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
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1. | 2000年2月16日 | 中国 | ブルネイ | ○9-0 | AFCアジアカップ2000・予選 |
2. | |||||
3. | 2000年2月20日 | 中国 | マカオ | ○3-0 | |
4. | 2000年10月14日 | レバノン | サウジアラビア | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 |
5. | 2000年10月17日 | レバノン | ウズベキスタン | ○8-1 | |
6. | |||||
7. | |||||
8. | 2000年10月24日 | レバノン | イラク | ○4-1 | |
9. | 2002年3月27日 | ポーランド | ポーランド | ○2-0 | 親善試合 |
10. | 2003年8月20日 | 日本 | ナイジェリア | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2003 |
11. | |||||
12. | 2004年3月31日 | シンガポール | シンガポール | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
13. | 2005年9月7日 | 日本 | ホンジュラス | ○5-4 | キリンチャレンジカップ2005 |
14. | 2005年10月8日 | ラトビア | ラトビア | △2-2 | 親善試合 |
15. | 2006年2月28日 | ドイツ | ボスニア・ヘルツェゴビナ | △2-2 | 親善試合 |
16. | 2006年5月30日 | ドイツ | ドイツ | △2-2 | 親善試合 |
17. | |||||
18. | 2007年3月24日 | 日本 | ペルー | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2007 |
19. | 2007年6月1日 | 日本 | モンテネグロ | ○2-0 | キリンカップサッカー2007 |
20. | 2007年7月9日 | ベトナム | カタール | △1-1 | AFCアジアカップ2007 |
21. | 2007年7月13日 | ベトナム | アラブ首長国連邦 | ○3-1 | |
22. | |||||
23. | 2007年7月21日 | ベトナム | オーストラリア | △1-1 |
チームタイトル
- AFC U-16選手権 優勝 : 1994
- アジアクラブ選手権 優勝 : 1999
- アジアスーパーカップ 優勝 : 1999
- Jリーグ 優勝 : 1999 2002
- AFCアジアカップ 優勝 : 2000
- DFLリーガポカール 優勝 : 2003
- UEFAインタートトカップ 優勝 : 2005
- 韓国FAカップ 優勝 : 2010
個人タイトル
- 1998年 - AFC U-19選手権 得点王
- 1998年 - ナビスコカップ (ニューヒーロー賞)
- 2000年 - AFC All Star Team
- 2000年 - アジアカップ2000 ベストイレブン
- 2002年 - Jリーグ最優秀選手賞、得点王、ベストイレブン
- 2007年 - アジアカップ2007 得点王
出版
執筆書籍
- 2007年 - 病とフットボール〜エコノミークラス症候群との闘い〜 (角川・エス・エス・コミュニケーションズ) ISBN 4827550115
関連書籍
- 2002年 - 高原直泰物語 (小学館、佐藤俊) ISBN 9784091497512
- 2003年 - GOAL GATE 高原直泰 1979 - 2003 (小学館、佐藤俊) ISBN 9784093553322
- 2006年 - 高原直泰 原点 (アールズ出版・増補改訂版、高部務) ISBN 9784862040114
出演
CM
- 日本郵政公社
- サントリー「デカビタC」 (2001年) - 中田浩二、加茂周との共演
- ソニー「VAIO W」 (2002年)
- LIFE CARD (2003年 - )
- リフティング編
- ドイツ語編
- バルコニー編
- ショッピング編
- 中央駅編
- 港編
- 散歩編
- アルスター編
関連項目
脚注
注釈
- ^ 後のアテネ五輪にオーバーエイジ枠で出場予定だったが、再び同じ症状が発症したため辞退する。
- ^ 実際はゲンを担ぐことが目的だが、本人曰く「自分には一桁の番号は、似合わない」とのこと。
- ^ 実際は好調を維持していた時期も本職のFWでの起用ではなく、左右のMFで起用されていた中で結果を出していた。
- ^ これは、マスコミ・ファンなどは調子が良ければ絶賛し、悪ければ批判するものなので、それに一喜一憂したりして惑わされてはいけない、という意味である。同時期に、試合中に高原のプレーが自己満足じゃないのかと指摘した際には、ドゥンガは「1人でサッカーはするものじゃない。1人でやりたいならコーナーキックも蹴ってくればいい」とコーナーキックを蹴らせたこともある。
出典
- ^ ロイター通信 2008年1月6日
- ^ 高原移籍は去年決定…開幕前から構想外
- ^ 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト (2010年7月23日). “高原直泰、水原三星ブルーウィングスに完全移籍”. 2009年7月24日閲覧。
- ^ “浦和高原ソウルと折り合わず急転水原三星”. 日刊スポーツ. (2010年7月20日) 2010年12月13日閲覧。
- ^ “高原、水原三星にレンタルでなく完全移籍”. 日刊スポーツ. (2010年7月24日) 2010年12月13日閲覧。
- ^ 高原直泰 (2010年8月28日). “taka19: ヤバイ!”. TAKA19.COM(公式サイト). 2010年12月13日閲覧。
- ^ 高原直泰 (2010年11月7日). “taka19: シーズン終了”. TAKA19.COM(公式サイト). 2010年12月13日閲覧。
- ^ “元日本代表・高原の清水移籍が決定”. デイリースポーツ. (2010年12月23日) 2010年12月23日閲覧。
- ^ “高原2発!日独韓アルゼンチン リーグ通算100号!…清水”. スポーツ報知. (2011年5月23日) 2011年5月24日閲覧。