大阪劇場

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大阪劇場
Osaka Theater

1956年(昭和31年)3月、大阪松竹歌劇団(OSK)の「春のおどり」上演中の劇場前
情報
通称 大劇(だいげき)
正式名称 大阪劇場
旧名称 東洋劇場
完成 1933年
開館 1933年9月
閉館 1967年6月4日
最終公演 歌謡ショー「栄光の三十三年」
客席数 2,780
用途 演劇、音楽、各種イベント公演
運営 千土地興行株式会社
所在地 大阪府大阪市中央区千日前2丁目8-17
特記事項 略歴
1933年:東洋劇場として開場
1934年:大阪劇場に改称
1967年:大阪劇場閉場
1991年:大劇ビル解体
1996年:跡地になんばオリエンタルホテルがオープン
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大阪劇場おおさかげきじょう)は、かつて大阪府大阪市南区河原町1丁目(現・中央区千日前2丁目)にあった劇場である。通称・大劇(だいげき)。大阪松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)のレビューと歌手映画俳優の実演で知られた。日本ドリーム観光(旧・千土地興行)経営。

沿革[編集]

  • 1933年(昭和8年)8月30日、竣工。当初の名前は東洋劇場。9月1日より映画館として営業を開始。オープン当日に上映された映画は、カート・ニューマン監督の『ビッグ・ケージ』(1933年)とジョン・マレー・アンダーソン監督の『ジャズ・キング』(1930年)といったユニバーサル・ピクチャーズ作品2本立であった[1]
  • 1934年(昭和9年)4月 経営に行き詰まり、松竹傍系の千日土地建物(通称・千土地)が買収。大阪劇場と改称。
  • 1934年(昭和9年)8月1日 大阪松竹少女歌劇団(OSSK)を専属とし、映画とレビューの二本立て興行を行う[1]
  • 1937年(昭和12年)12月17日 火災により1-3階を全焼。早朝であったため観客や劇場関係者は不在であったが、工事関係者1人が死亡[2]
  • 1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲で破壊されたが、突貫工事で修復され、7月26日から大阪松竹歌劇団(OSK)「夏まつり」の公演が再開された[3]
  • 1967年(昭和42年)6月4日 歌謡ショー「栄光の三十三年」をもって興行を打ち切り、廃座。
  • 1991年(平成3年) 大劇ビル取り壊し。
  • 1996年(平成8年) 大劇ビル跡地に「なんばオリエンタルホテル」開業。

興行形態[編集]

基本的には、大阪松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)のレビューと松竹映画一本の組み合わせ。大阪松竹歌劇団(OSK)のレビュー以外には歌手・映画俳優の実演や喜劇などが上演された。

なお、一時期洋画専門のロードショー劇場や演劇専門劇場に転身したが、失敗し元の興行形態に戻している。

構造[編集]

  • 建屋:地上5階建。地下及び塔屋付き
  • 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
  • 座席数:2780

OSK以外の主な出演者[編集]

人気歌手が定期的に歌謡ショーを行った。

映画スターが実演を行った。

喜劇公演の座長としては次の人々がいる。

実演のコメディリリーフとして、コメディアンも舞台を彩っていた。

事件史[編集]

詳細は日本ドリーム観光の当該項を参照のこと。

  • 大劇事件 - 1956年1月15日に発生した将棋倒しによる圧死事故。入場券購入の列が崩れたもの[4]
  • 大劇事故 - 1963年3月3日午前2時ごろ、大阪松竹歌劇団(OSK)が深夜舞台上で稽古中に釣り舞台が落下し、団員・スタッフ44名が重軽傷を負った事故。

大劇サロン[編集]

1950年(昭和25年)大阪劇場地下一階の遊戯施設跡に設けられた飲食店。アルバイトサロン(現在のキャバクラ)の嚆矢とされ、独特のキャッチコピーが新聞に掲載された。支配人を務めた磯田敏夫は織田作之助門人の文士でもあり、自らの経験を元にした映画「ネオン太平記」(1968年日活)のロケに使用された。その後は「大劇アルバイトサロン」に改称。大劇ビル取り壊しに伴い、閉鎖。

大劇レジャービル[編集]

日本ドリーム観光は、1967年(昭和42年)6月、廃座した劇場部分を含めて大劇ビル全体を閉鎖し、総合レジャービルに改装するための工事に着手した。同年10月に改装工事は完了し、大劇ビルは「大劇レジャービル」として新しく生まれ変わった。そして大劇ビルは、改装前から営業していた地下の大劇サロンと上階の映画館(大劇名画座)を含んだ一大娯楽施設に転換した。新たな施設としてジャズ喫茶「やかた」、ボウリング場「大劇ドリームボウル」、ダンスホール(後のディスコ、現在のクラブに相当)「大劇ダンス天国」、キャバレー、アルバイトサロン、ビリヤード場、射的場、サウナ、パチンコ場、お化け喫茶サタン(北側別館)[注 1]、大劇プレイランド(北側別館)[注 2]、貸店舗スペースなどが設置された。1階(外周部を含む)および地階には飲食店(百番・千房など)が入店した。そのほかに千日デパート火災で移転を余儀なくされた一部名店街の店舗も入店し、館内はさながら複雑な迷路状態となっていた。

映画館[編集]

  • 大劇名画座
  • 大劇シネマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1971年1月から1972年7月まで営業。
  2. ^ 遊技場。

出典[編集]

  1. ^ a b 戦前期日本の映画館写真(5) 道頓堀・千日前編”. NFCデジタル展示室. 東京国立近代美術館 (2014年8月27日). 2014年10月13日閲覧。
  2. ^ 千日前の大阪劇場全焼『大阪毎日新聞』(昭和12年12月18日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p50 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 岡本澄「OSKの軌跡追っかけ」、日本経済新聞2012年12月21日
  4. ^ 広がる失神騒ぎ『朝日新聞』1978年1月28日朝刊、13版、21面

関連項目[編集]