少女歌劇

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少女歌劇(しょうじょかげき)は、少女もしくは若い女性たちによって演じられるレビューミュージカルオペレッタお伽歌劇などの音楽・芝居・ダンスを中心とした日本独特の舞台芸能。これらを行う団体はしばしば少女歌劇団と呼ばれ、後に宝塚歌劇団OSK日本歌劇団(旧:大阪松竹歌劇団)・松竹歌劇団(愛称:SKD)となった3団体が三大少女歌劇として特に有名だった。

また、1990年代以降、「少女歌劇」の名称を用いた女性(少女)タレントグループによる活動についても、併せて解説する。

1951年(昭和26年)、松竹歌劇団「秋のおどり」
ラインダンスは少女歌劇の定番演目である
1951年(昭和26年)、宝塚歌劇団「白き花の悲歌」

名称について[編集]

宝塚少女歌劇団が1914年(大正3年)の第1回公演で「少女歌劇」という名称を用いたのが最初で、当時の新聞には「日本で初めての少女歌劇」[1]と銘打った広告が出ている。これより先の白木屋少女音楽隊も含め、少女歌劇が誕生した当時(明治末〜昭和初期)は、尋常小学校卒業程度の10代の少女たちを中心に構成されており、そのためこれらの団体名は「少女」を冠したものだった。しかし、その後の発展と劇団員の年齢層の変化に加え、「少女歌劇」が幼稚なお伽レビューしか上演しないという印象を与えるため[2]、三大歌劇団はいずれも1940年代に「少女」の文字を団名から外した。

しかしその後も、歴史的経緯から、"女性のみによるレビュー"を表現する語として、継続して用いられている[2][3][4][5][6][7]。また、誕生当初は劇団員の年齢層を反映した「少女歌劇」の名称の意味合いも、少女ファンの増大・白井鐵造によるロマンチックなレビューが"少女性"と一致したことから、1935年(昭和10年)ごろに「少女による歌劇」から「少女のための歌劇」に変化したとの見解もある[8]

その他に、

がそれぞれ用いられるが、1990年代以降

  • 女性歌劇/女性歌劇団

という言葉が、報道においてOSKを紹介する場合を中心に用いられている[9][10][11][12]

概要[編集]

1932年(昭和7年)、松竹楽劇部「春のおどり」

演目[編集]

大正から昭和初期にかけては、白塗りの化粧でのお伽歌劇や喜歌劇などが演目の中心であり、日舞も盛んに上演されていた。ところが、宝塚少女歌劇団が1927年(昭和2年)9月初演した「モン・パリ」の成功により、西洋風の化粧・華やかなレビューおよびミュージカルが演目の中心となった。戦後になると宝塚は海外ミュージカルにも数多く取り組んだ。

これらレビューには洋物と日本物が存在するが、特に日本物は西洋音楽に合わせて日舞を踊る独特の演目である。OSK日本歌劇団では、松竹座・南座のメイン公演は必ず和洋二本立てである等、現代でも日本物の比重が大きい。一方、宝塚歌劇団では日本物はレビューおよび芝居とも減少傾向にある。

出演者[編集]

1947年(昭和22年)、宝塚歌劇団「ファイン・ロマンス」
男役は少女歌劇最大の特徴である

主に義務教育終了以上の未婚の女性によって構成され、多くの団体において、団員の序列は厳格なものであり、厳しい上下関係が存在する。OSKとSKDには幹部制度と昇進試験があった。また出演者に対する呼称には「劇団員」「技芸員」の他「生徒」(宝塚のみ)が用いられ、ふつう「女優」とは呼ばない。

宝塚歌劇団OSK日本歌劇団および松竹歌劇団(解散)等は義務教育終了後の女性に付属の養成機関で、洋舞(バレエジャズダンスタップダンス等)・日舞声楽などの教育を行った上で劇団員として採用した。

特にスポンサーが大企業である三大少女歌劇は、かつては高待遇(学費無料・寮設備あり・定年無しなど)で劇団員を抱えていたが、いずれもその後の経営悪化により縮小している。

演者が女性のみであるため、男性役の男役と女役からなるが、男役・女役の区別はかつては厳密ではなく、宝塚の南悠子、SKDの小月冴子、OSKの秋月恵美子等のように男役トップスターでありながら女役を演じる場合もあった。今日ではトップスターが男女双方を演じることは稀であり、それも特定の演目・役に限られる[13]

芸名は、各劇団のルールに従い美的なものが付けられている[14]。しかし複数の劇団間でも、同字同音または異字同音[15]などの似た芸名もあり得る。

SKDには本名を公表する場合があり、OSKは本名を芸名にすることが可能である。なお、ほとんどの劇団で年齢は非公表となっている。

かつては、共に松竹傘下で姉妹関係にあったOSKとSKD間以外にも、複数の団体間で交流があった。例えば、天見千草は1950年(昭和25年)に宝塚雪組からSKDへ移籍(編入)し、横澤英雄はOSKの正式な申し入れにより1964年(昭和39年)以降宝塚・OSK双方の演出家となった。しかし、宝塚が圧倒的な人気を誇って以後は表向きは無くなった。

スタッフ[編集]

出演者は少女を含む女性であるが、創立者・団長・脚本家・演出家などの主要なスタッフは、男性がほとんどであった。1982年(昭和57年)になって、OSK日本歌劇団の座付き演出家として吉峯暁子が「夏のおどり -妖精三銃士-」でデビューし、少女歌劇史上初の女性演出家が誕生した。なお、宝塚歌劇団初の女性演出家は、1998年(平成10年)に「Icarus」でデビューした植田景子である。また、演出家専業ではないが、宝塚のトップスター:春日野八千代1956年(昭和31年)の「ローサ・フラメンカ」以降、演出も担当した公演がある。

今日でも、複数の団体間で、演出家・振付家などが重複しており、演目・振り付けの類似点は皆無ではない。

歴史[編集]

白木屋少女音楽隊1911年(明治44年)、結成直後。彼女達のために作られた『うかれ達磨』は宝塚少女歌劇の第1回公演にも採用された。
1928年(昭和3年)、宝塚少女歌劇団「モン・パリ」再演
1934年(昭和9年)、松竹少女歌劇団「ローゼン・カヴァリア

少女歌劇誕生と隆盛[編集]

日本において女性だけの芸術が根付いた背景として、白拍子・女歌舞伎女義太夫など、日本には古来から"男装した女性"による芸能が多数存在することが挙げられる。少女歌劇もこれらの系譜に類するものと言える。

明治時代末期、それまで隆盛を誇った民間音楽隊(軍楽隊を模した)は衰退し、少年少女による音楽隊が結成されていった[16]。大正時代になると民主主義の台頭から女性・子供が着目されるようになり、新たな商業施設である百貨店は、子供を狙った事業を展開する[16]。この流れの中で、1910年(明治43年)、三越少年音楽隊が結成されたのを皮切りに、百貨店の余興のため数多くの団体が結成された。1911年(明治44年)、白木屋少女音楽隊が結成され、店内で音楽演奏や演劇上演を行った[17]。これが日本初の「少女歌劇」とされている。ただし、この前年1910年(明治43年)に、大阪の南地大和屋が技芸養成所を開設し、少女による演目を企画していたとされる[18]

そして、三越少年音楽隊に着想を得て、1914年(大正3年)、宝塚新温泉に宝塚少女歌劇が登場する。宝塚の成功の影響から、大正時代から昭和初期にかけては多くの少女歌劇団が各地に誕生して特に盛んであった。宝塚に倣い、電鉄が開発・経営する郊外の娯楽施設に併設する形で、少女歌劇団が多数結成されている。宝塚少女歌劇団兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市))、そして1922年(大正11年)に誕生した松竹楽劇部から発展した大阪松竹少女歌劇団(OSSK・大阪市)と松竹少女歌劇団(SSK・東京市)によるものは日本の三大少女歌劇と呼ばれて大きな人気を獲得した。

誕生当初は、日舞・洋舞のほか「お伽歌劇」と呼ばれるおとぎ話(童話・民話)を題材にした歌付きの短い芝居が上演されていた。この時期の化粧は、伝統的な白塗りである。1926年に松竹楽劇部が和物レビュー「春のおどり」を上演するなど、初期には日舞をベースとした和物の比重が大きかった。

ところが、宝塚少女歌劇団が1927年(昭和2年)9月初演した「モン・パリ」(岸田辰彌作)は西洋風の化粧に露出の高い衣装・ラインダンス・階段を活用したフィナーレなど画期的な作品となり、少女歌劇に大きな転機をもたらした。この成功により洋物レビューが人気を博するようになり、翌1928年(昭和3年)には松竹楽劇部も独自に洋物レビューを確立させて追随した。さらに宝塚で1930年(昭和5年)8月初演のレビュー「パリゼット」(白井鐵造作)が「モン・パリ」以上のヒットとなって以来、華やかなレヴュー(ショー)やミュージカル(芝居)が演目の中心となっていった[19]

1930年(昭和5年)、宝塚の「パリゼット」にて本格的な男役が誕生し、他の団体も追随した。特に、SSKの水の江瀧子オリエ津阪が同年のうちに短髪にし(断髪)、絶大な人気を集めて一世を風靡。宝塚では1932年(昭和7年)になって門田芦子が断髪した。さらに1930年代からは演目に恋愛が取り入れられるようになり、1934年(昭和9年)ごろには、中心ファン層が女学生(少女)へと変化した。

しかし、やがて来た災害や第二次世界大戦により多くの歌劇団が活動困難となった。戦後まで残ったのはほぼ三大少女歌劇のみとなった。これらの歌劇団は技能をより高度なものにするとともに、1940年代には名称から「少女」をはずし、宝塚少女歌劇団は宝塚歌劇団に、大阪松竹少女歌劇団は大阪松竹歌劇団(OSK)に、松竹少女歌劇団は松竹歌劇団(SKD)へと改名し、それぞれ独自に発展していった。

戦後の繁栄と衰退[編集]

1956年(昭和31年)、大阪松竹歌劇団「春のおどり」を上演中の大阪劇場

戦後は1950-60年代にかけ繁栄した。SKDは浅草の国際劇場を本拠地に派手なレビューを上演し人気を集めた。また、劇団員が系列の松竹へ映画女優として引き抜かれることも多かった[20]。OSKは大阪劇場を中心にレビューを上演。1957年(昭和32年)にはアメリカ映画「サヨナラ」のレビューシーンに出演した。一方、宝塚は海外から振付家や演出家を招聘し、1960年代には海外ミュージカル「ウェストサイド物語」「回転木馬」の日本初演を行った。

1950年までは姉妹関係にあったOSKとSKDが合同公演を行った。また1963年(昭和38年)には単発企画ではあるものの、宝塚・OSKを始めとするレビュー劇団[21]が合同で公演を行ったり、OSKが宝塚の演出家だった横澤英雄を招聘したりと、互いの交流も盛んに行われていた。

しかし、やがて娯楽の多様化、特に家庭用テレビの普及から、上演に多額の経費を要する少女歌劇は、三大少女歌劇を含め多くの団体が経営難に苦しむこととなった。1971年(昭和46年)にOSKは近畿日本鉄道の子会社となって奈良県を本拠地とした。また1972年(昭和47年)には宝塚は定年制度を導入した。SKDもこの時期にオーケストラ演奏を取りやめた。

宝塚歌劇団の復活と影[編集]

1972年(昭和47年)、男装の麗人が活躍する少女漫画ベルサイユのばら」が社会現象となるほど大ヒットしており、1974年(昭和49年)宝塚歌劇団がこれを舞台化するとたちまち宝塚歌劇ブームを巻き起こした。宝塚歌劇団は全国な知名度を高め、また少女のファンが急増したりと窮地から脱した。付属の宝塚音楽学校の志願倍率も跳ね上がり、多くの人材が集まったため、その後の宝塚歌劇団を支える地盤となった。また1970年代後半より宝塚歌劇団では円形の羽を背負うのが定番となるが、後にOSKも一時期模倣したことがある。

1970年代、遊園地:那須ロイヤルセンターの専属劇団である那須ロイヤルダンシングチームが、宝塚歌劇団やOSKのスタッフを招聘してレビュー上演を新たにはじめた。公演内容はOSKから強い影響を受けていた。

宝塚歌劇団が繁栄する一方、ミュージカルを得意としないOSK・SKDは苦戦が続いた。宝塚歌劇団では人気と人材の豊富さから、トップスターでも入団後15年程度で退団し次のスターへ交代するスターシステムが上手く機能するようになった。トップ就任→退団の時期は、OSKは宝塚歌劇団より数年長く、SKDに至っては入団後20年以上かかっていた。宝塚歌劇団出身者が退団後、系列の東宝ミュージカル等へも出演し、芸能界でも活躍したのに対し、OSK・SKDは著名な出身者が少なくなり、知名度は低下する一方だった。

セクシー路線を打ち出していたSKDには女性の固定ファンが定着せず衰退。1981年(昭和56年)に本拠地国際劇場から撤退し、歌舞伎座や地方公演でレビュー上演を続けたが、1990年(平成2年)をもってレビューを中止しミュージカル劇団への再編を試みた。しかしこのことでレビューファンが離れ、劇団員も半減した。制作方針も定まらないまま迷走を続け1996年(平成8年)6月30日付で解散した。また、那須ロイヤルダンシングチームも同時期1997年(平成9年)に解散した。

OSKでは、宝塚の人気の蔭で志願倍率が大幅に低下し、1970年代後半の入学者は定員を大幅に割り込み一桁となった[22]1987年(昭和62年)以降は近鉄劇場にて年一度ミュージカルを定例化させ、大阪中心部での公演を再開。姉妹関係にあり東西で住み分けをはかっていたSKDがレビューを中止したことを受け、OSKは1992年(平成4年)以降は東京公演を復活させた。ミュージカルでは小説を原作にした話題作・佳作を発表していたが、不況の影響から2002年(平成14年)に親会社の近鉄が支援打ち切りと翌年の解散を通告した。

現在[編集]

OSKは2003年(平成15年)には一時解散を余儀なくされたが、解散通告を受けたOSKの劇団員は存続活動を行った。その甲斐あって、翌2004年(平成16年)にNewOSK日本歌劇団として旗揚げ。かつての親会社だった松竹系列の劇場での本格的なレビュー公演や小中劇場でのミュージカル公演を継続している。

しかしながら、その後も状況が改善した訳ではなく、NewOSKは2007年(平成19年)に民事再生手続きを行った。事業は別会社に譲渡されOSK日本歌劇団に名を戻し、その後株式会社として独立した。

OSKの一時解散に前後し、新たな劇団も誕生した。かつてOSKが公演を行っていた旅館である加賀屋はNewOSKへ残留しなかった元団員の一部を受け入れる形で、新たに専属劇団である雪月花歌劇団を新設した。またNewOSKへ残留しなかった元団員の一部は歌劇★ビジューを結成した。

また専用劇場を有し圧倒的な規模を誇る宝塚は、1980-90年代にかけチケットを2倍以上にまで値上げした[23]。それでも2000年前後までは劇場稼働率9割台を誇っていた[24]が、近年ではチケットが完売することは稀になっており、集客力のあるスターの確保・育成とファン層の拡大が大きな課題となっている。

主な団体[編集]

前述の三大少女歌劇の他にも、大正から昭和にかけて日本各地に大小さまざまな団体が多数存在したが、詳細が明らかになっていないものも多い。大正〜昭和時代の団体に関する情報の多くは倉橋滋樹・辻則彦(2005)[25]によるものである。 以下に、現在および過去に活動している主な団体を列記する。

現在 活動している団体[編集]

最初は松竹楽劇部、1934年に大阪松竹少女歌劇団(OSSK)、戦後1947年に大阪松竹歌劇団(OSK)、1967年に日本歌劇団(NKD)、1970年にOSK日本歌劇団に改名。1957年以降は松竹から独立している。2003年の近鉄支援打ち切りに際し、一時的にNewOSK日本歌劇団を名乗っていた。
約40名の団員がおり、松竹座南座および小中劇場での公演を中心に、年間を通じて活動。入団は独自の養成機関であるOSK日本歌劇団研修所(二年制)出身者に限られる。かつては学校組織として日本歌劇学校(二年制)を有した。
OSK日本歌劇団から親会社の近鉄が支援を打ち切った直後、OSKが加賀屋にて公演を行っていたことからOSK出身者を中心とした専属劇団として発足。雪組・月組・花組がある。現在ではOSK出身者でない者もいる。
宝塚唱歌隊として発足。1919年に宝塚少女歌劇団に、1938年に宝塚歌劇団に改称。阪急電鉄の一部門「創遊事業本部歌劇事業部」が運営している。
約400名の団員がおり、専用劇場である宝塚大劇場東京宝塚劇場の公演を中心に、年間を通じて活動。入団は独自の養成機関である宝塚音楽学校(一年制→二年制)出身者に限られる。
テーマパークハウステンボス内に2014年1月にオープンした劇場「ミューズホール」専属として、宝塚・OSK出身者を中心に構成。
創設時、約20名の団員がおり、ハウステンボス歌劇学院(一年制)を併設


OSKの一時解散に際し、残留しなかった元団員により結成され、現在もOSK・宝塚の出身者を中心に構成されている。
活動がない期間は、メンバーはビジューとは別に舞台出演・講師等をしているが、2006年には文化庁芸術祭演劇の部優秀賞受賞をし、海外公演も数多く経験している。

過去 存在していた団体[編集]

河合ダンス、1926年
  • 赤玉少女歌劇団(大阪・キャバレー赤玉):1927(昭和2)- 1936(昭和11)。
  • 芦屋少女歌劇(西宮・香枦園浜):大正末頃-?
  • 粟ヶ崎少女歌劇団石川県河北郡内灘町・粟ヶ崎海岸):1928(昭和3) - 1941(昭和16)。
大浴場・動物園などを有する粟崎遊園内の、1000人規模の大劇場にて活動。最盛期には約40名の団員がおり、本格的なオリジナルレビューを上演した。1937年(昭和12年)には粟崎遊園歌劇学校を併設。「北陸のタカラヅカ」と謳われた。
  • いく代舞踊部(札幌市・いく代亭):1927(昭和2)- 1947(昭和22)。
  • 市岡パラダイス少女歌劇(大阪市・市岡パラダイス):大正末-?
  • 色葉少女歌劇(大阪市・新世界・いろは座):詳細不明。
  • 大市乙女ダンス(おうちおとめだんす)(大阪・生駒山上遊園地大市温泉閣):昭和初期-?
  • 大阪アカネ学院(大阪市):大正末 - 昭和初期頃(詳細不明)
『児童劇コンキチ狐』『第一の夜』などのお伽歌劇風のレコードがある。
  • 大阪お伽学院(大阪市・天下茶屋 - 一部は後に芦屋少女歌劇に合流)。
  • 大阪舞踊協会(大阪):大正末頃。 詳細不明。
  • 大浜少女歌劇(堺市・大浜潮湯):1924(大正13)- 1934(昭和9)。
  • 花月園少女歌劇(横浜市・鶴見花月園):1922(大正11)- 1940(昭和15)頃。
  • 花月乙女舞踊団(大阪・新世界・芦辺館):1926(大正15)- ?
  • 河合ダンス(大阪市・道頓堀):1922(大正11)- 1937(昭和12)頃。
  • 銀の星少女歌劇団新潟県吉田町):1947(昭和22)- 1950(昭和25)。
  • 甲陽少女歌劇(西宮・甲陽園):大正頃。
  • 国華少女歌劇(地方巡業):大正末頃 詳細不明。
  • 塩江温泉少女歌劇(香川県塩江温泉・花屋旅館):1929(昭和4)- 1940(昭和15)
ここでは少女ジャズバンドも売り物の一つであった。
最初は東京松竹楽劇部、1930年に松竹少女歌劇部、1931年に松竹少女歌劇団と改名し、同年松竹少女歌劇学校を設立。戦争の苦難を乗り切り、1947年から松竹歌劇団(SKD)として再結成し、浅草国際劇場を本拠地に1950年代を頂点に人気を集めたが、やがて衰退。1990年にレビューを中止しミュージカル劇団へ改組するも1996年に解散。入団は独自の養成機関:松竹音楽舞踊学校(三年制→二年制)出身者に限られた。
  • 白木屋少女音楽隊(東京):1911(明治44)- 1917(大正6)
三越少年音楽隊に対抗して東京日本橋の白木屋呉服店が店舗大改築に併せて組織した日本最初の少女歌劇。余興場と称された本店三階の劇場で歌舞、コミックオペラ、お伽歌劇などを上演。彼女達のために作られた本居長世作曲の『うかれ達磨』は特に人気となり、後に宝塚少女歌劇団など他の歌劇団や、女学校の音楽会でも演じられた。
百貨店の少女店員による本格的少女歌劇。
  • 鶴見園女優歌劇(大分県別府市鶴見園):1925(大正14)- 1943(昭和18)
600人収容の大劇場でレビュー、股旅物、軽演劇などを上演。「九州の宝塚」と呼ばれた。
  • 鶴見花月園少女歌劇団(横浜市・花月園遊園地):?
  • 東京少女歌劇団(東京-名古屋):1917(大正6)- ?
鈴木康義が浅草三友館で旗揚げし、日本館などにも出演した。日本もの歌劇を売り物として、浅草オペラ全盛の時代に各歌劇団の間に介在し、かなりの人気を博したという[26]。日本歌劇協会、ビューチー一座、エンパイヤ歌劇団、アサヒ歌劇団(旭少女歌劇団)などの名称を経、その後名古屋を本拠地に活動したともいう。この間には男性も加わったこともあり、藤原義江のオペラ初舞台は浅草のアサヒ歌劇団であった。女優・谷崎歳子江利チエミの母)がここで活躍した。
  • 那須ロイヤルダンシングチーム:1970年代? - 1997年
遊園地を併設した複合施設:那須ロイヤルセンターの専属劇団。専属の養成機関(一年制)を有した。
  • 浪華少女歌劇(大阪市・楽天地):1921(大正10)- 1922(大正11)
女優・浦辺粂子が浅草の根岸大歌劇団のコーラスガールをやめ、この歌劇団に所属したことがある。
  • 日劇少女歌劇団(東京市・日本劇場):1934(昭和9)- ? 詳細不明。
1934年の日劇こけら落しに出演した「日本劇場レヴユウ団」と同じものか?
  • 日本少女歌劇(東大阪・日下遊園地):大正頃。
日本少女歌劇団と同じものか?
  • 日本少女歌劇団(地方巡業):1926(大正15)頃 - 1955(昭和30)
島幹雄(本名・富永朝太郎)が創設し団長を務めた。戦前は満州を含む各地を巡業、戦後も活動した。1949年8月16日には福島県松川町で1日のみの公演を行い、一泊して翌日に移動したことから、同年8月17日未明に同町で起こった松川事件の真犯人と何らかの関係があるのではないかと言われたことがある。この件は1964年の国会(衆議院法務委員会)でも取り上げられた([2][3])。別称・日本少女歌劇座
  • 羽田別荘少女歌劇団(広島市・羽田別荘):1918(大正7)- 1941(昭和16)
「ハダカゲキ(羽田歌劇)」の通称で人気を集めたという[27][28]
  • 琵琶少女歌劇(大阪市・楽天地):1919(大正8)- 1923(大正12)
琵琶を用いた和風の少女歌劇。田中絹代はここで人気となった。
  • 先斗町少女レヴュー団(京都市):昭和初期頃。
一般公演のほか、映画『人肌観音 第一篇』(1937・松竹下加茂)にも応援出演。詳細不明。おそらくは先斗町鴨川をどりのグループ。
  • 山根少女団(地方巡業):大正頃?- 昭和初期? 詳細不明。
山根曲馬団が折からのレビューブームを取り入れる中で一時名乗ったもの。山根少女歌劇団の名称もある。元々がサーカスチームであることを生かし、綱渡りなど本物の曲芸を盛り込んだ「サーカス・レビュー」などで人気を博したという。
  • 若柳少女歌劇:昭和30年代 詳細不明。
1959年3月23日-24日に福岡県飯塚市嘉穂劇場で公演した記録がある。若柳流による鴨川をどりなどの舞踊劇に似たものか?

少女歌劇を題材とした作品[編集]

各劇団を題材にしたものは、それぞれの個別記事を参照されたし。なお、宝塚歌劇団を運営する阪急の資本下に日本最大の映画会社(東宝)が存在し、さらにはその傍系に宝塚大劇場に近接する映画スタジオ(宝塚映画)が長期間存在していたにも関わらず、2012年現在、宝塚歌劇団を正面から描いた日本映画は1951年の「寶塚夫人」位しか存在せず、一場面として取り上げられることも非常に稀である。長らく松竹資本であったOSK、SKDも同様であり、いずれも映画においてはゲスト出演的な登場にとどまっている。

映画[編集]

洋画
監督:ジョシュア・ローガン1957年公開、アメリカ映画
架空の劇団である「松林歌劇団」を舞台に、米軍パイロットと歌劇スターの恋を描く。
ステージ場面では大阪松竹歌劇団が出演。ただしスター:ハナオギ役の高美以子の場面は別に撮影された。
邦画
  • 「寶塚夫人」
監督:小田基義、原作・原案:丸尾長顕、脚本:八住利雄1951年公開、日本映画
朗らかに清く正しく美しい友情に守られて宝塚歌劇団の長い伝統を継承していく乙女達の世界を描いた豪華壮麗な作品。カラー作品。
同作品には主演に俳優として春日野八千代、助演を初音麗子月丘夢路、八千草薫、有馬稲子伊吹友木子らOGや宝塚歌劇団の生徒が務め、特別出演として当時在団中の天津乙女越路吹雪浦島歌女神代錦打吹美砂美吉左久子天城月江南悠子が出演した。
宝塚大劇場でロケが行われた。
  • 「さよならの女たち」
脚本・監督:大森一樹。1987年公開、日本映画
ヒロイン・郁子(斉藤由貴)は、自分探しの途上、宝塚歌劇機関誌の編集アルバイトを経験する。また、その親友・麻理(古村比呂)は私設ファンクラブの幹部。

漫画[編集]

原作・作画:手塚治虫。1958年、少女 1958年新年増刊号にて掲載。
歌劇団のスター・目白千鳥に巻き起こる出来事を描いたサスペンス少女漫画。
原作:氷室冴子、作画:藤田和子。1981年、週刊少女コミックにて連載。
架空の劇団である「宮苑歌劇団」(神戸市)を舞台とした、ステージドラマ。
連載当時、氷室は関西に居住し、宝塚の私設FCに入会していた。1996年にOSKが劇中劇「レディ・アンをさがして」を実際に上演した。

ゲーム[編集]

制作:セガ、1996年〜発売
"太正"時代、特殊部隊:帝国華撃団(舞台では帝国歌劇団)を率いて戦うゲーム。
アニメ漫画ミュージカル等、幅広いメディアへ展開された。

少女・女性タレントによる活動[編集]

1990年代以降になると「少女歌劇」を冠し、ミュージカルやライブパフォーマンスを行う団体がいくつか登場した。これらの団体はアイドルジュニアアイドル)的要素が強く、さらにメンバーの年齢層・舞台化粧・男役の有無・日舞の有無・ファン層の違いなど、戦前から存在した従来の少女歌劇団の後継・派生団体とは異なる。

1991年(平成3年)3月、女性タレントの育成を目的としたグループとして[29]南青山少女歌劇団が設立された。女優や歌手を目指す少女(11-18歳)が所属し[29]、オリジナルミュージカルを中心に、テレビCM・音楽番組にも出演していた[30]2001年(平成13年)に活動休止(事実上の解散)。

2005年(平成17年)9月、花やしき少女歌劇団が結成された。遊園地:花やしきの他、地域イベントに出演している。

この他、近年では、AKB48がミュージカル公演を"AKB歌劇団"と銘打って行ったり、アイドルグループ:星のオトメ歌劇団など、女性アイドルが「歌劇」の語を用いている。

主な団体[編集]

同歌劇団第3期生からの選抜ユニットとして2007年には「あさくさ少女歌劇団」も組織された。花やしきアクターズスタジオが母体。成人が多い他団体とは異なり、文字通り少女(子役)によって結成されており、男装シーンはあるものの本格的な舞台化粧は行わない。
  • 南青山少女歌劇団(東京都港区):1991年(平成3年)-2001年(平成13年)。ミュージカルを中心としたグループ。専属の劇場や脚本家を持たなかった。

脚注[編集]

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  1. ^ 1914年3月19日大阪毎日新聞掲載、箕面電鉄 婚礼博覧会余興の広告
  2. ^ a b 1952年11月21日 読売新聞「“少女歌劇”の生態」
  3. ^ 1975年7月9日 朝日新聞「少女歌劇『ベルサイユのばら』の原作者 池田理代子さん」
  4. ^ 1988年12月26日 日本経済新聞「(エコー)OSK日本歌劇団幹部長谷川恵子氏――やっと自前の練習場」
  5. ^ 1989年6月27日 朝日新聞「さまよえる花嫁学校 レビューの終わり SKD休団」
  6. ^ 1989年7月7日 日本経済新聞「(マイドリーム)日本歌劇団社長藤井賢三氏」
  7. ^ 2008年6月26日 朝日新聞「(勝手に関西世界遺産)OSK けなげな乙女は今日も歌う」
  8. ^ 津金澤聰廣・近藤久美編『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社、第4章
  9. ^ 1994年12月15日 朝日新聞「春日大社がOSK日本歌劇団員に和舞の指導」
  10. ^ 1998年3月11日 朝日新聞「OSK正念場 親会社の近鉄、経営自立迫る」
  11. ^ 2007年6月30日放送 一期一会 キミにききたい!「女子が苦手な女の子の話@大阪・女性歌劇団の現場
  12. ^ 2010年8月4日放送 ニューステラス関西「華僑劇団員上海万博で公演」
  13. ^ 宝塚の場合、「ベルサイユのばら」のオスカル役(ただし通常の男性役と外見上の差は殆どない)、「風と共に去りぬ」のスカーレット役など。
  14. ^ 創設当初、宝塚は百人一首に、SKDは万葉集に、それぞれ由来した芸名を付けていた
  15. ^ 同字同音:愛すみれ(SKD・1987年入団)と愛すみれ(宝塚・2009年入団)等。
     異字同音:飛鳥裕(宝塚・1976年入団)と明日香裕(SKD・1984年入団)、大貴誠(OSK・1986年入団)と大輝真琴(宝塚・2005年入団 ※ただし入団直前に読み方を変更)等。
  16. ^ a b 津金澤聰廣・近藤久美編『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社、第3章
  17. ^ 1912年10月7日 読売新聞「白木屋の少女優」
  18. ^ 2005年9月8日 読売新聞「ニッポン少女歌劇史 タカラヅカ人気の原点 宝塚市職員ら共著で出版」
  19. ^ 吉岡重三郎(編)(1933) 『宝塚少女歌劇二十年史』 宝塚少女歌劇団 (p.161-168).
  20. ^ 芦川いづみ倍賞千恵子など
  21. ^ 他は日劇ダンシングチーム(NDT)・梅田コマ劇場ミュージカルチーム・新宿コマ劇場ミュージカルチームであり、いずれも男性を含むレビュー劇団である。
  22. ^ 1997年9月2日 朝日新聞夕刊「舞台去ってもコンビは続く:上 - 東雲さん・友美さん」
  23. ^ 1985年東京宝塚劇場公演A席(4ランク中最上位)3800円に対し、複数回の値上げと立て替えを経て、2001年東京宝塚劇場公演SS席(4ランク中最上位)10000円となっている
  24. ^ 2001年1月19日 産經新聞「記者会見要旨
  25. ^ 倉橋滋樹・辻則彦 (2005) 『少女歌劇の光芒 ひとときの夢の跡』 青弓社 [1] ISBN 4787272012 --大正から昭和にかけて各地に存在した少女歌劇を、多くの写真や文献資料、関係者らへの取材などによって紹介している。
  26. ^ 白川宣力(1960) "少女歌劇" p. 206 in 早稲田大学坪内逍遥博士記念演劇博物館(編) 『演劇百科大事典』(第3巻) 平凡社.
  27. ^ 料亭 羽田別荘 歴史
  28. ^ 四人囃子メンバー 佐久間正英 インタビュー
  29. ^ a b 1993年3月11日 毎日新聞「実力本位よ! アイドル像破れ!グループで女性タレント育成」
  30. ^ 1995年10月31日 読売新聞「友情をテーマにロック・ミュージカル 南青山少女歌劇団が「聖歌物語」大阪公演」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]