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上村松園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うえむら しょうえん
上村 松園
上村松園
1938年ごろ、関之町の自宅にて
生誕 うえむら つね
 上村 津禰

(1875-04-23) 1875年4月23日
日本の旗 日本京都府下京区
死没 (1949-08-27) 1949年8月27日(74歳没)
日本の旗 日本奈良県生駒郡平城村(現・奈良市
教育 京都府画学校
(現:京都市立芸術大学
著名な実績 日本画
代表作 《花がたみ》《》《母子》《序の舞》《雪月花》
子供 上村松篁
選出 帝国芸術院
帝室技芸員
影響を受けた
芸術家
鈴木松年幸野楳嶺竹内栖鳳

上村 松園(うえむら しょうえん、1875年明治8年〉4月23日[1][2][3][4] - 1949年昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之

京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)[1][2][4]常子(つねこ)と名乗っていたこともある。

経歴

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1875年明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる[2][3][4]。父は上村太兵衛、母は仲子[2][3][4]。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる[5][4]。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた[2][4]。仲子も絵心があったといい、絵に対し一心に取り組む松園の生活を支えた最大の理解者であった[6]

1881年(明治14年)に仏光寺開智小学校に入学し、煙草盆を写生した絵が京都の小学校展覧会に入賞して硯を貰った[7][4]1887年(明治20年)[注釈 1]京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学[1][3][4]。女子が画学校に進学することについて、叔父の猛反対に遭ったが、母が後押しして入学が実現した[9][4]。同校では北宗(雪舟狩野派)担当の鈴木松年に師事した[9][3][4]。画学校のカリキュラムでは最初は椿や梅の花の手本を模写するもので、松園の好む人物画は最上級まで描かせてもらえなかったことから、松年の画塾へ通うようになった[8][9][4]。狩野派・四条派では花鳥画山水画が中心で当時の京都には参考となる人物画の作例が少なかったため、博物館や寺社に足を運んで参考となる人物画を探すという苦労を重ねた[8]

1888年(明治21年)、雅号として「松園」を用いる[3][注釈 2]

1888年(明治21年)2月、画学校の改革をめぐる対立に関連し、松年が画学校を辞職することとなったので、松園も学校をやめて松年塾の塾生となった[12]1890年(明治23年)、第3回内国勧業博覧会に《四季美人図》を出品、一等褒状を受け、さらに来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入したことで話題となった[1][11][3][12]。さらに1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会農商務省の依頼を受けて《四季美人図》を出品、二等賞となり銀メダルを贈られた[13][14]

1893年(明治26年)、幸野楳嶺に師事[1][14][3][12]。松年は楳嶺とは反目する間柄だったが、松園を快く送り出している[14]。松園は2人の師匠の大きく異なる画風の間で思い悩むが、松年の「師に入って師を出でよ」という言葉から2人の長所を取り入れつつ自分の良いところを加えて一派を編み出すことを決意し、松園風への一歩を踏み出した[15][12]。同年隣家からの類焼により家が全焼し、中京区高倉蛸薬師に転居[14][3]。またこのころ儒学者市村水香に漢学を学び始めた[1][14][12]1895年(明治28年)、楳嶺の死去にともない、竹内棲鳳(のち栖鳳)に師事[15][14][3][12]1896年(明治29年)[注釈 3]に四条堺町上ルに転居[1][16]1900年(明治33年)、《花ざかり》が第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合共進会で銀牌三席となり、画家としての地位を確固たるものとした[17][12]

《花がたみ》制作中の松園(1915年)。

1902年(明治35年)、長男・信太郎(松篁)が誕生[1][18][3][12]。父親は最初の師匠松年と言われているが、松園は多くを語っていない。

1903年(明治36年)葉茶屋を廃業し、中京区車屋町御池下ルに転居[19][3][20]。後年の作品に単身像が多いのに比して、この時期は複数の人物を配置した作品が多く目立つ[20]1904年(明治37年)第9回新古美術品展に出品した《遊女亀遊》は、松園の名声を妬む物に鉛筆で顔の部分を汚されたが、松園は展覧会事務所が警備不行届きについて謝罪すらしなかったことに憤慨して会期中は修正を行わなかった[21][22][23]1907年(明治40年)に文展が新設されると第1回から《長夜》を出品[24][3][20]1910年(明治43年)に第10回巽画会では審査員となる[1][25]

1914年大正3年)、中京区間之町竹屋町上ルに転居[1][26][20]。2階に画室を作った[27][26]。屋号は「棲霞軒(せいかけん)」といい、松園が人と交際せず画室に籠もって制作に没頭しているので師・栖鳳が「まるで仙人の生活だな。仙人は霞を食い霞を衣として生きているから、棲霞軒としたらどうか」と言ったことに由来するという[10][20]。同年ころから初世金剛巌に謡曲を習い始める[26][20]。また翌年ごろからは長尾雨山に漢詩を習い始めた[20]1915年(大正4年)第9回文展に《花がたみ》を出品し、新たな画境を開く[28][29]1916年(大正5年)第10回文展に《月蝕の宵》を出品し、永久無鑑査となる[30][3]

》 1918年 東京国立博物館

1918年(大正7年)、最初の師・松年の死や栖鳳同門の土田麦僊小野竹喬らにより国画創作協会が設立されるなどの出来事があり、松園はスランプに陥る[31][29]。このスランプを脱出できない苦しみを創作に向けて生み出された作品が、同年第12回文展に出品された《》である[32][31][33]。翌1919年(大正8年)から3年間帝展(同年帝国美術院の設立に伴い文展を改称)への出品が途絶えるが、1922年(大正11年)の第4回帝展に《楊貴妃》を出品[34][3]、薄物や女性の裸体表現への意欲を見せた[35]1924年(大正13年)帝展審査員に女性として初めて選ばれる[29]1926年(大正15年)の第7回帝展に《待月》、聖徳太子奉賛展に《娘》を出品しており[36]、これらの作品からは迷いを脱したことがうかがえる[29]

1927年昭和2年)に息子・松篁が結婚し、翌年には母・仲子が病臥するという大きな生活の変化を迎える[37]1930年(昭和5年)住宅の敷地に新たに画室を竣工[38]

1934年(昭和9年)2月、母・仲子死去[1][39][3][40]。同年松園は母を偲んで大礼記念京都美術館展に《青眉》を、第15回帝展に《母子》を出品している[39][40]。この年帝展の参与となった[1][39]1935年(昭和10年)第1回京都市展(現・京展)の審査員となる[1][41]。同年竹内栖鳳・土田麦僊・西村五雲冨田渓仙らによる春虹会に参加、その第1回展に《天保歌妓》を出品[41]。翌1936年(昭和11年)帝展が廃され新文展が発足し、その招待展に代表作《序の舞》を出品している[42][40]1937年(昭和12年)の第1回新文展に《草紙洗小町》、翌年の第2回新文展に《砧》と能楽に取材した作品を出品している[43][40]

1941年、帝国芸術院会員となったころの松園。

1941年(昭和16年)7月、帝国芸術院会員となる[1][44]。10月から12月にかけて、華中鉄道の招聘により皇軍慰問として三谷十糸子中国に旅行[44][45]1942年(昭和17年)師の栖鳳が死去[1][46][45]1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員[47]1945年(昭和20年)2月、奈良県生駒郡平城の松篁の画室である唳禽荘(れいきんそう)に疎開する[48][45]。疎開は松篁がすすめたもので、京都を離れることを嫌がっていた松園も、引っ越してからしばらくすると自然の美しい土地が気に入り、終戦後も同地で暮らすこととなった[49]

戦後1946年(昭和21年)の第1回日展では審査員となったが、作品の出品はしていない[50]1948年(昭和23年)、女性として初の文化勲章を受章[51][3][45]

1949年(昭和24年)8月27日、唳禽荘で肺癌により死去[1][52][3][45]。同年松坂屋現代美術巨匠作品鑑賞会展に出品された《初夏の夕》が絶筆となった[52][3][45]従四位に叙される[1][52]。享年74。法名は、寿慶院釈尼松園[1][52][3]

人物

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息子・松篁、孫・淳とともに(1935年ごろ)

作画

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京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれ、京の伝統文化に育まれた松園は、失われつつあった日本美を、能楽に取材した題材やや装身具などの細部を通じて表現し続けた[53]。その理想とするところは「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」であり、「その絵をみていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる・・・・・・といった絵」を描くことさえも目指していた[10]

松園は美人画を描くにあたっては、「眉が仕上げのうえにもっとも注意を払う部のひとつである」と述べている[54]。「目や口以上にもっと内面の情感を如実に表現するもの」であり、「わずか筆の毛一本の線の多い少ないで、その顔全体に影響をあたえることはしばしば経験するところである」からだという[54]。日本には結婚して出産した女性は眉を剃り落として青眉とする風習がかつて存在し、松園は青眉を日本的で奥ゆかしく魅力を感じると述べ、青眉を想えば母の姿を思い出し、「青眉の婦人を描くときには必ず記憶の中の母の青眉を描いた」といい[54]、母・仲子が死去した年には《青眉》という作品を制作している。

家族

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松園と松篁(1946年)。

生まれる前に父を亡くした松園にとって、母・仲子は「母と父をかねた両親」であった[55]

松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は、母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べている[56][57]。仲子は竹を割ったような性格で[58]、明治42年(1909年)の第3回文展の際にも、構想がまとまらず悩む松園に「何も一回ぐらい文展に出さないでも来年うんとよいものを出せばよいじゃないか、まあ今年はやめなさいやめなさい」と言って迷いを断ち切らせた[59]。母を亡くした後には、《母子》《青眉》《夕暮》《晩秋》など母を追慕する格調高い作品が生まれた。

長男・松篁が生まれた後も、家事は仲子と姉に任せ、松園は食事の時を除いてほとんどの時間を2階の画室で制作に取り組み過ごしていたため、松篁は「2階のお母さん」と呼んでいた[60]。松園は息子に絵を教えることはほとんどなく、せいぜい幼少期に絵具を買ってくれたり絵の手本を描いてくれた程度で、むしろ画学校への進学や西山翠嶂の画塾への入門に気を配った[61]。松篁は母の勉強ぶり、努力こそが何よりも自然に自身への教訓になっていると述べている[61]

縮図帖

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絵を習い始めたころから縮図を熱心にとり、博物館や展覧会には縮図帖と矢立を持っていき、数多くの縮図を残し作画の参考とした[62]。各家の秘蔵の屏風を公開するので「屏風祭」とも言われる祇園祭の時は、毎年宗達応挙の屏風を縮図帖へ縮図していた[63]。1893年(明治26年)隣家からの類焼で自宅が全焼した際、描きためた縮図や絵の参考品も焼失したが、母が「着物や家の道具は働いてお金を出せば戻るが、絵の品々は二度と手にはいらぬし、同じものを二度とかけぬから惜しいな」と言ったことにこの上なく力づけられたという[55]。のちに火災で自宅が焼失しそうになったときも、縮図帖を風呂敷に包んで避難できるようにした[62]。松園は「縮図帖は私の生命から二番目――あるいは生命にも等しく大切なものとなっている。」と述べている[62]

代表作

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  • 《清少納言》 - 1895年(明治28年)、133.0 cm×67.0 cm、北野美術館蔵、第4回内国勧業博覧会[64]
  • 《人生の花》 - 1899年(明治32年)、175.5cm×101.0 cm、絹本着色、京都市美術館[65]、第5回新古美術品展
    • 婚礼の席に向かう花嫁とその母の姿。知人の婚礼を手伝った経験をもとに描いた作品[66]
  • 《花ざかり》 - 1900年(明治33年)、第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合共進会(銀牌三席受賞)
    • 前年の《人生の花》と同構図の作品。当時の大家たちと並んで賞を受けたことで松園の画壇での地位を固めた作品であり、師・松年は自身よりも上席の賞を受けた松園に最大の祝詞を送ってくれたという[67]。松園は「私の青春の夢をこの絵の中に託したもので、私にとって終生忘れ得られぬ一作であります。」と述べている[67]。この作品は焼失したとされている[66]
《娘深雪》1914年 足立美術館
  • 《娘深雪》(むすめみゆき) - 1914年(大正3年)、153.0 cm×84.0 cm、足立美術館[68]東京大正博覧会[69]
    • 浄瑠璃『朝顔日記』に取材。松園は日本の婦人で『朝顔日記』の深雪と淀君が好きであると述べている[70]。「内気で淑かな娘らしい深雪と、勝気で男勝りな淀君とは、女としてまるきり正反対の性質ですけれど、私にはこの二人の女性に依って現わされた型が好きなのです。」としている[70]。松園は淀君も描いてみたいとは思っていたものの、これはとうとう実現することはなかった[26]
  • 《舞仕度》 - 1914年(大正3年)、170.0 cm×202.0 cm、絹本着色・二曲一隻屏風、京都国立近代美術館蔵、第8回文展[71][72]
《花がたみ》1915年 松伯美術館
  • 《花がたみ》 - 1915年(大正4年)、208.0 cm ×127.0 cm、松伯美術館蔵、第9回文展[73]
    • 継体天皇の皇子時代に寵を受けた照日の前が形見の花筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で狂人の舞を踊るという内容の謡曲『花筐』に取材[28]。松園は岩倉村の病院へ行って数日観察を行い、「狂人の顔は能面に近い」という知見を得た松園は能面「十寸神」(ますがみ)を狂女の顔の参考にし、祇園舞妓に髪を乱れさせて様々な姿態をとらせ、それを写生するなどの熱心な研究により完成した大作である[74][28]
  • 《月蝕の宵》 - 1916年(大正5年)、各158.3 cm×186.7 cm、絹本彩色・二曲一双屏風、大分県立美術館蔵、第10回文展[75][76]
  • 《焔》(ほのお) - 1918年(大正7年)、190.9 cm×91.8 cm、絹本着色、東京国立博物館[77]、第12回文展[33]
    • 謡曲『葵上』に取材[31]。『源氏物語』に登場する六条御息所の生霊が、嫉妬の炎にやけつく形相を描いた作品[32][31]。松園は「私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」であると述べている[32][31]
《楊貴妃》1922年 松伯美術館
  • 《楊貴妃》 - 1922年(大正11年)、161.0 cm×189.0 cm、二曲一隻屏風、松伯美術館蔵、第4回帝展[35]
    • 玄宗皇帝・楊貴妃を詠んだ白居易長恨歌』に取材[35]。《焔》以来4年ぶりとなる帝展(文展から改称)への出品作[35]。薄物の衣装や建具、簾の透過表現に技術の高さがうかがえる[35]
  • 《待月》 - 1926年(大正15年)、193.2 cm×92.8 cm、絹本着色、京都市美術館蔵[78]、第7回帝展[79]
  • 《新蛍》 - 1929年(昭和4年)、149.5 cm×56.5 cm、絹本彩色、山種美術館[80]、イタリア日本画展[81]
  • 《伊勢大輔》 - 1929年(昭和4年)、77.5 cm×71.5 cm、個人蔵(松伯美術館寄託)、羅馬開催日本美術展[82]
    • 伊勢大輔が「いにしえのならのみやこのやえざくら きょうここのえににおいぬるかな」の歌を詠む場面[82]。前年に御大典御用画として制作した《草紙洗小町》と対になる作品[38]
  • 《春秋図》 - 1930年(昭和5年)、各182.0 cm×181.0 cm、二曲一双屏風、名都美術館
    • うら若い娘たちを春に、やや年長の女を秋に見立てた図。徳川菊子高松宮輿入れに際して依頼を受けた[38]。左隻はパリでの展覧会に出品中の1926年(大正15年)制作《娘》(松伯美術館蔵)をあてるはずだったが、日本へ戻るのが期日に間に合わないため同じ下絵で新たに制作している[83][84]
  • 《青眉》 - 1934年(昭和9年)、75.0 cm×81.0 cm、吉野石膏コレクション(天童市美術館寄託)、大礼記念京都美術館展[85]
    • 作笄(さっこう)を結いお歯黒に青眉の婦人が日傘を差し微笑む姿[85]。同年に母を喪った松園は「青眉の婦人を描くときには、必ず記憶の中の母の青眉を描いた。私のいままで描いた絵の青眉の女の眉は、全部これ母の青眉であると言ってよい。青眉の中には私の美しい夢が宿っている」と言っている[54][39]
《母子》 1934年 東京国立近代美術館重要文化財
「母子」上村松園、切手(1980年)
  • 《母子》 - 1934年(昭和9年)、168.0 cm×115.5 cm、絹本着色、東京国立近代美術館蔵、第15回帝展[86]
    • 重要文化財[87]2011年指定[88])。班竹の簾を背景にお歯黒、青眉、先笄の婦人が幼児を抱きかかえる[86][88]。江戸時代の面影が残っていた、松園の生まれ育った明治時代初期のころの風俗を描く[89][86]

《序の舞》 1936年 東京芸術大学蔵 重要文化財
  • 《序の舞》 - 1936年(昭和11年)、231.3 cm×140.4 cm、絹本着色、東京藝術大学大学美術館[90]、文展招待展[91]
    • 重要文化財(2000年指定[92])。「この絵は、私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている『女性の姿』であります」と松園は述べている[93][42][91]。「何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志」を、静かなうちに凛として気品のある仕舞「序の舞」を通して描いている[93][91]。息子松篁の妻・たね子をモデルとして京都で一番上手な髪結い文金高島田を結わせ、振袖を着せて構図をとった[93][42][91]。はじめは丸髷の夫人を描くつもりだったが、留袖では袖が返らないので振袖姿の令嬢風にしたものである[93][42][91]。『序の舞』は松園をモデルにした宮尾登美子の小説の題名にもなった[注釈 4]。1965年(昭和40年)、2025年(令和7年)発行の切手趣味週間の図案に採用されている[94]
  • 《草紙洗小町》(そうしあらいこまち)- 1937年(昭和12年)、214.6 cm×133.0 cm、絹本着色、東京藝術大学大学美術館蔵[95]、第1回新文展[96]
    歌合での作歌が古歌の剽窃との濡れ衣を掛けられた小野小町が、その証拠とされた草子を洗って疑いを晴らしたという筋書きの謡曲『草紙洗小町』に取材[97][96]。松園が初世金剛巌の演じる小町に感銘を受け、「あれを能面でない生きた美女の顔として扱ったら・・・・・・」という着想のもと制作した[97][98]
  • 《雪月花》 - 1937年(昭和12年)、各158.0 cm×54.0 cm、絹本着色・3幅、皇居三の丸尚蔵館[99][100]
  • 《砧》(きぬた) - 1938年(昭和13年)、217.0 cm×113.0 cm、絹本彩色、山種美術館蔵[102]、第2回新文展[103]
    • 九州芦屋から都へ上り、3年余りが経った夫の帰りを待つ妻が、夫の耳に届くことを祈ってを打つという筋書きの謡曲『』に取材[104][105][103]。謡曲では時代の設定はないが、「砧打つ炎の情を内面にひそめている女を表現するには元禄の女のほうがいいと思った」ことから元禄風俗で描くこととしたという[104][103]
  • 《晴日》 - 1941年(昭和16年)、76.0 cm×88.0 cm、京都市美術館蔵、第6回京都市展[106]
  • 《夕暮》 - 1941年(昭和16年)、213.0 cm×99.0 cm、京都府立鴨沂高等学校蔵、第4回新文展[107]
    • 障子を開けて、夕暮れの光で針に糸を通そうとしている女性。幼少期の松園が目にした母の姿を、徳川期の女性に託して描いた[108][44][107]。出品締切の少し前に松園は胃をこわして寝込んだが、下絵が既に完成していたことから1週間徹夜して仕上げたという逸話がある[109][44][107]
  • 《晩秋》 - 1943年(昭和18年)、183.0 cm×87.0 cm、大阪市立美術館蔵、戦時文化発揚関西邦画展[110]
    • 障子の破れを繕っている女性。
  • 《静》 - 1944年(昭和19年)、172.0 cm×72.0 cm、絹本彩色、東京国立近代美術館蔵[111]、戦艦献納帝国美術院会員美術展[112]

個人美術館

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  • 松伯美術館 - 松園の長男・松篁と孫・敦之による作品寄贈と、近畿日本鉄道株式会社の基金出捐により1994年平成6年)3月に松園が晩年を過ごした唳禽荘のある奈良市に開設された[113]。上掲《花がたみ》《楊貴妃》などの松園の作品のほか、下絵や縮図帖、筆・絵具・眼鏡・矢立といった数多くの松園の遺品が展示されている[114]

著書

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※は電子書籍で再刊

画集

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  • 『松園美人画譜』五車楼、1903年(明治36年)[115]
  • 『松園美人画譜』青木嵩山堂、1909年(明治42年)
  • 『上村松園画集』講談社, 1972
  • 『日本の名画 18 上村松園』内山武夫 編著 講談社, 1973
  • 『日本の名画 9 上村松園』 馬場京子編、中央公論社, 1975
  • 『現代日本美人画全集 第1巻 上村松園』飯島勇編、集英社, 1977.8
  • 『日本画素描大観 2 上村松園』塩川京子 編・解説 講談社, 1983.8
  • 『上村松園』上村松篁 編、講談社, 1987.3
  • 『上村松園 日経ポケット・ギャラリー』 上村松篁 編. 日本経済新聞社, 1991.11
  • 『上村松園 秘めた女の想い』巨匠の日本画 塩川京子 編. 学習研究社, 1994.1
  • 『上村松園』塩川京子 責任編集、光村推古書院, 1994.11、改訂版2010.9
  • 『上村松園 新潮日本美術文庫』 新潮社, 1996.9
  • 『上村松園画集』上村松篁監修, 塩川京子 責任編集. 光村推古書院, 2003.8
  • 『上村松園画集』平野重光 監修. 青幻舎, 2009.2
  • 『上村松園画集』青幻舎, 2021.7。記念展図録

伝記など

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  • 円地文子「上村松園」『人物日本の女性史 第9巻 (芸の道ひとすじに)』集英社, 1977.11
  • 加藤類子『もっと知りたい上村松園 生涯と作品』(アート・ビギナーズ・コレクション)東京美術, 2007.2

上村松園賞

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上村松園の遺作展の収益を基金に若手女流日本画家を対象とする上村松園賞が設けられ、5人の画家が受賞した[116]

脚注

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注釈

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  1. ^ 松園自身は明治21年のこととしている[8][9]
  2. ^ 松園自身は《四季美人図》出品に際して師・松年の一字とちきり屋と取引のあった茶園にちなんで松園を名乗ったとしているが[10]、実際にはそれ以前の《美婦人図》からその号を使用している[11]
  3. ^ 『青帛の仙女』では1898年(明治31年)[3]
  4. ^ 宮尾の作品『序の舞』はさらに映像化もされており(映画『序の舞』:1984年(昭和59年)、東映名取裕子主演 / テレビドラマ『序の舞・新春ドラマスペシャル』:1984年(昭和59年)、テレビ朝日大原麗子主演)、明治時代の周囲の無理解に屈することなく画業を貫いた松園と、それを支えた母勢以の生き方が活写されている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 河北 & 馬場 1976, 上村松園年譜.
  2. ^ a b c d e 田近, 上村 & 田中 1978, p. 7.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 村田 1996, pp. 265–269.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 日下部 2025, pp. 12–13.
  5. ^ 河北 & 馬場 1976, p. 238.
  6. ^ 日下部 2025, pp. 120–121.
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参考文献

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  • 田近憲三; 上村松篁; 田中一松『上村松園―その人と芸術―』山種美術館〈山種美術館 近代日本画鑑賞の手引〉、1978年4月1日。doi:10.11501/12765805 (要無料登録要登録)
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  • 日下部行洋 編『別冊太陽 日本のこころ323 上村松園 凜として立つ』平凡社、2025年5月24日。ISBN 978-4-582-92323-0 
  • 美術誌『Bien(美庵)』Vol.47、藝術出版社、2008年
特集「個性の時代にキラリと光る、女性ならではの視点とは? —松園、蕉園、成園—」中、「抑圧を感じるも逃れられない性差という名の束縛……」(インタビュー・山岸凉子)および「私の中に血として残る、松園が求め夢想した世界」(文・上村淳之) http://web-bien.art.coocan.jp/bien-backnumber47.html[リンク切れ]

外部リンク

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