西芳寺

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西芳寺
Saihouji-kokedera01.jpg
庭園(特別名勝、史跡)
所在地 京都府京都市西京区松尾神ヶ谷町56
位置

北緯34度59分31.06秒
東経135度40分59.93秒

山号 = 洪隠山
宗派 臨済宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 (伝)天平年間(729年749年
中興:暦応2年(1339年
開基 (伝)行基
中興:夢窓疎石
別称 苔寺
文化財 湘南亭・夢窓国師画像(重要文化財)
庭園(特別名勝、史跡)
世界遺産
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西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。一般には苔寺(こけでら)の通称で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

歴史[編集]

伝承によれば、西芳寺のある場所は飛鳥時代には第31代の用明天皇の皇子である聖徳太子の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという。

奈良時代に至って、第45代の聖武天皇の勅願を得た行基が別荘から寺へと改めたと伝える。当初は法相宗寺院で「西方寺」と称し、阿弥陀如来本尊観音菩薩勢至菩薩脇侍とした。畿内49院の一つであった。

平安時代初期の806年には第51代平城天皇皇子である真如法親王草庵を結び修行をしたという。また真言宗開祖である空海が入山し黄金池にて放生会を行ったという。

鎌倉時代には摂津守中原師員が再興し、西芳寺と穢土寺に分けられた。招かれた法然によって浄土宗改宗され、本尊は金泥にされたという。 その後に親鸞愚禿堂を建立し寺に滞在している。 鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼桜堂(おうどう)を建立したが、建武年間に再び寺は荒廃している。

室町時代に、近くにある松尾大社宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339年)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して禅寺として再興した。この時に西方寺と穢土寺は統一された。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する[1]。 1342年に北朝初代の光厳天皇が、室町幕府初代将軍足利尊氏を従えて寺に行幸。 1382年に3代将軍の足利義満が西芳寺を訪れ、道服を着用し指東庵坐禅に徹宵した。その後何度も訪れ、西芳寺を模して創建したのが鹿苑寺(金閣寺)である。

応仁の乱(1467-1477)で東軍の細川勝元の陣が敷かれた。1469年に西軍の攻撃により焼失。 1485年には洪水により被災し、本願寺蓮如により再興された。 室町幕府第8代将軍の足利義政により指東庵が再建された。義政もその後何度か訪れ、西芳寺と鹿苑寺を模して創建したのが慈照寺(銀閣寺)である。

安土桃山時代の1568年には丹波国柳本氏による兵乱により焼失。織田信長天龍寺策彦周良に命じて再建させた。

江戸時代には寛永年間と元禄年間の2度にわたって洪水にも見舞われ荒廃した。元は枯山水であった荒廃した庭園がでおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きい、とされる。 幕末の1862年には公卿・政治家の岩倉具視が一時湘南亭に隠棲した。

明治維新神仏分離令廃仏毀釈により、境内地は狭められ荒廃した。 1878年に再興されている。

1928年より庭園が一般公開された。 1969年に西来堂再建。 1928年より誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年7月からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。 単なる観光や見学ではなく読経と写経という宗教行事に参加することが条件となっている[2]

アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズは、お忍びで家族とともに西芳寺をよく訪れていたという。

伽藍[編集]

湘南亭

境内東側は黄金池を中心とした苔の庭園であり、東側には本堂(西来堂)、書院、三重納経塔などがある。庭園内には湘南亭(重文)、少庵堂、潭北亭(たんほくてい)の3つの茶室がある。境内北側には枯山水の石組みがあり、開山堂である指東庵が建っている。

このほか境内には高浜虚子の句碑や大佛次郎文学碑などがある。

  • 本堂(西来堂)- 1969年の建築で、本尊阿弥陀如来を安置する。襖絵は堂本印象の筆である。
  • 三重納経塔 - 1978年建立の三重塔で、信者の写経を納めている。本尊は薬師如来である。
  • 湘南亭重要文化財)- 夢窓疎石の時代に建てられ、その後荒廃していたが、千利休の次男・千少庵によって再興されたと伝えられる茶室。屋根は杮葺。西から東へ待合、廊下の間、次の間があり、次の間の北側に茶室、その北側に板貼りの広縁があって、全体としてはL字形の平面を有する。庭に向かって張り出す広縁は舞台造、三方吹き放ちでベランダ状の開放的な空間である。四畳台目の主室は、床(とこ)を亭主床[3]とし、客座の中央に付書院を設け、火灯窓を開ける。躙口はなく貴人口のみ、北側は広縁に連なり林泉を見渡すことができ、明るく開放的な茶室である[4]。幕末には岩倉具視がここにかくまわれていたことで知られる。
  • 少庵堂 - 千少庵の木像を祀る。1920年の建築。
  • 潭北亭 - 1928年、陶芸家の真清水蔵六(ましみずぞうろく)から寄進された茶室である。「湘南亭」「潭北亭」などの建物の名勝は中国の禅書『碧巌録』に出てくる句にちなむものである。

庭園[編集]

黄金池

特別名勝及び史跡。夢窓疎石の作庭で、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っていた。境内北方には上段の枯山水庭園の石組みが残り、この部分には夢窓疎石当時の面影が残っていると思われる。 今日、西芳寺庭園としてよく知られるのは苔の庭で、木立の中にある黄金池と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園である。

山麓に位置する地形の庭園構成を池と、その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けまたこの禅堂より山に登る道があって、頂上に縮遠亭という休憩所があった。頂上からは桂川周辺を展望しようとし、池辺の2層の舎利殿瑠璃殿)からは庭園を見下ろそうとする構想で、両者は同一の考えから出た、立体的な構想力を示したものであるとされる。

池には朝日島、夕日島、霧島と呼ぶ3つの島があり、小島には白砂が敷かれ松が植えられ、亭があり、池の3面の花木は2段に刈り込まれていた。池の周囲を埋め尽くす100種類以上といわれる苔は夢窓疎石の時代からあったものではなく、今のような苔庭になったのは江戸時代も末期のことといわれる。

池の周辺には瑠璃殿のほかに、釣寂庵、湘南亭、潭北亭、貯清寮、邀月橋、合同船があった。広さに比して建築的要素の多い庭といえるがこの邀月橋は亭をもった亭橋で、これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれた。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂があり、この山腹に巨石を組み、滝を象徴している。

文化財[編集]

特別名勝・史跡
  • 西芳寺庭園 - 解説は前出。
重要文化財
  • 湘南亭 2棟(本家、待合及び廊下)
  • 絹本著色夢窓疎石像

脚注[編集]

  1. ^ 藤田(1995)p.68
  2. ^ 一般拝観中止時期等は、藤田(1995)p.70及び同p.83による。
  3. ^ 一般に茶室では客座に近い位置に床の間を設けるが、本茶室のように点前座の勝手付(客から見て、亭主の背後)に床の間を設けるものを亭主床と称する。
  4. ^ 前久夫『すぐわかる 茶室の見かた 改訂版』、東京美術、2011、pp.14 - 15

参考文献[編集]

  • 藤田秀岳「西芳寺今昔」『京の古寺から 6 西芳寺』、淡交社1995年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]