北海道異体文字
北海道異体文字(ほっかいどういたいもじ)は、1886年(明治19年)頃に北海道で発見された文字。アイノモジ[1](アイノ文字)、アイヌ文字[2]とも呼ばれる[注釈 1]。
古い時代にアイヌの祖先にあたる蝦夷が用いた文字とする説や、蝦夷とは異なるユーラシア大陸から来た民族の文字とする説などがある。
ただし今日においては一般に、和人が漢字や仮名によって表記される日本語を持ち込むまで、北海道に文字は存在しなかったと考えられている[注釈 2]。
| 北海道異体文字 | |
|---|---|
| 類型: | 神代文字 |
| 言語: | 不明 |
| 時期: | 不明 |
| 親の文字体系: |
手宮洞窟の岩絵?
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| Unicode範囲: | 割り当てなし |
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目次 |
発見と研究 [編集]
東京人類学会の会員であった荘司平吉は北海道においてアイヌの民具などを収集していたが、その中には「異体文字」の記された古器物が存在していた。この文字の記された古器物の一部が、1886年(明治19年)9月6日の『陸奥新報』と同月12日の『奥羽日日新聞』に紹介されている。これらの記事の中で当時逓信大臣であった榎本武揚は、千年ほど前に蝦夷が用いた文字であろうと鑑定している。
同年12月の第25回東京人類学会において、荘司の収集した民具などのコレクションが展覧された。このとき「異体文字」の記された古器物を調べた人類学者の坪井正五郎は、翌1887年(明治20年)2月の『東京人類学会報告』第12号にて「コロボックル北海道に住みしなるべし」を発表し、後述の手宮洞窟の彫刻や忍路環状列石とともに、荘司のコレクションに見られる「異様の文字」をコロポックルのものとするコロボックル説を唱えている。
同年8月の『東京人類学会雑誌』第18号にて、坪井は「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」を発表している。その中で坪井は「異体文字」について、後述の手宮洞窟の彫刻とは異なり記号がきれいに並んでいることから、文字であると断言して差支えないとしている。そしてユーラシア大陸から北海道へ渡った蝦夷とは異なる民族が、この文字を用いた可能性を示唆している[注釈 3]。
また同年10月の『東京人類学会雑誌』第20号[注釈 4]に、荘司平吉自身によって「アイノ及び北海道の古代文字」が発表されている。その中で荘司は「異体文字」について、確証はないとしながらも古い時代に蝦夷が用いたものではないかとしている。
翌1888年(明治21年)には国学者の落合直澄によって『日本古代文字考』が著された。同書において落合は、北海道異体文字が14の記号の組み合わせによる50の文字、およびそれらの合字や草書体から成り立っているとする説を発表した。落合はこの文字について、古い時代に蝦夷が用いたものとしているが[注釈 5]、読み方が伝わらないために解読はできないとしている[注釈 6]。また平田篤胤の著した『神字日文伝』附録疑字篇に採録される出雲石窟の文字[注釈 7]や「神代十干」[注釈 8]との関連を示唆し、また落合が実見したとされる吉見百穴の文字[注釈 9]との関連も示唆している。
以下に北海道異体文字の発見に関する年表を記す。
- 1886年8月 - 荘司平吉が北海道異体文字の記された石6個を宗谷へ「古物捜索に参りし者」より入手する。
- 同年9月 - 『陸奥新報』と『奥羽日日新聞』に北海道異体文字が記される木皮と帯が紹介され、榎本武揚が鑑定を行う。
- 同年12月 - 第25回東京人類学会において北海道異体文字が記される古器物が展覧され、坪井正五郎が調査を行う。
- 1887年2月 - 坪井正五郎「コロボックル北海道に住みしなるべし」において北海道異体文字が言及される。
- 同年同月 - 荘司平吉が北海道異体文字の記された石片2個を岩内郡のアイヌ人より入手する。
- 同年8月 - 坪井正五郎「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」が発表される。
- 同年10月 - 荘司平吉「アイノ及び北海道の古代文字」が発表される。
- 1888年4月 - 落合直澄が大江卓を訪ね、北海道異体文字の調査を行う。
- 同年5月 - 落合直澄により『日本古代文字考』が著される。
1975年(昭和50年)には古史古伝の研究者である吾郷清彦によって『日本神代文字』が著された。同書において吾郷は「アイノモジ」[注釈 10]について、後述の「手宮古字」と同系の文字であるとし、またフゴッペ洞窟の彫刻との関連も示唆している。
また高橋良典が会長を務める日本探検協会では、北海道異体文字を含む神代文字と超古代文明の関連を主張している。そして北海道異体文字については、メソポタミアの古代文明であるシュメールやアッシリアとの関連を示唆している。またフゴッペ洞窟の彫刻の一部について、北海道異体文字を記したものであると主張している。
2007年(平成19年)には原田実によって『図説神代文字入門』が著されている。同書では「アイヌ文字」に関連して以下のように述べている。
あるいは、出雲の書島石窟なるものも、手宮やフゴッペと同系統の洞窟壁画だったのではないだろうか。落合が指摘した出雲文字とアイヌ文字の外見上の類似(さらには手宮・フゴッペ洞窟壁画との類似)、そこには古代の北海道と山陰地方の間での文化交流の存在が示唆されているともいえよう。
— 原田実, 『図説神代文字入門』138頁より
文字の記される古器物一覧 [編集]
古器物の名称および解説は主に荘司(1887)による。
| 文字の記される古器物の名称 | 解説 |
| 木の皮 (木皮[3]) |
約13の朱字を記す。古平郡(積丹郡の誤りか)余別村のアイヌ人より手に入れる。 1886年9月の『陸奥新報』と『奥羽日日新聞』にて紹介[4]。落合(1888)に文字の模写あり。 |
|---|---|
| 帯様のもの (粗き織物にて製りたる帯[4]) |
約19の朱字を記す。ただし荘司は一部の文字について後世に記されたものと推測。 1886年9月の『陸奥新報』と『奥羽日日新聞』に紹介され、同年12月の第25回東京人類学会に おいて展覧[4]。落合(1888)に文字の模写あり。 |
| 獣皮 | 5行にわたり約44の金字を記す[4]。1886年12月の東京人類学会において展覧[4]。 坪井(1887)に文字の模写あり。 |
| 六角四面の石片 (六角柱の石片[4]) |
金字を記す[4]。余市郡川村において出土。1886年12月の東京人類学会において展覧[4]。 吾郷(1975)では「千五百年以上のものかも知れない」としている。 また日本探検協会(1995)ではアッシリアの六角柱碑文との関連を示唆している。 |
| 日本紙[4][3] | 約67の朱字を記し[3]、アイヌの「入物」の絵が描かれている[4]。1886年12月の東京人類学会に おいて展覧[4]。落合(1888)に文字の模写あり。荘司(1887)には記述なし。 |
| アツシ織の太刀佩き (太刀下げ[4]、蝦夷太刀釣[3]) |
約23の朱字を記す[3]。ただし荘司は一部の文字について後世に記されたものと推測。 落合(1888)に文字の模写あり。 |
| 土器 (小壺[4]、土瓶[3]) |
約13字を記す[3]。余市郡余市村にて出土[3]。落合(1888)に模写図と文字の模写あり。 1888年4月の時点では大江卓の所有物となっている[3]。 |
| 木の節(木節[3]) | 計7の朱字が刻まれている。余市郡川村のアイヌ人より手に入れる。落合(1888)に文字の模写あり。 |
| 板(木板[3]) | 約31の朱字を記す[3]。来歴は上に同じ。落合(1888)に文字の模写あり。 |
| 自然石 甲一 | 表側に約4の朱字を記し、裏側には3行にわたり約32の朱字を記す[注釈 11]。 1886年8月に宗谷へ「古物捜索に参りし者」より手に入れる。もともとは樺太のアイヌ人が 所有していたものだという。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然石 甲二 | 表側に2行にわたり約14の朱字を記し、裏側には2行にわたり約18の朱字を記す[注釈 11]。 来歴は上に同じ。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然石 甲三 | 円弧状に約24の朱字を記し、その円の中に約4の朱字を記す。 来歴は上に同じ。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然石 乙一 | 表側には3行にわたる約29の朱字、裏側には2行にわたる約23の朱字を記す。 また裏側にはアイヌの「シヨキチ棒」[注釈 12]らしき絵が描かれている。来歴は上に同じ。 荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然石 乙二 | 5行にわたり約23の朱字を記す。来歴は上に同じ。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然石 乙三 | 3行にわたり約25の朱字を記す。来歴は上に同じ。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然の石片 丙一 | 表側には計4の金字を記し、裏側には計11の朱字を記す。1887年2月に岩内郡のアイヌ人より 手に入れる。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 自然の石片 丙二 | 約25の朱字を記す。来歴は上に同じ。荘司(1887)に模写図あり。 |
| 蝦夷楯[3] | 約32字を記す[3]。落合(1888)に模写図あり。荘司(1887)には記述なし。 |
関連する文字 [編集]
手宮の「文字」 [編集]
1866年(慶応2年)に発見された手宮洞窟の岩絵を文字とする説もある。この彫刻は小樽市にある続縄文時代の遺跡であり、1921年(大正10年)には国の史跡に指定されている[注釈 13]。1878年(明治11年)に榎本武揚や開拓使大書記官の山内提雲、考古学者のジョン・ミルンによる調査が行われて以降、広く知られるようになった。
この手宮の彫刻は古く「ジンダイモジ」[5](ジンダイ文字[6])、「アイヌ文字」[6]、「アイヌ古代文字」[7]、「奇形文字」[8]のように称されていたが、後述の中目の説が広まって以降は主に「古代文字」と呼ばれるようになった。吾郷清彦は「手宮古字」と称している。宮沢賢治の詩「雲とはんのき」(詩集『春と修羅』に掲載)の中には「手宮文字」として登場するほか、鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」や北原ミレイの「石狩挽歌」(小樽市出身のなかにし礼が作詞)、三波春夫の「おたる潮音頭」といったいわゆるご当地ソングにもそれぞれ「古代の文字」、「古代文字」、「手宮の文字」として歌われている。
考古学者の鳥居龍蔵は1913年(大正2年)10月の『歴史地理』第22巻第4号に「北海道手宮の彫刻文字に就て」を投稿している。この中で鳥居は、手宮の彫刻は突厥文字であると主張し、靺鞨の用いたツングース系の言語を記したものである可能性を示唆している。さらに言語学者の中目覚は、1918年(大正7年)2月の『尚古』第71号に「我国に保存せられたる古代土耳其文字」を投稿し、手宮の「古代文字」を解読したと主張している。中目はこの彫刻を突厥文字とする鳥居の説を支持し、靺鞨の言語で「……我は部下をひきゐ、おほうみを渡り……たたかひ……此洞穴にいりたり……」[注釈 14]と解読した。また同月の『小樽新聞』において中目は、『日本書紀』に見える阿倍比羅夫と戦った粛慎とは靺鞨人のことであり、この戦いによって死亡した靺鞨人の族長を埋葬したのが手宮洞窟の遺跡であると主張している。
一方郷土史研究家の朝枝文裕は、1944年(昭和19年)に『小樽古代文字』を著し、手宮の彫刻を古代中国の漢字とする説を唱えた。朝枝はこの彫刻を、約三千年前に古代中国の王朝である周の人々によって記されたものとしている。その内容については、周から遠征のために派遣された船団がこの地を訪れたが、そこで船団の指導者である「帝」が死亡したため葬り、その後重大な変事が発生したため血祭りの儀式を執り行った旨を記したものであると解読している。さらに朝枝は、古代中国の王朝である殷や周から派遣された船が、卜占に用いる鹿の角を求めてしばしば北海道を訪れたと主張している。
なお朝枝(1972)において同系の文字とされたものが、ほかに3点存在する。朝枝はいずれも死者のために行った祭事を古代の漢字で記したものとしている。
| 朝枝が文字としている彫刻の名称 | 解説 |
| 富岡古代文字石 | 3行に渡り黒色の12字を記す。1909年(明治42年)6月2日、小樽市稲穂町(のちの富岡町)にて出土。朝枝は、二千数百年前の漢字であるとしている。 また東洋史学者の白鳥庫吉は契丹か女真の墓標とする説を唱えている。 一方で小樽高等商業学校の教授である西田彰三は、和人が篆書体の漢字を記したものであり古代の文字ではないとしている[9]。西田によるとカムイコタンの岩壁にも「古代文字」と称される同様の彫刻があり、これも古代のものではないとしている。 |
|---|---|
| 忍路古代文字石 | 1919年(大正8年)頃、忍路にて出土。朝枝は三千数百年前の漢字としている。 東北大学考古学研究室の所蔵品。 |
| 泊絵文字石 | 1934年(昭和9年)8月14日、古宇郡泊村にて発見される。朝枝は約四千年前の漢字としている。 北海道大学総合博物館の所蔵品。 |
また神代文字の研究者である相馬龍夫は、1978年(昭和53年)に『解読日本古代文字』を著し独自の説を唱えている。相馬は手宮の彫刻について、百済系民族によって北陸地方を追われた勢力に属する人々の記した文字であり、その内容を訳すと以下のようになると主張している。なお宇ノ気、能登、加賀、鹿島、邑知、野野、羽咋、輪島はいずれも現在の石川県にあたる地域の地名である。
敵を討て。洞窟に入ったのは、根拠地とするためである。武力を貯えよ。我等の神は、必ずや敵を撃ち殺してくれるぞ。
— 相馬龍夫, 『解読日本古代文字』21頁より
討て!あの宇ノ気、能登地と加賀の鹿島
邑知 、加賀の野野と加賀。関所要所をつぶし分断せよ。占領されている 敵加賀 衝き、畜生奴らが占領している羽咋 輪島につながる良き地にたむろする奴等を射抜け、焼き討ちにせよ。海につき出た能登、なんともすばらしい我等が故郷 加賀野の宇ノ気 野野 加賀。— 相馬龍夫, 『解読日本古代文字』22頁より
フゴッペの「文字」 [編集]
「フゴッペ洞窟」も参照
1927年(昭和2年)10月、余市町のフゴッペにおいて岩面彫刻が発見された。小樽高等商業学校の教授である西田彰三はこの彫刻について、「手宮古代文字」に対し「フゴツペ古代文字」という語を用い対馬文字や突厥文字との関連を示唆している[10]。しかしアイヌ人の民俗研究者である違星北斗は、フゴッペの「奇形文字」[注釈 15]には手宮洞窟の彫刻と異なり風化の痕跡が見られないことから、後代の偽作である可能性を示唆している[11]。
相馬龍夫はこの彫刻について、手宮のものと同様に北陸地方を追われた勢力に属する人々が記した文字であるとし、「海を渡り珠洲を
1950年(昭和25年)には同じ余市町においてフゴッペ洞窟の岩絵が発見された。こちらは手宮洞窟のものと同じく続縄文時代の遺跡であることが確認されており、1953年(昭和28年)には国の史跡に指定されている。この彫刻についても、手宮のものにならって「古代文字」と呼ばれることがある。
相馬龍夫はこの彫刻についても、北陸地方を追われた勢力に属する人々が記した文字としている。相馬による訳の一部を以下にあげる。
敵に奪われている豊かな地、宇気、加賀、その敵を討て、討って、討って、討ちまくれ、城門、倉門、打ち破り、次から次と、徹底的に討ち果たせ
— 相馬龍夫, 『解読日本古代文字』40頁より
加賀、野野。神よ討ちぬい、畜生どもを倒せ。
珠洲シャクの地、鹿能の東海岸地を討て、羽咋、輪島、能登の西海岸とを結ぶ邑知地溝帯を討ち抜け、神様。
ここに誓い合うは、宇ノ気と富来 の者達であります。
われらが王は珠洲におわす— 相馬龍夫, 『解読日本古代文字』42-43頁より
一方で高橋良典が会長を務める日本探検協会では、フゴッペ洞窟の北壁にある彫刻について、北海道異体文字で「イイシシライ」「カワサカナハキツ」と読み「イイシシ(食獣)ら居」「川魚は来つ」の意であると主張している[注釈 16]。
アイヌの記録手段 [編集]
アイヌ社会には、文字に代わる記録手段として結縄や木の棒に刻み目を付ける方法が存在した。違星北斗によると、後者をアイヌ語でトッパシロシ(toppasirosi)という[12]。アイヌ語のトッパ(toppa)またはトクパ(tokpa)は「刻む」[注釈 17]の意であり[13]、シロシ(sirosi)は「印」(しるし)の意である[14]。アイヌの結縄とトッパシロシについては、1739年(元文4年)に坂倉源次郎が著した『北海随筆』や、1808年(文化5年)に最上徳内が著した『渡島筆記』において言及されている。
文字なしといへども、物毎に記憶するは縄を結び置或は木に刻を付置心覚とす。何年過ても此心覚わするゝ事なし。商船蝦夷地へ至りて勘定入事あれば、かの結びたる縄と刻ある木とを取出して去年の事をも審に弁ずるは、結縄の意なるべし。
— 坂倉源次郎, 『北海随筆』(『日本庶民生活史料集成』第4巻410頁)より[注釈 18]
和人、山丹、オロコの賈人などゝ交易の事にいたりては仮借あり。書契といふことあらねば心記するに過ず、久しきにいたることは縄を結(び)木に刻(む)。縄を結ふはたとえば千に一万に一などいふ心おぼへありてむすび、木に刻は各家伝ありてきざむ。但文字のごとく通用の定製とてはなけれども、己がまゝに作ることにてはなく、旧きならはし従ふものなり。
— 最上徳内, 『渡島筆記』(『日本庶民生活史料集成』第4巻528頁)より[注釈 19]
古くは同様の記録手段が日本列島全域で用いられていた。中国の正史である『隋書』倭国伝に「文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ」とあるほか、日本の史料においても大江匡房が著した『筥崎宮記』に「結縄の政」(-まつりごと)という語が用いられており、また一条兼良が著した『日本書紀纂疏』など中世の文献にも、漢字が伝来する以前は結縄や木を刻む方法が採られていたとする記述が見られる[15]。
注釈 [編集]
- ^ 坪井正五郎や荘司平吉は主に「異体文字」という語を用いており、ほかに「異体なる文字」、「異様の文字」、「異形の文字」といった表現もみられる。一方で落合直澄は「夷奴字」(傍訓は「アイノモジ」だが、別の箇所では「夷奴」を「アイヌ」と読んでいる)または「蝦夷字」という語を用いているが、坪井(落合(1888)の「坪平」は誤り)や荘司の記述を引用するにあたっては「北海道異体文字」という語を用いている。ここではページ名としてこの「北海道異体文字」を採用している。
- ^ 原田実『図説神代文字入門』では以下のように述べている。
現在までにこのような[古代の遺物から文字を求めようとした]試みは考古学者をも納得させるだけの証拠を示すにいたっていない。ペトログラフにいたっては、研究者の報告を現地で確認すると単なる自然石の亀裂だったりする始末だ。古代の考古学的出土物から、漢字以外の文字を検出する確認された例は皆無といってよいのである。この点も神代文字を実在の古代文字と考える大きなネックとなっている。
— 原田実, 『図説神代文字入門』174頁より
- ^ なお原田(2007)134-136頁では、「アイヌ文字」に関する文献として『東京人類学会雑誌』第5巻第54号(明治23年[1890年]9月)に掲載される坪井正五郎「重ねてアイヌ木具貝塚土器修繕法の符合は貝塚土器のアイヌの遺物たるを証する力無き事を述ぶ」[原田(2007)には「符号」とあるがこれは「符合」の誤り]をあげている。しかしこの論文に北海道異体文字に関する記述はなく、その内容は縄文土器をアイヌの遺物とする山中笑への反論として、アイヌの木具修繕法と出土した貝塚土器の修繕法は符合(一致)しているものの、この修繕法は世界中に見られる普遍的なものであるため、縄文土器をアイヌの遺物とする証拠にはならないとするものである。
- ^ 第22号とする吾郷(1975)の記述は誤りで、正しくは第20号である。
- ^ 原田(2007)136頁には落合直澄が「アイヌ文字」を「日本民族の古代文字」とみなしているとする記述があるものの、前述の通り落合(1888)では「夷奴字」について日本語が通じず漢字を用いない「蝦夷」の用いた文字としている。
- ^ 原田(2007)215頁には「アイヌ文字」の50音図が掲載されている。字形は落合(1888)の表にあるものと一致するが、落合の表にはない発音が示されている。なお発音については外部リンクの50音表と同じである。ただし外部リンクの表におけるヤ行の字については、落合のものと形状がやや異なる。
- ^ ただし落合はこの出雲の書島石窟に記された文字とされるものについて、出雲に「書島」という名称の島は確認できないため、実は出雲ではなく陸奥の辺りに伝えられたものではないかとしている。
- ^ ただし落合は、この記号を十干とするのは後世の人間による付会であるとしている。
- ^ 落合は「松山百穴古字」と称している。
- ^ なお吾郷は漢字表記として「夷奴字」のほかに「夷奴文字」も用いている。また「アイヌ古字」や「蝦夷古字」とも称している。
- ^ a b 吾郷(1975)118頁では「金泥をもってアイノモジを書きつけている」としているが、荘司(1887)では「文字は朱色に類し小豆色」としている。
- ^ 戦争の時に、敵の足の甲を突く武器として用いる棒とされる。
- ^ なお物産研究者の白野夏雲や言語学者の金田一京助などによって偽作説が唱えられたものの、今日の研究においては否定されている。
- ^ 同月の『小樽新聞』では「……我は部下を率ゐ大海を渡り…闘ひ…此洞穴に入りたり……」という表記になっている。
- ^ 1926年(昭和元年)12月19日の『小樽新聞』において違星が用いている名称。
- ^ 落合(1888)の表にある字を用いて解読している。ただし原田(2007)と同様に落合の表にはない発音を付している。
- ^ 久保寺によると「刻み目をつける」「コツコツ刻む」「啄む」の意。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない読点を補っている。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない濁点を補っている。
参考文献 [編集]
- 渡瀬荘三郎「札幌近傍ピット其他古跡ノ事」『人類学会報告』第1巻第1号、1886年2月、8-10頁。全文PDF - Journal@rchive
- 坪井正五郎「コロボックル北海道に住みしなるべし」『東京人類学会報告』第2巻第12号、1887年2月、93-97頁。全文PDF - Journal@rchive
- 坪井正五郎「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」『東京人類学会雑誌』第2巻第18号、1887年8月、280-281頁。全文PDF - Journal@rchive
- 荘司平吉「アイノ及び北海道の古代文字」『東京人類学会雑誌』第3巻第20号、1887年10月、21-25頁。
全文PDF - Journal@rchive (ただし自然石甲一、甲二、甲三の図を欠く) - 落合直澄『日本古代文字考』吉川半七、小槙舎蔵版、1888年。『日本古代文字考』 - 国立国会図書館 (ただし一部に印刷ミスによる欠損あり)
- 中目覚『小樽の古代文字』地理歴史学会、1919年。『小樽の古代文字』 - 国立国会図書館
- 五十嵐鉄『史跡手宮洞窟の新研究』(自費出版)、1938年。
- 朝枝文裕『北海道古代文字』北海道言語学協会、1972年。
- 吾郷清彦『日本神代文字-古代和字総観』大陸書房、1975年。
- 相馬龍夫『解読日本古代文字』新人物往来社、1978年。
- 高橋良典監修 日本探検協会『超図解 縄文日本の宇宙文字-神代文字でめざせ世紀の大発見!』徳間書店、1995年。
ISBN 4-19-860378-2 (ISBN-13:978-4-19-860378-6) - 吾郷清彦『日本神代文字研究原典』新人物往来社、1996年。(『日本神代文字』の「愛蔵保存版」)ISBN 4-404-02328-6 (ISBN-13:978-4-404-02328-5)
- 原田実『図説神代文字入門-読める書ける使える』ビイング・ネット・プレス、2007年。ISBN 978-4-434-10165-6
出典 [編集]
- ^ 吾郷(1975)
- ^ 原田(2007)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 落合(1888)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 坪井(1887)
- ^ 渡瀬(1886)
- ^ a b 1881年(明治14年)の『開拓使調書』による。
- ^ 中目(1918)
- ^ 『広報よいち』(外部リンク)による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月21日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月22日の『小樽新聞』による。
- ^ 1928年(昭和3年)1月10日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)12月25日の『小樽新聞』による。
- ^ 久保寺逸彦・北海道教育庁生涯学習部文化課編『アイヌ語・日本語辞典稿-久保寺逸彦アイヌ語収録ノート調査報告書』北海道教育委員会、1992年、275頁。
- ^ 服部四郎編『アイヌ語方言辞典』岩波書店、1964年、60頁。
- ^ 原田(2007)
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 久遠の絆 神代文字集 北海道異体文字 - 字形は大部分が落合(1888)の表にあるものと同じ。
ただしヤ行の字形のみ落合のものとやや異なっており、また落合の表にはない発音が示されている。 - 余市町でおこったこんな話 その76 古代文字 - 『広報よいち』からの転載。
- 手宮洞窟保存館 - 手宮洞窟についての解説。
- 日本の古代文字論 - 手宮とフゴッペの岩絵についての記述がある。
- おたるの青空 インデックス - 違星北斗や西田彰三の記事を含む『小樽新聞』の一部を転載。