神代文字
神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたと紹介された多様な文字、文字様のものの総称である。江戸時代からその真贋について議論の対象となっており、現代の研究水準において存在の確証が得られているものはない。
概説
神代文字と称されるものには、神話や古史古伝に深く結びつき神代に使用された文字であると主張されているものと、後代になって神代文字の一種とみなされるようになったものとがある。
主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり[1]、神事などに使われており、一部の神社では符、札、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。また、機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏洩を防ぐために暗号として使用されたという。江戸時代の藩札の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもある。
鎌倉時代のころから朝廷の学者によって研究されたほか、江戸時代にも多くの学者に研究されたが、近代以降は現存する神代文字は古代文字ではなく、漢字渡来以前の日本に固有の文字はなかったとする説が一般的である。その一方で、神代文字存在説は古史古伝や古神道の関係者を中心に現在も支持されている。
明治のころまでは、単に「古い時代にあった(未知の)文字」という意味で「古代文字」と呼ばれるものもあり、遺跡や古墳、山中で発見された文字様のものがそう呼ばれた。この例としては、筑後国で発見され、平田篤胤の著書で有名になった筑紫文字、北海道で発見されたと主張されたアイノ文字等がある。
歴史
古字について言及したものは『日本書紀』(720年)の「帝王本紀多有古字」であるが、神代の文字の可能性としてはじめて言及した文献は、鎌倉時代の神道家の卜部兼方の『釈日本紀』(1301年以前成立)である。兼方が『日本書紀』の原典の一つに『仮名日本紀』を挙げた[2]事に対する疑問と仮名の起源について答える中で、家伝として「肥人之字」の存在を挙げ[3]、続けて「於和字者、其起可在神代歟。所謂此紀一書之説、陰陽二神生蛭児。天神以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者。」と述べ、『日本書紀』の、神代に亀卜が存在したとの記述から、文字がなければ占いはできないとして、神代から文字が存在した可能性を示した。
その後、卜部神道では神代文字の存在を説くようになった。たとえば、清原宣賢(吉田兼倶の子)は『日本書紀抄』(1527年)で、伊勢神宮等で発見された阿比留草文字等の神代文字について、「神代ノ文字ハ、秘事ニシテ、流布セス、一万五千三百七十九字アリ、其字形、声明(シャウミャウ)ノハカセニ似タリ」と、神代文字の字母数や字形等について具体的に述べている。
清原宣賢が「秘事ニシテ、流布セス」と述べているように、神代文字の実物とされるものは一般に示されなかったが、江戸時代に入ると尚古思想の高まりにより、神代文字存在説も盛んになり、実物とされるものが紹介されるに至る。数十種類の文字が紹介されたが、過去に卜部神道が述べていた特徴からかけ離れたものも多く、出典となった書籍や発見場所などから名付けられた。
江戸時代の神代文字の研究としては、平田篤胤が否定論から肯定論になって最初の論である『古史徴(こしちょう)』第1巻『開題記』所収「神世文字の論」、そして『神字日文伝(かんなひふみのつたえ)』とその付録『疑字篇』が著名である。また、鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は『嘉永刪定神代文字考』において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いた。ほか、三井寺(園城寺)住職の敬光による『和字考』など、数多くの研究がなされた。それらの研究を集大成したのが落合直澄の『日本古代文字考』である。
戦後の著名な論考として、神代文字実在論を「妄説」とした山田孝雄の『所謂神代文字の論』があり、実在性を問題とした研究史に終止符を打ったことで知られる[4]。
現代では、清水豊、山下久夫、岩根卓史などによって、平田篤胤の思想研究のための「疑字であることを前提とした」神代文字研究が行われている[5][6][7]。
主な神代文字と主張された記号
- 古史古伝とかかわりが深い文字
- 天名地鎮 - 太占と関係があるという。
- ヲシテ - 『ホツマツタヱ』に使われた文字。
- カタカムナ文字 - カタカムナ文明で使われていたとされる。
- サンカ文字 - 豊国文字を基にした三角寛の創作とされる。
- 豊国文字 - 『上記』(うえつふみ)において用いられる。
- 物証を伴うが壁画や記号であって文字ではないとされる事が多いもの
- その他
議論
肯定論側には目的の異なる多種多様な主張[注 1]が存在し、否定論側もそれぞれの主張に対する反論であるため、全ての記述が神代文字全般にあてはまるわけではない。また、言葉の定義が一定ではない為、すれ違っている主張もある。
否定説
神代文字存在説への批判は江戸時代に既に湧き起こっており、特に「古史古伝」にかかわるものや平田篤胤が唱えた「日文」に対して行われた。否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹、伴信友などがある。現代においては証拠の不存在から否定説が主流である[4]。
- 以下に否定説の主な論拠を挙げる。
- 古人の証言
- 『隋書』(636年)に「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國(倭国)」に、「無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字」とあり、隋の使節も仏教伝来以前の倭人には文字がなかったと認識していたことがわかるという主張。
- 『古語拾遺』(808年)で中臣氏とともに朝廷の祭祀を務めた古代氏族である斎部氏の長老・斎部広成は「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」[注 2]と記し、漢字渡来以前の日本には文字がなかったと明言したと意訳し、卜部兼方より約500年前の証言として注目されるという主張。
- 『朝野群載』(1135年~1141年)所収の「筥埼宮記」には「我朝で始めて文字を書き、結縄の政に代えること、即ち此の廟に於て創まる」とある[9]。
- 字母数の問題(50音で紹介された表音文字について)
- 漢字の輸入・仮名を創作する必然
- 出土品・文献資料の不存在
- ハングルとの類似点(阿比留文字について)
存在説
肯定論は明治以前には強く主張され、卜部兼方、忌部正通、新井白石、平田篤胤、大国隆正等が唱えた。しかし、必ずしも同じ文字について語っているわけではなく、自らの文字こそが神代文字であると主張し、他の文字を否定する事もある。
- 古人の証言について
- 『日本書紀』(720年)に「帝王本紀多有古字」(訳:「帝王本紀多に古字あり」[注 6])や「丙午、命境部連石積等、更肇俾造新字一部卅四卷」(訳:「丙午、境部石積等に命じて、新字一部四十四巻を作らしむ」[注 7])とあり、何らかの「古い文字」があったとする。
- 『古語拾遺』(808年)の「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」は「文字がなかった頃は」と書いたのであって、漢字の前に文字が無かったと書いたわけではない[注 2]。
- 『弘仁私記』(721年~965年 平安時代に嵯峨天皇に日本書紀を講義した勇山文継が書いた)の中に、「飛鳥岡本宮朝皇太子大に漢風を好み給ふにより、(中略)代々の系譜等を漫りに漢字を以って翻訳し」[13]とある。
- 南北朝期の神道家忌部正通は「神代の文字は象形なり」と存在を肯定している。また斎部氏に伝わる神代文字(斎部文字と称される)もある。
- 字母数について
- 学問以外の部分
関連文献
- 著名文
- 新村出『上古文字論批判』
- 橋本進吉『國語学概論』
- 山田孝雄『所謂神代文字の論』
- 落合直澄『日本古代文字考』
- その他
- 國學院大學日本文化研究所 『神道事典』ISBN 4335160232
- 『神道史大辞典』吉川弘文館 ISBN 4642013407
- 『国史大辞典』吉川弘文館
- 吾郷清彦『日本神代文字研究原典』(愛蔵保存版)新人物往来社、1996年。ISBN 4404023286。 NCID BN14015861。全国書誌番号:96042379。
- 原田実『図説神代文字入門』 発行:ビイング・ネット・プレス 発売:星雲社 2007年 ISBN 9784434101656
- 原田実「特集セミナー 「古史古伝」論争とは何だったのか:神代文字の伝承と文献が史実として破綻した過程を再検証 (特集 古代史を書き換える 21の新・論点)」『歴史読本』第54巻第8号、新人物往来社、2009年8月、50-57頁。
脚注
注釈
- ^ 「すべての文字の基になったものだ」とするものから、「ただ意味を表す記号が存在していたと主張したいだけ」とするものまで幅広い。
- ^ a b 古語拾遺を書くに至った動機を述べる冒頭の文章で、訳せば「聞くところによると、上古の世に、まだ文字が出現せぬころは、身分のあるもなきも、老いたるも少きも、口から口へ伝えあって、前からの言や昔からの行いは、いつまでも忘れられることがない」[8]となり、更に「書き留めるようになっても古事が正しく伝わっていないためこの文章を書いているのだ」という内容の文章が続く。詳細は古語拾遺参照。
- ^ 但し、音韻的対立が必ず表記に反映されるわけではない。例えば日本語には清音と濁音の区別があるが、仮名にはかつてその区別がなかった。また、現代日本語には /oR/: [oː] と /ou/: [ou] の区別がある(「王」と「追う・負う」)が、現代仮名遣いはそれらを区別しない(ともに「おう」)。また、上代特殊仮名遣に対する母音の音韻論的解釈には8母音説のほかに、5母音説、6母音説、7母音説があるが、これらは88音節が区別されていたことへの反論ではなく、語によって区別があったことは否定されていない。
- ^ 漢字の導入は4世紀に始まるが、平安時代に漢字・仮名混じり文が完成するまで、漢文の訓読、宣命体などの試行錯誤を経ている[10]。
- ^ 吉田靖雄は「吏道は漢字を借りた朝鮮語の表記法であり文字では無いため、伴信友の主張は間違いであるが、ハングルとの類似点を指摘した事に意義がある」としている[11]。吏道の詳細は吏道を参照。
- ^ 「帝王本紀」は漢字伝来以前のものではないとされている。詳しくは帝紀参照。
- ^ 天武天皇(?~686年)の治世に関する記述なので、漢字伝来以前の新字ではない。
出典
- ^ 大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察 (PDF)
- ^ 平松文庫『釈日本紀』
- ^ 問「假名之起當在何世哉」答「師説 大蔵省御書中有肥人之字六七枚許 先帝於御書所 令寫給其字 皆用假名 或其字未明 或乃川等字明見之 若似彼可為始歟」平松文庫『釈日本紀』
- ^ a b c 吉田唯「神代文字の時空間 : 古代への幻想と国粋主義者たち (特集 偽書の世界 : ディオニュシオス文書、ヴォイニッチ写本から神代文字、椿井文書まで)」『ユリイカ』第52巻第15号、青土社、2020年12月、99-106頁、CRID 1521699231161065728、ISSN 13425641、NAID 40022437566。
- ^ 清水豊 (1989). “平田篤胤の神代文字論”. 神道宗教. NAID 40001929318.
- ^ 山下久夫「平田篤胤・「神代文字」論の主題:生成する<古代>像へ」『金沢学院大学文学部紀要 / 金沢学院大学文学部紀要編集委員会 編』第5巻、金沢学院大学、2000年、104-91頁、CRID 1520572360369501696、ISSN 13419331、NAID 40005142244。
- ^ 岩根卓史 (2008). “<神代文字>の構想とその論理 平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考”. 次世代人文学研究 .
- ^ 藤井貞和「物語の起源」
- ^ 倭国に仏教を伝えたのは誰か 「仏教伝来」戊午年伝承の研究大江匡房『筥埼宮記』の証言
- ^ 大島正二『漢字伝来』岩波新書 ISBN 978-4004310310
- ^ 吉田靖雄「日本古代史と偽書ー卒論を考える三回生K君へー」『歴史研究』第32巻、大阪教育大学歴史学研究室、1995年3月、93-107頁、CRID 1050845762734117760、ISSN 0386-9245。
- ^ 金文吉「神代文字と『六合雑誌』(第五部会)(<特集>第六十二回学術大会紀要)」『宗教研究』第77巻第4号、日本宗教学会、2004年、1079-1080頁、CRID 1390001205950243200、doi:10.20716/rsjars.77.4_1079、ISSN 0387-3293。
- ^ 植田重雄「万葉集における宗教と歴史の問題点」『早稲田商学』第239号、早稲田商学同攻会、1973年12月、1-46頁、ISSN 0387-3404、NAID 120000789052。
- ^ a b 吾郷(1996)日本神代文字.