カルス (都市)

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カルス
Kars
Kars collage 1.JPG
位置
カルス県とカルスの位置の位置図
カルス県とカルスの位置
座標 : 北緯40度37分 東経43度06分 / 北緯40.617度 東経43.100度 / 40.617; 43.100
行政
トルコの旗 トルコ
 地方 東アナトリア地方
  カルス県
 市 カルス
人口
人口 (現在)
  市域 130,361人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号
公式ウェブサイト : http://www.kars.gov.tr

カルストルコ語: Kars)は、トルコ北東部の都市であり、カルス県の県都。アルメニアとの国境から45km。アルメニア語ではԿարսまたはՂարս Ghars[1]グルジア語ではყარსი Karsi。2011年の人口は73,836人。トルコ=アルメニア国境地帯にあるトルコ最大の都市である。

928年から961年まで、今日のアルメニア共和国からトルコ共和国東部までの広い範囲を領土としたバグラトゥニ朝アルメニアロシア語版の首都だった[2]。19世紀には都市としての重要性を増し、1877年から1878年にかけての露土戦争の結果として、帰属がオスマン帝国からロシア帝国に移った。第一次世界大戦中の1918年にはオスマン帝国がカルスを占領したが、オスマン帝国はムドロス休戦協定によって、アルメニア第一共和国に対してカルスを放棄することを余儀なくされている。1920年末のトルコ=アルメニア戦争英語版中にもトルコがカルスを占領。1921年には、トルコ大国民議会アルメニア・ソビエト社会主義共和国アゼルバイジャン民主共和国グルジア民主共和国の間でカルス条約英語版が締結され、カルスをトルコ領とする国境線が確定した。

語源[編集]

古代ローマストラボンが書いた『地理書』では、古代アルメニア英語版の中の「Chorzene」として言及されている[3]。「Kars」という名称の起源は、「門」を意味するグルジア語の単語「კარი」(kari)に由来するとする説がある[4]。一方で、「花嫁」を意味するアルメニア語の単語「հարս」(hars)や、さらには「Kaṛuts要塞」を意味する「կառուց բերդ」(kaṛuts berd)に由来するとする説もある[5]

歴史[編集]

中近世[編集]

10世紀に建設されたカルス大聖堂

中世のアルメニアの歴史家は、カルスのことを「Karuts' K'aghak」(カルス市)、「Karuts' Berd」「Amrots'n Karuts」(それぞれカルスの要塞)、「Amurn Karuts」(堅固なカルス)など様々な名前で言及している[1]。9世紀のある時点(888年以前)にはバグラトゥニ家の領有地となり、バグラトゥニ朝アルメニア英語版アショト2世英語版の治世の928年には、シラカヴァン英語版からカルスに首都が移された。928年から961年までカルスはアルメニア王国の首都であった[2]。929年にはアショト2世が死去してアバス1世英語版が即位し、アバス1世は要塞を強化してカルスの防御力を高めた[6]。バグラトゥニ朝期には後に聖使徒教会としても知られるカルス大聖堂英語版が建設されている[7][8]

10世紀から11世紀のバグラトゥニ朝アルメニアの版図

961年にアショト3世英語版が首都をカルスからアニに移すと、カルスはVanandと呼ばれる別の独立した王国の首都となった。この王国のバグラトゥニ朝からの独立度合いは定かでなく、常にバグラトゥニ朝の支配者の親族の所有下にあった。1045年にはバグラトゥニ朝がビザンツ帝国に降伏し、1064年にはアルプ・アルスラーンに率いられたセルジューク朝軍によってアニが奪われると、カルスのアルメニア王だったガギク・アバスは勝利したトルコ人に対して敬意を表したため、セルジューク朝軍がカルスを包囲することはなかった。1064年にはカルスがビザンツ帝国に併合されたが[9]、その後すぐにセルジューク朝が支配権を奪った[1]。1206年から1207年、アニの統治者であったザカリアン家英語版のザカレ2世がカルスを占領し、カルスはザカリアン家が支配したアルメニアの一部となった。1230年代末までザカリアン家による支配が続き、その後トルコの支配下に入った。1387年にはティムール帝国ティムールに対して降伏し、この戦いの中で要塞が被害を受けた。

カルス城塞

Anatolian beyliks英語版公国が続き、その後は黒羊朝の、やがて白羊朝の支配を受けると、16世紀初頭にはイスマーイール1世によって新たに成立したサファヴィー朝の支配下に入った。第一次オスマン・サファヴィー戦争英語版後の1555年にアマスィヤの和平英語版が結ばれると、アナトリア東部の他地域同様にふたつの敵対する帝国の緩衝地帯となり、既存の要塞は即座に破壊された[10]第二次オスマン・サファヴィー戦争英語版中の1585年、オスマン帝国はカルスとタブリーズを占領した[11]第三次オスマン・サファヴィー戦争英語版中の1604年6月8日にも両国が激突し、サファヴィー朝の支配者であるアッバース1世はオスマン帝国からカルスを奪い返した[12]。1639年にはゾハーブ条約英語版によってオスマン帝国とサファヴィー朝の国境線が確定し、カルス要塞より西側はオスマン帝国領となった[13]

オスマン帝国のムラト3世(在位1574年-1595年)はカルスの要塞群を再建していた。1604年にはサファヴィー朝のアッバース1世がカルスからアニまでのオスマン帝国領土の大部分を荒廃させ、多くのアルメニア人がペルシア領アゼルバイジャンに移住した[14]。1731年にはアフシャール朝ペルシアのナーディル・シャーによる包囲を耐えた。カルスはイェニ・パザル・サンジャク英語版(オスマン帝国の第一級地域区分)であるErzurum Vilayet英語版州の州都となっている。オスマン・サファヴィー戦争 (1743年–1746年)英語版中の1745年8月には、ナーディル・シャーに率いられたオスマン帝国の大軍がカルスに進軍した[15]

ロシアの主権下[編集]

ロシア軍によるカルス包囲(1828年)

1807年にはロシア帝国の攻撃に耐えたが抵抗をつづけた。1821年にはガージャール朝イランの最高指揮官であるアッバース・ミールザー英語版がカルスを占領し[16]、1823年まで続いたオスマン・イラン戦争トルコ語版の火種となった。1828年前半にロシアによるカルス包囲英語版を受けた後、6月23日にはオスマン帝国がロシアのイヴァン・パスケーヴィチ英語版将軍に対して降伏し、カルス在住の11,000人の男性が捕虜となった。戦争終結後には外交上の理由でオスマン帝国に返還され、ロシアは国境近くの要塞2つを得ただけだった。1853年に勃発したクリミア戦争中にはコーカサス攻略の拠点として、フェンウィック・ウィリアムズ英語版などのイギリス人将校に率いられたオスマン軍の守備隊が駐留していた。しかし、11月30日のシノープの海戦で主な補給線を断たれてしまい、さらに駐屯地にはコレラが蔓延したため、1855年6月から11月まで続いたカルス包囲英語版の結果、11月にニコライ・ムラヴィヨフロシア語版将軍率いるロシア軍の軍門に下った。パリ講和会議英語版ではセヴァストポリとの交換でカルスがオスマン帝国に返還されるが、オスマン帝国をはじめとする諸国は戦勝国としての立場を事実上失った。

1877年から1878年の露土戦争中のカルスの戦い英語版の際、ロリス・メリコフ将軍とイヴァン・ラザレフ将軍によって率いられたロシア軍によって再び要塞が襲撃され、カルスはロシア軍に占領された。戦後のサン・ステファノ条約によって、カルス、アルダハンアラシュケルト英語版ドゥバヤズィト英語版はロシアに併合され[17]南コーカサス南西端部にあるカルス州(県)の州都となった。これを記念してロシア人作曲家のモデスト・ムソルグスキーは荘厳行進曲『カルスの奪還』を書いている。カルス州はカルス、アルダハンカウズマン英語版オルトゥ英語版などからなっていた。サン・ステファノ条約が修正されたベルリン条約ではドゥバヤズィトがオスマン帝国に返還されている[18]。1878年から1881年の間には、かつてオスマン帝国が支配していた領土から82,000人以上のイスラーム教徒がオスマン帝国内に移り住んだ。このうちカルスからは11,000人以上がオスマン帝国内に移り住んでいる。同時期には多くのアルメニア人やポントス人ギリシャ系コーカサス人英語版)が、オスマン帝国や南コーカシアの他地域からこの地域にやってきた。ロシアの国勢調査によると、1897年のカルスにはアルメニア人が49.7%、ロシア人が26.3%、ギリシャ系が11.7%、ポーランド人が5.3%、トルコ人が3.8%だった[19]

第一次世界大戦[編集]

トルコ軍による征服後にカルスから逃れるアルメニアの民間人

第一次世界大戦中の1915年初頭、オスマン帝国軍がカフカース戦線英語版中のサルカムシュの戦い英語版で敗北すると、カルスの征服が主要な目的の一つとなった。1918年3月3日のブレスト=リトフスク条約で、ロシアはオスマン帝国に対してカルス、アルダハン、バトゥミを割譲し、露土戦争で獲得した領土を失った[20]。カルスはアルメニア人ゲリラや非ボリシェヴィキのロシア軍の実行支配下にあったが、4月25日にはオスマン帝国軍によって占領された。グルジア人はカルスを手放す代わりにバトゥミをロシアに残そうとしたが、オスマン帝国との交渉は失敗に終わった[21]。10月のムドロス休戦協定では戦争前の前線まで退却することが必要とされたため、1919年1月にアルメニア民主共和国軍が反撃し、アルメニア人がカルスを占領した[22]。4月19日にイギリス軍=アルメニア軍の共同作戦がその指導者を逮捕してマルタ島に送還英語版するまで、カルスには親トルコの市政府が残った[23]。5月にはアルメニアの完全な管轄下に戻り、Vanand県の県都に選ばれた。

1921年のカルス条約で確定した国境線

1920年夏にはオルトゥ英語版でトルコの革命家集団とアルメニア国境部隊の小競り合いが起こった。その年の秋にはキャーズム・カラベキル将軍に率いられたトルコ軍4師団がアルメニア共和国に侵攻し、トルコ=アルメニア戦争英語版の引き金となった[24]。カルスの街は長期間の包囲にも耐えられるように強化されていたが、1920年10月30日にトルコ軍がカルスを占領し[25]、アルメニア人が虐殺された[26]。1920年12月2日にはアルメニアとトルコの代表者によってアレクサンドロポリ条約英語版が締結され、アルメニアはセーヴル条約で得た領域をすべて返還することを余儀なくされた[27]ボリシェヴィキがアルメニアに進軍した後、1921年10月23日にはアレクサンドロポリ条約の代わりにトルコとソ連の間でカルス条約英語版が締結された[27]。この条約ではカルス地方ウードゥル地方アルダハン地方をトルコに主権下とすることと引き換えに、アジャリアのソ連への併合を認めている。この条約によって今日のトルコとアルメニアの国境線が確定した[27]

現代[編集]

第二次世界大戦後、ソ連はカルス条約の締結を撤回しようと試みており、ヨシフ・スターリンはカルスとアルダハンの返還を要求した[28]。1945年6月7日、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣は在モスクワのトルコ大使セリム・サーパー英語版に対して、「これらの地域はグルジア共和国とアルメニア共和国のためにソ連に返還されるべきである」と伝えた。トルコはソ連と良好な関係を築くことを望んでいたが、それと同時に領土を放棄することは拒否した。トルコは第二次世界大戦後に超大国として台頭していたソ連と戦える状態にはなかった。1945年秋、コーカサスに駐留するソ連軍はトルコへの侵攻を可能とする準備を命じられた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連によるこれらの地域の領有権の主張に反対したが、アメリカ合衆国のハリー・トルーマン大統領は当初、この問題に当事者以外が関与すべきでないと感じていた。しかしソ連とアメリカ合衆国の間で冷戦が始まると、アメリカ合衆国はトルコをソ連の拡大に反対する有益な同盟国とみなし、トルコに対する財政的・軍事的な支援を開始した。1948年までに、ソ連はカルスや他地域に対する領有権の主張をやめた[29]

トルコとアルメニアの和解を訴え続けたフラント・ディンクの暗殺に抗議して行進する人々

ナゴルノ・カラバフ戦争中にアルメニア軍がアゼルバイジャンのKelbajar英語版地区を支配下に置いたことに抗議して、1993年4月、トルコはカルス近郊にあるトルコ=アルメニア国境を封鎖した[30]。これ以来、トルコとアルメニアの間の国境は封鎖されたままである。2006年、元カルス市長のNaif Alibeyoğluは地元経済の後押しや町の活性化のために国境を開くと発言した[31]。しかし、国境を開くことに反対する地元住民からの抵抗や圧力があり[32]、2009年には二国間の外交関係を築くことが不成功に終わった[33]。アゼルバイジャンやアゼルバイジャン人が20%を占める地元住民からの圧力を受けて、2010年と2011年にトルコのアフメト・ダウトオール外務大臣は「アルメニアとの国境を開くなどということは問題外である」と表明した[34][35]。このように、国境は依然として封鎖されたままである[36]

人口[編集]

2011年の統計年鑑によると、大都市への流出が原因でこの地域の人口は減少している[37]イスタンブールという一都市だけでも、269,388人のカルス出身者が暮らしている[38][39]

合計 トルコ人 アルメニア人 その他
1878[40] 4,244 2,835 (66.8%) 1,031 (24.4%) ギリシャ系378 (8.9%)
1886[41] 3,939 841 (21.4%) 2,483 (63%) ギリシャ系322 (8.2%), ロシア人247 (6.3%)
1897[19] 20,805 786 (3.8%) 10,332 (49.7%) ロシア人5,478 (26.3%), ポーランド人1,084 (5.2%), ギリシャ系733 (3.5%), タタール486 (2.3%)
1913[1] 12,175
1970[1] 54,000
1990[42] 78,455
2000[43] 78,473
2013[43] 78,100

気候[編集]

カルスは湿潤大陸性気候であり、ケッペンの気候区分ではDfbである。黒海カスピ海地中海などの海から遠く離れており、比較的高緯度の高地にあるため、夏季と冬季の気温差が大きく、昼間と夜間の気温差も大きい。概して夏季は短くて暖かく、夏季の夜間は涼しい。8月の平均最高気温は摂氏約26度である。冬季はとても寒く、1月の平均最低気温は摂氏マイナス16度となる。もっとも寒い時期には摂氏マイナス35度にまで落ち込むこともある。冬季の約4か月間は積雪が続く。カルス県の中では比較的穏やかな気候である。

カルスの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 8.4
(47.1)
12.0
(53.6)
18.8
(65.8)
25.0
(77)
27.0
(80.6)
31.4
(88.5)
35.4
(95.7)
35.4
(95.7)
32.6
(90.7)
26.8
(80.2)
21.9
(71.4)
15.6
(60.1)
35.4
(95.7)
平均最高気温 °C (°F) 4.6
(40.3)
−2.6
(27.3)
3.3
(37.9)
11.6
(52.9)
16.5
(61.7)
21.1
(70)
25.7
(78.3)
26.3
(79.3)
22.2
(72)
15.0
(59)
6.4
(43.5)
−1.4
(29.5)
12.39
(54.31)
平均最低気温 °C (°F) −15.9
(3.4)
−14.3
(6.3)
−7.5
(18.5)
−0.1
(31.8)
3.8
(38.8)
6.8
(44.2)
10.0
(50)
9.9
(49.8)
5.4
(41.7)
0.6
(33.1)
−5.0
(23)
−11.7
(10.9)
−1.5
(29.29)
最低気温記録 °C (°F) −36.6
(−33.9)
−33.1
(−27.6)
−30.2
(−22.4)
−18.4
(−1.1)
−6.0
(21.2)
−2.8
(27)
1.2
(34.2)
1.6
(34.9)
−4.2
(24.4)
−15.8
(3.6)
−29.4
(−20.9)
−30.4
(−22.7)
−36.6
(−33.9)
降水量 mm (inch) 19.5
(0.768)
22.1
(0.87)
28.8
(1.134)
52.1
(2.051)
78.9
(3.106)
72.0
(2.835)
55.4
(2.181)
40.5
(1.594)
27.9
(1.098)
41.5
(1.634)
26.7
(1.051)
21.1
(0.831)
486.5
(19.153)
出典: http://meteor.gov.tr/veridegerlendirme/il-ve-ilceler-istatistik.aspx?m=KARS#sfB

交通[編集]

カルス空港

カルスからは南西200kmにあるエルズルムに幹線道路が伸びている。北80kmにあるアルダハンや南東130kmにあるウードゥルに至る道路は少ない。

航空[編集]

1988年にはカルス市街地から6km南に、3,500mの滑走路1本を持つカルス空港英語版が建設された[44]。カルス空港からはアンカライスタンブールイズミルに直行便が飛んでいる。アールアルダハンアルトヴィンウードゥルなど、カルス以外にもトルコ北東部のあらゆる都市にとって重要な空港である。

2006年の発着回数は2,352回であり、旅客数は270,052人だった。旅客ターミナルは1,695 m² (18,240 ft²)の広さを持ち、駐車場には100台が駐車できる[44]。2007年春から夏にかけての数か月には改修工事のために空港自体が閉鎖され、2007年10月22日に再開業した[45]。建築家のYakup Hazanが新ターミナルのデザインを手がけた。

航空会社 就航地
ペガサス航空 イスタンブール=サビハ・ギョクチェン[46]
サンエクスプレス イズミル
ターキッシュ エアラインズ イスタンブール=アタテュルク
ターキッシュ エアラインズ
運航はAnadoluJet
アンカラ, イスタンブール=サビハ・ギョクチェン
カルス空港の旅客数
国内線 変動率 国際線 変動率 合計 変動率
2011 337,036 増加 2.0% 減少 100.0% 337,036 増加 1.0%
2010 329,809 増加 15,0% 2,475 増加 16,0% 332,284 増加 15,0%
2009 285,880 増加 7.1% 2,128 増加 3.5% 288,008 増加 7.0%
2008 267,038 増加 180.0% 2,057 増加 269,095 増加 182.0%
2007 95,421 - 95,421

出典: DHMI[47]

鉄道[編集]

カルス駅

トルコ国鉄(TCDD)のカルス駅英語版があり、カルスとエルズルムを結ぶ鉄道が運行されている。1936年から、イスタンブール=カルス間1,944kmを約32時間かけて結ぶ寝台急行列車Doğu Ekspresi英語版も運行されている。カルスとエルズルムを結ぶ路線は、カルスがまだロシア帝国の領土だった時に敷かれた路線であり、アルメニアのギュムリやジョージアの首都トビリシまで線路が繋がってはいるものの、敷設されたのが戦時中だったためにカルス=エルズルム間は狭軌である。

カルス=ギュムリ=トビリシ鉄道[編集]

ロシア帝国時代の1899年には、カルス=ギュムリ=トビリシ鉄道英語版が開通した。ソ連時代にはトルコとソ連を直接結んでいる唯一の鉄道であり、アルメニアとソ連の他地域を結んでいる2つの主要路線のうちのひとつであった。この路線は敵対するトルコとアルメニアの国境を跨いでいるため、ナゴルノ・カラバフ戦争中の1993年4月から封鎖されている[48]。トルコ=アルメニア間の線路が長らく封鎖されているため、カルスからアルメニアを経由せずに直接アゼルバイジャンに入るカルス=トビリシ=バクー鉄道の構想が浮上した。

カルス=トビリシ=バクー鉄道[編集]

カルス=トビリシ=バクー鉄道

トルコ=ジョージア=アゼルバイジャンの三か国を鉄道で結ぶことを意図して、2010年にはカルス=トビリシ=バクー鉄道英語版と呼ばれる新線の建設が開始された。この路線はカルスとジョージアのアハルカラキを結んでおり、列車はそこからジョージアの首都トビリシや、アゼルバイジャンの首都バクーに至る[49]

当初は2010年までに完成する予定だったが[50]、その後完成予定が2013年に延期された[51]。2014年2月にはアゼルバイジャンの交通大臣であるZiya Mammadov英語版が、2015年後半までこの計画が完了しないだろうと述べた[52]。2015年9月には2016年のある時期までサービスを開始しないことが発表された[53]。2016年2月に行われた5回目の三か国会議では、2017年にはついにこの鉄道路線が完成するだろうと三か国の外務大臣が発表した[54]

カルス=トビリシ=バクーを結ぶ鉄道路線の計画は、中央アジアや中国とヨーロッパを結ぶ輸送回廊を完成させることを意図している。2015年末時点でもすでに、韓国から中国=カザフスタン=アゼルバイジャン=ジョージアを経由してイスタンブールに至る貨物列車は、海路よりも短い15日間でこの区間を走行することができた。この路線で年間650万トンの貨物を輸送する計画があり、長期的な目標としては1,700万トンの貨物を輸送することを目指している[55]

文化[編集]

カルス出身の詩人イェギシェ・チャレンツ

ロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーはオスマン帝国からのカルスの奪還を祝って、1855年に行進曲『カルスの奪還』を作曲した。

ロシア時代にカルスに生まれたアルメニアの詩人イェギシェ・チャレンツは、1923年の小説『ナイリの地』をトルコに割譲された故郷カルスの民衆に捧げられている。

2002年にはトルコ人小説家のオルハン・パムクが、カルスを舞台とする『英語版』(原題 : トルコ語: Kar)という小説を書いた。2004年には英語版が刊行され、2007年にはドイツ語版が刊行されている。

レハ・エルデム英語版監督による2010年のドラマ映画Kosmos英語版はカルス周辺で撮影された。この作品はエレバン国際映画祭英語版で作品賞を受賞している。

教育[編集]

1992年にはカルス市街地の3.5km南西に、公立のカフカス大学英語版が開学した。カフカス大学は6つの学部、3つの研究所、3つのカレッジ、4の専門学校を有している。学部には獣医学部、科学・文学部、経済学・経営学・政治学・行政学部、教育学部、医学部、工学・建築学部がある。

スポーツ[編集]

1967年にはサッカークラブのカルスSK英語版が設立された。財政面での問題や自治体からの支援の欠如などの問題があり、一度は活動を終了したが、1995年に再設立された。長らくアマチュアリーグに在籍した後、2004-05シーズン終了後には全国4部に相当するTFF3.リグ英語版に昇格、2007-08シーズン終了後には全国3部に相当するTFF2.リグ英語版に昇格した。スタジアムの収容人数は4,745人である。

かつてカルスではバンディ(アイスホッケーに似た氷上球技)が行われていたことがある[56]

出身者[編集]

姉妹都市[編集]

カルスは以下の町と姉妹都市提携を結んでいる[57]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Arakelyan, Babken; Vardanyan, Vrezh; Khalpakhchyan, Hovhannes (1979). “Կարս [Kars]” (アルメニア語). Armenian Soviet Encyclopedia Volume 5. Yerevan: Armenian Encyclopedia. 
  2. ^ a b The Grove Encyclopedia of Islamic Art and Architecture, Volume 3. Oxford: Oxford University Press. (2009). p. 371. ISBN 978-0-19-530991-1. 
  3. ^ Strabo. “Geography Stabo - Book XI - Chapter XIV”. 2011年5月31日閲覧。
  4. ^ Ring, Trudy; Salkin, Robert M.; La Boda, Sharon (1996). International Dictionary of Historic Places: Southern Europe. Taylor & Francis. p. 357. ISBN 1-884964-02-8. https://books.google.com/books?id=74JI2UlcU8AC&pg=PA357. 
  5. ^ Room, Adrian (2003). Placenames of the World. McFarland. p. 178. ISBN 0-7864-1814-1. 
  6. ^ ブルヌティアン 2016, p. 136.
  7. ^ (アルメニア語) Harutyunyan, Varazdat M. "Ճարտարապետություն" [Architecture] in Հայ Ժողովրդի Պատմություն [History of the Armenian People], eds. Tsatur Aghayan et al. Yerevan: Armenian Academy of Sciences, 1976, vol. 3, pp. 374–375.
  8. ^ ブルヌティアン 2016, p. 142.
  9. ^ ブルヌティアン 2016, p. 138.
  10. ^ Mikaberidze, Alexander (2011) Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia, Volume 1. p. 698. ABC-CLIO, 2011. ISBN 1598843362.
  11. ^ Endress, Gerhard Islam: An Historical Introduction page 194. Edinburgh University Press, 2002 ISBN 978-0748616206
  12. ^ Somel, Selcuk Aksin. (2003). Historical Dictionary of the Ottoman Empire page XXXV. Scarecrow Press, 13 feb. 2003 ISBN 978-0810866065
  13. ^ ブルヌティアン 2016, p. 182.
  14. ^ ブルヌティアン 2016, p. 210.
  15. ^ Kohn, George Childs. "Dictionary of Wars" Routledge, 2013. ISBN 978-1135954949 p 506
  16. ^ Aksan, Virginia. (2014). Ottoman Wars, 1700-1870: An Empire Besieged page 463. Routledge. ISBN 978-1317884033
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参考文献[編集]

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  • ブルヌティアン, ジョージ 『アルメニア人の歴史 古代から現代まで』 小牧昌平(監訳)、渡辺大作(訳)、藤原書店、2016年