三十三間堂
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| 三十三間堂 | |
|---|---|
本堂(国宝、北東より) |
|
| 所在地 | 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657 |
| 位置 | 北緯34度59分16.31秒 東経135度46分18.23秒 |
| 山号 | 妙法院所属の仏堂につき山号はなし |
| 宗派 | 天台宗 |
| 本尊 | 千手観音 |
| 創建年 | 長寛2年(1165年) |
| 開基 | 後白河上皇 |
| 正式名 | 妙法院の一部。建物の正式名称は蓮華王院本堂 |
| 札所等 | 洛陽三十三所観音霊場第17番 |
| 文化財 | 本堂他(国宝) 太閤塀他(重要文化財) |
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音である。
目次 |
[編集] 沿革
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(#構造)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。
江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ女性新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、かつての通し矢とは似て非なるものである。
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
[編集] 「三十三間」の由来と構造
三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間[1]の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見る柱間は35ある。
ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間は一定ではなく[2]その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない[3]。「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。
[編集] 伽藍
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 本堂
- 木造千手観音坐像(附:木造天蓋) - 堂内中央に安置する本尊像。像高335cm。湛慶晩年の建長6年(1254年)の作
- 木造風神・雷神像 - 鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。
- 木造二十八部衆立像 - 鎌倉復興期の作。千体千手観音像の手前に横一列に立つ(28躯のうち四天王像4躯は本尊の周囲に立つ)。二十八部衆は千手観音の眷属で、仁王、四天王のようななじみの深い尊格のほか、婆藪仙人(ばすせんにん)、摩和羅女など、他ではあまり見かけない像も含む。痩せ衰えた老人の姿をリアルに表した婆藪仙人像は鎌倉彫刻の代表作として知られている。
[編集] 重要文化財
- 南大門
- 太閤塀
- 木造千手観音立像(1,001躯)
- 本尊の左右の階段状の仏壇に各10段50列、本尊の背後に1躯、計1,001躯が並ぶ[4]。像高は166 - 167cm前後。大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249)の火災の際、救い出された平安期の像も124躯含まれる(他に室町時代に追加された像が1躯だけある)。平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は二百数十躯に作者銘があり、湛慶をはじめ慶派、院派、円派など、当時の主要な仏師たちが総出で造像にあたったことがわかる。1,001躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている[5]。 兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。
[編集] 所在地
- 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
[編集] 交通アクセス
[編集] 脚注
- ^ 間面記法で梁間は記載されないが、三十三間堂は三間である。
- ^ 柱心間は中央が一番広く3.95m、続いてその左右の柱間が3.65m、残りの32の柱間は3.30m。
- ^ 入江康平 (2007). “競技場としての堂射施設に関する研究”. 武道学研究 40 (2): 37-50.
- ^ 1,001躯の観音像には整理番号が付されている。堂内向かって左端の最上段の像が1号像、左端の最下段の像が10号像、右端の最上段の像が991号像、右端の最下段の像が1,000号像である。唯一室町時代の補作とされているのは32号像である。
- ^ 20号像(湛慶作)が奈良、30号像(湛慶作)が京都、40号像(湛慶作)、493号像(院承作)、504号像(隆円作)が東京の国立博物館に寄託されている。
[編集] 関連項目
[編集] 周辺情報
[編集] 参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、宇佐見英治、三崎義泉著『古寺巡礼京都14 妙法院・三十三間堂』、淡交社、1977
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東上』駸々堂、1980
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』69号(妙法院・青蓮院)、朝日新聞社、1998
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館

