トゥトゥシュ
アブー・サイード・タージュッルダウラ・トゥトゥシュ(Abu Sa'id Taj al-Dawla Tutush、アラビア語: أبو سعيد تاج الدولة تتش السلجوقي、? - 1095年2月25日)とは、シリアを支配したセルジューク朝の地方政権(シリア・セルジューク朝)の君主である。
生涯
[編集]マリク・シャー在位中
[編集]トゥトゥシュはセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーの弟であり、1077年にマリク・シャーは彼をシリア総督に任命した[1]。同年後半、トゥトゥシュはミルダース朝のアミールであるサービク・イブン・マフムードが統治するアレッポを攻撃し、3か月にわたる町の包囲を開始した[2]。
シリアの都市ダマスカスは1076年にトゥルクマーンの部族長アトスズ・イブン・ウワクによって占領され、アトスズはファーティマ朝、 セルジューク朝から独立した勢力を築いていた[3]。1078/79年にダマスカスはエジプトのファーティマ朝の軍隊に包囲され、マリク・シャーはアトスズへの援軍としてトゥトゥシュを派遣する[4]。包囲を凌いだ後にトゥトゥシュはアトスズを処刑し、ダマスカスを自身の拠点とした[4]。その後、シドン、ヒスン・イブン・アッカール(en)、ティベリア、ラムラ、ヤッファ、エルサレムを占領して領地を拡大し、エルサレムの統治をセルジューク朝の将軍アルトゥク・ベイに委ねた。ダマスカスの前の支配者であるアトスズは町の防衛を強化するために要塞(en)の建築に着手していたが、トゥトゥシュが彼を捕らえたために工事は中断していた[5]。要塞は事業を引き継いだトゥトゥシュの時代に完成したと考えられており、軍事施設のほかに居住区域の整備も行われた[5]。
シリア各地の都市を占領した後、トゥトゥシュは包囲中のアレッポに戻り、マリク・シャーに増援を求めたが、援軍はキラーブ族の指導者アブー・ザイダが率いるアラブの部族連合の待ち伏せを受けて敗走した[6]。やむなくトゥトゥシュはアレッポを離れて砂漠に逃走した部族民たちを追撃するが、アレッポの住民たちは城壁の外のトゥトゥシュの陣営を襲撃して彼が残した守備隊を殺害し、すべての兵糧を略奪した。このためトゥトゥシュはディヤールバクルに退却し、この地で越冬することを余儀なくされる[6]。1080年にトゥトゥシュはアレッポの再攻撃に取り掛かり、マンビジ、ヒスン・ファーヤ(現在のアル=ビラ)、ビザーア(en)、アアザーズなどのアレッポ近辺の拠点を占領する[7]。
しかし、トゥトゥシュ以外にもアレッポへの進出を図る勢力が存在していた。アナトリアに拠点を置くセルジューク朝の王族スライマーン・イブン・クタルミシュは1084年にアンティオキアを占領し、彼もアレッポの支配を試みていた。アレッポはスライマーンの包囲を受けていたが、アレッポの代表者であるシャリーフのハサンはトゥトゥシュに町の引き渡しを約束した[8]。1086年にトゥトゥシュが率いる軍勢はアレッポ近郊でスライマーンの軍隊と遭遇し、アイン・サルムの戦いでトゥトゥシュは勝利を収める[9]。戦闘の結果スライマーンは戦死し、彼の子のキリジ・アルスラーンは捕虜となった[9]。1086年5月にトゥトゥシュは内城を除くアレッポ市内を占領し、10月まで町に滞在するが、マリク・シャーの軍隊が接近したためダマスカスに移動した。1086年12月にマリク・シャーはアレッポに到着し、アクスンクル・アル=ハージブをアレッポ総督に任命した[9]。
スルターンの地位をめぐる闘争
[編集]マリク・シャーが没した後、1092年にトゥトゥシュはシリアを支配下に置き、スルターンを称した[4]。
トゥトゥシュはジャズィーラ地方に進軍し、ニシビス、アミダ、マイヤーファーリキーン、モースルの獲得に成功するが、エデッサとハッラーンを統治するボザン、アレッポ総督のアクスンクルら2人の支持者が離反し、彼の甥であるバルキヤールクのスルターン即位を指示したため、1093年12月にトゥトゥシュは退却を強いられた。しかし、アンティオキアのヤギ・シヤーンとともにボザン、アクスンクルに反撃し、1094年6月から7月にかけてテル・スルターンで行われた戦闘で彼らを打ち破る[10]。敗れたボザンとアクスンクルは戦死し[11]、捕虜とした将軍ケルボガをホムスに連行した。
さらにカークイェ朝のアリー・イブン・ファラムルズとともに東進してハマダーンに達し、バルキヤールクはエスファハーンに退却した。しかし、1095年2月25日にトゥトゥシュはレイ近郊でバルキヤールクの軍に敗れ、アリーともに戦死した。トゥトゥシュの首は切り落とされ、バグダードで晒された[4]。
トゥトゥシュの死後、アレッポは彼の子であるリドワーン、ダマスカスはリドワーンの弟ドゥカークが支配し、領土は分裂した[12]。リドワーン、ドゥカークはどちらもマリクの称号を名乗り、イランの大セルジューク朝の宗主権を認めなかった[13]。ほか、末子のイルタシュは1104年に短期間ダマスカスの支配者となっている。
脚注
[編集]- ↑ Zakkar 1969, p. 200.
- ↑ Zakkar 1969, pp. 200–201.
- ↑ バーンズ 2023, p. 203.
- 1 2 3 4 Flood 2001, p. 145.
- 1 2 バーンズ 2023, p. 208.
- 1 2 Zakkar 1969, p. 202.
- ↑ Zakkar 1969, pp. 203–204.
- ↑ Ibn al-Athir 2002, p. 223.
- 1 2 3 Grousset 1970, p. 154.
- ↑ Bosworth 2010, p. 68.
- ↑ Maalouf 1985, p. 271.
- ↑ バーンズ 2023, p. 204.
- ↑ 井谷鋼造 著「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」、永田雄三 編『西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年8月、120頁。
参考文献
[編集]- Bianquis, Thierry (1993). “Mirdās, Banū or Mirdāsids”. In Bosworth, C. E. [英語版]; van Donzel, E. [英語版]; Heinrichs, W. P. [英語版]; Pellat, Ch. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz. Leiden: E. J. Brill. pp. 115–123. ISBN 90-04-09419-9.
- Bosworth, C. E. (1968). “The Political and Dynastic History of the Iranian World (A.D. 1000–1217)”. The Cambridge History of Iran. 5: The Saljuq and Mongol Periods. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 1–202. ISBN 0-521-06936-X
- Bosworth, C. E. (2010). The History of the Seljuq State. Routledge. ISBN 9781136897436
- Flood, Finbarr B. (2001). “A Group of Reused Byzantine Tables as Evidence for Seljuq Architectural Patronage in Damascus”. Iran 39: 145–154. doi:10.2307/4300602. JSTOR 4300602.
- Grousset, René (1970). The Empire of the Steppes: A History of Central Asia. Rutgers University Press
- Ibn al-Athir (2002). The Annals of the Saljuq Turks. Routledge
- Maalouf, Amin (1985). The Crusades Through Arab Eyes. Schocken
- Peacock, A. C. S. (2015). The Great Seljuk Empire. Edinburgh University Press. pp. 1–378. ISBN 9780748638260
- Zakkar, Suheil (1969). The Emirate of Aleppo 392/1002–487/1094 (PDF) (PhD). London: University of London.
- バーンズ, ロス 松原康介、前田修、谷口陽子、守田正志、安田慎訳 (2023), ダマスクス 都市の物語, 中央公論美術出版
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