宝塚歌劇団

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1930年8月・月組公演:レビュウ「パリ・ゼット
出演:門田芦子巽寿美子三浦時子橘薫天津乙女
武庫川の畔に建つ宝塚歌劇団の劇場群、宝塚音楽学校
宝塚大劇場宝塚バウホール入口
開演前の宝塚大劇場客席

宝塚歌劇団(たからづかかげきだん、英称Takarazuka Revue)は、兵庫県宝塚市を本拠地に、未婚の女性だけで構成されている日本の歌劇団。阪急電鉄株式会社の直轄組織となっており、同社の社内部署「創遊事業本部歌劇事業部」が事業運営を行っている[1]。このため劇団員は同社の社員扱いとなっている。

理事長は小林公一(創始者小林一三の曾孫、阪急阪神ホールディングス取締役)。

概要

1947年(昭和22年)2月、雪組公演:グランドレビュウ「ファイン・ロマンス」(中央は春日野八千代)共演:花村由利子谺春香乙羽信子

1914年に初の公演を行って以来、今日も人気を集める女性歌劇(少女歌劇)の劇団である。現在は花(はな)月(つき)雪(ゆき)星(ほし)宙(そら)の5組と、いずれの組にも所属しない専科に分かれている。「宝塚」「ヅカ」などと略して呼ばれることも多い。

宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と、東京宝塚劇場東京都千代田区)を中心に公演を行っている。また、中劇場の宝塚バウホール(宝塚市)も所有。2001年より、劇場中継や公演案内を中心とした専門チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」の東経110度CS放送が行われている。

創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になった。現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、芝居(ミュージカル)やレヴューを上演し続けている。ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたる。

舞台に出演するのは宝塚音楽学校の卒業生であり、全員が未婚女性である。団員たちは「タカラジェンヌ」の愛称で親しまれている。退団後の再入団も認められておらず、外部の俳優が本公演に出演することもない。また団員が在団中に外部の舞台・テレビなどに出演することは少ない。団員の育成が、大きな特徴の一つであり、本公演の稽古期間は公演日数とほぼ同じである。また若手スターの勉強の場として新人公演が開催されたり、団員向けの劇団レッスン(無料)等も開講されている。

収容数2000人以上という大規模劇場で常時公演し、舞台上には照明が当てられていることから、遠目からでも演者の表情が分かるように、大き目の付けまつげ、厚めのドーラン、強いアイライン等殆どの演者が華やかなメイクを施している。このメイクは宝塚大劇場内にある「サロン・ド・タカラヅカ」で予約をすれば一般客(女性のみ)も体験が可能である。

女性だけの劇団であるため、男性役も女性が演じる。男性の役を「男役」・女性の役を「娘役」と言う。身長を目安に、劇団併設の宝塚音楽学校にどちらかを優先的に希望することになっているが、公式に定められてはいない。また、入団後、男役から娘役への転向は多数の例があるが、娘役から男役への転向例は極めてまれである。創設初期の頃は娘役に人気が集まったが、現在は男役の方がファンの人気が圧倒的に高い。そのため舞台構成なども男役を中心に作られる。

劇団のシンボルソングのようになっている「すみれの花咲く頃」は戦前のドイツ映画主題歌「リラ(またはライラック、ニワトコ)の花咲く頃」をフランスでシャンソン化して歌われているのを聴いた白井鐵造が持ち帰って詞をつけたもの(原曲のドイツ語版のCDなども発売されている)。歌劇団のみならず阪急百貨店の開店時にも演奏されるなど阪急阪神東宝グループの象徴的なテーマ曲となっている。

劇団員と宝塚音楽学校

学校に関する詳細は宝塚音楽学校を参照

団員は、劇団付属の「宝塚音楽学校」で予科1年・本科1年のあわせて2年間の教育を受けることになっている。また、宝塚歌劇団入団の条件も、音楽学校の卒業生に限られている。劇団員の正装は、黒の紋付に緑(オリーブ色)の袴であり、各種式典・退団時に着用する。

「生徒」と「研究科」

劇団入団以後も、団員は「生徒」と呼ばれる。これは、宝塚歌劇が発足当初、劇団員が「芸者舞妓のようなもの」と揶揄されたことに、小林一三が怒り「宝塚歌劇は良家の子女に高等なる音楽教育を施した“生徒”によってなされるものである」といったことに由来する。劇団と学校が一体であったこと等から、双方の期数は一致する(例:音楽学校の95期生は、劇団の95期生として入団)。

1939年(昭和14年)まで劇団員は「宝塚音楽舞踊学校(当時)の研究科生徒」という扱いであった。現在でもその名残から、生徒の入団年数を「研究科○年」略して「研○」と公式に呼んでいる(例:入団1年目の生徒は「研究科1年=研1」)。

定年とタレント契約

1972年(昭和47年)より57歳定年が導入され、現在は満60歳の誕生日に延長されている。ただし理事には定年は適用されない。現役団員のうち劇団理事は、現在では春日野八千代(名誉理事)・松本悠里轟悠の3名である。

1977年(昭和52年)入団生(63期生)から通称「(結婚)適齢期定年制度」が導入された[2]。これにより、“女子技芸員”として社員扱いをされていた生徒は、一定の学年になると“タレント”として新たに個別契約を結ぶ。従来は入団7年目(研7)がタレント契約の時期だったが、2007年(平成19年)入団生(93期生)から、入団6年目へ契約時期が早められた[3]

入団

宝塚音楽学校の2年過程を終え、卒業認定されたのち、入団式を経て正式に宝塚歌劇団の研究科1年生(研1生)となる。尚、本人の技量や容姿等の理由で歌劇団から入団を認めてもらえないこともある。主に、音楽学校の卒業式が午前中、歌劇団の入団式が午後から執り行われることが多い。[4]

その後の稽古を経て、春の大劇場公演に研1生全員が出演する。これを「初舞台公演」と呼び、研1生のことは「初舞台生」と呼ばれる。初舞台公演では、開演前に初舞台口上と、ラインダンスの披露が慣例になっている。初舞台口上は公演期間中毎日行われ、初舞台生が舞台上に整列し、日替わりで3~4名が代表して口上を述べる。ラインダンスは、ショーの1場面で与えられていることが多く、初舞台生だけでラインダンスを踊る。年によっては初舞台口上とラインダンス以外にも出演する機会が与えられることもある。

初舞台公演を経て、研1生は組の所属が決定する。これを「組配属」と呼ぶ。年度によっては、初舞台公演の後に研1生が班に分けられて、各組の本公演に分かれて出演することもある。これを「組まわり」と呼び、組まわりを経てから組配属が行われる場合もある。配属先の情報は、配属日に歌劇団の公式ページでも発表される。

生徒によっては、配属された組で一定の活動後に他の組へ異動する場合がある。それを「組替え」と呼ばれる。組替えの発表は、歌劇団の公式ページを通じて発表される。

退団

定年を迎えた場合や、結婚(前述の通り、生徒は未婚でなければならないため)・健康面・経済的な事情などで今後の活動が困難となった場合は、劇団を退団することになる。大劇場公演または東京宝塚劇場公演の出演と千秋楽付けの退団が可能で、かつ退団手続きが順調に行われた生徒は、「卒業」という形で、本公演(宝塚大劇場東京宝塚劇場の公演)の千秋楽に正装である黒紋付に緑の袴をはき、舞台上で挨拶をする。この時、所属組の上級生や音楽学校時代の同期生から花束が贈られる。千秋楽には、退団者は舞台衣装・髪飾り等に生花をあしらって舞台に出演する。

本公演以外の千秋楽付けで退団する場合は、特に決まった形式のセレモニーはないが、カーテンコールの際に生花などをあしらって舞台に出演したり、簡単なスピーチをする場合がある。

公演の千秋楽付けをもって退団する場合は、退団する公演の集合日(稽古の初日の顔合わせの日)に退団発表が宝塚歌劇団のホームページを通じて行われるが、トップスターとトップ娘役はそれより前のタイミングで退団発表が行われ、後日マスコミを集めた退団発表会見が執り行われる。

なお、諸事情により次回公演の稽古集合日付け、定年の誕生日付け、千秋楽翌日付けなどで退団する生徒もいる。その場合は本人から直接観客への挨拶をする機会はないが、機関誌の「歌劇」に退団の挨拶文が掲載される。

組構成

生徒は5つの組と、専科に分けられており、各組がそれぞれ公演を行い、必要に応じて専科に所属する生徒がこれに参加する。組に所属する生徒のことを「組子」と呼ぶ(例:花組に所属する生徒=「花組の組子」or「花組子」)。

各組には組長・副組長がいる。組長は組を統括・管理し、公私にわたって組子の面倒を見ている。最上級生が就任することが多い。副組長は組長を助け、組を統括・管理し、組長に事故があるときはその任務を代行する。

組長 副組長
花組(はなぐみ) 高翔みず希 悠真 倫
月組(つきぐみ) 越乃リュウ 花瀬みずか
雪組(ゆきぐみ) 梨花ますみ 麻樹ゆめみ
星組(ほしぐみ) 万里柚美 美稀千種
宙組(そらぐみ) 寿つかさ 鈴奈沙也
専科(せんか) -

スターシステム

概要

宝塚の大きな特徴の一つとして、「スターシステム」を採用している点が挙げられる。作品において重要な役・ポジションを担当するのは、基本的に各組所属の全生徒の中から選ばれた、一部のスターに限られている。このスターが観客動員・人気において、重要な役割を占めている。

各組のスターの頂点に立つ男役が「主演男役」あるいは「トップスター」と呼ばれ、各公演で主演を務める。そのため、脚本はトップスターに当てて書かれている。また、トップスターの相手役を務める娘役のことは「主演娘役」あるいは「トップ娘役」と呼ばれる。各公演でヒロイン的な役を演じている。正式な名称は「主演○役」であるが、公式サイト等でも「トップ○○」の名称が用いられることがある(なお、「トップ男役」「トップ娘役スター」などという呼称は誤り)。他の商業演劇とは異なり、在任中はずっと同じ生徒が主演をつとめる。ただし、2012年より月組に限り「準トップスター」が新設され、公演によってはトップスターと役替わりで主演をする立場となった。

トップスター以下、2番手、3番手…などという呼び方をするが、トップスター以外は明確に固定された地位ではないため、変動することがある。例えば天海祐希は昇進が早く、彼女より上級生が下位のスターとなったこともある。特に娘役は、トップ娘役以外は男役以上に安定していない。

スターは、容姿・スター性(華やオーラ)・人気も重要な要素であり、実力者がスターになれるとは限らない。例えば、真矢みき檀れい等はいずれも入団時の席次は下位(檀にいたっては最下位)であったが、その後の努力や人気が評価されてトップスター(檀はトップ娘役)に就任した。

現在のようなスターシステムは、1980年代に確立された。それ以前では、トップが2人であったり、公演ごとに主演者が異なったり、またスターの他組への特別出演が現在よりも多く実施されたりするなど、より柔軟性に富んだ配役を行なっていた。

「路線」

有望な生徒は、トップスター候補として下級生時代より新人公演・バウ公演などで役を与えられ経験を積む。この一連の流れをファンは「スター路線」さらに略して「路線」と呼び、劇団からスターとして扱われることを“路線に乗る”などと表現する。昇進試験の有ったSKDとは異なり、公式かつ明確に定められたものではないため、抜擢されていた団員がいつの間にか脇へまわるといったことも多々有る。

路線に乗った生徒は、本公演でも徐々に大きな役・ソロ場面・より豪華な衣装が与えられていく。

トップスターになるためには、以下の条件が必須とされている。ただし昇進の早かった黒木瞳等は一部の条件を満たしておらず、例外もあり得る。

  • 新人公演での主演やヒロイン
  • バウホール等小劇場での単独主演・ヒロインと、公演の成功

(以下は男役のみ)

  • 2番手(準トップ)を経験する
  • 機関誌の表紙に登場する
  • 公式カレンダーに登場する

など多岐にわたる。

トップスターの任期

男役の場合、概ね研12〜15で就任するが、様々な事情で遅くなることも早くなることもある。スターシステムが確立された1980年以降では、前述の天海祐希が史上最速の研7(1987年入団 → 1993年就任)の他、研10で就任した大地真央(1973年入団 → 1982年就任)・杜けあき(1979年入団→1988年就任)が早い例である。

一方、遅い例としては研18の大空祐飛(1992年入団 → 2009年就任)、研16の紫吹淳香寿たつき(共に1986年入団 → 2001年就任)・安蘭けい(1991年入団 → 2006年就任)・霧矢大夢(1994年入団 → 2009年就任)等が挙げられる。早い理由は圧倒的なスター性の評価・人気など。逆に遅い理由としては、人事によるところが大きい。

娘役の場合では、就任時期は一概に言えず、最速は黒木瞳の研2(1981年入団 → 1982年就任)で、他に研3の麻乃佳世(1988年入団→1990年就任)・千ほさち(1994年入団 → 1996年就任)・映美くらら(1999年入団 → 2001年就任)等がいる。遅い例としては研14の渚あき(1988年入団 → 2001年就任)、研10のひびき美都(1978年入団 → 1987年就任)が挙げられる。人気は男役が圧倒的なため、相手役と容姿が釣り合うか否か、ダンス・演技の組み易さ等がトップ娘役の重要な選定基準であり、就任時期は様々である。娘役は入団10年未満での就任が多く、学年も相手役より下級生であることがほとんどである。

トップスターに就任すると、専科へ異動する極少数の例(榛名由梨轟悠など)を除き、数年で退団することになる。すなわち公演回数にして4〜10回程度が目安となるが、後継スターの成長・本人の意欲、また健康上の理由等で変動する。

短期の例は、匠ひびき(2001年 - 2002年)・絵麻緒ゆう(2002年)・貴城けい(2006年 - 2007年)の1年未満(1公演)が代表的であるが、いずれも退団理由が人事上の問題というのが明確であり、劇団の姿勢がファンから激しく非難された。

長期の例は、トップ娘役を12年に渡り務めた花總まり(1994年 - 2006年)が代表的であるが、これは他と比較しても極めて稀な例である。他に和央ようか(2000年 - 2006年)の6年、南風まい(1983年 - 1988年)・剣幸こだま愛(共に1985年 - 1990年)・麻乃佳世(1990年 - 1995年)・春野寿美礼(2002年 - 2007年)の5年といった例がある。

スターシステム確立以前では、鳳蘭(1970年 - 1979年)・榛名由梨(1973年 - 1982年)の9年、安奈淳(1970年 - 1978年)の8年などの例がある。さらに以前に遡ると、春日野八千代などは20年以上に渡り多数の主演をしている。

トップスター・トップ娘役クラス、またはそれに準ずるクラスの退団者になると、出演公演の足跡を振り返る「サヨナラショー」公演が行われることもある。また、トップスターのみ千秋楽の退団挨拶の際、正装である黒紋付と緑の袴ではなく、他の衣装(燕尾服・タキシード等)を着用することが許されている。退団は多くのマスコミが取り上げ、また熱烈なファンは複数回観劇する・記念グッズを購入するなど「歌舞伎は襲名披露で稼ぎ、宝塚は退団公演で稼ぐ」とまで言われる[5]

公演システム

公演の中心は、「本公演」と呼ばれる大劇場作品である。2009年(平成21年)に公演期間を短縮し、回数が年10回となったため、各組とも本公演は年に2作である。その合間に、バウホール公演・全国ツアーなど他の公演を行う。時には、少人数でコンサートやディナーショーなどを行うこともある。本公演の合間にどんな公演が行われるかは、その時々によって異なる。

これら本公演の間の公演の場合は、たいてい各組ともトップスターが主演するチームと、2番手以下が主演するチームの二手に分かれて公演を行う。個々の公演の人数は少なくなるため、若手団員にも目立つ役が付く・スター以外の団員にも見せ場が有る等、チャンスと経験を与える場ともなっている。

現在はロングランシステムを採用していないため、いずれの公演形態においても、公演期間が延長されることはない。[6]バウホール公演では観客動員により、東京での続演(東上)が急遽決定する場合もある。逆に、観客動員が悪いからといって、上演打ち切りになることも無い。

理事ら「公演編成委員」が、半年に一度、座付き演出家の脚本・企画書を協議し、ラインナップを決定していく[7]

現在 定期的に行われている公演

本公演
  • 宝塚大劇場東京宝塚劇場で上演する公演のこと。宝塚歌劇団の公演の中心であり、各組が持ち回りで公演を行っている。基本的には、各組の団員が全員出演し、さらに専科生が何人か特別出演することが多い。宝塚・東京共に、1公演は30日程度(公演によって異なる)で、原則として宝塚大劇場での公演の後、引き続き東京で公演が行われる。
  • 新作主義であり、基本的には座付き作家がトップスターと組にあてて書いた新作を上演することが多いが、海外で制作されたミュージカル(以下「海外ミュージカル」と略する)の上演や、過去の作品の再演をすることもある。
  • 前半が芝居(約1時間40分)、後半がショー(約1時間)という、2本立て公演が多い。上演時間は休憩含め約3時間となる。
  • ショーのフィナーレでは「パレード」(カーテンコールに相当)がある。全生徒がシャンシャン(公演をイメージした小道具。ブーケ型など様々な種類がある)や羽根扇、ステッキなどの小道具を手に持ち、「大階段」と呼ばれる階段型の装置を降りて、客席に挨拶をする。また、スターはポジションに準じた大きさの羽根を背負って降りて来る(稀に、羽根のないパレードもある)。
  • ショーはシャンソンやスパニッシュで構成された洋舞(レヴュー)が多いが、日本舞踊をアレンジし、オーケストラ演奏を組み合わせた「日本物ショー」を上演することもある。その場合は、前半が日本物ショーで後半が芝居の順になる。
  • 2本立ての他に、一本物と呼ばれる2幕で構成された芝居も上演される。2幕目の最後に少しだけショーと大階段のパレードを行う。特に海外ミュージカルの場合は、一本物として上演されることが多く、ショーのみ宝塚オリジナルで作られる。また、日本物ショーと芝居の組み合わせの場合には、一本物同様に芝居の最後にショーが付けられる。
  • 洋舞ショー+芝居(フィナーレ付き)の2本立て、日本物ショー+芝居+洋舞ショーの3本立ても稀にある。その他、変則的な公演が行われることもある。
  • ラインダンスがショーの一場面に組み込まれることが多い。特に毎年4月頃の宝塚大劇場公演における、初舞台生によるラインダンスは毎年の風物詩となっている。
  • 宝塚大劇場と東京宝塚劇場ともオーケストラピットがあり、専属のオーケストラ(宝塚歌劇場管弦楽団)により生演奏される。
新人公演
  • 本公演中に宝塚・東京それぞれ1回のみ上演される。本公演と同じ演目を、主役から老け役に至るすべての役を研7以下の生徒で演じる。衣装やセット、さらにオーケストラに至るまで本公演同様のものを使用する。この公演に主演することは、"路線"として扱われるための極めて重要な要件であり、トップスターへの登竜門とも言うべきものである。
  • 基本的に芝居のみで行われるが、ショーの新人公演もごく稀にある。一本物の作品の場合は、新人公演担当の演出家により再構成が行われ、ほとんどの場合フィナーレのショー部分はカットされる。
タカラヅカスペシャル
  • かつて大劇場で年一回行われたTMP音楽祭TCAスペシャルが、2008年(平成20年)より年一回毎年12月に梅田芸術劇場で行われるようになったイベント公演。以前は時期は固定されていなかった。
  • 東京公演中の組を除く、各組のスターが総出演するショーで、普段ではあり得ない組み合わせが見られるのが特徴。過去の名作に扮した場面等も用意されている。特に、男役スターと別組の娘役を実験的に組ませることもあり、こうしたイベントで組んだ後、実際にトップとなったコンビもある。
  • 1997年(平成9年)までは本公演が東京で続演されない時期があったため、全4組(当時)が揃うことができ、かつ練習時間も取れたことから、余興的な凝った出し物・パロディーも行われることがあった。
全国ツアー
  • トップスター(まれに2番手)を中心に行う巡業で、全国各地の会場で公演されるが、会場・期間は毎回同じではない。
  • 本公演同様に「2本立て公演」もしくは「一本物」で上演される。演目は直近の本公演で上演した演目もしくは旧作の再演であり、全国ツアーのために新作を書き下ろすことはほとんどない。
  • 全国各地の移動を伴うため、本公演に比べて、セットはやや小規模なものを使用する。また、5段程度ではあるが、大階段を模した装置を必ずもって行く。
博多座公演
中日劇場公演
  • 博多座公演は毎年8月、中日劇場公演は毎年2月に行われており、原則的にトップスターが主演。公演期間は2〜3週間程度。
  • 中日劇場は前年の大劇場公演の演目をそのまま上演することが多いが、まれに新作や旧作の再演がある。博多座公演は再演ものが多いが、本公演の前に博多初演となったものもある。それぞれ大階段を模した"中階段"を用いるため、本公演に比較的近い形式での上演が可能である。
  • 博多座公演の前身は、かつて行われた福岡公演(後述)。中断を経て、1999年(平成11年)の博多座開場後、定期公演会場となった。
  • 中日劇場公演の前身は、名古屋公演(御園座名古屋宝塚劇場名鉄ホール中日劇場)。1918年(大正7年)から続く。
バウホール公演
  • 基本的に2番手以下の若手スターが主演するが、稀にトップスターや娘役が主演する場合もある。[8]
  • 若手やスタッフの育成の場と位置づけられており、比較的少人数で、書き下ろしの新作ミュージカルを上演することが多い。一人芝居・コンサート形式等の公演もある。
シアター・ドラマシティ公演
  • 主演は時によって異なり、トップスター又は2番手男役が主演する。基本的に新作ミュージカルが上演される。
梅田芸術劇場公演
  • 同劇場(旧梅田コマ劇場)が阪急資本下に入った2005年から行われるようになった。海外ミュージカルを上演することが多い。また、2005年(平成17年)以降の全国ツアー公演の会場の一つとして使用されている。
東京特別公演(日本青年館赤坂ACTシアター等)
名古屋特別公演(愛知県芸術劇場・中日劇場等)
  • ドラマシティ公演や宝塚バウホールで行われた公演を引き続き東京等でも上演する。すべての公演が東京・名古屋で再演されるわけではない。2000-2001年のみ、バウホール公演をすべて東京で上演された。

過去の定期的公演

福岡公演(福岡スポーツセンター福岡市民会館
  • 1969年(昭和44年)より1994年(平成6年)まで[9]5月頃に1週間程度行われていた[10]が、現在では春の全国ツアーと一体化している。
日生劇場公演
  • 2002年(平成14年)春から2008年(平成20年)まで、年1回実施。海外ミュージカルを上演することが多かった。
宝塚巴里祭(宝塚パリ祭)
  • シャンソンをメインとした構成のショーで、毎年7月に行われていたが、2009年(平成21年)を最後に以後開催されていなかったが、2012年に再び開催が予定されている。

沿革

歴史

1914年4・5月、第一回公演演目:歌劇ドンブラコ
出演:桃太郎役・高峰妙子,猿役・雲井浪子
共演:小倉みゆき秋田衣子外山咲子若菜君子
※公演は婚礼博覧会の余興の一つ
於:宝塚新温泉内パラダイス劇場
1919年頃のレッスン風景
ヘンゼル役・月野花子 グレーテル役・秩父晴世
1935年

黎明期

阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道の創始者小林一三が、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に想を得て、1913年(大正2年)に結成した宝塚唱歌隊が前身。同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称。尋常小卒の少女に大卒者同等の給与を払う厚遇だった。翌1914年(大正3年)4月1日〜5月31日まで宝塚新温泉で初演。初演演目は桃太郎を題材した歌劇『ドンブラコ』、『浮かれ達磨』、ダンス『胡蝶』、管弦合奏、および合唱であった。この年の平均入場者数は1100人/日であった[2]。以後、数年間はパラダイス劇場公会堂劇場での正月・春期・夏期・秋期の年4回公演を中心に活動。

1918年(大正7年)、帝国劇場での公演を行い、東京進出。同年には雑誌『歌劇』が創刊される。「クレオパトラ」でヒロインを交代で演じた雲井浪子篠原浅茅が人気を博した。この年の平均入場者数は2000人/日で、徐々にその人気を伸ばしつつあった。

1919年(大正8年)、私立学校としての認可が下り宝塚音楽歌劇学校設立。少女歌劇養成会は解散し、新たに宝塚少女歌劇団として発足。予科1年・本科1年と研究科からなる学校組織となった。1921年(大正10年)、公演の増加により花組月組に分割。

1923年(大正12年)1月22日、パラダイス劇場・公会堂劇場が焼失。急遽建造された宝塚中劇場での公演を経て、翌1924年(大正13年)に3000人収容(当時)を誇る宝塚大劇場が完成した。大劇場完成に先立ち、雪組が新設された。当時の宝塚は、宝塚指定席・温泉入場券・カレーライスが各30銭で「一圓あれば一日遊べる」[2]まさに総合娯楽施設だった。1925年(大正14年)からは、年12回の本公演が行われるようになる。

レビューの隆盛

1935年(昭和10年)、当時の脚本集

1926年(大正15年)、大阪松竹歌劇団が「春のおどり[11]」を上演した翌年、宝塚も「春のをどり」を上演する。以後20世紀末まで「春の踊り/をどり/おどり」等として春先に日本物ショーが上演されることが定番となった。

1927年(昭和2年)、岸田辰弥が欧米遊学から帰国。この経験を生かし、日本人の旅行記をテーマにしたレビュー「モン・パリ」が制作され、9月1日より上演。画期的な内容が大ヒットする。当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。また、ラインダンスが初めて登場。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。劇団は演出家を積極的に海外へ送った。白井鐵造が帰国後、1930年(昭和5年)に制作したのが「パリ・ゼット」である。この作品中に「おゝ宝塚」「すみれの花咲く頃」が登場し、宝塚歌劇団を代表する楽曲として定着した。レビューの誕生に前後して、男役が登場し人気が集まり始めた。

同時期、松竹歌劇団では断髪した男役:水の江瀧子が国民的人気を集めていた。宝塚では1932年(昭和7年)の「ブーケ・ダムール」稽古中に門田芦子が髪を短くし、神代錦らが後に続いた。

1933年(昭和8年)、星組の新設・専科制度の充実等の改革が行われる。この年上演された「花詩集」は花をテーマとしたレビューで、翌1934年(昭和9年)に東京宝塚劇場のこけら落としとしても上演された。当時の団員数は約300名と大規模なものになっていた。葦原邦子小夜福子の二枚目男役コンビが人気を集めた。

1938年昭和13年10月2日から1939年昭和14年3月4日にかけて、団長:小林米三、組長:天津乙女、副組長:奈良美也子、以下、雲野かよ子、初代糸井しだれ秩父晴代打吹美砂久美京子ら計30名の選抜メンバーが『訪独伊芸術使節団』として、神戸港から客船・靖国丸で当時の同盟国:ドイツベルリンドレスデンデュッセルドルフミュンヘンなど)・イタリアローマフィレンツェベニスミラノなど)・ポーランドワルシャワ)へ出帆して劇団史上初の海外公演を行った。復路はドイツで仕立てた制服を着用して意気揚々と客船・伏見丸で日本に帰朝した[12]。選抜メンバー一行がイタリアのナポリ港に到着した時の様子やドイツのベルリン公演の模様を伝えるニュース映像やイタリアに向けて航行している往路において、靖国丸の船上で撮影されたモノクロの集合写真などが現存する[13][14]

1939年(昭和14年)4月4日から同年7月4日にかけて、団長:吉岡重三郎、組長:小夜福子、以下、三浦時子、春日野八千代、櫻町公子響千鈴佐保美代子昇道子ら計40名の選抜メンバーが『訪米芸術使節団』として神戸港から客船でアメリカ合衆国ホノルルサンフランシスコロサンゼルスニューヨークポートランドなど)へ出帆して劇団史上2度目の海外公演を行う。選抜メンバー一行が着物姿でロサンゼルス市ハリウッドにあるRKOラヂオ映画社映画スタジオを見学している様子を撮影したモノクロ写真が現存している[15]

1939年(昭和14年)以前についての詳細は宝塚音楽学校もあわせて参照願いたい

第二次世界大戦の影響

1943年(昭和18年)3月「翼の決戦」(壇上が春日野八千代
1943年頃、慰問公演の様子
1948年(昭和23年)「再び君が胸に」(中央男役:越路吹雪、女役:深緑夏代
「君の名は」前列左から、春日野八千代・新珠三千代神代錦故里明美

1934年(昭和9年)の「太平洋行進曲」を皮切りに、作品タイトルにも戦争を意識した題名が表れる。他に「少年航空兵」「満州より北支へ」等といったものが見受けられる。

1938年(昭和13年)に星組を廃止し、同年12月に学校と劇団を完全に分離した。1940年(昭和15年)には大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会が設立されて、全生徒が加入させられた。軍需工場・軍病院へ慰問するようになる。同年、宝塚歌劇団に改称。

1940年(昭和15年)には外来語のタイトルが消滅し、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦以後は、ほぼ全ての公演に軍国主義的な演目が登場する。1942年(昭和17年)からは満州国での公演が行われた。

1943年(昭和18年)3月、戦争の激化によってついに宝塚大劇場が閉鎖され、海軍へ接収された。最終公演は「翼の決戦」であり、"夢"のない軍国主義的内容であっても、ファンが殺到し宝塚大橋を越えて宝塚南口駅付近まで長蛇の列を作ったという。大戦中は、全国各地での慰問公演を中心に細々と活動し、一方で女子挺身隊として川西航空機宝塚製作所(跡地は阪神競馬場になった。)や縫工所等に動員させられて、労働奉仕を行った[16]

第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)、宝塚音楽舞踊学校が宝塚音楽学校に改称。そして、4月22日より宝塚大劇場が公演を再開。再開第1作は「カルメン」「春のおどり」の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。しかし東京宝塚劇場は進駐軍に接収されていたため、1947年(昭和22年)より再開された東京公演は日本劇場帝国劇場などで行われた。翌年には10年ぶりに星組が復活した。

花組の越路吹雪新珠三千代コンビ、そして雪組の春日野八千代乙羽信子コンビが絶大な人気を博した。特に春日野は戦前から長期間にわたり二枚目男役スターとして第一線で活躍し、困難な時代に宝塚を支え続けた功績は極めて大きい。

1951年(昭和26年)、「虞美人」が初演。馬が登場する等迫力ある舞台が大ヒットし、ロングランを続けた。他にも「ジャワの踊り子」等の名作が数多く誕生している。

1955年(昭和30年)には、ついに東京宝塚劇場公演が再開された。

舞台芸術としての発展

1954年(昭和29年)に日伊合作映画「蝶々夫人」の制作において、チネチッタ撮影所での撮影に参加するために、先にイタリアに渡伊していた八千草薫寿美花代に続いて、東郷晴子淀かほる鳳八千代らトップスターと伊吹友木子朝日奈世志子梓真弓筑紫まりら選抜メンバー17名が、同年10月2日羽田空港からイタリアのローマへ出発[17]。メンバー一団がローマ空港に到着した時の模様や映画「蝶々夫人」撮影中の様子を伝えるニュースフィルム(モノクロ)が現存する。そして、全撮影を終了して、同年11月12日、午後10時羽田空港着のエールフランス機で一団は約40日ぶりに帰国した[18]。その後、同年12月28日に八千草が帰国した[19]。映画制作費は当時の約2億円。このローマへの渡航をきっかけとして、海外公演が急増する。

1958年(昭和33年)には、天覧・台覧公演が相次いだ。4月1日に東京宝塚劇場で香淳皇后皇太子明仁親王義宮正仁親王秩父宮妃が「花詩集」を、10月30日には昭和天皇・皇后・義宮正仁親王・清宮貴子内親王が「光明皇后」「三つのワルツ」を鑑賞。さらに、翌11月1日には皇太子明仁親王が単独で宝塚大劇場で「秋の踊り」を観劇した。となった。また、宝塚音楽学校が前年から二年制になった影響で、この年の初舞台生はいない。(ただしこの年の音校本科生は舞台実習の名目で4月花組公演「花のなかの子供たち」に出演しており、実質的にはこれが初舞台。)一方で4月1日に宝塚大劇場で月組・香月弘美セリに巻き込まれ死亡するという凄惨な事故も発生している。なお、この事故によりセリは使用中止になり翌年に安全装置が完成した。

同年には、日本の民俗芸能を舞台化する目的で「郷土芸能研究会」が発足し、日本各地の伝統芸能、祭事、芸能催事の取材、記録や収集が実施されて、この活動は約20年続いた。これらは、日本民俗舞踊集という形で舞台化され、1958年昭和33年)に雪組による第1集:南紀篇、南紀太地の「」を始めとして、月組による第5集:奥羽篇「花のみちのく」など、合計22作品が発表された。

1960年昭和35年)の「華麗なる千拍子」(寿美花代主演)は大ヒット作となった。宝塚のみならず、主題歌もヒットした。東京での再演の後、翌1961年(昭和36年)に芸術祭賞を受賞した。翌年も、九州の郷土芸能をテーマにした「火の島」で同賞を受賞している。明石照子・寿美花代らが人気を集め、その退団の際には「さよならショー」が上演された。これは今日でも恒例である。寿美、明石が去った後の1960年代中期には、マルサチオソノの愛称で知られる那智わたる内重のぼる藤里美保がファンから多大な支持を受けた。

1960年代後半には、海外から振付家を招聘し「シャンゴ」(真帆志ぶき主演)等のこれまでの宝塚のイメージと異なるショーが誕生した。「ウェストサイド物語」「オクラホマ!」「回転木馬」といった海外ミュージカルの日本初演も、この時期の宝塚である。なお「ウェストサイド物語」は芸術祭賞を受賞した。3Kトリオこと甲にしき上月晃古城都らが人気を集めた。

また、1968年(昭和43年)6月より、本公演において若手団員による"新人公演"が定例となった。当初は2回ずつ別のメンバーで行われていたが、1984年(昭和59年)以降は1回のみとなる。

1970年(昭和45年)の大阪万博に際し、万博会場と同じ阪急沿線の宝塚も観客を呼び込もうと「タカラヅカ EXPO70'」を上演。上月晃らスターの退団と重なったことで、狙い通り連日満員の大盛況となった。この時、万博の観光客(従来のファン以外)を退屈させないよう公演時間を短縮し、2幕2時間半、幕間に30分休憩での公演形式が確立された。

低迷期とベルサイユのばら登場

テレビの普及・娯楽の多様化に伴い、劇場稼働率は低下し、赤字が続くようになっていった。一部のマスコミから「宝塚とブレーブス球団は阪急の2大お荷物」と呼ばれたこともある[20]。また、人件費節約のため[2]1972年(昭和47年)4月に定年制度導入(満57歳定年)が発表され、同年7月1日より導入された。

このような宝塚の窮地を救ったのが、1974年(昭和49年)に植田紳爾が脚色した「ベルサイユのばら」であった。社会現象を巻き起こしていた同漫画を舞台化するや否や大ヒット。空前の宝塚ブームを巻き起こした。少女のファンが急増したことで、宝塚音楽学校の倍率もそれまでの5倍から20倍前後の難関となり「東の東大、西のタカラヅカ」と呼ばれるようになる。ベルばらシリーズで主要な役を務めた榛名由梨鳳蘭安奈淳汀夏子は「ベルばら四強」と呼ばれ人気を集めた。

1975年(昭和50年)には、公演期間が約一ヶ月半の年8回公演となる。翌1976年(昭和51年)宝塚ブームの冷めぬうちに「風と共に去りぬ」を上演。榛名が二枚目男役として初めて髭を付けた。1970年代より柴田侑宏が「星影の人」「あかねさす紫の花」といったオリジナル名作を多数発表する。

1978年(昭和53年)、宝塚バウホールが開場。初演は「ホフマン物語」。スター・スタッフの育成を目的に、実験的な公演が行われている。

この時期、1970年代後半より、スターが円形の羽を背負うのが恒例になる。徐々に巨大化し、より舞台を華やかにしている。

スターシステムの確立

1980年代より、スターシステムが確立していった。すなわち、各組の主演者が主演男役(トップスター)に固定されるようになる。また、トップスターへの昇格には様々な条件を満たす必要があり、ファンは誰がスターになるか予想し、長期的に応援しやすくなった。

同時に、私設ファンクラブの活動も活発になる。1980年代初頭までは、劇団員に手渡しで飲食物の差し入れをする・劇団員がその場でファンを喫茶に誘う[21]等、団員とファンは近い存在だったことが伺えるが、現在ではこのような行為はない。また、集団での過剰な拍手が機関誌の投書欄で問題視されることも多い[22]。出演者への掛け声も禁止されている。

組替えがあるもののスターの地位が固定されることで、トップスターと二番手男役スターの掛け合いやコンビーネーションに人気が集まった。例えば、雪組の麻実れい寿ひづる遥くららの3人はゴールデントリオと謳われた。

また、各組の特色も徐々にはっきりしていき、特に昭和末から平成初期にかけては、「ダンスの花組」「芝居の月組」「日本物の雪組」「コスチュームの星組」と呼ばれた。

1982年(昭和57年)、トップスター松あきら・二番手男役寿ひづるが共に「夜明けの序曲」で退団。観客と一体となった舞台の熱気はすさまじく、芸術祭大賞を受賞した。

1985年(昭和60年)、月組トップコンビの大地真央黒木瞳が同時に退団した。以後、トップスターとその相手役が同時退団することは珍しくなくなったが、このことについて「良い部分を次代のスターに継承できない」との批判もある[23]

1989年(昭和64-平成元年)、昭和天皇の崩御をうけ、当日・翌日の全公演を自粛。大喪の礼当日も公演を自粛した。同年から"20世紀最後"と銘打った「ベルサイユのばら」の再演が開始され、1970年代の初演に対し「平成のベルばら」と称される。うち1991年(平成3年)には、月組「ベルサイユのばら」を皇太子徳仁親王が観劇した。

1992年(平成4年)、雪組「忠臣蔵」をもって宝塚大劇場を閉場。1993年(平成5年)に、新・宝塚大劇場が開場した。こけら落とし公演は「宝寿頌」「PARFUM DE PARIS」。春日野八千代他、各組のトップスターが日替わりで出演することに加え、高田賢三デザインの衣装が話題となる。高田はメイク・靴等も担当したため、その影響は大きく、この公演を境に舞台メイクがよりナチュラルに変化していった。

1995年(平成7年)1月17日阪神・淡路大震災が発生。劇団員に死者は出なかったものの、本拠地での公演中止を余儀なくされた。同年3月31日からの「国境のない地図」にて公演を再開するものの、この後、観客動員数は大幅に低下し、元の水準に戻ったのは2001年(平成13年)のことである。

1996年(平成8年)、「エリザベート」が雪組にて日本初演(主演:一路真輝)。「死神」という暗いイメージに前評判はいまひとつだったが、初日が開いたとたんに絶大な支持を集める大ヒット作品となった。その後も複数回再演され、定番の演目の一つとなった。

1997年(平成9年)12月、旧・東京宝塚劇場が閉場し、新築立て替え工事を開始。工事期間は、帝国劇場を2回使用した後有楽町駅付近に立てられた仮設劇場・TAKARAZUKA1000days劇場で公演が継続され、その名の通り約1000日間使用された。

1998年(平成10年)1月、東京での通年公演実現のため、宙組が新設される。香港公演「夢幻宝寿頌」「This is TAKARAZUKA!」が組として最初の公演となる。

「新専科」制度

詳細は専科 (宝塚歌劇)#新専科を参照

2000年(平成12年)5月、当時の2番手・3番手男役スター10名全員が専科へ移籍することが発表された。突然の事態にファンは騒然となり、公式HPにアクセスが殺到した[24]

専科には、黎明期に分野別に実力のあるスターが配属された他、1970年代まではスターが所属し各組へ主演格で特別出演していた。しかし、スターシステムの確立以後は、ベテラン脇役が所属するのが慣例であり、スター10名が一度に移籍するのは珍事であった。劇団は、従来の専科と異なりスターとして特別出演すると説明したため、2000年の人事異動は「新専科」と通称される。

現在

2001年(平成13年)、新・東京宝塚劇場が開場。建設期間中、仮設の1000days劇場の稼働率(1998-2000年の三年間)は実に96%を誇った[25]。人口は多いが劇場の小さい東京はほぼ100%を堅持しているが、人口が少なく劇場の大きい宝塚は90%前後となっている[26]

しかしながら、通常公演でチケットが完売することも稀になっており観客動員数は年々低下している。少子化の影響もあり、隣接していた宝塚ファミリーランドは閉鎖された。歌劇団の制作部企画室もファンの高齢化を指摘している[26]。新たなオリジナル名作・良作もなかなか誕生せず、人気演目「ベルサイユのばら」「エリザベート」の再演頻度も高くなってきている。

2004年(平成16年)に創立90周年を迎えた際に、「百年への道」と冠した歌を奉唱。またこの年には、安蘭けい瀬奈じゅん貴城けい水夏希霧矢大夢大和悠河の5名が、当時所属していた組以外の公演に特別出演し、瀬奈と水は後に出演した組への組替えを経て、トップスターに就任している。

創立95周年を迎えた2009年(平成21年)には同題で奉祝式典を挙行するなど、来る2014年(平成26年)に創立100周年を迎えることを強く意識している。

2009年(平成21年)には、5組化以降の懸案だった年10回の本公演を実現。ただし、東西両方の劇場で従来のA席・B席を大幅に減らした上でSS席・S席のチケットを値上げした。高級感のある高額なグッズ・土産物の販売等も行われており、かつてのような映画料金よりも安い"庶民の娯楽"からは遠ざかりつつある。

2010年(平成22年)には、本拠地の宝塚大劇場の年間動員数が、100万人を割り込み、約80万人にとどまった。100万人を割り込んだのは1995年度以来。このときは阪神・淡路大震災の影響で約2ヵ月半休演していたため、通常より公演期間が短かったが、そのときの約96万人より下回る結果となり、集客力向上が課題となっている。[27]

年譜

  • 1913年(大正2年)7月 - 宝塚唱歌隊(この年の12月に宝塚少女歌劇養成会に改称)を組織。
  • 1914年(大正3年)3月 - 宝塚新温泉内パラダイス劇場に於いて上演開始。公演演目は『ドンブラコ』ほか3本立て。
  • 1918年(大正7年)
    • 5月 - 帝国劇場に於いて東京での初公演。
    • 8月 - 機関誌『歌劇』を創刊。
  • 1919年(大正8年)1月 - 宝塚音楽歌劇学校を創立。宝塚少女歌劇養成会は解散し、生徒と卒業生から組織される宝塚少女歌劇団に改称。
  • 1921年(大正10年)10月 - 花組月組が誕生
  • 1924年(大正13年)7月 - 雪組を新設。旧・宝塚大劇場が完成。
  • 1927年(昭和2年)9月 - 日本初のレビュー『モン・パリ』初演、大ヒット。
  • 1930年(昭和5年)8月 - レビュー『パリゼット』初演(白井鐵造作)主題歌は『すみれの花咲く頃』。
  • 1933年(昭和8年)7月 - 春日野八千代の台頭と東京公演の増加のため星組を新設。
  • 1934年(昭和9年)
  • 1935年(昭和10年)1月 - 宝塚大劇場が全焼。この年の4月に完成。
  • 1939年(昭和14年)
    • 4月 - 時局悪化のため星組を廃止。
    • 12月 - 宝塚音楽歌劇学校が改称し、宝塚少女歌劇団と宝塚音楽舞踊学校に分離。
  • 1940年(昭和15年)10月 - 宝塚少女歌劇団を宝塚歌劇団に改称。
  • 1944年(昭和19年)3月 - 第二次世界大戦により宝塚大劇場と東京宝塚劇場が閉鎖。
  • 1946年(昭和21年)4月22日 - 宝塚大劇場が公演再開。公演演目は『カルメン』『春のをどり』。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 東京公演再開
  • 1948年(昭和23年)8月1日 - 労働基準法対応のため星組を再設する。
  • 1951年(昭和26年)8月 - 初の一本作『虞美人』を公演。大ヒットし、3ヶ月間のロングラン。
  • 1974年(昭和49年)8月29日 - 『ベルサイユのばら』初演、大ヒット。
  • 1976年(昭和51年) - 本公演の公演期間を延長し、年8回の公演となる。
  • 1978年(昭和53年)4月1日 - 宝塚バウホールが開場。
  • 1993年(平成5年)1月1日 - 新・宝塚大劇場が新築開場。
  • 1995年(平成7年)1月17日 - 阪神・淡路大震災で宝塚大劇場・バウホールが罹災。
  • 1996年(平成8年) - ウィーンミュージカル『エリザベート』初演。
  • 1998年(平成10年)
  • 2001年(平成13年)1月1日 - 新・東京宝塚劇場が開場。
  • 2002年(平成14年)7月1日 - 宝塚歌劇専門チャンネル『TAKARAZUKA SKY STAGE』放送開始。
  • 2005年(平成17年)4月1日 - (旧)阪急電鉄の持株会社化(現・阪急阪神ホールディングス)に伴い、(新)阪急電鉄に運営を移管。
  • 2009年(平成21年) - 本公演の公演期間を短縮し、年10回の公演となる。
  • 2010年(平成22年)3月28日 - 宝塚歌劇検定第1回試験が開催される。
  • 2011年(平成23年)
    • 1月 - 東京宝塚劇場のリニューアルオープンから10周年を迎える。
    • 3月3日 - 東京宝塚劇場の来場者数がリニューアルオープン以降より1000万人の来場者数を達成。

男子部

宝塚歌劇団創設時から、小林一三には「国民劇」という構想があった。それは西洋の題目のみならず日本の時代劇なども、西洋風のメロディーで展開する物であった。その表現の幅を増すためには男性団員が必要だと小林一三は考えていた。しかし男性団員を加入させるという案は二度に渡り実施されたが、いずれも周囲の反対により立ち消えている。

1919年(大正8年)、宝塚音楽歌劇学校に選科を設けて8人の男子生徒を入学させたが、10ヶ月後に解散している。第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)から3年間、公募により宝塚音楽学校に男子学生が13名入学した[28]。数年間のレッスンを経た後のデビューを目指した。しかし、女子劇団員やファンらの反対により、最後まで本公演には出演することはなく陰コーラスを歌ったのみに留まる。他に1947年(昭和22年)12月に女子団員1名と共演し宝塚中劇場でオペレッタ「さらば青春」を上演した。最終的に、1954年(昭和29年)に、解散となった[29]。男子劇団員のうち数名は宝塚新芸座へ移籍し活躍。他に西野バレエ団創始者の西野皓三らがいた。一方で芸能界から引退し、宝塚にいた頃の事を秘密にしていた者も多かった。

2007年に戦後の男子部をモデルとした劇作品、宝塚BOYSが全国で上演され、2008年2010年にも再演された。

主な生徒

専科
主演男役 主演娘役 準トップスター 2番手男役
花組 蘭寿とむ 蘭乃はな - 壮 一帆
月組 龍 真咲 愛希れいか 明日海りお -
雪組 音月 桂 舞羽美海 - 早霧せいな
星組 柚希礼音 夢咲ねね - 涼 紫央
宙組 大空祐飛 野々すみ花 - 凰稀かなめ

主な作品

オリジナル作品

1928年モン・パリ」(再演)

原作を有する作品

1951年虞美人

海外ミュージカル

主なスタッフ

演出

◎マークは現在宝塚歌劇団に在籍している演出家


音楽


振付


卒業生

卒業生については宝塚歌劇団卒業生を参照願いたい

メディア関連

機関誌

以前は阪急電鉄出版部(大阪市)が発行していたが、2003年7月から阪急の出版事業をTBSブリタニカと統合した阪急コミュニケーションズが発行している。阪急電鉄の売店(ラガールショップ)でも販売されている。

阪急百貨店には「宝塚コーナー」があり、関連書籍のほかグッズを販売している。関連商品にはネクタイなど男性向けのものもある。

月刊誌

歌劇
1918年創刊、1940年休刊、1946年復刊。
座談会・楽屋取材・投書欄など読み物記事が多い。各組から1人3か月ずつ連載「」を担当する。
宝塚グラフ→宝塚GRAPH
1936年創刊、1940年休刊、1947年復刊。
舞台写真・ポートレートなど写真記事が多い。

定期刊行物

宝塚おとめ
1938年創刊。毎年春に発行。
かつては「歌劇」の増刊号で題名も「宝塚をとめ」だったが、現在はタカラヅカMOOK(ムック扱い)として発行されている。専科とその年に入団した研究科1年生を含む全生徒の顔写真が、簡単なプロフィールと共に掲載されている。
Handy Takarazuka Otome
2009年から発売。各組ごとに分冊された携帯版。
宝塚舞台年鑑→舞台年鑑→宝塚ステージアルバム→宝塚Stage Album
1948年創刊。毎年春に発行。
かつては「グラフ」の増刊号だった。舞台年鑑として、舞台写真・公演データなどが記載されている。
TAKARAZUKA REVUE
年1回刊行のムック。各組のスターのポートレート・インタビュー記事が掲載。近年では撮影風景を収めたDVDが付属。
Foursome(フォーサム)→Le Cinq(ル・サンク)
各公演ごとの舞台写真集。2004年以降は、オリジナルの作品の脚本が掲載されている。

テレビ

地上波

阪急系列の関西テレビ放送フジテレビ系)との結びつきが強いので、1964年昭和39年)ごろには毎週木曜日の夕方に『宝塚民話劇場』という題名で30分番組を放映していた。その他、毎週土曜日(後に毎月1回)に、『ザ・タカラヅカ』(毎週土曜時)⇒『タカラヅカ花の指定席』(毎月1回時)等を含めた『宝塚歌劇舞台中継』として劇場中継を実施したほか、『阪急ドラマシリーズ』でも初期の頃はタカラジェンヌがレギュラー出演していた。また1999年夏の7月~8月には前出の関西テレビ限定で『タカラヅカ花組図鑑』というミニ番組が放送されたこともある。

また、1969年(昭和44年)〜1979年(昭和54年)までは、関西テレビのバラエティやドラマに出演するため若手団員がバンビーズに選ばれていた。バンビーズからは後のトップスター、トップ娘役を含むスターも数多く誕生している[31]

なお『タカラヅカ花の指定席』での提供読みは「この番組は、阪急電車と楽しさあふれるお買物、阪急百貨店がお送りします(した)」。それ以前は提供読みがなく「提供 阪急電車 阪急百貨店」の表示に歌のない阪急のテーマソングが流れていた。

現在は東京MXテレビ制作の『TAKARAZUKA CAFE BREAK』を提携の放送局にて視聴できる。

極めて稀ではあるが、劇団員がテレビドラマにレギュラー出演することもある。1994年度上半期、NHK朝の連続テレビ小説ぴあの』に純名里沙(当時:雪組、後に花組トップ娘役)が現役タカラジェンヌとして初めてNHKの朝ドラのヒロインを務めた。また、TBSの朝ドラには、遥くらら(後に雪組トップ娘役)が、TBSのドラマには、鮎ゆうき(後に雪組トップ娘役)が、主演したことがある。

その他、バラエティ番組やドキュメンタリー番組に現役タカラジェンヌが出演することもある。

衛星放送

詳細はTAKARAZUKA SKY STAGEも参照されたし

2001年(平成13年)7月、宝塚歌劇の劇場中継を中心に、劇団員の特集やバラエティを放送する専門チャンネルTAKARAZUKA SKY STAGE」を東経110度CS放送のスカイパーフェクTV!2にて放送開始。2007年2月時点ではその後継であるスカパー!e2、および一部のケーブルテレビなどで視聴できる。スカパー!e2における他のチャンネルとは異なり、番組を制作する阪急電鉄自身が、総務省より委託放送事業者の認定を受けている。

その他、下記の衛星放送チャンネル内で宝塚の番組を視聴することができる。
☆印は、TAKARAZUKA SKY STAGEでも視聴可能な番組。

WOWOW
  • 「宝塚への招待」:過去の公演映像を放送。
  • 「宝塚プルミエール」:現在の宝塚の公演情報、トピックスなどを独自に編集したオリジナル番組
  • ☆「アンコール!宝塚・スターの小部屋」:過去に放送したオリジナル番組「宝塚・スターの小部屋」の再放送。
TwellV
  • 「宝塚ドリーミング・シアター」:過去の公演映像を放送。ナビゲーターはOGの星奈優里
  • ☆「What's up 宝塚」:現在の宝塚のトピックスなどを集めた番組で、TAKARAZUKA SKY STAGEの「TAKARAZUKA NEWS」の映像素材から独自に再編集して構成されている。
NHK BS(BS2、BShi)
  • 不定期に公演映像の放送や宝塚を特集した番組の放送を行っている。

ラジオ

宝塚ファン・コンテスト」が1955年昭和30年)から毎日放送系列で30分間の公開録音番組として1974年昭和49年)まで19年間放送されていた[32]。 「ビバ!タカラジェンヌ!」が、1981年昭和56年)頃から、毎週日曜日にラジオ関西系列で放送されており、宝塚の生徒が週替わりでゲスト出演をしている。また、1999年7月4日から宝塚歌劇団卒業生でパーソナリティー風さやかによる「風さやかの愛と夢 永遠のタカラジェンヌ」も毎週月曜日に同局で放送されており、こちらはタカラジェンヌOG達が多数ゲスト出演している。過去にはラジオ大阪でも「オー!マイアイドル」という宝塚の生徒がゲスト出演する番組があった。

2009年(平成21年)12月23日には、NHK-FMにて、「今日は一日 ゛タカラヅカ¨ 三昧」という特別番組が放送された。12:15~23:00までという10時間45分という長時間放送で、総合MCは真琴つばさが担当。現役・OGが多数出演し、フリートークや楽曲のリクエストコーナーなどバラエティに富んだ内容の企画だった。

映画

タカラヅカ レビュー シネマとして、舞台の映画映像化が試みられている。宝塚歌劇の華やかな舞台と映画的な演出を融合した“映像美”で魅せる宝塚の世界をコンセプトにしている。最新のデジタルシネマ技術を駆使した撮影、映像や音源の収録が行われ、映画スタッフによって映像演出や編集されているため、通常の公演DVDとは一線を画している。

2009年(平成21年)6月公開、第一弾の「ソロモンの指輪」(2008年雪組公演)が上映され、第21回東京国際映画祭にも出品された。

2010年(平成22年)2月に、第二弾の「太王四神記 ver.Ⅱ」(2009年星組公演)が全国25の映画館で上映された。

10月に、第三弾の「THE SCARET PINPERNEL」(2010年月組公演)が先行上映、2011年(平成23年)1月から全国ロードショーされた。

イメージキャラクター

タカラジェンヌはスキャンダルを起こすことがほとんど無く、多くのイメージキャラクターを務めている。かつて、ライオンのシャンプーやハウス食品六甲のおいしい水」のCMでそれぞれ選抜メンバーによるユニットのCMが放映された。以下には恒例かつ長期間のものを挙げる。

かつて存在した劇場

  • 公会堂劇場 - 1919年(大正8年)3月17日開場。収容人員1500人。1923年(大正12年)1月25日焼失。
  • 宝塚中劇場 - 1923年(大正12年)3月20日開場。収容人数995人(補助席を入れて1200人)。1950年(昭和25年)に「宝塚映画劇場」に、1953年(昭和28年)に「宝塚新芸劇場」に改名した後、1972年(昭和47年)に閉場。
  • TAKARAZUKA1000days劇場 - 1998年(平成10年)5月30日開場。収容人員2031人。東京宝塚劇場の立て替え期間中に、約1000日(実際は929日)間のみ使用され、2000年(平成12年)12月13日閉場。

海外公演

()内は訪問国(訪問順)、国名・国旗・地名は当時。慰問・訪問等は含まない。

日独伊親善芸術使節団として。
演目:「紅葉狩」「三番叟」「五人道成寺」「曾我兄弟」「鏡獅子」、日舞・合唱・歌舞伎等
演目:「宝塚をどり」「宝塚音頭」「大川端」「彦根屏風」「雪片」、歌舞伎等
  • 1942年(昭和17年) - 満州国建国十周年 慶祝国民親善使節団(満洲国の旗 満洲国
演目:「美と力」「太刀盗人」「奴道成寺」「宝塚絵巻」
演目:「明るい町強い町」「棒しばり」「新かぐや姫」
演目:「木賊狩」「狐忠信」「太陽の子供達」
「4つのファンタジア」(中央は天津乙女)※日本での上演
演目:「4つのファンタジア」「日本の祭りと民謡」等
  • 1956年(昭和31年) - 第2回ハワイ公演
演目:「棒しばり」「春の踊り(レインボウ宝塚)」「二人袴」「日本の花」
  • 1957年(昭和32年) - 第3回ハワイ公演
演目:「娘道成寺」「宝塚花踊り」
演目:「花の踊り」「四つのファンタジア」「宝塚踊り」
演目:「宝塚おどり絵巻」「世界への招待」
  • 1966年(昭和41年) - 第4回ハワイ公演
演目:「宝塚おどり絵巻」「レインボー・タカラヅカ」
演目:「宝塚おどり」「ハロー・タカラヅカ」
演目:「ザ・タカラヅカ」
演目:「ザ・タカラヅカ」
演目:「ザ・タカラヅカ」
  • 1985年(昭和60年) - 第5回ハワイ公演
演目:「ジャパン・ファンタジー」「ドリーム・オブ・タカラヅカ」
演目:「宝塚をどり讃歌」「タカラヅカ・フォーエバー」
演目:「TAKARAZUKA "夢"」
演目:「花扇抄<美しき日本>」「扉のこちら」「ミリオン・ドリームズ」
上記演目は、同題の1993年月組公演を海外向けにアレンジしたもの。
演目:「夢幻宝寿抄」「This is TAKARAZUKA」
演目:「夢幻花絵巻」「ブラボー!タカラヅカ」
中華人民共和国建国50周年・日中文化交流協定締結20周年記念(日中文化友好年)のため。
演目:「宝塚 雪・月・花」「サンライズ・タカラヅカ」
  • 2002年(平成14年) - 第2回中国ツアー公演
演目:「蝶・恋」「サザンクロスレビュー・イン・チャイナ」
日中国交正常化30周年記念のため。
演目:「ベルサイユのばら」「ソウル・オブ・シバ」
日韓国交正常化40周年記念のため。

天覧・台覧公演

称号身位は当時(天皇・皇后を除く)。()内は、大=宝塚大劇場・東=東京宝塚劇場を指す

宝塚歌劇90周年記念式典に出席

用語

早朝から生徒の楽屋入りに集まるファン(宝塚市宝塚大劇場
タカラヅカ、ヅカ
宝塚歌劇団を略して呼ぶ呼称。
タカラジェンヌ
宝塚歌劇団団員への愛称。「タカラジェンヌ」はパリジェンヌのもじりで、「ヅカ・ガール」の呼称を嫌った小林一三の発案による。ファンはさらに親しみを込め「ジェンヌさん」等と呼ぶ。
彼女等の公式プロフィールに誕生日は公開されるが、生年は公開されない。宝塚音楽学校と一体だったときのなごりで団員は「生徒」、稽古場は「教室」、演出家は「先生」と呼ばれる。
ヅカファン
宝塚歌劇団ファンを指す呼称。大正時代には「宝塚党」「宝塚を愛してくださるお友達」等と呼ばれていた。
そのほとんどが女性であり、例えば宝塚友の会の男性会員は全体の7%にすぎない[7]
男性ファンで良く知られているのは手塚治虫であり、幼少の頃から親しんだ宝塚歌劇の影響を受け「リボンの騎士」を描いた。他に男性ファンとして小田島雄志桜内義雄阪田寛夫福本豊らが知られる。
愛称
公式プロフィール「宝塚おとめ」には愛称の欄があり、生徒同士及びファンも愛称で呼ぶことが多い。そのほとんどは本名・芸名が由来のものである。
エトワール
フランス語の意。フィナーレの最後、出演者が順番に階段から降りてくる際、最初に歌う歌手を指す。歌唱力に秀でたソプラノの娘役が選ばれることが多い。稀に男役も担当する。エトワール経験後に「夢が叶った」と退団を決める者もいる程、娘役にとっては憧れの一つである。
大階段(おおかいだん)
1927年9月の日本最初のレビュー「モン・パリ」で、この時は16段の大階段が導入されたのがはじまりで、現在は舞台全体を使った26段、一段の幅24cmの舞台装置として用いられる。宝塚大劇場・東京宝塚劇場に同じ寸法のものが取り付けられていて、宝塚歌劇団の代名詞ともいえる。博多座・中日劇場公演でも規模はやや小さいが階段を用意する。全国ツアーでも数段程度の階段を必ず用いる。改築・新築を経て、今日では文字・柄を電飾表示することもできる。公演の最後(フィナーレ)には出演者が大階段を降りながらパレードを行うのが通例で、ショーのプロローグ等でセットの一部として用いるケースもある。
団員個人に対する私設ファンクラブ(※劇団非公認)を指す呼称。揃いの服・小物を身につけ整列して楽屋入り出待ちを行う(ガード)、生徒を招いたトークイベント(お茶会)の主催等の活動をしている。
劇団側の公式の後援会は「宝塚友の会」「愛宝会」等が存在するが、団員個人のファンクラブではない。
カゲコーラス、カゲソロ
舞台上には出ず、コーラスボックスで歌う。録音ではなく、生の音声を使うのが宝塚の特徴である。
銀橋(ぎんきょう)
宝塚大劇場・東京宝塚劇場のオーケストラボックスと客席の間にある、エプロンステージのこと。銀橋でソロを歌うのは限られたスターのみである。
キャトルレーヴ
宝塚歌劇団オフィシャルグッズの販売店。取扱商品は、公演パンフレット、機関誌である「歌劇」「宝塚GRAPH」やその他歌劇団の機関誌、写真集、スターの舞台写真やプロマイド、公演関連グッズ、宝塚オリジナルグッズ、トップスター監修グッズ、公演やスター関連のCD、DVDなど多岐にわたる。
芸名
創立当初、劇団員の芸名は百人一首にちなんだ名がつけられていたが、ネタが尽きたため百人一首に固執せず、現在では劇団員が自分で自由につけている。過去にタカラヅカにあった芸名と被らないようになっているが、瀧川末子のように親娘3代で名乗る(2代目のみ「滝川」)芸名もある。
団員は全て芸名で活動し本名を芸名には出来ない。例に、現在女優の毬谷友子は本名の矢代友子で活動しようとしたが認められず、洗礼名を名字とする芸名とした。唯一、昭和26年入団の長谷川季子(俳優・長谷川一夫の娘)だけは本名を芸名にすることを許された。
また、ネガティブ意味を暗示させる名前・漢字も使用できない[34]
劇団レッスン
日舞・洋舞・声楽に加え、狂言・せりふ所作事等の科目が設けられている。講師は、劇団内外の振付家・講師の他、ベテラン団員も後輩を指導している。
さよならショー
トップスターやトップ娘役などが退団する本公演の後で、その退団者の思い出の場面を再現したショーが引き続き催される。トップスターの退団の場合は千秋楽とその1つ前の公演(前楽)、それ以外の場合は千秋楽に行われる。さよならショーが行われるようになったのは、1963年の明石照子のときが最初と言われている。[35]
すみれコード
劇団の品格を損ない、また観客の"夢"を壊すような内容は、劇団・劇団員から公表されることは無く、ファンも求めないという暗黙のボーダーライン。
例えば、本名・年齢・給料などの現実的内容が禁じられている。宝塚音楽学校の文化祭では、かつてはパンフレットに芸名と本名が併記されていたが、現在では本名のみの掲載となっている。
また、政治・宗教・セックス(3S)についても、芝居でこれらの過激な内容は自粛されている。舞台に登場した、濃厚なラブシーン・下ネタ・政治表現・放送禁止用語に対して「すみれコードギリギリ」といった表現も見られる。
すみれ寮
劇団員・音楽学校生のための寄宿舎。全寮制ではなく、希望者のみが入寮する。寮費は7000円/月(食費は含まない)[36]
花道
舞台の左右、客席の前の通路部分を指す。かつては歌舞伎のような客席を通過する花道が存在したが、銀橋の誕生によって消滅した。
ムラ
兵庫県宝塚市内において宝塚歌劇団の本拠地「宝塚大劇場」がある地域のこと。
路線
トップスター候補生を指す呼称。新人公演・バウホール公演の主演と成功等が必須条件となる。

宝塚歌劇団を題材とした作品

ドラマ

NHK
  • 虹を織る」(1980年度下半期、連続テレビ小説)
佳代(紺野美沙子)が宝塚にかけた青春を演じた。舞台シーンに現役生徒が多数出演している。助演で葦原邦子新珠三千代が出演している。
ヒロイン・冬子(石原さとみ)が宝塚音楽学校に通うシーンがある。元雪組トップ娘役:紺野まひる(春子)も出演している。また音楽学校文化祭シーンでは宙組の下級生が出演し、主人公等の歌場面の吹き替えを、月組の羽咲まな光月るうがしている。
宝塚に憧れる北国の少女・君子(多部未華子)の物語。松本剛の同題漫画をドラマ化。音楽学校生役に生徒が2名出演。
民放
第二次世界大戦前後の架空のタカラジェンヌを描いた。舞台シーン他に現役生徒が多数出演している。またOGが主演クラスの女優に演技指導を行った。
同作品は、2008年に舞台化され、登場する歌劇団生役はすべて元宝塚歌劇団の生徒が務めた。2011年にも初演から一部構成とキャストを変えて再演された。

映画

朗らかに清く正しく美しい友情に守られて宝塚歌劇団の長い伝統を継承していく乙女達の世界を描いた豪華壮麗な作品。カラー作品。
同作品には主演に俳優として春日野八千代、助演を初音麗子月丘夢路、八千草薫、有馬稲子伊吹友木子らOGや宝塚歌劇団の生徒が務め、特別出演として当時在団中の天津乙女越路吹雪浦島歌女神代錦打吹美砂美吉左久子天城月江南悠子が出演した。
旧宝塚大劇場でロケが行われた。
ヒロイン・郁子(斉藤由貴)は、自分探しの途上、宝塚歌劇機関誌の編集アルバイトを経験する。また、その親友・麻理(古村比呂)は私設ファンクラブの幹部。

小説

歌劇に憧れて念願の歌劇学校に入学した主人公:友子(芸名:遠山道子)が歌劇団で体験した出来事を描いた作品。中原淳一が設立したヒマワリ社(改名後は「ひまわり社」。)によって創刊された少女雑誌『ひまわり』で連載された。
事実、この小説は宝塚歌劇団13期生近江ひさ子が自身の宝塚歌劇団での体験を基に代筆したものである。
架空の娘役:千花と親友の萌、それぞれの恋愛模様を描く。

漫画

  • 「劇画タカラヅカ名作10選」(1977年)
週刊女性増刊号としてPart1-3まで全3号。宝塚の名作10作品と(当時の)新作3作品を漫画化した。
名作 - 「虞美人」「この恋は雲の涯まで」(わたなべまさこ)、「我が愛は山の彼方に」(こさかべ陽子)「星影の人」(武田京子)等。
新作 - 「夕陽のジプシー」(井出ちかえ)、「あかねさす紫の花」(細川智栄子)、「バレンシアの熱い花」(森村あすか)。
宝塚に憧れる北国の少女の物語。多部未華子でドラマ化。講談社より単行本。
以上の5作品は宝塚作品を原作とし、宝塚GRAPH誌で連載された。いずれも小学館より単行本・文庫化。

関連会社

脚注

  1. ^ 阪急電鉄株式会社 業務組織
  2. ^ a b c d 「おお宝塚60年 『ドンブラコ』から『ベルばら』まで」朝日新聞社、1976年11月発行
  3. ^ 朝日新聞2006年1月23日夕刊「宝塚トップスターの任期に異変 近ごろのスミレの命短くて」
  4. ^ タカラジェンヌ物語 3/5(宝塚歌劇団公式ページ)
  5. ^ 2002年4月29日 産經新聞「激流の中の宝塚」
  6. ^ ただし、{{subst:和暦/sandbox|1987}}月組の「ミー・アンド・マイガール」が同年のうちにほぼ同キャストで大劇場で再演されたことが、現在の公演形式が確立されて以後唯一の“ロングラン”例である。
  7. ^ a b 「BRUTUS」2001年11月1日号
  8. ^ 1985年の『愛…ただ愛』(条はるき主演)、1988年の『サウンド・オブ・ミュージック』(春風ひとみ主演)、1998年の『LAST STEPS -月明かりのワルキューレ-』(風花舞主演)、2001年の『Over The Moon―月影瞳クロニクル―』(月影瞳主演)など
  9. ^ 80年史では"福岡市民会館公演"と単独で記載されているが、90年史では直前の同内容の全国ツアーに含められている
  10. ^ 「宝塚歌劇ガイドブック」 宝塚歌劇団著、1986年
  11. ^ 当時の仮名遣いでは"をどり"が正しく、意図的に題名をひねったもの。OSKは現在まで一貫して"おどり"表記を用いている
  12. ^ 「別冊1億人の昭和史 タカラヅカ 華麗な舞台とスターを育てた70年」毎日新聞社、P122
  13. ^ 青土社「水晶の夜、タカラヅカ」岩淵達治:編、P83、P84
  14. ^ 「宝塚歌劇の70年」宝塚歌劇団:編、P62、P172
  15. ^ 「宝塚歌劇の70年」宝塚歌劇団:編、P62、P172
  16. ^ 「宝塚歌劇の70年」宝塚歌劇団:編、P66
  17. ^ 「宝塚歌劇五十年史」宝塚歌劇団:編、P241
  18. ^ 「宝塚歌劇五十年史」宝塚歌劇団:編、P242
  19. ^ 「宝塚歌劇五十年史」宝塚歌劇団:編、P242
  20. ^ 朝日新聞 1990年5月2日夕刊「きょうも舞台に名花咲く 記者が見た宝塚30年」
  21. ^ 集英社コバルト文庫「タカラヅカ・グラフィティ」武田武彦・橋倉正信:編
  22. ^ 「宝塚グラフ」1982年4月号・1987年3月号など
  23. ^ 大阪書籍「宝塚グラフィティ」
  24. ^ スポニチ大阪「突然の発表にファン大パニック 新専科制度導入の真意」
  25. ^ 産經新聞2001年1月19日、記者会見要旨
  26. ^ a b 日本経済新聞 2009年06月23日夕刊
  27. ^ 宝塚100万人割れ危機、子連れママ用割引開始読売新聞 2011年2月12日
  28. ^ 「宝塚70年史」の記述より。他説あり
  29. ^ 2007年1月22日付配信 毎日新聞
  30. ^ プロデューサーに転身
  31. ^ 男役:峰さを理高汐巴寿ひずる日向薫ら。
    娘役:東千晃遥くらら秋篠美帆
  32. ^ 中央公論新社『虹色の記憶 タカラヅカわたしの歩んだ40年』岸香織:編
  33. ^ a b 70年史・80年史では"満州(中国東北部)公演"、90年史では"中国東北部(満州)公演"と記載されている。"
  34. ^ 「倫」が不倫を想起させるとして、廃案になった例がある(朝凪鈴著「禁断の園は蜜の味」より)
  35. ^ 宝塚歌劇団ファーストステージより
  36. ^ 宝塚音楽学校・生徒募集

参考文献

  • 市橋浩二 編『宝塚歌劇五十年史』(宝塚歌劇団、1964年5月1日)
  • 橋本雅夫 編『宝塚歌劇の70年』(宝塚歌劇団、1984年5月18日)
  • 宝塚歌劇団 編『宝塚歌劇80年史 夢を描いて華やかに』(宝塚歌劇団、1994年) ISBN 4-924333-11-5
  • 宝塚歌劇団 編『宝塚歌劇90年史 すみれ花歳月を重ねて』(宝塚歌劇団、2004年) ISBN 4-484-04601-6
  • 川崎賢子『宝塚 消費社会のスペクタクル』(講談社選書メチエ、1999年) ISBN 4-06-258147-7
  • 玉岡かおる『タカラジェンヌの太平洋戦争』(新潮新書、2004年) ISBN 4-10-610075-4
  • 辻則彦『男達の宝塚 夢を追った研究生の半世紀』(神戸新聞総合出版センターのじぎく文庫、2004年) ISBN 4-343-00295-0
  • 岸香織『虹色の記憶 タカラヅカわたしの歩んだ40年』(中央公論新社、2000年) ISBN 4-122-04433-2

関連項目

外部リンク