スティーブ・ニコルズ

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スティーブ・ニコルズSteve Nichols, 1947年2月20日 -)は、アメリカユタ州ソルトレイクシティ出身の自動車エンジニア。マクラーレンフェラーリジョーダンジャガーなどのチームでF1マシンの開発に従事した。

略歴

ニコルズは13歳の頃カート競技にデビューしたが、彼の興味はレーシングカーのデザインに向いた。父が購読していた『カー・アンド・ドライバー』誌でヨーロッパのレースを知り、コーリン・チャップマンがデザインしたロータス・25に魅了された。

ユタ州立大学機械工学の学位を取得し、1972年ハーキュリーズ社に入社。トライデント潜水艦ミサイルロケットモーターの研究開発に携わり、当時おもに航空宇宙工学で使用されていた炭素繊維強化プラスチック(カーボンファイバー)の知識を得た。

1976年、ガブリエル社に転職し、モータースポーツ用ダンパーの技術者としてインディカーNASCARに関与。ペンスキーパーネリシャパラルなどのチームと仕事をし、英国人デザイナーのジョン・バーナードと知り合う。

1980年、バーナードはロン・デニス率いる「プロジェクト4」にスカウトされ、F1のマクラーレンチームのチーフデザイナーに就任。ニコルズはアラン・ジェンキンスとともにバーナードの元で働き、複合素材有限要素解析などの専門知識を活かし、グラウンド・エフェクトの負荷に耐えうる頑強なカーボン・モノコックを使用した初のF1マシン、MP4/1の開発に携わった。当時イギリスにはカーボンコンポジットに必要なものが揃っていなかったため、ニコルズが古巣のハーキュリーズ社に製造を仲介した。その後、カーボン素材はアルミハニカム構造に代わり、レーシングカー設計の基礎となっていく。バーナード率いる技術部門は、TAGターボ(ポルシェ)エンジンを搭載したMP4/2で大きな成功を収める。

マクラーレン・MP4/4(ドニントン・グランプリコレクション)

1986年、バーナードがフェラーリへ移籍することになり、1987年はニコルズがMP4/3の開発をリードした。1988年ブラバムから加入したゴードン・マレーの下で、ホンダエンジンを搭載するMP4/4を開発。アイルトン・セナアラン・プロストを擁し、シーズン16戦中15勝(ワンツーフィニッシュ10回)という大記録を樹立した。

ニコルズはセナのレースエンジニアを担当していたが、1989年シーズン後、セナとの対立でチームを離れることになったプロストに誘われ、一緒にフェラーリへ移籍した。MP4/4はニコルズ、MP4/5ニール・オートレイが受け持つというマクラーレンの分業体制に不満を感じていたという。1990年はベネトンへ移籍したバーナードの置き土産である640641(および641/2)に改修し、エンリケ・スカラブローニのチーム離脱にともない、シーズン途中よりテクニカルディレクターに就任した。1991年642643を投入したが、期待を裏切り0勝に終わった。ニコルズは1992年初めに新車F92Aシェイクダウンする前にチームを離脱し、F1参戦準備を進めていたザウバーに迎えられたが、短期の在籍に終わる。1994年はジョーダンで働き、1995年にはマーティン・ウィットマーシュの誘いを受け、古巣のマクラーレンへ復帰。「ヘッド・オブ・ビーグル・エンジニアリング」の職を務め、F1を含むマクラーレングループの長期プロジェクトにも関わった。

2000年末、ニコルズはゲイリー・アンダーソンの後任としてジャガーのテクニカルディレクターに就任し、R2の開発を引き継いだ。2002年にむけて開発したR3はテスト走行から問題があり、ニコルズはシーズン開幕1カ月前に解任された[1]

参考サイト

脚注

  1. ^ ジャガー、ニューマシンR3の不調でテクニカルディレクター解雇”. レスポンス (2002年2月5日). 2021年7月22日閲覧。

関連項目