大セルジューク朝

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大セルジューク朝

آلِ سلجوق
Āl-e Saljuq
1037–1194
Seljuq Empire at its greatest extent in 1092, upon the death of Malik Shah I
Seljuq Empire at its greatest extent in 1092,
upon the death of Malik Shah I
首都
共通語
宗教
Sunni Islam (Hanafi)
統治体制 デ・ファクト:独立したスルターン国
デ・ジュリイスラム帝国の統治下[6]
Caliph  
• 1031–1075
Al-Qa'im
• 1180-1225
Al-Nasir
Sultan  
• 1037–1063
Toghrul I (first)
• 1174–1194
Toghrul III (last)[7]
歴史  
• Tughril formed the state system
1037
1040
1071
1095–1099
1141
• Replaced by the Khwarezmian Empire[8]
1194
面積
1080 est.[9][10] 3,900,000 km2 (1,500,000 sq mi)
先行
継承
Oghuz Yabgu State
Ghaznavids
Buyid dynasty
Byzantine Empire
Kakuyids
Fatimid Caliphate
Kara-Khanid Khanate
Sultanate of Rûm
Anatolian beyliks
Ghurid Dynasty
Khwarezmian Empire
Atabegs of Azerbaijan
Salghurids
Bavandids
Ayyubid dynasty
Burid dynasty
Zengid dynasty
Danishmends
Artuqid dynasty
Shah-Armens
Shaddadids

大セルジューク朝Seljuk Empireペルシア語: آل سلجوق‎)またはGreat Seljuq Empire[11][注 1])は、オグズキニク英語版部族から始まる中世盛期トルコ系ペルシャ人の英語版[14]スンナ派帝国であった[15]。最大で大セルジューク朝は東は西アナトリア半島レバントからヒンドゥークシュ山脈に至り南は中央アジアからペルシア湾に至る広大な地域を支配した。

大セルジューク朝は1037年にトゥグリル・ベグ(990年–1063年)と兄のチャグリ・ベグ英語版(989年–1060年)により建国された。アラル海に近い本拠地からセルジューク族は最初ホラサン英語版に拡大し、結局バグダードを確保し東アナトリア半島を征服する前にペルシャに拡大した。ここでセルジューク族は1071年のマラズギルトの戦いに勝ち、東ローマ帝国からアナトリア半島の殆どを征服し、第1回十字軍(1095年-1099年)の原因の一つになった。1150年から1250年に大セルジューク朝は衰退し、1260年頃にモンゴル族に侵攻された。モンゴル族はアナトリア半島を首長国に分割した。結局この一つオスマン帝国が残りを征服することになる。

セルジューク英語版は自分の名前を大セルジューク朝とセルジューク朝双方に与えた。セルジューク族は東のイスラム世界の分裂した政治情勢を統一し、第1回十字軍と第2回十字軍で主要な役割を演じた。文化[16]と言語[17]で高度にペルシャ化して英語版[18]、アナトリア半島にペルシャ文化を輸出さえして[19][20]トルコ系ペルシャ人の伝統英語版の発展にも重要な役割を演じた[21]。近隣の諸国の侵攻をかわす戦略的軍事目的で、大セルジューク朝の周辺部の西北地区のトルコ族の移住は、この地域の発展的なトルコ化英語版に導いた[22]

大セルジューク朝の建国者[編集]

セルジューク族の最初の先祖は、950年にイスラム教に改宗したジャンド英語版近くのホラズムに移住したハザール軍に仕えたと一般に言われるベグセルジューク英語版)であった[23]

大セルジューク朝の拡大[編集]

セルジューク族はカラハン朝に対抗してペルシア人サーマーン朝のシャーと連合した。しかしガズナ朝が興隆するとマー・ワラー・アンナフル(992年–999年)のカラハニドに投降した。セルジューク族は自身の独立の基礎を築く前にこの権力構造に関わることになった。

トゥグリル・ベグとチャグリ・ベグ[編集]

大セルジューク朝をガズナ朝からもぎ取ったトゥグリル・ベグは、セルジュークの孫であり、チャグリ・ベグ英語版の弟であった。最初のうちはセルジューク族はマフムードに撃退され、ホラズムに撤退したが、トゥグリル・ベグとチャグリ・ベグは、メルブニーシャープール奪取に導いた。(1037年)[24]後にホラサン英語版バルフを通じて後継者と繰り返し襲撃し領土を交換し、1037年にガズニーを略奪さえした[25]。1040年にダンダナカンの戦い英語版でセルジューク族へと西の領土の大半を放棄させながら、決定的にマスード1世英語版を破った。1048年から1049年に、トゥグリル・ベグの同母異父の兄弟イブラヒム・イナル英語版が指揮するセルジューク・トルコは、イベリア州英語版の東ローマ帝国の前線地区で最初の侵入を行い、1048年9月10日にカペトロンの戦い英語版で5万人の東ローマ帝国・グルジア連合軍と衝突した。セルジューク族の興隆で残された荒廃は、非常に酷いもので、東ローマ帝国の流力者エウスタティオス・ボイラスは、1051年から1052年にかけてこの土地を「蛇や蠍、野生動物が生息する不潔で手の施しようのない場所」と表現した。アラブの編年史家イブン・アスィールは、イブラヒムは捕虜10万人とらくだ1万頭の背に載せた莫大な略奪品を返却したと報告している[26]。1055年、トゥグリル・ベグはアッバース朝から委託を受けてシーア派ブワイフ朝からバグダードを奪取した。

アルプ・アルスラーン[編集]

チャグリ・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた[27]。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた[28]。グルジアはイベリア州英語版を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世英語版との戦いでグルジアに侵攻し敗れた英語版[29]。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った[30]

忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝英語版、東アナトリア半島のシャーアルメンス英語版メンギュジェク朝英語版、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝スライマーンのベグリク)、イズミルスミルナ)のベイリク)。

マリク・シャー[編集]

アルプ・アルスラーンの後継者マリク・シャーと二人のペルシャ人ワズィール[31]ニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前の嘗てのイラン国境に向けて様々な方面に拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国と国境を接した。マリク・シャーは首都をシャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝が絶頂期を迎えたのは、この時代であった[32]。イクタ軍事組織とバグダードのアルニザミッヤ大学英語版がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代と考えられた。アッバース朝カリフは1087年に「東西のスルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフ暗殺教団ハシュシャシン)は、この時代に一団となり始め、その指導の下で多くの指導者を暗殺し、多くの出典によると、この犠牲者にニザームルムルクがいた。

1076年、マリク・シャーはグルジアに押し寄せ、多くの入植地を破滅に追い込んだ。1079年から1080年にかけてグルジアは毎年の朝貢という相当な犠牲を払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力を受けた。

統治[編集]

セルジューク族の勢いは、確かにマリク・シャーの下で絶頂期であり、カラハン朝ガズナ朝は共にセルジューク族の専制君主としての地位を認めなければならなかった[33]。セルジューク族の領土がイランイラクの古代サーサーン朝の領土を超えて形成され、中央アジアや現代のアフガニスタンの領域同様にアナトリア半島シリア)を含んだ[33]。セルジューク族の支配は、トルコやモンゴルの遊牧民に共通の部族組織を手本にし、「家族連合」や「アパナージュ国」に似ていた[33]。この組織の下で最高位の家族の指導者が独立したアパナージュとして領土の一部を家族に割り当てた[33]

大セルジューク朝の分割[編集]

マリク・シャーが1092年に死去すると、大セルジューク朝は兄弟と4人の息子が大セルジューク朝の配分を巡って不和になり分裂した。マリク・シャーはアナトリア半島ではルーム・セルジューク朝を建国したクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュが継承した。ペルシャでは統治が3人の兄弟イラクバルキヤールクバグダードのムハンマド1世、ホラサン英語版アフマド・サンジャルから異議を申し立てられた息子のマフムード1世が継承した。トゥトゥシュが死ぬと、息子のリドワーンドゥカークがそれぞれアレッポダマスカスを相続し、同様に互いに争い、更に互いに反目し合いながらシリアを首長に分配した。

1118年、三男のアフマド・サンジャルが大セルジューク朝を掌握した。甥でムハンマド1世の息子は、王位の主張を承認せず、マフムード2世は自らがスルタンであると宣言し、最終的に公式にアフマド・サンジャルに退位させられる1131年までバグダードに首都を構えた。

名目だけのセルジューク領は他に東北シリアと北メソポタミアアルトゥク朝があり、1098年までエルサレムを支配した。ダニシュメンド朝が東アナトリア半島と北シリアに建国し、ルーム・セルジューク朝と領土を争い、ケルボガモースルアタベクとして独立した。

第1回十字軍(1095年-1099年)[編集]

第1回十字軍でセルジューク族の分裂国家は、一般に十字軍戦士に対して協調するよりも自国領を強化し隣国の支配を得ることの方に関心があった。セルジューク族は容易に1096年に到着する民衆十字軍を破ったが、エルサレムに行軍するニカイアイズニク)やコンヤカイセリアンティオキアアンタキヤ)のような重要な都市を奪取する続く王子十字軍の軍勢の前進は止められなかった。1099年、十字軍戦士は遂に聖なる国を奪取し、第一次ウトラメールを建国した。セルジューク族は既に十字軍戦士が獲得する直前に再奪取していたファーティマ朝パレスチナを奪われていた。


エデッサ伯国を略奪するとセルジュークの司令官イルガジ英語版は、十字軍戦士と講和した。1121年、義理の息子のサダカーやギャンジャのスルタンマリクが率いる部隊を含む恐らく25万から35万に上る部隊とグルジアに向けて北上し、グルジア王国に侵攻した。[34][35]ダヴィド4世イルガジ英語版の膨大な軍と戦うモナスパ英語版衛兵5000人やキプチャク兵15000人、アラン兵300人、フランスの十字軍戦士100人などグルジア戦士4万人を召集した。ディドゴリの戦い英語版が1121年8月12日にグルジア王国軍と大セルジューク朝軍の間で行われた。その結果、セルジューク族は数日間グルジア騎兵隊を追跡することで疲弊し、徹底的に打ち破られ戦場から敗走した。ディドゴリの戦いはイルガジ軍の圧力を受けていた十字軍諸国を助けた。ラテン公国の主要な敵が弱体化したことは、ボードゥアン2世王が統治するエルサレム王国にとって有益であった。

第2回十字軍(1147年-1149年)[編集]

この間にウトラメールとの騒乱も断続的に行われ、第1回十字軍後に互いに領土を巡って張り合ったので益々独立したアタベクが頻繁に他のアタベクに対してウトラメールと連合することになる。モースルではザンギーがアタベクとしてケルボガの後継者になり、成功裏にシリアのアタベクの統合を開始した。1144年、エデッサ伯国が自分に対してアルトゥク朝と連合したので、ザンギーはエデッサ英語版を奪取した。この事件は第2回十字軍開始の契機となった。アレッポのアタベクとして後継したザンギーの息子の一人ヌールッディーンは、1147年に上陸した第2回十字軍と戦う地域で同盟関係を構築した。

衰退[編集]

アフマド・サンジャルは東の西遼の遊牧民の侵攻同様にマー・ワラー・アンナフルカラハン朝アフガニスタンゴール朝、現在のキルギスカルルクによる暴動を封じ込めるために戦った。増大する西遼は、初めホジェンドでセルジューク族の従属国であった、その際西カラハン朝を粉砕することで続いた東カラハン朝を破った。カラハン朝はサンジャルが西遼に対して個人的に軍勢を率いることで応じたセルジューク族を援助のために領主に転属させた。しかしサンジャルの軍勢は、1141年9月9日のカトワーンの戦い耶律大石の軍勢に決定的に破られた。サンジャルは命からがら逃げられたとはいえ、妻を含む身近な親族の多くは、戦闘の余波で捕虜になった。サンジャルが東からの侵犯する脅威を与えることに失敗した結果、大セルジューク朝はシルダリヤ川までの東の諸県全てを失い、西カラハン朝の家臣は、西遼に強奪された[36]

ホラズムとアイユーブ朝による征服[編集]

1153年、オグズは謀反を起こしサンジャルを捕えた。3年後に脱走できたが、1年後に死亡した。ザンギー朝アルトゥク朝のようなアタベクは、名目上に限って言えばセルジュークスルタンの支配を受け、一般的には独立してシリアを支配した。アフマド・サンジャルが1157年に死ぬと、このことは大セルジューク朝を分裂させ、事実上アタベクを独立させた。

  1. ホラサン英語版とトランソクシアナのホラサン・セルジューク族。首都:メルブ
  2. ケルマーン・セルジューク族
  3. ルーム・セルジューク朝(またはトルコのセルジューク族)。首都:イズニクニカイア)、後にコンヤ
  4. イランサルグル朝英語版のアタベクリク
  5. イラクとアゼルバイジャンイルデニズ朝のアタベクリク(アゼルバイジャンのアタベク[37][38]。首都:ナヒチェヴァン[39](1136年-1175年)、ハマダーン(1176年-1186年)、タブリーズ[40](1187年-1225年)
  6. シリアのブーリー朝のアタベクリク。首都:ダマスカス
  7. ジャズィーラ(北メソポタミア)のザンギーのアタベクリク。首都:モースル
  8. トゥルコマン・ベグリク:小アジアのダニシュメンド朝アルトゥク朝サルトゥーク朝英語版メンギュジェク家英語版

第2回十字軍の後でヌールッディーンの将軍シール・クーフは、ファーティマ朝エジプトで名声を確立し、サラーフッディーンにより継承された。結局はサラーフッディーンはヌールッディーンに反旗を翻し、その死に際してサラーフッディーンはその未亡人と結婚し、シリアの殆どを手に入れ、アイユーブ朝を創設した。

別の戦線では、グルジアが地域の強国になり始め、大セルジューク朝を侵食しながら国境を拡大した。同じことはアナトリア半島でレオ2世英語版が統治するキリキア・アルメニア王国の復興期にも起きた。アッバース朝カリフナースィルもカリフの権威を再び主張し始め、ホラズムシャーアラーウッディーン・テキシュと連合した。

短期間トゥグリル3世はアナトリア半島を除く全セルジューク朝のスルタンであった。しかし1194年にトゥグリルはホラズム朝シャーアラーウッディーン・テキシュに破れ大セルジューク朝は遂に崩壊した。嘗ての大セルジューク朝の内アナトリア半島ルーム・セルジューク朝だけが残った。

王朝が13世紀半ばに衰退したので、モンゴル帝国が1260年代にアナトリア半島英語版に侵攻し、ベイリクと呼ばれる小さな首長国に分割した。結局この内の一つオスマン帝国が強大になり、残りを征服した。

遺産[編集]

セルジューク族は奴隷や傭兵としてムスリム宮廷に勤めることで教育を受けた。王朝は信仰復活や精力、アラブ人やペルシャ人に従来統治されていたイスラム文明への再結合をもたらした。

セルジューク族は大学を創立し芸術や文学の保護者でもあった。その影響力はウマル・ハイヤームのようなペルシア人天文学者やペルシア人哲学者ガザーリーにより特徴付けられている。セルジューク族の下でアラビア語文化の中心がバグダードからカイロに移る一方で新ペルシャ語英語版が歴史を記録する言語になった[41]

大セルジューク朝スルタン一覧[編集]

写真館[編集]

関連項目[編集]

注釈[編集]

参照[編集]

引用[編集]

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    • Meisami, Julie Scott, Persian Historiography to the End of the Twelfth Century, (Edinburgh University Press, 1999), 143; "Nizam al-Mulk also attempted to organise the Saljuq administration according to the Persianate Ghaznavid model k..."
    • Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
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    attempt to found a great Turko-Persian empire in eastern Iran." "It is to be noted that the Seljuks, those Turkomans who became sultans of Persia, did not Turkify Persia-no doubt because they did not wish to do so. On the contrary, it was they who voluntarily became Persians and who, in the manner of the great old Sassanid kings, strove to protect the Iranian populations from the plundering of Ghuzz bands and save Iranian culture from the Turkoman menace."
    • Wendy M. K. Shaw, Possessors and possessed: museums, archaeology, and the visualization of history in the late Ottoman Empire. University of California Press, 2003, 0-520-23335-2, 978-0-520-23335-5; p. 5.
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  16. ^ * C.E. Bosworth, "Turkmen Expansion towards the west" in UNESCO History of Humanity, Volume IV, titled "From the Seventh to the Sixteenth Century", UNESCO Publishing / Routledge, p. 391: "While the Arabic language retained its primacy in such spheres as law, theology and science, the culture of the Seljuk court and secular literature within the sultanate became largely Persianized; this is seen in the early adoption of Persian epic names by the Seljuk rulers (Qubād, Kay Khusraw and so on) and in the use of Persian as a literary language (Turkmen must have been essentially a vehicle for everyday speech at this time). The process of Persianization accelerated in the thirteenth century with the presence in Konya of two of the most distinguished refugees fleeing before the Mongols, Bahā' al-Dīn Walad and his son Mawlānā Jalāl al-Dīn Rūmī, whose Mathnawī, composed in Konya, constitutes one of the crowning glories of classical Persian literature."
    • Mehmed Fuad Köprülü, "Early Mystics in Turkish Literature", Translated by Gary Leiser and Robert Dankoff, Routledge, 2006, p. 149: "If we wish to sketch, in broad outline, the civilization created by the Seljuks of Anatolia, we must recognize that the local—i.e., non-Muslim, element was fairly insignificant compared to the Turkish and Arab-Persian elements, and that the Persian element was paramount. The Seljuk rulers, to be sure, who were in contact with not only Muslim Persian civilization, but also with the Arab civilizations in al-jazlra and Syria—indeed, with all Muslim peoples as far as India—also had connections with {various} Byzantine courts. Some of these rulers, like the great 'Ala' al-Dln Kai-Qubad I himself, who married Byzantine princesses and thus strengthened relations with their neighbors to the west, lived for many years in Byzantium and became very familiar with the customs and ceremonial at the Byzantine court. Still, this close contact with the ancient Greco-Roman and Christian traditions only resulted in their adoption of a policy of tolerance toward art, aesthetic life, painting, music, independent thought—in short, toward those things that were frowned upon by the narrow and piously ascetic views {of their subjects}. The contact of the common people with the Greeks and Armenians had basically the same result. [Before coming to Anatolia,] the Turkmens had been in contact with many nations and had long shown their ability to synthesize the artistic elements that thev had adopted from these nations. When they settled in Anatolia, they encountered peoples with whom they had not yet been in contact and immediately established relations with them as well. Ala al-Din Kai-Qubad I established ties with the Genoese and, especially, the Venetians at the ports of Sinop and Antalya, which belonged to him, and granted them commercial and legal concessions. Meanwhile, the Mongol invasion, which caused a great number of scholars and artisans to flee from Turkmenistan, Iran, and Khwarazm and settle within the Empire of the Seljuks of Anatolia, resulted in a reinforcing of Persian influence on the Anatolian Turks. Indeed, despite all claims to the contrary, there is no question that Persian influence was paramount among the Seljuks of Anatolia. This is clearly revealed by the fact that the sultans who ascended the throne after Ghiyath al-Din Kai-Khusraw I assumed titles taken from ancient Persian mythology, like Kai-Khusraw, Kai-Ka us, and Kai-Qubad; and that. Ala' al-Din Kai-Qubad I had some passages from the Shahname inscribed on the walls of Konya and Sivas. When we take into consideration domestic life in the Konya courts and the sincerity of the favor and attachment of the rulers to Persian poets and Persian literature, then this fact [i.e., the importance of Persian influence] is undeniable. With regard to the private lives of the rulers, their amusements, and palace ceremonial, the most definite influence was also that of Iran, mixed with the early Turkish traditions, and not that of Byzantium."
    • Stephen P. Blake, Shahjahanabad: The Sovereign City in Mughal India, 1639–1739. Cambridge University Press, 1991. pg 123: "For the Seljuks and Il-Khanids in Iran it was the rulers rather than the conquered who were "Persianized and Islamicized"
  17. ^ * Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
    • O.Özgündenli, "Persian Manuscripts in Ottoman and Modern Turkish Libraries Archived 2012-01-22 at the Wayback Machine.", Encyclopaedia Iranica, Online Edition
    • Encyclopædia Britannica, "Seljuq", Online Edition: "Because the Turkish Seljuqs had no Islamic tradition or strong literary heritage of their own, they adopted the cultural language of their Persian instructors in Islam. Literary Persian thus spread to the whole of Iran, and the Arabic language disappeared in that country except in works of religious scholarship ..."
    • M. Ravandi, "The Seljuq court at Konya and the Persianisation of Anatolian Cities", in Mesogeios (Mediterranean Studies), vol. 25-6 (2005), pp. 157–69
    • F. Daftary, "Sectarian and National Movements in Iran, Khorasan, and Trasoxania during Umayyad and Early Abbasid Times", in History of Civilizations of Central Asia, Vol 4, pt. 1; edited by M.S. Asimov and C.E. Bosworth; UNESCO Publishing, Institute of Ismaili Studies: "Not only did the inhabitants of Khurasan not succumb to the language of the nomadic invaders, but they imposed their own tongue on them. The region could even assimilate the Turkic Ghaznavids and Seljuks (eleventh and twelfth centuries), the Timurids (fourteenth–fifteenth centuries), and the Qajars (nineteenth–twentieth centuries) ..."
  18. ^ * Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
    • Josef W. Meri, "Medieval Islamic Civilization: An Encyclopedia", Routledge, 2005, p. 399
    • Michael Mandelbaum, "Central Asia and the World", Council on Foreign Relations (May 1994), p. 79
    • Jonathan Dewald, "Europe 1450 to 1789: Encyclopedia of the Early Modern World", Charles Scribner's Sons, 2004, p. 24: "Turcoman armies coming from the East had driven the Byzantines out of much of Asia Minor and established the Persianized sultanate of the Seljuks."
  19. ^ Grousset, Rene, The Empire of the Steppes, (Rutgers University Press, 1991), 574.
  20. ^ Bingham, Woodbridge, Hilary Conroy and Frank William Iklé, History of Asia, Vol.1, (Allyn and Bacon, 1964), 98.
  21. ^ "The Turko-Persian tradition features Persian culture patronized by Turkic rulers." See Daniel Pipes: "The Event of Our Era: Former Soviet Muslim Republics Change the Middle East" in Michael Mandelbaum, "Central Asia and the World: Kazakhstan, Uzbekistan, Tajikistan, Kyrgyzstan, Turkemenistan and the World", Council on Foreign Relations, p. 79. Exact statement: "In Short, the Turko-Persian tradition featured Persian culture patronized by Turcophone rulers."
  22. ^ *An Introduction to the History of the Turkic Peoples (Peter B. Golden. Otto Harrasowitz, 1992). pg 386: "Turkic penetration probably began in the Hunnic era and its aftermath. Steady pressure from Turkic nomads was typical of the Khazar era, although there are no unambiguous references to permanent settlements. These most certainly occurred with the arrival of the Oguz in the 11th century. The Turkicization of much of Azarbayjan, according to Soviet scholars, was completed largely during the Ilxanid period if not by late Seljuk times. Sumer, placing a slightly different emphasis on the data (more correct in my view), posts three periods which Turkicization took place: Seljuk, Mongol and Post-Mongol (Qara Qoyunlu, Aq Qoyunlu and Safavid). In the first two, Oguz Turkic tribes advanced or were driven to the western frontiers (Anatolia) and Northern Azarbaijan (Arran, the Mugan steppe). In the last period, the Turkic elements in Iran (derived from Oguz, with lesser admixture of Uygur, Qipchaq, Qaluq and other Turks brought to Iran during the Chinggisid era, as well as Turkicized Mongols) were joined now by Anatolian Turks migrating back to Iran. This marked the final stage of Turkicization. Although there is some evidence for the presence of Qipchaqs among the Turkic tribes coming to this region, there is little doubt that the critical mass which brought about this linguistic shift was provided by the same Oguz-Turkmen tribes that had come to Anatolia. The Azeris of today are an overwhelmingly sedentary, detribalized people. Anthropologically, they are little distinguished from the Iranian neighbors."
    • John Perry: "We should distinguish two complementary ways in which the advent of the Turks affected the language map of Iran. First, since the Turkish-speaking rulers of most Iranian polities from the Ghaznavids and Seljuks onward were already Iranized and patronized Persian literature in their domains, the expansion of Turk-ruled empires served to expand the territorial domain of written Persian into the conquered areas, notably Anatolia and Central and South Asia. Secondly, the influx of massive Turkish-speaking populations (culminating with the rank and file of the Mongol armies) and their settlement in large areas of Iran (particularly in Azerbaijan and the northwest), progressively turkicized local speakers of Persian, Kurdish and other Iranian languages"
    (John Perry. "The Historical Role of Turkish in Relation to Persian of Iran". Iran & the Caucasus, Vol. 5, (2001), pp. 193–200.)
    • According to C.E. Bosworth:
    "The eastern Caucasus came under Saljuq control in the middle years of the 5th/11th century, and in c. 468/1075-56 Sultan Alp Arslān sent his slave commander ʿEmād-al-dīn Savtigin as governor of Azerbaijan and Arrān, displacing the last Shaddadids. From this period begins the increasing Turkicization of Arrān, under the Saljuqs and then under the line of Eldigüzid or Ildeñizid Atabegs, who had to defend eastern Transcaucasia against the attacks of the resurgent Georgian kings. The influx of Oghuz and other Türkmens was accentuated by the Mongol invasions. Bardaʿa had never revived fully after the Rūs sacking, and is little mentioned in the sources." (C.E. Bsowrth, Arran in Encyclopædia Iranica)
    • According to Fridrik Thordarson:
    "Iranian influence on Caucasian languages. There is general agreement that Iranian languages predominated in Azerbaijan from the 1st millennium b.c. until the advent of the Turks in a.d. the 11th century (see Menges, pp. 41–42; Camb. Hist. Iran IV, pp. 226–228, and VI, pp. 950–952). The process of Turkicization was essentially complete by the beginning of the 16th century, and today Iranian languages are spoken in only a few scattered settlements in the area."
  23. ^ Wink, Andre, Al Hind the Making of the Indo Islamic World, Brill Academic Publishers, Jan 1, 1996, 90-04-09249-8 pg.9
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  27. ^ Canby, Sheila R.; Beyazit, Deniz; Rugiadi, Martina; Peacock, A. C. S. (2016-04-27) (英語). Court and Cosmos: The Great Age of the Seljuqs. Metropolitan Museum of Art. ISBN 9781588395894. https://books.google.com/?id=BPrjCwAAQBAJ&pg=PA6&lpg=PA6&dq=Tughril+and+Chaghri+Seljuk+Empire#v=onepage&q=Tughril%20and%20Chaghri%20Seljuk%20Empire&f=false 
  28. ^ Princeton, University. “Dhu'l Qa'da 463/ August 1071 The Battle of Malazkirt (Manzikert)”. 2007年9月8日閲覧。
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  30. ^ Georgian-Saljuk Wars (11th-13th Centuries), Alexander Mikaberidze, "Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia, Vol. I, ed. Alexander Mikaberidze, (ABC-CLIO, 2011), 334.
  31. ^ Encyclopædia Britannica, "Nizam al-Mulk", Online Edition
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  36. ^ Biran, Michel, The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History, (Cambridge University Press, 2005), 44.
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  39. ^ Encyclopaedia Iranica. K. A. Luther «Atabakan-e Adarbayjan»: Sources such as Ḥosaynī’s Aḵbār (p. 181 and passim) make it clear that members of the family always considered Naḵǰavān their home base.
  40. ^ Houtsma, M. T. E.J. Brill's First Encyclopaedia of Islam, 1913-1936, BRILL, 1987, 90-04-08265-4, p. 1053
  41. ^ Andre Wink, Al-Hind: The Making of the Indo-Islamic World, Vol.2, 16. (Paid subscription required要購読契約)

出典[編集]

  • Peacock, A.C.S.; Yıldız, Sara Nur, eds (2013). The Seljuks of Anatolia: Court and Society in the Medieval Middle East. I.B.Tauris. ISBN 978-1848858879 
  • Mecit, Songül (2014). The Rum Seljuqs: Evolution of a Dynasty. Routledge. ISBN 978-1134508990 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]