把瑠都凱斗

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把瑠都凱斗
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基礎情報
四股名 把瑠都 凱斗
本名 カイド・ホーヴェルソン
Kaido Höövelson
愛称 カイド
生年月日 (1984-11-05) 1984年11月5日(39歳)
出身 旧・ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦エストニア・ソビエト社会主義共和国(現・  エストニアレーネ=ヴィル県ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡ロフ村
身長 198cm
体重 188kg
BMI 47.95
所属部屋 三保ヶ関部屋 - 尾上部屋
得意技 左四つ、寄り、投げ
成績
現在の番付 西大関
最高位 東大関
生涯戦歴 400勝184敗57休(48場所)
幕内戦歴 299勝168敗43休(34場所)
優勝 幕内最高優勝1回
十両優勝3回
幕下優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞5回
技能賞1回
データ
初土俵 2004年5月場所
入幕 2006年5月場所
趣味 コイン集め、釣り、映画音楽鑑賞、パソコン
備考
2012年5月22日現在

把瑠都 凱斗(ばると かいど、1984年11月5日 - 、本名:カイド・ホォーヴェルソン Kaido Höövelson )は、旧・エストニア・ソビエト社会主義共和国 (現・エストニア共和国レーネ=ヴィル県 ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡 ロフ村 出身、尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属の現役大相撲力士で、スウェーデン系エストニア人である。身長198cm、体重188kg、血液型A型。最高位は東大関(2010年7月場所など)。得意技は左四つ、寄り、投げ、吊り。

四股名は母国エストニアが面するバルト海から。凱斗の名は本名Kaido(カイド)の音に、日本で素晴らしいものをつかみ母国に凱旋してほしいという願いを込めた漢字をあてて、三保ヶ関親方が名づけた。史上初のエストニア出身力士・関取

取り口

巨躯強力を活かした豪快な相撲が魅力で、左四つの体勢からの寄り、投げ、吊りを得意とする。相撲界においても「怪力」と評される強い握力の持ち主であり、廻しを取った際の安定感は特筆すべきものがある。通常の力士からすれば規格外の懐の深さと腕の長さにより、肩越しの上手など多少無理な体勢でも攻めることが出来る。2012年の1月場所の13日目で初優勝を決めた取組でも、琴奨菊を相手に肩越しから取った上手で相手を吊り上げての白星であった。また、その懐の深さで、引き技もよく決まる。膝を負傷する前は優れたスピードとバランス感覚も持ち合わせ、土俵際の際どい場面での逆転もみせていたが、荒削りゆえの強引な相撲を指摘されることもあった。

膝の負傷後は、下半身の強化や相撲経験の深化によって、身体能力に任せるばかりではない正統派の四つ身の相撲を身につけてきている。また、徐々に突き押しにも磨きがかかり、2009年後半ごろより豪快なもろ手突きや突っ張りが見られるようになった。このもろ手突きは、貴乃花のビデオを見て研究し身につけたものである[1]。また、突っ張りに関しては、元琴錦がかつての曙のようだと評している[2]。この突き押しが評価されて、大関昇進を決めた2010年3月場所では技能賞の栄誉にあずかるまでに至った。

その巨躯からすれば当然ではあるが、四つ身の攻防において頭をつけることは極めて稀で、2010年1月場所の琴欧洲戦を頭をつけて勝利した際のインタビュー内で「今まで頭をつける相撲をとったことがなかった」と把瑠都本人が認めている。

来歴

2008年9月

入門前

カイド・ホーヴェルソン
基本情報
ラテン文字 Kaido Höövelson
 エストニア
出生地 旧・ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦エストニア・ソビエト社会主義共和国 (現・  エストニアエストニア共和国レーネ=ヴィル県ヴァイケ・マーリヤ郡エバヴェレ村
生年月日 (1984-11-05) 1984年11月5日(39歳)
身長 198cm
選手情報
階級 男子無差別級
引退 2004年
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レーネ=ヴィル県 ヴァイケ・マーリヤ郡 エバヴェレ村 で二男一女の二男として生まれ、間もなく現在も実家のある 同県 ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡 ロフ村 に移って幼少期から成人までを過ごした。[3]

柔道経験者であり、18歳の時、本人曰く「出場選手4人」とのことであるが、柔道エストニアジュニア王者の栄冠に輝いた。早くにを亡くし生活苦に喘いでいたこともあり、バーの警備員を務めていたこともあった[4]。また、その優しい性格と太り気味の体格からいじめを受けていたとされている。[4][5]

そのようなホーヴェルソン少年の相撲との出会いは12歳、小学6年生の時であった。相撲の国際的な普及を図る国際相撲連盟の理事夫妻がラクヴェレを訪れ相撲の指導を行った際、多くの子どもが初体験の相撲に戸惑う中、ホーヴェルソン少年だけは目を輝かせて相撲を取っていたという。後に把瑠都もこの日のことを、「何で裸になるんだろうと思ったけど、力と力の勝負が本当に楽しかった。今思えば、これも運命でしょう」と述懐している[6]。把瑠都はこの夫妻を今もなお日本の両親と慕い、大相撲への入門もこの夫妻と国際相撲連盟の会長の尽力があって実現したことであった。[7]

スピード出世

2004年5月場所初土俵。序ノ口序二段と2場所連続で優勝するなどスピード出世で、2005年7月場所では西幕下6枚目で5勝2敗という成績で同部屋の白石(元白乃波)と同時に十両昇進を果たした[8]。初土俵から所要8場所での新十両昇進は小錦と並ぶ史上3位タイ(当時)のスピード出世であった。

なお、その9月場所では、優勝した豊ノ島に唯一の黒星を付けている。翌11月場所は十両西4枚目に躍進し、史上最速の前相撲からの所要10場所での新入幕を十分狙える位置にあったが、場所初日に急性虫垂炎を発症し全休、翌2006年1月場所では幕下に陥落した。幕下では地力の違いを見せ、6番相撲を終えた時点で全勝が1人となる幸運も重なり、虫垂炎の手術時に施された全身麻酔の後遺症から思うように身体が動かない中、7人による優勝決定戦を制して幕下優勝、1場所で十両に復帰した。翌3月場所では北の富士以来43年ぶり4人目(本場所が15日制になってから)となる十両全勝優勝を果たし、史上2位タイとなる所要12場所での新入幕を決めた。この場所千秋楽の全勝優勝インタビューにて解説北の富士から(将来の目標について)「横綱、横綱」の声が出るなど、早くも横綱昇進を期待する声が上がった[9]

怪我に苦しむ

新入幕の2006年5月場所は序盤で2敗を喫するも、そこから素質の高さを見せて勝ち進み13日目終了まで2敗をキープする。最終盤の2日間は、この場所優勝を争った関脇雅山大関白鵬に連敗を喫したが、11勝4敗で優勝次点の成績をおさめ、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した。前相撲から13場所目での三賞受賞は栃東、琴欧州(現・琴欧洲)と並び史上最速である。またこの場所の千秋楽で三役揃踏を行ったが、新入幕でこれをつとめたのは1973年9月場所の大錦以来33年ぶり、史上2人目のことであった。また、前相撲から13場所目でのこれより三役出場も琴欧州を抜いて史上最短の記録である。このとき、あまりの出世の早さ(および独特の髪質)が影響して大銀杏が結えなかったため、ちょん髷姿で揃い踏みを行った。

2006年9月場所は東前頭筆頭まで進み三役昇進を期待されたが、上位陣に対して苦戦し、10日目の雅山との取組で左ひざを痛め、翌日から休場した。これ以降しばらく怪我に苦しむことになる。上位に対して攻め手が通じず、そこで安易な引き技を多用し、その際に鍛錬不足による下半身の弱さから無理な力が脚にかかり、負傷の原因となった。翌11月場所は稽古不十分ながら10勝を上げたものの、下半身の不安定さからたたらを踏む場面が多く、複数のテレビ・ラジオ解説者を嘆かせた。さらに2007年1月場所の琴奨菊との取組で左膝前十字靱帯を損傷し長期休場を余儀なくされ、5月場所では十両に陥落した。この場所で2度目の十両優勝を果たし、わずか1場所で幕内復帰を果たしたが、7月場所初日の土佐ノ海戦でまたも左膝を痛め2日目より休場。しかし、再度の十両陥落となった9月場所で他を寄せ付けず、3度目の十両優勝を果たす。11月場所は2度目の帰り入幕ながら前半戦から好成績をあげて優勝争いに加わり、敢闘賞受賞。それ以後は大きな怪我も無く、幕内に定着することになる。

上位定着・大関獲り

2008年1月場所では、15日間皆勤での負け越しを初めて経験した。しかし、同年の7月場所では、西前頭5枚目の番付で10勝5敗と二桁勝利をあげた。この場所では上位陣に負け越した力士が多かったために、翌9月場所では初の三役となる小結昇進を果たした。この場所は9日目を終えて2勝7敗と非常に危なかったが終盤奮起したか強さを発揮、残り6日間を全部勝って8勝7敗と見事勝ち越し、11月場所では関脇昇進を果たした。その場所も勝ち越して翌2009年1月場所は東関脇に昇進した。5月場所は大関以上に全敗し、自身最低の4勝11敗という成績で4場所連続で在位した関脇から陥落してしまった。そればかりでなく、千秋楽の千代大海戦での明らかなダイビング無気力相撲であったとして、師匠を通じて注意処分を受けた[10]。西3枚目に下がった7月場所では序盤から好調で11勝4敗、三賞受賞はならなかったが来場所三役復帰を果たした。

大関獲りの話題が大きくなったのは2009年9月場所の事であった。この場所把瑠都は5大関全員に勝つという偉業を成し遂げるが、これは1986年の保志(後の横綱北勝海)以来の事であった。優勝争いの方も、13日目まで2敗と両横綱を追走する立場だったが、14日目に鶴竜に敗れて3敗目となり優勝の可能性は消えた。それでも12勝3敗の成績で敢闘賞を受賞し一躍注目を浴びた。しかし、11月場所は脆さが出て9勝6敗と一桁の勝ち星に終わり、来場所は「かなりの大勝ではないと大関にはなれない」との声があった。[11]

大関昇進の望みもあった2010年1月場所では、7日目に白鵬にはじめて勝つ殊勲の星を挙げ、また白鵬の連勝を30で止めた。初優勝と大関昇進も期待されたが10日目に豊ノ島、11日目に朝青龍に敗れて3敗となってしまった。その後は千秋楽まで連勝を続け12勝3敗、初の殊勲賞を受賞した。また、直近3場所の勝ち星の合計が大関昇進の目安となる三役での33勝に達したものの、場所後は昇進の話題すら殆ど出ないままだった。次の3月場所を迎えるに当たり、審判部友綱審判部長は、把瑠都の大関昇進に必要な星の目安が「13勝」であるとの認識を示したが、これは「三役3場所33勝」の基準を1勝上回る厳しい条件であった。[12]

その3月場所、把瑠都は場所前に左手親指のじん帯を損傷し、場所後の大関昇進は不安視されていた。しかし初日から、圧倒的に強い所と懐に入られる危ない所の両方を見せながらも、突き押しに著しい進境を見せて勝ち進んだ。11日目の白鵬との一番には何も出来ずに敗れたが、白鵬と千秋楽まで優勝争いを繰り広げた。優勝こそ逃したが大関以下の力士を全員破る14勝1敗の成績で終えて昇進基準を上回る成績を残し、場所後の大関昇進が確定的になった[13]。さらにこの場所は5度目の敢闘賞に加え、突き押しが評価されて初めての技能賞を受賞した。千秋楽の琴光喜との相撲は、立合いの突っ張りで相手を突き起こしておいて、右上手と左前褌を取って引き付け、一気に寄り切るという内容で、解説者の北の富士勝昭や元NHKアナウンサーで相撲評論家の杉山邦博[4]が技能賞に相応しいと太鼓判を押す内容であった。3月31日、大関昇進が決定。なお昇進伝達式での口上は「謹んでお受けいたします。稽古に精進して、 栄誉ある地位を汚さぬよう努力いたします。」であった。近年は伝達式の口上に四字熟語を用いる力士が多いが、把瑠都は「自分が理解していない言葉を使っても意味がない」という理由で四字熟語は用いなかった。

大関昇進後

新大関として出場の2010年5月場所、前半戦は初日から7連勝したものの、中日8日目の鶴竜に敗れて初黒星。9日目に勝ち越したものの、10日目から3連敗を喫するなど後半戦は失速、結局10勝5敗に留まった。続く7月場所は2日目から連敗するなど序盤波に乗れず、その後持ち直して11日目に勝ち越しを決めたが12日目から4連敗を喫し8勝7敗に終わった。9月場所は8日目まで7勝1敗と好調だったが、9日目魁皇に敗れてからは失速し、9勝6敗に終わった。11月場所は11日日まで10勝1敗で優勝争いに加わったが、12日目で平幕の豊ノ島(同場所14勝1敗で優勝同点)に不覚を取り2敗と後退、その後は14日目魁皇に、千秋楽白鵬に連敗し11勝4敗だった。

翌2011年1月場所は、初日敗れた後9日目まで8連勝とし優勝争いに加わるも10日目から3連敗するなど失速。千秋楽も琴欧洲に敗れ9勝6敗に終わる。同年3月場所は大相撲八百長問題により開催中止となった。

2011年5月技量審査場所では、3日目の豪栄道戦で上手投げで敗れた直後、記者陣に対して「遊びの場所みたい」と問題発言、翌日理事長室に呼ばれ放駒理事長(元大関・魁傑)らに厳重注意の処分を受けた[14]。同場所は12日目まで10勝2敗だったが、翌13日目から3連敗を喫して又しても優勝争いから完全に脱落となった。

2011年11月場所は4日目まで1勝3敗と絶不調、一時は途中休場も危ぶまれた程だった。だがその後は12日目で日馬富士に敗れた以外は白星を重ねて11勝4敗、千秋楽結びの一番では白鵬をはたき込みで下して2場所ぶりの勝利、さらに白鵬の9回目の全勝優勝を阻止した。

2012年1月場所は、初日から好調で相手を圧倒する相撲で13日目まで連勝街道を走り、13日目に白鵬が琴欧洲に敗れた為、初の幕内最高優勝を獲得した[15]。14日も勝ち星をあげ、千秋楽には全勝優勝をかけて白鵬と対戦したが敗れて全勝優勝ならず。14勝1敗で初場所を終えた。優勝インタビューでは、日本に呼んだ母親と妻の喜ぶ姿を見て、人目を憚らずに男泣きしながらも「お母さんがいなかったら私はいない。産んでくれてありがとう」と、心からの感謝を告げた。[16]

2012年3月場所は綱取りだったが、12日目で3敗してしまい、昇進の最低条件として挙げられていた「13勝以上での優勝」を達成できなくなった。その後も日馬富士にしか勝利できず、最終的に10勝5敗であった為、綱取りは失敗に終わった。 翌2012年5月場所は11日目まで3敗を守ったが、その後連敗し優勝争いから脱落。千秋楽では、勝てば優勝決定戦進出となっていた稀勢の里を上手投げで下して優勝を阻止。楽日に存在感を見せた。

エピソード

人物

  • 髪が細く、伸びも遅いブロンドヘアのコーカソイドであり、どのように大銀杏を結うのか注目されていた。初土俵から3年後の2007年5月場所で初めて大銀杏を結ったが、これはかつての兄弟子である三保ヶ関部屋の三浦の毛髪を使った付け毛であった。現在は髷を結うときの鬢付け油に黒い着色をしているため、ブロンドというより茶・黒に近い髪色キャラメルである。
  • 外見から一部マスコミでは角界ディカプリオと呼ばれている。
  • 趣味はコイン集めと釣り[17]
  • 語学に堪能で、入門の時点でエストニア語のみならず、ドイツ語ロシア語英語仏語を話すことができた。
  • 塩撒きパフォーマンスを行う北桜との対戦では、そのお株を奪うような大量の塩撒きを披露して館内を湧かせたり、出身地を「奄美大島」と答えたりと、極めて陽気で茶目っ気のある性格であり、部屋での人間関係も良好である。
  • 2009年2月にロシア出身の2歳年上の女性と結婚した(現在のエレナ夫人)。
  • 握力が右85kg、左93kgという怪力の持ち主。把瑠都本人の弁では「リンゴくらいなら簡単に握り潰せる」とのこと。BISTRO SMAPでは両手で裂くようにリンゴを割っていた。
  • BISTRO SMAPに出演した時に「実は恐がり」と言った。注射も恐くて苦手らしい。
  • 前述の通り脚の負傷が多いが、呼出の支えを借りて土俵を降りるような重傷を負っても、退場前に必ず一旦呼出に手を離させ自力で振り向き土俵に一礼してから退場する、負けても深々ときちんと一礼をする等、土俵態度への評価は高い。
  • とても親孝行者としても知られている。遠く離れた日本で力士としての生活を選んだのは、今まで女手一つで兄弟3人を苦労して育ててきてくれた母親を助けたい一心だった。エストニアの関係者も、「日本に来る前に“家族を幸せにしたいから”と話していた」と明かしたという。
  • 2011年5月技量審査場所を「遊んでるみたい」と3日目の取組後に問題発言、翌4日目の取組前に厳重注意処分を受けた。把瑠都本人は「冗談だった」と弁明するも、生活指導部長・二所ノ関親方(元関脇・金剛)からは「お前のたった一言で名古屋場所が出来なくなるんだぞ、分かってるのか!」と叱りつけられ、放駒理事長からは再度同様の言動があった場合は、出場停止の厳しい処分もあり得る旨を言い渡された。

合い口

  • NHKの新十両紹介のインタビューでもっとも対戦したい力士に琴欧洲を挙げた。理由は自分より背が高い力士であるためである。2006年7月場所9日目に初顔の取組が組まれ、がっぷり四つからの投げの打ち合いを制して初勝利を挙げた。2009年1月場所では敗れてこの場所初黒星を喫した。現在、琴欧洲とはあまり相性が良くなく対戦成績は7勝11敗(不戦敗1)になっている。
  • 白鵬との取組は力の入る長い相撲になる事が多い。初顔から11連敗していたが、2010年1月場所に掬い投げで初勝利した。その後再び7連敗を喫したが、2011年7月場所で久しぶりに勝利し、さらに2011年11月場所千秋楽結びの一番においては白鵬の9回目の全勝優勝を阻止した。
  • 朝青龍との取組もまた熱戦にはなるものの、結局9戦全敗で一度も勝てずに終わった。
  • 高見盛には5戦全勝で、勝率で朝青龍、白鵬の両横綱を上回っている。

略歴

  • 2002年
  • 2003年
    • エストニアジュニア柔道選手権優勝
  • 2004年
    • 2月 - 日大相撲部の倉園一真(後の幕下薩摩力尾上部屋、2009年9月現役引退)の父親の仲介でエストニアから北欧司(入間川部屋、2004年9月現役引退)と共に来日し、日大相撲部合宿所で日本や相撲に馴化
    • 5月場所 - 三保ケ関部屋に入門、初土俵
    • 7月場所 - 序ノ口優勝
    • 9月場所 - 同部屋の里山との優勝決定戦を制し、序二段優勝
  • 2005年
    • 9月場所 - 新十両、所要8場所(前相撲から)は小錦と並び歴代3位タイ。初日から13連勝の豊ノ島に土を付け全勝を阻み、12勝3敗で優勝次点と活躍
    • 11月場所 - 最速記録の所要10場所での入幕も見える西十両4枚目に昇進したが、場所の初日に急性虫垂炎を発症し初日から休場(1不戦敗14休)
    • 12月 - 入門以来初めて故郷エストニアに一時帰国
  • 2006年
    • 1月場所 - 11月場所の休場で十両陥落(西幕下3枚目)、7人による優勝決定戦を制し幕下優勝(6勝1敗)
    • 3月場所 - 再十両(東十両11枚目)、初日から連勝し13日目にして十両初優勝を決め、更には1963年11月場所の北の富士以来42年4カ月ぶり史上4人目、外国人としては初となる15戦全勝優勝を達成し「北の富士賞」受賞
    • 5月場所 - 新入幕、所要12場所(前相撲から)は所要11場所の琴欧州に次ぎ、板井小錦栃東朝青龍時天空嘉風と並び歴代2位タイ。11勝4敗で優勝次点、自身初の三賞・敢闘賞を受賞
    • 8月 - 尾上部屋の分家独立に伴い、白石、里山らとともに三保ケ関部から尾上部屋に移籍
  • 2007年
    • 1月場所 - 3日目の琴奨菊戦で浴びせ倒された際に左膝負傷、翌日から途中休場(2勝2敗11休)
    • 3月場所 - 怪我の回復が遅れて全休 
    • 5月場所 - 西十両11枚目に陥落、14勝1敗の圧倒的な成績を挙げて2度目の十両優勝
    • 7月場所 - 再入幕(前頭14枚目)、初日の土佐ノ海戦で浴びせ倒された際に左膝を負傷し3日目から途中休場
    • 9月場所 - 十両陥落(西十両9枚目)、圧倒的な強さで3度目の十両優勝
    • 11月場所 - 2度目の再入幕、13日目まで2敗で優勝争いに加わり11勝4敗の好成績を残し敢闘賞受賞(2回目)
  • 2008年
    • 1月場所 - 初の15日間皆勤での負け越し(7勝8敗)
    • 3月場所 - 先場所の負け越しで番付を後退させたが、優勝次点の12勝3敗の好成績を挙げ敢闘賞受賞(3回目)
    • 5月場所 - 2006年9月場所以来10場所ぶりに前頭筆頭まで番付を上げたが、上位の壁に跳ね返され初めての2桁負け越し(5勝10敗)
    • 7月場所 - 西前頭5枚目、10勝5敗
    • 9月場所 - 自身初の三役昇進(東小結)、8勝7敗
    • 11月場所 - 新関脇(西関脇)、9勝6敗
  • 2009年
    • 2月 - 2歳年上のエレナさん(ロシア)と結婚
    • 5月場所 - 千秋楽に大関・千代大海が把瑠都をあっけなく押し倒した相撲に対し、監察委員会(友綱委員長)が師匠を通して両力士に注意
    • 9月場所 - 東小結で12勝3敗、保志以来23年ぶりに関脇以下の力士による5大関撃破を果たし敢闘賞受賞(4回目)
    • 10月 - Tシャツ、短パン姿で六本木を闊歩する姿が写真週刊誌にキャッチされ、日本相撲協会から厳重注意処分
  • 2010年
    • 1月場所 - 東関脇で12勝3敗、殊勲賞受賞(1回目)
    • 3月場所 - 東関脇、千秋楽まで白鵬と優勝争いを繰り広げ優勝次点の14勝1敗、敢闘賞(5回目)と自身初の技能賞(1回目)を受賞
    • 3月31日 - 理事会で大関昇進を満場一致で決定、外国出身力士としては8人目
    • 5月場所 - 新大関。初日から7連勝するも、その後失速し10勝5敗
  • 2011年
    • 3月場所 - 大相撲八百長問題により本場所開催中止
    • 5月場所 - 技量審査場所として開催。3日目の取組後「遊びの場所みたい」と不謹慎発言に対し、翌日相撲協会から厳重注意
    • 11月場所 - 千秋楽結びの一番、14戦全勝だった白鵬をはたき込みで下し、白鵬の9回目の全勝優勝を阻止
  • 2012年
    • 1月場所 - 初日から自身初の14連勝(前年11月場所13日目から17連勝)、13日目白鵬が琴欧州戦で敗れ3敗となった時点で自身初の幕内最高優勝が決定。千秋楽結びの一番、白鵬戦で全勝優勝を狙うも寄り切りで初黒星、14勝1敗
    • 3月場所 - 自身初の綱取り場所だったが、10勝5敗に終わり失敗

主な成績

2012年5月場所終了現在

通算成績

  • 通算成績:400勝184敗57休(48場所)
  • 幕内成績:299勝168敗43休(34場所)
  • 大関成績:122勝58敗(12場所)
  • 十両成績:54勝7敗14休(5場所)
  • 幕内在位:34場所
  • 大関在位:12場所
  • 三役在位:9場所(関脇7場所、小結2場所)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:1回(2012年1月場所・14勝1敗)
  • 十両優勝:3回(2006年3月場所、2007年5月場所、2007年9月場所)
  • 幕下優勝:1回(2006年1月場所)
  • 序二段優勝:1回(2004年9月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(2004年7月場所)

三賞・金星

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:1回(2010年1月場所)
    • 敢闘賞:5回(2006年5月場所、2007年11月場所、2008年3月場所、2009年9月場所、2010年3月場所)
    • 技能賞:1回(2010年3月場所)
  • 金星:なし

場所別成績

把瑠都凱斗[18]
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2004年
(平成16年)
x x (前相撲) 東序ノ口40枚目
優勝
7–0
東序二段30枚目
優勝
7–0
西三段目33枚目
5–2 
2005年
(平成17年)
東三段目6枚目
6–1 
西幕下32枚目
5–2 
東幕下22枚目
6–1 
西幕下6枚目
5–2 
西十両14枚目
12–3 
西十両4枚目
0–1–14 
2006年
(平成18年)
西幕下3枚目
優勝
6–1
東十両11枚目
優勝
15–0
西前頭11枚目
11–4
西前頭4枚目
9–6 
東前頭筆頭
4–7–4 
西前頭6枚目
10–5 
2007年
(平成19年)
西前頭3枚目
2–2–11 
西前頭13枚目
休場
0–0–15
西十両11枚目
優勝
14–1
東前頭14枚目
0–2–13 
西十両9枚目
優勝
13–2
東前頭16枚目
11–4
2008年
(平成20年)
西前頭6枚目
7–8 
東前頭7枚目
12–3
西前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
10–5 
東小結
8–7 
西関脇
9–6 
2009年
(平成21年)
東関脇
9–6 
東関脇
8–7 
東関脇
4–11 
西前頭3枚目
11–4 
東小結
12–3
東関脇
9–6 
2010年
(平成22年)
東関脇
12–3
東関脇
14–1
西大関3
10–5 
東大関1
8–7 
東大関2
9–6 
西大関1
11–4 
2011年
(平成23年)
西大関1
9–6 
八百長問題
により中止
東大関2
10–5 
東大関1
11–4 
西大関1
10–5 
東大関1
11–4 
2012年
(平成24年)
東大関1
14–1 
東大関1
10–5 
西大関1
9–6 
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

2012年5月場所終了現在

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
豊真将 12 3 栃乃花 1 1 北勝力 7 3 北桜 1 1
片山 1 0 白露山 2 1 十文字 1 0 嘉風 6 1
春日王 1 0 普天王 4 1 玉乃島 3 2 岩木山 3 0
朝赤龍 6 4 雅山 10 5 白鵬 3 22 日馬富士 12 13
琴奨菊 14 11 旭天鵬 12 4 安美錦 14 6 琴光喜 5 7
琴欧洲 9 14(1) 千代大海 7(1) 5 稀勢の里 19 4 玉春日 3 0
栃乃洋 3 1 露鵬 1 5 栃東 1 1(1) 朝青龍 0 9
豪風 6 3 出島 5 0 高見盛 5 0 豊ノ島 15 4
垣添 2 2 土佐ノ海 1 1 海鵬 1 1(1) 春日錦 1 0
若麒麟 1 0 栃煌山 14 1 若ノ鵬 1 1 黒海 2 2
若の里 7 1 豊響 4 0 豪栄道 8 6 魁皇 7 8
鶴竜 12 9 時天空 5 0 栃ノ心 10 1 武州山 1 0
翔天狼 2 0 阿覧 6 2 北太樹 5 0 白馬 1 0
隠岐の海 3 1 玉鷲 1 0 臥牙丸 3 1 栃乃若 2 0
妙義龍 2 0 高安 2 0

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2012年5月場所終了現在、現役力士

TV出演

CM出演

脚注

  1. ^ 5連勝発進!把瑠都ゴキゲン「あ、ほんまに〜」(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ 大相撲 2010年春場所2010年3月27日閲覧
  2. ^ 年寄秀ノ山としてNHK大相撲中継解説に座った2010年3月場所13日目の発言。
  3. ^ 現在では、日本相撲協会の公式プロフィール本場所の場内アナウンスなどにおいては、出生地のヴァイケ・マーリヤ郡ではなく、生まれ育ったラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡を出身地として公称している。
  4. ^ a b c TBSみのもんたの朝ズバッ!』・「ズバッ!8時またぎ」2010年3月29日放送より。
  5. ^ よみうり寸評 読売新聞社 2010年4月30日
  6. ^ 原点は人懐っこい笑顔…把瑠都 角界に高い適応力(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース 2010年3月29日
  7. ^ 把瑠都の“日本の両親”倉園さん夫婦「今日は祝杯」…春場所14日目:相撲:スポーツ:スポーツ報知 2010年3月29日
  8. ^ ただし、千秋楽の「入れ替え戦」とも言える取組では燁司に敗れ、さらに同年5月場所において白石は同地位、同成績、比較対象となった須磨ノ富士(東12枚目で5勝10敗)は把瑠都の比較対象となった和歌乃山(西6枚目で3勝12敗)を単純計算で下回る地位・成績であったにもかかわらず十両昇進を見送られており、この昇進に関して疑問の声も多数上がった(同地位同成績での十両昇進は1991年11月場所の寺木(蒼樹山)以来14年ぶり、幕下が七番制になってからの45年間で9例目)。新十両の翌9月場所は優勝次点である12勝3敗の成績だったことから、結果的には正しい昇進だったと言えるものの、番付編成の基準の一貫性のなさが改めて問題となった。
  9. ^ 過去に十両で15戦全勝優勝を達成した力士は3人。北の富士が横綱、栃光豊山大関まで昇進している。
  10. ^ 「大相撲夏場所:千秋楽、千大海と把瑠都「無気力」 監察委が「注意」」毎日新聞2009年5月30日 東京朝刊
  11. ^ 平成以降、昇進2場所前の白星が1桁で大関に昇進したのは、1992年5月場所後の曙太郎ただ1人であり、しかも直前場所の5月場所では曙は優勝していた。「大関」の記事も参照の事。
  12. ^ 友綱審判部長認識“把瑠都の昇進には13勝以上”(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース-2010年3月27日閲覧
  13. ^ 大関昇進確実!把瑠都“自画自賛”の12勝目(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ 大相撲 2010年春場所-2010年3月27日閲覧
  14. ^ 把瑠都、理事長室に即呼び出し厳重注意…技量審査場所4日目 スポーツ報知-2011年5月12日閲覧
  15. ^ 把瑠都、13連勝で初優勝 スポーツ報知 2012年1月20日閲覧
  16. ^ 把瑠都、涙「産んでくれてありがとう」…初場所千秋楽 スポーツ報知 2012年1月27日閲覧
  17. ^ 「NHK大相撲中継」平成20年名古屋場所展望号収録のインタビューより
  18. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年7月3日閲覧。

関連項目

外部リンク