「メキシコ」の版間の差分
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'''メキシコ合衆国'''(メキシコがっしゅうこく、{{Lang-es|'''Estados Unidos Mexicanos'''}})、通称'''メキシコ'''は、[[北アメリカ]]南部に位置する[[連邦]][[共和制]][[国家]]。北に[[アメリカ合衆国]]と南東に[[グアテマラ]]、[[ベリーズ]]と国境を接し、西は[[太平洋]]、東は[[メキシコ湾]]と[[カリブ海]]に面する。首都は[[メキシコシティ]]。 |
'''メキシコ合衆国'''(メキシコがっしゅうこく、{{Lang-es|'''Estados Unidos Mexicanos'''}})、通称'''メキシコ'''は、[[北アメリカ]]南部に位置する[[連邦]][[共和制]][[国家]]。北に[[アメリカ合衆国]]と南東に[[グアテマラ]]、[[ベリーズ]]と国境を接し、西は[[太平洋]]、東は[[メキシコ湾]]と[[カリブ海]]に面する。首都は[[メキシコシティ]]。総人口は約1億3,000万人(2016年時点)で、[[スペイン語]]圏においてはもっとも人口の多い国である。GDPは中南米2位{{efn|中南米GDP1位はポルトガル語圏のブラジル}}。 |
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== 国名 == |
== 国名 == |
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日本語訳は'''メキシコ合衆国'''で、通称は'''メキシコ'''である。[[当て字]]は日本語・[[中国語]]ともに'''墨西哥'''で、'''墨'''と略される。「[[合衆国]]」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。 |
日本語訳は'''メキシコ合衆国'''で、通称は'''メキシコ'''である。[[当て字]]は日本語・[[中国語]]ともに'''墨西哥'''で、'''墨'''と略される。「[[合衆国]]」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。 |
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国名 |
国名は独立戦争の最中の[[1821年]]に決定したものであり、[[アステカ]]の一言語である[[ナワトル語]]で「メシトリの地」を意味する「{{lang|nah|Mēxihco}}({{IPA-nah|meːˈʃiʔko||Mexijko.ogg}})」に由来する。メシトリ(メヒクトリとも)は、アステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神である[[ウィツィロポチトリ]]の別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す[[接尾辞]]「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。 |
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なお「'''合衆国'''」という政体を示す名称について、同じものを名乗る隣国のアメリカ合衆国が経済と軍事の世界的影響力が強大のほか「合衆国(United States)」だけでも世界中がアメリカ合衆国を指すため、自国がアメリカ合衆国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部には存在し、共和制である事から国名を「'''メキシコ共和国'''」に変更する動きがある。この意識は、19世紀末の[[米墨戦争]]の敗戦直後から特に見られるようになり、長年議論が繰り返されているが、変更には至っていない<ref>{{Cite news |
なお「'''合衆国'''」という政体を示す名称について、同じものを名乗る隣国のアメリカ合衆国が経済と軍事の世界的影響力が強大のほか「合衆国(United States)」だけでも世界中がアメリカ合衆国を指すため、自国がアメリカ合衆国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部には存在し、共和制である事から国名を「'''メキシコ共和国'''」に変更する動きがある。この意識は、19世紀末の[[米墨戦争]]の敗戦直後から特に見られるようになり、長年議論が繰り返されているが、変更には至っていない<ref>{{Cite news |
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[[ファイル:Cortez & La Malinche.jpg|thumb|220px|left|[[モクテスマ2世]](中央)と[[エルナン・コルテス]](右)の会見の様子。コルテスの隣の女性は通訳の[[マリンチェ]]]] |
[[ファイル:Cortez & La Malinche.jpg|thumb|220px|left|[[モクテスマ2世]](中央)と[[エルナン・コルテス]](右)の会見の様子。コルテスの隣の女性は通訳の[[マリンチェ]]]] |
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[[1492年]]の[[クリストファー・コロンブス]]の[[アメリカ大陸]]到達後、[[16世紀]]初頭の[[1519年]]にスペイン人[[エルナン・コルテス]]が |
[[1492年]]の[[クリストファー・コロンブス]]の[[アメリカ大陸]]到達後、[[16世紀]]初頭の[[1519年]]にスペイン人[[エルナン・コルテス]]が上陸。コルテスら[[コンキスタドール|征服者]]達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、[[1521年]]に皇帝[[クアウテモック]]を惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地に[[ヌエバ・エスパーニャ副王領|ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領]]を創設。[[ペルー副王領]]と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上に[[メキシコシティ]]が築かれた。 |
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=== メキシコ独立革命 === |
=== メキシコ独立革命 === |
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スペインによる支配は300年続いたが、[[18世紀]]を迎えると[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]、[[ナポレオン戦争]]に影響され、土着の[[クリオーリョ]]たちの間に独立の気運が高まった。 |
スペインによる支配は300年続いたが、[[18世紀]]を迎えると[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]、[[ナポレオン戦争]]に影響され、土着の[[クリオーリョ]]たちの間に独立の気運が高まった。 |
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1808年、[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を[[スペイン王]]ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機として[[半島戦争|スペイン独立戦争]]が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、[[キト]]、[[ラパス]]、[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]、[[カラカス]]、[[ボゴタ]]、[[ブエノスアイレス]]とインディアス各地で[[クリオーリョ]]たちの蜂起が始まる中、 |
1808年、[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を[[スペイン王]]ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機として[[半島戦争|スペイン独立戦争]]が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、[[キト]]、[[ラパス]]、[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]、[[カラカス]]、[[ボゴタ]]、[[ブエノスアイレス]]とインディアス各地で[[クリオーリョ]]たちの蜂起が始まる中、 [[1810年]][[9月15日]]に[[ミゲル・イダルゴ]]神父らにより、スペイン打倒を叫ぶ[[メキシコ独立革命]]が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。 |
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[[ペルー]]のクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソの[[ホセ・マリア・モレーロス]]神父も[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部の[[シモン・ボリーバル]]と[[ホセ・デ・サン=マルティン]]らに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部と[[ブラジル]]を除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。 |
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スペイン本国で自由派が政権を握ると([[スペイン立憲革命|リエゴ革命]])、[[1821年]][[9月15日]]に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]がメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王[[フェルナンド7世]]は |
スペイン本国で自由派が政権を握ると([[スペイン立憲革命|リエゴ革命]])、[[1821年]][[9月15日]]に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]がメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王[[フェルナンド7世]]は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で[[メキシコ第一帝政|第一次メキシコ帝国]]が建国され、[[中央アメリカ]]を併合した。 |
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=== 相次ぐ対外戦争 === |
=== 相次ぐ対外戦争 === |
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[[ファイル:Battle of Veracruz.jpg|thumb|220px|left|[[メキシコ・アメリカ戦争]]により、 |
[[ファイル:Battle of Veracruz.jpg|thumb|220px|left|[[メキシコ・アメリカ戦争]]により、国土の半分近い[[カリフォルニア]]をアメリカ合衆国に奪われた]] |
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{{main|テキサス独立戦争|米墨戦争}} |
{{main|テキサス独立戦争|米墨戦争}} |
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{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} |
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} |
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{{See also|{{仮リンク|アメリカ合衆国のベラクルス占領 (1914年)|es|Ocupación estadounidense de Veracruz de 1914|en|United States occupation of Veracruz|label=アメリカ合衆国のベラクルス占領}}|{{仮リンク|パンチョ・ビリャ遠征|en|Pancho Villa Expedition}}}} |
{{See also|{{仮リンク|アメリカ合衆国のベラクルス占領 (1914年)|es|Ocupación estadounidense de Veracruz de 1914|en|United States occupation of Veracruz|label=アメリカ合衆国のベラクルス占領}}|{{仮リンク|パンチョ・ビリャ遠征|en|Pancho Villa Expedition}}}} |
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[[1907年恐慌]]の影響が |
[[1907年恐慌]]の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で[[1910年]]の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補[[フランシスコ・マデロ]]を逮捕監禁したことがきっかけとなり、[[メキシコ革命]]が始まった。[[パンチョ・ビリャ]]、[[エミリアーノ・サパタ]]、[[ベヌスティアーノ・カランサ]]、[[アルバロ・オブレゴン]]らの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、[[1917年]]に{{仮リンク|1917年メキシコ合衆国憲法|es|Constitución Política de los Estados Unidos Mexicanos de 1917|en|Constitution of Mexico|label=革命憲法}}が発布されたことで革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。 |
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{{Main|ツィンメルマン電報|第一次世界大戦|en:Battle of Ambos Nogales|バナナ戦争}} |
{{Main|ツィンメルマン電報|第一次世界大戦|en:Battle of Ambos Nogales|バナナ戦争}} |
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=== 行政 === |
=== 行政 === |
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{{main|メキシコの行政機関}} |
{{main|メキシコの行政機関}} |
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現在、 |
現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。 |
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== 治安 == |
== 治安 == |
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特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まる[[メキシコシティ]]や、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。 |
特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まる[[メキシコシティ]]や、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。 |
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カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。 |
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また、 |
また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている<ref name="外務省">{{cite web | publisher = [[外務省]]| title = 安全対策基礎データ | url =http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=264|date = 2012-11-27 | accessdate = 2014-7-5}}</ref>。 |
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== 軍事 == |
== 軍事 == |
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{{main|メキシコ軍}} |
{{main|メキシコ軍}} |
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成人男子には1年間の選抜[[徴兵制]]が採用されている。現在、 |
成人男子には1年間の選抜[[徴兵制]]が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル([[メキシコ麻薬戦争]])、次いで[[サパティスタ民族解放軍]]である。 |
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== 国際関係 == |
== 国際関係 == |
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=== 日本との関係 === |
=== 日本との関係 === |
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{{main|日墨関係}} |
{{main|日墨関係}} |
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[[江戸時代]]の初めの[[1609年]]([[慶長]]14年)、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ドン・ロドリゴ]]の一行が[[マニラ]]からの帰途に、大暴風のため[[房総半島|房総]]の[[御宿町|御宿]]海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の[[大多喜藩]]主[[本多忠朝]]がこれら一行を歓待し、[[徳川家康]]が用意した[[ガレオン船|帆船]]で |
[[江戸時代]]の初めの[[1609年]]([[慶長]]14年)、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ドン・ロドリゴ]]の一行が[[マニラ]]からの帰途に、大暴風のため[[房総半島|房総]]の[[御宿町|御宿]]海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の[[大多喜藩]]主[[本多忠朝]]がこれら一行を歓待し、[[徳川家康]]が用意した[[ガレオン船|帆船]]で送還したことから、日本との交流が始まった。 |
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[[1613年]](慶長18年)に[[仙台藩]]主[[伊達政宗]]の命を受けた[[支倉常長]]は、[[ローマ教皇]]に謁見すべく |
[[1613年]](慶長18年)に[[仙台藩]]主[[伊達政宗]]の命を受けた[[支倉常長]]は、[[ローマ教皇]]に謁見すべく当国とスペインを経由し[[イタリア]]の[[ローマ]]に向かった。支倉常長ら[[慶長遣欧使節]]団の乗った[[サン・ファン・バウティスタ号]]は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や[[教会 (キリスト教)|教会]]の[[フレスコ]]画などに当時を偲ぶことができる。 |
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また、日本が[[開国#日本の開国|開国]]して諸外国と通商条約を結んだ中で、[[1888年]]([[明治]]21年) |
また、日本が[[開国#日本の開国|開国]]して諸外国と通商条約を結んだ中で、[[1888年]]([[明治]]21年)締結した[[日墨修好通商条約]]は日本にとって事実上初めての平等条約であり{{efn|これより早い1871年に締結された[[日清修好条規]]は平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった}}、諸外国の[[駐日大使館]]のうちでメキシコ[[大使館]]のみ[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]にある。 |
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[[19世紀]]末には[[榎本武揚|榎本]][[移民]]団による |
[[19世紀]]末には[[榎本武揚|榎本]][[移民]]団による移住が始まり、[[第二次世界大戦]]後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも[[日系メキシコ人]]として各地に住んでいる。 |
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==== 現在 ==== |
==== 現在 ==== |
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メキシコ市への進出は減っているが、日系企業が増えているのは[[アグアスカリエンテス]]を中心としたメキシコ中央高原都市である。日系の自動車3社([[日産自動車|日産]]第二工場、[[本田技研工業|本田]]、[[マツダ]])が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。とりわけアグアスカリエンテスは、[[1982年]]から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。安い賃金や、未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にないことなども[[親日]]国である |
メキシコ市への進出は減っているが、日系企業が増えているのは[[アグアスカリエンテス]]を中心としたメキシコ中央高原都市である。日系の自動車3社([[日産自動車|日産]]第二工場、[[本田技研工業|本田]]、[[マツダ]])が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。とりわけアグアスカリエンテスは、[[1982年]]から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。安い賃金や、未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にないことなども[[親日]]国である当国への日系企業進出の遠因になっている。とりわけ犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では独自の軍隊、警察組織を駆使しているところもあり、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須となる。 |
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==== 日産自動車の関係 ==== |
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特に、日本企業としては最初期の[[1966年]]7月に |
特に、日本企業としては最初期の[[1966年]]7月に現地工場での自動車生産を開始した[[日産自動車]]は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。[[日産・AD|日産AD(現地名ツバメ)]]を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。[[ルノー]]傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である<ref>{{cite |
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|title=Ventas 2009: México |
|title=Ventas 2009: México |
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|url=http://es.autoblog.com/2010/02/01/ventas-2009-mexico/ |
|url=http://es.autoblog.com/2010/02/01/ventas-2009-mexico/ |
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}}</ref>。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置する[[アグアスカリエンテス]]や、メキシコシティ郊外の[[クエルナバカ]]に工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよび[[カナダ]]向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣の[[チリ]]や[[アルゼンチン]]、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「[[日産・ティーダ|ティーダ(北米ではヴァーサ)]]」「[[日産・セントラ#3.E4.BB.A3.E7.9B.AE_B13.E5.9E.8B.EF.BC.881991.E5.B9.B4-1994.E5.B9.B4.EF.BC.89|ツル]]」「[[日産・セントラ|セントラ]]」「[[日産・フロンティア|NP300フロンティア]]」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「[[日産・マキシマ|マキシマ]]」「[[日産・アルティマ|アルティマ]]」「[[日産・フェアレディZ|370Z(フェアレディZ)]]」「[[日産・エクストレイル|エクストレイル]]」「[[日産・パスファインダー|パスファインダー]]」「[[日産・キャラバン|アーバン(キャラバン)]]」「[[日産・アトラス|キャブスター(アトラス)]]」と新たに「[[日産・リーフ|リーフ]]」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「[[日産・シルビア|サクラ(シルビア)]]」「[[日産・スタンザ|サムライ(スタンザ)]]」「[[日産・セドリック|280C(後のセドリック)]]」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。 |
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; フィエスタ・メヒカナ |
; フィエスタ・メヒカナ |
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: |
: [[独立記念日]]の前日の[[9月15日]]に、[[大阪市]]のメキシコ総領事館の主催で、[[フィエスタ・メヒカナ]]という祭を[[領事館]]の入居している[[梅田スカイビル]]のワンダースクエアで開催する。メキシコ政府が国外で行う文化交流としての祭事としての規模は最大のものである。 |
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=== MIKTA === |
=== MIKTA === |
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{{main|メキシコの行政区画}} |
{{main|メキシコの行政区画}} |
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第一級行政区画は32の[[メキシコの州|州]]に分かれる。首都[[メキシコシティ]]の全域は、どの州にも属さない[[メキシコ連邦区|連邦区]](''Distrito Federal'')とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。 |
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各州には、知事と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。 |
各州には、知事と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。 |
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[[北米]]大陸の南部<!-- 北米大陸は中米も含むため -->に位置し、約197万平方キロの面積([[日本]]の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。 |
[[北米]]大陸の南部<!-- 北米大陸は中米も含むため -->に位置し、約197万平方キロの面積([[日本]]の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。 |
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地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、[[クラトン]]が存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古い[[アパラチア山脈]]に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、[[第三紀]]以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰の[[オリサバ山|ピコ・デ・オリサバ山]](シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、[[ポポカテペトル山]](5,465メートル、もしくは5,452メートル)、[[イスタシュワトル山]](5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。<!-- 山岳の標高はすべて理科年表2006による。数値を複数掲載したものは、理科年表にも複数(異なるページに)掲載されている。--> |
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最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川([[リオ・グランデ川]])であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖は[[チャパラ湖]](1,680平方キロ)である。 |
最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川([[リオ・グランデ川]])であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖は[[チャパラ湖]](1,680平方キロ)である。 |
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=== 地下資源 === |
=== 地下資源 === |
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地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウム{{efn|ブラウン管ガラス、フェライト磁石などの材料となる}}<ref name="tikasigen79">国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 74ページ</ref>などの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が |
地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウム{{efn|ブラウン管ガラス、フェライト磁石などの材料となる}}<ref name="tikasigen79">国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 74ページ</ref>などの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている<ref name="tikasigen79" />。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。 |
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== 経済 == |
== 経済 == |
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[[ファイル:Pemexgasstation.jpg|thumb|240px|right|[[ペメックス]]のガソリンスタンド]] |
[[ファイル:Pemexgasstation.jpg|thumb|240px|right|[[ペメックス]]のガソリンスタンド]] |
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[[ファイル:SSA41434.JPG|thumb|240px|right|[[テオティワカン]]。考古学遺跡はメキシコの観光収入の大部分を占める]] |
[[ファイル:SSA41434.JPG|thumb|240px|right|[[テオティワカン]]。考古学遺跡はメキシコの観光収入の大部分を占める]] |
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[[2013年]]の |
[[2013年]]の時点の[[GDP]]は1兆2,609億ドルであり、世界15位である<ref name="imf201410" />。[[大韓民国|韓国]]とほぼ同じ経済規模であり、[[ラテンアメリカ]]では[[ブラジル]]に次いで2位である<ref name="imf201410" />。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る<ref name="imf201410" />。[[メルコスール]]と[[南米諸国連合|南米共同体]]のオブザーバーであり、[[経済協力開発機構]](OECD)、[[アジア太平洋経済協力]](APEC)、[[北米自由貿易協定]](NAFTA)の加盟国でもある。 |
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[[カリブ海]]沿岸地域を中心にして[[油田]]が多く、[[第二次世界大戦]]頃より国営石油会社のペメックスを中心とした[[石油]]が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では[[銀]]や[[オパール]]の産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える[[銅]]は[[グルポ・メヒコ]]が採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩や[[ビール]]などが大きな外貨獲得源になっている。また、[[20世紀]]前半より工業化が進んでおり、[[自動車]]や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。 |
[[カリブ海]]沿岸地域を中心にして[[油田]]が多く、[[第二次世界大戦]]頃より国営石油会社のペメックスを中心とした[[石油]]が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では[[銀]]や[[オパール]]の産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える[[銅]]は[[グルポ・メヒコ]]が採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩や[[ビール]]などが大きな外貨獲得源になっている。また、[[20世紀]]前半より工業化が進んでおり、[[自動車]]や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。 |
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=== 二度の通貨危機 === |
=== 二度の通貨危機 === |
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==== 1982年メキシコ債務危機 ==== |
==== 1982年メキシコ債務危機 ==== |
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1970年代、石油価格高騰を受け、 |
1970年代、石油価格高騰を受け、[[石油]]投資ブームが発生した。また、賃金が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]よりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。[[国際金融市場]]を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど[[1995年]]前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から[[東南アジア]]へ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは[[固定相場]]であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による[[債務保証]]がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの[[対外債務]]は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、[[1980年代]]になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。[[1982年]]8月、利払いの一時停止([[モラトリアム]])を宣言する羽目になり、国民は急激な[[インフレーション]]と[[失業]]の増大によって苦しんだ。 |
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当時 |
当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカの[[メガバンク]]に与える影響が大きいため、[[国際通貨基金|IMF]]と[[アメリカ合衆国財務省]]、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「[[大きすぎて潰せない]]」有名な事件となった。[[ネルソン・バンカー・ハント]]を破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の[[民営化]]はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。 |
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危機脱出後は |
危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、[[カルロス・スリム]]のようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。 |
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==== 1994年メキシコ通貨危機 ==== |
==== 1994年メキシコ通貨危機 ==== |
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[[1986年]][[関税および貿易に関する一般協定]](GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点は[[アジア通貨危機]]直前の状況と似ている)。その結果、[[輸入]]が急増し[[輸出]]は不振となり、[[貿易赤字]]が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、[[北米自由貿易協定]]が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い[[労働力]]を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。 |
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しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で[[先住民]]による武装反乱が発生。3月には[[大統領選挙]]の候補が[[暗殺]]された。この事件をきっかけにして |
しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で[[先住民]]による武装反乱が発生。3月には[[大統領選挙]]の候補が[[暗殺]]された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、[[カントリーリスク]]の懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。 |
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その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、 |
その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。 |
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=== 税制 === |
=== 税制 === |
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===格差社会=== |
===格差社会=== |
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[[国の所得格差順リスト|国の所得格差]]を表す[[ジニ指数]]によると、 |
[[国の所得格差順リスト|国の所得格差]]を表す[[ジニ指数]]によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である([[国の所得格差順リスト]])。しかし、歴史的に建国以来、格差問題に喘いでいる。[[カルロス・スリム]]という世界一の億万長者{{cn||date=2016年1月21日}}を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている<ref>[http://www.777money.com/torivia/torivia4_4.htm 世界各国の平均年収(月収)]</ref>。 |
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==== 教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策) ==== |
==== 教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策) ==== |
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自助努力による成功のチャンスも存在する。 |
自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、[[奨学金]]制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である<ref>[http://www.jasso.go.jp/study_a/oversea_info_mex_a.html#h3_7 独立行政法人日本学生支援機構]{{リンク切れ|date=2020-7}}</ref>。 |
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== 交通 == |
== 交通 == |
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* 人口増加率: 1.18パーセント(年率) |
* 人口増加率: 1.18パーセント(年率) |
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人種は[[メスティーソ]](スペイン人とインディヘナの混血)が60パーセント、[[アメリカ先住民|先住民族]]([[インディオ]])が30パーセント、[[白人]]が9パーセントとされており、そのほかにも[[日系メキシコ人]]や[[フィリピン系メキシコ人]]などアジア系の移民の子孫、[[アフリカ系メキシコ人]]も総人口の1パーセント程存在する<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mexico/data.html|title=メキシコ基礎データ|accessdate=2019年3月10日|publisher=}}</ref>。 |
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ヨーロッパ系メキシコ人は、おもに植民地時代に移住したスペイン人と、ほかにも独立後移民した[[イタリア人]]や[[フランス人]]、[[ドイツ人]]、[[ポルトガル人]]、[[バスク人]]、[[アイルランド人]]、[[イギリス人]]、[[アメリカ人]]などの子孫である。また、1930年代のスペイン内戦の際に |
ヨーロッパ系メキシコ人は、おもに植民地時代に移住したスペイン人と、ほかにも独立後移民した[[イタリア人]]や[[フランス人]]、[[ドイツ人]]、[[ポルトガル人]]、[[バスク人]]、[[アイルランド人]]、[[イギリス人]]、[[アメリカ人]]などの子孫である。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は[[スペイン第二共和政|共和派]]を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。 |
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=== 言語 === |
=== 言語 === |
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{{main|メキシコの言語|en:Languages of Mexico}} |
{{main|メキシコの言語|en:Languages of Mexico}} |
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[[公用語]]は定められていないが、事実上の公用語は[[スペイン語]]([[メキシコ・スペイン語]])であり、先住民族の65言語([[ナワトル語]]、[[サポテカ語]]、[[マヤ語]]など)も政府が認めている。 |
[[公用語]]は定められていないが、事実上の公用語は[[スペイン語]]([[メキシコ・スペイン語]])であり、先住民族の65言語([[ナワトル語]]、[[サポテカ語]]、[[マヤ語]]など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。 |
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=== 宗教 === |
=== 宗教 === |
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宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が82.7パーセント、[[プロテスタント]]が9パーセント、その他([[ユダヤ教]]、[[仏教]]、[[イスラーム教]]など)が5パーセントである。 |
宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が82.7パーセント、[[プロテスタント]]が9パーセント、その他([[ユダヤ教]]、[[仏教]]、[[イスラーム教]]など)が5パーセントである。 |
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ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。 |
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当国で活動するプロテスタントの宗派には[[ペンテコステ派]]、[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]などが挙げられる。 |
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[[新宗教]]としては、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]([[モルモン教]])の信者が存在する。 |
[[新宗教]]としては、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]([[モルモン教]])の信者が存在する。 |
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1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の[[初等教育]]と[[前期中等教育]]が[[義務教育]]の期間であった<ref>{{Cite journal |和書|author=サンティジャン・フランコ・ヘスス, 畑克明 |date=2004 |url=http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/5706 |title=メキシコの教育制度 |journal=島根大学教育学部紀要. 教育科学 |volume=38 |page=1-9 |issn=0287251X |publisher=島根大学 |accessdate=2020-04-13 }}</ref>が、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている<ref>{{Cite web |author=外務省 |date=2017-11 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/04latinamerica/infoC43300.html |title=諸外国・地域の学校情報 |publisher=外務省 |accessdate=2019-12-06 }}</ref>。 |
1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の[[初等教育]]と[[前期中等教育]]が[[義務教育]]の期間であった<ref>{{Cite journal |和書|author=サンティジャン・フランコ・ヘスス, 畑克明 |date=2004 |url=http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/5706 |title=メキシコの教育制度 |journal=島根大学教育学部紀要. 教育科学 |volume=38 |page=1-9 |issn=0287251X |publisher=島根大学 |accessdate=2020-04-13 }}</ref>が、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている<ref>{{Cite web |author=外務省 |date=2017-11 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/04latinamerica/infoC43300.html |title=諸外国・地域の学校情報 |publisher=外務省 |accessdate=2019-12-06 }}</ref>。 |
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おもな[[高等教育]]機関としては、[[メキシコ国立自治大学]](1551年)、[[グアダラハラ大学]](1792年)、[[モンテレイ工科大学]](1943年)などが挙げられる。 |
おもな[[高等教育]]機関としては、[[メキシコ国立自治大学]](1551年)、[[グアダラハラ大学]](1792年)、[[モンテレイ工科大学]](1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。 |
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2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mx.html|title=world fact book|publisher=CIA|accessdate=2020年7月15日}}</ref>。 |
2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mx.html|title=world fact book|publisher=CIA|accessdate=2020年7月15日}}</ref>。 |
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[[ファイル:Carnitas.jpg|thumb|240px|left|[[タコス]]]] |
[[ファイル:Carnitas.jpg|thumb|240px|left|[[タコス]]]] |
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先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、[[インディヘニスモ]]という一大文化運動を確立した。古くから[[音楽]]や[[絵画]]、[[彫刻]]、[[建築]]など[[芸術]]面で世界的に有名な人物を輩出している。 |
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=== 絵画 === |
=== 絵画 === |
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メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家の[[ホセ・グアダルーペ・ポサダ]]の版画が有名である。 |
メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家の[[ホセ・グアダルーペ・ポサダ]]の版画が有名である。 |
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革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で[[1930年代]]から始まった[[ディエゴ・リベラ]]、[[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]などの壁画家たちによる[[メキシコ壁画運動]](メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻の[[フリーダ・カーロ]]も |
革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で[[1930年代]]から始まった[[ディエゴ・リベラ]]、[[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]などの壁画家たちによる[[メキシコ壁画運動]](メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻の[[フリーダ・カーロ]]も女流画家として世界中で紹介されている。 |
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=== 文学 === |
=== 文学 === |
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{{main|メキシコ文学|en:Mexican literature|ラテンアメリカ文学}} |
{{main|メキシコ文学|en:Mexican literature|ラテンアメリカ文学}} |
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作家としては、[[フアン・ルルフォ]]、[[アマード・ネルボ]]、[[カルロス・フエンテス]]、[[ホセ・エミリオ・パチェコ]]、[[オクタビオ・パス]]、[[アルフォンソ・レイエス]]などが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した。[[アルフォンソ・レイエス]]はアルゼンチンの[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]に大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、[[ロサリオ・カスティリャーノス]]の『[[バルン・カナン]]』などが挙げられる。 |
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=== 音楽 === |
=== 音楽 === |
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{{main|メキシコの音楽|en:Music of Mexico|ラテン音楽}} |
{{main|メキシコの音楽|en:Music of Mexico|ラテン音楽}} |
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当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、[[マリアッチ]]や[[ランチェーロ]]、[[ノリード]]、[[ノルテーニョ (音楽)|ノルテーニョ]]、[[バンダ (音楽)|バンダ]]などが挙げられ、メキシコの[[フォルクローレ]]では[[パラグアイ]]や[[ベネズエラ]]のように[[アルパ]]が多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によって[[アフリカ]]伝来の[[マリンバ]]が用いられる音楽が盛んである。 |
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また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民([[チカーノ]])によってアメリカ合衆国の[[ポピュラー音楽]]が行われ、[[ロック (音楽)|ロック]]は[[ラテン・ロック]]になり、[[ヒップ・ホップ]]は[[チカーノ・ラップ]]となって在米メキシコ人市場で消費されたものが |
また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民([[チカーノ]])によってアメリカ合衆国の[[ポピュラー音楽]]が行われ、[[ロック (音楽)|ロック]]は[[ラテン・ロック]]になり、[[ヒップ・ホップ]]は[[チカーノ・ラップ]]となって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。[[メキシコ・ロック]](ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としては[[カフェ・タクーバ]]などが挙げられる。 |
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[[クラシック音楽]]の分野では[[カルロス・チャベス]]の名が特筆され、[[メキシコ国立交響楽団]]はチャベスによって設立された。 |
[[クラシック音楽]]の分野では[[カルロス・チャベス]]の名が特筆され、[[メキシコ国立交響楽団]]はチャベスによって設立された。 |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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{{main|メキシコの映画}} |
{{main|メキシコの映画}} |
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[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]とともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。 |
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===食文化 === |
===食文化 === |
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{{main|メキシコ料理}} |
{{main|メキシコ料理}} |
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一般的に辛いことで知られている[[メキシコ料理]]は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされた[[タコス]]や[[ブリート]]が[[ファストフード]]として広く普及しているが、それらは[[テックス・メックス]](Tex-Mex)と呼ばれ、 |
一般的に辛いことで知られている[[メキシコ料理]]は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされた[[タコス]]や[[ブリート]]が[[ファストフード]]として広く普及しているが、それらは[[テックス・メックス]](Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食は[[マサ]]と呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、[[トルティーヤ]]と呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆や[[トウモロコシ]]、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも[[米]]や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。 |
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伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、[[モーレ]]がある。 |
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海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。 |
海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。 |
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近年は[[カップラーメン]]が |
近年は[[カップラーメン]]が広く普及しており、中でも[[東洋水産]]の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。 |
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蒸留酒である[[テキーラ]]の一大産地として有名であるが、それは[[ハリスコ]]州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、[[ビール]]の特産地としても知られており、[[コロナビール]]や[[XX|XX(ドス・エキス)]]などの著名な[[ブランド]]が世界中に輸出されている。 |
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=== 世界遺産 === |
=== 世界遺産 === |
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{{Main|メキシコの世界遺産}} |
{{Main|メキシコの世界遺産}} |
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国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が26件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が4件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。 |
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<gallery> |
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=== 祝祭日 === |
=== 祝祭日 === |
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労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である<ref>{{citation|url=https://www.juridicas.unam.mx/legislacion/ordenamiento/ley-federal-del-trabajo#31767|title=Artículo 74, Ley Federal del Trabajo|publisher=UNAM}}</ref>。これ以外に慣習的な祝日がある。 |
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{| style="text-align:left;" class="wikitable" |
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|+連邦の祝日 |
|+連邦の祝日 |
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[[メキシコシティオリンピック]]が1968年に開催されている。また[[1970 FIFAワールドカップ|1970年]]と[[1986 FIFAワールドカップ|1986年]]に[[FIFAワールドカップ]]が開催されている。[[2026年]]にはアメリカ合衆国、カナダとともに[[2026 FIFAワールドカップ]]の共同開催国となる。 |
[[メキシコシティオリンピック]]が1968年に開催されている。また[[1970 FIFAワールドカップ|1970年]]と[[1986 FIFAワールドカップ|1986年]]に[[FIFAワールドカップ]]が開催されている。[[2026年]]にはアメリカ合衆国、カナダとともに[[2026 FIFAワールドカップ]]の共同開催国となる。 |
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伝統的に[[闘牛]]が盛んに行われ、 |
伝統的に[[闘牛]]が盛んに行われ、大都市には必ず[[闘牛場]]がある。 |
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=== サッカー === |
=== サッカー === |
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=== ルチャ・リブレ === |
=== ルチャ・リブレ === |
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[[ファイル:Psicosis-Chessman.JPG|240px|left|thumb|[[ルチャリブレ]]はメキシコで非常に人気がある]] |
[[ファイル:Psicosis-Chessman.JPG|240px|left|thumb|[[ルチャリブレ]]はメキシコで非常に人気がある]] |
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[[ルチャリブレ]]は |
[[ルチャリブレ]]は代表するスポーツのひとつで、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・[[プロレス]]であり、象徴でもある。古くは[[ミル・マスカラス]]・[[ドス・カラス]]兄弟から[[チャボ・ゲレロ・ジュニア]]まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。[[メキシコ連邦区ボクシング・レスリング協会]](CBLL)およびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。 |
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日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず、[[ザ・グレート・サスケ]]、[[タイガーマスク (プロレスラー)|タイガーマスク]]、[[ウルティモ・ドラゴン]]、[[エル・サムライ]]、[[スペル・デルフィン]]、[[グラン浜田]]、[[百田光雄]]、[[後藤洋央紀]]など、日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために留学・遠征するケースも多数見られる。また、日本の[[全日本プロレス]]やアメリカの[[WWE]]などの団体に多くの選手を送り込んでいる。 |
日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず、[[ザ・グレート・サスケ]]、[[タイガーマスク (プロレスラー)|タイガーマスク]]、[[ウルティモ・ドラゴン]]、[[エル・サムライ]]、[[スペル・デルフィン]]、[[グラン浜田]]、[[百田光雄]]、[[後藤洋央紀]]など、日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために留学・遠征するケースも多数見られる。また、日本の[[全日本プロレス]]やアメリカの[[WWE]]などの団体に多くの選手を送り込んでいる。 |
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メキシコシティ市内にある競技場、[[アレナ・メヒコ]]と[[アレナ・コリセオ]]は「ルチャ・リブレの2大聖地」と言われ、 |
メキシコシティ市内にある競技場、[[アレナ・メヒコ]]と[[アレナ・コリセオ]]は「ルチャ・リブレの2大聖地」と言われ、最大のルチャ団体・[[AAA (プロレス)|トリプレ・ア]]の看板スター、[[ドス・カラス・ジュニア]]や[[エル・イホ・デル・サント]]が繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやってくる。 |
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=== ボクシング === |
=== ボクシング === |
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[[ボクシング]]もまた人気の高いスポーツのひとつである。世界最大の団体である[[世界ボクシング評議会|WBC]]の本部が置かれており、3階級制覇を達成した[[フリオ・セサール・チャベス]]を筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟、[[イスラエル・バスケス]]、日本でもなじみの深い[[ルーベン・オリバレス]]や[[リカルド・ロペス]]ら世界王者も数多く輩出している。チャベスがエスタディオ・アステカに[[グレグ・ホーゲン]]を迎えたWBC世界[[スーパーライト級|ジュニアウェルター級]]タイトルマッチは世界最多の有料入場者となる13万人を動員した。 |
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コミッションはCBLL。 |
コミッションはCBLL。[[タイ王国]]同様に[[プロボクサー]]ライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。[[2000年代]]後半に本部があるWBCが創設した同国内王座Central Zone of the Mexican Republic Boxing Commissions(FECOMBOX)と並存。 |
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[[女子ボクシング|女子プロボクシング]]も盛んであり、2階級制覇を達成した[[ジャッキー・ナバ]]を筆頭に多くの女子世界王者も輩出している。 |
[[女子ボクシング|女子プロボクシング]]も盛んであり、2階級制覇を達成した[[ジャッキー・ナバ]]を筆頭に多くの女子世界王者も輩出している。 |
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=== モータースポーツ === |
=== モータースポーツ === |
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[[ブラジル]]や[[アルゼンチン]]などのほかの中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツが高い人気を誇っている。[[1950年代]]に行われた |
[[ブラジル]]や[[アルゼンチン]]などのほかの中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツが高い人気を誇っている。[[1950年代]]に行われた国内を縦断する公道レース[[カレラ・パナメリカーナ・メヒコ]]や、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レース、[[:en:Baja 1000|バハ1000]]は世界的に有名である。 |
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また、[[フォーミュラ1|F1]]・[[メキシコグランプリ]]が[[メキシコシティ国際空港]]近くの[[エルマノス・ロドリゲス・サーキット]]で開催されている。[[2004年]]からは[[世界ラリー選手権]](WRC)がメキシコ北部を舞台に毎年開催され人気を博している。 |
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2021年2月12日 (金) 08:02時点における版
- メキシコ合衆国
- Estados Unidos Mexicanos
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(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:Himno Nacional Mexicano(スペイン語)
メキシコ国歌 -
公用語 スペイン語(事実上)
68の先住民諸言語[1]首都 メキシコシティ 最大の都市 メキシコシティ - 政府
-
大統領 アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール 元老院議長 モニカ・フェルナンデス・バルボア 代議院議長 ローラ・ロハス・エルナンデス - 面積
-
総計 1,972,550km2(13位) 水面積率 2.5% - 人口
-
総計(2016年) 128,632,000人(10位) 人口密度 65人/km2 - GDP(自国通貨表示)
-
合計(2013年) 16兆1,044億[2]メキシコ・ペソ (ヌエボ・ペソ) - GDP(MER)
-
合計(2013年) 1兆2,609億[2]ドル(15位) 1人あたり xxxドル - GDP(PPP)
-
合計(2013年) 2兆589億[2]ドル(11位) 1人あたり 17,390[2]ドル
独立
- 宣言
- 承認スペインより
1810年9月16日
1821年9月27日通貨 メキシコ・ペソ (ヌエボ・ペソ)(MXN) 時間帯 UTC-5 から -8 (DST:-5 から -7) ISO 3166-1 MX / MEX ccTLD .mx 国際電話番号 52
メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。総人口は約1億3,000万人(2016年時点)で、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。GDPは中南米2位[注釈 1]。
国名
正式名称は、Estados Unidos Mexicanos( 発音、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、México([ˈmexiko] ( 音声ファイル)、メヒコ)。
公式の英語表記は、United Mexican States(ユナイテッド・メキシカン・ステイツ)、略称は、Mexico([ˈmɛksɨˌkoʊ] ( 音声ファイル)、メクスィコゥ)。
日本語訳はメキシコ合衆国で、通称はメキシコである。当て字は日本語・中国語ともに墨西哥で、墨と略される。「合衆国」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。
国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メシトリの地」を意味する「Mēxihco([meːˈʃiʔko] ( 音声ファイル))」に由来する。メシトリ(メヒクトリとも)は、アステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。
なお「合衆国」という政体を示す名称について、同じものを名乗る隣国のアメリカ合衆国が経済と軍事の世界的影響力が強大のほか「合衆国(United States)」だけでも世界中がアメリカ合衆国を指すため、自国がアメリカ合衆国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部には存在し、共和制である事から国名を「メキシコ共和国」に変更する動きがある。この意識は、19世紀末の米墨戦争の敗戦直後から特に見られるようになり、長年議論が繰り返されているが、変更には至っていない[3]。
歴史
先コロンブス期
この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られる。
先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後も後期マヤおよびアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。
アステカ帝国
14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区のソカロ広場(憲法広場)の北東に立っている[4]。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
スペイン植民地時代
1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
メキシコ独立革命
スペインによる支配は300年続いたが、18世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。
1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。
ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。
スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。
相次ぐ対外戦争
独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。
また、コアウイラ・イ・テハス州にアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立した[5] 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国と米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。
領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。
インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。
ディアスの独裁とメキシコ革命
この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolución de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。
1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパタ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年に革命憲法が発布されたことで革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。
PRIの一党独裁
1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年に制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された[6]。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ[6]、1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した[6]。
1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。
1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレスは、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた[6]。
また、20世紀の前半から中盤にかけては石油や銀の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。
メキシコ麻薬戦争
1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化する。前政権のカルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、軍を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。
一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。
2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザ(H1N1)の発祥地とされている。
2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。
PRI政権
2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。
政治
大統領
大統領を国家元首とする連邦共和制。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「欠陥のある民主主義」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。
大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。
連邦議会は両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。
主要政党には、中道右派の国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派の民主革命党, サパティスタ民族解放戦線や、労働党、メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。
法律
世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。
2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律が最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。
行政
現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。
治安
特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まるメキシコシティや、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。
カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。
また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている[7]。
軍事
成人男子には1年間の選抜徴兵制が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル(メキシコ麻薬戦争)、次いでサパティスタ民族解放軍である。
国際関係
多元外交
19世紀においては隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦やキューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年のキューバ革命以降汎米主義に基づいて近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国がキューバとの関係を断絶した中、国交を継続していた。
スペインとの関係
スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。
日本との関係
江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。
1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。
また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり[注釈 2]、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にある。
19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。
現在
メキシコ市への進出は減っているが、日系企業が増えているのはアグアスカリエンテスを中心としたメキシコ中央高原都市である。日系の自動車3社(日産第二工場、本田、マツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。とりわけアグアスカリエンテスは、1982年から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。アメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。安い賃金や、未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にないことなども親日国である当国への日系企業進出の遠因になっている。とりわけ犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では独自の軍隊、警察組織を駆使しているところもあり、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須となる。
日産自動車の関係
特に、日本企業としては最初期の1966年7月に現地工場での自動車生産を開始した日産自動車は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。日産AD(現地名ツバメ)を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である[8]。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置するアグアスカリエンテスや、メキシコシティ郊外のクエルナバカに工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよびカナダ向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣のチリやアルゼンチン、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「ティーダ(北米ではヴァーサ)」「ツル」「セントラ」「NP300フロンティア」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「マキシマ」「アルティマ」「370Z(フェアレディZ)」「エクストレイル」「パスファインダー」「アーバン(キャラバン)」「キャブスター(アトラス)」と新たに「リーフ」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「サクラ(シルビア)」「サムライ(スタンザ)」「280C(後のセドリック)」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。
- フィエスタ・メヒカナ
- 独立記念日の前日の9月15日に、大阪市のメキシコ総領事館の主催で、フィエスタ・メヒカナという祭を領事館の入居している梅田スカイビルのワンダースクエアで開催する。メキシコ政府が国外で行う文化交流としての祭事としての規模は最大のものである。
MIKTA
MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Korea, Republic of)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。
地方行政区分
第一級行政区画は32の州に分かれる。首都メキシコシティの全域は、どの州にも属さない連邦区(Distrito Federal)とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。
各州には、知事と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。
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主要都市
地理
北米大陸の南部に位置し、約197万平方キロの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。
地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、クラトンが存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古いアパラチア山脈に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、第三紀以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、ポポカテペトル山(5,465メートル、もしくは5,452メートル)、イスタシュワトル山(5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。
最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川(リオ・グランデ川)であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖はチャパラ湖(1,680平方キロ)である。
気候
カリフォルニア半島の大部分とメキシコ高原中央は、ケッペンの気候区分でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域はステップ気候BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンやリュウゼツランなどしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている[10]。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類されるサバナ気候(Aw)が伸びる。ユカタン半島南部にのみ、弱い乾期の存在する熱帯雨林気候(Am)が見られる。熱帯雨林気候(Af)はテワンテペク地峡北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である温暖湿潤気候(Cfa)が、山岳部は温帯気候である温帯夏雨気候(Cw)と高山気候(H)が卓越する。首都メキシコシティの平均気温は、13.7℃(1月)、16.5℃(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。
平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんある。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、太平洋沿岸の西南部ではアカプルコやイスタパなど、西端にあり太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島のカボ・サンルーカスやラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの雇用をもたらしている。
地下資源
地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウム[注釈 3][11]などの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている[11]。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。
経済
2013年の時点のGDPは1兆2,609億ドルであり、世界15位である[2]。韓国とほぼ同じ経済規模であり、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位である[2]。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る[2]。メルコスールと南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構(OECD)、アジア太平洋経済協力(APEC)、北米自由貿易協定(NAFTA)の加盟国でもある。
カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、第二次世界大戦頃より国営石油会社のペメックスを中心とした石油が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では銀やオパールの産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える銅はグルポ・メヒコが採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩やビールなどが大きな外貨獲得源になっている。また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。
特に1994年1月1日に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカやカナダ向けの自動車や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、2004年9月17日には日本との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。
2008年1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていたトウモロコシなど農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年1月30日にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。
二度の通貨危機
1982年メキシコ債務危機
1970年代、石油価格高騰を受け、石油投資ブームが発生した。また、賃金がアメリカよりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。国際金融市場を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど1995年前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から東南アジアへ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは固定相場であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による債務保証がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの対外債務は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、1980年代になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。1982年8月、利払いの一時停止(モラトリアム)を宣言する羽目になり、国民は急激なインフレーションと失業の増大によって苦しんだ。
当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカのメガバンクに与える影響が大きいため、IMFとアメリカ合衆国財務省、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「大きすぎて潰せない」有名な事件となった。ネルソン・バンカー・ハントを破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の民営化はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。
危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、カルロス・スリムのようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。
1994年メキシコ通貨危機
1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。
しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。
その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。
税制
企業への法人税は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、ミニマムタックス制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている[12]。企業は税金を回避するために「新しい税制は憲法により保障された権利を侵している」として訴訟を起こすのが毎年恒例となっている[12]。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある[12]。ただし、訴訟期間中は税金を払うことが望ましい[12]。
国民の7割が肥満となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している[13]。
格差社会
国の所得格差を表すジニ指数によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(国の所得格差順リスト)。しかし、歴史的に建国以来、格差問題に喘いでいる。カルロス・スリムという世界一の億万長者[要出典]を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている[14]。
教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)
自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、奨学金制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である[15]。
交通
南北アメリカ間、太平洋とカリブ海を結ぶラテンアメリカの交通の要所として、メキシコシティが航空の要所として、ベラクルス港やアカプルコ港が海運の要所として、また、国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェイや国土を網羅する鉄道網が陸運の要として機能している。沿岸部の主要港には多くのクルーズ船が寄港する。
また、国内最大の航空会社であるアエロメヒコのほかに、国内には格安航空会社を含む航空網と、高速バスが走る高速道路網が整備されているほか、貨物を含む鉄道も整備されている。
メキシコシティやグアダラハラなどの大都市には充実した地下鉄網が整備されているほか、ベラクルスやアグスカリエンテス、アカプルコなどの中規模の都市には市バス網が完備されている。
国民
- 人口:1億2,920万人(2017)
- 人口増加率: 1.18パーセント(年率)
人種はメスティーソ(スペイン人とインディヘナの混血)が60パーセント、先住民族(インディオ)が30パーセント、白人が9パーセントとされており、そのほかにも日系メキシコ人やフィリピン系メキシコ人などアジア系の移民の子孫、アフリカ系メキシコ人も総人口の1パーセント程存在する[16]。
ヨーロッパ系メキシコ人は、おもに植民地時代に移住したスペイン人と、ほかにも独立後移民したイタリア人やフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、バスク人、アイルランド人、イギリス人、アメリカ人などの子孫である。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は共和派を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。
言語
公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。
宗教
宗教はローマ・カトリックが82.7パーセント、プロテスタントが9パーセント、その他(ユダヤ教、仏教、イスラーム教など)が5パーセントである。
ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。
当国で活動するプロテスタントの宗派にはペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチスト教会などが挙げられる。
新宗教としては、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者が存在する。
結婚
一般的に夫婦別姓であり、婚姻時に女性が改姓することはない[17]。2012年より、同性同士の結婚(同性婚)を認める州が出てくるようになった。
教育
1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の初等教育と前期中等教育が義務教育の期間であった[18]が、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている[19]。
おもな高等教育機関としては、メキシコ国立自治大学(1551年)、グアダラハラ大学(1792年)、モンテレイ工科大学(1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。
2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である[20]。
文化
先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、インディヘニスモという一大文化運動を確立した。古くから音楽や絵画、彫刻、建築など芸術面で世界的に有名な人物を輩出している。
絵画
メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家のホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が有名である。
革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で1930年代から始まったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画家たちによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻のフリーダ・カーロも女流画家として世界中で紹介されている。
文学
作家としては、フアン・ルルフォ、アマード・ネルボ、カルロス・フエンテス、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、アルフォンソ・レイエスなどが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年にノーベル文学賞を受賞した。アルフォンソ・レイエスはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスに大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、ロサリオ・カスティリャーノスの『バルン・カナン』などが挙げられる。
音楽
当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、マリアッチやランチェーロ、ノリード、ノルテーニョ、バンダなどが挙げられ、メキシコのフォルクローレではパラグアイやベネズエラのようにアルパが多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によってアフリカ伝来のマリンバが用いられる音楽が盛んである。
また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民(チカーノ)によってアメリカ合衆国のポピュラー音楽が行われ、ロックはラテン・ロックになり、ヒップ・ホップはチカーノ・ラップとなって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。メキシコ・ロック(ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としてはカフェ・タクーバなどが挙げられる。
クラシック音楽の分野ではカルロス・チャベスの名が特筆され、メキシコ国立交響楽団はチャベスによって設立された。
映画
ブラジル、アルゼンチンとともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。
食文化
一般的に辛いことで知られているメキシコ料理は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされたタコスやブリートがファストフードとして広く普及しているが、それらはテックス・メックス(Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食はマサと呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、トルティーヤと呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆やトウモロコシ、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも米や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。
伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、モーレがある。
海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。
近年はカップラーメンが広く普及しており、中でも東洋水産の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。
蒸留酒であるテキーラの一大産地として有名であるが、それはハリスコ州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、ビールの特産地としても知られており、コロナビールやXX(ドス・エキス)などの著名なブランドが世界中に輸出されている。
世界遺産
国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が26件、自然遺産が4件、複合遺産が1件存在する。
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古代都市パレンケと国立公園(1987年)
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メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(1987年)
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古代都市テオティワカン(1987年)
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プエブラ歴史地区(1987年)
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シアン・カアン(1987年)
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古都グアナフアトとその銀鉱群(1988年)
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古代都市チチェン・イッツァ(1988年)
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古代都市エル・タヒン(1992年)
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サンフランシスコ山地の岩絵(1993年)
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エル・ビスカイノ生物圏保護区(1993年)
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古代都市ウシュマル(1996年)
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ケレタロの歴史史跡地区(1996年)
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グアダラハラのオスピシオ・カバーニャス(1997年)
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トラコタルパンの歴史遺跡地帯(1998年)
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ショチカルコの古代遺跡地帯(1999年)
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カンペチェ歴史的要塞都市(1999年)
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ケレタロ州シエラ・ゴルダのフランシスコ会伝道所群(2003年)
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ルイス・バラガン邸と仕事場(2004年)
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カリフォルニア湾の島嶼および保護地区群(2005年)
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メキシコ国立自治大学の大学都市の中央キャンパス(2007年)
祝祭日
労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である[21]。これ以外に慣習的な祝日がある。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
2月5日 | 憲法記念日 | Aniversario de la Constitución Mexicana | 1857年と1917年の憲法がともに2月5日に批准された |
3月21日 | ベニート・フアレス生誕記念日 | Natalicio de Benito Juárez | もとは3月21日 |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajo | |
5月5日 | プエブラ戦勝記念日 | Batalla de Puebla | シンコ・デ・マヨの名で知られる |
9月16日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | ドロレスの叫び |
11月2日 | 死者の日 (メキシコ) | Día de Muertos | 死者の日 (メキシコ) |
11月の第20日 | 革命記念日 | Aniversario de la Revolución Mexicana | 1910年のメキシコ革命開始を記念する。もとは11月20日 |
12月1日 | 大統領就任日 | Transmisión del Poder Ejecutivo Federal | 6年に1回祝日になる |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
5月10日 | 母の日 | Dia de las Madres |
この節の加筆が望まれています。 |
スポーツ
メキシコシティオリンピックが1968年に開催されている。また1970年と1986年にFIFAワールドカップが開催されている。2026年にはアメリカ合衆国、カナダとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となる。
サッカー
中南米諸国と同じく、人気のあるスポーツである。メキシコリーグは中南米でもレベルの高いリーグのひとつで、有名な選手を世界中に送り出している。サッカーメキシコ代表はFIFAワールドカップの常連であり、北中米カリブ海地域屈指の強豪である。
首都のメキシコシティに存在するエスタディオ・アステカは11万4,465人を収容でき、サッカー専用スタジアムとしては世界最大である。
野球
アメリカ合衆国の影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ国境に近い北部で盛んである。しかし、主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。
国内には夏季(メキシカンリーグ)と冬季(ウィンターリーグ)の2つのプロリーグが存在する。メキシカンリーグは1925年にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。形式上は独立したリーグであるが、メジャーリーグベースボール(MLB)から3A相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれている。ウィンターリーグであるリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ(LMP)は8チームからなり、優勝チームはLMP代表としてカリビアンシリーズに出場する。
MLB選手を多く輩出しており、 2019年までに129人のメキシコ人選手がプレーしている[22]。
ルチャ・リブレ
ルチャリブレは代表するスポーツのひとつで、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・プロレスであり、象徴でもある。古くはミル・マスカラス・ドス・カラス兄弟からチャボ・ゲレロ・ジュニアまで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。メキシコ連邦区ボクシング・レスリング協会(CBLL)およびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。
日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず、ザ・グレート・サスケ、タイガーマスク、ウルティモ・ドラゴン、エル・サムライ、スペル・デルフィン、グラン浜田、百田光雄、後藤洋央紀など、日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために留学・遠征するケースも多数見られる。また、日本の全日本プロレスやアメリカのWWEなどの団体に多くの選手を送り込んでいる。
メキシコシティ市内にある競技場、アレナ・メヒコとアレナ・コリセオは「ルチャ・リブレの2大聖地」と言われ、最大のルチャ団体・トリプレ・アの看板スター、ドス・カラス・ジュニアやエル・イホ・デル・サントが繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやってくる。
ボクシング
ボクシングもまた人気の高いスポーツのひとつである。世界最大の団体であるWBCの本部が置かれており、3階級制覇を達成したフリオ・セサール・チャベスを筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟、イスラエル・バスケス、日本でもなじみの深いルーベン・オリバレスやリカルド・ロペスら世界王者も数多く輩出している。チャベスがエスタディオ・アステカにグレグ・ホーゲンを迎えたWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチは世界最多の有料入場者となる13万人を動員した。
コミッションはCBLL。タイ王国同様にプロボクサーライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。2000年代後半に本部があるWBCが創設した同国内王座Central Zone of the Mexican Republic Boxing Commissions(FECOMBOX)と並存。
女子プロボクシングも盛んであり、2階級制覇を達成したジャッキー・ナバを筆頭に多くの女子世界王者も輩出している。
アマチュアボクシングも盛んで、2007年グアンテス・デ・オロには亀田和毅が出場している。
モータースポーツ
ブラジルやアルゼンチンなどのほかの中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツが高い人気を誇っている。1950年代に行われた国内を縦断する公道レースカレラ・パナメリカーナ・メヒコや、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レース、バハ1000は世界的に有名である。
また、F1・メキシコグランプリがメキシコシティ国際空港近くのエルマノス・ロドリゲス・サーキットで開催されている。2004年からは世界ラリー選手権(WRC)がメキシコ北部を舞台に毎年開催され人気を博している。
マリンスポーツ
太平洋とカリブ海の豊かな海に包まれており、スポーツフィッシングやサーフィン、スキューバダイビングなど、マリンスポーツが盛んに行われ、多くの観光客を呼び込んでいる。
著名な出身者
脚注
注釈
出典
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- ^ a b 国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 74ページ
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参考文献
学術
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- 外務省領事移住部編 『わが国民の海外発展』外務省、1971年。NCID BN03716423
- 倉部きよたか『峠の文化史──キューバの日本人』PMC出版、東京、1989年9月。ISBN 4-89368-212-10。
- 殖民協会『殖民協会報告』[要文献特定詳細情報]
- 日本人メキシコ移住90周年記念委員会『日墨交流史』PMC出版、1990年5月。ISBN 489368213X
文学・ジャーナリズム・その他
- 川治賢一郎『シエラマドレの熱風──日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯』パコスジャパン、2003年3月。ISBN 4939080064
- 加藤平治『メキシカン・ラプソディー──中南米貿易に賭けた男の炎熱人生』総合労働研究所、1984年1月。全国書誌番号:84024856、NCID BN09657032。
- 田辺厚子『ビバ!メキシコ』 講談社〈講談社現代新書718〉、1984年1月。ISBN 4061457187
- 内藤誠『友よメキシコよ』小峰書店、1979年1月。全国書誌番号:80015201、NCID BA31260349。
- 日墨共働会社『日西辞典』右文堂
- 松本三四郎『メヒコで百年』非売品、1977年2月。NCID BA34190476、OCLC 41900398。
- メキシコ榎本殖民史漫画化プロジェクトチーム、京都精華大学事業推進室編『サムライたちのメキシコ──漫画メキシコ榎本殖民史』京都国際マンガミュージアム、2008年3月。ISBN 9784903822990
関連項目
- メキシコ関係記事の一覧
- メソアメリカ
- メキシコの関連する戦争一覧
- プエブロ・マヒコ
- カリフォルニア州
- ニューメキシコ州
- テキサス州
- トラフィック
- UFO
- クリッパートン島
- チワワ
- メキシコ系フィリピン人(英語版)
- フィリピン系メキシコ人(英語版)
- マニラ・ガレオン
外部リンク
- 政府
- 日本政府
-
- 日本外務省 - メキシコ (日本語)
- 在メキシコ日本国大使館 (日本語)(スペイン語)
- 観光
- その他
-
- JETRO - メキシコ (日本語)
- "Mexico". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
- メキシコ - DMOZ(英語) (英語)
- メキシコに関連する地理データ - オープンストリートマップ
- メキシコのウィキメディア地図 (英語)
- 地図 - Google マップ
- 黒潮が結んだメキシコとの絆 日墨交流400周年記念稀覯書展示会 京都外国語大学付属図書館、2009年(平成21年)
- 移民史講座 Historia de la emigración del Japón a México y Cuba.