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{{Commonscat|Hiroshima Toyo Carp}}
{{Commonscat|Hiroshima Toyo Carp}}
* [http://www.carp.co.jp/index.html 広島東洋カープ公式サイト]
* [http://www.carp.co.jp/index.html 広島東洋カープ公式サイト]
* [http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/ カープ情報 - 中国新聞]


{{広島東洋カープ}}
{{広島東洋カープ}}

2012年2月16日 (木) 05:54時点における版

広島東洋カープ
会社名 株式会社広島東洋カープ
創設 1950年
今シーズン
現在進行のスポーツイベント2024年の広島東洋カープ
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名

  • 広島カープ(1950年 - 1967年
  • 広島東洋カープ(1968年 - 現在)
本拠地

収容人員 33,000人
広島県1952年 - 現在)
永久欠番

3:衣笠祥雄 | 8:山本浩二
獲得タイトル
日本一(3回)

1979 | 1980 | 1984
リーグ優勝(6回)

1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(6回)
太字は勝利した年)

1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
球団組織
オーナー 松田元
運営母体 松田家(マツダ創業者一族)
監督 野村謙二郎
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株式会社広島東洋カープ
Hiroshima Toyo Carp Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
732-8501
広島市南区南蟹屋二丁目3番1号
マツダスタジアム
設立 1956年1月[1]
業種 サービス業
法人番号 3240001009427 ウィキデータを編集
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 松田元代表取締役社長
資本金 3億2400万円(2010年12月31日時点)
売上高 117億1600万円(2009年12月期)
純利益 2億9600万円(2010年12月期)
純資産 31億7300万円(2010年12月31日時点)
総資産 56億1200万円(2010年12月31日時点)
従業員数 120人(2009年12月時点)
決算期 12月末日
主要株主 マツダ 34.2%、松田元 20.4%、カルピオ 18.5%、松田弘 12.2%、松田勢津子 10.1%(2005年現在)[2]
関係する人物 松田恒次松田耕平
外部リンク http://www.carp.co.jp/
特記事項:1949年6月創業。勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。
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広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

概要

広島県保護地域とし、同県広島市南区にあるマツダスタジアム(広島市民球場)を専用球場(本拠地)としている。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。

親会社を持たない市民球団として結成されたという、他の球団と比較して特異の歴史を有する。マツダは球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主ではあり、球団名の「東洋」はマツダの旧社名に由来するが、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[3]、親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない(ただし、現在の常務取締役球団本部長である鈴木清明はマツダからの出向である)。その一方でマツダ創業家である松田家の所有する株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り[2]、歴代のオーナーも松田家から輩出されていることから、実質的に同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に依存しないという意味では今なお市民球団のイメージを有する[4]

メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される。紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。また、一般的な略称は「広島」であって、「広島東洋」の略称を使うのはドラフト会議などに限られており、「東洋」と略されることはない。

最も近年の日本シリーズ制覇は1984年、リーグ優勝は1991年Aクラス入りは1997年(3位)であり、2011年現在日本プロ野球12球団で最も日本一及びリーグ優勝及びAクラス入りから遠ざかっているチームである。また、2004年統合で消滅した大阪近鉄バファローズを含めたNPB13球団の中で唯一21世紀に入ってから一度もAクラスに入っていない。

球団の歴史

球団創設から1960年代まで

セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー(現ソフトバンク))撮影
1949年

リーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日セントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。初代監督に戦前大阪タイガース監督として優勝経験のある地元・広島出身の石本秀一助監督には巨人から譲渡されたこちらも広島出身の白石勝巳を選手兼任で据える。

1950年

3月10日に福岡平和台球場でセ・リーグ開幕戦が行われたが、選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。 本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[5]、監督である石本秀一自らが選手集めに奔走。投手に長谷川良平内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章らが中心となったが、寄せ集めチームは著しく低迷。勝率を3割に到達できなかったチームは、両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。なお、低迷するチームの中で白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。

1951年

深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な400万円(当時)を集め、球団も四方八方手を尽くし解散を回避[6]した。このような中、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約で揉め、シーズン途中で巨人に移籍してしまう。この年は7球団による20回総当りの120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[7]。この年、武智修がセ・リーグ7位の打率を記録し、球団として初の打者十傑入りを果たした。

1952年

開幕前、同年シーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれていた[8]。設立より2年連続最下位だった広島が処罰の最有力候補だったが、長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、勝率.316で処罰を免れた[9]。勝率3割を割った松竹に対してシーズン終了後の代表者会議で合併を申し入れたが拒否されている(最終的に松竹は大洋ホエールズと合併した)[10]。また、杉浦竜太郎が防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手十傑入りとなった。

この年限りで石本は退任し、代わりに松竹から赤嶺昌志一派の選手が集団で入団。小鶴誠金山次郎の入団だけで大パレードを敢行し、続いて獲得した日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三銭村健四)・光吉勉入団の際には更に盛大なパレードを行い、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。

1952年から53年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。しかも、このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。

1953年1960年

1953年のオールスターのファン投票で、長谷川良平・小鶴誠・白石勝巳の3選手がトップ当選。「集団投票事件」などと批判を浴びた。

この年から1960年まで白石が監督を務める。成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初のシーズン勝ち越し(勝率.504)を果たす。

この間の1957年7月に、新しいフランチャイズとなるこの間、(旧)広島市民球場に本拠地を移転し、広島県下初のナイターが行われた。

1961年1972年

1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。

1962年、前年に現役引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては、日本プロ野球史上最年少の25歳で就任。これは2012年現在でも破られていない。しかし、1969年シーズン後、当時の監督根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団している。

1966年6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。

1963年1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。

1968年

東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となり、球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同族経営球団となる。根本陸夫監督が就任。外木場義郎安仁屋宗八両投手の活躍もあって3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩二水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」の台頭を促した。

1970年~2000年まで

1970年1971年

2年連続でシーズンを勝ち越したが、根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。

先の1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年別当薫が監督就任すると、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

1975年

球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて帽子・ヘルメットの色が赤になった。しかしルーツはシーズン途中で退団し、後任に古葉竹識が選ばれた。

中日・阪神と熾烈な優勝争いを繰り広げ、初優勝を果たす。日本シリーズでは阪急と対戦するも4連敗(正確には、4敗2分)で敗北。この年の首位打者となった山本浩二衣笠祥雄最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた[11]。以降、球団史上に残る黄金時代に突入する。

1977年

胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。

1978年

日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルヘンリー・ギャレットの両外国人、水谷実雄高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。

1979年

2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。 「江夏の21球

1980年

この年も快進撃を続け、3度目のリーグ制覇を達成。勢いそのままに、近鉄を下し日本シリーズ2連覇を成し遂げた。

1982年

津田恒美が活躍し、球団初の新人王に輝く。

1984年

山本、衣笠に加え山根和夫北別府学大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。

1986年

阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、就任1年目にリーグ優勝[12]打線のスタメンに、外国人選手は一人もいないという「純国産打線」であった。またこの年、長年チームの4番を務めてきた山本浩二が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。

1987年

6月13日、衣笠祥雄が、ルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新。衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし引退した。

1988年

阿南監督が勇退。

1989年

山本浩二が監督に就任。

1991年

4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野豊が抑えに転向。山崎隆造を5番に据えるなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。日本シリーズでは、西武ライオンズと対戦。川口和久が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退。この年以降、優勝から遠ざかることとなる。

1992年

シーズンを勝ち越し、この年優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位[13]となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。

1993年

この年の7月20日、津田恒美が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、津田の死にショックを受けたチームはその後急降下。若手の佐々岡や北別府ら投手陣も崩壊し、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落。山本は責任を取って監督を辞任した。

1994年

三村敏之が監督に就任。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人に移籍。

1995年

投打に充実しながらケガ人が相次ぎ、首位ヤクルトから6.0ゲーム差の2位に終わる。

1996年

前半戦を首位で折り返すも、後半戦では最大11.5ゲーム差をつけていた読売ジャイアンツに逆転され、最終的には中日ドラゴンズにも抜かれ3位で終える。

1997年

大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得した。順位は3位。

1998年

投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なり、5位に終わる。シーズン後に三村が監督を退任。

1999年2000年

達川晃豊が監督に就任。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも、99年・00年とも5位に終わり、わずか2年で辞任。99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。

第二次山本監督時代

2001年2005年

再び山本浩二が監督として復帰し、元大洋4番松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2005年に、投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘。新井貴浩が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。2005年終了後に、山本浩二監督は勇退し、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退する。 2005年9月、ライブドア社長(当時)の堀江貴文によるカープ球団買収報道が流れ、10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。

ブラウン監督時代

2006年

ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。

開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。

2007年

キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していたが、交流戦で最下位に沈んだことで優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。

課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび炎上して安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田はMLB・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。


投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。新井の人的補償として阪神から赤松真人を獲得し、他にも新人や新外国人選手を含め14人もの新入団選手を獲得した。

2008年

苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。

延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。

2009年

この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も「マツダスタジアム」に変更した。

オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。

シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く(特に前半戦は打率.220~.230台と極度の貧打に悩まされた)、低迷状態に陥り、1950年以来59年ぶりとなる対中日戦11連敗という球団史上最悪の記録を更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウン監督は楽天監督へ移籍した。[14]。この年、緒方孝市が現役引退している。なおこの年、楽天が球団初のAクラスになったことにより、21世紀に入って、Aクラスになったことのない球団は広島のみとなった。

野村監督時代

(動画) 広島東洋カープの前田健太
2010年

ブラウン監督の後任として広島OBで、日本テレビ・広島テレビ解説者の野村謙二郎が監督に就任。しかし、オフに前年のチーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団、シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では球団ワーストの11連敗を2年連続で記録し8勝16敗、更に対阪神も9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となり、13年連続Bクラスとなった。

2011年

オフにFA宣言した内川聖一の獲得に乗り出すが、ソフトバンクとの争奪戦に敗れる。東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位まで浮上し期待を持たせた。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日には14年連続Bクラスが確定し、結局3年連続で5位に終わった。

チーム成績・記録

  • リーグ優勝 6回
    • (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
  • 日本一 3回
    • (1979年、1980年、1984年)
  • Aクラス 20回
    • (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年)
  • Bクラス 41回
    • (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2011年)
  • 最下位回数 10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年)
  • 最多勝 75勝(1984年)
  • 最多敗 96敗(1950年)
  • 最多引分 18分(1978年)
  • 最高勝率 .625(1984年)
  • 最低勝率 .299(1950年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
  • 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス〔1978年 - 1997年〕の20年に次ぐ史上2位)

その他の記録

歴代本拠地

チーム特徴

  • ニックネームの「カープ」は「」の英語Carpに由来。名付け親は政治家谷川昇公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。
    • 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
    • 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと
    • 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(こい)〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、にも通ずる」から
    • 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした[15]。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また「アトムズ」はその後1966年から1973年サンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである。
  • チームをイメージさせるカラーとしてが知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時のジョー・ルーツ監督のアイディア[16]で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は40年近く地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザインであり、赤が用いられたことはない。
  • 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。2011年現在、広島の監督・コーチは全て生え抜きか、外様でも広島での選手経験者で、純粋な外様(広島での選手経験無し)は一人もいない。これは12球団唯一である。
  • 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日コリアンの他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーンゲイル・ホプキンスジム・ライトルマイク・デュプリールイス・ロペスエディ・ディアスネイサン・ミンチーアンディ・シーツコルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年にロッテに移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、アンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→オリックス)などの例が見られる。
  • 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。カープ坊やは、スラィリー登場後も球団のペットマークとして使用され応援グッズなどに描かれ続けている。
  • 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が巨人からキャンプのオファーを受けたこともあり、ジャイアンツキャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島カープのキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
  • 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。このため資金が豊富ではないこともあって、フリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。また、2008年オフに相川亮二がFA宣言し横浜からヤクルトに移籍したことにより、セリーグでは唯一FA宣言した選手を獲得したことのないチームとなった。
  • 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。三篠寮は一軍選手専用となった。
  • 8月6日の広島原爆忌当日、仮に広島の主催試合が編成された場合は広島市民球場は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためで、2009年に開場したマツダスタジアムも同様。広島市民球場最終年となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。2011年、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で開催された。
  • 他の球団に比べ地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場米子市民球場松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等、中国・四国地方の球場で主催ゲームが開催される。なお2005年、松山では主催試合を開催していないが、ビジターでヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつが編成されている。またビジター球団が地域保護権を有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、1989年には群馬県前橋市群馬県立敷島公園野球場新潟県新潟市鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を、1990年から1997年にかけては岐阜市長良川球場で対中日戦を開催しており、更に近年は北陸地方福井県営球場石川県立野球場富山市民球場アルペンスタジアム)で対阪神戦を開催している。またかつては他球団の地方主催試合の相手となることも多かった。

但し近年は交流戦の影響や新本拠地の開場もあってか、地方試合は年々減少傾向にある(2003年頃までは地方での試合が大体10~13試合程度あったものの、2010年度は僅か4試合となっている)。詳細は広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧を参照の事。

  • 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場宮城球場岩手県営野球場秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。バブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。
  • 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。広島県内では1993年呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催した他、2009年には竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟でそれぞれ球場開きを飾った他、2000年には長野オリンピックスタジアムで同スタジアム初のセ・リーグ公式戦を開催している。
  • 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、更には球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、15時から試合を行う。
  • 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから私設応援団が多数存在していたため、公式ファンクラブが結成されたのは2007年からと12球団で最後の結成となっている。
  • 2010年までは三軍という区分けを公式に用いている唯一のNPBチームで、三軍担当のコーチも配属されている。三軍には主に故障した選手が属する。なお、2011年からは福岡ソフトバンクホークスも3軍を立ち上げ、読売ジャイアンツ阪神タイガースも公に「3軍」とは表示していないが、事実上の3軍が試合(社会人野球独立リーグチーム)などを通して実践感を養うための活動をしている。

チームの戦いぶり

ユニフォーム

スパイク

  • 2009年現在、12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー(ミズノアシックスSSK)以外のスパイクの使用が認められていない。これには選手より以前から各自の契約メーカーの使用許可の要望が寄せられている。

変遷

  • 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
  • 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
  • 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を南十字星がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。
  • 1958年 - 1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHiroshima)。また、胸番号も登場。
  • 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる(Hマークは現在の球団旗にも使われている)。
    • ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。
      • 1968年より、根本陸夫監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に東洋工業(現:マツダ)の「TOYO」の文字が入る。
      • 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ、背番号、胸番号がオレンジの縁取り、帽子のHマークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。
  • 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズ中央大学(さらにアメリカンフットボールシカゴ・ベアーズも)と同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
    • ビジター用は、ブルーグレー地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた「Hiroshima」の筆記体ロゴが復活する。
  • 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。
  • 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。
    • ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。
      • 1978年より、背番号の上に選手名が入る、
      • 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。
        • このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年1980年1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは広島刑務所に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた。現に中畑清日本テレビの特番「刑務所24時」の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
  • 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。当時のシンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
    • ビジター用は上下グレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。
    • なお1994年のホーム用のみ、同年開催されたアジア大会広島大会をPRするマークが入った。
  • 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。
    • ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。
    • ビジター用は、「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、球団創設50周年のマークが入る。
    • この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった。
  • 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
  • この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。
    • 2005年からホーム用のみ、スポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
    • 2006年ブラウン監督の発案により、投手および野手のキャプテン選手の右袖に黄色の「C」が入る。
    • 2007年より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが70 - 80年代に使われた「Hiroshima」の筆記体書体になる。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
  • 2009年 - 本拠地のマツダスタジアム移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子のCマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。
    • ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。
    • ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。

期間限定ユニフォーム

  • 2008年9月23日より25日の3日間(対巨人戦)、1977年 - 1988年の復刻モデルユニフォーム(ホーム)を着用。ただしヘルメットは通常デザインのものを使用。
  • 2010年8月開催のセ・リーグ主催「オールドユニホームシリーズ」では1989年 - 1995年の復刻モデルを使用。
  • 2011年8月23日から25日の横浜戦と26日から28日の巨人戦で、1977年-1988年の復刻モデルユニフォーム(ビジター)を着用。

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  • 球団の歴史ユニフォームの変遷の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
  • 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる[17]。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。(マツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更される)
    • この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「トップス広島」のロゴマークを掲示するスペースがない。(他競技のチームはロゴを掲出している)

球団旗

変遷

  • 1950~1955:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。
  • 1956~1957:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。
  • 1958:紫地に白文字でCARP。Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。
  • 1959~1966:白と紫を斜めで分け、前のデザインの鯉の部分をピンク色のCの文字で再現。
  • 1967~:紺色地に白文字でH。

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここから広島東洋カープ
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊

永久欠番

永久預かり

カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。

  • 20(1995年 - 2002年) 前任者は北別府学永川勝浩に与えられた。
  • 7(2006年 - ) 前任者は野村謙二郎。なお野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。

キーワード

経営事情

カープは当初、広島県、広島市、呉市中国新聞社日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。

また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。

1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは筆頭株主であり、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え[要出典]、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。

親会社の資金援助がなく売上高も小さいことから資金規模は日本プロ野球でも最小の部類ではあるものの、セントラルリーグの人気球団との対戦カードを抱え地元の支持も厚いことから、経営状態そのものは親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中でも良好な部類であり、1975年から35期連続で黒字決算となっている[18]。2009年度は新球場効果もあり過去最高の117億円余の当期売上高を記録した。年度売上高が100億円を超えたのも2009年が初となる。

選手の年俸も他球団に比べて低く抑えられているため、年俸が高騰した選手に対して他球団へ売りに出さざるを得ないのが現状である。

FA宣言選手への対応

1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島はFA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めず、また他球団のFA宣言選手の獲得も見送っていた。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。

そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定成績の投手である黒田の流出はチームの死活問題となるので、今回ばかりは一転してFA残留を認める方針を掲げた。黒田はこの年は行使せず残留となったが、翌年2007年にロサンゼルス・ドジャーズに結局FA移籍となる。しかしこれを境に球団はFA残留においても認める方針に変わりつつある。まだ実例はないが、2007年の新井貴浩、2008年の東出輝裕がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井はFA移籍で阪神へ、東出は行使せず残留)。

また、他球団のFA宣言選手の獲得においても、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し[19]、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得に参入していた。しかし、いずれも他球団へ入団したため(藤井は巨人、内川はソフトバンク)未だに獲得の実例はなく、2008年東京ヤクルトスワローズ東北楽天イーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島は消滅した近鉄を含むセ・パ13球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。

8人の侍

1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。

3月13日NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。

疑惑のホームラン

1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。

当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。

そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。

完全試合とノーヒットノーラン献上が多いチーム

完全試合を合計3度献上しており、これは日本プロ野球最多の数字である。その一方で外木場義郎1968年9月14日に完全試合を達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。

ノーヒットノーランに関しても球団創設以来9度も献上しており、この献上回数もまた日本プロ野球チームで最多である。2004年10月には阪神の井川慶にノーヒットノーランを許した直後の横浜戦でも9回裏2死までノーヒットであと一人で吉見祐治投手にまでノーヒットノーランを許してしまう事態となり、あわや日本プロ野球初となる1シーズン2度ノーヒットノーランを相手球団の先発投手に許すという不名誉な記録を作るところであったが、そこから福地寿樹が二塁打を放ち、ぎりぎりの所でこの記録から免れた(ちなみに、この試合での広島の安打はこの福地の二塁打1本のみであり、福地自身のシーズン初安打でもあった)。

沖縄県出身初のプロ野球選手

1964年入団の安仁屋宗八投手は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。

「カープを優勝させる会」

1966年東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之石本美由起新藤兼人藤原弘達木村功杉村春子森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。

こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。

日本シリーズMVPの自動車

カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。

広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手(75:阪急 86,91:西武)には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。

なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。

究極の右投手攻略法

1988年6月26日岩手県営野球場での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。

守備 選手
正田耕三
山崎隆造
高橋慶彦
小早川毅彦
長嶋清幸
松林和雄
高信二
達川光男
大野豊

太字は左打者、斜字スイッチヒッターで、右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。

試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝利した。この後も、カープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。

1984年2月28日鹿児島県立鴨池野球場でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。

守備 選手
山崎隆造
長嶋清幸
高橋慶彦
長内孝
小早川毅彦
西田真二
定岡徹久
山中潔
川口和久

日本球界初のアカデミー

アメリカMLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国ベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)

日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレスソリアーノペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。

クモ男

1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。更にネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。

約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者で、この日の中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件について「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが、読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。

この男は2001年頃のテレビ番組「あの人は今!?」で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ、最初にこの事件を挙げた。後に、この男と居酒屋で飲んでいたことも語った。

なお、2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5mほど登って観客に手を振ったあと、球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[20][21]


社会人野球大会出場

カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。

戦績一覧
2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ
2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝だった
2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・三菱自動車倉敷オーシャンズ
2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ
2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
2007年 予選リーグ敗退(8-1 ツネイシホールディングス野球クラブ、2-3 伯和ビクトリーズ 予選Aグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
2008年 優勝(決勝戦:8-1 三菱重工広島
2009年 優勝(決勝戦:7-6 三菱重工広島
2010年 優勝(決勝戦:2-0 ワイテック
2011年 予選リーグ1位(7-0 シティライト岡山、7-0 伯和ビクトリーズ 予選1位として決勝トーナメント出場権を得たが、決勝トーナメントが雨天順延されたことからウェスタンリーグ公式戦と日程が重複し、出場権を辞退した)

ベースボールドッグ

ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。

あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[22]ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。

この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。

2006年7月21日神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。

2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。

応援の先駆者

広島は、現在のプロ野球の応援スタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。 豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの"赤ヘルブーム"にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている[23]ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている[24]。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている[25]

  • トランペット応援・選手別応援歌
    • 騒がしい応援スタイルは、一高三高定期戦など、戦前から学生野球やアマチュア野球ではあった[26]。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られたが[27]、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援はずっと騒がしくはなかった[26]。1950年代にテレビ放送が始まると都市対抗野球が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ[28][29]。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称"コージコール")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている[24]。最初は声を合わせて「コージ」を繰り返すだけのものだったが、やがてトランペットのマーチに乗って、「かっとばせ! コージ」に変わり、トランペットは他の選手たち、そして他チームへも広がっていった[24]。その内に、個々人のマーチに歌詞がつき、応援団だけでなく、球場に詰め掛けたファンが声をそろえて、声援を送るようになる[24]。プロ野球の応援が騒がしくなり、お客が球技を観るより自分たちでパフォーマンスをやるようになったのは"コージコール"からで、騒がしい応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した[26]
  • ジェット風船
    • 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、甲子園球場でジェット風船を飛ばしたのが起源という説[30][31][32][33][34]1984年甲子園を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、大阪松屋町の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある[24]。現在はカープだけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。
  • スクワット応援
    • 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められる事もあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
    • 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(「伊集院光 深夜の馬鹿力」豆知識予備校より)。

1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。

ホームで9回裏には、「燃える赤ヘルぼくらのカープ」が流れる。

応援歌

  • 『勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎)
  • それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
  • 『燃える赤ヘルぼくらのカープ』(歌・事崎正司=現・加納ひろし
  • 『痛快!赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭
  • 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗
  • 『Red~僕らの広島カープ~』(歌・石田匠)
  • 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦)
  • 『勝利を我らに!~Let's win!~』(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
  • 『カープロード』(歌・矢野昌大) 球団公認

主なキャンプ地

キャッチフレーズ

  • 1953年 闘志なき者は去れ
  • 1973年 スピードとスリルある野球
  • 1974年 HOTTER BASEBALL!
  • 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
  • 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
  • 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
  • 1978年 ALL MEN DASH!
  • 1979年 LET'S SPARK!
  • 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
  • 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
  • 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
  • 1983年 START FROM ZERO
  • 1984年 BLAZING BASEBALL
  • 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
  • 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
  • 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
  • 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
  • 1989年 WINNING SMILE
  • 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
  • 1991年 WILL TO VICTORY
  • 1992年 VALUE OF VICTORY
  • 1993年 RED CHARGE
  • 1994年 TOTAL BASEBALL
  • 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
  • 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
  • 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
  • 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
  • 1999年 YES, WE CAN
  • 2000年 START FROM ZERO ZERO
  • 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
  • 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
  • 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
  • 2004年 WILL TO VICTORY
  • 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」
  • 2006年・2007年 ALL-IN
  • 2008年 ALL-IN激
  • 2009年 ALL-IN烈
  • 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ
  • 2011年 STRIKIN'BACK 逆襲
  • 2012年 GROUND BREAKERS 破天荒

カープ応援番組

カープを取り扱う雑誌

脚注

  1. ^ 中国新聞 (2010年1月1日). “2010年新春トップインタビュー”. 2010年1月6日閲覧。
  2. ^ a b 平野博昭「《特別寄稿》新球場建設とカープの経営方針について」 - 一橋総合研究所
  3. ^ 第145期有価証券報告書 (PDF) - マツダ株式会社
  4. ^ “「ベイスターズは市民球団に」自民党の小泉進次郎氏がベイ売却検討”. 神奈川新聞. (2010年10月2日). http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010020005/ 
  5. ^ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという(駒沢悟監修、松永郁子著『広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』宝島社文庫、2002年、19頁)
  6. ^ この一件は、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。
  7. ^ 定本「プロ野球40年」121頁(報知新聞社・1976年)参照のこと。
  8. ^ ただし、具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
  9. ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288だった。
  10. ^ 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(筑摩書房、2001年)P208
  11. ^ これは、現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。
  12. ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
  13. ^ この当時は引き分け再試合制で、引き分け試合は事実上ノーゲームと同じ扱い(ただし記録は残る)だった。そのため、勝数の差=ゲーム差であった。
  14. ^ 広島が来季監督を野村謙二郎氏に要請 日刊スポーツ 2009年10月4日配信、同日確認
  15. ^ ただしチーム名としてCarpを使用する場合には最後にSを付けるのが正しく「カープス」は間違いではない。
  16. ^ ユニフォームを赤に代えようとしたが経費の都合でヘルメットと帽子のみに。 「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より
  17. ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
  18. ^ カープ売上高117億円 新球場効果で46億円増中国新聞 2010年3月25日
  19. ^ 出典:『ベースボールマガジン』2010年3月号、ベースボール・マガジン社
  20. ^ 19年ぶり!? 広島の巨人戦に「クモ男」日刊スポーツ 2009年5月17日付)
  21. ^ 19年ぶりクモ男出現!バックネットに登り手を振るスポーツニッポン 2009年5月17日付)
  22. ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
  23. ^ 豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン社、2009年、125頁
  24. ^ a b c d e 『Forever広島市民球場』(B.B.MOOK582、週刊ベースボール責任編集)、ベースボール・マガジン社、2009年、89頁
  25. ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』紀伊國屋書店、2003年、233、234頁
  26. ^ a b c 丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判、丸谷才一他著、青土社、1989年、126-128頁
  27. ^ 大阪タイガース阪急軍ブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
  28. ^ インタビュー|旧広島市民球場メモリアルサイト
  29. ^ トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている。
  30. ^ 中国新聞、2008年9月21日、30面
  31. ^ 広島「新球場専用ジェット風船」を開発中
  32. ^ 神戸新聞Web News
  33. ^ 西日本新聞 タカく飛べ ジェット風船
  34. ^ 旬の話題を斬る:@niftyビジネス

関連項目

外部リンク