中田浩二 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
愛称 | コウジ | |||||
カタカナ | ナカタ コウジ | |||||
ラテン文字 | NAKATA Koji | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1979年7月9日(44歳) | |||||
出身地 |
滋賀県滋賀郡志賀町 (現:大津市) | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / DF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1998-2004 | 鹿島アントラーズ | 144 | (27) | |||
2005-2006 | オリンピック・マルセイユ | 9 | (0) | |||
2006-2008 | FCバーゼル | 62 | (3) | |||
2008-2014 | 鹿島アントラーズ | 122 | (6) | |||
代表歴2 | ||||||
2000-2007[1] | 日本 | 57 | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月31日現在。 2. 2007年6月5日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
中田 浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、滋賀県滋賀郡志賀町(現:大津市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。元日本代表。
来歴[編集]
プロ入り前[編集]
滋賀県大津市出生。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の横浜市立南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の米子市立義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の米子市立後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。
帝京高校では、2学年上には依田光正、松波和幸(松波正信の弟[2])、留学生の吉成大[3]と江田広(共にペルー人[4][5])、同学年には木島良輔、貞富信宏、藤田芳正がいた。進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れたものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。
クラブ[編集]
鹿島アントラーズ(1998-2004年)[編集]
1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原、本山とともに中盤を担い、チームの多くのタイトル獲得に貢献した。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。
オリンピック・マルセイユ(2005年)[編集]
2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した[注 1]。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。
移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエル・プレミアリーグのベイタル・エルサレムFCからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう[7]。
FCバーゼル(2006-2008年)[編集]
2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。
2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。
2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する(2008年7月に加藤と破局と報道される)。
その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているなら復帰する意思があると伝えたが、鹿島の提示金1億円に対して「中田は必要な選手」とするバーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは移籍断念となった。
翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することが正式発表された。同年7月より、およそ3年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。
鹿島アントラーズ(2008年7月-2014年)[編集]
鹿島復帰後はユーティリティー性を買われ、ボランチ、左サイドバック、センターバックと主に3つのポジションでプレー。しかし膝の怪我の影響か全盛期の身体のキレは全く見られず、1対1で簡単に振り切られる場面が多々見られた。10月に膝の再手術に踏み切ったことにより残りシーズンを全休。チームは連覇を達成したものの、中田本人にとっては公式戦わずか12試合の出場に留まり、不本意なシーズンとなってしまった。2009シーズン当初は青木剛にポジションを譲り、控えに甘んじていたが、チームが失速した夏場以降、出場機会が増えた。
2011年シーズン当初は増田誓志の復帰、本田拓也、柴崎岳の加入でボランチの層が厚くなり、大岩剛の引退で層が薄くなったセンターバックで伊野波雅彦と併用にされていたが、しだいにセンターバックのレギュラーに定着、その後、伊野波は移籍をした。
2014年12月3日、2014シーズンをもって現役引退が発表された[8]。チームは最終節まで優勝争いをしていたこともあり、発表直後の12月6日のJ1第34節サガン鳥栖戦もメンバー入りは叶わなかった。
日本代表[編集]
トルシエ監督時代[編集]
1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。
オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカス・セベリーノによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。
A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦[1]。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦では自陣で相手選手へパスしてしまい、その後の相手のパスは防いだもののCKを献上、そのCKで失点した。
バランス感覚と正確なロングフィード、時にはサイドバックのようなオーバーラップで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。
ジーコ監督時代[編集]
ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。
2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦4人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。
オシム監督時代[編集]
2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮のため、しばらく日本代表への招集は見送られていたものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。
引退後[編集]
2015年1月14日、鹿島のクラブスタッフとしてクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。CROはクラブを運営するにあたって連携が必要な協賛企業・団体や行政機関、更に地元市民などの利害関係者(ステークホルダー)とチームをつなぐことを目的として、ビジネス面においてのサッカー事業に重点を置き、クラブ運営をサポートする責務を負う[9]。また同4月より左記のままでテレビ朝日「やべっちFC」のレギュラーコメンテーター(中山雅史と原則隔週交互出演)に就任した。2018年4月には筑波大学の大学院へ入学した[10]。
引退試合[編集]
2015年7月5日に柳沢敦、新井場徹と合同での引退試合が行われた。
中田浩二 柳沢敦 新井場徹 合同引退試合
ANTLERS LEGENDS | 5 - 2 | KAY FRIENDS |
---|---|---|
柳沢敦 15分 新井場徹 39分 興梠慎三 64分 中田浩二 84分 (PK) マルキーニョス 90+1分 |
公式サイト | 三浦知良 29分 福西崇史 43分 |
出場選手[編集]
- ANTLERS LEGENDS
- 監督:トニーニョ・セレーゾ、鈴木満
- GK:1.佐藤洋平、21.曽ヶ端準、47.古川昌明
- DF:2.名良橋晃、3.秋田豊、4.奥野僚右、5.池内友彦、6.中田浩二、7.新井場徹、15.室井市衛、22.内田篤人[注 2]、25.中村祥朗、45.大岩剛
- MF:10.本山雅志、14.増田忠俊、16.本田拓也、17.鬼木達、20.阿部敏之、23.山口武士、40.小笠原満男、46.石井正忠、66.本田泰人
- FW:8.興梠慎三、9.平瀬智行、11.長谷川祥之、13.柳沢敦、18.マルキーニョス、19.田代有三、30.鈴木隆行
- KAY FRIENDS
- 監督:山本昌邦
- GK:1.楢﨑正剛、12.都築龍太、24.武田博行
- DF:2.鈴木秀人、3.木場昌雄、5.田中誠、16.山田暢久、19.坪井慶介、21.波戸康広、22.中澤佑二
- MF:4.戸田和幸、6.服部年宏、7.名波浩、8.森島寛晃、10.中村俊輔、14.三浦淳寛、15.酒本憲幸、17.稲本潤一[注 2]、23.福西崇史、44.小野伸二
- FW:9.中山雅史、11.三浦知良、13.船越優蔵、18.城彰二、20.久保竜彦
所属クラブ[編集]
- ユース経歴
- 1992年 - 1995年 米子市立後藤ヶ丘中学校
- 1995年 - 1998年 帝京高等学校
- プロ経歴
- 1998年 - 2004年 鹿島アントラーズ
- 2005年 - 2006年 オリンピック・マルセイユ
- 2006年 - 2008年 FCバーゼル
- 2008年7月 - 2014年 鹿島アントラーズ
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | 鹿島 | 26 | J | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 |
1999 | J1 | 17 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | 20 | 4 | ||
2000 | 5 | 29 | 4 | 2 | 2 | 5 | 2 | 36 | 8 | ||
2001 | 25 | 8 | 6 | 0 | 3 | 1 | 34 | 9 | |||
2002 | 29 | 6 | 3 | 0 | 5 | 0 | 37 | 6 | |||
2003 | 18 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 20 | 5 | |||
2004 | 21 | 1 | 2 | 0 | 3 | 2 | 26 | 3 | |||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
2004-05 | マルセイユ | 27 | リーグ・アン | 5 | 0 | - | - | 5 | 0 | ||
2005-06 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 5 | 0 | ||||
スイス | リーグ戦 | スイス杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 | バーゼル | 6 | スイスリーグ | 10 | 1 | - | - | 10 | 1 | ||
2006-07 | 34 | 1 | 5 | 0 | - | 39 | 1 | ||||
2007-08 | 18 | 1 | 2 | 1 | - | 20 | 2 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2008 | 鹿島 | 6 | J1 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 |
2009 | 22 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 27 | 1 | |||
2010 | 32 | 3 | 1 | 0 | 6 | 1 | 39 | 4 | |||
2011 | 26 | 2 | 3 | 0 | 1 | 0 | 30 | 2 | |||
2012 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | |||
2013 | 25 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 33 | 0 | |||
2014 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 266 | 33 | 31 | 4 | 31 | 6 | 328 | 43 | |
フランス | リーグ・アン | 9 | 0 | 1 | 0 | - | 10 | 0 | |||
スイス | スイスリーグ | 62 | 3 | 7 | 1 | - | 69 | 4 | |||
総通算 | 337 | 36 | 40 | 5 | 31 | 6 | 407 | 47 |
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2010年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2011年
- スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2002-03 | 鹿島 | 5 | 3 | 0 |
UEFA | UEFA EL | |||
2005-06 | マルセイユ | 27 | 3 | 0 |
2006-07 | バーゼル | 6 | 5 | 0 |
2007-08 | 3 | 0 | ||
AFC | ACL | |||
2008 | 鹿島 | 5 | 2 | 0 |
2009 | 6 | 2 | 0 | |
2010 | 6 | 2 | ||
2011 | 6 | 1 | ||
通算 | AFC | 19 | 3 | |
UEFA | 11 | 0 |
その他の国際公式戦
- 1998年 - 2002年
- アジアクラブ選手権 - 7試合1得点
- 1999年
- アジアカップウィナーズカップ - 1試合0得点
- 2003年
- A3チャンピオンズカップ - 3試合0得点
- 2005年
- UEFAインタートトカップ - 2試合0得点
- 2006年
- UEFAカップ予備予選1回戦 - 2試合0得点
- UEFAカップ予備予選2回戦 - 2試合0得点
- 2007年
- UEFAカップ予備予選2回戦 - 2試合0得点
- 2012年
- スルガ銀行チャンピオンシップ - 1試合0得点
- 2013年
- スルガ銀行チャンピオンシップ - 1試合0得点
- 出場歴
タイトル[編集]
クラブ[編集]
- 鹿島アントラーズ
- J1リーグ:5回(1998年, 2000年, 2001年, 2008年, 2009年)
- 2ndステージ:3回(1998年, 2000年, 2001年)
- Jリーグカップ:4回(2000年, 2002年, 2011年, 2012年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回(2000年, 2010年)
- FUJI XEROX SUPER CUP:4回(1998年, 1999年, 2009年, 2010年)
- A3チャンピオンズカップ:1回(2003年)
- スルガ銀行チャンピオンシップ:2回(2012年, 2013年)
- マルセイユ
- インタートトカップ:1回(2005年)
- バーゼル
- スイス・スーパーリーグ:1回 (2007-08)
- スイス・カップ:2回(2007年, 2008年)
代表[編集]
- 日本代表
- アジアカップ中国大会(2004年)
個人[編集]
- JリーグカップMVP:1回(2000年)
- Jリーグベストイレブン:1回(2001年)
- 茨城県特別功労賞 (2002年)
- アントラーズ功労賞(2015年)
- Jリーグ功労選手賞(2015年)
代表歴[編集]
- A代表初出場 - 2000年2月5日 カールスバーグ・カップ 対メキシコ戦(香港スタジアム)[1]
- A代表初得点 - 2004年8月3日 AFCアジアカップ2004 対バーレーン戦(山東省体育中心体育場)[1]
出場大会[編集]
- U-19、U-20日本代表
- 1998年 AFCユース選手権
- 1999年 1999 FIFAワールドユース選手権(7試合0得点、準優勝)
- U-22、U-23日本代表
- 2000年 シドニーオリンピック(3試合0得点、ベスト8)
- 日本代表
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ2001(5試合0得点、準優勝)
- 2002年 2002 FIFAワールドカップ(4試合0得点、ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2004年 アジアカップ2004(4試合2得点、優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ(1試合0得点、グループリーグ敗退)
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 57試合 2得点 (2000-2007)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2000 | 7 | 0 |
2001 | 13 | 0 |
2002 | 13 | 0 |
2003 | 7 | 0 |
2004 | 6 | 2 |
2005 | 8 | 0 |
2006 | 2 | 0 |
2007 | 1 | 0 |
通算 | 57 | 2 |
ゴール[編集]
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2004年8月3日 | 中国、済南 | バーレーン | ○ 4-3 | AFCアジアカップ2004 |
2. | 2004年8月7日 | 中国、北京 | 中国 | ○ 3-1 |
指導歴[編集]
- 鹿島アントラーズ - クラブ・リレーションズ・オフィサー(2015年 - 現在)
出演[編集]
スポーツ番組[編集]
- やべっちFC(2015年4月 - 2020年8月、テレビ朝日) - コメンテーター
Web配信ドラマ[編集]
- ヒーローママ☆リーグ(2018年5月13日、東映特撮ファンクラブ) - 風呂洗いする夫 役(写真) - 友情出演
脚注[編集]
- 注釈
- 出典
- ^ a b c d e “中田 浩二”. サッカー日本代表データベース
- ^ 「ボールを大事に 心美しく勝つ 帝京長岡スタイル 」、著者: 谷口哲朗(帝京長岡高校サッカー部総監督)
- ^ “安心・充実のサポート体制 « 南米サッカー留学ならフォーエバースポーツ”. フォーエバースポーツ. 2022年2月20日閲覧。
- ^ “選手・スタッフプロフィール”. KAWASAKI FRONTALE. 2022年2月21日閲覧。
- ^ “DF 22 江田 広”. Hiroshi EDA. 2022年2月21日閲覧。
- ^ 小澤一郎『サッカー選手の正しい売り方 移籍ビジネスで儲ける欧州のクラブ、儲けられない日本のクラブ』カンゼン、2012年、23-24頁。ISBN 4862551033。
- ^ “05年、中田浩二。『歴代失敗移籍』はフェアな評価か?”. フットボールチャンネル. カンゼン (2020年4月5日). 2021年1月30日閲覧。
- ^ 中田浩二選手 引退のお知らせ (2014年12月3日 閲覧)
- ^ 中田浩二氏クラブ・リレーションズ・オフィサー就任のお知らせ (2015年1月14日 閲覧)
- ^ 「中田浩二氏「常に挑戦」 筑波大大学院に進学」『日本経済新聞』 「サッカー」 「インタビュー」 2018/4/4 2:00(2020年5月6日確認)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 中田浩二 - Olympedia (英語)
- 中田浩二 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 中田浩二 - National-Football-Teams.com (英語)
- 中田浩二 - Soccerway.com (英語)
- 中田浩二 - FootballDatabase.eu (英語)
- 中田浩二 - WorldFootball.net (英語)
- 中田浩二 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 中田浩二 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 中田浩二 - J.League Data Siteによる選手データ
- 中田浩二 (@nakata_cro) - X(旧Twitter)
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 2000年シドニーオリンピックサッカー出場選手
- FIFAワールドカップ日本代表選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- 2006 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2003出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ2004出場選手
- 鹿島アントラーズの選手
- オリンピック・マルセイユの選手
- FCバーゼルの選手
- 在フランス日本人のスポーツに関する人物
- 在スイス外国人のスポーツに関する人物
- 在外日本人のサッカー選手
- 帝京高等学校出身の人物
- サッカー解説者
- 1979年生
- 存命人物
- 滋賀県出身の人物