ウマイヤ・モスク

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ウマイヤ・モスク
Umayyad Mosque
جامع بني أمية الكبير
Umayyad Mosque, Damascus.jpg
基本情報
所在地 シリアダマスカス
座標 北緯33度30分43秒 東経36度18分24秒 / 北緯33.511944度 東経36.306667度 / 33.511944; 36.306667座標: 北緯33度30分43秒 東経36度18分24秒 / 北緯33.511944度 東経36.306667度 / 33.511944; 36.306667
宗教 イスラム教
地域 レバント
現況 現行
建設
形式 モスク
様式 ウマイヤ英語版
完成 715年
建築物
ミナレット 3
ミナレット高 253フィート
資材 石、大理石、タイル、モザイク

ウマイヤ・モスクUmayyad Mosque)は、ダマスクスの旧市街にある、世界で最も古いイスラーム教の礼拝所の一つ[1][2]。アラビア語では、ジャーミー・バニー・ウマイヤトゥル・キャビール(アラビア語: جامع بني أمية الكبير‎, ラテン文字転写: Ğāmi' Banī 'Umayya al-Kabīr)といい、直訳すると「ウマイヤ家の大モスク」である。ダマスクスの大モスク、ダマスクスの金曜モスクともいう。

ウマイヤ・モスクは、634年のムスリムによるダマスカス征服の後、洗礼者ヨハネ(アラビア語読みではヤフヤー)に捧げられたキリスト教のバジリカの上に建設された。洗礼者ヨハネは、キリスト教徒からもイスラーム教徒からも預言者として崇敬される。少なくとも6世紀には、ここに洗礼者ヨハネの首が置かれているという伝説があった。また、ムスリム(イスラーム教徒)には、世界の終末の日に預言者イーサー(イエス・キリスト)が再臨して、このモスクにやってくるとも信じられている。なお、サラーフッディーン・アイユービーの霊廟は、このモスクの北側の壁に付属した小さな庭の中にある。

歴史[編集]

先イスラーム時代[編集]

ウマイヤ・モスクが立地している場所は鉄器時代から何らかの聖所であった可能性がある。ダマスクスがアラム人都市国家連合英語版の首都であった頃には、雷雨の神ハダド神を祀る大きな神殿があった。この時代の神殿の一部と見られる石が残されており、それにはアラム王ハザエル英語版治世下の日付がある(ダマスクス国立博物館英語版蔵)[3]。雷神ハダドの神殿は街の中心的な役割を担い続けていたが、ローマ帝国が街を征服した紀元前64年以後、ハダドはローマ人の信仰する雷神ユピテルと同一視されるようになった[4]。 ローマ人は神殿をユピテル神殿として再構成することにし、ダマスクス生まれの建築家アポロドーロスに神殿の拡張を行わせたref>Calcani and Abdulkarim, 2003, p.28.</ref>。

このローマ時代の神殿は、のちに皇帝崇拝儀礼の中心になってしまったが、もともとはエルサレムのユダヤ教徒の神殿に対応するものになることが意識されていた[5]。ローマ時代の前半を通じて、ダマスクスのユピテル神殿はしょっちゅう改修が行われた。また、そのたびに高位神官が富裕な市民から奉献を集め、改修後の儀式を行った[6]。神殿の東門は、セプティミウス・セウェルスの在位年間(r. 193–211 CE)に拡張された[7]。その後、紀元後4世紀ごろまでには、二重の壁が築かれる。外側の壁はその中に市場も包摂する広いエリアを町から画し、内側の壁はユピテルを祀る聖域本殿を外界から画した。大幅に拡張されたダマスクスのユピテル神殿は、ローマ帝国シリア属州の中で最も大きい神殿になった[8]

4世紀も終わりごろの391年になると、皇帝テオドシオス1世(r. 379–395)がユピテル神殿をキリスト教カテドラルに改装した。最もこの改装により直ちに洗礼者ヨハネへの奉献が行われたわけではなく、ダマスクスの司教座がここに置かれただけである[9]。ダマスクスの司教座教会は、アンティオキアの大司教座英語版の次席に位置づけられた[10]。洗礼者ヨハネへの奉献が行われたのは6世紀、ヨハネの首がこの地に埋められているという伝説が生まれて以後のことになる[11]

ウマイヤ・モスク[編集]

夜のウマイヤ・モスク

634年にハーリド・ブン・ワリード率いるアラブ・イスラーム教徒軍英語版がダマスクスの街を包囲し、陥落させる(634年のダマスクス攻囲戦英語版)。661年からウマイヤ家カリフ位を世襲で独占する慣行が始まる。ウマイヤ家はダマスクス(アラビア語でディマシュクと呼ばれた)をイスラーム帝国全土を支配するための首都に選んだ。ウマイヤ朝の6代目カリフ、ワリード1世(在位705–715年)は、706年にビザンチン時代に建てられたキリスト教の聖堂の跡地にモスクを建てる計画を立てた[12]。これに先立って、イスラーム教徒のための礼拝所、ムサッラ(musalla)が、すでにキリスト教徒が使うカテドラル(聖堂)の南東部に建てられてはいた。ワリード・ブン・アブドゥルマリクは自ら工事を監督し、ムサッラを含むカテドラルのほとんどを一度壊すことを指示した。新しく建設されたモスクは、カテドラルのレイアウトに連関しないものになった。キリスト教会であったときは矩形で仕切られた聖域内の中心にカテドラルが設けられていたのに対し、モスクへの改築後の主たる礼拝空間は、南壁に面する位置に設けられることになった。キリスト教会のアーケードとそれを支える柱は、一旦取り外された後に再配置された。改築後の建物は、金曜日に市民が集会を開くための公共の施設となるように設計された。キリスト教徒は移転に反対したため、ワリードは、移転する代わりに、ダマスクスの征服時に接収したキリスト教会のすべてをキリスト教徒に返還するよう命じた。モスクの建物はワリードが没した直後の西暦715年、次代カリフのスライマーン・ブン・アブドゥルマリク英語版(在位715–717)の時代に完成した。[13][14][15]

10世紀の歴史家イブン・ファキーフ・ハマダーニーによると、改築プロジェクトには60万から100万ディーナールが費やされ、総計12000人の労働者の出身地は、西はマグリブから東はインドまでに及び、ペルシア人もいればギリシア人やコプト教徒の職人もいたという[13][16]。また、ビザンツ帝国の工芸職人が雇われたという(後期ローマ様式で風景や建物を描いた彼らの制作したモザイクは21世紀現在でも残っている)[17][18]。イブン・ファキーフはこの記載に続けて「モスクを建てている期間のあるとき、労働者らは、地下の洞窟のようになっている礼拝所を発見した。中に入った彼らは、そこでヤフヤー・ブン・ザカリヤー(洗礼者ヨハネ)の首が納められた箱を見つけた。報せを聞き検分したワリード1世は、まだ内装が大理石で覆われる前のモスクを支える柱のいずれかの下に首を埋め戻すように命じた。」といった内容のことを書いている[19]

「時のドーム」は780年の建設

アッバース朝、ファーティマ朝の時代[編集]

750年のウマイヤ家の支配を終わらせた反乱に続いてアッバース家が権力の中枢を握り、首都はバグダードに移った。アッバース朝はダマスクスに対して軍事・商業上必要な関心を払う以上のことはしなかったため、ウマイヤ・モスクは財政難に苦しみ、8世紀から10世紀の間は目立った増築の記録がない[20]。当時アッバース朝は、ダマスクスにあるウマイヤ朝の遺物を組織的に破壊し、その文化的遺産を除去していったが、ウマイヤ・モスクについてはとりわけ重要なイスラームの大征服の象徴であるとみなして手をつけなかった[21]。ダマスクスの太守、ファドル・ブン・サーリフ・ブン・アリー英語版は、780年にモスクの東側のエリアに「時のドーム」(قبةالساعة‎, クッバ・サーア、「時」とは最後の審判のときを意味する)を建て[22]、その9年後にはモスクに集まった財宝を納めるための「宝のドーム」(Qubbat al-Khazna, クッバ・ハズナ)を建てはじめた[21]。9世紀の地理学者シャムスッディーン・ムカッダスィーアラビア語版によれば、モスクの北側のエリアに建つ「花嫁のミナレット」(مئذنة العروس‎, マゥザナ・アラウス)は、カリフ・マアムーン(在位813-833年)が治めていた頃の831年に、アッバース朝により立てられた[20][21]。マアムーンはミナレットを立てる際、モスクの中にあったウマイヤ家を讃える碑文を除去したり内容を差し替えたりしたという[20]

「宝のドーム」は789年の建設

10世紀か11世紀ごろには、モスクの南壁に開いたジヤーダ門(Bāb al-Ziyāda)に、機械仕掛けの大きな時計が設置されていたが、12世紀にはその機能を停止したようである[23]。10世紀始めにはシャーム地方(歴史的シリア)におけるアッバース家カリフの支配が崩壊し始め、以後、数十年に渡ってアッバース家カリフを名目上の主君とする自立的な政権がシャーム地方を支配する。970年にはシーア派を奉じるエジプトのファーティマ朝がダマスクスを得た。この時代のダマスクスの統治者によるウマイヤ・モスクの改修は、ほとんど記録されてない。その一方で、ウマイヤ・モスクの威信は多くのスンニー派ウラマーをダマスクスに惹き付け、ファーティマ朝の宗教的権威からある程度独立した地位を彼らに与えもしたので、ダマスクスはこの時代のスンニー派ウラマーの知的生産活動の中心になった[24]。ウマイヤ・モスクの北側にはベルベル人を主体としたファーティマ朝軍の駐屯地があったが、1069年にダマスクスの人々が反乱を起こし、駐屯地を襲った。その結果、モスク北側の壁を中心とした広範なブロックが破壊された[25]

セルジューク朝、アイユーブ朝の時代[編集]

スンニー派王朝であったセルジューク・トルコは1078年にダマスクスを手に入れ、アッバース朝カリフの名目的な支配を回復した。セルジューク王トゥトゥシュ(在位1079年-1095年)は1069年に破壊されたモスクの補修を始めた[26]。1082年に宰相、アブー・ナスル・アフマド・ブン・ファドル英語版は、モスクの中心になるドーム(クッバ)をより壮麗なかたちに補修せしめた[27]。ドームを支える2本の柱が強化され、北側のファサードの内側にあったウマイヤ朝時代のモザイクがまっさらに補修された。21世紀現在、モスク北側に存在するリワーク英語版柱列廊の一種)は、1089年に再建されたものである[26]。ダマスクスの統治をセルジューク朝から委ねられたアタベグの一人、トグテキン英語版(在位1104-1128年)は、1110年にモスクの北壁を補修し、壁に設けた出入り口2箇所の扉の上方に設置した銘板に、自らの名前を刻み込ませた[28]。1113年にモースルを治めるアタベグ、シャラフッディーン・マウドゥード(在位1109-1113年)がウマイヤ・モスクの中で暗殺された[29]。12世紀中葉になるとダマスクスは十字軍国家との間の戦争が激しくなった。ダマスクスの防衛とエルサレムの奪還を諸国のムスリムに呼びかける使者は必ずウマイヤ・モスクに立ち寄った。イブン・アサーキル英語版をはじめとしたウマイヤ・モスクの導師(イマーム)はジハードを説き、実際に1148年に十字軍がダマスクスに進軍した際は町の人々が集まってイマームの説教に耳を傾けた。ウマイヤ・モスクに集まった町の人々の抵抗にあい、十字軍は町の占領を最終的に諦めた[30]

ダマスクスには世界に比類なきモスクがある。その均整美、建築の確かさ、高いドームの安全さ、建築要素の配置の見事さは、世界のどこにもないものである。琺瑯びきタイルと研磨した大理石を使った豪華なモザイク装飾は、まったく賛嘆すべきものである。
イドリースィー, 1154年[31]

1154年からダマスクスはヌールッディーン・ザンギーの支配下に入り、ヌールッディーンの個人的命令によりウマイヤ・モスクの東門(バーブ・ジャイルーン)の外側に「ジャイルーンの水時計」という新たな記念碑的時計が建てられた[32]。水時計の設計者はムハンマド・サアーティー(Muhammad al-Sa'āti)という建築家である。水時計は1167年に一度焼失したのち、13世紀に入ってから、サアーティーの息子、リドワーンの手により再建され、14世紀までは存在したようである[33]。シチリアの地理学者イドリースィーは1154年にウマイヤ・モスクを訪れた[21]

ダマスクスの新しい統治者となったアイユーブ朝は、街にいくつかの宗教施設を新設したが、ウマイヤ・モスクは街の信仰生活の中心としての地位を保った。当時イスラーム世界を旅して回ったイブン・ジュバイルは、ウマイヤ・モスクに複数の異なるザーウィヤクルアーン学習のための道場)が敷設されているさまを旅行記に書いている。1173年にモスクの北壁が再度出火により損傷したので、スルターンサラーフッディーン・アイユービー(在位1174-1193年)はこれを修復した[34]。「花嫁のミナレット」も1069年の火事で焼失していたため[21]、スルターンは北壁の修復と同時に「花嫁のミナレット」も補修した[35]。その後、アイユーブ朝の内紛でダマスクスは大きな損害をこうむり、1245年にはモスク東側に立っていた「預言者イーサーのミナレット」が倒れた。当時ダマスクスのアミールマリク・サーリフ・イスマーイール・ブン・アーディル英語版であったが、これをマリク・サーリフ・アイユーブが攻めた。「預言者イーサーのミナレット」はこのとき行われたダマスクスの包囲戦で倒れ[36]、後年、再建されたものの装飾はあまり多くなされなかった[37]。サラーフッディーンはウマイヤ・モスクの周辺に埋葬され、彼の後継者たちの多くもこれに倣った[38]

マムルーク朝の時代[編集]

カーイトバーイのミナレットは、ブルジー・マムルーク朝スルターンカーイトバーイの命により1488年に建設された

アイユーブ朝の勢力下にあったダマスクスの町は、1260年から、十字軍国家と同盟を結んだキト・ブカ率いるモンゴル勢の支配下に入った。占領を指揮したアンティオキア王ボエモン6世英語版は、ウマイヤ・モスクでカトリック式のミサを執り行うよう命じた[39]。ダマスクスは1260年中に、クトゥズバイバルス率いるエジプトのマムルーク軍人勢力により奪還された。1270年にはスルターンになったバイバルスがウマイヤ・モスクの大規模修理を命じ、大理石やモザイク、金箔が補填されることになった。イブン・シャッダード英語版のバイバルスの伝記によると、修理には2万ディーナールの費用がかかったという。修復されたモザイクの中でひときわ大きい「バラダー川のパネル」は、34.5×7.3m の大きさがあり、モスク西側の柱列廊を飾る[40]。バイバルスの事業の主要な目的は、モスクを装飾するモザイクの補修にあり、補修されたモザイクにはマムルーク朝建築の影響が色濃く反映された[41]

1285年に当時を代表するウラマーの一人、イブン・タイミーヤがウマイヤ・モスクで聖典『クルアーン』の解釈を講義し始める。1300年にはイルハン朝ガザン・ハン率いるモンゴル軍がダマスクスを陥れた。イブン・タイミーヤはダマスクス市民に「ジハード」、すなわち、各人が分を尽くして抵抗すべきことを説いた[42]。マムルーク朝のカラーウーンが街を奪還したが、エジプト軍がダマスクスに突入する際、モンゴル軍はウマイヤ・モスクに投石機を配備して応戦しようとした。エジプト軍がダマスクス城英語版の周りに火矢を放って投石機を燃やし、モンゴル軍の試みは失敗した[43]

マムルーク朝のシリア太守、タンキーズ英語版は1326年から1328年にかけて、ウマイヤ・モスクの修復を実行した。この修復でミフラーブのモザイクが元通りにされたほか、堂内がすべて大理石のタイルで覆われるようになった。1328年の大改修をタンキーズに命じたのはスルターンのナースィル・ムハンマドである。スルターンは、キブラの方角にあたる南壁が不安定であったので、これを取り除いて立て直すこととしたほか、ズィヤーダ門をもっと東の位置に再配置した[40]。ところが、このときに大改修を受けた建築や造作の多くが、1339年の火事で損傷した[41]。天文学者のイブン・シャーティルがウマイヤ・モスクで活動したのもこの時代である。イブン・シャーティルは1332年からウマイヤ・モスクのムワッキトムアッズィンとして働き、1376年に亡くなるまでその職にあった[44]。イブン・シャーティルは1371年にモスク北側のミナレットに大きな日時計を設置した[45]。なお、1392年にイーサーのミナレットが火事で焼け落ちた[46]

1400年にティムールがダマスクスを包囲し、3月17日には町に火を放つ命令を下した。ウマイヤ・モスクはこのときの戦火によりひどく損傷した。イブン・ハルドゥーンが伝えるところによると東のミナレットが破壊により瓦礫と化し、中央のクッバが崩落した[47]バフリー・マムルーク朝ほどウマイヤ・モスクの保守、修理、補修に意を注いだ王朝はほかにない。イスラーム建築の専門家、Finbarr B. Flood は、同王朝がこのモスクに「強迫観念症的関心」を持っていたと表現する[48]。1488年にバフリー・マムルーク朝のスルターン・カーイトバーイーはウマイヤ・モスクの南西端に新しくミナレットを建てさせた[49]

オスマン朝の時代[編集]

14世紀後半の写本『驚異の書』に描かれたウマイヤ・モスク

1516年にセリム1世が率いるオスマン帝国軍はエジプトのマムルーク朝とシャーム地方北部のマルジュ・ダービクで戦い、これに勝利してダマスクスを得た。ウマイヤ・モスクにおいて、セリム1世の名前とともに執り行われる金曜礼拝の第1回目は、スルターン自身が出座した(金曜礼拝における説教は時の為政者の名前に言及し、イスラーム共同体の指導者が誰なのかを街のコミュニティで確認する意味合いがある)[50][51]。オスマン帝国はワクフと呼ばれる寄進制度を、支配地の地元住民の心を中央の権威に惹きつけるために利用する。ウマイヤ・モスクに設定されたワクフはダマスクスの街で最大規模になり、596人を雇用した。ワクフの監督官のポストは帝国中枢から派遣される官僚のものであったが、宗教がらみの役職はほとんどが地元のウラマーたちのためにとっておかれた[52]。ワクフ財には課税されるのが通例であるが、ウマイヤ・モスクに設定されたワクフには課税がなされなかった[53]。1518年からダマスクス総督とウマイヤ・モスク・ワクフ監督官に任命されたジャーンビルディー・ガザーリー英語版は街全体の再建を計画し、その一環としてモスクの修理と再装飾を命じた[54]

1661年になると、ウマイヤ・モスクでは、著名なスーフィーの一人、アブドゥルガニー・ナーブルスィー英語版が多くの弟子を導き始めた[55]

1893年にウマイヤ・モスクで火災が発生し、広い面積のモザイクと大理石が大きく損傷した[56]。火は礼拝用の大広間の内装にも燃え広がり、中央クッバが焼け落ちた。オスマン帝国はモスクの修復を開始したが、修復作業中にも火事が起きた。工事の人足が吸っていた水煙草の火の不始末が原因だった。オスマン帝国はウマイヤ・モスクの元来の構造を最大限生かしながら、最後まで補修工事をやり遂げた[57]

ウマイヤ・モスクの図書室には「クッバ・ハズナ蔵書」が非常に昔からあったが[58]、1899年にその大部分がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に譲渡され、残された少数の蔵書がダマスクスの帝国アーカイヴに移された[59]

現代[編集]

1862年に撮影された中庭の北側

ウマイヤ・モスクは、フランス委任統治領シリア時代の1929年から1954年にかけて大規模補修が行われ、シリア共和国の時代の1963年にも一度、大規模補修が行われた[60]。1980年代から1990年代にかけて、ハーフィズ・アサドはモスクの大規模改装を命じたがユネスコから批判を受けた[61]。ウマイヤ・モスクは世界の歴史・文化的観点からはどうであれ、シリアにおいてはさまざまな象徴的意味合いを持つ建物であり、その象徴性を時の政権が利用する方向に補修や改修が行われるのが常である[62]。2001年にはローマ・カトリック教会法王ヨハネ・パウロ2世がウマイヤ・モスクを訪れた。名目上は洗礼者ヨハネの聖遺物への参拝が目的とされたが「ローマ・カトリック教会の法王が歴史上始めてイスラーム教のモスクを訪れた」ことに象徴的意義を含ませることを意図した訪問であった[63]。2011年3月15日にシリア内戦に関連した大規模な民主化要求デモがウマイヤ・モスクで行われたが、政府軍がすぐさま鎮圧し、金曜礼拝の妨げになるからという理由でデモ隊を排除した[64][65]

建築[編集]

中庭と聖域[編集]

ウマイヤ・モスクにあるレリーフ。蔓草模様と棕櫚模様を伴うアラベスク

ウマイヤ・モスクは幅156メートル、奥行き97メートルの長方形の敷地を持ち、建築複合体の北エリアには「サフン英語版」と呼ばれるイスラーム建築に特徴的な中庭を有する。一方で南エリアには「ハラム英語版」と呼ばれる禁域が配置される。広大なサフンは4重の壁に囲まれ、石で舗装されている。舗装面は本来、高さが均一であったが、モスクの長い補修と増築の歴史の末に段差が発生するようになっていたところ、近年の補修によりウマイヤ朝時代の高さに再現された。サフンの周りは「リワーク英語版」と呼ばれるアーケードで囲まれている。ウマイヤ・モスクのリワークは1759年の地震英語版で一度全壊している。[66]

ハラムは、いずれもメッカの方角「キブラ」と平行する方向に走る3重のリワークにより外界と隔たれる。リワークはいずれも上下2層構造で、コリントス型円柱により持ち上げられた下層のアーチ1つあたり、2つのアーチが上層に配置される。このパターンは上述したサフンのリワークと同じである。3重リワークは、キブラと直交する方向に走る、ハラムで最大のリワークと交差する。このリワークは中央クッバの翼廊であり11個のアーチで構成され、モスクのミフラーブ(キブラを示す壁龕)やミンバルムフティーが説教する説教壇)が配置されている[66]。ハラム全体の広さは南北136メートル、東西37メートルである[67]

ミフラーブは4箇所にあるが、主ミフラーブはおおむね、モスク南壁の中点にある。副ミフラーブのうち東側にあるものは「サハーバのミフラーブ」と呼ばれる。9世紀の学者、ムーサー・ブン・シャーキル英語版によると、サハーバのミフラーブはウマイヤ・モスクが建設された当初からこの位置にあり、イスラームの歴史の中で3番目に古いミフラーブである[67]

穹窿[編集]

礼拝用の大広間の天井に配置されたウマイヤ・モスクで最大のクッバ(ドーム、穹窿)は、外から見ると鷲の頭に見え、大広間の東西の裾が鷲の広げた羽のように見えるので、「鷲のクッバ」(Qubbat an-Nisr)と呼ばれている[68]。「鷲のクッバ」は元来、木製であったが、1893年の火事で焼け落ちた後は石造になった[69]。高さは36メートルあり、八角形の基部の上にドーム構造体が乗る構成である。アーチ状の窓が2つある基部は、大広間から伸びる円柱(リワークの一部)により支えられている[66]

尖塔[編集]

「花嫁のミナレット」はウマイヤ・モスクで最初に建てられたミナレット

ウマイヤ・モスクの宗教複合は、3基のミナレットを有する。モスク北壁に位置する「花嫁のミナレット」(Madhanat al-Arus)は、正確な建築年代は不明であるものの、当モスクで最も古くに建てられたものである[21]。花嫁のミナレットの下層部は、9世紀、アッバース朝の時代に建てられたという説が有力である[21][70]。ウマイヤ朝時代に建てられた可能性も完全に否定はできないが、モスク北壁がワリード1世の最初の構想に含まれていたことを示す証拠が存在せず、アッバース朝時代の985年に花嫁のミナレットを訪れたムカッダスィーの地理書には、これが「最近建てられたものである」という記載がある[21]。花嫁のミナレットの上層部は1174年に建てられた[21]。花嫁のミナレットには螺旋状に設置された160段の石の階段があり、ムアッジンはこれを使って街の人々へアザーン(礼拝の呼びかけ)を朗誦するための場所に上った[71]

預言者イーサーのミナレットはウマイヤ・モスクで最も高いミナレットである。

花嫁のミナレットは鉛で葺いた屋根が設置されている部分を境に、上下二層に分かれる。下層の主塔部は古く、方形をしていて、四方に側廊を有する[71]。 主塔部は大型の石材より新しい上層の尖塔部は化粧石で建てられている。主塔部は屋根近くに、馬蹄形アーチにより構成された明かり取り用の開口部が複数ある。隣接する2つの馬蹄形アーチの間、各アーチを支える部分には略立方体の柱頭飾が置かれている。これら開口部の下には馬蹄形アーチより小型の湾曲した張り出しがあり、開口部の持ち送り積みを可能にしている[72]。「花嫁のミナレット」の名は、このミナレットの屋根を葺くのに使用した鉛を調達した商人の娘が、当時のシャーム地方の総督と結婚したというダマスクスに伝わる伝説に基づく。花嫁のミナレットには14世紀のイブン・シャーティルが設計した日時計が取り付けられている。ただし現在の日時計は18世紀に制作されたレプリカである[70]

ウマイヤ・モスクの宗教複合の南東角に位置する「預言者イーサーのミナレット」は、高さが約77メートルあり、3基のミナレットの中で最も高い[73][74]。預言者イーサーのミナレットの原型となる塔の建設はアッバース朝時代の9世紀にまで遡るとする史料が複数存在するが[70]、ウマイヤ朝時代には既にあったとする史料もある。今ある預言者イーサーのミナレットの主構造体はアイユーブ朝時代の1247年、尖塔部はオスマン帝国時代に建設された[74]。主構造体のプランは四角形であるが、尖塔部分は八角形、上に行くほど次第に細くなり、先端に三日月の飾られている。壁で閉じた2列のリワーク(柱列廊)が主構造体に接続し、壁のない、同じく2列のリワークが尖塔部分に接続する[71]。ムスリムの信じる終末論では、審判のその日に預言者イーサーが反救世主に立ち向かうため天国から地上に降り立つ。イーサーはこのミナレットを目印に地上に降りてくるというのが地元ダマスクスの伝承であり、このミナレットの名称のいわれである[74]。この伝承と名称の由来は14世紀には既に定着しており、イブン・カスィール・ディマシュキー英語版が著書でそのことを書いている[75]

「西のミナレット」(マザナトル・ガルビーヤ)は、「カーイトベイのミナレット」と呼ばれることもあり、マムルーク朝のスルターン・カーイトベイが1488年に建設した[70]。西のミナレットには、マムルーク朝期に典型的なイスラーム期エジプト建築の影響がよく見てとれる[74]。西のミナレットは八角柱形状をしており、3列の柱廊の突き当たりに建てられている[71]。西のミナレットとイーサーのミナレットは、一般的には古代ローマ帝国の時代に建てられた塔(temenos)の基礎の上に建設されたものと理解されているが、ローマ時代にはこれらのミナレットが建つ場所に神殿が存在しなかったため、この通説は学術的には疑わしい[74]

ウマイヤ・モスクが与えた文化的影響[編集]

最初期のモスク建築の一つであるウマイヤ・モスクは、ウマイヤ家を想起させるようなものこそ取り除かれてはいるが、それでも、8世紀始めごろの建築当初の構造と特徴が21世紀現在でもおおむね保たれた希少な建築例である。ウマイヤ・モスクは、その建設以来、シリア地方のみならず全世界的に、金曜礼拝モスク(ジャーミイ)の模範例とされてきた。美術史学者のFinnbar Barry Floodは、「ダマスクスの大モスクの建設は、ムスリムのヘゲモニーが確立されたことを街の景観に不可逆的に刻み込んだのみならず、以後の歴史においてシリア風モスクに「モスク建築の決定版」のような地位を与えることにもなった」と述べている[76]。ウマイヤ・モスクの全体構想は、世界中の大モスクのプロトタイプになっており、例えば、カイロではアズハル・モスク英語版ザーヒル・バイバルス・モスク英語版に模倣されている。スペインではコルドバの大モスク(聖マリア大聖堂)、トルコではブルサの金曜モスク英語版セリミエ・モスクの全体構想にウマイヤ・モスクからの影響を確認できる[77]

信仰における重要性[編集]

洗礼者聖ヨハネの首が納められているほこら
フサインの首が埋められている場所を示すプレート

ウマイヤ・モスクは、680年のカルバラーの惨劇ののち、預言者ムハンマドの一族に属する婦人や幼子たちが、イラク中央部から歩いて行かされた終着地であるため、シーア派、スンナ派、双方にとって信仰の上で重要な意味を持つ場所となっている[78]。ウマイヤ・モスクに連行された彼女らは、当地でさらに60年間囚われの身になった[79]

以下は、ウマイヤ・モスクの中にある重要な建築の一覧である。

西側

  • バーブ・サーアト(Bāb as-Sā‘at)と呼ばれる門。 – カルバラーから連行された囚人が、モスク内に入る前に72時間この場所で立たされたといういわれのある門[80]。この間にヤズィード1世は、ダマスクスの街と宮殿を豪華に見せようと取り繕っていた[80]

南翼(主礼拝所)

  • 洗礼者聖ヨハネ(ムスリムには預言者ヤフヤーの名で知られる)のほこら。 - スユーティーによると、天地創造以来、天と地はたった2人の人のためにしか、泣いたことがないという。その2人とは、ヤフヤーとフサインである[81]
  • 白いミンバル。- アリー・ブン・フサインがヤズィードの開いた法廷で弁護を行った場所[82]
  • ミンバル前の床の高いところ。 - ヤズィードの前に引き出された婦人たちが立った場所。
  • 木製のバルコニー。- 法廷でヤズィードが座ったところ。

東側

  • ガラス張りのミフラーブ - カルバラー以後、囚人になったアリーが、その後礼拝を行った場所。
  • 壁に埋め込まれた金属製の立方体 - フサインの首が晒された場所。
  • 金属製の檻 - カルバラーで殺害された殉教者の首が置かれた場所。
ウマイヤ・モスクの中庭

関連項目[編集]

出典[編集]

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参考文献[編集]

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外部リンク[編集]