モンテディオ山形

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モンテディオ山形
原語表記 モンテディオ山形
愛称 モンテ
クラブカラー     ブルー[1]
    イエロー[1]
創設年 1984年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2
クラブライセンス J1
ホームタウン 山形市[1]天童市[1]鶴岡市[1]
を中心とする山形県全県[1]
ホームスタジアム
NDsoftstadium20090628.JPG
NDソフトスタジアム山形[1]
収容人数 21,292[1]
運営法人 株式会社モンテディオ山形[1]
代表者 高橋節[1]
監督 日本の旗 石崎信弘
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社モンテディオ山形
MontedioYamagata co,ltd
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
994-0000
山形県天童市山王1-1 山形県総合運動公園内総合体育館2F
設立 2013年平成25年)8月29日
業種 スポーツクラブ(プロサッカーチーム)
事業内容
代表者 高橋節
資本金 10,000,000円
主要株主 (公社)山形県スポーツ振興21世紀協会アビームコンサルティング(株)
外部リンク http://www.montedioyamagata.jp/
特記事項:出典[2]
2014年2月1日付をもって、モンテディオ山形の男子サッカー部トップチームの経営権を(公社)山形県スポーツ振興21世紀協会より移譲
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公益社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会
団体種類 公益社団法人
設立 1998年[1]1月19日
所在地 994-0000[1]
山形県天童市山王1-1 山形県総合運動公園内総合体育館2F[1]
起源 山形日本電気サッカー同好会
主要人物 細谷 知行 (理事長)[1]
活動地域 山形市[1]天童市[1]鶴岡市[1]
を中心とする山形県全県[1]
活動内容 サッカークラブの運営他
収入 10億4,700万円 (2013年1月期)[3]
基本財産 0円 (2013年1月期)[3]
子団体 (株)モンテディオ山形(詳細上述)
ウェブサイト http://www.montedioyamagata.jp/
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モンテディオ山形(モンテディオやまがた、Montedio Yamagata)は、日本山形市天童市鶴岡市を中心とする山形県全県をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要[編集]

NDソフトスタジアム

1984年創部のNEC山形サッカー部が前身となり[1]1999年よりJリーグへ加盟している[1]。クラブ名称の「モンテディオ」は、イタリア語の「モンテ (Monte)」(山)と「ディオ (Dio)」(神)を合わせた造語で「山の神」を意味する[1]

ホームスタジアムはNDソフトスタジアム山形[1]、練習場は山形県総合運動公園である[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。

クラブ運営法人は2社に別れており、トップチームの運営を株式会社モンテディオ山形[1](2013年8月設立[4])が行い、 ユースチームやアカデミー組織の運営を、2013年までトップチームを含むクラブ全般の運営を行っていた公益社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が行う。 公益社団法人によるクラブ運営は、Jリーグに所属する全チームの中では山形が唯一行っていた。[5](詳細は#運営法人の株式会社化を参照)

年会費は、法人向けとして正会員が50万円、賛助会員が5万円。かつては個人向けとして後援会員が1万円となっていたが、2008年からは後援会員制度を廃止しファンクラブ制に移行。会費は年額6,000円(後期からの入会については3,000円)、特典としてファンマガジン「Rush」が毎月送られていた。2009年からはファンクラブ会費が3,000円へ、「Rush」の定期購読が選択制へ変更となった。

歴史[編集]

前史[編集]

1984年に創部された山形日本電気サッカー同好会が前身[1]1990年から1993年まで東北社会人サッカーリーグを4連覇、1994年よりジャパンフットボールリーグ(JFL)へ昇格[1]1996年にアマチュアチームのままチーム名をモンテディオ山形へ変更[1]。1998年2月に運営法人となる山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、プロクラブ化した。[1]。1999年からのJリーグの2部制開始とともにJリーグ ディビジョン2(J2)に参加した(J2オリジナル10)。

1999年 - 2008年(J2)[編集]

1999年[編集]

Jリーグ加盟初年度がスタート。昨シーズンまで平塚の監督を務めていた植木繁晴が監督に就任した。

補強面では、市原から鷲田雅一を、平塚から岩元洋成を、京都から吉田達磨を、C大阪から卜部太郎を、ブラジルのリオクラロFCからアランを、川崎からムタイルを、札幌からバウテルを完全移籍で獲得し、横浜Mから平間智和をレンタル移籍で獲得した。新人では、鶴商学園高から根本亮助前橋育英高から小久保純静岡学園高から飯塚浩記が加入した。

23節終了時は中位に位置していたが、24節から29節にかけて5勝1分をマークし4位まで浮上した。しかし、残り7試合を勝利無しで終えて順位を落とした。最終順位は15勝4分17敗の7位だった。また、真下佐登史が得点源として活躍。最終的には18ゴールを挙げてJ2得点ランキング2位となった。天皇杯ではJ1勢の神戸、C大阪を破り、準々決勝でと対戦し敗れたものの、クラブ初の天皇杯ベスト8進出を果たした。

2000年[編集]

植木体制2年目。

庄司孝大分に、卜部太郎がオーストラリアのロッチデール・ローヴァーズ(en)に、高橋哲東北社会人1部TDK SCに完全移籍し、平間智和がレンタル元に復帰した。また、アランバウテルムタイル本街直樹原田紘介飯塚浩記が退団した。

補強面では、大分からエドウィンを、甲府から堀井岳也を、湘南から西山哲平を完全移籍で、ブラジルのアシスナイコフFCからジェフェルソンen)を、横浜FMから丸山良明をレンタル移籍で獲得した。新人では、中央大から小田島隆幸帝京大から依田光正第一経済大から岡村政幸日大山形高から笠原信各務原高から松田英樹、イタリアのデボルティボ・イタリアーノユースから中山夢歩が加入し、ユース所属の白井貞義がトップチームに昇格した。

シーズン途中には、元福岡永井篤志を完全移籍で、ブラジルのサンパウロFCからワシントンen)をレンタル移籍で獲得した。

4連敗以上の大きな連敗を4回繰り返すなど、全体的に精彩を欠いたシーズンとなり、11勝2分27敗の10位でシーズンを終えた。しかし、同年にJ1昇格を決めた浦和と11節で対戦した際にJ2初黒星をつけ、40節にも2-1で勝利するなど、上位陣を苦しめる場面を作った。天皇杯は2回戦でJFLジヤトコに敗れた。

シーズン終了後、植木が契約満了で監督を退任した。

2001年[編集]

サッカー日本代表柱谷幸一が監督に就任した。

真下佐登史関東社会人リーグ図南SCに、中森大介JFLジヤトコに、岡村政幸JFL佐川急便東京SCに完全移籍し、丸山良明がレンタル元に復帰した。また、エドウィンワシントンen)、ジェフェルソンen)、岩元洋成中山夢歩白井貞義が退団した。

補強面では、大宮から佐藤悠介浮氣哲郎佐藤太一を、京都から大島秀夫を、湘南から鈴木健太郎を、水戸から渡辺卓を、札幌から大野貴史を、浦和から高橋厳一を完全移籍で獲得し、札幌から佐賀一平をレンタル移籍で獲得した。新人では、山形中央高から吉見一星が加入した。

シーズン途中には、堀井岳也が札幌へレンタル移籍した。

19節までは7勝5分7敗の8位と振るわなかったが、20節~43節までに20勝1分3敗と快進撃を見せ2位まで浮上。山形を含む最大6チームがJ1昇格に絡む大混戦となったが、京都が43節の湘南戦に勝利し、J1昇格圏内の1位を確定させた為、最終節にJ1昇格圏内の2位を山形、仙台大分の3チームが勝ち点差3という接戦の中で争うことになった。暫定2位の山形は川崎に対し、90分以内で勝利することが出来れば2位が確定していたが、試合は0-0のまま90分間が終了し、Vゴール方式の延長戦に突入した為、暫定3位である仙台の対戦経過次第となったが、後半ロスタイムに先制点を挙げて京都に勝利した仙台の2位が確定。山形はJ1昇格を逃した。また、J1昇格を逃した山形は延長戦の開始直後に失点して試合にも敗戦した。なお、J2リーグ戦でのVゴール方式採用はこのシーズンをもって廃止となった。天皇杯は3回戦で神戸に敗れた。

2002年[編集]

柱谷体制2年目。

浮氣哲郎西山哲平大分に、高橋厳一笠原信JFLジヤトコに、吉田達磨がシンガポールのジュロンFCに、佐藤太一がシンガポールのクレメンティ・カルサFCに、小田島隆幸群馬県社会人1部草津に、斉藤誠一関西社会人1部佐川印刷に完全移籍し、佐藤淳志が退団した。また、札幌にレンタル移籍していた堀井岳也が完全移籍への移行に伴い退団した。

補強面では、湘南から酒井良貞富信宏を、浦和から小島徹を、市原から井上雄幾を完全移籍で獲得した。更に、佐賀一平がレンタル移籍から完全移籍に移行した。新人では、駒澤大から桜井繁順天堂大から藤田芳正国士舘大から松田和之が加入し、ユース所属の秋葉勝がトップチームに昇格した。

シーズン途中には、ドイツ3部のSVヴァッカー・ブルクハウゼンから西脇良平を完全移籍で獲得した。

開幕戦から4連敗を喫し最下位からのスタートとなった。その後も勝ち星を重ねることが出来ずに低迷が続いた結果、6勝17分21敗の11位でシーズンを終えた。天皇杯は1回戦で関東社会人リーグ群馬FCホリコシに敗れた。

2003年[編集]

柱谷体制3年目。
佐藤悠介C大阪へ、鈴木健太郎東京Vへ、吉見一星JFL佐川印刷SCへ、佐賀一平酒井良貞富信宏Kyuリーグ沖縄かりゆしFCへ、西脇良平大野貴史松田英樹東海社会人1部静岡FCへ完全移籍し、小島徹が退団した。また、渡辺卓が現役を退いて、ユースチームの監督に就任した。その他では、根本亮助斉藤武志が、ブラジルのジャボチカバウ・アトレチコpt)に留学する為、1月から6月までチームを離脱した。
補強面では、鹿島から中村幸聖を、FC東京から星大輔松田正俊を、C大阪から川崎健太郎羽地登志晃越智隼人を、G大阪から阿江孝一を、札幌から古川毅を、大宮から伊東真吾を完全移籍で、ブラジルのマルトロンからニヴァウドをレンタル移籍で獲得した。また、ブラジルのオリンピア(pt)からアレッシャンドレen)をレンタル移籍で獲得したが、シーズン途中で退団している。新人では、帝京高から大瀧直也が加入した。
シーズン途中には、市原から小林久晃をレンタル移籍で獲得した。

開幕6試合で1分5敗と最下位スタートとなったが、7節から勝ち星が付き始め、24節終了時には4位まで浮上した。しかし、その直後から連敗を重ねるようになり失速。そのままシーズンを終えた。最終順位は8位だった。天皇杯は3回戦で神戸に敗れた。

シーズン終了後、柱谷が契約満了で監督を退任した。

2004年[編集]

JFAナショナルトレセンコーチを務めていた鈴木淳が監督に就任した。

鷲田雅一羽地登志晃市原に、依田光正小久保純JFL草津に完全移籍し、藤田芳正伊東真吾松田和之ニヴァウドが退団した。斉藤武志は現役を退いて、クラブ下部組織の育成普及コーチに就任した。

補強面では、大宮から大塚真司を、川崎から林晃平を完全移籍で獲得。小林久晃がレンタル移籍から完全移籍に移行した。また、ブラジルのグアラニFCからレオナルドを、FC東京から迫井深也をレンタル移籍で獲得した。その他、ブラジルのECサント・アンドレからデーニをレンタル移籍で獲得したが、シーズン途中で退団している。新人では、東海大山形高から堀内大輔鶴岡東高から井関武志が加入した。

シーズン途中には、新潟から宮沢克行を、浦和から梅田直哉をレンタル移籍で獲得した。

この年は大島が得点を量産し活躍。最終的には22得点をマークし、J2得点ランキング2位となった。また、チームも序盤11節終了時点で5勝5分1敗の2位につけるなど幸先の良いスタートを切ったものの、主力選手の怪我などが響いて停滞し、30節終了時に6位まで順位を下げた。しかし上位進出を目指して、シーズン途中に宮沢らを獲得した結果、29節から7勝2分と快進撃を見せて3位まで再浮上。2位の大宮との直接対決を制することが出来れば、勝点で並ぶところまで追い付いたが敗れた。その後、J1・J2入れ替え戦の出場権が得られる3位を福岡京都と争ったが、最終節で暫定3位だった福岡との直接対決に敗れた為、4位でシーズンを終えた。天皇杯は4回戦で横浜FMに敗れた。

この年、勝点105をマークするなど、圧倒的な強さでJ2を制した川崎に対して2勝1分1敗と、当時J2に所属していたチームの中で唯一勝ち越した。

シーズン終了後、NEC山形時代からゴールマウスを守り続けてきた、地元出身選手の鈴木克美が現役引退を表明した。

2005年[編集]

クラブスローガン:INNOVATION 我々が変わり、そして変えていく

鈴木体制2年目。
昨シーズンにJ2得点ランキング2位となった大島秀夫横浜FMに、星大輔松田正俊京都に、中村幸聖新潟に、井上雄幾甲府に、大瀧直也東北社会人1部盛岡に完全移籍し、宮沢克行梅田直哉迫井深也がレンタル元に復帰。古川毅越智隼人が退団した。
補強面では、横浜FMから小原章吾本橋卓巳を、横浜FCから臼井幸平を、広島から外池大亮を完全移籍で獲得。また、レオナルドがレンタル移籍から完全移籍に移行した。更に、横浜FMから阿部祐大朗を、広島から高木和正を、鹿島から田中康平を、名古屋から原竜太をレンタル移籍で獲得した。原はシーズン途中に完全移籍へ移行している。その他、ブラジル2部のアヴァイFCからチッコen)をレンタル移籍で獲得したが、シーズン途中で退団している。新人では、大阪学院大から佐々木勇人が加入。開幕戦で先発メンバーに抜擢されるや否や、1ゴール2アシストを記録するなど、加入初年度から即戦力として活躍した。
シーズン途中には、から清水健太を、大分から小森田友明をレンタル移籍で獲得し、山形大塩沢勝吾特別指定選手として追加登録した。

守備力が非常に高く、36節終了時点で失点数が34点と、京都の33点に次いで2番目に少ない記録だった反面、得点力不足が影響して、勝ち切れずに引き分ける試合が多かったことから、自動昇格圏内の京都と福岡に追い付くことが出来ず、3位~4位を推移した。その後、J1・J2入れ替え戦の出場権が得られる3位を札幌仙台、甲府と争ったが、37節から4連敗を喫し脱落した。最終順位は5位だった。天皇杯は4回戦で浦和に敗れた。

シーズン終了後、鈴木が契約満了で監督を退任。新潟の監督に就任した。

2006年[編集]

クラブスローガン:CONCENTRATION 集中

横浜FMでトップチームコーチを務めた樋口靖洋が監督に就任。また、日本サッカー協会参事で山形県米沢市出身の新藤一晴が常務理事に就任した。

大塚真司川崎健太郎札幌に、小林久晃神戸に、田中康平仙台に、外池大亮湘南に、高木和正東海社会人1部の岐阜に、堀内大輔東北社会人1部の盛岡に完全移籍。また、阿江孝一井関武志塩沢勝吾が退団し、小森田友明がレンタル元へ復帰後、神戸にレンタル移籍した。

補強面では、ベガルタ仙台の看板選手として活躍した財前宣之を、福岡から木藤健太を、川崎から渡辺匠木村誠を、鳥栖から氏原良二高林佑樹を完全移籍で獲得。更に、昨シーズン大宮でプレーしたレアンドロをナシオナルAC(en)からレンタル移籍で獲得した。新人では、四日市中央工高から坂井将吾向上高から鈴木雄太駒澤大から鈴木亮平羽黒高からドグラス、韓国の白岩高からイ・ジョンミンが加入した。

シーズン途中には、新潟から2004年に山形でプレーした宮沢克行を、FC東京から前田和也を完全移籍で獲得した。

この年からサテライトリーグへの参加を開始した。(2009年に廃止。2010年以降はみやぎチャレンジリーグに参加)

リーグ戦は、序盤に第8節まで勝利することが出来ず最下位に沈み、不満を抱えた一部の山形サポーターが監督の樋口や、専務理事兼ゼネラルマネージャーの金村勲(当時)に対して、引責辞任を求める座り込みの抗議行動が試合後に起こった。その後は、レアンドロが得点源となり(通算23得点 J2得点ランキング3位)活躍するなど、攻撃面で健闘した結果、順位が中位まで浮上した。しかしその反面、守備に安定感を欠いたことや、主力選手を怪我で欠くなどの影響が響いた為、これ以上順位が上がることは無く、8位でシーズンを終えた。天皇杯では4回戦で甲府に敗れた。

なお、2006年度予算は約1億3000万円程度を計上し、その赤字の穴埋めをする為に『J1昇格準備金』として用意していた予算を大幅に取り崩した。

シーズン途中に、任期満了に伴い金森義弘が理事長を退任。金村も連帯する形で退任した。後任には鹿島元専務の海保宣生が理事長に就任した。また、シーズン終了後には、財政難で選手補強や有望新人の獲得が難しい状況の中、スカウト部門の強化を図る為、鹿島のスカウト担当部長だった平野勝哉を強化育成部アドバイザーとして招聘した。

11月28日には、長年に渡りチームを支えた高橋健二と、太田雅之が現役引退を表明。共にフロント入りした。[6][7]

2007年[編集]

クラブスローガン:再創生 リスタート

樋口体制2年目。

昨シーズンに23得点を挙げるなど活躍したレアンドロ神戸に完全移籍した。また、永井篤志仙台に、内山俊彦が神戸に、原竜太湘南に、氏原良二草津に、高林佑樹JFLTDK SCに、阿部祐大朗北信越社会人1部フェルヴォローザ石川・白山FCに、ドグラスKyuリーグニューウェーブ北九州に完全移籍し、桜井繁甲府にレンタル移籍した。その他、イ・ジョンミンが退団した。
補強面では、名古屋から北京五輪代表を目指すべく出場機会を求めていた豊田陽平を、鹿島から1999年FIFAワールドユース選手権の準優勝メンバーだった石川竜也をレンタル移籍で獲得。更に、横浜FCから北村知隆を、京都から1999年~2003年まで山形に在籍していた鷲田雅一を、FC東京から遠藤大志を完全移籍で、浦和から横山拓也をレンタル移籍で獲得した。また、清水健太がレンタル移籍から完全移籍に移行した。新人では、順天堂大から佐藤健太郎中央大から園田拓也富山第一高から高橋駿太が加入した。

シーズン途中には、群馬県社会人1部の図南SCから須田興輔を、ブラジル2部のアラピラケンセからグスタヴォen)を完全移籍で獲得した。

序盤は首位に立ったものの、怪我人の続出を補いきれない選手層の薄さと、深刻な得点力不足から急速にチームは失速。そして、45節愛媛戦にて1-3で敗れ、昇格の可能性が消滅。15勝13分20敗の9位でシーズンを終えた。天皇杯は4回戦でG大阪と対戦したが、PK戦で惜しくも敗れた。

シーズン終了後、樋口が契約満了で監督を退任。コーチの島根聡一GKコーチの南省吾も退任した。

11月30日には、主力フォワードの一員として山形の攻撃陣を牽引した林晃平が現役引退を表明した。[8]

2008年[編集]

クラブスローガン:BE MOVING!

C大阪元監督の小林伸二が監督に就任した。
チームの看板選手として活躍した佐々木勇人G大阪に、臼井幸平湘南に、前田和也関東社会人1部日立栃木UVAに、鷲田雅一JFL栃木SCに、鈴木亮平北信越リーグ1部松本山雅に、横山拓也愛媛に完全移籍し、グスタヴォen)、須田興輔が退団した。補強面では、から長谷川悠を、C大阪から宮本卓也を、FC東京からリチェーリをレンタル移籍で、福岡から宮崎光平内藤友康を完全移籍で獲得。新人では、明治大から石井秀典市立船橋高から山田拓巳柏レイソルU-18から太田徹郎前橋育英高から廣瀬智靖が加入した。
シーズン途中には、千葉から馬場憂太をレンタル移籍で獲得した。

14節終了時は7位だったが、次第に組織的な守備をベースとした戦術が浸透し、少ない得点で勝ち切る試合が増えていった。また、北京五輪日本代表に選ばれた豊田陽平や、加入後にストライカーとして才能を開花させた長谷川を中心とした若手選手の活躍により、仙台とのみちのくダービーでは9年振りに勝ち越すなど、シーズン中盤からはJ1自動昇格圏の2位をキープした。 そして、11月30日第44節の愛媛戦(右図)にて勝利を収め、2位が確定。翌12月1日のJリーグ臨時理事会でJリーグ ディビジョン1(J1)昇格が認められ、J2参加10年目にして、1999年のJ2初年度に参加したチームで9番目のJ1初昇格を果たした。天皇杯は4回戦で川崎に敗れた。

シーズン終了後、根本亮助が現役引退を表明。Jrユース庄内コーチに就任した。

2009年 - 2011年(J1)[編集]

2009年[編集]

クラブスローガン:J1出陣。

クラブ史上初となるJ1リーグ1年目のシーズンを迎え、小林体制2年目がスタートした。
2トップの一角としてJ1昇格に貢献した豊田陽平京都に、本橋卓巳栃木SCに、高橋駿太関東社会人1部日立栃木UVAに、内藤友康東北社会人1部福島ユナイテッドFCに、昨シーズンまで甲府にレンタル移籍していた桜井繁仙台に完全移籍し、リチェーリ馬場憂太が退団した。

補強面では、C大阪から古橋達弥を、ポルトガル1部のセトゥーバルからキム・ビョンスクを完全移籍で、川崎から植草裕樹から小林亮をレンタル移籍で獲得。更に、石川竜也宮本卓也レンタル移籍から完全移籍に移行した。また、ブラジル1部のクルゼイロからジャジャを、ブラジル2部のSEガマからアンドレ・シルバをレンタル移籍で獲得したが、出場機会を得られないままシーズン途中で退団している。新人では、山形FCユースから栗原祐樹が加入。ユース所属の佐藤永志がトップチームに昇格した。

シーズン途中には、浦和から赤星貴文を、広島から西河翔吾を、ブラジル1部のアトレチコ・パラナエンセからファグネルをレンタル移籍で獲得した。

J1開幕戦は磐田と対戦。チーム記録となる6得点を奪い、6-2でJ1初勝利を収めた。その後は、怪我人が続出するなど戦力が維持出来なくなり、16節終了時点でJ2降格圏内の16位まで順位を下げた。この苦境を打破するべく、西河らをレンタル移籍で獲得。これが功を奏し、30節終了時点で15位と残留圏内まで浮上。更には、降格圏内である16位のとの勝点差を10に広げた。しかし、31節鹿島戦(スコア0-2)では、Jリーグ史上初のシュート本数0本を記録するなど、終盤に近づくにつれ精彩を欠いていった。11月28日の33節名古屋戦においても0-2で敗れたが、16位の柏が大宮[注 1]にて1-1で引き分けた為、残り1試合で勝ち点差が4となり、順位が降格圏まで下がる可能性が無くなったことから、J1残留が確定した。最終的には10勝9分15敗の15位でシーズンを終えた。天皇杯では3回戦で明治大学に敗れた(スコア0-3)。公式戦でJ1クラブが大学チームに敗れたのは史上初の出来事だった。

2010年[編集]

クラブスローガン:前へ!

小林体制3年目。

財前宣之タイ・プレミアリーグムアントン・ユナイテッドに、小原章吾愛媛に、渡辺匠熊本に、木村誠がJFLの金沢に、木藤健太Kyuリーグ三菱重工長崎SCに、遠藤大志がJFLのソニー仙台に完全移籍した。また、長年に渡り守備の要として活躍したレオナルドと、赤星貴文坂井将吾ファグネルが退団した。
補強面では、懸案であった攻撃陣の弱さを補うべく、鹿島から田代有三増田誓志をレンタル移籍で獲得した。また、千葉から戦力外通告を受けてトライアウトに参加していた下村東美を、城南一和から元U-23韓国代表ハン・ドンウォンを完全移籍で、横浜FMからキム・クナンをレンタル移籍で獲得。更に、2008年・2009年のチーム得点王である長谷川悠と、昨シーズン途中加入し残留に大きく貢献した西河翔吾がレンタル移籍から完全移籍に移行した。新人では、国士舘大から伊東俊浦和ユースから中村隼高知大から中野圭が加入した。

シーズン途中には、C大阪から前田和哉を完全移籍で獲得した。

クラブの経営力向上に尽力した理事長の海保宣生が、健康上の理由により3月末をもって退任。後任として山形県サッカー協会専務理事の川越進が就任した。

開幕から4戦未勝利でスタート。第5節の広島戦で初勝利。11節FC東京戦、12節新潟戦は共にに3失点を喫し、第12節終了時点で4勝2分6敗の13位で2010 FIFAワールドカップに伴うリーグ中断期間を迎えたが、リーグ再開後の戦術は、ナビスコカップから機能し始めた4-3-3のシステムが主流となり、徐々に勝ち点を増やしていく中で、J1では初めての開催となる、みちのくダービーでは3-1で勝利した。その後、浦和やG大阪、横浜FMといった強豪相手にも勝利を収め、第32節の京都戦に勝利してJ1残留を決めた。天皇杯は準々決勝で清水と対戦したが、PK戦で惜しくも敗れた。

シーズン終了後、ヘッドコーチの長島裕明FC東京のトップチームコーチに就任する為、退団した。

2011年[編集]

クラブスローガン:「粘強」NEZZUGU

小林体制4年目。

キム・ビョンソクハン・ドンウォン佐藤永志栗原祐樹が退団し、田代有三増田誓志キム・クナンがレンタル元に復帰した。
補強面では、鹿島から船山祐二福岡から大久保哲哉、ルーマニア1部のCFRクルジュからウーゴ、サンパウロリーグ1部(ブラジル)のリオクラロFCからマイコン、元東京Vエルサムニー・オサマを完全移籍で獲得。鹿島から川島大地をレンタル移籍で獲得した。また、植草裕樹小林亮がレンタル移籍から完全移籍に移行した。

シーズン途中には、広島から山崎雅人をレンタル移籍で獲得した。

序盤戦からチーム内で怪我人が続出したり、ウーゴが家庭の事情で4月に退団するなど不意のトラブルが重なる中で、調子の波が掴めない状態が続いた結果、第20節を終えて降格圏内の17位に沈んだ。シーズン途中に、広島から山崎を獲得して巻き返しを図ったが、崩壊した守備を立て直すことが出来ず、失点を量産した。そして、11月3日に残り3節を残してJ2降格が決定。第32節では福岡に敗れ最下位に転落し、そのままシーズンを終えた。 天皇杯は3回戦でJ2京都に敗れた。

シーズン終了後に小林伸二が監督を退任した。理事長の川越も任期満了を待たずに辞任し、副理事長の高橋節が2012年3月末まで理事長代行を務めることになった。(2012年4月1日より理事長に就任)

2012年 - (J2)[編集]

2012年[編集]

クラブスローガン:「連」 連動・連携・連結

監督に元鹿島コーチの奥野僚右が就任。

長谷川悠大宮に、古橋達弥下村東美湘南に、佐藤健太郎千葉に、宮崎光平徳島に、園田拓也愛媛に、大久保哲哉横浜FCに、植草裕樹神戸に完全移籍し、マイコンエルサムニー・オサマが退団した。
補強面では、山崎雅人がレンタル移籍から完全移籍に移行し、鳥栖から永田亮太、昨シーズン草津でプレーしていた萬代宏樹を完全移籍で、仙台から中島裕希清水から岡根直哉から昨シーズンJFL秋田でプレーしていた比嘉厚平をレンタル移籍で獲得した。新人では、明治大学から宮阪政樹慶應義塾大から日高慶太が加入した。宮阪は2009年天皇杯3回戦で山形を破った明治大学イレブンの一人だった。
シーズン途中には、から林陵平C大阪からブランキーニョをレンタル移籍で獲得し、伊東俊愛媛へレンタル移籍した。

リーグ戦については、開幕戦で千葉に敗れたが、2節から3連勝、6節から11試合連続負け無しの成績を収めるなど、13節、17節、18節、21節終了時に首位に立った。しかし、後半戦初戦となる22節栃木戦で敗れ4位に後退。その後しばらくJ1昇格プレーオフ圏内となる6位前後の順位を維持し、32節終了時には4位まで順位を戻したものの、33節鳥取戦から3連敗を喫するなど、最終10試合の成績は1勝2分7敗と失速。最終的には10位でシーズンを終えた。天皇杯では3回戦でC大阪に敗れた。

6月3日J2第17節ホーム開催のガイナーレ鳥取戦で、3人の途中交代を含めた出場フィールドプレイヤー13人全員がシュートを記録した(計27本、スコア5-1)。

前年度までキャプテンを務め、クラブ初のJ1昇格に貢献した宮沢克行が、11月8日に現役引退を表明した。[9]

2013年[編集]

クラブスローガン:「信」 shin 進化 深化 神化

奥野体制2年目。コーチ陣が一新され、川崎町田の監督を歴任した相馬直樹がヘッドコーチに就任した。

太田徹郎に、鈴木雄太湘南に、船山祐二宮本卓也福岡に、前田和哉北九州に、永田亮太群馬に、中野圭JFL佐川印刷SCに、北村知隆三重県社会人2部ヴィアティンFCに完全移籍し、ブランキーニョ岡根直哉川島大地がレンタル元に復帰した。

補強面では、水戸からロメロ・フランク京都から中村太亮FC東京から常澤聡横浜FCから堀之内聖大分から作田裕次を完全移籍で獲得。 また、レンタル移籍だった中島裕希林陵平比嘉厚平が完全移籍に移行し、愛媛にレンタル移籍していた伊東俊が復帰した。

新人では、盛岡商業高から谷村憲一、韓国の成均館大学校からU-20韓国代表イ・ジュヨン、同じく韓国の建国大学校からキム・ボムヨンが加入。ユース所属の鈴木翼がトップチームに昇格した。

シーズン途中には、JFLのソニー仙台から大久保剛志、ウルグアイ1部のCAベジャ・ビスタからペーニャが加入し、日高慶太が町田へレンタル移籍した。

リーグ戦については、開幕2試合は連敗スタートだったが、3節から4連勝し、6節終了時点で2位に浮上した。しかし、7節から3連敗、22節から4連敗を喫し、26節終了時点には14位まで順位を下げた。その後は連敗無く中位付近の順位を推移して、J1昇格プレーオフ争いにも絡んだが、それも及ばず10位でシーズンを終えた。天皇杯は4回戦で川崎に敗退した。

シーズン終了後、奥野が契約満了で監督を退任。相馬はヘッドコーチを退任後、町田の監督に再び就任した。[10]

前年度と比較して得点力が大幅に向上し、総得点数は74点を記録。同年にJ1昇格を果たしたG大阪神戸に次いで3番目に高い記録だった。

しかし、かねてからの課題だった守備構築の改善は上向くことが無く失点を重ねた為、総失点数はリーグワースト4位となる61点を記録した。

無失点試合は、3節・長崎戦、10節・熊本戦、38節・愛媛戦、42節・東京V戦の4試合に留まった。

2014年[編集]

クラブスローガン:新風

前身のNEC山形元監督である石崎信弘が監督に就任[11]。山形には16年振りの復帰となった。
また、横浜FMの強化部長を務めていた石井肇をチーム強化・統括を担当するテクニカルダイレクターとして招聘した。

中村太亮千葉に、作田裕次金沢に、大久保剛志タイ・プレミアリーグバンコク・グラスFCに完全移籍し、廣瀬智靖徳島に、中村隼長崎にレンタル移籍。堀之内聖ペーニャが退団した。

補強面では、ブラジル2部のアメリカ-RNから東京Vなどで活躍したディエゴを、富山から舩津徹也を、栃木から當間建文を、磐田から松岡亮輔を、愛媛から兼田亜季重を完全移籍で獲得し、G大阪から川西翔太をレンタル移籍で獲得した。また、町田にレンタル移籍していた日高慶太が復帰した。新人では、横浜FMユースから、2013年日本クラブユースサッカー選手権(U-18)において、MVPに輝いた汰木康也が加入した。 5月31日清水健太が大分トリニータ戦で負傷し、離脱を余儀なくされた。 6月16日即戦力のGKが必要な為、浦和レッズから山岸範宏を期限付きで獲得した。

2月1日に、株式会社モンテディオ山形にトップチーム事業を移行。協会理事長の高橋節が初代社長に就任した。

成績[編集]

タイトル・表彰[編集]

クラブ[編集]

個人別[編集]

スタジアム・練習場[編集]

Jヴィレッジスタジアム
年度・競技場別の試合数
※1999年のJ2加盟以後。[12]
年度 リーグ戦 ナ杯 備考
山形県陸 山形市陸 その他
1999 14 2 鶴岡2 山形県陸1
2000 16 2 鶴岡2 山形県陸1
2001 16 2 鶴岡2 山形県陸1
2002 22 0   不参加 この年より県内での試合を山形県陸に一本化
2003 22 0  
2004 21 0 秋田陸1
2005 21 0 Jヴィレ1 Jヴィレでの1試合は
山形県陸のピッチコンディション悪化による代替処置
2006 24 0  
2007 24 0   山形県陸=命名権採用により「NDスタ」に変更
2008 21 0   J1昇格
2009 17 0   NDスタ3
2010 17 0   NDスタ3
2011 17 0   NDスタ1 J2降格
2012 21 0   不参加
2013 21 0

ホームスタジアムについて[編集]

メインスタンド防水層の劣化による漏水、スタンド表面の防水層の剥がれによる歩行上の支障等により、2006年から2年間NDスタの改修工事が行われた[13]

2009年J1第2節(3月14日)の名古屋戦は積雪のもとで試合を行った[14]

2013年2月22日、山形市はモンテディオのホームスタジアム移転も視野に入れて、山形県などと共同で山形市内に新しいスタジアムを建設したい旨を表明[15]。3月5日の山形県議会で「山形市のスタジアム構想」に関して質疑が行われ、山形県は山形駅西口の県有地への建設は困難との考えを示した[16]。3月5日、天童市議会は本拠地の存続などを求める要望書を山形県知事に提出する旨の議案を全会一致で可決した[17]

マスコット[編集]

  • ディーオ:カモシカをモチーフとしたマスコット。角を3本持ちスピードや力強さ、賢さを表現[1][18]
  • モンテス:岩石をモチーフとしたマスコット。頭部の3つの突起が出羽三山を表現[1][18]

マスコット決定の経緯[編集]

2005年8月よりマスコットのデザインに関する公募を開始[18]。1,766点の応募より絞り込まれた3点に対するサポーター投票が行われた[18]

なお、2005年12月20日の第2回選定委員会でチームマスコットとなる1点を決定する予定だったが、選定委員会の席上でサポーター投票で最下位の岩石をモチーフとしたキャラクターを推す選定委員長である東北芸術工科大学教授(当時)上條喬久とそれに反発するサポーター選定委員2名との間で意見が分かれてしまい、そのために折衷案としてJリーグとしては初の異なるモチーフの2体がマスコットとして併用されることになった。ちなみに、その時の採用謝礼金の30万円は折半された。[19]

2006年1月18日のJリーグ実行委員会よりマスコットとしての使用が承認。2006年3月より名称の公募を行い[18]、同年6月30日に1,655点の中から2体の名称がそれぞれ『ディーオ』と『モンテス』と名付けられた[18]

登場からしばらく、ディーオ、モンテス共に他チームのマスコットの様な「着ぐるみ化」はされていなかったが、2008年1月に東北芸術工科大学の学生が卒業作品として制作したディーオの着ぐるみが登場。同年3月に荘内銀行が寄贈したモンテスのエアドームが登場した。

トピック[編集]

モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想[編集]

2008年、山形県スポーツ振興21世紀協会は、ホーム戦の観客動員数が慢性的に低迷していた状況を踏まえ、その梃子入れ策の一環としてクラブのイメージを一新する『モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想』を打ち出した。7月以降、デザイナーで東北芸術工科大学教授の中山ダイスケにプランニングを依頼。12月18日、最終的な構想案を山形県総合運動公園総合体育館内の会議室で行われた非公開の臨時理事会で説明した。

概要
  • クラブ名称は県内の4地域全てから見る事が出来る出羽三山月山から名づけた「月山山形」。
  • イメージカラーは東北地方と雪国などをイメージした「白」、月山や山形の空などから想像した「銀と黒」。
  • 月山をイメージした月と山を組み合わせたロゴ。
  • 三角マークを組み合わせた市松文様のデザインを使ったユニホーム。
  • ホームスタジアムの新装。
  • スポンサー等とチームが一体となった、チームと山形の観光・物産のPR。
  • アウェーサポーターへの「おもてなし」。

モデルチェンジ案は山形にこだわり、チームの新しいイメージを構築することを目的としたもので、中山は「チームが山形そのものにならなければならない」と主張、提案した新名称「月山山形」は中山自ら商標登録を出願して保護したほどだった。

だが、この名称案が報道などで山形県民に知られるところとなると、その奇抜な名称にサポーターはもとより多くの県民が強い拒絶反応を示した。[要出典]そうしたこともあって、この臨時理事会に出席した13人の理事の半分以上がこの構想案に反対し、結局この日の理事会は「海保・中山・21世紀協会理事・公募のサポーターなどを含めた10人程度のプロジェクトチームを組織して、2009年5月のJリーグ理事会までをめどに結論を出す」という方針を決定したのみで、クラブ名称やイメージカラーの変更に関しては継続審議として終了。議論は当初の予定時間を1時間20分も上回る2時間30分にも及んだ[20]

2009年1月30日、先の方針を受けて同構想を検討するプロジェクトチームの一般公募メンバーが決定、2月5日にはプロジェクトチームの初会合が行われた。しかしその後、2月25日3月11日の計3回に渡って会合を重ねたものの、クラブ名称とイメージカラーの変更に関しては、参加メンバーから「『モンテディオ』は既にサポーターに親しまれている。愛着がある名前を変えてほしくない」「J1昇格をきっかけに全国でも知られるようになった」など、終始強い抵抗感が示された[要出典]。結局3月の会合で「J1昇格でクラブへの関心が高まっている時期に、敢えて実施する必要はない」と結論付け、「クラブ名称『モンテディオ山形』は変更しない」「青と白を基調としたホーム用ユニフォームは変更しない」「黄色を基調としたアウェー用ユニフォームは今後の状況を踏まえて変更する」と決定。その一方で、チームが山形県全体をアピールしていく存在になるという理念を今後も活かしていくとした。

3月19日に県総合運動公園総合体育館会議室で行われた同協会の通常総会で、海保は同構想の実現を断念すると報告[21]。海保は「J1昇格で盛り上がっている時こそ構想に取り組むべきだと考えたが、県民の合意がないと実現できない。今の盛り上がりをクラブの財産にする方に全精力を費やしていきたい」と語った。

観客動員数の増加[編集]

J2時代の山形の観客動員数は「みちのくダービー」(仙台戦)以外は毎試合空席が目立ち、1試合の平均観客動員数は最下位クラスの約2000~6000人の間を長年推移して来た[22]

Jリーグ加盟初年度からチームのチケット収入は伸び悩み、その現状はスポンサー収入にも少なからず影響を及ぼした。そのため、試合観客動員数の増加は長年に渡るチームの命題だった。2006年にフロント陣が刷新されるまでは目立った対策をほとんど行わなかったが、2006年に海保が理事長に就任してからは目標とする1試合の平均観客動員数をまずは「6000人」(2008年)と定め、更にはサポーターとクラブの合同で専門のプロジェクトチーム「B・Mミーティング」(2008年)を立ち上げた[23]。その結果、2008シーズン第15節仙台戦(15,422人)のみちのくダービー、第35節広島戦(14,392人)・第41節湘南戦(11,345人)・第43節熊本戦(13,018人)における昇格争いとJリーグ加盟後となる1シーズン4ゲームの10,000人突破を記録し、シーズン目標としていた1ゲーム平均6,000人を超える6,273人を記録した。ただし、2008年度おいて入場者の4分の1は招待券によるものであり、観客収入は約0.9億円であった。

2009シーズンにおいては、リーグ戦平均11,000人を目指し、結果目標を上回る12,056人となったが、1万5000人を上回るカード(浦和戦(20,102人)・新潟戦(17,171人)・鹿島戦(16,658人)・G大阪戦(16,547人))と1万人を割るカード(京都戦(6,554人)・大分戦(8,011人)・千葉戦(9,172人))と対戦カードによる観客動員の波が激しかった[24]。なお、2009年度の観客収入は3.39億円で前年度を大きく上回った。

運営法人の株式会社化[編集]

2013年まで運営法人はJリーグ加盟クラブで唯一公益法人(山形県スポーツ振興21世紀協会。以下「協会」)であった。しかし、逆に選手の年俸や選手補強にかけられる予算が他チームよりも限られているために高額な年俸の選手は抱えられないという一面もあり、監督経験の少ない新人監督や他チームで戦力構想外となった解雇選手やレンタル移籍の選手を獲得せざるを得ない状況である。しかし、チームはそういった人材の育成には実績があり[要出典]、山形での活躍を機に他チームへと移籍していく例が多い。また、育成組織(アカデミー)からトップチームへと昇格した例には、白井貞義(2000年昇格)、秋葉勝2002年昇格)、佐藤永志2009年昇格)がいる。

その反面、資金的な問題から他チームに引き抜かれそうな監督や主力選手に対しての金銭面での引き留めは難しく、結果的に彼らの大半はそのまま好条件のチームへ引き抜かれる事となる。そのため人材の流動が激しく、チームの成績もなかなか安定しない。[要出典]2009年は、シーズン終了時点の最古参選手が2002年にユースから昇格した地元・山形県出身の秋葉勝であり、それ以外の選手はJ1昇格を決めた2008年以降の加入者が大半を占めていた。

協会は2012年4月に今後の運営体制を検討する「法人運営検討委員会」を発足。議論の結果、トップチームの運営を株式会社化する一方で、ユース・アカデミー・ホームタウン事業は引き続き協会にて行うことを決めた[25]

2013年5月、トップチームの株式会社化に向けたパートナー企業の募集を開始[26]。6月、パートナー企業としてアビームコンサルティングを選定[27]。8月20日、協会は臨時総会で「株式会社モンテディオ山形」の設立に必要な出資案件を可決し[28]、8月29日に株式会社モンテディオ山形を設立した[4]。11月、山形県は株式会社モンテディオ山形を山形県総合運動公園の指定管理者に選定した(期間は2014年4月1日から5年間)[29]

2014年2月1日付けをもって、男子サッカー部トップチーム(第1種登録)の運営を正式に(公社)山形県スポーツ振興21世紀協会から(株)モンテディオ山形に移管する。また同2月28日をもって、NDスタを含む山形県総合運動公園の指定管理業務を行っていたやまがたスポーツパーク(株)を合併(統合後の存続会社は(株)モンテディオ山形)[30]した。

ユニフォーム[編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1] [1] [1]
FP(2nd) [1] [1] [1]
GK(1st)
GK(2nd) 黄緑 黄緑 黄緑
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー[編集]

  •    [1]   [1]

ユニフォームについて[編集]

  • -1999年:青(肩部分に白と黄)。
  • 2000年 - 2009年:青×白の縦ストライプ
  • 2010年 - 2011年:青地に白い縦線が左胸に1本
  • 2012年 - 2013年:青地に下半分に白いストライプ
  • 2014年 - :青地に白い2本の縦縞

また、白いストッキングはアウェイの仙台戦、栃木戦など対戦相手のユニフォームによって使用する。

ユニフォームスポンサー[編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
山形つや姫ブランド化戦略推進本部 つや姫 2009年〜
背中 平田牧場 平田牧場 1999年〜2007年、
2009年〜
2008年は胸
でん六 でん六 2001年〜
パンツ 山形食品 山形代表 2014年〜

ユニフォームサプライの遍歴[編集]

歴代ユニフォームスポンサー年表[編集]

年度 背中 パンツ サプライヤー
1997 紅花の山形路 米エリアYAMAGATA プーマ
1998 はえぬき 四季感動の
やまがた
1999 米どころ
山形県はえぬき
平田牧場
2000
2001 はえぬき でん六
2002 NEC山形
2003
2004
2005
2006
2007
2008 平田牧場 NECセミコンダク
ターズ山形
2009 つや姫(※) 平田牧場
2010 トプコン山形
2011
2012
2013
2014 山形食品
  • 2009年の胸スポンサーと背中スポンサーについては、開幕前に決定していたが、ユニフォームに掲出するロゴの制作が間に合わず(#「はえぬき」と「つや姫」を参照)、第1節はスポンサーロゴを掲示しなかった。
  • ※「つや姫」は、2009年が山形県とJAグループから成る「『つや姫』ブランド化戦略実施本部」、2010年は「おいしい山形推進機構(事務局:山形県農林水産部新農業推進課)、全国農業協同組合連合会山形県本部(JA全農山形)、JAグループ山形、JA全農山形庄内米ファンクラブ」、2011年および2012年は「山形県・JAグループ山形」、2013年は「山形つや姫ブランド化戦略推進本部」。

「はえぬき」と「つや姫」[編集]

山形県農業協同組合中央会(JAグループ山形)はモンテディオの1999年のJリーグ加盟初年度以来、ユニフォームの胸スポンサーを務めている(上表参照)が、2008年は広告料の値上げを希望していたクラブ側と金銭面で折り合わなかったのが原因でら一時撤退した経緯がある。

JAグループ山形は県内で開発された水稲の新品種「山形97号」に関し、2009年のJ1昇格に合わせ、再びクラブの胸スポンサーとなってPRする意向を示した。2009年2月23日、この新品種の名称が7つのネーミング候補の中から「つや姫」に選ばれると共に、急ピッチで胸ロゴの制作に着手。3月7日のアウェイでの開幕戦(磐田戦)には間に合わなかったものの、3月14日のホーム開幕戦(名古屋戦)でユニフォームが披露された。

応援スタイル[編集]

アンセム[編集]

応援歌[編集]

試合勝利時に歌われる。
  • BLUE IS THE COLOUR (モンテディオ山形Ver.)
原曲はイングランドチェルシーFCの応援歌であるが、「Chelsea」の部分を「Yamagata」へ変えている。
  • チームコール
  • モンテディオコール
  • 青き旗
  • Park (モンテディオ山形Ver.)
原曲はシカゴ「Saturday In The Park」。
  • FORZA山形
  • SAMBA
  • 山形DIO
  • Get Goal
  • バモ山形
  • カモン山形
  • SAMURAI (モンテディオ山形Ver.)
原曲は「Carnaval de Paris」
  • 山形ゴール
  • ハンドクラップ
  • オレオ山形

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 名古屋戦終了の約1時間後にキックオフ。
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am クラブガイド:モンテディオ山形”. 日本プロサッカーリーグ. 2013年11月30日閲覧。
  2. ^ 株式会社モンテディオ山形会社概要のお知らせ
  3. ^ a b 2012年度 平成24年度 Jクラブ個別情報開示資料 (PDF) Jリーグ公式サイト
  4. ^ a b “株式会社モンテディオ山形 会社概要のお知らせ” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2013年9月12日), http://www.montedio.or.jp/info/clubinfo/20130912-03.html 2013年11月30日閲覧。 
  5. ^ サッカー:モンテディオ山形、黒字化の見込み 今年度決算、動員・広告予想上回る/山形 - 毎日jp・2013年1月29日
  6. ^ モンテディオ山形 高橋 健二選手引退のお知らせ”. モンテディオ山形オフィシャルサイト (2006年11月28日). 2014年1月20日閲覧。
  7. ^ モンテディオ山形 太田 雅之選手引退のお知らせ”. モンテディオ山形オフィシャルサイト (2006年11月28日). 2014年1月20日閲覧。
  8. ^ モンテディオ山形 林晃平選手引退のお知らせ”. モンテディオ山形オフィシャルサイト (2007年11月30日). 2014年2月9日閲覧。
  9. ^ 宮沢克行選手現役引退のお知らせ”. モンテディオ山形オフィシャルサイト (2012年11月8日). 2014年1月14日閲覧。
  10. ^ 相馬直樹氏 FC町田ゼルビア監督就任のお知らせ”. モンテディオ山形オフィシャルサイト (2013年12月5日). 2014年1月14日閲覧。
  11. ^ “モンテディオ山形 石崎信弘監督就任のお知らせ” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2013年11月27日), http://www.montedio.or.jp/info/topteaminfo/20131127-03.html 2013年11月30日閲覧。 
  12. ^ フットボールガイスト
  13. ^ “改修工事のお知らせ” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2006年7月24日), オリジナルの2010.12.4時点によるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20101204210548/http://www.montedio.or.jp/news/news_060714_2.htm 2013年11月30日閲覧。 
  14. ^ J1:第2節 山形 vs 名古屋”. J's GOAL (2009年3月14日). 2013年3月9日閲覧。
  15. ^ 山形市がモンテ本拠地誘致へ 市川市長が表明、「ドーム型構想」は凍結”. 山形新聞 (2013年2月22日). 2013年3月9日閲覧。
  16. ^ J2山形の本拠地誘致 県議会で新スタジアム構想を議論”. 河北新報 (2013年3月6日). 2013年3月9日閲覧。
  17. ^ 天童市議会「本拠地存続を」 山形市サッカースタジアム構想”. 河北新報 (2013年3月5日). 2013年3月9日閲覧。
  18. ^ a b c d e f モンテス・ディーオ”. モンテディオ山形. 2013年11月30日閲覧。
  19. ^ マスコットは誰のものか?” (2006年1月17日). 2014年2月11日閲覧。
  20. ^ 「スポーツ山形21 臨時理事会について」 モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト
  21. ^ 「フルモデルチェンジ構想断念 モンテ運営の21世紀協理事長」 山形新聞、2009.03.19
  22. ^ J2リーグ 試合観客動員数 Jリーグ公式サイト
  23. ^ 「観客動員は苦戦中」 朝日新聞 山形県内版、2008.04.30
  24. ^ 「観客動員の波大きく」 山形新聞、2009.12.09
  25. ^ 社団法人山形県スポーツ振興 21 世紀協会「法人運営検討委員会 」 報告書 (PDF)
  26. ^ “運営形態の改善企画提案と実施に係るパートナー募集要項のお知らせ” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2013年5月14日), http://www.montedio.or.jp/info/clubinfo/20130514-01.html 2013年11月30日閲覧。 
  27. ^ “運営形態の改善企画提案と実施に係るパートナー企業決定のお知らせ” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2013年6月13日), http://www.montedio.or.jp/info/clubinfo/20130613-01.html 2013年11月30日閲覧。 
  28. ^ “第1号議案「平成25年度事業計画の変更について」可決内容” (プレスリリース), モンテディオ山形, (2013年8月20日), http://www.montedio.or.jp/info/clubinfo/20130820-03.html 2013年11月30日閲覧。 
  29. ^ 「山形県総合運動公園」の指定管理者の候補者選定結果について (PDF) 山形県 2013年11月13日、2013年11月30日閲覧
  30. ^ 合併公告(2014年2月28日 即日閲覧)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]