造園

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造園(ぞうえん、造苑)とは、庭園などの空間を造ることである。

造園の対象となる空間[編集]

私的な空間である庭園や公共的な空間である公園などの緑地/緑空間を土木的な基盤整備、意匠、植物の栽培管理、石等の鉱物資源などによって造ることである。さらには水辺海辺、山林や里山、広場などの空間整備、緑にからんだ都市計画や地域環境整備、諸施設の外部空間等の空間整備や各種緑化施策、自然環境の保全保護や観光農園や棚田などの農空間・田園環境の創出および、それら一連の調査計画~維持管理、景観の形成および修正(修景)に関する分野、植木樹木生産管理、緑を創る植栽基盤整備、農園や園芸のうち家庭園芸/ガーデニング、花壇などの展示植栽、園芸療法に関する分野も含まれる。

近年ではテーマパークなどの施設から、集落や都市の環境改善、自然風景地などにいたるさまざまな空間を対象に、計画、デザイン、施工、管理にまたがる技術の体系で、造園そのものは古代から多くの文明で行われてきたが、職能の分化が明確になる近代では、建築、土木や都市計画などとともに環境づくり、環境デザインの主要分野のひとつを成す。また農学分野の中でも美的側面を重要視する専門領域である。最近では専門領域の区別はあいまいになり、分野間のコラボレーションや役割の入れ替わりなどが起こっている。特に景観の保全や整備に関する研究、計画、デザインなどはどの分野でも行われている。

造園の扱う対象の範囲を考えてみると、造園が広義の生活環境を創造・保全するものであるとすれば、空間的に造園の範囲は、小さくは個人の空間から日常生活空間から広場などの都市諸施設や国土的スケールの生活空間まで含まれる。そして造園において造るという行為は、実際土木工学と同じようにその一連の調査計画~維持管理まで拘ることとなる。特に個人の庭空間や農園および農風景の創出から発した造園は人間のあらゆる生活空間において快適性の享受等を行うことを目的としていることから、地域環境整備、諸施設の外部空間等や住む、働く、くつろぐ、交通という生活の様々な活動すべてにかかわる場が造園の対象範囲となるといえよう。

これらの造園の対象空間は人間の手を加えた山林や里山(二次林など)も含め広義の「緑地」という概念が一般的に用いられている。造園空間はまた管理行為が重要であり、管理行為自体が造園空間を造る行為にほかならず、並木や庭園植栽などは毎年複数の人間の手によって手厚く管理された二次的自然であり、その生態系の四季ごとの変容は高いアメニティ価値をもち、雑木林管理に採用される萌芽更新手法は、大きくなりすぎた樹木の伐採、切り株からの萌芽によって高さを抑え、樹林密度を一定に保つ。こうした生態系のシステムを生かして管理された二次林として雑木林は落葉広葉樹を主とすれば新緑から紅葉、落葉へと四季に応じて色変化が自然の豊饒さを感じさせる。雑木林など里山は明確な空間的輪郭をもっていないため、都市空間の中で都市との連続性が得られやすい特性をもち、そうしたコリドー型エコロジーが適性な管理によって守られ、結果として美しい記憶に残る風景を生み出しているのである。また建物内外に問わず設置される植物や緑のディスプレイおよび花壇などの展示植栽もあわせ、社会のニーズが求めうる多様な環境・緑化空間の創造や 維持管理を行っていく必要がある。

なお緑地の土木的基盤整備は農業土木行為であり農業環境工学という別分野であり、森林を扱うのも林業や森林施業などで厳密には林学/森林科学で扱う分野であり造園行為とは多少異にするし、現代社会において環境全体を扱うにあたり建築や土木施設があってほかに自然や森林と農業空間というだけでは生活空間創出は成り立たず、人間と自然との関わりの中からつくられるひとつの風景としてあつかう理論と方法論が必要となってきている。

戦後における環境問題として、大都市地域を中心とした都市のオープンスペースや緑空間の急速な減少傾向やまた景観破壊の問題があり、昭和30年代以後の急激な市街化は近郊の山林や里山/二次林など諸空間、都市地域の内部およびその周辺地域の生活環境に大きな影響を与え、都市内外における自然環境および各種オ一プンスペースの減少、あるいは荒廃となって現れてきた。アメリカの都市思想家ルイスマンフォードによれば、期待されるオープンスペースとは健康と安全機能と共に、生物学的機能や社会的機能としてレクリエーションに役立つ空間であるべきだと述べられている。これに対し行政サイドとしては、都市公園整備や観光農園棚田などの農空間整備と田園環境の創出を始めとする造園資源や公的オープンスペースの確保等が、また景観の形成に関する分野についても修景改善がすすめられた。また私的オープンスペースについても各種の助成・規制などの措置が講じられ、環境改善の努力は進められている。私たちの目指すべき魅力的な空間とは、都市では広場自然とオープンスペースを骨格とし一人一人が異なったライフスタイルを楽しめ、豊かな生活風景を生む都市構造を持っていることが計画や設計の鍵となっている。

個人的な空間における造園[編集]

  • 個人住宅における庭園・外構の創出
    • ベランダガーデン;都市部ではマンションなどのベランダで花作りや栽培などが行われている。
    • 屋上緑化/壁面緑化、露地空間・坪庭の作庭、家庭菜園、アトリウム等内部緑空間や花壇・植物小空間創出、植樹・樹木管理等。

法人的な空間における造園[編集]

  • 法人所有の諸施設などに設けられる屋上も含めた庭園や露地空間創出、山林/敷地空間の造園整備、壁面緑化
  • 法人所有の諸施設・ビルなどの外部空間や緑環境施設等
  • 遊園地やテーマパーク類のリゾート施設やゴルフ場/ゴルフコースなどのレクリエーション施設整備
  • 学校法人などが所有の学校キャンパス、公共団体や宗教法人所有の神社や寺社の境内や墓地/墓園等。
  • 産業が破壊した風景等の修復など-土砂/砂利採掘場所跡、ぼた山や工場跡地、廃棄物埋立地の造園的修復

公共的な空間における造園[編集]

  • 公共庭園-公園-緑地-樹林地・樹林帯-公開空地-広場-行楽地、などの創出
  • 街路樹-植樹帯-グリーンベルト、などの創出 法面緑化
  • 史跡名勝天然記念物など文化財の保全修復維持管理、園的整備
  • 各公共諸施設(○○センター、学校、駅、工場、港湾、空港、道路空間・・・)の非建蔽地、外部空間、造成地、埋立地、河川湖沼海岸等水辺、の緑地化・園地化および植樹
  • 自然体験観察園等や、ビオトープ等の自然保護空間整備、○○パーク、××ガーデンといったテーマパーク物、「○○の里」、「○○の丘」、「○○の森」づくりなど
  • 都市緑化フェア博覧会場等会場計画設計・庭園や花壇出展展示

造園の概要[編集]

造園は「造苑」とも表記され、韓国では「造景」としている。私的な空間である庭園や公共的な空間である公園などの緑地/緑空間を土木的な基盤整備し、意匠を植物や水などの自然素材、石等の鉱物資源などによって造ることである。植物の栽培管理、水辺海辺、山林や里山、広場などの空間、水辺や森林などの空間整備、緑にからんだ都市計画、諸施設の外部空間整備や各種緑化施策、自然環境の保全保護や農空間・田園環境の創出、景観の形成や修正などがある。また諸施設の外部空間等の空間整備や各種緑化施策、自然環境の保全保護や観光農園や棚田などの農空間・田園環境の創出および、それら一連の調査計画~維持管理、景観の形成および修正(修景)に関する分野、植木樹木生産管理、緑を創る植栽基盤整備、農園や園芸のうち家庭園芸やガーデニング、花壇などの展示植栽、園芸療法に関する分野も含まれる。都市公園整備や観光農園や棚田などの農空間整備と田園環境の創出を始めとする造園資源や公的オープンスペースの確保等、また景観の形成に関する分野についても修景改善、また私的オープンスペースについても各種の助成・規制などの措置が講じられ、環境改善の努力は進められている。目指すべき魅力的な生活空間は、都市では広場自然とオープンスペースを骨格とし、一人一人が異なったライフスタイルを楽しめ、豊かな生活風景を生む構造を持っていることが計画や設計の鍵となっているのである。

造園という言葉[編集]

造園という用語については、明治以降、欧米から入ってきたLandscape Architectureの和訳として適用された言葉とされているが、これは1919年に原煕東京帝国大学で行なった講義においてである。今日では従来の庭園や作庭という意味も含めつつ、より広範囲の観念をもたせたものとなった。「造園」の文字は出版書物としては明治26年に小沢圭次郎の著作『公園論』に登場するのが最初であるが、「建築」などの言葉も含め、これらは中国明時代の庭園書『園冶』:yuan yeh にすでにみられる。1901(明治34)年には福羽逸人の講義録に「造苑」の文字が登場し、1911(明治44)年には森鴎外が、画家出身の作庭家本多錦吉郎の著述物の序文に造園の文字を使用している。なお、上原敬二は著書の中で、「造園」の語は主に庭の関係ある者が「庭園」の代用語として日常用いていたと記している。明治初期東京に農業試験場は2箇所に存在し、その1つは新宿御苑の試験場で、もうひとつ開拓使の試験場が現在の青山学院大学のところに存在したが『東京市史稿』ではこれらを遊園篇に掲載し、伊藤ていじ開拓使が「農園」を造る意味で用いていたとしている。

言葉自体は明治時代にはすでに一般化していた言葉であり、いままで多くの人々によって様々な定義がなされている。「造園」という言葉の定義として、1917年田村剛は、“造園術とは、土地を美しく取り扱う術であり、または自然を享楽せしめる施設とはいえ、同時に他の実用・経済・衛生・保安・教化等の目的を伴ってもあえてさしつかえない"としている。また、1924年上原敬二は、造園学の定義として、“造園学とは、人間生活の上に使用、享楽のため種々の程度において美観と同時に利用の目的を達するよう土地を意匠設計する理論を考究する学術である"としている。さらに、1949年永見健一は、造園を定義して、「造園とは一定の上地の上において、その地形とその上にあるものおよび他から持ち込んだ植物その他色々の材料を組み合せて、これから創造された、または修飾加工して造成せられた一つのまとまった構成であって、それらを一次的目的として人の慰楽・休養・保健・鑑賞等の場たることを期し、第二次的目的として、保安・知育等の助長を図ることを原則とするが、政策的にはこれから経済収益を挙げることを目的とすることを妨げない」としている。

また、「造園」という言葉の英訳"Landscape Architecture"の定義もまた様々であり、1873年アメリカ合衆国のクリーブランド(H.W. Creveland、1814~1900〉は、"Landscape Archltecture"(造園)を「文明進歩の各種の要求に対して、最も便利に、最も経済的に.そして最も優美にするように.ヒ地を編成する技術である」としている。また、アメリカ造園家協会(ASLA: American Society of Landscape Architects)の定義によると「美学的並びに科学的な理論を活用して、人間の物的環境を改善することである」となっている。

業務としての造園[編集]

  • 造園空間の施工と管理
    作庭行為、石材取扱、造園空間建設施工、樹木等植栽や立石など、空間の維持管理(剪定や植栽管理など)と運営管理 など
  • 緑地緑化計画
    緑化空間構造策定 広域公園緑地基本構想基本計画 森づくり事業計画 広域緑地計画、空間地利用計画 緑と水のネットワークおよび回遊ルート ドッグラン エコロードづくりなど 
  • 名所・歴史的都市整備・名木の保存
    文化・自然遺産まちづくり推進の調査計画 整備維持管理 保全修景等調査 世界遺産ほか各種文化財申請資料等作成 など
  • 緑地保全関連 
    自然環境保全基礎調査植生原図作成業務 緑地保全整備計画調査 森林・林業・森林空間総合調査事業 国有林活用計画調査 自然環境現況調査 地域自然資源調査開発活用事業 樹林保全整備設計 など
  • 観光関連計画関連業務
    観光地修景緑化計画 探訪路環境デザイン策定 レクリェーションゾーン整備推進調査計画 野外博物館構想策定調査 など
  • 環境影響評価関連業務 
    ゼロエミッションモデル解析 有機性資源循環システム研究 環境アセスメント実施 パブリックインボルブメント  環境共生取組促進調査 CO2固定促進管理手法に関する調査 など
  • 景観づくり・景観形成等
    景観計画に係る基礎調査 風致地区および地区計画地区における景観形成の現状および評価に関する調査 景観整備構想検討調査 景観形成地区計画策定業務 景観基本計画策定業務 景観推進事業 景観形成ガイドライン策定 街並みまちづくり支援施設整備や計画策定 ランドスケーププラニングによる広域計画策定 など
  • 施設維持管理管理運営調査等
    来訪者・住民等が施設等に対するの意識に関する調査 利用形態・実態調査調査 各種影響調査(被害実態、管理形態、植生経年変化等々)
  • 緑や環境をつくる法制度整備 
    各種の環境と緑の政策を策定(緑の基本計画 国土利用計画 環境整備計画 緑のマスタープラン 水辺のマスタープラン、環境ネットワーク計画  緑化推進施設整備 回廊計画 各種計画の基本構想  環境緑地保全計画・整備事業 広域緑地計画構想 市民農園農空間創出 地域緑農振興計画 近郊緑地保全区域の指定に関する調査…)
  • 造園関連事業制度構築
    造園事業積算体系構築、植栽・管理等各種マニュアル等作成業務 資格管理運営(造園施工管理技士や造園技能士、登録ランドスケープアーキテクト(RLA)、技術士(建設部門、環境部門、農業部門)RCCM造園部門、樹木医、街路樹剪定士、植栽基盤診断士等々)など

造園の特徴と意義[編集]

このように、「造園」の定義は様々なものがあるが、これらを要約すれば、造園とは美学的、科学的理論を活用しながら、美と実用すなわち休養、教化、保健、体育、保安等を目的として、自然(地形、水、植生等)その他の要素を編成(アレンジ)し、人間の屋外における理想的な物的環境を構成することといえるが、造園についての定義に従って、造園の意義を他の土木・建築といった広義の物的環境構成のための科学技術と比べてみると、造園における物的環境の構成は、自然(地形、水、植生・気象等を含めて)及び人工材料、施設がそのおもな要素としてなされること、特に植物に重点がおかれていることがあげられる。庭や街路、都市の広場など外部空間はすべてひとつの物理的な空間であり、人々はこの空間における人間と自然とのかかわりの現象を風景としてとらえるが、風景そのものはでも広場でもない。庭や広場はその形態要素や構造、素材の選択などを経て物理的空間として形成されてきたものである。

風景はこの物理的空間上でさまざまな現象や出来事が起こる場面の集積としてとらえられるが、そこには境界領域が明確な物理的空間と界隈のように人々が集まったり特定の行為や出来事によって意識化される、さらには人間のスケールを越えたプリミティブな、そうした自然空間をも含まれている。これらは特定の機能によって定義されるものではないから、あらゆる解釈ができ多様な使われ方が出来る。ノルベルクシュルツはこうした特定の性格をもつ空間としての場所を空間+性格として捉え、それを地霊(ゲニウスロキ)と呼び、空間を知覚や印象、雰囲気という人間的で主観的な要素の集合体としてとらえうることを主張したが、このような場所には人間が自然の中に見出すものと人間が自然に干渉してつくったものとがある。土木・建築においてはその構成要素として無生物的要素を取り扱うことが多いのに対して、造園の場合には生命のある植物を主として取り扱いながら、前記の目的を達成しようとしているといえる。

この植物を主体とした物的環境ないし景観構成技術は、土木・建築が工事が完了した時点で“完成"であるのに対し、造園においては必ずしもそうとはいえないゆえんであり、造園の目的達成は工事完了後における生物である植物の管理いかんによって大きく左右される性格のものということができるし、屋外に存在する史跡名勝天然記念物など文化財を保存し活用するためにさまざまな形態での造園的な整備と維持管理も行われている。この場合整備形態としては現状を維持するものから復元的な整備(現地での場合と移転とがある)がある。さらに景観の項でもあるとおり、棚田や里山など空間資源を文化的景観(カルチュアルランドスケープ)としてとらえ、文化庁の協力の下田園風景や農村景観を造園技術で保全している。都市あるいは国土の緑の減少が憂慮されている現在、残された貴重な緑地を保全していくばかりでなく、また、積極的に新たな緑をつくりだしていくことが重要な課題となっており、うるおいのある生活環境の実現が強く望まれている中で、造園の意義は大きい。

園地[編集]

造園でいう園地(えんち)とは、ある敷地で建物等が建っていない造園された個所、場所、空間のことをいうが、厳密な定義はない。公園や庭園はむろん含まれるし、線地や緑地帯、オープンスペースなども該当するが、それらの総称や厳密に公園ではないが、公園風に造園された場所などの呼称として使用される。たとえば、愛知県田原市には日出園地(ひいえんち)がある。

造園学の歴史[編集]

明治時代に造園学の造園教育機関を担ったのは、次々に設立された農学校、園芸学校である。 1886(明治19)年に駒場の農学校と西ヶ原の山林学校が合併し東京農林学校(東京大学農学部の前身)が創設されていたが、1908(明治41)年には東京府立園芸学校(東京都立園芸高等学校の前身)、また奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)に園芸の科目が設置されている。1909(明治42)年には千葉県立園芸専門学校(現在の千葉大学園芸学部)が創設されている。初代校長である鏡保之助が翌年から「築庭理論」の名称の講義が開始されているが、後の1913(大正2)年には正式科目として、本郷高徳が東京帝国大学から転任して担当することになる。

当初は福羽逸人などの園芸家が造園に与えた影響が強かった。福羽逸人(1856~1921)は当時の勧農局試験場、三田育種場詰をへて植物御苑(のちの新宿御苑)に入り、定年まで奉職する。その間、1890(明治23)年より東京農林学校講師となり、日本で初めて「風致園芸」の名で造園学を講じた。「園芸の区域を論ず」と題する講演筆記では、園芸の分野を画し、そこに造庭術と観賞植物栽培とを含めていった。 1903(明治36)年には、新宿御苑の園芸見習生のための講義録『園芸論』で、特にフランスの影響を強く受けた造園論を展開している。

造園学は続いて、林学が影響を与える。1903(明治36)年、日比谷公園を林学の専門家だった本多静六本郷高徳らが設計する。本多らは続いて明治神宮の造営にも参加した。これ以降、農学系大学教育においては園芸系と林学系において造園教育が行われるようになる。

本多静六(1866~1952)は農科大学のさらに前身の東京山林学校を卒業後、ミュンヘン大学に留学。ドイツの林学の影響を強く受けて帰国し、東京帝国大学教授に就任、ほどなくして日比谷公園の設計にあたり、林学系造園の泰斗として大いに活躍する。 1914(大正3)年には帝国大学で「景園学」の名で造園学を講義するに至る。造園学とは「庭園、公園、森林公園其他風景美を旨とする地物に対して其風景美を構成し、又はこれを助長する理論と方法とを講究する学なり」と講じた。 その後造園学の講義は、1919(大正8)年9月には改めて正式科目として開かれることとなる。この講義は福羽の後継者である園芸学講座の原熈教授と、林学第二講座の本多教授の両名が受け持った。 その後、原の担当パートは丹羽鼎三が担当する。本多のパートは本多が総論、田村剛が東洋庭園史、本郷高徳が西洋庭園史を担当し、総論はのちに森脇福雄が担当、さらには池ノ上容が国立公園と風景計画、太田謙吉が公共緑地学、千葉県立園芸から小寺駿吉が出講して特論を担当している。 東京府立園芸学校では1913(大正2)年から、野間守人が講義を担当している。

関西では、1888年9月大阪堺区車之町に大阪府立農学校が設立。1909年3月には園芸科が新設される。 1917(大正6)年には教諭として、のちに「甲子園花苑都市」、「藤井寺花苑都市」構想を手がける大屋霊城が赴任する。1924年には園芸科は分離し、豊能郡立農商学校と合併して大阪府立園芸学校(現大阪府立園芸高等学校)になる。この学校には1944年、園芸科、農芸化学科の2科をもつ大阪農業専門学校大阪府立大学生命環境科学部の前身校の1つ)を併設する。 大屋霊城(1890~1934)は1915(大正4)年東京帝国大学農科大学農学科卒業。大阪府の公園設置委員会委員や大阪府技師、都市計画地方委員会技師を歴任。大正期から昭和初期にかけておもに関西を拠点に造園設計、造園教育に携わる。gardencity(田園都市)を花苑都市と訳し、専ら都市にある緑空間の必要性を世に説いていった。

建築教室では東京帝国大学で1918(大正7)年ごろに「庭園学」として講義が始まり、初期は伊東忠太大江新太郎が担当し、後には農学部林学教室の田村剛が担当している。建築ではジョサイア・コンドルが1893(明治26)年に博文館出版から日本庭園に関する書物「Landscape Gardening in Japan』を刊行し、世界中に紹介しているが、上原敬二によると、1902年ごろには特別講義のような形式でコンドルが担当していたようである。ちなみに不採用だったが本多静六の前に日比谷公園の設計を担当したコンドルの弟子辰野金吾は、自分の教え子の古宇田実に西洋庭園の、また天沼俊一日本庭園の研究を進めている。1919年に岩波書店から出版された『フレッチャア建築史』の翻訳者として知られる古宇田は日本人建築家として最初に庭園の研究に着手した人物と指摘され、研究成果は後に日本建築学会のパンフレットとして出された名庭園と建築を事例として空間構成を解説した『建築と関係深き庭園』で主に洋風庭園を多く取り上げている。古宇田は大学院修了後1905年から東京美術学校(現東京芸術大学)で庭園に関する教鞭をとり、のちには吉田五十八が担当する。吉田の日本庭園の好みは石を嫌い、大和絵のような庭を好んだとされる。天沼はのちに武田五一によばれた京都帝国大学では建築史を担当し、石灯篭の研究で名を馳せることになる。そのほかの建築学界からは武田五一が茶室の、保岡勝也が茶庭の、佐藤功一今和次郎谷口吉郎堀口捨巳吉田鉄郎が庭園の研究を行っているほか、西沢文隆は1970年から日本各地の庭園の実測を開始し、庭と建築が一体として表現された実測図を多く残す。それらを透けた空間、密な空間、歩く庭、庭と呼ばれない庭の4種に分類している。

また、東京帝国大学の農科大学林学実科では1919(大正8)年から田村剛、1922(大正11)年からは永見健一が造園の講義を担当する。

1922(大正11)年には九州帝国大学に林学科が設置され、東京帝国大学の林学教室から土井藤平が転任し、「造園学」を講義した。1926(大正15)年からは永見健一が転任して引き継ぐ。

1923(大正12)年に関東大震災に見舞われたことから、帝都の復興計画に関わった上原敬二は公共造園の重要性を感じ、造園技術者の養成が急務であるとして、震災の翌年に渋谷・常磐松の東京農業大学のキャンパスの一角を借りて東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科〉を設立し、自ら校長となる。上原は『造園学汎論』を出版し造園学の体系化を目指した。

1924(大正13)年には京都帝国大学の林学科にも造園学講座が開講し、東京帝国大学から関口鍈太郎が転任、同じ年三重高等農林学校(後の三重大学農学部)は丹羽鼎三が転任する。1936(昭和11)年に大阪府技師の森一雄が造園に関する授業を嘱託される。

なお、北海道大学では農学科は花卉園芸、林学科は森林美学の講義があるのみであった。森林美学はドイツの林学者ザリッシュによって林学の体系の一部門として確立された。彼は森林美学を「施業林の美に冠する学」と定義した。施業林とは林学用語で人手を加えて管理する森林を意味し、その典型的なものは人工林である。ザリッシュは施業林において経済的な利益を追求することと美しい森林をつくることは基本的に調和すると主張した。北海道大学教授新島善直の『森林美学』は1918年(大正七)年の刊行でザリッシュの刊行から七年後のことであった。ザリッシュの影響を強く受けたものであることは目次構成などからも予想されるが、必ずしもその直訳ないし模倣ではない。まず第一に、天然林の美を重要視していること、第二に風景要素としての森林美を重視していること、第三に説明の材料を日本の森林にとっていること、などが特徴としてみられる。

昭和期には、1941(昭和16)年には前述の東京府立園芸学校に造園科が設立されている。第二次世界大戦後、1960(昭和35)年以降、各地の農業高等学校に造園科が開設され、大学農学部にも次第に造園コース/造園学講座専攻を持つところが増加し、また、専門学校職業訓練校(現、職業能力開発校)でも造園科を設けているところが多くなっていった。さらに近年では芸術工学関係の大学・学部などでも造園学を教える学科を持つようになり、広く環境を考えるという視点から教育が行われている。

日本造園学会[編集]

造園において伝統的な職能が蓄積してできた技術と文化の上に、近代的な理論と科学的体系を構築することを目的として1925(大正14)年に設立。学会誌『造園学雑誌』改め『ランドスケープ研究』を発行。 会員は、大学等研究機関の研究者・教育関係者から学生、国および地方公共団体公益法人等行政の造園事業担当者、造園事業に携わる民間のコンサルタントや設計事務所、建設会社、環境関連会社等に勤務する実務者まで、学会が対象としている分野も造園の歴史・原論・デザイン関連や公園緑地などの計画・設計・管理、自然環境の保全保護と利活用手法、造園材料と緑化技術、ランドスケーププラニングおよび景観の分析・評価・計画など、多種多様である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]