8世紀
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千年紀: | 1千年紀 |
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世紀: | 7世紀 - 8世紀 - 9世紀 |
十年紀: |
700年代 710年代 720年代 730年代 740年代 750年代 760年代 770年代 780年代 790年代 |
8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。
できごと
[編集]8世紀
[編集]- 世界的な温暖化現象により、各地で海水面が上昇する(ロットネスト海進、平安海進)。
700年代
[編集]→詳細は「700年代」を参照
- 701年
- 702年
- 703年
- 持統太上天皇死去、天皇経験者として最初の火葬にされる。
- 則天武后により長安光宅寺七宝台仏龕の仏像群が作られる(後に宝慶寺(花塔寺)に移動)。
- 705年
- 706年
- 706年頃
- 真臘が北部の陸真臘と、南部の水真臘とに分離する。
- 707年
- 707年 - 709年
- 長安の小雁塔が建てられる。
- 708年
- 武蔵国秩父郡(和銅遺跡)で自然銅が産出され、和同開珎を鋳造する。
- アヴランシュのオベールがモン・トンブ山に礼拝堂を建てる(モン・サン=ミシェル修道院の始まり)。
- アンキアルスの戦いで、第一次ブルガリア帝国が東ローマ帝国に勝利。
- 709年。
- ウマイヤ朝カリフのワリード1世によりエルサレムのアル=アクサー・モスク(銀のモスク)が完成する(705年 -)。
710年代
[編集]→詳細は「710年代」を参照
- 710年
- 710年頃 - ブルガリアのマダラの騎士像が作られる。
- 711年
- 712年
- 太安万侶が『古事記』を撰上する。
- 唐で李隆基が玄宗として即位。唐は最盛期を迎える(開元の治)。
- ウマイヤ朝のクタイバ・イブン・ムスリムがサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフル全域の征服完了。
- 713年
- 714年
- 715年
- 717年
- 718年 - コンスタンティノポリス包囲戦の終結 (717年 - )。
- 東ローマ皇帝レオーン3世がコンスタンティノポリスを包囲したウマイヤ朝軍を撃退する。
720年代
[編集]→詳細は「720年代」を参照
- 720年
- 722年 - コバドンガの戦いでペラーヨがイスラム勢力からアストゥリアスを奪回(最初のレコンキスタ)。
- 722年頃 - 新羅人僧慧超がインドに渡る( - 727年)。
- 723年
- 724年
- 725年 - 唐の玄宗皇帝が封禅の儀を行う。
- 726年
- 727年 - 渤海国王大武芸が高仁義らを日本に派遣(第一回渤海使)。翌年には日本から遣渤海使が送られる。
- 728年 - ローマ教皇グレゴリウス2世とランゴバルド王リウトプランドの領土寄進に関する合意がなされる(「スートリの寄進」)。
- 729年 - 長屋王の変。藤原光明子(光明皇后)が立后される(皇族以外の最初の立后)。
730年代
[編集]→詳細は「730年代」を参照
- 730年
- 731年頃
- ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史』を書き上げる。
- 732年
- 733年
- 『出雲国風土記』が完成する(現在にまで伝わる唯一の完成本『風土記』)。
- 734年
- 735年
- 737年 - 天平の疫病大流行により藤原四兄弟が相次いで死去、右大臣橘諸兄による政権が成立する。
- 738年
- 739年 - 行信により夢殿を中心とする法隆寺東院が建立される。
740年代
[編集]→詳細は「740年代」を参照
- 740年
- 740年 - クーファのシーア派(ザイド派)によるザイド・ブン・アリーの乱。
- 741年
- 742年
- 743年 - 墾田永年私財法を施行。大仏建立の詔が出される。
- 744年
- 745年
- 746年 - カンスタットの血の宮廷。
- 747年 - アッバース家の宣伝員(ダーイー)アブー・ムスリムがホラサン地方のメルブで反乱を起こす。
- 748年 - 鑑真が日本への渡海の途上で暴風雨に巻き込まれ、海南島に流される( - 751年)。
- 749年
750年代
[編集]→詳細は「750年代」を参照
- 750年 - ザーブ河畔の戦いで、アッバース朝がウマイヤ朝残党に勝利する。
- 750年頃
- 751年
- 752年
- 753年
- 754年
- 755年
- 756年
- 757年
- 758年
- 759年
760年代
[編集]→詳細は「760年代」を参照
- 760年 - 揚州大虐殺。
- 761年
- 761年頃 - カウィール・チャン・キニチがドス・ピラスを放棄し、アグアテカに遷都する。
- 762年
- 763年
- 764年
- 僕固懐恩の乱( - 765年)。
- 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)。
- 765年
- 766年 - 道鏡が法王になる。
- 767年 - シャイレーンドラ朝軍が北ベトナムの安南都護府を攻撃する。
- 768年
- 769年 - 称徳天皇への呪詛により異母妹不破内親王が内親王位を剥奪される。
770年代
[編集]→詳細は「770年代」を参照
- 770年
- 771年 - カールマンの死去によりカールがフランク単独の王となる。
- 772年 - フランク王カールによるザクセン戦争( - 804年)。
- 774年
- フランク王カールがランゴバルド王国を滅ぼす。
- 都パヴィアを制圧し、国王デシデリウスを追放。
- カールは「ランゴバルド王」の称号を獲得し、「ランゴバルドの鉄王冠」を取得。
- 新羅の宰相金大城による慶州の石仏寺(現在の石窟庵)が完成する。
- フランク王カールがランゴバルド王国を滅ぼす。
- 775年
- 東ローマ皇帝コンスタンティノス5世コプロニュモスが死去し、レオーン4世ハザロスが皇帝に即位(在位775-780年)。
- この年建てられた「リゴール碑文」によるとシャイレーンドラ王家がシュリーヴィジャヤを支配した記録が残る。
- 吐蕃王ティソン・デツェンがサムイェー寺を建設する。
- 776年 - ムカンナーの反乱( - 783年)。
- 776年頃 - ハワーリジュ派系イバード派によりアルジェリアにルスタム朝が成立する。
- 777年 - 唐の宰相元載が皇帝代宗の命で誅殺される。
- 778年
- 779年
780年代
[編集]→詳細は「780年代」を参照
- 780年
- 780年頃
- インドネシアのシャイレーンドラ朝がボロブドゥールの建設を始める。
- 781年
- 782年
- フランク王国の宮廷学校にヨーク出身のアルクィンが招かれる(カロリング・ルネサンスの始まり)。
- 氷上川継の乱。
- 783年
- 唐と吐蕃の建中の会盟。
- 唐で朱泚の乱が起こり、皇帝徳宗が長安から逃亡。
- この時期に何家村の宝物が埋蔵されたか(何家村唐代窖藏)。
- フランク王カールの命で『ゴデスカルクの福音書』が作られる。
- 784年 - 桓武天皇が平城京から長岡京に遷都。
- 785年
- 786年
- アッバース朝でハールーン・アッ=ラシードがカリフとなる( - 809年)(アッバース朝の最盛期)。
- フランク王カールがアーヘン大聖堂の建設に着手。
- 吐蕃の敦煌(沙州)占領。
- 787年 - 第2ニカイア公会議でキリスト教会での聖像使用の教義が確認される。
- 788年
- 789年
- フランク王カールによる「一般訓令(Admonitio generalis)」。
- 『アングロ・サクソン年代記』ではイングランドにおける最初のデーン人の侵入が起こったとされる。
- インドから唐僧悟空(達摩駄都)が約40年ぶりに帰国。
790年代
[編集]→詳細は「790年代」を参照
- 791年 - フランク国王カールがアヴァールを征討。
- 792年
- 793年
- バグダードに最初の製紙工場が設立される
- イングランド北部のリンデスファーン修道院がヴァイキングに襲撃され、ヴァイキング時代の幕開けとなる。
- 794年
- 桓武天皇が平安京へ遷都し平安時代はじまる。山背国を山城国へ改称。
- フランク国王カールの招集によるフランクフルト教会会議が開催される。
- 795年
- 796年
- アッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードがラッカに宮廷を遷す( - 809年)。
- クレタ島の大地震、エジプトではアレクサンドリアの大灯台が半壊する。
- 797年
- 東ローマ皇帝コンスタンティノス6世が母エイレーネーによって廃位され、エイレーネーがローマ帝国初の女帝として即位。
- フランク国王カールがアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに使節を送る。
- 空海が『三教指帰(聾瞽指帰)』を執筆。
- 797年頃 - 唐僧摩訶衍がインド僧カマラシーラに敗北しチベットから退去。サムイェー寺の宗論が終わる。
800年代
[編集]→詳細は「800年代」を参照
時代の動向
[編集]東アジア
[編集]大陸
[編集]朝鮮半島
[編集]日本
[編集]日本では唐制に倣った律令制が布かれた時代にあたり、その最盛期とされる。時代区分で言うと飛鳥時代から奈良時代へと移り変わり、さらに平安時代初頭にあたる。条坊制を布いた都城制の都が建設され、藤原京>平城京>恭仁京>難波京>紫香楽宮>平城京>長岡京>平安京と遷都が繰り返された。
西アジア
[編集]南アジア
[編集]東南アジア
[編集]ヨーロッパ
[編集]デンマークの建国
伝説・架空のできごと
[編集]- 712年以降 - 唐の玄宗皇帝が瘧の高熱に浮かされていると、夢の中に鍾馗が現れ、玄宗への恩義に報いるべく、瘧の原因となっている子鬼どもを退治していく(「鍾馗」伝説。明代には小説『鍾馗全伝』などがまとめられる)。
- 716年 - 735年 - 唐に留学中の吉備真備が唐人により楼閣に幽閉されるが、鬼となった阿倍仲麻呂の霊の助力により、難解な「野馬台詩」の解読や囲碁の勝負などを解決していく(大江匡房の説話集『江談抄』。『吉備大臣入唐絵巻』の内容もほぼ同じ)。
- 717年 - 美濃国に貧しい父子が住んでいた。息子は老いた父に孝行を尽くしていたが、ある時山中で酒が流れている滝を発見し、酒好きの父を大いに喜ばせた。この噂が元正天皇の耳に届き、天皇自らこの地を行幸し、奇瑞に感じ入って元号を「養老」と変更した(『古今著聞集』など「養老伝説」)。
- 729年 - 749年 - 聖武天皇の天平年間に大和国吉野郡にいた久米仙人が飛行術で空を飛んでいたが、久米川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って墜落し、その女性を妻として俗人となる道を選んだ(『七大寺巡礼私記』『久米寺流記』『元亨釈書』『扶桑略記』他)。
- 730年頃 - フランク王国がイスラム教徒との戦いを続ける中で、アイフェル地方の領主であり宮中伯であるジークフリートも、妻ゲノフェーファと別れ戦地に赴く。家臣のゴローは領主不在の折、ゲノフェーファに横恋慕したが、夫人から拒絶された。恨みに思ったゴローは夫人の不倫の噂を流し、破滅させようと陰謀を企てる(フリードリヒ・ヘッベルの戯曲『ゲノフェーファ』、ロベルト・シューマンのオペラ『ゲノフェーファ』)。
- 750年頃 - 唐の玄宗皇帝の天宝末年、隴西の李徴が進士に及第した。にもかかわらず官吏の生活を良しとせず河南に出張中に発狂し行方知れずとなる。後年、旧友の袁傪は図らずも虎となった李徴と再会する(唐の張読 (唐)の伝奇小説『宣室志』の「李徴」が原典。中島敦『山月記』などに発展)。
- 756年以降 - 唐の玄宗皇帝は馬嵬で殺された楊貴妃を想い、方士に命じその魂魄の行方を探させる。各地を遍歴して蓬萊宮に至った方士は楊貴妃に巡り会い、玄宗への形見と誓いの言葉を託される(白居易「長恨歌」)。
- 773年 - 藤原豊成の娘中将姫が長谷観音の導きにより一夜で蓮糸を用いて曼荼羅を織り上げる(「當麻曼荼羅」伝説・折口信夫『死者の書』ほか)。
- 775年 - マヤ文明のキリグア遺跡に残る石碑Cはこの年に建てられたものである。精密なマヤ暦に基づいて換算すると、この世の始まりが紀元前3114年8月13日となり、この世の終わりが2012年12月21日に来ると記されている(ホゼ・アグエイアス(英:José Argüelles)の著書『マヤンファクター』、エイドリアン・ギルバートの著書『マヤの予言』ほか「マヤ暦による2012年人類滅亡説」)。
- 791年 - 東平の遊侠淳于棼はこの年の九月に、槐樹の下で泥酔し前後不覚に酔いつぶれた。そこへ使者が現れ、彼は夢うつつのまま槐安国に連れていかれ、国王の寵を受けて南柯郡の郡守にとりたてられる。更には王女も娶り栄耀栄華を恣にするが、帰国を決意して、目が覚めるとそこはもとの槐樹の生えている場所で、何もかも元通りだった(李公佐の伝奇小説『南柯太守伝』)。
人物
[編集]東アジア
[編集]唐
[編集]- 張柬之(625年 - 706年) - 唐の政治家・張易之と張昌宗の兄弟を斬り則天武后を退位させる・中宗の復位を実現
- 韋后(? - 710年) - 唐の皇帝中宗の皇后・「武韋の禍」の一人・娘の安楽公主とともに中宗を殺害し帝位を窺う
- 太平公主(665年? - 713年) - 唐の皇帝高宗の娘・母は則天武后・韋后排斥の中心人物・後に甥の李隆基と対立し滅ぼされる
- 張説(667年 - 730年) - 唐の政治家・宰相・李隆基に挙兵を決断させた功で有名・詩人として『張説之文集』がある
- 玄宗(李隆基)(685年 - 762年) - 唐の第6代皇帝(在位712年 - 756年)・その治世前半が「開元の治」
- 姚崇(650年 - 721年) - 唐の政治家・宰相・宋璟とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
- 宋璟(663年 - 737年) - 唐の政治家・宰相・姚崇とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
- 張九齢(678年 - 740年) - 唐の政治家・宰相・李林甫と対立し辞職・「開元最後の賢相」と呼ばれる
- 李林甫(? - 752年) - 唐の政治家・宰相・張九齢らを失脚させ天宝年間の政局を握る・府兵制崩壊に伴い異民族節度使を登用
- 高力士(684年 - 762年) - 唐の宦官・韋后討伐から安史の乱まで玄宗の腹心として仕える・李輔国に失脚させられる
- 郭子儀(697年 - 781年) - 唐の軍人・安史の乱を平定・後には吐蕃やウイグルの反乱も鎮圧する
- 高仙芝(? - 755年)- 唐の高句麗系軍人・タラス河畔の戦いで敗北・安史の乱の渦中で処刑される
- 杜環(生没年不詳) - 唐の著述家・タラス河畔の戦いで捕虜となり中央アジアや西アジアに滞在したのち帰国し『経行記』を執筆
- 李輔国(704年 - 762年) - 唐の宦官・玄宗に代わり粛宗を擁立・粛宗の皇后を殺害させるなど専権を極める
- 楊国忠(? - 756年) - 唐の宰相・楊貴妃の親族として出世・安史の乱で長安を捨て四川に逃亡するが殺害される
- 楊貴妃(719年 - 756年) - 唐の玄宗の寵妃・安史の乱の原因とされ楊国忠に続き馬嵬で殺される
- 安禄山(705年? - 757年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは節度使・大燕皇帝を自称(在位756年 - 757年)・実子安慶緒に殺される
- 史思明(703年 - 761年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは安禄山の部下・大燕皇帝を自称(在位759年 - 761年)・実子史朝義に殺される
- 魚朝恩(721年 - 770年) - 唐の宦官・神策軍を従え代宗の宮廷で専権を振るうが元載の命で処刑される
- 元載(? - 777年) - 唐の政治家・宰相・宦官魚朝恩を滅ぼし政権を掌握・後に代宗の命で処刑される
- 楊炎(727年 - 781年) - 唐の政治家・皇帝徳宗に仕え均田制/租庸調制に代わる両税法を創設・のちに失脚し処刑される
- 第五琦(729年 - 799年) - 唐の政治家・塩法による塩の専売制を導入し財政再建に尽力・乾元重宝銭の鋳造で物価高騰を招く
- 杜佑(735年 - 812年) - 唐の官僚・歴史家として法令制度の通史『通典』をまとめる・杜牧は孫
- 司馬承禎(643年 - 735年) - 唐の道士・「道先仏後」の唐にあって玄宗の信任を得る・著作に『坐忘論』『天隠子』がある
- 李思訓(651年 - 718年) - 唐の画家・皇族であり官僚として玄宗に仕える・「北画の祖」とされる
- 呉道玄(生没年不詳) - 唐の画家・玄宗に仕えて山水画の画法に変革をもたらし「画聖」と呼ばれる
- 張萱(生没年不詳) - 唐の画家・宮廷で活躍し「虢国夫人遊春図」「搗練図」(いずれも後世の模作)が残る
- 呉競(670年 - 749年) - 唐の歴史家・唐の太宗とその臣下の言行を記録した『貞観政要』を編纂
- 李瀚(生没年不詳) - 唐の文筆家・上古から六朝までの逸話を選び初学者用に編纂した『蒙求』で知られる
- 一行(683年 - 727年) - 唐の僧侶・真言八祖の一人であり善無畏と『大日経疏』を編纂・天文学者としては大衍暦を作成
- 鑑真(688年 - 763年) - 唐の僧侶・日本に渡り律宗を伝える・奈良の唐招提寺の開基となる
- 孟浩然(689年 - 740年) - 唐の詩人・代表作に「春暁」がある・官人にはなれず在野で活躍
- 王維(701年 - 761年) - 唐の詩人で「詩仏」と称される・画家として「南画の祖」とされる
- 李白(701年 - 762年)- 唐の詩人で「詩仙」と称される・代表作に「早發白帝城」がある
- 顔真卿(709年 - 785年) - 唐の書家・「争座位帖」や「祭姪文稿」がある・安史の乱でも活躍し忠臣とされる
- 杜甫(712年 - 770年) - 唐の詩人で「詩聖」と称される・代表作に「春望」がある
- 張旭(生没年不詳) - 唐の書家・狂草という奔放な書体で有名・「自言帖」や「郎官石柱記」がある
- 懐素(725年 - 785年) - 唐の書家・僧侶・張旭の狂草の影響を受ける・「草書千字文」が有名
- 陸羽(733年 - 804年) - 唐の文筆家・茶にまつわる知識をまとめた『茶経』を残す
- 沈既済(750年 - 800年頃) - 唐の歴史家・小説家・歴史書『建中実録』や伝奇小説「枕中記」「任氏伝」がある。
渤海
[編集]日本
[編集]- 粟田真人(? - 720年) - 公卿・中納言・大宝律令を編纂・30余年ぶりの第8次遣唐使では遣唐執節使となる
- 藤原不比等(659年 - 720年) - 公卿・右大臣・大宝律令を制定・藤原四兄弟や光明皇后の父
- 柿本人麻呂(660年頃 - 720年頃) - 歌人・『万葉集』の代表的な歌人・「歌聖」と呼ばれる・三十六歌仙の一人
- 山部赤人(? - 736年?) - 歌人・柿本人麻呂と並び称され「歌聖」と呼ばれる・三十六歌仙の一人。
- 山上憶良(660年? - 733年?) - 官人・歌人・『万葉集』の「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」が知られる
- 元明天皇(661年 - 721年) - 第43代天皇(在位707年 - 715年)・女帝・平城京に遷都
- 太安万侶(? - 723年) - 文官・『古事記』を編纂・太安万侶墓誌が発見されている
- 玄昉(? - 746年) - 僧正・入唐僧・聖武天皇の母宮子の看護で昇進・橘諸兄政権で活躍
- 道慈(? - 744年) - 律師・入唐僧・三論宗の智蔵に学ぶ・『金光明最勝王経』の頒布や大安寺の整備に尽力
- 大伴旅人(665年 - 731年) - 公卿・大納言・歌人・大宰帥赴任で筑紫歌壇を領導・「梅花の宴」で有名
- 行基(668年 - 749年) - 大僧正・東大寺大仏造造営の勧進としても活躍・「行基菩薩」と呼ばれる
- 舎人親王(676年 - 735年) - 天武天皇皇子・淳仁天皇の父(崇道尽敬皇帝)・『日本書紀』を編纂
- 藤原四兄弟
- 橘諸兄(684年 - 757年) - 公卿・左大臣・藤原四兄弟亡き後の政局を指導・初代橘氏長者
- 長屋王(684年? - 729年) - 皇族・公卿・左大臣・高市皇子の長男・長屋王の変で自害した
- 良弁(689年 - 774年) - 華厳宗の僧・奈良東大寺初代別当・大仏開眼供養に尽力・鷲に攫われた幼児の伝説も有名
- 平群広成(? - 753年) - 官人・遣唐使の判官・唐から帰国途中に遭難しチャンパに漂流・後に渤海から無事に帰国
- 吉備真備(695年 - 775年) - 遣唐留学生・帰国後は恵美押勝の乱を鎮圧・称徳天皇に重んじられ右大臣となる
- 阿倍仲麻呂(698年 - 770年) - 遣唐留学生・帰国は果たせず唐の玄宗皇帝に仕え安南都護府に在任する
- 聖武天皇(701年 - 756年) - 第45代天皇(在位724年 - 749年)・奈良東大寺を創建
- 光明皇后(701年 - 760年) - 聖武天皇の皇后・人臣で最初の皇后・孝謙称徳天皇の母・正倉院の創設にも関与
- 菩提僊那(704年 - 760年) - インドからの渡来僧・僧正・大安寺に住す・東大寺大仏開眼供養式の導師を務める
- 藤原広嗣(? - 740年) - 官人・大宰少弐・式家宇合の子・藤原広嗣の乱を起こし処刑される
- 藤原仲麻呂(706年 - 764年) - 公卿・太師(太政大臣)・藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こし敗死
- 藤原真楯(715年 - 766年) - 公卿・大納言・北家房前の子
- 国中公麻呂(? - 774年) - 仏師・造東大寺次官・東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮をする
- 孝謙・称徳天皇(718年 - 770年) - 第46代天皇(在位749年 - 758年)・第48代天皇(在位764年 - 770年)
- 大伴家持(718年頃 - 785年) - 公卿・中納言・諸国の国司を歴任・和歌に優れ『万葉集』を編纂したか
- 橘奈良麻呂(721年? - 757年) - 公卿・参議・橘諸兄の子・橘奈良麻呂の乱が露見し処罰される
- 淡海三船(722年 - 785年) - 文学者・文章博士・『懐風藻』の選者とされる・歴代天皇の漢風諡号選定にも関与
- 道鏡(700年 - 772年) - 太政大臣禅師・法王・宇佐八幡宮神託事件に関与・称徳天皇没後は下野国に追放される
- 藤原百川(732年 - 779年) - 公卿・参議・井上廃后事件に関与して桓武天皇を擁立したか
- 和気清麻呂(733年 - 799年) - 公卿・民部卿・宇佐八幡宮神託事件で道鏡を退ける
- 桓武天皇(737年 - 806年) - 第50代天皇(在位781年 - 806年)・長岡京そして平安京に遷都
- 藤原種継(737年 - 785年) - 公卿・中納言・式家百川の甥・長岡京造営の途中で暗殺される
南アジア・チベット・東南アジア
[編集]- ナラシンハヴァルマン2世(? - 728年頃)- インドのパッラヴァ朝の王(在位700年頃 - 728年頃)・マハーバリプラム海岸寺院を建立
- ヴィクラマーディティヤ2世(? - 744年) - インドの前期チャールキヤ朝の王(在位733年 - 744年)・パッタダガル寺院を建立
- ダンティドゥルガ(? - 756年) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位753年 - 756年)・チャールキヤ朝の君主を廃しデカン地方を支配
- クリシュナ1世(? - 775年) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位756年 - 775年)・エローラ石窟のカイラーサ寺院を建立
- ダルマトゥンガ(? - 782年) - ジャワ島のシャイレーンドラ朝の王(在位755年以前 - 782年)・ボロブドゥール寺院建立に着手
- シュバカラシンハ(637年 - 735年) - インド出身の僧侶・中国名は善無畏・唐に密教(真言宗)を伝え第五祖とされる
- シャーンタラクシタ(? - 787年頃) - インドの僧侶でナーランダ寺院の出身・チベットに仏教を伝えサムイェー寺を建立
- カマラシーラ(生没年不詳) - インドの僧侶・チベットに招かれサムイェー寺の宗論で唐僧摩訶衍に勝利する
- パドマサンバヴァ(8世紀後半) - インドの僧侶・チベットに仏教を伝えニンマ派(紅教)の祖となる
- ダーモーダラグプタ(8世紀後半) - カシミール王国の宰相・詩人・風俗抒情詩『クッタニーマタ(遊女の手引き)』は資料としても評価が高い
- ティソン・デツェン(742年 - 797年) - チベットの吐蕃の王(在位755年 - 797年)・安史の乱に乗じて長安を占領・仏教興隆に尽力
イスラム世界
[編集]ウマイヤ朝
[編集]- クタイバ・イブン・ムスリム(669年 - 715年/716年) - ウマイヤ朝の軍人・ホラサーン総督となりマー・ワラー・アンナフルを征服する
- ワリード1世(674年 - 715年) - ウマイヤ朝の第6代カリフ(在位705年 - 715年)・ウマイヤド・モスクを建設
- タリク・イブン・ズィヤード(689年 - 720年) - ウマイヤ朝の軍人・イベリア半島を征服しジブラルタルの名の由来になる
- アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(? - 732年) - ウマイヤ朝の軍人・アルアンダルス知事・トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北
後ウマイヤ朝
[編集]アッバース朝
[編集]- サッファーフ(724年? - 754年) - アッバース朝の初代カリフ(在位750年 - 754年)・ウマイヤ家残党を粛清
- マンスール(712年 - 775年) - アッバース朝の第2代カリフ(在位754年 - 775年)・都バグダードを建設
- ハールーン・アッラシード(763年 - 809年) - アッバース朝の第5代カリフ(在位786年 - 809年)・アッバース朝の最盛期
- ジヤード・イブン・サーリフ(? - 752年) - アブー・ムスリム配下の将軍・タラス河畔の戦いで高仙芝率いる唐の軍団を撃破
- アブー・ムスリム(700年頃 - 755年) - アッバース革命の指導者でアッバース朝建国における最大の功臣・「ホラサーンの猛虎」
- ムカンナー(メルヴのハキム)(? - 783年) - ペルシアの反乱指導者・アブー・ムスリムを預言者とみなす反主流派の教団を形成した
思想家・学者
[編集]- アブー・ハニーファ(699年頃 - 767年) - イスラム法学者・ハナフィー学派の祖・シーア派との関係を疑われ獄死
- ジャアファル・サーディク(702年 - 765年) - シーア派の第6代イマーム・イスラム法学者としてはジャアファル学派の祖
- イブン・イスハーク(704年 - 761年/770年) - アッバース朝の著述家・カリフのマンスールに命じられ『預言者の生涯』をまとめる
- マーリク・イブン・アナス(714年 - 796年) - イスラム法学者・マーリク学派の祖・著作に『ムワッタ』がある
- アナン・ベン・ダヴィド(715年頃 - 795年頃) - バビロニアのユダヤ教哲学者・口伝律法タルムードの権威を否定しカライ派の祖となる
- ラービア・アル・アダウィーヤ(717年頃 - 801年頃) - バスラ出身の女性神秘家・禁欲から「神への愛」を昇華させたスーフィーの先駆者
- アル・ハリール・イブン・アフマド・アル・ファラーヒディー(718年 - 786年/791年) - 文献学者・アラビア語辞書を編纂しアラビア語正書法を確定
- イブン・アル=ムカッファ(721年 - 757年) - アッバース朝の著作家・ペルシアのサーサーン朝の年代記『フダーイ・ナーメ』をアラビア語に翻訳
- ムハンマド・アル・ファザーリ(? - 796年/806年) - 天文学者・インドのブラーマグプタの天文学書を翻訳し『シンドヒンド』として編纂する
- ジャービル・イブン・ハイヤーン(721年? - 815年?) - アッバース朝の哲学者・化学者・塩酸や硝酸の調合や蒸留装置を開発
- アブー・アル=アターヒヤ(748年 - 828年) - アッバース朝の詩人・もとは壺売りだったが歴代カリフにより宮廷に招かれ「天才詩人」と呼ばれる
中央アジア
[編集]- ビルゲ・カガン(? - 734年) - 東突厥のカガン(在位716年 - 734年)・オルホン河畔のホショ・ツァイダム碑文で有名
- ブラン・カガン(? - 740年) - ハザールのカガン(在位730年 - 740年)・テュルク系遊牧国家ながらユダヤ教に改宗
- 牟羽可汗(? - 779年) - 回鶻の可汗(在位759年 - 779年)・マニ教を受容・安史の乱の鎮圧に協力するが後に唐と反目
キリスト教世界
[編集]フランク王国
[編集]- アヴランシュのオベール(? - 720年) - ノルマンディー地方のアヴランシュ司教・モン・サン・ミシェル修道院の基礎を築く
- カール・マルテル(686年 - 741年) - フランク王国の宮宰・トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利しイスラム軍を撃退
- ピピン3世(小ピピン)(714年 - 768年) - カロリング朝の開祖(在位751年 - 768年)・カール・マルテルの子・教皇領を寄進
- カール大帝(742年 - 814年) - フランク国王(在位768年 - 814年)・西ローマ皇帝(在位800年 - 814年)・小ピピンの子
- ローラン(? - 778年) - ブルターニュ辺境伯・カール大帝に仕える・ロンスヴォーの戦いでの死が『ローランの歌』伝説のもとになる
- ヴィドゥキント(730年頃 - 808年?) - ザクセン部族公・ザクセン戦争でカール大帝に敗北しキリスト教に改宗
- タッシロ3世(742年頃 - 794年頃) - バイエルン部族公・カール大帝と対立しバイエルンから追放される
- ボニファティウス(672年頃 - 754年) - キリスト教宣教師・「ドイツ人の使徒」・フリースラントで殉教
- ピルミニウス(700年頃 - 753年) - 修道士(ベネディクト会)・ライヒェナウ島修道院を建設
- アルクィン(735年? - 804年) - 神学者でトゥール司教・フランク王国宮廷学校校長・「カール大帝の知的宰相」
- リュートガー(ルドガー)(742年頃 - 809年) - キリスト教宣教師・ザクセン人やフリース人に布教しミュンスターで修道院を創設
イタリア
[編集]- デシデリウス(? - 786年) - ランゴバルド王国最後の国王(在位756年 - 774年)
- パウルス・ディアコヌス(720年 - 799年) - イタリアの著述家・歴史家として『ランゴバルド史』を著す
- ザカリアス(? - 752年) - ローマ教皇(在位741年 - 752年)・ピピン3世のカロリング朝創設を支援
- ステファヌス2世(? - 757年) - ローマ教皇(在位752年 - 757年)・ピピン3世による寄進を受ける(教皇領の始まり)
- レオ3世(750年? - 816年) - ローマ教皇(在位795年 - 816年)・「カール大帝の戴冠」を行う
東ローマ帝国と東方正教圏
[編集]- ユスティニアノス2世(668年? - 711年) - 東ローマ帝国ヘラクレイオス朝の皇帝(在位685年 - 695年、705年 - 711年)・「鼻削がれ」の名で有名
- レオーン3世(680年? - 741年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の皇帝(在位717年 - 741年)・イスラム軍を撃退・聖像崇拝を禁止
- コンスタンティノス5世(コプロニュモス)(718年 - 775年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の皇帝(在位741年 - 775年)
- エイレーネー(アテナイア)(752年 - 803年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の女帝(在位797年 - 802年)・聖像崇敬を復活
- ダマスコのヨハネ(676年頃 - 749年) - キリスト教神学者・聖像崇敬を擁護・著作に『神学の泉』がある
- テオドロス・ストゥディテス(759年 - 826年) - キリスト教神学者・首都のストゥデイオス修道院院長・聖像崇敬派を率い皇帝と対決
イベリア半島
[編集]- ロデリック(687年以降 - 712年頃) - 西ゴート王国最後の国王(在位710年 - 712年頃)・イスラム軍に敗北し殺害される
- ペラーヨ(? - 737年) - 西ゴート王国の貴族・反イスラム勢力を糾合しアストゥリアス王国を建国(在位718年 - 737年)
- エリパンドゥス(718年頃 - 802年頃) - トレド大司教・ウルヘル司教フェリックスとともにキリスト養子論を提唱し論争を引き起こす
- リエバナのベアトゥス(730年頃 - 800年頃) - アストゥリウス王国のリエバナの修道院長・キリスト養子論を否定・著作に『黙示録注解』がある
イングランド
[編集]- ベーダ・ヴェネラビリス(672年/673年 - 735年) - キリスト教聖職者・歴史家として『イングランド教会史』を著す
- オファ(? - 796年) - マーシア王(在位757年 - 796年)・ブレトワルダ(上王)として覇を唱える・オファの防塁でも有名
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、8世紀に関するカテゴリがあります。