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伊福部昭

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伊福部 昭
出生名 伊福部 昭
(いふくべ あきら)
生誕 (1914-05-31) 1914年5月31日
出身地 日本の旗 日本北海道釧路町
       (現:釧路市
死没 (2006-02-08) 2006年2月8日(91歳没)
日本の旗 日本東京都目黒区
学歴 日本の旗 日本
北海道帝国大学(現:北海道大学)農学部林学実科卒業
ジャンル クラシック音楽
映画音楽
職業 作曲家
東京音楽大学名誉教授
活動期間 1935年 - 2006年
公式サイト 伊福部昭 公式サイト

伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年(大正3年)5月31日 - 2006年(平成18年)2月8日)は、日本を代表する作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。

経歴

デビュー以前

1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。

1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。中学時代に後の音楽評論家三浦淳史と出会う。

1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。ギター曲『JIN』作曲(現在楽譜の所在は不明)。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲(現在楽譜の所在不明)。この頃後の作曲家早坂文雄と出会う。

1933年(昭和8年)、19歳。ギター曲『ノクチュルヌ』作曲(現在楽譜の所在不明)。三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。

1934年(昭和9年)、20歳。伊福部、三浦、早坂による「新音楽連盟」を結成。この三名と友人、伊福部の次兄勲らにより「国際現代音楽祭」を開催。

デビュー作・日本狂詩曲

1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

  1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
  2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
  3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という理由で、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。

これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。

戦前・戦中

1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』作曲。チェレプニンに献呈。

1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。

この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。

1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。

1941年(昭和16年)、27歳。勇崎アイと結婚。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。

1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。

1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』作曲。

1944、管弦楽曲『兵士の序楽』作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』(後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題)作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』作曲。

1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負うことになった。この研究は「マッカーサー上陸後、数日後に禁止となった」と語っている。

戦後

1946年(昭和21年)、32歳。職を失い、「途方に暮れていたところ」、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。栃木県の日光・久次良に転居。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟唱歌』作曲。

この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志黛敏郎などから大変慕われた。特に前者の芥川は二回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三矢代秋雄池野成小杉太一郎山内正石井眞木三木稔今井重幸永瀬博彦和田薫石丸基司今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。

1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区等々力町に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている。

この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図した事が認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。

バレエ曲『エゴザイダー』作曲。

1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区多摩川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』(後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年(昭和26年)の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年(昭和34年)、1971年(昭和46年))。バレエ音楽『さ迷える群像』作曲。バレエ音楽『サロメ』作曲(1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年(平成14年)に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年(平成16年)に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される)

1949年(昭和24年)、35歳。父、利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃曲』(現在は土蛮は先住民と表記)作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ』作曲。

1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』作曲。

1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』作曲(1984年(昭和59年)に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される)。

1952年(昭和27年)、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』ジェノヴァ国際作曲コンクール入選。

1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』作曲(1989年に演奏会用に編曲)。『管絃楽法』(音楽之友社)刊行(後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。

1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。

管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』作曲(1979年(昭和54年)に改訂)、三浦淳史に献呈。

1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。

1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』作曲。

1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』作曲(1988年(昭和63年)に独唱用に編曲)。

1960年(昭和35年)、46歳。独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』作曲。

1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』作曲。

1965年(昭和40年)、51歳。母、キワ死去。

1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)

1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補改訂版と下巻刊行。

1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』作曲(1989年にハープ独奏曲、1997年(平成9年)に二十五絃箏曲に編曲)

1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』作曲(1991年(平成3年)に二十五絃箏曲に編曲)

1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』作曲(1983年(昭和58年)に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲)。バレエ音楽『日本二十六聖人』作曲。

1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』作曲。

1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。

1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ』作曲。

1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』作曲。二十絃箏曲『物伝舞』作曲。

1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』作曲(1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲)。紫綬褒章受章。

1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』作曲。

1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー第一番、第二番、第三番』作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」開催。

1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。

1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受賞。

1989年(平成元年)、75歳。バレエ音楽『人間釈迦』を『交響頌偈「釈迦」』に編曲。

1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』作曲。

1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』作曲。

1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』作曲。

1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』作曲。

1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。

1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』作曲。

1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』作曲。

2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』作曲。独唱曲『聖なる泉』作曲。妻・アイ死去。

2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』作曲。文化功労者顕彰。

2006年(平成18年)、2月8日死去。享年91。

2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)刊行。

晩年

晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏などの改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。

2006年(平成18年)、前年頃から体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため入院。2月8日、多臓器不全のため東京都目黒区の病院で死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。

遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、並びに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったと言う。

栄典

人物

「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。

政治的スタンスについては自ら明言することは無かった。2005年(平成17年)には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。

自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』等)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。

タバコ(銘柄はダンヒル・インターナショナル)をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。

蝶ネクタイを常用し、非常にダンディであったと関係者は口を揃える。時計は懐中時計を愛用していて、これは大学の講義でこの懐中時計を手に取ることで、学生に授業終了が近いことを示す合図に使えるからだそうである。

「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして…」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。

家族・親族

伊福部家は因幡国の古代豪族伊福部氏を先祖とする。本籍地鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。父・利三は警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)、放送作家伊福部崇又甥である。伊福部家の人物としては他に宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦が知られる。

映画音楽でのエピソード

伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、伊福部は小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことを咎められた。しかし小杉が伊福部から離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。

1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に逗留していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介(東映映画「俺は用心棒」で知り合いになったという)と炬燵で酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。「また貰い酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。この男こそ特技監督円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身だったのである。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場でバッタリ再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。

円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが、伊福部は特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、伊福部は冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている。

『座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ(座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している)でなければならない、と言うことで、伊福部に音楽を依頼したと言う。

伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。

これも森田によると、伊福部のスコアは作曲時間の短さに関わらず、非常に細かくしっかりと書き込まれており、曲の途中に複雑な変拍子が入るのも特徴で、この変拍子を振るのはコツがいるものだった。

『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロという軋んだ奏法の音を使用することを発案したり(最終的に音響技師の三縄一郎が、テープを逆回転させるなどし、完成させる)、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音の軋んだトレモロを奏でた後でピアノの低音部がトーン・クラスターを奏する等、映画の公開された1954年(昭和29年)にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的に見ても特筆に価するものだった。さらに『空の大怪獣ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』では、同じくピアノ内のピアノ線を100円玉でしごくという奏法を使用している。

フランケンシュタイン対地底怪獣』では、伊福部はフランケンシュタインのテーマ曲のために「バス・フルート(アルトフルート)」という超低音の楽器を映画界で初使用している。この楽器は当時日本には個人所有による1本しかなかった非常に珍しいもので、音量の低さからオーケストラ演奏で実用価値のない楽器とされているものだが、伊福部は「そこは映画音楽ですから」と、ピックアップ・マイクを用いることで効果的な旋律を実現している。

伊福部は『東宝特撮映画全史』(東宝、1983年(昭和58年))でのエッセイ「特撮映画の音楽」で、特撮映画の音楽について感ずることとして、

  1. 一般映画においては納得しがたい観念的な芸術論に悩まされることが多いが、特撮映画ではこれはほぼ皆無である 
  2. ドラマツルギーに支配されすぎると、音楽は自律性を失いスポイルされるものだが、特撮映画にはその危険性はなく伸び伸びと作曲ができる
  3. 音楽は本来、音楽以外表現できないものだが、スクリーンの映像と結合すると「効用音楽」として不思議な効果を生む

と述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている。同時に「今日、テクノロジイが発達しすぎたためか、映像も音楽も無機質に流れ人間性から離れる傾向があり、今一度本来の人間性にたちかえった特撮映画の復活を望む」と締めくくっている。 また、伊福部の特撮映画の作品別全長版サウンド・トラックのレコードは1980年代まで長らく発売されなかったが、これも「映画音楽は、映像と合わさって効果を生むものなので、一般音楽とは違うもの」との考えから許可を出さなかったものと述べている。

誕生日とラヴェルの逸話

伊福部昭の誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている。

それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである。アメリカボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部昭はその通りに書いて提出したというものである。

そのためか『ゴジラのテーマ』は、ラヴェルの『ピアノ協奏曲ト長調』の第3楽章のある部分のメロディと似ている部分がある。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。「ゴジラのテーマ」の旋律はゴジラ第1作(1954年)より前に、映画の『社長と女店員』(1948年)や『蜘蛛の街』(1950年)でも使用されている。

伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。

作品の特徴

シンプルなモティーフの反復・展開
これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう『こぶし』)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。
民族的旋法の使用
伊福部作品の多くには日本の五音音階フリギア旋法エオリア旋法に近い旋法が用いられている。
三和音の否定
これは西洋的な響きを嫌ったためで、2度、4度、5度、8度を積極的に用いている。結果、機能和声からは自由で独特な和声進行を持ち、またドローン(持続低音)的な要素が存在することが多い。
リズムの重視
伊福部は、西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した(変拍子の多用はそのあらわれか)。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。
オスティナートの重視
師匠のチェレプニンからは、「現代音楽アキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、伊福部はオスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
伊福部は、アイヌ音楽について解説した文の中で、『反復すること其れ自体に重要な意味がある』と述べている(「音楽芸術」1959年(昭和34年)12月号『アイヌ族の音楽』より)。
ソナタ形式の否定
これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、主題が再現されるときでもソナタ形式での狭義の再現部は見られない。また伊福部の曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成を持つものが多い。
オーケストレーション
『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかったオーケストレーション技法は『管絃楽法』に凝縮されている。

作品一覧

管弦楽曲

  • 日本狂詩曲 (1935年、ピアノ独奏版あり)
  • 土俗的三連画 (1937年、14人の独奏者からなる室内オーケストラのための曲)
  • 交響舞曲「越天楽」 (1940年)
  • ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲 (1941年、1997年にNHKの資料庫で発見され蘇演)
  • 交響譚詩 (1943年)
  • フィリピンに贈る祝典序曲 (1944年、2台のピアノとオーケストラのための曲。初演時のタイトルは『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』。2005年に卆寿演奏会で蘇演)
  • 兵士の序楽 (1944年、1997年に蘇演)
  • 管絃楽のための音詩「寒帯林」 (1944年。新京での初演後、楽譜は長らく中国当局の管理下にあって幻の作品とされていたが、作曲者の没後、遺品の中から楽譜が発見され、2010年に蘇演された)
  • ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番) (1948年 / 1951年 / 1971年、ヴァイオリン+ピアノ版あり、ゴジラのテーマの原曲)
  • シンフォニア・タプカーラ (1954年 / 1979年)
  • ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ (1961年、2台ピアノ版あり)
  • オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ (1976年)
  • ヴァイオリン協奏曲第2番 (1978年、ヴァイオリン+ピアノ版あり)
  • 二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ (1982年)
  • SF交響ファンタジー第1番〜第3番 (各1983年)
  • 倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク (1983年、吹奏楽版から編曲)
  • 日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」 (1984年、1951年のバレエ『日本の太鼓 鹿踊り』のための音楽を演奏会用に改作)
  • 舞踊曲「サロメ」 (1987年、1948年のバレエ『サロメ』用音楽を演奏会用に改作)
  • 交響頌偈(じゅげ)「釈迦」 (1989年、合唱と管弦楽のための作品。バレエ音楽「人間釈迦」の改作)
  • 管絃楽司伴「鞆の音」 (1990年、和楽器合奏と管弦楽のための作品)
  • 管絃楽のための「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の管絃楽編曲)
  • 交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」 (1991年)
  • 交響的音画「釧路湿原」 (1993年、NHK制作の映像付き交響詩
  • 絃楽オーケストラのための「日本組曲」 (1998年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 交響組曲「わんぱく王子の大蛇(おろち)退治」 (2003年、1963年東映アニメ映画のための音楽を演奏会用に纏める)

吹奏楽曲

  • 古典風軍樂「吉志舞(きしまい)」 (1943年)
    • 1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立ったマッカーサー元帥を出迎えた軍楽曲として知られているが、当時の資料からマッカーサー元帥を出迎えた音楽であることは否定されている。
    • 後に主題の一つが映画音楽に転用された。2000年に初演)
  • ブーレスク風ロンド (1972年)

器楽曲

  • JIN(1932年、ギター曲)
  • ノクチュルヌ(1932年、ギター曲)
  • ピアノ組曲 (1933年)
  • ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲(1956年)
  • 古代日本旋法による蹈歌(とうか) (1967年、ギター曲、二十絃箏でも演奏可)
  • 箜篌歌(くごか) (1967年、ギター曲、ハープ版・二十五絃箏版あり)
  • ギターのためのトッカータ (1970年、二十五絃箏版あり)
  • 郢曲「鬢多々良」(えいきょく・びんたたら) (1973年、和楽器合奏曲)
  • 物云舞(ものいうまい) (1979年、二十絃箏曲)
  • バロック・リュートのためのファンタジア (1980年、二十五絃箏版あり)
  • ヴァイオリンとピアノのためのソナタ (1985年)
  • 胡哦(こが) (1997年、二十五絃箏曲)
  • 二面の二十五絃箏による「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 琵琶行(びわこう) (1999年、二十五絃箏曲。「白居易ノ興ニ效フ」の副題が付く)
  • 二十五絃箏甲乙奏合「交響譚詩」(2001、管弦楽の編曲版)
  • 小ロマンス(2002年、チェンバロ曲)
  • サンタマリア(2002年、チェンバロ曲)

歌曲

  • ギリヤーク族の古き吟誦歌 (1946年)
  • サハリン島先住民の三つの揺籃歌 (1949年、初演時のタイトルは『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』)
  • アイヌの叙事詩による対話体牧歌 (1956年、独奏ティンパニの伴奏)
  • 合唱頌詩「オホーツクの海」 (1958年、1988年の4人編成版あり)
  • 知床半島の漁夫の歌 (1960年)
  • 摩周湖 (1992年、ヴィオラハープ、もしくはヴィオラとピアノの伴奏)
  • 因幡万葉の歌五首 (1994年、アルトフルートと二十五絃箏の伴奏)
  • 蒼鷺(あおさぎ) (2000年、オーボエコントラバス・ピアノの伴奏)
  • 聖なる泉 (2000年、ファゴット・ヴィオラ・ハープの伴奏。映画『モスラ対ゴジラ』の音楽の編曲)

舞台芸術のための音楽

  • バレエ音楽「イゴザイダー」 (1947年)
  • バレエ音楽「さまよえる群像」 (1948年)
  • バレエ音楽「サロメ」 (1948年)
  • バレエ音楽「憑かれたる城(バスカーナ)」 (1949年)
  • バレエ音楽「プロメテの火」 (1950年)
  • バレエ音楽「日本の太鼓 鹿踊り」 (1951年)
  • バレエ音楽「人間釈迦」 (1953年)
  • 劇音楽「反逆児」 (1971年)
  • バレエ音楽「日本二十六聖人」 (1972年)

映画音楽

過去作品の音楽を流用した映画・テレビ作品

以下、テーマ曲のみを使用

他多数。

映画、放送以外の音楽

放送のための音楽

その他

関連書籍

著作物・寄稿文

  • 『音楽入門』(1951年:要書房
  • 『管絃楽法・上巻』(1953年:音楽之友社
  • 『管絃楽法・上巻補遺』(1968年:音楽之友社)
  • 『管絃楽法・下巻』(1968年:音楽之友社)
  • 『[完本]管絃楽法』(2008年:音楽之友社、1953/1968年の改訂版)
  • 「特撮映画の音楽」(1983年:『東宝特撮映画全史』、東宝、1983年)
  • 『音楽入門』(1985年:現代文化振興会、1951年の同名書の復刊)
  • 『音楽入門』(2003年:全音楽譜出版社、1951/1985年の同名書の復刊)
  • 「プロコフィエフ」『芸術新潮』(1952年7月号)
  • 「二千年前の舞踊」『芸術新潮』(1954年12月号)
  • 「ロマン主義の否定、あるいはこれとの訣別」『音楽芸術』(1971年6月号)

伊福部昭インタビュー

伊福部昭についての書籍・寄稿文

  • 木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生』(1997年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』(2002年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・時代を超えた音楽』(2004年)
  • 小林淳(著):井上誠(共編)『伊福部昭の映画音楽』(1998年)
  • 小林淳(著)『伊福部昭 音楽と映像の交響〈上〉』(2004年)
  • 小林淳(著)『伊福部昭 音楽と映像の交響〈下〉』(2005年)
  • 小林淳 (著) 『ゴジラの音楽』(2010年)
  • 相良侑亮(編)『伊福部昭の宇宙』(1992年)
  • 有馬礼子「私からみた伊福部先生の魅力」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 池田康「伊福部昭の音 現代の音楽とロマンティシズム」 『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 伊福部玲子」 『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 小林武史」 『洪水』(零号 2007年)
  • 上野耕路「"年の離れたちょっと不良っぽい友人でいたい"」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 上野耕路「伊福部宇宙の領域」 『SOUND VOICE』(2001年2月号)
  • 奥平一「新交響楽団と伊福部昭」 『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 柿沼敏江「伊福部音楽とアメリカ実験主義が出会うとき」 『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 片山杜秀「伊福部昭の主要作品年代順ガイド」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 片山杜秀:河野保雄「伊福部昭の音楽」 『音楽現代』(2000年8月号〜10月号)
  • 神倉健諸岡範澄「伊福部体験と音楽について言いたい放題」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 木部与巴仁「伊福部昭のいる三つの風景」 『音楽芸術』(1999年10月号)
  • 小宮多美江「研究・伊福部昭の音楽」 『文化評論』(1990年3月号)
  • 実相寺昭雄「ゴジラという聖域」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 高瀬まり子「昭和初期の民族主義的作曲様式-伊福部昭・清瀬保二・早坂文雄の音楽語法を中心として」 『音楽学』(通巻第20号)
  • 富樫康「伊福部昭」 『日本の作曲家』(1956年)
  • 松崎俊之「伊福部昭と〈日本的なるもの〉の帰趨 -問題としての日本近代音楽に対する一視座」 『芸術文化』(通巻第6号)
  • 黛敏郎「伊福部昭先生‐その人と音楽」 『音楽芸術』(1995年10月号)
  • 三浦淳史「伊福部昭とメフィスト」 『音楽芸術』(1957年5月号)
  • 吉松隆「これが伊福部サウンドの魅力の秘密だ!!」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 福田滋「日本の作曲家と吹奏楽の世界 伊福部昭“映像と交響の出会い”」 『バンドジャーナル』(2005年1月号)
  • 寮美千子天空に交響する 伊福部昭氏に捧げる/9 Feb 2006」『洪水』(零号 2007年)

門下生

脚注

外部リンク

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