月丘夢路

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つきおか ゆめじ
月丘 夢路
本名 井上 明子
いのうえ あきこ
旧姓:旭爪
ひのつめ
生年月日 1922年10月14日(91歳)
出生地 日本の旗 日本広島県広島市大手町
(現:中区大手町)[1]
民族 日本人
職業 女優
配偶者 井上梅次
家族 娘:井上絵美
妹:月丘千秋月丘洋子
主な作品
新雪』、『長崎の鐘』、『ひろしま』、『晩春』、『夫婦百景』、『華麗なる一族

月丘 夢路(つきおか ゆめじ、1922年10月14日 - )は、元宝塚歌劇団娘役スターで、日本女優。本名:井上明子(いのうえ あきこ、旧姓:旭爪<ひのつめ>)、宝塚歌劇団時代の愛称:ツメ
実妹は女優の月丘千秋月丘洋子松竹映画「花ある星座」や日活映画「美徳のよろめき」で共演)。夫は映画監督井上梅次。一人娘は料理研究家の井上絵美

来歴・人物[編集]

後年爆心地となった広島県広島市大手町(現:中区大手町)に薬局の長女として生まれる[1][2]袋町尋常小学校を経て、県立広島高等女学校(現・広島県立広島皆実高等学校)在学中に小夜福子の宝塚少女歌劇団(現:宝塚歌劇団)の舞台を観て、感激して宝塚少女歌劇団に入団することを決意する[3]。反対する親を説得して女学校を中退した後、1937年宝塚音楽歌劇学校に入学。宝塚歌劇団27期生。同期生に浦島歌女大路三千緒乙羽信子越路吹雪東郷晴子瑠璃豊美らがいる。1939年宝塚少女歌劇団生徒として『宝塚花物語』で初舞台を踏む(この初舞台の主演は小夜福子)。以降、その類稀れな美貌で娘役スターとなり活躍。ちなみに、後の映画『満月城の歌合戦』でも小夜福子と共演。そして、日活移籍第一作となった映画『あした来る人』でも小夜福子は月丘の母親役を務めている。

1940年、宝塚歌劇団在団中に宝塚映画『瞼の戦場』の主演で映画デビュー。1942年大映映画『新雪』に大都映画にいた水島道太郎と共に主演し大ヒット(主題歌は灰田勝彦)し映画界でも大スターとなる。1943年に宝塚歌劇団を退団。その後は大映に入社して、映画女優として活躍。

1947年轟夕起子に誘われて、轟の夫のマキノ正博が所長をしていた松竹京都に移籍。松竹でもトップ女優として活躍。四歳下の妹・月丘千秋も宝塚音楽学校を経て松竹入りしており、映画『地獄の顔』で妹・千秋と共演。

1951年7月、軽喜劇『東京のお嬢さん』のため渡米。二ヶ月で帰国する予定だったが声楽と舞踊を本格的に学ぶためニューヨークに残る。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク滞在となった。ちなみに、月丘はこのニューヨーク滞在中に、1949年に日本人初のノーベル賞を受賞(ノーベル物理学賞)して、当時コロンビア大学の教授としてニューヨークに赴任していた湯川秀樹博士湯川スミ夫妻に面会している。1952年4月、渡米前まで同棲していた岩井庄蔵が独断で入籍し夢路の家を売却し別の女性と行方をくらまし、告訴騒動となる。

1953年1月2日、第3回NHK紅白歌合戦に初出場し、「新雪」を歌唱した(当時の紅白は正月に開催されていた)。映像や音声は現存しないが、月丘の歌唱中の写真や紅組の歌手席に座っている写真が現存する[4]

1955年1月、製作を再開したばかりの日活に移籍。出演料は映画1本に付き200万円で松竹時代の倍となり、当時の日活俳優達の中で最も高額の出演料だった。日本の女優のヌード第1号は前田通子だが、本来は月丘が最初のヌード女優として記録されるはずだった。1957年の「白夜の妖女」(滝沢英輔監督)では、撮影段階ではヌード・シーンや激しい濡れ場が撮影されたが、時代背景から映画館での公開時には、完全ボカシ状態で上映された。(晋遊舎:黄金のGT)。1957年井上梅次監督と結婚、井上とは絵美の出生などを挟み2010年2月に死別するまで連れ添った。

しかし、日活がアクション映画に路線変更すると速やかに後輩の石原裕次郎らにトップスターのバトンを渡し、1959年にフリーとなる。以後は出産・育児や家庭のため出演数をセーブしながら脇に回り、映画やテレビドラマ、舞台で活躍。

夫・井上とともにジャニー喜多川と親交があり関連会社の代表を務め、舞台などでジャニーズ事務所所属のタレントとよく共演したが、1971年6月乗り合わせた車が交通事故に逢った際、フロントガラスの破片で顔に深刻な傷跡が残るほどの重傷を負ったことや、近年の自身と梅次の高齢化などもあり往年とはちがい、活動ペースをセーブしている。

2004年(平成16年)11月18日に開催された神戸100年映画祭のプレイベントにおいて、ロシアモスクワ市郊外にあるゴスフィルモフォンド(ロシア国立映画保存所)で全編124分の内、74分の映像フィルムが収蔵保管されていたことが判明して、ロケ地である兵庫県神戸市の神戸文化ホールで映画「新雪」が上映された際に、トークショウにゲストとして出席して撮影当時のことを振り返った。

2010年(平成22年)2月11日、夫・井上が脳出血で死去。後述の『徹子の部屋』出演時に、「先に逝かれるとは思わなかった。」と語っている。また、「おかげで雑用に追われているなかで整理もできている。」と話していた。なお後日、帝国ホテルで開かれた井上梅次のお別れの会には腰を痛めたために出席できず、娘の絵美だけで来客を饗した。

2011年(平成23年)2月18日に開催された日本アカデミー賞授賞式に会長特別賞を受賞した夫・井上梅次の代理として88歳の元気な姿で娘の井上絵美と共に臨席。久々に公の場に姿を現した。

東日本大震災によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故によって、放射能汚染について世間の関心が高まり、1945年昭和20年)に広島県広島市に投下された原爆による被害の惨状を描いた主演映画「ひろしま」(1953年製作)が脚光を浴びたことを受けて、新聞の取材に応じ、2011年(平成23年)8月12日に記事が紙面上に掲載された。

エピソード[編集]

  • 女学校に入るのに受験難だった当時、ご褒美に東京に連れて来てもらったときに宝塚の小夜福子水の江滝子のステージを見て感激し、中退して宝塚に入った。
  • 戦前の宝塚で轟夕起子らと並ぶ、"男性ファンの多大な支持を集めた美人娘役”のひとりとして語り継がれる。夢路いとしの芸名の姓は月丘にちなんだと、いとし本人が談話していた(詳細は夢路いとしの項目参照を)。
  • 「容姿端麗」が入学条件で美女揃いの宝塚歌劇団の中でも、他のタカラジェンヌ達から妬まれ深刻ないじめにあっていたほどの類稀な美貌の持ち主。「ツメは自分の美貌を鼻にかけている」「男の先生に色仕掛けで接して、いい役を貰っている」などと身に覚えのない中傷をされ続けていた窮状を救ってくれ、「ツメ、あんたは三枚目(お笑いキャラ)で行き!」と助言してくれたのは同期の越路吹雪(コーちゃん)だったと月丘は語っている[5]
  • 統一教会と関係の密接な一和高麗人参茶TVCMに月丘が出演し、夫・井上も統一教会系の国際勝共連合の後押しで制作された『暗号名 黒猫を追え!』で監督脚本を担当するなど、統一教会との関わりの深い芸能人である。霊感商法が問題にされた際には教会員・支持者の集まりで月丘を目撃したという情報が寄せられたことなどから、統一教会会員との疑惑が持ち上がったが、月丘自身は「私はローマ・カトリック信者で洗礼の記録も残っている」と否定している。
  • 1953年、上記の日活移籍前でも、映画1本の出演料はすでに当時の日本映画界のトップクラスで、また、大手映画会社の松竹専属だったが、『原爆の子』を原作とする日教組プロ制作の映画『ひろしま』に故郷・広島への郷土愛からノーギャラで出演して教師役を演じた[1]
  • 月丘が第一線で活躍していた頃、美容整形において「目は月丘夢路の目で」という希望が多い時期があった。
  • 宝塚歌劇団でコンビを組んだ事もあり、月丘の上級生にあたる男役トップスター・春日野八千代も彼女の類稀な美貌について語っている[6]
  • 日活所属時に当時の映画衣装担当者が森英恵であり、プライベートにおいてもマタニティードレスなどの衣装製作(オートクチュール)を森に依頼している(宝塚歌劇団で月丘の下級生・新珠三千代も同様)。
  • 月丘が出演した日活移籍後第1作目の映画『あした来る人』(1955年)では、原作者の井上靖から「(小説を)書いてるうちに、また月丘さんみたいな人が出てきちゃったの。」、と月丘のイメージで原作を書いたことを告白されたと語っている[7]
  • 宝塚の後輩・淡島千景の映画界転向は月丘の勧めという[8]
  • 仲代達矢の本格的映画デビューは、月丘が仲代の舞台『幽霊』を見て気に入り、月丘の相手役に指名した1956年日活の『火の鳥』。「準主役に抜擢という形で映画俳優への道を拓いてくれた月丘さんには一生、足を向けて寝られないです」と仲代は話している[9]。月丘と仲代はその後、1974年の『華麗なる一族 (映画)』(山崎豊子原作)でも母と息子役(万俵寧子と万俵鉄平)で共演している。
  • 娘・絵美は月丘を「台所の宇宙人」と称している。過去に台所のことが出来る人がいないときに客がきて、もてなせなかったことを娘に非難されたためである。まともに料理ができないのに客を呼び、「よくこれで人を呼んだな」と言われたこともある。月丘が料理をできなかったのは、夫・井上が家事などをしないでよいと言ったためである。井上は自立した女性を認める人であり、月丘自身も絵美が料理を勉強するためにフランスリヨンに留学した際には背を押した(2012年1月31日「徹子の部屋」出演時のトーク内容から)。
  • 若いイケメンが好き。市川海老蔵が最もお気に入りで、赤ん坊の写真をもらったという。またダルビッシュ有石川遼高橋大輔らも好きだという。娘には顔が良ければ良いのかと言われているが、彼らは一芸に秀でているから好きだと言っている(2012年1月31日「徹子の部屋」出演時のトーク内容から)。

宝塚歌劇団時代の主な出演[編集]

  • 『太平洋』(雪組)(1940年4月26日 - 5月24日、宝塚大劇場
  • 『アルプスの山の娘』(雪組)(1940年7月26日 - 8月25日、宝塚大劇場)
  • 『銃後の合唱』(雪組)(1940年10月26日 - 11月24日、宝塚大劇場)
  • 『日本名所圖繪』(雪組)(1941年1月1日 - 1月29日、東京寶塚劇場
  • 『樂しき隣組』『豊穣歌』(雪組)(1941年5月27日 - 6月24日、宝塚大劇場)
  • 『大空の母』『海を渡る歌』(雪組)(1941年8月26日 - 9月24日、宝塚大劇場)
  • 『豊穣歌』(雪組)(1941年10月1日 - 10月26日、東京寶塚劇場)
  • 『奥州二本松』『宣撫物語』(雪組)(1941年11月26日 - 12月28日、寳塚中劇場
  • 『寳塚かぐや姫』(花・月・雪組)(1941年12月5日 - 12月28日、大阪北野劇場)
  • 『ピノチオ』(1942年、宝塚大劇場)
  • 『新かぐや姫』(雪組)(1942年7月26日 - 8月24日、宝塚大劇場)
  • 『コーロア物語』(雪組)(1942年10月27日 - 11月24日、宝塚大劇場)

主な出演作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

舞台[編集]

その他のテレビ番組[編集]

ほか多数

テレビコマーシャル[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 中国新聞、2011年8月13日5面
  2. ^ 「ひろしま」-広島「八丁座」で上映 - 広島経済新聞ひろしま
  3. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年、452-454頁
  4. ^ NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(NHKサービスセンター刊、2000年1月16日発行)
  5. ^ 「別冊太陽 宝塚タカラジェンヌ一〇〇 宝塚歌劇団八〇周年記念」(監修・解説/宇佐見正。平凡社1994年
  6. ^ 「別冊太陽 宝塚タカラジェンヌ一〇〇 宝塚歌劇団八〇周年記念」(監修・解説/宇佐見正。平凡社1994年
  7. ^ 水野晴郎と銀幕の花々」、近代文芸社
  8. ^ 淡島千景「淡島千景 女優というプリズム」、青弓社、2009年4月、23頁
  9. ^ キネ旬ムック「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画編」、キネマ旬報社、2009年12月、205頁

関連書籍[編集]

  • 「別冊太陽 宝塚タカラジェンヌ一〇〇 宝塚歌劇団八〇周年記念」(監修・解説/宇佐見正。平凡社1994年
  • 「水野晴郎と銀幕の花々」(近代文芸社。水野による月丘を含む女優達のインタビュー集)
  • 「銀幕の昭和 「スタア」がいた時代」(筒井清忠/編著、井上理砂子、板倉宏臣、中澤まゆみ/著)ISBN 4-916028-65-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]