LSD (薬物)
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| リゼルグ酸ジエチルアミド | |
|---|---|
| IUPAC名 | (6aR,9R)-N,N-ジエチル-7-メチル-4,6,6a,7,8,9- ヒキサヒドロインドロ[4,3-fg]キノリン-9-カルボキサミド |
| 別名 | LSD、LSD-25 |
| 分子式 | C20H25N3O |
| 分子量 | 323.43 g/mol |
| CAS登録番号 | [50-37-3] |
| 形状 | 無色固体 |
| 融点 | 80 °C |
LSDはリゼルグ(リゼルギン)酸ジエチルアミド (lysergic acid diethylamide) のドイツ語「Lysergsäure Diäthylamid」の略称であり(開発時のリゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質であったことからLSD-25とも略される。また、アシッド、エル、ドッツ、パープルヘイズ、ブルーヘブンなど様々な俗称がある)、非常に強烈な作用を有する半合成の幻覚剤である。
LSDは化学合成されて作られるが、麦角菌やソライロアサガオ、ハワイアン・ベービー・ウッドローズやハワイアン・ウッドローズ等に含まれる麦角アルカロイドからも誘導される。
純粋な形態では透明な結晶(このまま市場に出回ることはない)であるが、液体の形で製造することも可能であり、これを様々なものに垂らして使うことができるため、形状は水溶液を染みこませた紙片、錠剤、カプセル、ゼラチン等様々である(日本では吸い取り紙のような紙にLSDをスポットしたペーパー・アシッドが有名)。
LSDは無臭(人間の場合)、無色、無味で極めて微量で効果を持ち、その効用は摂取量だけでなく、摂取経験や、精神状態、周囲の環境により大きく変化する(セッティングと呼ばれる)。一般にLSDは感覚や感情、記憶、時間が拡張、変化する体験を引き起こし、効能は摂取量や耐性によって、6時間から14時間ほど続く。
日本では1970年に麻薬に指定された。
目次 |
[編集] 構造
LSDはインドール核を有し、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンによく似た構造を持つ(LSDの4つの環のうち2つはセロトニン分子の環系であり、セロトニンにつく側鎖はLSDの構造の一部に類似している)。そのためLSDはセロトニン受容体に結合し、5-HT2のアンタゴニストとして、5-HT1Aと5-HT1Cのアゴニストとして働き、セロトニンの作用を阻害するために幻覚が起こると考えられている(逆にLSDの服用後にセロトニンを服用することで幻覚の発現を抑えることができる)。ただし、2-ブロモ-LSDはLSDよりもセロトニンに拮抗するものの、かなり大量に投与してもサイケデリック効果は生じないため、確定的な説とは言えない[1]。
LSDには立体異性体が存在し、それぞれd-LSD(d-lysergic acid diethylamide)、l-LSD(l-lysergic acid diethylamide)、d-イソ-LSD(d-iso-lysergic acid dithylamide)、l-イソ-LSD(l-iso-lysergic acid dithylamide)がある[2]。普通に「LSD」というときは右旋性のd-LSDを指し、他のものは薬理学的に不活性である[2]。また、LSDに似た働きをするリゼルグ酸アミドもいくつかあり、l-アセチル-LSD(ALD-52)はLSDの91%の効力を持ち、LSDの代用品としてしばしば売られる[3]。l-メチル-LSD(MLD-41)もLSDの36%の効力を持っている[4]。
LSD分子は非常に脆弱なことで知られている。ごく微量の塩素によっても破壊されてしまい、空気中の酸素等の影響を受けると、iso-LSDへと変化し、光に晒されたことで分解されてできる物質lumi-LSDは、LSDと区別が非常に難しい上に不活性である[5]。そのため、保存には注意を払う必要がある。
ブラックライトに当てると強く青白く発光するため、本物かどうかの検定に使用される[6]。
[編集] 変遷
[編集] LSD誕生以前のリゼルグ酸化合物
[編集] 宗教的儀式における使用
薬物が化学合成される以前、向精神物質(化学合成のない当時、向精神物質は植物もしくは植物から製造されたものである)は世界のいたるところで宗教的儀式において使用され、崇拝の対象になり、その酩酊作用から神話の題材や民話になった。
北シベリアやオビ川、イェニセイ川流域に住む諸部族はイボテン酸を含むベニテングタケを神聖な物として崇め、シャーマン儀式に用いていた(ベニテングタケには幻覚の他にも酔いを引き起こす作用もあり、ロシア人の征服によりアルコールが伝えられる以前まではアルコールの地位を占めるものであった)[7]。
メキシコ北部ではメスカリンを含むペヨーテが、メキシコ南部ではリゼルグ酸アルカロイドが含まれるバドーネグロやオロリウキ等、アサガオとその近縁種は神聖の植物とされ、シャーマンに用いられていた[8]。
特にLSDに関係あるものとして、古代ギリシアのアテネ郊外で西暦5世紀までの2000年間続けられたエレウシスの秘儀で使用されていた、情緒的作用を引き起こす飲み物キュケオンは、小麦、水、ミントから製造され、この小麦に麦角菌に由来するリゼルグ酸アルカロイドが含まれていたと考えられている(この儀式の秘密を漏洩した者は死刑に処されたため、儀式の詳細は分かっていない[9])[9]。紀元前415年にアテナイのアルキビアデスが友人を楽しませるためにキュケオンを振舞ったとして罰金刑を受けた事実が確認されている[10]。
また、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地で行われた魔女裁判について、裁判が行われた地域の多くが麦角の発生しやすいライ麦に依存していた地域であり、特に裁判数が増加した年の春と夏は湿度が高く、気温が低く麦角の生育に適した環境であったこと、魔術や覚醒によって引き起こされたとされる症状や体験が麦角中毒の症例に似ていること等から、魔女裁判が麦角中毒を原因として引き起こされたとする説がある[11]。
[編集] 民間療法における使用
イネ科、その他穀物に発生する麦角は麦角アルカロイドという物質を含み、麦角中毒を引き起こす。麦角中毒はヨーロッパではペスト、コレラとともに最も恐れられた病気の1つであった(麦角は主食である麦を侵し、流行するたびに数千人の死者が出た)。
麦角中毒は筋肉の痙攣や痙攣性のひきつりが起こり、皮膚に水疱が生じ、麦角アルカロイド中のリゼルグ酸アルカロイドにより目眩や幻覚、癲癇のような発作を起こす。また、強烈な血管収縮作用により、四肢に焼けるような感覚(聖アントニウスの火と呼ばれた)が続いた後、手足が黒ずんで壊死する[12]。
麦角の存在は紀元前より知られ、たびたび文献に記述が見られる(紀元前7世紀ごろのアッシリアの古文書に「穀類に付着した有毒な小結節」という記述が見られ、これが記録に残された麦角の最初の例であるといわれる[13])。当初、その毒性から恐れられていたが、やがてその血管収縮作用に着目し、各地で陣痛促進剤や分娩後の止血剤として用いられていた[14]。
[編集] 化学の進歩と抽出
19世紀後半になると、麦角から有効成分を抽出する研究が盛んとなり、1907年にはG・バルガーとF・H・カールがエルゴトキシンを抽出するのに成功し、A・シュトルとE・ブルックハルトらがエルゴバシンを抽出した。その後、W・A・ジェイコブズとL・C・クレイグらはエルゴバシンの科学的分析を行い、麦角アルカロイドの基本的構造分子を分離しリゼルグ酸と名づけた[15]。 1918年、A・シュトルが抽出したエルゴタミンは偏頭痛薬や産科での止血剤になっていた。1930年代頃にはイギリス、アメリカの化学界は麦角アルカロイドの研究が主要となっていた[16]。
[編集] LSDの誕生
LSDは1938年11月にスイスのバーゼルにあるA・Gサンド社(現・ノバルティス)の研究室でスイス人化学者アルバート・ホフマン(Albert Hofmann, 1906年1月11日 - 2008年4月29日)によって合成された。その幻覚剤としての発見は1943年4月16日になされ、これがLSD発見の日とされている。
当時、サンド社は薬用植物の有効成分を分離、もしくは植物から僅かしか得られない有効成分を化学合成する研究計画を始めていた。ホフマンは麦角アルカロイドについて研究班をつくらず単独で研究し始めた[17]。ホフマンはまずリゼルグ酸とプロパノールアミンを結合させることによってエルゴバシンの合成に成功した[18]。そのことによりさらにエルゴバシンの薬理特性は改良され、子宮収縮、子宮止血剤として「メテルギン」の商標で発売された[19]。
ホフマンはさらにリゼルグ酸化合物の研究を進め、1938年11月、リゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質、LSD-25を合成した。ホフマンはこの化合物を循環器及び呼吸促進の作用が得られると予測したが、エルゴバシンの70%の子宮収縮作用を示しただけで、動物実験では動物達が「落ち着かなくなる」程度の効果しか認められずその研究は中止された[19](ただし、虫よりもイヌやネコ、イヌやネコよりもサルというように高等な動物であるほど効果は大きかった[20])。
しかし、ホフマンは「奇妙な予感めいたもの」により、1943年に再びこの物質を取り扱うことにした。そして4月16日、LSDを結晶化している際に非結晶性のごく微量のLSD溶液が指先につき、LSDが指先の皮膚を通して吸収されることによって、ホフマン自身によりLSDの効果が確認された。ホフマンは眩暈を感じ、実験を中断せざるを得ない状態に陥ってしまった。そして実験を中断して帰宅した後も軽い眩暈に襲われていた。帰宅するなり横になっていたが、極めて刺激的な幻想に彩られていた。日光が異常に眩しく感じ、意識がぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が目の前に展開していた。その状態は2時間ほど続いた。これがLSDの幻覚作用発見の瞬間であった[21]。
そしてホフマン博士は4月19日、再び(1度目は意図したものではなかったが)LSDを0.25mg服用して自己実験を行った[22]。
ホフマンは以前と同質かあるいはさらに変化に富んだ奥深いものを体験することができた。しかし、感覚の変化が深まるにつれて供述することが困難となり、自己実験の供述を記録していた女性助手に家に送ってくれるよう頼まざるを得なかった。自転車で送ってもらっている途中も、視野にある全ての像は揺れ動き、歪曲化され、自転車が一向に進んでいるように感じられなかった[22](後にこの日は「LSD自転車旅行の日(Bicycle Day)」と呼ばれ、ホフマンは創始者としても有名になった[23])。
家に着いても症状は一向に治まらなかったため、助手に医者を呼んでもらっていたが、その間に隣に住んでいる婦人が牛乳を差し入れてくれた。空間が全て回転し、部屋の中のものや家具がグロテスクに変化し、まるで命を持っているかのように絶えず揺れ動き、隣の婦人も色の黒い醜い顔をした意地の悪そうな魔女に見えた。医者はホフマンがとてもしゃべる状態ではなかったため、研究助手から実験のあらましを聞いていたが、瞳孔以外には異常は認められず、ホフマンをベッドまで運ぶとそばで観察しているだけだった[22]。
やがてその感覚が消えると、ホフマンは感謝と幸福な気分が満ちてくるのを感じた。そして万華鏡のように幻想的な現象が起こり始めるのを見た。視界は環状と螺旋状が開いてはと閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。ホフマンはそのまま疲れ果てて眠ってしまった[22]。
翌朝、目が覚めたときはまだ疲労が残っていたが、快適な気分と新鮮な生命力がホフマンを満たしていた。朝食はとりわけ美味しく、朝食後の散歩ではあらゆるものがきらきらと光り輝き、世界は再び創造されたかのようであった。LSDはバラエティに富みしかも刺激的な酩酊を生み出しながら、後に残ることなく、実験の後でホフマンが感じたのは肉体的、精神的爽快であった[22]。
この後、ホフマンの報告書の提出を受け、薬理学部門の責任者と彼の2人の共同研究者によっても実験が行われ、効果が確かめられた[22]。
[編集] LSDの研究
1947年、チューリッヒ大学で統合失調症とボランティアの健康な被験者を対象にLSD投与実験の結果が「リゼルグ酸ジエチルアミド―麦角類から抽出された幻覚剤」という論文で報告された。投与量は0.02mgから0.13mgであったが、改めてLSDの効果が極めて大きいことが確認され、LSDが精神病の発病素因になる可能性や、そのことによってLSDを精神病の研究手段として利用できる可能性が指摘された[24]。
その後、サンド社はヨーロッパやアメリカ(1949年に紹介)のいくつかの研究施設にサンプルを送るとともに、「デリシッド(Delysid)」という商標で研究機関や医療機関に試験用薬剤として販売された。日本では京都大学、金沢大学、大阪大学等の大学病院においてLSDの研究が始められた[25]。
[編集] 医療分野における研究
[編集] LSD使用による精神療法
1950年代に入ると世界各地でLSDを使用したことによる強烈な体験を精神医療に利用しようとする研究が盛んになった。主なLSD療法として、サイコリティック(Psycholytic)療法とサイケデリック(Psychedelic)療法が挙げられる。
サイコリティック療法はヨーロッパで発達し、1960年代半ばにはヨーロッパ各地に18の治療センターが存在した[26]。サイコリティック療法はLSDを比較的少量(多くても0.15mg未満)を服用してセッションを行う。トリップによって神経症的な障害の無意識的な起源が明らかになるため、精神分析志向の精神療法の中で使用された[26]。この療法は精神分析の理論で5時間のセッションを行い、患者はLSDの助けによって覚醒したまま自我の防衛を選択的に緩め、体験の追想や再体験、象徴的なサイコドラマを如実に思い出すことが可能で、そのヴィジョンを解釈していくことで無意識を探求する[27]。この療法は主に不安神経症、強迫神経症、自閉症、性的問題や神経症的な抑鬱症、心身症的な症候群の患者に対して使用された。
1953年から1965年までにサイコリティック療法について書かれた42本の論文によれば、68%のケースが重症の慢性であった患者達にサイコリティック療法として平均4.5ヶ月、12.5回のセッションを行った。成功率は不安神経症の患者が70%、抑鬱反応の患者では62%、強迫神経症の患者が42%であり、平均2年後に行われた追跡調査によればこの内62%が治療直後よりもさらに良くなっていた[28]。
サイケデリック療法は1953年にカナダのA・M・ハバードが開発したもので、主にアメリカで使用された。サイケデリック療法は1度のセッションでLSDを大量(0.2mg以上)に服用し、世界が反転する圧倒的な体験により、治療効果を狙うものである。この療法は主に生き方の改善や、アルコール依存、犯罪者の更生に使用された。
1960年の報告でサイケデリック療法を受けた(セッションは延べ25000回)5000人の患者と被験者の内、HPPDは患者1000人あたり1.8人であったが実験被験者では0.8人であった。自殺率は患者が0.4人、実験被験者では0人であった[29]。
ただし、起きた体験を完全に抑圧できなかった場合には症状の更なる悪化やパニック反応やHPPDにつながる危険性がある。
[編集] 末期患者への使用
末期患者にサイケデリック体験を提供する実験は1965年からアメリカのメリーランド州立スプリング・フィールド病院において行われ始めた[30]。
LSD投与実験自体は末期患者の痛みを和らげようとする試みの中で行われた。エリック・カストとヴィンセント・J・コリンズは激痛を伴う癌と壊疽の患者に対して、LSDとハイドロモルフィネとメフェリダインの効果を比較した(モルヒネの平均的な消費は減らさなかった)。他の2つの数時間に対し、LSDは数日間苦痛を和らげることに成功した(ただし、LSDの効果はあまりに予測不可能なために鎮痛剤としては不適格である)。さらには緊張の軽減や抑鬱、死への恐怖という基準から見て、患者の3分の2を改善させた[31]。LSD体験が残す宗教的、哲学的妄想が死をより耐えやすいものにすると考えられている[31]。
[編集] 精神病との関係
LSDが発表された当初より、LSDによるサイケデリック体験と内因性精神病(特に急性の統合失調症の類似性が指摘されていた。そのため、精神病のモデルとしての利用、もしくは精神病の原因を異常な脳と神経組織が発生させる物質によるものとする考えから、LSDは内因性精神病研究の可能性を秘めた物質として研究されていた[32]。
しかし、1955年に行われた統合失調症の患者にLSDを与えた実験では、患者達はLSDによるサイケデリック体験と自分達の妄想と幻覚を見分けることができた上、慢性の患者には何の反応も見られなかった[33]。
また、精神病の原因となる物質の研究も行き詰った状態であり、現在でも解明には至っていない。
[編集] 軍事分野における研究
[編集] 諜報活動における利用の研究
1940年代からOSS(CIAの前身)では敵のスパイや捕虜から機密事項を吐き出させることのできる自白剤の研究をしていた。アルコールやバルビツール、カフェイン、コカイン、マリファナ、メスカリン、ヘロイン等、様々な薬品を研究したが有用なものを見つけ出すことはできなかった[34]。
1950年代に入り、ついにCIAはまだ当時あまり知られていなかったLSDを入手した。そして行われた最初の模擬尋問の実験は非常な好結果(被験者は機密の詳細を吐いてしまった上、トリップ終了後には機密を洩らしてしまったことを覚えていなかった)であったため、以降LSDは研究の中心となった[35]。
しかし、研究はすぐに暗礁に乗り上げてしまった。LSD投与が引き起こす結果を予測するのは非常に難しく、ある時は無際限に情報を吐き出すが、LSDが引き起こす様々な体験をした被験者の内、猜疑心をつのらせたり、壮大な幻想を経験して尋問者に無限の力で対抗できると思い込んでしまった被験者からは何も聞き出すことができなかった。そして何よりも致命的だったのは、著しい不安や現実感の喪失により必ずしも正確な情報を引き出せないことであった。そのため尋問の際に自己投与することで正確な情報を引き出せないようにする「反自白剤」としての研究も始まることになった[35]。
そして1953年4月13日から、当時のCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスの命により、当時の冷戦体制において、攻撃面での可能性を研究することにより、敵側の理論的潜在力を把握するとともに先制攻撃的防御体制を作り上るため、精神操作計画、MKウルトラ作戦が始動された[36]。
MKウルトラ作戦はCIAの中のTSSによって運営された[36]。この計画の様々な研究の中の、薬物による精神操作の研究として、当初はスタッフ内でLSD投与実験を行っていたが、LSDを投与されたことを前もって知ってしまっては本当に必要としている実験結果が得られないと考え、やがて他の部局の職員を対象とした抜き打ち投与実験を開始した。この実験が行われていく中で、投与実験の数週間後に迫害を受けていると妄想し自殺するフランク・オルスン博士のような犠牲者がでた[37]。
そして研究の最終段階としてジョージ・ハンター・ホワイトにより、サンフランシスコとニューヨークにおいて、娼婦が何も知らない一般人を対象にLSDを投与するという実験が開始された。しかし1963年、CIA監察官ジョン・イアマンはMKウルトラ作戦の責任者リチャード・ヘルムスが当時のCIA長官ジョン・アレクサンダー・マコーンに計画の全容を知らせていなかったとして責任を追及、ホワイトが1966年に麻薬局を退めたためは実験は中止されたと考えられる[37]。
[編集] 陸上戦闘における利用の研究
冷戦期、対立する両大国が核兵器を持ってしまったことで核戦争の危機が生まれてしまった。その状況下でLSDは、軍用機で敵領土に侵入して一帯に散布するか、都市の水道に注入すれば敵の抵抗力を奪い、死傷者をほとんど出さないうえに都市の経済活動にもほとんど影響を与えない、とアメリカ陸軍に限定的局地戦闘の新たな方法として着目された[38]。1959年5月、ウィリアム・クリーシー少尉は記者会見で「化学薬品により一時的に発狂させられるのと焼夷弾により生きたまま焼き殺されるのとどちらを選ぶのか」と精神操作化学兵器の開発に理解を求めている[38]。
1950年代後半、ノースカロライナ州フォートブラッグで行われた実験では兵士はLSDを投与された状態で様々な実戦活動を行ったが、兵士は完全な活動不能から戦闘能力の著しい低下に至り、LSDの威力を見せ付ける結果となった[38]。
しかし、LSDは噴霧状のものを吸い込むよりも体内に注入するほうがずっと効果的であり、大規模な戦闘でLSDを使用することができなかった。そのため、CIAのように尋問の道具としての研究が始まったが、1960年代前半にはLSD実験は行われなくなった[38]。
[編集] その他の分野における研究
LSDは、動物への影響を調べるために動物に大量に投与する実験や創造性に与える影響を調べるために画家に服用させて絵を描かせる実験、魔界との交信実験[39]等、医療分野や軍事分野以外でも様々な分野において研究された。
その中でもジョン・カニングハム・リリーによる、LSDを用いたイルカやクジラとの異種間コミュニケーション実験やアイソレーションタンクによる身体と精神の分離実験[40]、それらのLSD実験によって得られた「生命体は複雑なコンピュータであり、LSDは再プログラミング物質として役に立つ」との説が特に有名である[41]。
[編集] 酩酊薬としてのLSD
様々な分野で行われていたLSDの研究の多くは1950年代中にはピークをむかえ、1960年代に入ると代わって一般大衆の間に広がった。
[編集] フラワーパワージェネレーション
[編集] LSDカルチャーの出現
ティモシー・フランシス・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、心理学者は被験者や生徒を一律で評価の定まった基準で調べるのではなく、実生活の中の人々を対象に微細に行動を観察しなければならない、と交流分析的な心理学の方法を提唱し、臨床心理学のホープとしてハーヴァード大学に迎えられた[42]。
リアリーが1960年にメキシコ、クエルナバカにて休暇を過ごしていたところ、メキシコ大学の人類学者、ゲルハート・ブラウンがサンペドロで手に入れたテオナナカトルを持ってきて、そこで初めてトリップを経験した[43]。トリップに衝撃を受けたリアリーは帰国後、ドラッグによる精神拡大(あくまでリアリーは幻覚剤を、精神拡大するのを助けるための道具、補助的手段として見ていた)の研究に取りかかった[43]。
当初、リアリーはテオナナカトルの幻覚成分であるシロシビン(この幻覚成分はアルバート・ホフマンにより特定された[44])の錠剤を数百人の被験者(ハーヴァード大学の学生が多かった)に投与し、その後にマサチューセッツ州立コンコード刑務所において、まずはハーヴァード大学の心理学者と受刑者によるセッションを行い、次は受刑者がセッションに参加する受刑者を選んでセッションを行い、大学院の新入生には経験豊かな受刑者が指導をする、というプログラムを行い、この刑務所における再犯率を70%から10%まで低下させた[45]。 そして1962年、マイケル・ホリングスヘッドはリアリーのもとにLSDを持って訪れ、リアリーはLSDトリップを体験することになった[46]。
この後、リアリーはLSDを使った精神拡大の研究に取りかかり始め、学内や学外でLSDセッションを行った。しかし、LSDを無秩序に学生に使っているとの批判が学内から起き、1963年にリアリーとともに研究に取り組んでいたリチャード・アルパート(Richard Alpert, 1931年4月6日 -)が学生にLSDを与えたとして大学を追われ、すぐにリアリーも大学を追われることとなってしまった。
ニューヨークの社交界の有名人、ペギー・ヒッチコックはミルブルックに土地を買ったところであったが、リアリーのLSD研究に魅せられていたヒッチコックはそこのバンガローを研究所としてリアリーに提供した。リアリーはヘルマン・ヘッセのガラス玉演戯からカスタリア協会と名乗った[47]。
オーガスタス・オーズリー・スタンリー3世(Augustus Owsley Stanly lll, 1935年1月19日 -)はカリフォルニア大学バークレー校在校中、麻薬を嗜むうちにLSDを体験した[48]。そして1965年、大学を中退するとバークレーバージニアストリート1647にLSD工場を設立した[48]。そこが警察に踏み込まれると、次にロサンゼルスラフラーロード2205に移り、再びLSD工場を設立してベア・リサーチ・グループと名乗り、新ドラッグとしてLSDを大量に製造した(オーズリー製のLSDは品質保証された高級品として世界的に有名であった。ビートルズが口にしたLSDもオーズリー製だったと言われている[48])。また、オーズリーはグレイトフル・デッドもバックアップをしており、西海岸のサイケデリック文化やヒッピー文化の隆起は彼によるところが大きい[48]。
このような経緯により、東海岸では研究的、瞑想的なコミューン、西海岸では陽気で快楽的なコミューンが形成されることになった[49]。
[編集] フラワーパワージェネレーションの出現
1950年代から黒人差別廃止を訴えた公民権運動、女性差別廃止を訴えた女性解放運動が高まっていた。
これに加え1960年代に入ると、1965年より始まったベトナム戦争に対しての反戦運動(テト攻勢中に起こった、南ベトナム警察庁長官グエン・ゴク・ロアンが報復のために路上で南ベトナム民族解放戦線の兵士を射殺した事件やソンミ村虐殺事件が報じられるとさらに強まることになった)やベトナム戦争が長期化したことによって起こったインフレによってさらに生活の苦しくなった貧困層からの生活改善や就職先を求める運動、そしてレイチェル・ルイーズ・カーソンが1962年に「沈黙の春」を刊行して先陣を切った環境保護運動(敵味方や兵士民間人関係なく甚大な被害をもたらした枯葉剤を製造したモンサントやザ・ダウ・ケミカル・カンパニーに対する抗議や訴訟等、これもベトナム戦争とは全くの無関係ではなかった)等、様々な市民運動が展開された。
これらを背景として、フラワーパワージェネレーション、ラヴジェネレーション、フラワーチルドレン等と呼ばれる人々が出現した。彼らは歌と愛と花を一つのものとし、武器を捨て、争いをやめ、花を持って生きようと呼びかけ、「Love and Peace(愛と平和《ただし、これを『性の解放』と『反戦』とする見方もある[50]》)」を標語として掲げていた。
[編集] ヘイト・アシュベリーとヒッピー
アメリカカリフォルニア州サンフランシスコのヘイト・アシュベリー(ヘイト・ストリートとアシュベリー・ストリートの交差点を中心とした地区)はもともとヴィクトリア朝時代に上流階級の住宅地として発展した地区である。
しかし、1930年代に世界恐慌のために人が離れ始め、地価や家賃が下がり、労働者階級の人々が流れ込み始めた。
1950年代になるとサンフランシスコの再開発により追い出されたり、住んでいるところが観光地化して住みにくくなってしまったボヘミアンやビート達が主にノースビーチから移り住み始めた。彼らは借りた古いヴィクトリア朝の建物を鮮やかに彩色して住み、ペインテッドレディース(彩色された家)ムーブメントが起こった。
そして1960年代に入ると、フラワーパワージェネレーションのムーブメントに動かされた若者達も市内や全米各地からこの地区に移り住み始めた。この頃には近くのステート大学の学生も多く住んでいた。周りの地区の住民は、この地区に住む若者達を、長髪で、髭をはやし、だらしない格好をしたおかしい奴、はずれた奴と見なし、「ヒップ(尻)のように汚い奴ら」という意味を込め、「ヒッピー」と呼び始めた[51]。後に既成の制度、慣習、価値観念に縛られることに反抗したヒッピーは大きなムーブメントとなり、世界中に広まることになる(日本ではフーテンやみゆき族等の現象を生んだ[52])。
ヒッピー達はアメリカの生活に深く浸透しているキリスト教的価値観に反発し、それとは反対である(とヒッピー達は考えていた)東洋趣味、神秘主義へと行き着いた。そのようなヒッピー達にとって禅や瞑想は自分達のニーズに合致するものであった。ゴールデンゲートパーク内には日本庭園があり、ヒッピー達はそこで瞑想をした。
そしてLSDが出回り始めるとヒッピー達はLSDによるトリップが宗教的体験、意識拡大をさせるものとしてLSDを「インスタント禅」と呼んで使用した。ステート大学ではLSDについての講演が行われるようになった。
ジェイ・シリンはステート大学の学生であったが、1964年にリチャード・アルパートの講演に刺激されLSDを体験する。そして、兄のロン・シリンとともにLSD体験を広めるために、1966年にサイケデリック体験のための本や資料を売る店をヘイト・アシュベリーに開いた[53]。その後この通り沿いには英国や東洋、メキシコの品物を売るエキゾチックな店や24時間営業のレストラン等が立ち並び始め、ますますこの地区の若者の数は増えていった[54]。
ヒッピー達は各地にコミューンを形成し、共同生活を送った(中には自然への回帰を訴えて自給自足の生活を送ろうとしたコミューンもあったが成功例は非常に少なかった)。
[編集] アシッドテスト
ケン・エルトン・キージー(Kenneth Elton Kesey, 1935年9月17日 - 2001年10月10日)は自らのLSD体験をもとにして書いた『カッコーの巣の上で』がヒットし、その印税でラ・ホンダに土地を買うと、そこには若者達が集まり始めコミューンが形成された。コミューンは「陽気ないたずら者(Merry Pranksters)」と呼ばれ、ドラッグもフリーでどんな人物(ヘルズ・エンジェルズも出入りしていた)でも出入りしていたため、地元住民と対立していた(後に何度も警察に踏み込まれることになる)[55]。
キージーはサンフランシスコ周辺で「あなたはアシッドテストにパスできるか?」とのビラを撒き、アシッドテストを各地で何度も行った。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアは1回目のアシッドテストの際にキージーと出会い、キージー達はグレイトフル・デッドを様々な面でバックアップをするようになった[56]。しかし後に、キージーは逮捕を逃れるためにメキシコに去ってしまう[56]。
ティモシー・フランシス・リアリーは「Turn on, Tune in, Drop out(LSDに陶酔して意識を拡張せよ、高次元の意識に同調せよ、体制から脱落せよ)」とのスローガンを掲げ、LSDによる意識革命を進めようとした。このことによりリアリーはマスコミの強い批判を浴びたが、これを逆にうまく利用して自分の計画の宣伝をしたため、リアリーの名は全米に知れ渡ることになった。
しかし、ヒッピー達の教祖的存在となり存在感を増していくリアリーは危険思想であると政府から目を付けられ、1968年ラグーナビーチにおいて自動車を運転していたところ、マリファナを使用していたという口実で逮捕されてしまう[57]。リアリーはでっち上げであると訴えたが、その時の同乗者が実際にマリファナやハシシ、LSDを所持していたこと、裁判時にLSDを使用していた(と犯人は犯行現場の壁に血で書いたが、真偽の程は定かではない)人物による殺人事件が起きてしまい、LSDで有名であるリアリーに対して陪審員のイメージが悪化してしまったことにより有罪判決(連邦法と合わせて懲役20年)を受け、上訴なしに拘留されることになってしまった。しかし、リアリーは拘留先であるサン・ルイス・オビスポにあるカリフォルニア男子西収容所からの脱獄を成功させ、さらに名を馳せることになった[57]。
[編集] サマーオブラヴ
1967年1月14日、ヒューマンビーインの集会が行われた。この集会にはティモシー・フランシス・リアリー等のLSDによる意識革命を訴える者やヒッピーの代表、学生運動家、グレイトフル・デッド等のロックバンド、宗教家、ヘルズ・エンジェルズ等、様々な分野からの参加があり、反体制の大集会となった。
マスコミはこの集会やヘイト・アシュベリーを大々的に報道し、ヒッピーが社会現象となった。ドロップアウトをする若者は激増し、若者はヘイト・アシュベリーを目指した。また、ヘイト・アシュベリーやヒッピーを目的とした観光ツアーも行われた。
ヘイト・アシュベリーの若者の数は増え続け(高校生も目立つようになっていた)、1967年の春には10万人以上となっていた。寝るところや食物が不足し、ゴールデンゲートパークは野宿をする者やゴミで溢れた。
サマーオブラヴ委員会は様々なイベントを企画した。ベトナム戦争への抗議集会や松明を持っての行進やロック・フェスティバル等、各地で様々なイベントが行われ、町全体が舞台と化した。今までのヒューマンビーインとは違い、カリスマが観衆を引っ張り、演説をするというよりはそれぞれが集まって、集団として行動するイベントが多くなった。
また、資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指したディガーズにより、無料の食料配給が行われ、ホテルの数十室が開放された。
7月にはイベントやヒッピー達を見に来た観光客も大勢押しかけ、歩くことができないほどの大混雑となった。また、この大勢を相手にしたドラッグマーケットも大きくなり、それをめぐっての抗争も激しくなった。
ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロックバンドやジャズバンド等による演奏や詩の朗読、LSD革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われた。
9月に入ると若者や観光客の数は大きく減った。そして9月21日にはサマーオブラヴ終結の公式の集会が行われ、サマーオブラヴ終結が宣言された[58]。

