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山本浩

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やまもと ひろし
山本 浩
プロフィール
愛称 トラ
出身地 日本の旗 日本 島根県松江市
生年月日 (1953-04-12) 1953年4月12日(71歳)
最終学歴 東京外国語大学外国語学部ドイツ語学科卒
職歴 日本放送協会
活動期間 1976年 - 2015年
ジャンル スポーツ
担当番組・活動
出演経歴 Jリーグ中継FIFAワールドカップ実況中継

山本 浩(やまもと ひろし、1953年4月12日[1] - )は、日本の元アナウンサー法政大学スポーツ健康学部教授(社会学・スポーツジャーナリズム論)[2]。元日本放送協会 (NHK) エグゼクティブアナウンサー、解説委員(スポーツ・体育分野担当)。

アナウンサーとしてはサッカー中継の実況に数多く携わったことで知られる。

来歴

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島根県松江市生まれ[1]。小学4年から中学2年まで静岡県浜松市に住んだことでサッカーに親しむ環境を得る[3]埼玉県立川越高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部ドイツ語学科卒業。大学時代に当時ワールドカップ西ドイツ大会が行われていた西ドイツに3ヶ月間インターンシップで訪れている[3]

就職活動の際、海外特派員を目指してNHKの記者職を志望していたが、大学に割り振られた応募用紙の数よりも希望者数が上回り、じゃんけんに負けて入手できず一旦は断念[1]。その後、商社やメーカー、民放を対象に就職活動していたところ、NHKのアナウンサー職の応募用紙が回ってきて、迷ったものの、最初はアナウンサーでも途中から記者に変わることが可能だと聞いて応募。最終試験日は民放の記者職の受験と重なったが、担当者の勧めを受け入れてNHKの面接に臨み、内定を得る[3][1][4]1976年入局後の初任地は福島局で、高校野球福島大会の実況を担当するうちに、解説者と話しながら勉強したりするのが面白くなり、記者職への思いは薄れていったという[1]

その後松山局に赴任してから本格的にスポーツ担当となり、当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部に所属していた帝人松山などを取材するなどしてサッカーへの造詣を深める[5]1982年に第13回全国中学校サッカー大会愛媛県で開催され、その決勝戦(静岡県・観山中岡山県宇野中)の実況を担当したのが全国放送でのサッカー実況デビューであった[3]。この試合の解説を当時日本代表コーチだった花岡英光が担当したことが縁で、花岡から当時日本代表監督だった森孝慈を紹介してもらい、さらに翌1983年に日本代表が松山市で合宿をした際、ドイツ語学科卒の山本が臨時コーチのベルティ・フォクツへのインタビューを自ら申し出たのが契機となってサッカーに本格的に関わるようになった[3][6][7]

当時サッカーの実況担当を希望する人間が少なかったこともあり、東京アナウンス室異動後はサッカー関連の業務が増え、1985年に開催されたFIFAワールドカップメキシコ大会アジア地区最終予選ゾーンB・日本対韓国戦は10月26日の第1戦(国立競技場)と11月3日の第2戦(ソウル蚕室陸上競技場)の実況を共に担当した[8]。さらにワールドカップメキシコ大会の本大会はプロ野球のシーズンとも重なったことに加え、NHK-BSでの放送中継数が増えたこともあって若手アナウンサーが抜擢されて派遣され[5]、15試合もの実況を担当、当時は情報も少なく、事前の情報収集から準備確認まで1人で行わざるを得なかったという[9]。同大会では、準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦におけるディエゴ・マラドーナの5人抜きドリブルのすべてを「マラドーナ」と4度連呼するだけで伝えた実況などにより、多くのサッカーファンの記憶に残る名実況者として名を挙げられている[10]1993年Jリーグ開幕戦では、当時地元チームが存在していなかった福岡局勤務だったにもかかわらず抜擢され出張し実況を担当、そのまま東京に異動となったという経歴も持つ[3][10]。以後、500試合以上で実況を担当した。

サッカー以外のスポーツも広く担当しており、特にアルペンスキーの実況を多く担当。長野オリンピックでの実況を始め、冬季オリンピックでの滑降などの実況を担当している。また、高校野球においても、7対29の記録的なワンサイドゲームとなったPL学園東海大山形戦(1985年8月14日第67回全国高等学校野球選手権大会第7日第2試合)の実況を務めている[11]

2000年6月30日にNHK解説委員(スポーツ・体育分野担当)に就任[2]2006 FIFAワールドカップでは現地(ドイツ)からの取材リポートを行っていた。2008年北京オリンピックでも現地からの取材リポートを担当した。解説委員就任後もアナウンサーを兼務していたが、2005年6月末をもってアナウンサーの職を離れている[2]

2007年10月、大相撲時津風部屋序ノ口力士時太山が急死した問題を受けて、日本相撲協会が新たに発足させた「再発防止検討委員会」の外部委員に就任した。

2009年3月末をもってNHK解説委員を退き[2]、NHKを退職。同年4月より法政大学に新設されたスポーツ健康学部の教授に就任した。2009年4月10日に教育テレビ、11日未明に総合テレビで「視点・論点」に出演し、NHK退職後初のテレビ出演となり、その後、同番組は2010年2月5日、2011年2月18日に教育テレビ、6日19日未明に総合テレビに出演した。

2014年1月31日より、日本プロサッカーリーグにリーグ運営の円滑化を目的として新たに設置される、議決権を持たない特任理事(非常勤)に就任[12]。2016年には理事(非常勤)に異動し、2020年の改選で定年(就任年の4月1日現在で満65歳未満)を迎えて退任した[13]

挿話

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  • 幼少期の浜松時代も自らがサッカーをすることはなく、学内のオーケストラでトランペットを担当する音楽青年だった[3] 。初任地の福島でも最初の希望は音楽番組だった[3]。東京異動後にも当初は音楽番組を担当していた[5]
  • 多数の名語録を生み出した山本であるが、しゃべる言葉は事前にほとんど用意しなかった[5]。自著のタイトルにもなった、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア最終予選の冒頭言「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」も、冒頭言のキーワードとして「東京」「代々木千駄ヶ谷[注釈 1] 」「国立競技場」「メキシコ」という単語のメモだけを用意してしゃべったものであるという[5]
  • FIFAワールドカップメキシコ大会・アルゼンチン対イングランドの「マラドーナの5人抜き」の実況については、解説の岡野俊一郎が長めの解説をした終わり頃にハーフウェーライン付近でマラドーナがボールを受けてしまい、解説を遮ることが出来なかったことに加えて岡野の解説を受けたコメントを入れたためにプレー実況に入るタイミングが遅れてしまったため、咄嗟に「マラドーナ」とだけ言ったが故のものである[14] (マラドーナの5人抜きに対して4回しか連呼できていないのもそれが理由であるという[15])。当時33歳でサッカー実況としてはまだまだ駆け出しで「実況で余分なことを言うと先輩に怒られた」こともあって「プレーに集中してほしいと考えると、名前を言うぐらいしかできなかった」と振り返っており[16] 、喋りながら「まずい実況をやってしまったな」と反省していた[14]
  • 現在のサッカー実況については、次々とリプレイ映像が流せるようになったため、プレーとプレーの間を以前のようにアナウンサーのしゃべりだけでつなぐ必要がなくなったがゆえに、アナウンサーの個性が出せなくなっていると感じている。同時に、目の前のプレー以上に、様々な観点(選手の起用方法やミスへの対応、プレーの選択など)で試合を見て欲しいとも感じている[3]
  • 取材先で市場巡りをするのが趣味という[5]

出演番組

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現在の出演番組

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過去の出演番組

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書籍

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脚注

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注記

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  1. ^ 当初は「代々木」と書いていたが、ディレクターから国立競技場の所在地が千駄ヶ谷であることを指摘されてメモを直したという[5]
  2. ^ 前年までは西田善夫が担当。

出典

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  1. ^ a b c d e 北野 新太 (2015年12月4日). “【BOOKセレクト】山本浩著「スポーツアナウンサー 実況の真髄」”. スポーツ報知. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月3日閲覧。
  2. ^ a b c d 学術研究データベース 教授 山本 浩”. 法政大学 スポーツ健康学部 教員紹介. 2020年5月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 目の前の試合よりも、大事なものがある 山本浩(元NHKアナウンサー、法政大学スポーツ健康学部教授)”. サッカーキング. 2020年5月3日閲覧。
  4. ^ 「メキシコの青い空 実況席のサッカー20年」p.3
  5. ^ a b c d e f g 森雅史 (2018年12月20日). “今のアナウンサーは言えないことが増えている……元NHK・山本浩が振り返る日本代表とマラドーナ伝説”. ぐるなび みんなのごはん. 2020年5月3日閲覧。
  6. ^ 斉藤健仁 (2007年12月12日). “NHK山本浩アナの名実況を振り返る”. All About WEEKENDER. 2015年2月23日閲覧。
  7. ^ 山本浩、倉敷保雄『実況席のサッカー論』 出版芸術社 2007年、6、7頁
  8. ^ 「メキシコの青い空 実況席のサッカー20年」p.4
  9. ^ 「メキシコの青い空 実況席のサッカー20年」p.21
  10. ^ a b 細江克弥 (2013年5月15日). “<J開幕20年、名実況が紡いだ歴史> アナウンサー山本浩の回想 「日本サッカー、幼年期の終わり」”. Number Web. 2020年5月3日閲覧。
  11. ^ NHKクロニクル
  12. ^ 理事・監事内定の件』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2014年1月17日https://www.jleague.jp/release/article-00005596/2020年5月3日閲覧 
  13. ^ 理事・監事、特任理事内定のお知らせ』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2020年2月25日https://www.jleague.jp/release/post-63072/2020年5月3日閲覧 
  14. ^ a b 小松春生 (2016年6月13日). “伝説の名実況から30年…山本浩アナが振り返るマラドーナ“神の手””5人抜き”裏話”. サッカーキング. 2020年5月3日閲覧。
  15. ^ “元NHKアナ・山本浩氏、マラドーナさん「5人抜き」に4度連呼…「1回足りない」”. サンケイスポーツ. (2020年11月27日). https://www.sanspo.com/article/20201127-EDPFTF7JCVL4PL4R37VKXNY3Z4/ 2020年11月27日閲覧。 
  16. ^ “元NHK・山本浩アナ “マラドーナ連呼”の真相語る「実況で余分なことを言うと先輩に怒られた」”. スポーツニッポン. (2020年11月27日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/11/27/kiji/20201127s00041000054000c.html 2020年11月27日閲覧。