ゲオルギイ・グルジエフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ゲオルギイ・グルジエフ(1922年)

ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, George Ivanovich Gurdjieff, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。欧米の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものである。近年ではもっぱら性格分析に使われている「エニアグラム」は、史実として確認できるかぎりにおいて、グルジエフがこれを世に知らしめた最初の人物である。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。

グルジエフという名前は生来のギリシア系の姓をロシア風に読み替えたものであり、表記としては「ジェフ」も一般的であるが、ここでは便宜上、参考文献の題名も含めて「ジエフ」に統一した。

グルジエフの生涯[編集]

グルジエフは、ギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)のアレクサンドロポル(ギュムリ)に生まれた。生年については、公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。

グルジエフは少年時代のこととして、父から受けた独自の教育について語っている。父は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。グルジエフは少年時より、家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。

グルジエフの生い立ちをめぐるこのような基本的な事項や家族に関係することは近親者の証言によって確認されているが、その後のこととして、グルジエフが1910年代にロシアにあらわれるまでの前半生は、グルジエフの三冊の著作[1, 2, 3]における自伝的な記述からしかうかがい知ることができない。しかし、それらの自伝的な記述は物語の一部でもあり、すべてを事実として読ませるように意図して書かれたとは受け取りにくい。したがって、グルジエフの前半生に関する以下の記述をどの程度まで物語的なものと受け取るかは各人に任されている。

父は吟遊詩人でもあり、グルジエフの自伝[2]によると、父からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動になった。

グルジエフの家族はやがて、1877年の露土戦争後にロシア領となりロシアが要塞の建設を進めていたカルスへと移る。グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学に励むとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。

これも自伝によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。自伝によると、友人のポゴジャンを伴った最初の旅は、アルメニア民族運動を支援する結社からの密使としての役割を引き受けることで実現され、旅の途上での偶然の発見から、ふたりは旅の目的地を変更し、エジプトへと向かう。グルジエフはそこで、みずからと目的を同じくする年配の探求者、プリンス・ルボヴェドスキーとスクリドロフ教授に出会う。

グルジエフは、みずからと目的を同じくする仲間たちと「真理の探求者たち」(Seekers of Truth)というグループを結成し、中央アジアの奥地などへの探検行をくりかえし、古代的名叡智の痕跡や隠された教えの源泉を求めて、遺跡の発掘にあたったり、隠された僧院や精神的な共同体をめぐったりし、さらには伝承・象徴・音楽・舞踏などの研究にもあたった。

グルジエフは、人間の精神に見られる各種の不可解な傾向の解明に資するものとして、催眠という現象に注目するようになる。グルジエフは、この現象をめぐる卓越した知識と技量ゆえに「魔術師」を演じることもあったとされるが[2]、この関心の背後には、顕在意識と下意識の間での分断と、両者間の隠れた関係を探るという目的があった[1]。

それはまた、とくに戦争や内乱などのなかで顕著にあらわれる集団心理への脆弱性(suggestivity)に関する研究でもあった。グルジエフが語るには、この放浪の時代に好んで動乱の地にみずからを置いたのは、人間の集団心理の異常性をめぐる謎の解明を目指してのことであった。グルジエフは、ここにおいて、みずからの探求の目標が二つになったと語っている[3]。

  1. 人間にとっての生きることの意味と目的をあらゆる側面から究明し、それを正確に理解すること。
  2. 人々を容易に「集団催眠」の支配下に陥れる要因としての「外部からの影響への弱さ」を人々から取り除くための手段なり方法なりをどんな代償を払ってでも見つけること。

グルジエフはその前半生において、三回にわたって被弾し、瀕死の重傷を負ったことを回想している[3]。それによれば、一回目は希土戦争 (1897年)の1年前のクレタ島で、二回目は1903年にイギリスによる侵攻を受ける1年前のチベットで、三回目は1904年に内乱のなかにあるトランスコーカサス地方で起きたという。

このような記述は危険な任務を想像させ、グルジエフが外部的な支援や政治的な保護にまったく頼らずにこれらの探検行を実現できたとも考えにくいため、アルメニア人あるいはギリシア人の民族運動との関係、イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐるグレート・ゲームとの関係、あるいはダライラマ13世との関係でグルジエフが果たしたかもしれない役割については憶測が絶えず、複数の研究家が自説を発表しているが、決定的な確証には乏しい。

1912年、グルジエフは遍歴の時代を終え、モスクワで小さなグループを指導するようになる。また、同年にユリア・オストワスカと結婚する。やがてサンクトペテルブルクでも活動するようになる。

1915年、グルジエフは、すでに神秘思想家として名の知られていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。1916年、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。

このころのグルジエフは、みずからの教えを理論的にまとめあげることに力を入れ、のちにウスペンスキー『奇跡を求めて』に収録されて一般に知られるようになった理論や概念は、このころのグルジエフの講義に基づいている。

1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフはコーカサス山中のエッセントゥキに移り、7月から8月にかけて、そこに十数人の生徒たちを集めて、身体的な性格を増した訓練を指導する。

1918年、アレクサンドロポルに留まっていたグルジエフの父がトルコ軍に射殺される。同年の夏までには、ロシア国内の内戦がエッセントゥキにも波及する。グルジエフは「インダク山に金鉱を発見するための科学的探検」を偽装して、政府から許可と物資の提供を受けると、同年の8月6日、妻と主要な弟子たち(ウスペンスキーは含まれない)を連れて、エッセントゥキを脱出する。一行は、その途上で武装勢力に足止めをされたりなどの危険を冒しながらも、5回にわたり前線を越え、徒歩でコーカサスを越えて、黒海沿岸の保養地であるソチにたどり着く。

ウスペンスキーは、グルジエフの思想に強い執着をもっていたが、グルジエフの主導する取り組みが現実的あるいは身体的な性格を増すなか、不満をつのらせるようになる。

1919年、グルジエフはグルジアのチフリス(トビリシ)に活動の拠点を移し、学院を設立する。アレクサンドル・ド・ザルツマンとその妻のジャンヌ・ド・ザルツマンがグループに加わり、舞台芸術の分野で造詣の深い同夫妻の協力を得て、グルジエフはこの夏、のちにムーヴメンツと呼ばれるようになる神聖舞踏の初めての公演をする。

1920年、グルジアの情勢も不穏なものとなる。5月、グルジエフは妻および30人ばかりの主要な弟子を連れて、チフリスを徒歩で脱出。ふたたびコーカサスを越え、黒海沿岸のバトゥムの港に着く。そこから一行は船でコンスタンチノープル(イスタンブール)に向かう。

グルジエフは、コンスタンチノープルで小規模ながら学院の再開を試み、活動を展開する。また、作曲家のトーマス・ド・ハートマンやウスペンスキーを連れて、スーフィーの修行場を訪れたりしたことが記録されている。ウスペンスキーはグルジエフの一行とは別行動でコンスタンチノープルに到着していたが、グルジエフとの関係は優柔不断なものであった。

1921年8月、グルジエフの一行は、コンスタンチノープルを離れてベルリンに向かう。グルジエフの舞踏の一部のレパートリーと似た性格をもつ「リトミクス」の創始者であるエミール・ジャック=ダルクローズからの招待を受け、ドイツに学院を設立することが当初の目的であった。不動産の取得をめぐる法律的な問題からこの計画は思うようにいかなかった。

1922年の2月と3月、グルジエフは二度にわたりロンドンを一時的に訪問するが、ここにおいてウスペンスキーとの間での対立は決定的なものとなった。やがてウスペンスキーは、イギリスとアメリカにて、グルジエフの名前を表に出すことなく、グルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。

1922年7月、グルジエフの一行はパリに移る。同年の秋、トルコ軍によるアルメニア人大虐殺により、グルジエフの妹のひとりであるアンナとその子供たちが犠牲となる。

1922年秋、グルジエフは、パリ近郊のフォンテーヌブローにある歴史的な城館、シャトー・プリオーレに居を定める。グルジエフはここで「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。

学院が本格的な活動に入った直後、ニュージーランド生まれの著名な作家であるキャサリン・マンスフィールドが学院を訪れる。彼女は結核の末期にあったため、グルジエフは彼女が学院に滞在することを最初は断るが、それによる彼女の落胆ぶりを見て、彼女からの再度の願いを受けてこれを認める[4]。1923年1月12日、彼女は学院で生涯を終える。

その日は偶然、グルジエフが生徒たちを指揮して学院の敷地に建設した「スタディハウス」の落成を祝う日であった。飛行船格納庫の廃材を利用して建設され、東洋風の絨毯や織物で飾り付けられたこの建物は、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである「ムーヴメンツ」の練習と演舞に使われた。その演舞は、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。

グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカの作家や芸術家の間での反響が大きかった。学院の活動はジャーナリズムの関心を呼び、当初、その内容は興味本位ではあっても基本的に好意的なものであったが、キャサリン・マンスフィールドがそこで死を迎えた怪しい学院という、悪意ある風評にもさらされるようになった。

1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で注目を集める。しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。怪我から回復したグルジエフは、外面的な活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。これらが正式に出版されたのはグルジエフの死後である。

1926年、妻のユリア・オストワスカを癌で失う。時期を同じくして、プリオーレに暮らしていた母もなくなる。ふたりはフォンテーヌブローに隣接するアヴォンの墓地で、キャサリン・マンスフィールドの眠るそばに葬られた。

グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断ち、執筆に専念する。しかし、アメリカを頻繁に訪れるようになり、パリではやがて、ソリタ・ソラノやキャサリン・ヒュームをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に新しいアプローチを試しだす。

このようにして、1930年代の後半までには、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとは趣が異なるグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれてきた。その一方で、欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きがいっそう強まった。

1940年6月から、パリはドイツ軍の占領を受ける。グルジエフは占領下のパリに留まり、凱旋門の近くにある自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナイン・シリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増していった。

この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国議会図書館に保存されている。その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。

グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。

臨終時のグルジエフ

終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。

出典/参考:

  1. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson
  2. グルジエフMeetings with Remarkable Men
  3. グルジエフLife Is Real Only Then, When I Am
  4. T. Tchechovitch Tu l'Aimeras - Souvenirs sur Georgii Ivanovitch Gurdjieff

グルジエフの思想[編集]

グルジエフの「思想」もしくは「教え」という言葉が使われるが、グルジエフ自身はこれをただ“my ideas”と呼んでいた。グルジエフの母国語のひとつであるギリシャ語に由来し、「思想」もしくは「教え」というより、「世界観」もしくは「人間観」といった言い方に近い。

グルジエフの提示した世界観は、人間の存在や宇宙の成り立ちをめぐる一見して独自な見方を含むが、同時に科学的追求の色彩を帯びている。

グルジエフの思想が西洋に広まる過程では、一見して取っつきにくいグルジエフの主張や見解をもっと一般に受け入れられやすい体裁にまとめなおそうとする動きが生じたが、グルジエフはこれを支援せず、自らの著書においては、独自の語彙と形式をもってこれを記述した。

歴史的な経緯として、グルジエフに由来する思想の広まりで大きな役割を果たしたのはウスペンスキーだが、1921年ごろから、グルジエフを離れ、グルジエフから学んだ知識を基に自ら教えるようになった。また、グルジエフに由来する思想をアメリカに広めるうえで大きな役割を果たしたA・R・オラージュは1934年に急逝したが、C・ダリー・キングをはじめとする生徒たちの一派は、自分たちがオラージュを通じて学んだグルジエフの教えだけが本物であり、その後のグルジエフは認めないという姿勢をとった。そのため、一般に「グルジエフ/ウスペンスキー思想」として知られているものと、グルジエフ自身の著作が伝えるものとの間には、いくぶんかの隔たりがあるように見える。

グルジエフ自身は自らの思想の主旨を次のように言っている。

「読者の精神と感情において、現在の彼が知覚するような幻の世界ではなく、現実の世界の、実証可能にして夢ならざる認識が生まれるのを助ける」(グルジエフ著作集All and Everything序文)

  •  * *

<用語をめぐる問題>

グルジエフの提示した世界観/人間観を語るうえで、一般的には、1910年代におけるグルジエフの言葉遣いに由来する比較的にわかりやすい用語(「自己想起」、「本質」と「人格」、「三の法則」と「七の法則」、「センター」en:Centers (Fourth Way)など)が使われることが多い。のちにグルジエフから離反して独自に生徒を教えるようになったウスペンスキーをはじめとする教師たちは、これらの用語を使用して、一見してすっきりまとまった理論体系を組み立て、これを「システム」(the System)または「第四の道」en:Fourth Wayという名のもとに欧米で広めたためである。

のちのグルジエフは、必ずしもこれに賛同せず、おそらくは安易な定式化を避ける目的で、みずからの著作においてはそれらとは異なる語彙を使用した。グルジエフの世界観/人間観を語るうえでは、おそらくグルジエフ自身が最終的に選んだそれらの語彙を使うべきなのであろうが、それらは一見して取りつきにくい表現であるため、紹介的な記事においては使うのがためらわれる。

したがって、実際にはこれら二つの用語体系の両方を使わざるをえないが、ウスペンスキーらが一般に紹介した「システム」とグルジエフ自身の著作のあいだでの言葉の違い、あるいは前期と後期におけるグルジエフ自身の言葉の使い方の変化について、主要な点を理解しておく必要がある。

「ワーク」[編集]

グルジエフの“work on oneself”(自分を相手にした取り組み)という表現に由来する。グルジエフはほかに、特定の彼/彼女にとっての取り組みという意味でhis/her workと言ったり、われわれにとっての取り組みという意味でour workという言葉を使ったりした。しかし、グルジエフの著作や講話のなかに、the Workという言葉を見つけることはできない。workという単語をやや神格化して権威を与えた気配のあるこの表現は、もっぱらグルジエフの生徒たちが使いだしたものである。「グルジエフ・ワーク」という言葉も、グルジエフが生きている間は、外部のマスコミ関係者以外によって使われることはまれであった。

「自己想起」[編集]

self-rememberingの訳。rememberには、「思い出す」と「覚えている」という二重の意味があるため、「自己想起」という訳語はやや一面的かもしれない。ウスペンスキー『奇跡を求めて』によって広く知られるようになった言葉。各種の観察や知覚において、主体(自分自身)と客体を同時あるいは均等に意識するということとの関係で論じられている。ただし、『奇跡を求めて』に収録されているのは、主としてこれをめぐるウスペンスキー自身の解釈であり、グルジエフ自身による明確な説明はない。グルジエフは生徒たちとの会話において、しばしばremembering oneselfという表現を使ったことが記録されているが、著作においてこれに類する言葉はまれにしか使われていない。「自己想起」はグルジエフの「思想」の中心的なテーマと見なされることが多いが、グルジエフ自身はこの傾向について次のように批評している。

「イギリスの首都に暮らす者たち[ウスペンスキーとその生徒たち]の場合、これがいわば『イングリッシュ魂』にぐっときたと見えて、私の提示した理論体系を要約する例の言葉、つまり必要に迫られて私も使わざるをえなかった『自己想起』という言葉に『クレージー』になり、これを自分たちの固定観念とするに至った。」(Gurdjieff - The Life is Real Only Then When ‘I Am’)(文献引用元サイト

「自己観察」[編集]

「自己想起」に先立つものとして、ウスペンスキー、オラージュといった教師たちがその重要性を説いたが、グルジエフ自身はその重要性を認めつつも、自己観察に関する過剰なこだわりは望ましくない結果を招くと指摘した。

「たしかに、真実を知ることに向けて奮闘するどんな者にとっても、その取り組みの最初の時点でこれ[自己観察]について知っておくことは不可欠ではあるのだが、私がずっと昔に確信および確認するに至ったこととして、これが人の精神活動の重心にまでなってしまうと、それはまさしくこのような結果、つまりたいへん残念なことに、私がいまあなたがたのほとんど全員のなかに見て取ることのできるような結果を招いてしまう。」(Gurdjieff - The Life is Real Only Then When ‘I Am’)

「あなたがたがしているのは、自己観察などではない。頭でっかちの観察の試み(mind-observation)。そんなことを続けていたら気が変になることもあるだろう。」(Edwin Wolf, Episodes with Gurdjieffに引用されたグルジエフの言葉)

「良心」[編集]

グルジエフは、道徳もしくは社会的良心とは別個のものとしての「良心」の重要性を説いた。

「良心という概念と道徳という概念は、互いにまったく無関係だ。良心とは、普遍的かつ不変のものだ。それはすべての人間のなかで同一だが、緩衝器[自分をありのままに見ることを妨げるもの]がなくなってはじめて、それを感じられる。さまざまな種類の人間についてあなたが理解できるよう、ここで言うのだが、内側に何の矛盾もない人間にとっての良心というものがある。そのような人間にとって、良心は苦しみではない。それどころか、それは、われわれには理解できない、完全に新しい質を帯びた喜びだ。だが、数千もの小さな「私」からなる人間にとっては、良心の一瞬の目覚めさえ、苦しみをもたらさずにはいない。だが、そうした良心の目覚めの瞬間がだんだんに長くなり、そして当人がそれを恐れるのではなく、むしろ歓迎し、それらの瞬間を長引かせようとするなら、微妙な喜びの質が、それらの瞬間に宿されていく。それは、未来に得られるかもしれない、曇りなき良心の先触れだ。」(ウスペンスキー『奇跡を求めて』8章に引用されたグルジエフの言葉)」

「センター」[編集]

グルジエフは人間を、思考・感情・本能のそれぞれを受け持つ「三つの脳」(three brains)を備えた生き物(being)と見なした。これらは「三つのセンター」とも呼ばれる。グルジエフの著作においては「それぞれ独立して精神を付与された(spiritualized)三つの部分」とも描写されている。 以上が基本となる見方だが、これら三つのセンターのうち本能をつかさどるセンターは、さらに運動・本能・性の三つのセンターに分かれていると見なされる。 人間の調和的な成長の観点から見ると、グルジエフが「三の法則」(the Law of Three)と呼んだ原理に従った能動・受動・和解の三つの力のそれぞれを宿した運動・本能・性の三つ組(triad)がひとつの統合体として、思考のセンターおよび感情のセンターとやはり「三の法則」に基づく関係を結ぶことで、思考・感情・本能の三つ組が成立するということになる。さらにこの三つ組が、「高次思考センター」および「高次感情センター」とやはり「三の法則」に基づく関係を結ぶことで、さらに高度な段階の三つ組が成立するということになる。

「クンダバッファー」と「人間の眠り」[編集]

人間の個としての成長を妨げ、現実をあべこべに認識させる「器官」として、くわしくはグルジエフの著書の第一作(Beelzebub’s Tales to His Grandson)に描写される。人の内側にあって人のエゴもしくは自己保存的衝動と結び付いてはいるが当人の成長を妨げ、認識をゆがめるために、結局は当人を利するものではない「なにか」について、伝統的な宗教においては、それを「肉体」あるいは「心」と呼び、それと闘うように教えるのが一般的であるが、ここで「肉体」もしくは「心」というのは必ずしも正確な表現ではないように見える。これに対し、「クンダバッファー」は、背骨(クンダ)を通じて発揮される催眠的な力の背景にあるものとして、その働きの起源は本能的なところにあるが、その働きの結果はもっぱら頭もしくは心に生じるものとして描写されている。 グルジエフによれば、クンダバッファーは、人間の存在が宇宙において果たすべく課せられた宿命との関係で原初の人類に埋め込まれた生理的な機能であり、この「器官」そのものはのちに人類から取り除かれたが、その後も人類はその後遺的な影響下にある。その最大の影響として、グルジエフは“self-calming”ということを挙げる。字義的には「自分を落ち着かせること」だが、具体的には、人が現実を否認して自分を「安心」させるためのさまざまな行為にふける傾向を指す。 クンダバッファーの後遺的な影響下に置かれた人間の生の現実をめぐって、「人間は眠っている」、「これは自然な眠りではない」、「人間は機械である」といったグルジエフの発言が記録されている。とくにウスペンスキー『奇跡を求めて』に収録された「機械」をめぐる発言はセンセーショナルに取り上げられることが多いが、これはそもそも「人間はますます機械的になっているように見えます」というウスペンスキーの発言に答えたものであり、グルジエフがその「思想」の一部として「人間機械論」なるものを唱えていたわけではない。

「本質」と「人格」[編集]

人間のなかにあって本能的/感情的な傾向と深く結び付いて容易に変えがたく本人独自のものである部分を「本質」(the essence)、それとは分離して成長した体面的/仮面的な部分もしくは主として教育の結果として外部から取り入れられた知識や信念によって成長した部分を「人格」(the personality)と呼ぶ。人間にとっての真の成長は「本質」の成長でしかありえないが、そのためには「人格」がしかるべき役割を果たさなければならない、自分を相手にした取り組みは「人格」の主導がなければ始まりようがないとグルジエフは主張した。「本質」というと美しく聞こえるが、グルジエフはこれを人が相手にすべき「動物」もしくは「懲りない悪魔」(the old devil)と評するときもあった。「本質」と「人格」という分け方は比較的に初期のものであり、グルジエフは著作においてはむしろ「意識」(the conscious)と「下意識」(the subconscious)という分け方を用い、晩年における生徒たちとのやりとりではむしろ「頭」(the headまたはmind)と「体」(the body)という分け方を用いている。

宇宙論:インボルーションとエボルーション[編集]

インボルーション(involution)とエボルーション(evolution)は、グルジエフの宇宙論を理解するうえで鍵となる言葉だが、適切に訳すのが難しい、一般的な訳語としては、インボルーション=退化、エボルーション=進化だが、これではどうしてもインボルーション=悪、エボルーション=善という解釈に結び付いてしまう。ところが、人間の集合的な意識においては、インボルーションという言葉が表すトップダウンの流れのほうが、いわゆる「善」の観念と結び付きやすく、一般的な宗教はこの方向性を帯びている。エボルーションの流れに沿った個の成長の道はむしろこれに逆らうものである。グルジエフは、インボルーションとエボルーションをめぐる一般的な善悪判断を、現実の正確な認識を妨げる迷妄の根源と見なし、そうした善悪判断を離れてこの二つの言葉が意味するものを理解するように求めた(Gurdjieff ^ Beelzebub’s Tales to His Grandson, Chapter 44)。 原義において、インボルーションは「内転」、エボルーションは「外転」であり、」宇宙における万物の変化が従いうる二つの方向性を指す。グルジエフは「われわれの知っているこの宇宙」の発祥について、「一者からの万物の創造」という点で基本的にはビッグバン的な理論を認め、インボルーションとはこの一者に始まる外向きの動き、創造の流れである。それなのにこれが「内転」と言われるのは、細分化された物質世界における「巻き込まれ」の動きであるという見方に立ったものと思われる。これは創造の源泉に発するいわば「天からの息吹」(emanation from the above)であるから、「善」と見なされがちであるが、これは下に向かうほど質を落としていく退化性の流れであるから、そこにこうした善悪基準を持ち込むこと自体が誤りである。 この「インボルーション」の流れのなかから生まれた被造物がこの流れを遡って源泉へと戻ろうとする動きが「エボルーション」である。これはある意味で、創造の起源に発する流れに対する反逆であるから「悪」と見なされがちだが、これは回帰への衝動(グルジエフはこれに一般的には後悔を意味するremorseという言葉をあてはめた)に突き動かされた進化の流れである。 グルジエフが「三の法則」と呼んだ原理との関係では、「インボルーション」の流れに沿った力の働きは「受動的」、「エボルーション」の流れに沿った力の働きは「能動的」であり、全宇宙に意識が宿る(spiritualized)のはこの二つの流れの間に生じる対立/拮抗/和解のドラマゆえであるとされる。

「宇宙の成り立ちに関与する第三の力は、ひとつは下に向かいひとつは上に向かう、互いから独立したこの二つの基本的な力が、あらゆる空間で、あらゆる被造物のなかでぶつかりあうことから生まれる。この独立した第三の力は、最初に挙げた二つの基本的な力の結果にすぎないとはいえ、それでもこれこしが宇宙の万物に意識を宿らせる力、対立の和解をもたらす力なのである。」(Gurdjieff ^ Beelzebub’s Tales to His Grandson, Chapter 44)文献引用元サイト

「三の法則」と「七の法則」[編集]

すでに触れた「三の法則」(The Law of ThreeまたはTriamagicamno)のほかに、そのひとつひとつは「三の法則」に従ったプロセスの諸段階の持続的な発展における不連続性を支配する法則として「七の法則」(The Law of SevenまたはHeptaparaparshinokh)について論じた。物事の展開(インボルーションまたはエボルーションのどちらかの方向性を帯びた展開)の不連続性に関するこの見解は、非線形性に関する科学的な知見と重なり合うところがある。グルジエフによれば、オクターブの音階はこの非線形性を表している。すなわち、ピアノの鍵盤で言うならば、半音階(黒鍵)が欠けているミ~ファの箇所とシ~ドの箇所が、非線形性の生じる箇所であり、そこでは物事の自動的な進展が阻まれる。「インターバル」と呼ばれるそれらの箇所は、外部からの力の導入や格別の努力が必要な箇所であり、そこで複数のプロセスの間での接触が必要になることこそが、宇宙における万物協働の仕組みの大元となっていることをグルジエフは指摘する。史実として確認できるかぎりグルジエフが始めて一般に知らしめた図形であるエニアグラムは、「三の法則」と「七の法則」の調和的関係をあらわす。

グルジエフの音楽と舞踏[編集]

グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマン(1885-1956)との共作で数々のピアノ曲を残した。ハートマンの手記によると、グルジエフはピアノを一本指で弾くことで、あるいは口笛によって旋律を指示し、ハートマンがそれを展開させていくと、さらにグルジエフが新しいパートを加えるなどして、曲が生み出されていった。

これらの曲は作風の違いからいくつかに大別され、全集の多くでは、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)などのタイトルを使用している。

ハートマンとの共作以外にも、グルジエフ自身の演奏の録音が残されており、公開されているものもある。

グルジエフが教えた数々の舞踏や体操は「ムーヴメンツ」と総称され、200余りの作品が現在まで伝えられているという。グルジエフの自伝的著作に基づく映画『注目すべき人々との出会い』の最後に映像が収められている。

伝承の系譜とワークのグループ[編集]

グルジエフはその著書で、「ワーク」として知られる取り組みを主導するに至った主要な動機のひとつとして、戦争・動乱・革命などの現場で目の当たりにした異常な集団心理や人類の集合的な病からの解放に向けての取り組みの必要性に関する自覚を挙げている。

これは個としての目覚めに向けての取り組みでありながら、グルジエフは、集合的な自動性に対抗するうえでの個人の無力さを指摘し、共同の取り組みの必要性を強調した。

グルジエフは、学院におけるコミューン的な状況のなかでの活動に終止符を打った後も、アメリカとフランスで複数のグループの指導にあたった。1940年代になると、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小規模なグループでのワークを指導するようになり、これは第二次大戦中を通じて継続された。そして戦後には、英米からの多くの元弟子や新しい生徒を迎え入れたが、みずからの死後のためにひとつにまとまった組織を用意することはなかった。

グルジエフの死後、パリのグループでグルジエフを補佐してきたジャンヌ・ド・ザルツマン(1889-1990)がグルジエフ後期のワークを引き継ぐかたちとなり、彼女の親族や支持者が中心となって、グルジエフ・ファウンデーション/ソサエティなどの団体が結成され、世界各地で小グループの定期的な集まりを中心とする活動を主導するようになった。

また、戦後に大勢の生徒を連れてグルジエフのもとを訪れていたJ・G・ベネット(1897-1974)は、1920年代の初頭におけるグルジエフの活動にならって、コミューン的な環境でのワークを追求し、まずはイギリス、のちにアメリカに学院を設けた。

ザルツマンとベネットは初期において協力を模索したが、やがて方向性の違いが際立つようになった。また、グルジエフから直接に学んだ人たちの周辺に生まれたグループはこれに限られず、ウスペンスキーほかグルジエフから離反した人たちの周辺に生まれたグループもあり、さらにはグルジエフと血のつながりのある人たちの間での複雑な関係も絡んで、「正統性」をめぐる議論が白熱するに至った。

いわゆる「教えの継承」をめぐるグルジエフみずからの見解は、その主著である『ベルゼバブ』の第四十四章からうかがうことができ、それは一般に「正統性」として語られる上から下への流れを不可欠のものと見なしながらも、これはそれ自体としては退化性の流れであり、それに対立する流れとの接触と摩擦があってはじめて、それは創造的な役割を果たしうることを告げている。

著書と関連書籍[編集]

著書

(1) Gurdjieff: Beelzebub’s Tale to His Grandson

  • グルジエフ『ベルゼバブの孫への話 - 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語 - 人間の生に対する客観的で公正な批判』 郷尚文訳、電子書籍

(2) Gurdjieff: Meetings with Remarkable Men

  • グルジエフ『注目すべき人々との出会い』 星川淳訳、めるくまーる

(3) Gurdjieff: Life Is Real Only Then, When ‘I Am’

  • グルジエフ『生は<私が存在し>て初めて真実となる』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『生は<私が存る>ときにのみリアルである』 郷尚文訳、電子書籍

(4) Gurdjieff, Struggle of the Magicians(バレエ劇の台本)

講話と対話の記録
  • グルジエフ『エニアグラム講義録』 郷尚文訳、電子書籍「初期文献集」収録
  • グルジエフ『グルジエフ弟子たちに語る』 前田樹子訳、めるくまーる
  • グルジエフ『ミーティングの記録』(1941~1946)、郷尚文訳、電子書籍
グルジエフの講話の内容を主体とする記録:
  • * 『垣間見た真理』(1914年/モスクワのグループメンバーによる手記) 郷尚文訳、電子書籍「初期文献集」収録
  • P.D.ウスペンスキー 『奇蹟を求めて』 浅井雅志訳、平河出版社
弟子たちの手記
  • トーマス&オルガ・ド・ハートマン『グルジエフと共に』前田樹子訳、めるくまーる
  • フリッツ・ピータース『魁偉の残像』前田樹子訳、 めるくまーる
伝記
  • ジェイムズ・ムア『グルジエフ伝 神話の解剖』 浅井雅志訳、平河出版社
小説
関連書籍
  • 郷尚文『覚醒の舞踏 グルジエフ・ムーヴメンツ 創造と進化の図絵』 市民出版社
  • 前田樹子『エニアグラム進化論』 春秋社

音楽CDとDVD[編集]

ピアノ曲のシリーズ
  • The Music of Gurdjieff/de Hartmann (3 CD), Piano by Thomas de Hartmann、G-H Record
  • Gurdjieff/de Hartmann Music for the Piano (Vol. 1-4), Piano by Laurence Rosental, etc., VERGO
  • The Music of Gurdjieff and de Hartmann (Vol. 1-12), Piano by Alain Kremski, Naive
  • The Complete Piano Music of Georges I. Gurdjieff and Thomas de Hartmann (Volumes 1-3), Piano by Cecil Lytle, Celestial Harmonies
  • Music for Movements, Piano by Wim van Dullemen, Channel Cl.
オーケストラ作品
  • Oriental Suites, Basta Music(パリとニューヨークでのムーヴメンツ公演に使われた音楽のオーケストラによる再現)
アルメニアの音楽家たちによるグルジエフ/ハートマン作品のアレンジ(古楽器によるアンサンブル)
  • Music of Georges I. Gurdjief by Levon Eskenian & Gurdjieff Folk Instrument Ensemble (2011, ECM)
グルジエフによるハーモニウム演奏
  • Harmonic Development, Basta Music(グルジエフ自身によるハーモニウムの演奏の録音)
グルジエフの自伝的著作の映画化作品
  • 『注目すべき人々との出会い』(監督ピーター・ブルック)(DVD発行:ブロードウェイ株式会社)

関連項目[編集]

グルジエフに由来する事項[編集]

科学の分野で関連する事項[編集]

地理的/文化的背景[編集]

歴史的背景[編集]

グルジエフのもとで直接に学んだ人たち[編集]

ロシア時代より:

フランス:

パリに暮らしたアメリカ人の女流作家:

アメリカ:

イギリス:

脚注[編集]


外部リンク[編集]

グルジエフの著作・講話・音楽など
グルジエフ関連ホームページ(団体/グループの紹介を主目的とするものを除く)