日本語の誤用
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日本語の誤用(にほんごのごよう)は、規範的な日本語(標準語・共通語)とは異なる日本語の表現や運用のことである[1]。誤読または誤用が定着した言葉については、日本語の変化を、外来語に由来する本来の意味との乖離については日本語における外国語の誤用を参照されたい。
目次 |
[編集] 誤った批判
- 専門用語
- 日常的な用語を特殊な分野で特殊な意味に用いて、特殊用語・隠語などと呼ばれるが、日常的に用いられている標準語(共通語)とは異なっているからといって、誤りであるわけではない。
- たとえば、「視野に入れる」を「視野はおのずと目に入ってくるもので、能動的に入れようとするものではない」とか、事業を起こすことを意味する「立ち上げる」はおかしいとか、また「立ち上がる」は本来であれば起立、または奮い立つ意味で、これが「湧き上がる」と混用されてはならないという意見が聞かれる。「焼きを入れる」を体罰・扱きの意味で使うのは誤りであるという意見もある[要出典]。これらの用法を日常的な標準語の規範に照らして誤っていると判断するのは杓子定規である[要出典]。
- 俗語・新語
- スラングや若者言葉などの俗語・新語に関しても同様である。
- 方言
- 標準語や共通語では誤用とされる表現も、ある方言において正用法ならば誤用ではない。
[編集] 文法に起因する誤用
[編集] 意味の取り違え
- 諫める(いさめる)
- 目上の人の過ちを正すために、その人を戒めること。→×目上の人が目下の人を戒めること。または、厳しく叱ること。
- 元来、諫言(かんげん、諫めること)とは、忠義に逆らうことから自分の地位や生命を引き換えにするほどの強い意志が必要であった。時代背景が変わって目上・目下や忠義の意識が薄れてきたことから誤用されるようになった。「戒める」(いましめる)もしくは「窘める」(たしなめる)とするのが相応しい。ただし、「窘める」も以下のような誤用がある。
- 窘める(たしなめる)
- 主に目下の人に対して、軽く注意を促すこと。→×厳しく叱ったり、注意したりすること。
- 窘めるとは、軽く袖を引く程度の注意の仕方である。
- 一姫二太郎
- 第一子が女児、第二子が男児であること。→×娘一人と息子二人。
- 元々は、最初の子が女であると、比較的おとなしく育てやすく、子育てに慣れてから男の子を育てると楽に行くため、女の次に男の子が生まれるのが理想的だという意味である。
- 確信犯
- 道徳的、宗教的あるいは政治的な確信(信念・信条)に基づいて(本人としては良い行いだと信じて)犯す犯罪の意。法律用語でありテロがその代表的なものである。→×悪いと知りながら意図的または作為的に犯す悪徳(ないし犯罪)。レトリックで使用されている場合もあるが、法律用語として(例えば「×確信犯的に支払いを怠った詐欺/確信犯の器物損壊」⇒「○故意に支払いを怠った詐欺/故意の器物損壊)使用すれば誤用となる。転じて、そのような行動を好んで行う性格・人格をさす場合もある。
- 殆どの場合は「故意犯」が正しい。
- 気の置けない(あるいは「気が置けない」)
- 気兼ねする事がない。→×油断できない。
- 意味がほぼ逆に解釈されている。チャゲ&優子(CHAGE+石川優子)のナンバー「ふたりの愛ランド」でこの意味に使われたことが有名。相手に何かと気を遣うのが“気を置く”事。
- 君子は豹変す
- 立派な人は誤った行いをすぐに正す(=過ちを改むるに憚る事勿れ)。→×朝令暮改。
- 逆の意味に解釈されている。
- 檄を飛ばす
- 自分の主張や考えを広く人々に知らせる。またそれによって人々に決意を促したりする。→×叱咤激励する。また、上司や監督が部下や選手に発破をかける。
- 健全な精神は健全な肉体に宿る
- 健全な肉体にこそ健全な精神が必要である。→×体育会系には悪人はいない。同項参照。
- 後述「情けは人のためならず」同様、肝心の部分が省略された為に正反対の意味が定着してしまったもの。正しくは「宿れかし」(=宿る事こそ望ましい)と続く。ユウェナリスは肉体が健全であるとそれに驕って精神が不健全になりがちであると憂えてこの言葉を発した。
- 号泣
- 大声をあげて泣くこと。大声をあげていなくても使われることがある。
- 触り
- 楽曲や物語の中で、最も盛り上がる部分。→×楽曲や物語の最初の部分、又は一部分。
- サビと同義。
- 須く(すべからく)
- 呼応の副詞として文末に当然・命令の助動詞「べし」を伴って使用するか、「~しろ」「~せよ」など命令形の文末を要求する。元は漢文訓読。ある事を是非ともしなければならないという意を表す。当然のこととして、必須、かならず、すべくあらく(すべきであるの意)。→×全て。まったく。大方は。だいたい。
- 流れに掉さす
- 棹を使って進むように、多勢に従う。→×時流に逆らう。
- 情けは人の為ならず
- 情けは人(=相手、他人)のためでなく、自分のためになることである。→×情けは人のためにならない。
- 誤用と知らず使われる傾向にあり、国語辞典によっては誤用それ自体が第二の意味として掲載されているものもある。
- 煮詰まる
- 構想などが固まること。→×新しい(良い)アイデアが浮かばず、行き詰まること。
- 破天荒
- 前代未聞の行いをする。→×やぶれかぶれ。[要出典]
- 話の腰を折る
- 相手が言いかけたことを途中で遮る。→×話題を別な方向に持っていこうとする。
- 憮然(ぶぜん)
- 失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。憮(ブ)は放心しているさまを表わす。→×怒りをあらわにして、ふて腐れるさま。
- マスメディアや出版物でも頻繁に誤用されている。
- 役不足
- 俳優などが自分の与えられた役に対して不満を抱くこと。転じて、その人の能力に対して役目が不相応に軽いこと。→×自分の与えられた役目が重く、自分の力量に見合わないこと。
- 嫌味として使われていたものを本来の意味と取り違えたもの。[要出典]謙遜の意味で誤用されているケースが多いが、これも意味がほぼ逆に解釈されている。力不足(力量を超える役割)と勘違いした結果である。「役者不足」という役不足に語幹の似た言葉が用いられることもあるが、これは造語であり「役者不足」は単純に役者の頭数が不足しているという意味であり、個人の能力が不足しているという意味ではない(即ち力不足の意味で役者不足を用いる事も誤用である)。「役職は多いが役者不足である」は正用。
- おもむろに(徐に)・やおら
- ゆっくりとした様子 →×突然に、出し抜けに。
- 双方とも、意味が逆に解されている典型例の一つ。
- 鼻につく
- 飽きて物事に嫌気がさすこと。 →×(個人的な嫌悪感情などで)物事に嫌気がさすこと。
- 接頭語としての「超」
- 名詞に付き、程度が特に極端なものである意味を表わす(超巨大、超満員など)。またあるものから極端に逸脱している意味をあらわす(超自然主義、超心理学など)[2]。 →×動詞・形容詞・形容動詞などにつけて、程度のはなはだしい様子を強調する言葉[3]。若者言葉として定着しているとして新語あつかいする辞書もある[4]。すごく、とても。(超むかつく、超感動したなど)。
- 「超強い」などは本来は誤用である。たとえば「超現実的」は「非常に現実的」ではなく「現実を超えた」という意味である。しかし今日では広辞苑にも用法が認められるようになっている。
- →超の濫用
- 他力本願
- 仏道に帰依すれば、仏が正しい道を導いてくれるという浄土真宗上の教え →×他人任せ。
- 本来の意味を拡大解釈しすぎた結果、自分が何をしなくても周りがやってくれる、すなわち他人任せの意に執られるようになった。(しかし、他宗派では浄土真宗の教えを否定し、そこから皮肉のニュアンスも込めて他力本願という教えを他人任せと解釈するようになったともいわれる)。
- ネクラ
- ネクラとは本来、見た目は明るいが実は根が暗い人を指す。すなわち普段は少なくとも表面上は明るくしていなければネクラとはいえない。普段から暗い人物はネクラではなく単に「暗い」と形容される。
- しかしながら、見た目も根も暗い、単に「暗い」と形容すべき人物を指してネクラと称する誤用が見られる。
- ぞっとしない
- 感心しない。うれしくない。 →×寒さや恐怖で身の毛がよだつように感じる。(ぞっとする。)
- 元々、「ぞっと」には身の毛がよだつような感覚のほかに、「ぞっとするほどの美人」のように強い感動を表す意味もある。本来これを「しない」とする場合、後者を否定する意味となる。しかし、「ぞっと」を前者の意味で捉えたうえ、「ぞっとする」の反語的な用法で用いられることが多い。
[編集] 用法の誤り
- ×全然+肯定文 ○全然+否定文
- 「全然強い」や「全然そうだ」など、特に若者の言葉の乱れとして指摘されている語である。言葉の乱れとして指摘する立場からは「断然」あるいは「俄然」を用いるのが適切であるとしている。しかし「全然+肯定文」は「全然」が広く使用されるようになる明治時代の時点で既に用例が見られ[5]、戦前期においても「全然+肯定文」の使用例は数多く見られる[6]。「全然+肯定文は誤りである」と強く意識されるようになったのは戦後からで[7]、これは戦後の国語教育で「全然は打ち消しを伴う」と厳格化されたことが影響しているのではないかとされている[要出典]。
- ×怒り心頭に達する(走る)→○怒り心頭に発する
- 激怒することの意。
- ×噂をすれば影が立つ(△影とやら)→○噂をすれば影が差す(または、単に影)
- 影は「差す」ものであって「立つ」ものではない。
- ×押しも押されぬ→○押しも押されもせぬ
- ×念頭に入れる→○念頭に置く。
- ×風の噂→○風の便り
- 「風の便り」自体が、「噂」という意味を持つ。
- ×彼は弱冠30歳で会社を興した。→○30歳の若さ
- 「弱冠」とは、(《礼記》曲礼上の『二十を弱と曰ひて冠す』から)20歳のこと。近代では少し意味が広がり、20歳前後を指すようになった。しかし、30歳というのはどう見てもこれに当てはまらないので、誤用としてみなされる。同じ読みで「若干」があるが、年齢には用いないので若干30歳、とするのも間違い[8]。弱冠を若冠と表記する誤りもある[9]。出典が男子20歳の異称であるため、女子にそのような言い方をするのは適切・適格ではない[10]。
- ×危機一発→○危機一髪
- 髪の毛一本の差で危機に陥るのっぴきならない状況を指す成語だが、まるで一発、二発と危機が襲ってくるように誤解された。映画『007/ロシアより愛をこめて』の旧題として、作品に映画評論家・水野晴郎が『007/危機一発』と名づけたことから広まった用法という[11]。水野は単に流行を狙った意識的な造語と主張していた。
- ×幸先が悪い→○幸先が良い
- 「幸先」は良い事が起こる前兆をあらわす。
- ×一人で爆笑した。→○一人で大笑いした。
- 爆笑とは、大声で笑うことではなく、大勢が笑うことであるため、一人や二人がどんなに大声で笑ったとしても爆笑ではない。
- ×火蓋を切って落す。→○火蓋を切る。
- 「幕を切って落とす」との混同。火縄銃の火皿の火口を覆う火蓋は切る(ずらして点火の用意をする)物であり、切って落す物ではない。
- 火蓋に用いる「口火」を使った表現は「口火を切る」もしくは「口火をつける」が正しい。
- ×暇を弄ぶ。→○暇を持て余す。
- ×蹴りをつける。→○けりをつける。
- 「けり」は古典文学で「いとあはれなりけり」といった具合に「けり」という助動詞を文章の末尾につけて文を終わらせる事から生まれた言葉であり、「蹴り」とは何の関連もない。
- ×将棋を打つ。→○将棋を指す。
- 「碁を打つ」との混同。碁は盤上に石を打つものであるが、将棋は既に盤上にある駒を指すものなので、打つは誤り(ただし、対局中に持ち駒を打つことは“駒を打つ”で正しい)。
- ×凌ぎを削る。→○鎬を削る。
- 鎬とは日本刀の刃と峰の間にある稜線のことで、それを削り合うぐらいの激しい争いのこと。
- ×上へ下への大騒ぎ、上や下への大騒ぎ →○上を下への大騒ぎ
- 言葉を取り違えている典型例として紹介される慣用句(平成18年度国語世論調査結果参照)。上へ置くべき物を下へ、下へ置くべき物を取り違えているほど、甚だしく状況が混乱していることへの形容。
[編集] 言葉の混交
- 生き様 - 生き方+死に様の誤解の転倒について
- 「死に様」からの連想でできた語で、生きてきた過程を示す言葉としては相応しくないとされる[要出典]。ここでの様は"「様を見ろ」→「ざまぁみろ」と同じニュアンスであるからだ"との説明が作家等からも良くなされるが、本来「死に様」の「様」は単なる「様子」を示す「様」でありネガティブな意味合いは持たない(新明解国語辞典より概要のみ)。
- ×汚名挽回 - 汚名返上+名誉挽回
- 右の、正しい用語のような意味合いを意図しているのに、二つの四字熟語を混交させてしまった結果、逆の意味になってしまっている。ただし、明鏡国語辞典の編纂にも関わった前筑波大学長、北原保雄は著書『問題な日本語』(大修館書店)において、「挽回」には「(今の悪い状態から)巻き返しを図る」と言う意味もある、とし、間違いとはしていない[12]。同様の例に疲労回復がある。
- ×喧喧諤諤 - 喧喧囂囂(けんけんごうごう)+侃侃諤諤(かんかんがくがく)
- 喧々囂々とは口々にしゃべってやかましいことであり、侃々諤々とは何の遠慮もせず盛んに議論を交わすことである。これを広辞苑を始めとする一部の辞書は、「いろいろな意見が出て収拾がつかないこと」という、前二者の意味とは少し異なる語義をあげている。
- ×食指を伸ばす - 食指を動かす+触手が伸びる
- 「食指を動かす」は、関心を持つ、興味を抱くの意。
- ×的を得る - 的を射る+当を得る
- 弓道から起こった言葉なので「射る」が正しいとされるが、「射る」は矢を放つ行為・「得る」は命中した結果を示しているとして「的を得る」を誤用としない説もある。しかしこれについては、通常使用する場合は「的を射た」と過去形になるため「的に命中させた」という意味を持つ、という反論もある。小学館・日本国語大辞典12巻には誤用ではない用法として収録されている。さらに(白川静『字通』平凡社)では得るには当たる、の意があり漢文や日本の古典から近代文学において用例をあげている。
- ×自己撞着 - 自己○○という熟語+撞着
- 正しくは自家撞着で、これで一つの成句となっており、「自分の言動などが後になって食い違ってくること」という意味である。
- ×離発着 - 離着陸+発着
- 航空機の離陸および着陸と、乗り物の出発および到着とを混交した表現。
- ×怪談話 - 怪談+話
- 「談」という一字に、既に「物語」の意味がふくまれているため、重複表現となる。
- なお、「縁談話」といった応用例も見受けられる。この場合は上記の例とは違い、別の語義が付加されている。
[編集] 勘違い
- 偽善者ぶる
- 偽善者のふりをする、偽善者の真似事をする。→偽善者がその通りの偽善行動をとる。「ぶる」は先述のように「ふりをする、真似をする」という意味であり、偽善者本人に対し用いるのは誤り。あえて正しい表現をとるとすれば「善人ぶる」であろう。
- 馬の骨
- 「馬の骨」とは、現代では素性の知れない者、いわゆる「ぽっと出」を侮蔑する言葉であるが、本来の意味は血統、出処、転じて家系の意。意味の誤用が定着した言葉で、成句「どこの馬の骨とも知れない」から「馬の骨」の意味を類推したものか。
- 奇特
- 大いに感心すべきである。殊勝なことである。→(1)変わっている。変人のようである。(2)物好き。好事家であるさま。
- 気前がいい
- 金や物を出し惜しみしない。けちけちしない。→金銭的・物的な余裕は無いだろうにやたら奮発するものだと勘繰り、揶揄する言葉になった。
- 頭が切れる(キレる)
- 頭脳明晰であること。“快刀乱麻を断つ”と同義。→衝動的な行動に走ること。または、カッとなること。
- 逆鱗に触れる
- (竜の顎の下にある、一枚だけ逆さに生えた鱗に触ると、必ず人を殺してしまう意から)(普段は温厚を以って知られる)目上の者を激怒させる・相手の癪に障る行為をする。→目上の者の勘気を被ること。また「私の逆鱗に触れました」との記載も誤用である。
- けじめ
- 物と物の間の境の意から、道徳や規範によって行動・態度に示す区別、節度ある態度を言い、「けじめを食う」というのは他のものと比べて冷遇される意。→あらゆる場面で、面目を汚したり、裏切ったり、不祥事を起こしたりした者に対して懲罰または制裁を与えること。暴走族や暴力団、右翼・極左団体などの反社会分子の中で隠語的に用いられることが多い。
- お気に入り
- お気に入りとは相手が気に入っていることに対し、その「お気に召されている」様子を丁寧語で呼んでいるものであり、自分に対して使う言葉ではない(ドラマタイトルにもなっている「先生のお気に入り」が正しい用法)。
- 黒一点
- 「紅一点」とは、沢山の緑の葉のなかに一輪の赤い花があること。転じて、男性グループの中にひとりいる女性を指す。しかし逆に、女性グループの中にひとりいる男性を指して「黒一点」ということがある。
- 姑息
- 一時凌ぎをすること。また、その様。(用例: 姑息的治療)→×卑怯・卑劣なこと
- こだわる
- ちょっとしたこと、些細なことを必要以上に気にする。拘泥する。→妥協しないでとことん追求する。明鏡国語辞典など一部の辞典では新しい用法として記載されている例もある。
- 賛否両論
- 賛成と否定に意見が分かれること。→「非難囂々」と混同して使われる。
- せっかん(折檻)
- もともとは引き離されてようとしても必死に抵抗し、つかんでいた檻(手すり)が折れるほどの強い決意を持って戒めることをいった。
- 輩出
- 優れた人材が続々と出てくること。→×一人や二人ぐらいでは、どんな優秀な人材でも輩出とは言わない。
- 乱入
- 大勢がその場所に押し入ってくること。→×一人ぐらいで乱入と呼ぶのは適切ではない。
- 毒婦
- 悪い女性。→毒殺する女性。
- なし崩し
- 「済(な)し崩し」で、こまごまと返済すること、借金を少しずつ返すこと。「問題をな(済)し崩しにする」は「問題を少しずつ解決する」の意。→曖昧なうちになかったことにすること。または、善からぬことが漸増すること。
- 耳障り
- うるさいこと。→聞いたときの感じ。聞き心地。「手触り」「肌触り」と同様に「耳触り」として用いられている。
- 妄想
- あり得ないことを考えること。考えたことを事実だと信じ込むこと。→頭の中で色々と想像すること(空想、夢想)。
[編集] 語源の誤解
- あまっさえ
- 「あまっさえ」とは「余りさえ」の促音便である。これを「あまつさえ」と「つ」の字を大きく書くことがある。現代仮名遣いでは促音の「つ」を必ず小さく書かなくてはならないとは定めていないので、この表記自体は誤りではない。つまり、「あまつさえ」と書いて「あまっさえ」と読ませる分には誤りではないが、他の箇所で促音の「つ」を小さく書いておいて「あまっさえ」の「つ」だけを大きく書くのは統一に欠ける。また、口頭での発音において「あまつさえ」の「つ」をカツオのツのように発音するのは語源から考えれば誤りである。
- 書き入れ時
- もと商人言葉。帳簿に儲けを「書き入れる」ことの意から、もっとも繁盛する時期。→×利益を「掻き入れる」と勘違いされた結果、当用漢字にない「掻」が仮名書きになった。
- 皮切り
- 最初に据えるお灸の意から、物事の手始め。→×妊婦が最初の赤ん坊を生むとき、腹の皮が切れるような痛さで苦しむことと誤解している[要出典]。
[編集] 不適切な敬語表現
[編集] 「あげる」の誤用
ここで扱う「あげる(上げる)」は、
- 神仏や敬うべき人などにある行為がなされる。
- 「与える」「やる」を、その相手を敬っていう語。
- 動詞の後に付いて(「・て-」の形で)主体が動詞の表わす行為を他者に対し恩恵として行なう意を示す言い方を作る。「てやる」の丁寧な言い方。
である。したがって、(3)によれば、目下・目上に関わらず他者に対して恩恵として行なう意で使う用法があるのは辞書の認めるところである。しかし、人間以外の生き物や物質(有機物・無機物)に対して用いるのは相応しくない。
一方では、「八百万の神」に表されるように、森羅万象あらゆるものに神性を見いだし敬い尊ぶという日本人の心性からすれば、動植物や無機物に対して「あげる」という表現は許容されるとの意見もある。また、極端な階級社会であった頃の日本を連想させるとして「やる」という言葉自体を嫌って使わない態度も一部の人々には見られる。
桃太郎の唱歌に「やりませう、やりませう」とあるのは猿や犬に対するものなので、前者に照らせば全く正当なのだが、幼稚園などではかなり以前から「あげましょう、あげましょう」とわざわざ「誤った」表現に改変して教えている。しかし、後者の意見を採れば幼児期の情操教育という面からはふさわしい改変であるとも言える。
- 動植物を対象とした「誤用」
-
- 犬(猫)に餌をあげる→やる
- 花に水をあげる→やる
- 動物や植物であっても命あるものは尊いという考えに基づけば誤りとは断定できない。
- 物を対象とした誤用
-
- ×大根は細く切ってあげましょう。→○切っておきましょう(切りましょう)。
- ×ここに線を引いてあげる→○ここに線を引く
- ×お肌に塗ってあげる→○肌に塗る
[編集] 誤った敬語表現
- ×おめでとうございました。→おめでとうございます。
祝福すべき現状がそこに起きているのだから、過去に遡ってのことであっても過去形にするのは不適切である。もっとも、昨日今日生じた「誤った敬語表現」ではなく、戦前にも次のような例がある。
それを踏まえた上でユーモアとして使う事もある。例として親しい友人の誕生日を忘れてしまった時、後日あえて「おめでとうございました」と言ったりである。
似たような意味合いで、接客マナーとして、清算を済ませた客との継続的な関係性を表現するために、「ありがとうございました」ではなく「ありがとうございます」で統一させる業種もある。
ただし、接客の場面でも、あるいはそれ以外の場面でも、文学作品では以前から「ありがとうございました」が普通に見られる。
- ×(肉親以外の人物に対して自分の父親について)お父様はいま外出していらっしゃいます
- →父は外出しております
自分の肉親について他人に語る際に尊敬語を使うのは、他人に自分の肉親に対する敬意を強要することになり、礼儀に反する。「お兄ちゃん・お姉ちゃん」「兄貴・姉貴」「親父」「おふくろ」なども同様に不適切。
これは礼儀の問題であって文法の問題ではない。例えば、太宰治『斜陽』は語り手が自らの母親について語る形で記されているが、全文これ母親に対する尊敬語の連続である。[13]。
- 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」 と幽かな叫び声をお挙げになった。(太宰治『斜陽』冒頭。改行省略)
- ×お宅の長男はもう高校に進学するんですか。→(一番)上の息子さん、名前が分かっているのなら「○○君」とすべき 「御長男」とも
他人の身内を呼び捨てにするのはマナーに反する。他人の両親に対して「×あなたの父(母)はお元気ですか」というのも問題外で「(お)父(母)上は―」が正しく、文語表現を使う人になると「ご母堂」「ご尊父」も。
男子を「○○君」、女子を「○○さん」と区別して呼ぶことについても誤用だと指摘する人もいる。つまり学生は教師からみて「目下」で、クラスメイト同士は「対等」であるため、男女とも「○○君」で呼ばれるのが正しい [14]。
- ×ご苦労様です→(他の然るべき表現へ)
江戸時代や明治時代にはご苦労様は目上の人に言う言葉だった。
- ×社長さんはいらっしゃいますか。→単に「社長」でよい
これは敬称の重複。「社長」「部長」「専務」等の肩書きはそれ自体が敬称であり、「さん」を付けるのはむしろ軽蔑に当たる。
同様の理由から、逆に自社の社長を「社長」「○○社長」と呼ぶのは取引先や顧客に対しては失礼に当たる。「○○」「社長の○○」とするのが正しい。
なお、他社の肩書きを持つ人に言及するときは、「社長さん」「部長さん」のように「さん」をつけたほうが丁寧だと考える者も少なくない。
- △確認していただけないでしょうか。→確認して下さい(確認をお願いします、ご確認下さい)。
「~してください」という表現を使うことで相手に「君はわたしに指図するつもりか」と思われたくないので、深慮遠謀で左記の方が無難と感じることはあろう。だが、もし相手が嫌だと断わったら取り下げるわけにいかない事情があり、なおかつより丁寧に頼む場合は()内を使うべきだろう。
- ×とんでもございません(とんでもありません)。→とんでもない(とんでものうございます・とんでもないことでございます)。
「とんでもない」は、「とんでも」+「ない」の2文節ではなく、「あぶない」「つたない」等と同様に、「~ない」で終わる一つの形容詞である。したがって、「ない」の部分のみを取り出して「ありません」や「ございません」に置き換えるのは、「*あぶありません/*あぶございません」「*つたありません/*つたございません」が奇妙で意味不明の言葉に聞こえるのと同じく文法的に誤った操作である。
昨日今日使われ始めた表現ではなく、例えば、昭和2年発表の宮本百合子『海浜一日』にも「とんでもございません」が見られるし、昭和8年に没した宮沢賢治による『月夜のけだもの』には「とんでもありません」が見られる。
- ×宛名書きにおける先生様表記。→職名をつけて「先生」または「様」のいずれかで十分だが、付け加えるならば「先生机下」。
教師や教授、士業の人物・医師・代議士宛などの手紙に見られるが、敬称を重複させるのは誤用。二重敬語そのものは古くから見られる表現技法だが、現代では過剰と見なされることが多い。
- ×二人称の僕(ぼく)→君(きみ)
本来は下僕の意であり、自分のことを指す謙譲語だが、転じて小さな子供のことを指し、名前の判らない子供に話しかける際の二人称となった。目下が相手とはいえ、例えば実際に親がいる前でこう話しかけるのは失礼である。
[編集] 混用しやすい言葉
[編集] 意味に関するもの
- 「嬉しい」か「喜ばしい」か
- 「嬉しい」は、望んでいた事態が実現して、心がうきうき、晴れ晴れとして楽しいことであり、「喜ばしい」とは愉快であること、満足すべきであること、喜ぶべきであることの意である。どちらも意味としては同じであるが、客観的または全体的な喜びである場合は両者とも用いられるものの、その逆、すなわち個人的または主観的な喜びを示す場合は「喜ばしい」とは言わない。
- 「おざなり」か「なおざり」か
- 「御座なり」とは芸者がお座敷毎の格に合わせることであり、「等閑」とは心を込めず、雑にすること、手付かずのまま放ったらかすことである。どちらも「いい加減な、ぞんざいな」という意味では奇しくも似ているので誤解しやすい。
- 「おざなり」と「なおざり」の混交した「おなざり」という新語を作り、使用している[要出典]人もいる。
[編集] 連濁に関するもの
ここでは、間違えやすい清音・濁音・半濁音などの表現(連濁)について挙げる。
- おんぼろ車 - ○おんぼろぐるま ×くるま
- 漫画本 - ○まんがぼん ×ほん
- 舌鼓 - ○したつづみ ×したづつみ
- 狸のはらづつみなどと言ってしまう。いずれも鼓(つづみ)の意味であるから誤用
濁音が前のほうが言い易いため普及したと考えられる。
このほか、「~ぐらい」と「~くらい」などの混用が目立つ。
[編集] 同音異義語
「同音異義語」とは、発音が同じで意味の異なる言葉のこと。
- 「特長」か「特徴」か
- 「特長」とは、特に秀でている点、すなわち長所の意であり、「特徴」とは良きにつけ悪しきにつけ、そのものが持つ特有の性質、すなわち特色の意である。
[編集] 文字の見間違いによるもの
- ○丁字路→×T字路
- 漢字の「丁(てい)」が正しい。T字路も慣用的に使用される。
[編集] 接頭辞・接頭語
[編集] 否定を表す語
漢字語で否定を形成する場合、
- 不(~セズ/~しない、動詞)
- 非(~ニアラズ/~ではない、名詞)
- 無(~ナシ/~が無い、抽象名詞)
- 未(イマダ~セズ/まだ~していない、動詞) いずれは行なわれる可能性を含む場合に使われる。
- (漢文訓読/意味、主に続く品詞)
がそれぞれ適切に使われてきた。
古くから慣用化されている語ではそのまま使い分けられているものが多いが、最近ではこれらが混同されてしまい、何でも感覚的あるいは熟慮せずに付けてしまうことが多い。例えば洗米する必要のない米を「無洗米」と呼んでいるが、これを字義的に解釈すると「洗った米が無い」という意味になってしまう。「無」は名詞の前に付ける否定語だからである。また、確かに間違いではないが状況に合わせた使い分けがなされないことも多々ある。
[編集] 超の濫用
「超」は「超過」「超越」の熟語が示す通り定義範囲(上限)からの逸脱を示す字であり、「~すぎて最早~とはいえない」の意で、特性の突出とカテゴライズの否定を同時に表す。したがって超えるべき上下限がそもそも想定できない多くの形容について、この字は本来添えることが出来ず、名詞に付加することで、(元来)存在しない上位カテゴリを指し示すのが正しい使い方である。すなわち「超人」は「もはや人とはいえない存在」で「人」ではなく、「超特急」は「特急を超える速度の列車」であって「特急」ではない。またここで「特急」は「特別に急ぐ」という形容ではなく、「特別急行列車」というカテゴリをあらわしていることを理解するのが肝要である。同様に「超ヘビー級」「超高層ビル」「超豪華客船」「超合金Z(架空の合金)」などの語の成り立ちは「超・ヘビー級」「超・高層ビル」「超・豪華客船」「超・合金Z」である。これを「超ヘビー・級」「超高層・ビル」「超豪華・客船」「超合金・Z」と誤解した者等が、誤って形容の強調と認識した部分を独立で使用することにより、「超」の誤用例が広まった。
この誤用はNHK教育の番組「ことばおじさんのナットク日本語塾」での調査によれば、1970年代に静岡県で使われ始めたとされている。
ただし、何らかの概念を超えているという意味の他にも、「非常に~である、抜きん出て」という意味も辞書によっては載せられている。
ちなみに「超新星」は、恒星が一生を終えるときに大爆発を起こすことである。「超」を取った「新星」は天文学的には「新しい星」を指すわけではない。「新星」を「新しい人気俳優」の意味で使うのは正しい用法だが、さらに「超」をつけて意味を強調し、「×期待の超新星」と誤用する例がある。
[編集] 接尾辞・接尾語
- 的
- 「現実的」「理想的」などと現代の日本語で多用される「的」という接尾辞は、比較的新しいもので、英語の"-tic"の訳語として明治時代から急速に普及したものである[15]。明治期から濫用が目立つ。「わたし的には…」「気持ち的には…」のような用法が新しいものとして話題になることがあるが、そもそも「的」という接尾辞自体新しいものである。
- 感
- 「感」は「違和感」「透明感」など、「~のような感じ」を表わす接尾辞である。本来は漢語の後に付くのが基本であり、和語などにつけるのは相応しくない。
- 力
- 「鈍感力」「老人力」など、2007年頃から何にでも「力」をつける語が現れ始めた。甚だしい例はマイクロソフトの「社員力」「経営力」である(経済産業省でも「経営力」を用いている)。
[編集] 助数詞の誤用
助数詞とは、事物の数量を表す時に用いる語。古来不変のものではなく、現在使われている助数詞の多くは中国語から採り入れられたものである。音読みの語は漢字伝来前には存在し得ないので、頭・匹・人(にん)・杯・膳など音読みの助数詞は日本古来のものではない。
- 動物(ペット、家畜、野獣)の数え方で、どこまでが「1匹」でどこからが「1頭」なのかがあやふやなままで覚えている人が多い。大きい動物を頭で数えるのは英語で ten head of cattle (牛十頭)などとすることの影響であり、明治以前には大きな動物も匹で数えていた。「一匹狼」のような慣用表現は匹で数えていた名残であるが、現在では大きい動物は頭で小さい動物は匹で数えるという使い分けがあるので、「×子犬が1頭」という使い方はしない。ウサギは哺乳類であるものの「1羽」という数え方である(鵜+鷺にちなむという説と、獣肉食が許されない時代に獲って食べていた人々の呼び方の名残りとする説がある)が、しばしば「1匹」と誤って数えられる。魚は「1尾」という数え方が正しく、「1匹」とするのは俗な数え方である。イカ(烏賊)は、生き物としての場合は「1匹」であるが、料理の場合は「1杯」と数える。もっとも、これらの助数詞の故郷である中国ではまた違う使い分けが「正しい」とされている。
- 数え年より学年(早生まれか遅生まれか)を重視して「彼は僕より1個下なんだよ」とする「個」の誤用例がとりわけ若者に多い。また、袋入りやパック入り、箱入りの商品、もしくは豆腐(正しい数え方は「1丁」)など数え方が決まっているものに対して、「1個」と数えるのは、いずれも一考の余地がある。※ちなみに、年齢を含めて日本古来の数え方である「~つ」ならば問題はないが、1から9までしかない。10は「とお」で、それ以降は「じゅういち、じゅうに」と数える。0というのはかつて日本の数学上存在しなかったようである。
- 多くの人が誤る例として、箪笥を「1セット」(正しくは「1棹」)と数えることなどがある。また、箸の数え方が「1膳」であることは若い人に限らず忘れられつつある。
[編集] 誤用・乱用しやすい言葉
[編集] 「とんでもない」
以下に示すような誤用が見られる。
- とんでもありません、とんでもございません
- 上記『誤った敬語表現』を参照。
- とんでもないです
- 「とんでもないです」の他、「危ないです」「美しいです」などを含めて形容詞に「です」を直接接続させたもの全般が誤りとされることがある。かつては一般的に誤用とされていたが、終戦直後に国語審議会は許容してよいとした。しかしながら現在においても、誤用とする考え方も根強い。より間違いのない表現は「とんでもないことです」。
[編集] 「~みたいな」
形容動詞「みたいな」は、「~(を)みたような」が変化したもので、
- ある物事に近い様子。
- 例示の意を表わす。
- 不確実なことを推量する場合や、事柄をぼかす場合に使われる。
[編集] 「違(ちが)かった」
動詞(ワ行五段活用)である「違い」が「暑い」「寒い」と同様に「い」が付く為に、形容詞と混同されたもの。挿入された“か”が余計。
[編集] 脚注
- ^ 誤用は、言語学上の概念ではない。記述的な言語学では言語の運用について、正誤の判断をしない。しかしながら、一般的には日本語に正用・誤用があるとするのが適当である。
- ^ 三省堂「大辞林第二版」
- ^ 三省堂「大辞林第二版」
- ^ 三省堂「デイリー新語辞典」
- ^ 一体生徒が全然悪るいです。(夏目漱石『坊つちやん』1906年)
- ^ 以上勧告に対しクロフタ外相は全然その趣旨に賛成である旨答へた模様で、…(『東京日日新聞』1938年)
- ^ 1993年にNHK放送文化研究所が実施した「全然お得です」をおかしいと感じるかどうかの調査で最も「おかしくない」と回答したのは、若者世代ではなく戦前生まれの世代であった。
- ^ 「日本語力検定クイズ」P.132 太田美代 秀和システム
- ^ 「現代ニホン語楽苦書帳」P.80 宇野尚志 文芸社
- ^ NHK放送文化研究所 現場の疑問Q&Q「弱冠18歳」[1]
- ^ 川畑英毅『この日本語の意味がわかりますか?』PHP研究所、P.29。但し由来については異説あり。007 ロシアより愛をこめて#タイトル参照
- ^ 「劣勢を挽回」は「大辞林 第二版」で挽回の項に使用例がある。頽勢・退勢も挽回と続くことがある(「日本国語大辞典第2版」、小学館、に2例が記載されている)。「現今の頽勢(タイセイ)を挽回しようとしてゐる人はある」森鴎外『かのやうに』(1912年)。
挽回、汚名、名誉などがつく言葉のうち、名誉挽回、汚名挽回、劣勢を挽回、退勢を挽回、はいずれも広辞苑第四版には載っていない。あるのは名誉を挽回する、汚名をそそぐ、汚名返上。また、同第6版では、汚名の項に汚名返上、名誉の項に名誉挽回が載っている。 - ^ 直接に両親に話しかける場合は、いわゆる敬語を使っていた時代があった。小津安二郎の映画ではそのような言葉遣いである。
- ^ 実際には「さん」に統一することも行われている(参考:男子も「さん」で... 「君」廃止、学校で広がる)。 そこで学校では教師が生徒を呼ぶ場合、現在3通りがみられる。生徒の男女に関わらず「○○君」と呼ぶ。女子生徒は「○○」さん、男子生徒は「○○」君。男女に関わらず「○○」さん。最初のものは年配の男子教員に多いが、現在ではまれである。2番目のものが一般的である。3番目のものは、年齢によらず女子教員が使うことがある[要出典]。上記によればあらゆる教師がこれを使いうる。学校の例ではないが土井たか子が衆議院議長になった際には慣例を破り、議員を「○○さん」と呼んだ。
- ^ http://ci.nii.ac.jp/naid/110000479907/
[編集] 参考文献
- 「大辞泉」(小学館)
- 「大辞林」(三省堂)
- 「問題な日本語」「明鏡国語辞典」(大修館書店)
- 「漢字に強くなる本」(光文社)
- 「NHKことばのハンドブック」(NHK出版)
- NHK放送文化研究所『ことばの研究』

