フリスト・ストイチコフ
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2012年 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | イッツォ (Itso)[1] | |||||
ラテン文字 | Hristo STOICHKOV | |||||
ブルガリア語 | Христо Стоичков | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブルガリア | |||||
生年月日 | 1966年2月8日(58歳) | |||||
出身地 | プロヴディフ | |||||
身長 | 178cm[2] | |||||
体重 | 73kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1976-1982 | FCマリツァ・プロヴディフ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1982-1984 | FCヘブロス | 32 | (14) | |||
1984-1990 | CSKAソフィア | 119 | (81) | |||
1990-1995 | FCバルセロナ | 151 | (76) | |||
1995-1996 | パルマAC | 23 | (5) | |||
1996-1998 | FCバルセロナ | 24 | (7) | |||
1998 | CSKAソフィア | 4 | (1) | |||
1998 | アル・ナスル | 2 | (1) | |||
1998-1999 | 柏レイソル | 27 | (12) | |||
2000-2002 | シカゴ・ファイアー | 51 | (17) | |||
2003 | D.C. ユナイテッド | 21 | (5) | |||
代表歴 | ||||||
1987-1999[3] | ブルガリア | 83 | (37[3]) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2007 | ブルガリア | |||||
2007 | セルタ・デ・ビーゴ | |||||
2009-2010 | マメロディ・サウダンズ | |||||
2012-2013 | リテックス・ロヴェチ | |||||
2013 | CSKAソフィア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
フリスト・ストイチコフ(Христо Стоичков, Hristo Stoichkov, 1966年2月8日 - )はブルガリア・プロヴディフ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
1990年代にFCバルセロナの中心選手の一人としてリーガ・エスパニョーラ優勝などに貢献[4]。ブルガリア代表としても1994年に行われたワールドカップ・アメリカ大会において6得点を挙げ得点王となり同国のベスト4進出(最終成績は4位)に貢献し[4]、バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞。現役引退後はブルガリア代表などで監督を務めていた。
生い立ち
ブルガリア中部にあるプロヴディフ州の州都プロヴディフで生まれる。幼少の頃から活発な性格で、勉強は得意ではなかったが運動能力に恵まれ、小学生時代には陸上競技の学校代表に選ばれ、100m走でブルガリアのチャンピオンとなった経験を持つ[5]など当時ストイチコフを指導した教師から「世界的な陸上競技選手になる」と太鼓判を押されたほどだった[5]。また陸上競技だけでなく、サッカーやボクシングなど様々なスポーツに親しんでいた[6]が、10歳の時に地元のサッカークラブでFCマリツァ・プロヴディフのスカウトに勧誘されて同クラブの下部組織に入団し本格的にサッカーを始めることになった[6]。
クラブ経歴
CSKAソフィア
1982年にFCヘブロスに入団しキャリアをスタートさせると、1984年に国内の強豪クラブであるCSKAソフィアに移籍。1984-85のシーズンのブルガリア・カップ決勝のレフスキ・ソフィア戦は乱闘騒ぎや退場者を出すなど荒れた展開となり[7]、後に8人の選手が「コミュニストのモラルに反する行為」として出場停止処分を受けたが[7]、この中にストイチコフの名前が含まれており乱闘騒ぎに加わったCSKAの選手の中で唯一人永久追放処分を受けることになった[7]。
10か月後に処分が解除されるとチームに復帰を果たし、ディミタル・ペネフ監督の下でレギュラーに定着。CSKAではリーグ優勝3回(1987年、1989年、1990年)、カップ優勝4回(1985年、1987年、1988年、1989年)、スーパーカップ優勝1回(1989年)、個人としても国内リーグで1988-89シーズンに23得点、1989-90シーズンに38得点を挙げ2年連続で得点王を獲得し1989-90シーズンにはヨーロッパのリーグでの最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を受賞した[8]。
国際試合では1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップで準決勝進出し貢献。準決勝ではスペインのFCバルセロナに敗れたものの、この時のプレーぶりがバルセロナの監督を務めていたヨハン・クライフの関心を集め、1989年夏に両者間の話し合いが行われ移籍金450万ドルの5年契約で移籍に合意した[8]。しかし当時24歳だったストイチコフの移籍に関してブルガリア政府は難色を示し「年齢が若いため国外でプレーすることを認めない」として許可は直ぐには与えず[9]、「国外でプレーするには下部組織で2年間、プロで5年間の期間を全うする」との政府の条件を飲み[10]、バルセロナへの移籍を1年先延ばししてCSKAでプレーをすることになった[10]。
FCバルセロナ
1990年夏にFCバルセロナへ移籍。ストイチコフを獲得した理由についてクライフは「我々のクラブにテクニシャンは大勢いるが、彼のような強い個性とアグレッシブさを持ち合わせる選手を必要としていた」と語っている[11]。同年12月5日に敵地で行われたスーペルコパのレアル・マドリード戦で不利な判定を受けたことで主審に抗議し退場処分を受けたが、この判定に怒りを露わにし審判の脚を踏みつける報復行為を行ったため物議を醸した[12]。この審判への暴力行為に対し6か月(後に2か月に免除)の出場停止処分を受けた[12]。
処分が明けるとスタメンに復帰を果たしミカエル・ラウドルップやロナルド・クーマンらと共に6年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌1991-92シーズンにはミシェル・プラティニの紹介によりフランスのパリ・サンジェルマンから同シーズン終了後の移籍に関する好条件のオファーを受け仮契約を結んだが[13]、リーグ戦でのレアル・マドリードとの優勝争いの末に最終戦で連覇を決めると「サポーターの気持ちを裏切る事は出来ない」と残留を決意[13]。同年5月のUEFAチャンピオンズカップ決勝ではイタリアのUCサンプドリアを延長戦の末に1-0で下しクラブの初タイトル獲得に貢献した。また1992年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の選考では同賞の受賞は成らなかったもののオランダのマルコ・ファンバステン(98票)に次ぐ得票を獲得し(80票)2位に選ばれた。クライフは当時を振り返り
CSKAでの彼はミッドフィールダーであり2列目から前線に飛び出して得点を狙うプレーを好んでいたが、バルセロナ移籍後は彼の素質を伸ばすように、左サイドのフォワードにコンバートしゴールに近い位置でプレーをさせ、それまでより短いスタンスでシュートを決めるように指導した。またCSKAではスター選手であり高慢な態度が目立っていたがバルセロナでは選手を特別扱いはしない。彼は短気な性格かつ頑固で自分のスタイルを守ろうとしたが、やがて私の教えに従った。 — ヨハン・クライフ
と語っている[14]。
1992-93シーズンにはブルガリア代表の試合との兼ね合いからクラブとブルガリアサッカー連盟の間のトラブルに巻き込まれ[15]たこともあり、一時期スランプに陥った[15]。リーグ戦は前シーズンと同様にレアル・マドリードとの優勝争いとなったが最終節のレアル・ソシエダ戦で決勝点を決める活躍で3連覇に貢献[15]。1993-94シーズンにブラジルのロマーリオが加入。チームに所属する外国籍選手はストイチコフ、ラウドルップ、クーマンの4人となり誰が試合に出場し誰が控えに回るのかが焦点となったが、ストイチコフはポジションを獲得しロマーリオとのコンビで攻撃陣を牽引[16]。リーグ戦ではデポルティボ・ラ・コルーニャとの優勝争いに競り勝ち4連覇を達成した。クライフ監督に率いられた当時のチームの通称「エル・ドリーム・チーム」はクラブの歴史上でも最も強いチームの一つと評され[17]、ストイチコフ自身もバルセロナサポーターの人気を獲得した[18]。
1994年にブルガリア代表での活躍(後述)もありバロンドールを受賞したが、その一方で監督のクライフとの関係に亀裂が生じるようになり[19][20]、ラウドルップとアンドニ・スビサレッタを放出し、クライフの息子であるジョルディ・クライフをレギュラーに登用したことなどを公然と批判した[20]。1995年3月に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95準々決勝でパリ・サンジェルマンに敗れると、ストイチコフは「私を採るのか、クライフを採るのか」とアピールし解任を求める行動を起こした[21]が、ファンやクラブ幹部の支持を得ることは出来なかった[21]。
その後
1995年夏にイタリアのパルマへ1500万ドルの金額で移籍[18]。翌1996年にクライフ監督が健康上の問題により退任しボビー・ロブソンが監督に就任したこともありバルセロナに復帰[18]。1996-97シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは決勝でフランスのパリ・サンジェルマンFC下しタイトル獲得に貢献した。しかしロブソンが1シーズン限りで退団し、翌1997-98シーズンにルイ・ファン・ハールが監督に就任すると出場機会を失い、古巣のCSKAソフィアやサウジアラビアのアル・ナスルへレンタル移籍をした[18]。
1998年にJリーグの柏レイソルへ移籍。2000年からはアメリカ合衆国のメジャーリーグサッカー (MLS) のシカゴ・ファイアーへ移籍し、同年度の優勝を決めるMLSカップに進出し準優勝に貢献。2003年に同じくMLSのD.C. ユナイテッドへ移籍してアシスタントコーチ兼選手を務め、シーズン終了後の同年12月に現役を引退した[4]。
引退試合は2004年5月にバルセロナの本拠地であるカンプ・ノウで行われ、往年のエル・ドリーム・チームの一員としてボビー・ロブソンとディミタル・ペネフの率いる世界選抜と対戦[22]。ストイチコフは開始10分間に2得点を挙げ自らの引退の花道を飾った[22]。
代表経歴
ブルガリア代表としては1987年9月23日に行われたUEFA欧州選手権1988予選のベルギー戦でデビュー[3]。翌1988年1月22日に行われたカタールとの親善試合で代表初得点を決めた[3]。
1994年に開かれたワールドカップ・アメリカ大会ではクラシミル・バラコフやヨルダン・レチコフらと共にチームを牽引[23]し、グループリーグ3試合で3得点を挙げ2位で決勝トーナメントへ進出。同1回戦でも自ら1得点を決めるとPK戦の末にメキシコを下し準々決勝へ進出。準々決勝では前回優勝国のドイツとの対戦となったが、この試合では、75分に1-1の同点に追いつくフリーキックを決め勝利に貢献し[23]、ワールドカップの歴史において1962年チリ大会、1966年イングランド大会、1970年メキシコ大会、1974年西ドイツ大会、1986年メキシコ大会と過去5回出場しながら16試合で6引分け10敗と1勝もあげることが出来なかった[24]同国を初のベスト4進出に導いた。ストイチコフは準決勝のイタリア戦でも1得点を決め大会通算6得点を挙げ、ロシアのオレグ・サレンコと共に大会得点王になった[23]。ストイチコフは当時を振り返り
ワールドカップでの1か月間は仲間たちと素晴らしい時間を過ごした。私が得点王を獲得できたのは彼らの献身的なハードワークがあってのものだった[23]。 — フリスト・ストイチコフ
と語っている。
1996年のUEFA欧州選手権1996では3得点を挙げたもののグループリーグ敗退に終わり、ペネフ監督の退任やブルガリアサッカー連盟の内紛に抗議して代表参加をボイコット[25]したが1年後、ペネフの後任のフリスト・ボネフの説得により代表チームに復帰[25]。1998年のワールドカップ・フランス大会に出場したがグループリーグ敗退に終わり、1999年6月9日に行われたUEFA欧州選手権2000予選のイングランド戦を最後に代表から退いた[3]。ストイチコフは国際Aマッチ83試合に出場し37得点を挙げた[3]。
指導者経歴
2004年7月15日、UEFA欧州選手権2004終了後に辞任したプラメン・マルコフの後任としてブルガリア代表監督に就任。成績不振により辞任。2006 FIFAワールドカップへの出場を目指すが、同年9月から始まった欧州予選ではスウェーデンに連敗を喫し、クロアチアに1分1敗と負け越すなど4勝3分け3敗、勝ち点15の成績で予選敗退。ワールドカップ出場を逃したことで多くの批判を浴びた[26]。
続くUEFA欧州選手権2008予選でも指揮を執ったが、2006年10月13日に主将のスティリアン・ペトロフが「ストイチコフの下ではプレーする意思はない」と代表チームからの引退を発表[27]。2007年3月28日にホームのソフィアで行われたアルバニア戦で0-0と引き分け、2勝3分けの成績となりグループ3位に後退すると再び批判を受けた[26]。ブルガリアサッカー連盟 (BFU) は、同年4月10日にストイチコフから口頭で辞意が伝えられ承認したことを発表した[26]。
同日、スペインのセルタ・デ・ビーゴの新監督就任[26]。就任時に降格圏内の18位にいたセルタはその後も成績が上昇せず、2部リーグへの降格が決まったがクラブはストイチコフの続投を発表した[28]。しかし2部リーグでも11位と低迷を続けていたこともあり同年10月8日に監督を解任された[29]。
2009年6月29日、南アフリカ共和国のマメロディ・サウダンズの監督に就任し、翌2010年まで指揮を執った[30]。
2012年1月、母国のリテックス・ロヴェチの監督に就任[31]。
2013年6月、古巣CSKAソフィアの監督に就任[32]。だが2013年7月8日に退任した。
人物
左足での正確なプレースキックとスピードを生かしたドリブル突破が特徴[33][34]。身体能力が高く緩急を自在につけることで相手守備陣のリズムを狂わせ[35]、また味方を生かすアシスト能力、ペナルティエリア内での得点能力を持ち合わせており、様々な攻撃的なポジションをこなすことが可能だった[36][35]。一方でバルセロナ時代の監督だったクライフはストイチコフのプレーを評価しながらも[37][38]、左足だけでしかプレー出来ない問題があり、選手として限界があったと指摘している[38]。
欧州サッカー連盟 (UEFA) 創立50周年を記念して2004年に開催されたUEFAジュビリーアウォーズの際にはブルガリアサッカー連盟により過去50年間(1954年-2004年)におけるブルガリア最優秀選手に選ばれた[39]。また1999年にはワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で48位に選出。2004年3月にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』 (FIFA100) にブルガリアから唯一選出されるなど同国最高の選手と評されている[25]。
感情の起伏の激しい人物としても知られる[14]。審判の判定に執拗に食い下がり抗議する場面がしばしばみられ、時には退場処分を受けることもあった[34]。メディアでは「審判の敵」として扱われることが多く、その言動は物議を醸した[40]が、バルセロナ時代のチームメイトだったラウドルップはストイチコフの人物像について
彼は他人には理解出来ない特異な個性の持ち主だ。感情を爆発させたかと思えば物事を引きずらず悪いことは直ぐに忘れる。子供のように素直な人だ[41]。 — ミカエル・ラウドルップ
と語っている。またカタルーニャ州やFCバルセロナへの愛着から[42]、ライバルクラブであるレアル・マドリードに対する批判をたびたび繰り返している[43]。
個人成績
クラブでの成績
2003年シーズン終了時の成績[2][44][45][46]
クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグ杯 | 国際大会 | 通算 | |||||||
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シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1982-83 | ヘブロス | B PFG | 11 | 4 | - | 0 | ||||||
1983-84 | 21 | 10 | - | 0 | ||||||||
1984-85 | CSKAソフィア | A PFG | 11 | 0 | - | 0 | ||||||
1985-86 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |||||
1986-87 | 25 | 6 | - | 0 | ||||||||
1987-88 | 27 | 14 | - | 0 | ||||||||
1988-89 | 26 | 23 | - | 7 | ||||||||
1989-90 | 30 | 38 | - | 2 | ||||||||
1990-91 | バルセロナ | プリメーラ | 24 | 14 | 6 | 2 | - | 8 | 5 | 38 | 21 | |
1991-92 | 32 | 17 | 2 | 1 | - | 9 | 4 | 43 | 22 | |||
1992-93 | 33 | 20 | 6 | 2 | - | 6 | 2 | 45 | 24 | |||
1993-94 | 34 | 16 | 6 | 1 | - | 8 | 7 | 48 | 24 | |||
1994-95 | 26 | 9 | 4 | 5 | - | 8 | 3 | 38 | 17 | |||
1995-96 | パルマ | セリエA | 23 | 5 | 2 | 0 | - | 5 | 2 | 30 | 7 | |
1996-97 | バルセロナ | プリメーラ | 22 | 7 | 6 | 1 | - | 6 | 0 | 34 | 8 | |
1997-98 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 3 | 1 | 8 | 1 | |||
1997-98 | CSKAソフィア | A PFG | 4 | 1 | 0 | 0 | ||||||
1997-98 | アル・ナスル | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 1 | 2 | 1 | ||
1998 | 柏 | J | 16 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 17 | 8 | |
1999 | J1 | 11 | 4 | - | 1 | 1 | - | 12 | 5 | |||
2000 | シカゴ・ファイアー | MLS | 18 | 9 | 3 | 1 | - | - | 21 | 10 | ||
2001 | 17 | 6 | 3 | 2 | - | - | 20 | 8 | ||||
2002 | 16 | 2 | 0 | 0 | - | - | 16 | 2 | ||||
2003 | D.C. ユナイテッド | 21 | 5 | 3 | 1 | - | - | 24 | 6 | |||
通算 | ブルガリア | 151 | 95 | 0 | 0 | 9 | ||||||
スペイン | 175 | 83 | 31 | 12 | 0 | 0 | 48 | 12 | 254 | 127 | ||
イタリア | 23 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 30 | 7 | ||
サウジアラビア | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 1 | ||
日本 | 27 | 12 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 29 | 13 | ||
アメリカ | 72 | 22 | 9 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 81 | 26 | ||
総通算 | 455 | 218 | 1 | 1 | 24 | 457 | 219 |
代表での成績
ブルガリア代表として最後の試合となった1999年6月9日のイングランド戦までの成績[3]
チーム | 年 | 公式戦 | 親善試合 | 合計 | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ブルガリア | 1987 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
1988 | 2 | 0 | 10 | 4 | 12 | 4 | |
1989 | 4 | 1 | 4 | 0 | 8 | 1 | |
1990 | 3 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | |
1991 | 2 | 1 | 1 | 1 | 3 | 2 | |
1992 | 3 | 1 | 2 | 1 | 5 | 2 | |
1993 | 6 | 4 | 0 | 0 | 6 | 4 | |
1994 | 10 | 9 | 1 | 0 | 11 | 9 | |
1995 | 7 | 7 | 0 | 0 | 7 | 7 | |
1996 | 3 | 3 | 2 | 2 | 5 | 5 | |
1997 | 3 | 1 | 1 | 0 | 4 | 1 | |
1998 | 6 | 0 | 4 | 1 | 10 | 1 | |
1999 | 3 | 1 | 2 | 0 | 5 | 1 | |
通算 | 55 | 28 | 28 | 9 | 83 | 37 |
個人タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ得点王 1回(1989年)
- ブルガリアリーグ得点王 2回(1989年、1990年)
- ブルガリア年間最優秀選手賞 5回(1989年、1990年、1991年、1992年、1994年)
- ヨーロッパ・ゴールデンシュー 1回(1990年)
- オンズドール 1回(1992年)
- FIFAワールドカップ得点王 1回(1994年)
- バロンドール 1回(1994年)
- ドン・バロン・アワード年間最優秀外国人選手 1回(1994年)
- ゴールデンフット賞オールタイムレジェンド (2007年)
脚注
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、203頁
- ^ a b c 『J.League yearbook 2011』日本プロサッカーリーグ、2011年、269頁頁。ISBN 4-86155-812-3。
- ^ a b c d e f g “Hristo Stoichkov - Goals in International Matches”. RSSSF.com 2011年6月16日閲覧。
- ^ a b c “ストイチコフが現役を引退”. UEFA.com. (2003年12月15日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、15頁
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、16頁
- ^ a b c ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、10-12頁
- ^ a b “Biography1”. The Official Site of Hristo Stoitchkov 2011年6月16日閲覧。
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、20-21頁
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、23頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、88頁
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、34-37頁
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、132-134頁
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、91頁
- ^ a b c ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、61-67頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、67-71頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、95頁
- ^ a b c d “Biography2”. The Official Site of Hristo Stoitchkov 2011年6月16日閲覧。
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、84-87頁
- ^ a b サントス 2002、206頁
- ^ a b サントス 2002、207頁
- ^ a b “ストイチコフ氏の引退試合を開催”. UEFA.com 2011年6月16日閲覧。
- ^ a b c d “Stoichkov shoots from the hip”. FIFA.com 2011年6月16日閲覧。
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、148頁
- ^ a b c キア・ラドネッジ著、セヴンデイズ訳『FIFAワールドカップブック--Official licensed product』日刊スポーツ出版社、1998年、26頁頁。ISBN 978-4817250438。
- ^ a b c d “<サッカー リーガエスパニョーラ>ストイチコフ氏 ブルガリア代表監督を辞任しセルタの新監督に - スペイン”. AFPBB News. (2007年4月11日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ “<サッカー>スティリアン・ペトロフ 突然のブルガリア代表引退発表 - ブルガリア”. AFPBB News. (2006年10月13日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ “サッカー=セルタ、ストイチコフ監督続投を発表”. Reuters. (2007年6月19日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ “Celta give Stoichkov the sack”. FIFA.com. (2007年10月8日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ “Hristo Stoitchkov not to renew contract”. Mamelodi Sundowns Football Club. (2010年3月16日) 2011年6月1日閲覧。
- ^ “Stoichkov takes over at Lovech”. (2012年1月5日) 2012年1月5日閲覧。
- ^ “ストイチコフ氏、CSKAに監督として復帰”. (2013年6月12日) 2013年6月13日閲覧。
- ^ 『スポーツ20世紀Vol.1 サッカー 英雄たちの世紀』ベースボールマガジン社、2000年、26頁頁。ISBN 978-4583610849。
- ^ a b “大会を飾ったストイチコフの左足”. 賀川サッカーライブラリー 2011年6月16日閲覧。
- ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、196-197頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、192-194頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、92-93頁
- ^ a b サントス 2002、327頁
- ^ “The UEFA Jubilee 52 Golden Players”. RSSSF.com 2011年6月16日閲覧。
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、18-19頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、186-189頁
- ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、202-205頁
- ^ “ストイチコフ氏「16日の“エル・クラシコ”は消化試合」”. スポーツナビ. (2011年4月15日) 2011年6月16日閲覧。
- ^ “Stoichkov, Hristo”. National Football Teams 2011年6月16日閲覧。
- ^ “Stoichkov, Hristo Stoichkov”. BDFutbol 2011年6月16日閲覧。
- ^ “Hristo Stoitchkov”. MLSsoccer.com 2011年6月16日閲覧。
参考文献
- フリスト・ストイチコフ、フランセスク・アギラール、シャビエル・トーレス著、西村留美阿奈、坪井弓子訳『得点王の真実 ストイチコフ自伝』ゼスト、1998年。ISBN 978-4883770373。
- ミゲルアンヘル・サントス著、松岡義行訳『ヨハン・クライフ スペクタクルがサッカーを変える』中央公論新社、2002年。ISBN 978-4122040274。
外部リンク
- expertfootball.com (英語)
- stoichkov.net (英語)
- FC Barcelona.cat (英語)