ゲオルギイ・グルジエフ

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ゲオルギイ・グルジエフ(1922年)

ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, George Ivanovich Gurdjieff, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。欧米の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものである。近年ではもっぱら性格分析に使われている「エニアグラム」は、史実として確認できるかぎりにおいて、グルジエフがこれを世に知らしめた最初の人物である。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。

グルジエフという名前は生来のギリシア系の姓Γεωργιάδης(ゲオルギアデス)をロシア風に読み替えたものであり、表記としては「ジェフ」も一般的であるが、ここでは便宜上、参考文献の題名も含めて「ジエフ」に統一した。

グルジエフの生涯[編集]

グルジエフは、ギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)のアレクサンドロポル(現在のギュムリ)に生まれた。生年については、公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。[1]

グルジエフは少年時代のこととして、父から受けた独自の教育について語っている。父は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。グルジエフは少年時より、家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。

グルジエフの生い立ちをめぐるこのような基本的な事項や家族に関係することは近親者の証言によって確認されている[2]が、その後のこととして、グルジエフが1910年代にロシアにあらわれるまでの前半生は、グルジエフの著作における自伝的な記述からしかうかがい知ることができない。しかし、そのうち『注目すべき人々との出会い』[3]は自伝的な体裁をとっていても、完全なノンフィクションとして書かれたものとは思われない。したがって、グルジエフの前半生に関する以下の記述をどの程度まで物語的なものと受け取るかは各人に任されている。

父は吟遊詩人でもあり、グルジエフの自伝的著作での記述によると、父からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動になった。

グルジエフの家族はやがて、1877年の露土戦争後にロシア領となりロシアが要塞の建設を進めていたカルスへと移る。グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学に励むとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。

これも自伝的な著作での記述によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。自伝によると、友人のポゴジャンを伴った最初の旅は、アルメニア民族運動を支援する結社からの密使としての役割を引き受けることで実現され、旅の途上での偶然の発見から、ふたりは旅の目的地を変更し、エジプトへと向かう。グルジエフはそこで、みずからと目的を同じくする年配の探求者、プリンス・ルボヴェドスキーとスクリドロフ教授に出会う。

グルジエフは、みずからと目的を同じくする仲間たちと「真理の探求者たち」(Seekers of Truth)というグループを結成し、中央アジアの奥地などへの探検行をくりかえし、古代的名叡智の痕跡や隠された教えの源泉を求めて、遺跡の発掘にあたったり、隠された僧院や精神的な共同体をめぐったりし、さらには伝承・象徴・音楽・舞踏などの研究にもあたった。

グルジエフは、人間の精神に見られる各種の不可解な傾向の解明に資するものとして、催眠という現象に注目するようになる。グルジエフは、この現象をめぐる卓越した知識と技量ゆえに「魔術師」を演じることもあったとされるが[4]、この関心の背後には、顕在意識と下意識の間での分断と、両者間の隠れた関係を探るという目的があった[5]

それはまた、とくに戦争や内乱などのなかで顕著にあらわれる集団心理への脆弱性(suggestivity)に関する研究でもあった。グルジエフが語るには、この放浪の時代に好んで動乱の地にみずからを置いたのは、人間の集団心理の異常性をめぐる謎の解明を目指してのことであった。グルジエフは、ここにおいて、みずからの探求の目標が二つになったと語っている。[6]

  1. 人間にとっての生きることの意味と目的をあらゆる側面から究明し、それを正確に理解すること。
  2. 人々を容易に「集団催眠」の支配下に陥れる要因としての「外部からの影響への弱さ」を人々から取り除くための手段なり方法なりをどんな代償を払ってでも見つけること。

グルジエフはその前半生において、三回にわたって被弾し、瀕死の重傷を負ったことを回想している[7]。それによれば、一回目は希土戦争 (1897年)の1年前のクレタ島で、二回目は1903年にイギリスによる侵攻を受ける1年前のチベットで、三回目は1904年に内乱のなかにあるトランスコーカサス地方で起きたという。

このような記述は危険な任務を想像させ、グルジエフが外部的な支援や政治的な保護にまったく頼らずにこれらの探検行を実現できたとも考えにくいため、アルメニア人あるいはギリシア人の民族運動との関係、イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐるグレート・ゲームとの関係、あるいはダライラマ13世との関係でグルジエフが果たしたかもしれない役割については憶測が絶えず、複数の研究家が自説を発表しているが、決定的な確証には乏しい。

1912年、グルジエフは遍歴の時代を終え、モスクワで小さなグループを指導するようになる。また、同年にユリア・オストワスカと結婚する。やがてサンクトペテルブルクでも活動するようになる。

1915年、グルジエフは、すでに神秘思想家として名の知られていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。1916年、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。

このころのグルジエフは、みずからの教えを理論的にまとめあげることに力を入れ、のちにウスペンスキー『奇跡を求めて』[8]に収録されて一般に知られるようになった理論や概念は、このころのグルジエフの講義に基づいている。

1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフはコーカサス山中のエッセントゥキに移り、7月から8月にかけて、そこに十数人の生徒たちを集めて、身体的な性格を増した訓練を指導する。

1918年、アレクサンドロポルに留まっていたグルジエフの父がトルコ軍に射殺される。同年の夏までには、ロシア国内の内戦がエッセントゥキにも波及する。グルジエフは「インダク山に金鉱を発見するための科学的探検」を偽装して、政府から許可と物資の提供を受けると、同年の8月6日、妻と主要な弟子たち(ウスペンスキーは含まれない)を連れて、エッセントゥキを脱出する。一行は、その途上で武装勢力に足止めをされたりなどの危険を冒しながらも、5回にわたり前線を越え、徒歩でコーカサスを越えて、黒海沿岸の保養地であるソチにたどり着く。

ウスペンスキーは、グルジエフの思想に強い執着をもっていたが、グルジエフの主導する取り組みが現実的あるいは身体的な性格を増すなか、不満をつのらせるようになる。

1919年、グルジエフはグルジアのチフリス(トビリシ)に活動の拠点を移し、学院を設立する。アレクサンドル・ド・ザルツマンとその妻のジャンヌ・ド・ザルツマンがグループに加わり、舞台芸術の分野で造詣の深い同夫妻の協力を得て、グルジエフはこの夏、のちにムーヴメンツと呼ばれるようになる神聖舞踏の初めての公演をする。

1920年、グルジアの情勢も不穏なものとなる。5月、グルジエフは妻および30人ばかりの主要な弟子を連れて、チフリスを徒歩で脱出。ふたたびコーカサスを越え、黒海沿岸のバトゥムの港に着く。そこから一行は船でコンスタンチノープル(イスタンブール)に向かう。

グルジエフは、コンスタンチノープルで小規模ながら学院の再開を試み、活動を展開する。また、作曲家のトーマス・ド・ハートマンやウスペンスキーを連れて、スーフィーの修行場を訪れたりしたことが記録されている。ウスペンスキーはグルジエフの一行とは別行動でコンスタンチノープルに到着していたが、グルジエフとの関係は優柔不断なものであった。

1921年8月、グルジエフの一行は、コンスタンチノープルを離れてベルリンに向かう。グルジエフの舞踏の一部のレパートリーと似た性格をもつ「リトミクス」の創始者であるエミール・ジャック=ダルクローズからの招待を受け、ドイツに学院を設立することが当初の目的であった。不動産の取得をめぐる法律的な問題からこの計画は思うようにいかなかった。

1922年の2月と3月、グルジエフは二度にわたりロンドンを一時的に訪問するが、ここにおいてウスペンスキーとの間での対立は決定的なものとなった。やがてウスペンスキーは、イギリスとアメリカにて、グルジエフの名前を表に出すことなく、グルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。

1922年7月、グルジエフの一行はパリに移る。同年の秋、トルコ軍によるアルメニア人大虐殺により、グルジエフの妹のひとりであるアンナとその子供たちが犠牲となる。

1922年秋、グルジエフは、パリ近郊のフォンテーヌブローにある歴史的な城館、シャトー・プリオーレに居を定める。グルジエフはここで「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。

学院が本格的な活動に入った直後、ニュージーランド生まれの著名な作家であるキャサリン・マンスフィールドが学院を訪れる。彼女は結核の末期にあったため、グルジエフは彼女が学院に滞在することを最初は断るが、それによる彼女の落胆ぶりを見て、彼女からの再度の願いを受けてこれを認める[9]。1923年1月12日、彼女は学院で生涯を終える。

その日は偶然、グルジエフが生徒たちを指揮して学院の敷地に建設した「スタディハウス」の落成を祝う日であった。飛行船格納庫の廃材を利用して建設され、東洋風の絨毯や織物で飾り付けられたこの建物は、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである「ムーヴメンツ」の練習と演舞に使われた。その演舞は、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。

グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカの作家や芸術家の間での反響が大きかった。学院の活動はジャーナリズムの関心を呼び、当初、その内容は興味本位ではあっても基本的に好意的なものであったが、キャサリン・マンスフィールドがそこで死を迎えた怪しい学院という、悪意ある風評にもさらされるようになった。

1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で注目を集める。しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。怪我から回復したグルジエフは、外面的な活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。これらが正式に出版されたのはグルジエフの死後である。

1926年、妻のユリア・オストワスカを癌で失う。時期を同じくして、プリオーレに暮らしていた母もなくなる。ふたりはフォンテーヌブローに隣接するアヴォンの墓地で、キャサリン・マンスフィールドの眠るそばに葬られた。

グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断ち、執筆に専念する。しかし、アメリカを頻繁に訪れるようになり、パリではやがて、ソリタ・ソラノやキャサリン・ヒュームをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に新しいアプローチを試しだす。

このようにして、1930年代の後半までには、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとは趣が異なるグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれてきた。その一方で、欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きがいっそう強まった。

1940年6月から、パリはドイツ軍の占領を受ける。グルジエフは占領下のパリに留まり、凱旋門の近くにある自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナイン・シリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増していった。

この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国議会図書館に保存されている。その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。

グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。

臨終時のグルジエフ

終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。

グルジエフの思想[編集]

グルジエフの「思想」もしくは「教え」という言葉が使われるが、グルジエフ自身はこれをただ“my ideas”と呼んでいた。ロシア語でもこれは基本的に同じである。グルジエフの母国語のひとつであるギリシャ語に由来し、「思想」もしくは「教え」というより、「世界観」もしくは「人間観」といった言い方に近い。

グルジエフの提示した世界観は、人間の存在や宇宙の成り立ちをめぐる一見して独自な見方を含むが、同時に科学的追求の色彩を帯びている。

グルジエフの思想が西洋に広まる過程では、一見して取っつきにくいグルジエフの主張や見解をもっと一般に受け入れられやすい体裁にまとめなおそうとする動きが生じたが、グルジエフはこれを支援せず、自らの著書においては、独自の語彙と形式をもってこれを記述した。

歴史的な経緯として、グルジエフに由来する思想の広まりで大きな役割を果たしたのはウスペンスキーだが、1921年ごろから、グルジエフを離れ、グルジエフから学んだ知識を基に自ら教えるようになった。また、グルジエフに由来する思想をアメリカに広めるうえで大きな役割を果たしたA・R・オラージュは1934年に急逝したが、C・ダリー・キングをはじめとする生徒たちの一派は、自分たちがオラージュを通じて学んだグルジエフの教えだけが本物であり、その後のグルジエフは認めないという姿勢をとった。そのため、一般に「グルジエフ/ウスペンスキー思想」として知られているものと、グルジエフ自身の著作が伝えるものとの間には、いくぶんかの隔たりがあるように見える。

人間の機械性[編集]

人はそのありぐれた状態においては条件付けに支配された機械のようであり、責任をとる能力、ものごとを意図的に為す能力を著しく欠いているという見解をグルジエフ示した。

「君が目にする人たち、君が知っている人たち、君がこれから知り合いになるかもしれない人たちはみな、機械である。君のさきほどの言いぐさを真似るなら、外部からの影響で動かされるだけののまさに機械にほかならない。」

「機械であるのをやめることはできる。だが、そのためには何よりもまず、機械を知らなければならない。機械、つまりほんとうの機械は、みずからを知らず、みずからを知る可能性もない。機械がみずからを知ったなら、それはもう機械ではない。少なくとも、それまでのような機械ではない。もう自分がすることへの責任をとりだしている」。「ということは、あなたに言わせると、人間はふつう無責任だということですか?」と私(ウスペンスキー)は聞いた。「もしも人間だったなら責任をとれる……」とG(グルジエフ)は言った。「機械には責任のとりようがない」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第一章(電子版講話録より

すべてはただ起きる/意図的に為すことの困難[編集]

「人にはなにもできない。[……]人は機械である。そのふるまい、言葉、思い、気持ち、信念、意見、習慣はみな、外部からの影響や印象がもたらした結果にすぎない。自分からはひとつの考えも生み出せず、ひとつの行動も起こせない。言うこと、思うこと、感じること、すべてがただ起きる。自分からはなにも見つけられず、なにも生み出せない。すべてはただ起きる[……]大衆運動も戦争も革命も政変も、ただ起きる。同じく人の一生においてもすべてはただ起きる。人は生まれ、生計をたて、死に、家を建てたり、本を書いたりするが、みずから望んでというより、たまたまそうなるのだ。すべてはただ起きる。人は自分から愛したり、憎んだり、求めたりするのではない。それらもただ起きることだ。」

「[主体的に]なにかをすること(to do)ができるにはまず、存在すること(to be)が必要だ。存在するということはどういうことだろう、まずはそれを理解する必要がある。」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第一章(電子版講話録より

超人思想?[編集]

質問者「もっと発達を遂げ、バランスを獲得し、外部からの影響に勝てるほど強くなって、超人になるというのが目標ですか?」

グルジエフ:「[そんなことよりまず]なにもできないという現状を理解しなさい。われわれは外側に反応して動くばかりで、すべてが機械的だ。成し遂げたいことがあっても成し遂げることなどできないというのが現状だ。」

※出典:質疑応答(一九二四年二月二十九日ニューヨーク)

複数の「私」[編集]

「人は複数に分かたれた存在である。ふつう自分について話すとき、われわれは『私』という言葉を使う。「私はこれをした」、「私はこう思った」、「私はこうしたい」とか。だが、これは誤りだ。そんな『私』などいない。いや、同じことを別なふうに言うなら、われわれひとりひとりのなかには何万もの小さな『私』がいる。われわれは内側で分裂しているのに、観察と研究なしには、自分の存在が複数に分かたれていることを認識できない。いまはそのうちひとりの『私』が活動しているが、次の瞬間にはそれとは違う『私』が活動している。内側にいる複数の『私』の間には一貫性がないので、われわれのすることは調和に欠けている。」

※出典:グルジェフ講話録(一九二一年ロンドン)(電子版講話録より

同一化(identifying)[編集]

グルジェフに由来するこの言葉は現在では一般用語になりつつある。

「人が自分を覚えていられないということは……人はいつも、そのときどきに自分の注意を引いたもの、そのときどきに自分に生じた思い、欲求、空想などに同一化していることと関係している。同一化はもっとも手ごわい敵のひとつだ。それはあらゆるところに入り込み、人はそれと闘っているつもりでいて、じつはその罠にまんまとはまっているということがあるからだ。[……]同一化の根がどこにあるのか、自分の内側を深く探る必要がある。同一化との闘いを難しくするもうひとつの要因として、人はそのあらわれを自分のなかに認めるとき、それをとてもよいものと見なし、『意気込み』、『熱意』、『情熱』、『創意』、『ひらめき』とかいう名前でそれを呼び、どんな分野でも本気ですぐれた仕事をしたければ同一化は必須なのだと思っている。」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第八章(電子版講話録より

内的考慮(internal considering)[編集]

「同一化のとりうるいろいろなかたちに目を向けたうえでさらに、同一化の一形式として、人を『考慮』してしまう[気にしてしまう]という、人を相手にした同一化に注目する必要がある。この種の『考慮』にはいくつかの種類がある。いちばんよくあるのは、他人は自分をどう思うか、他人は自分をどんなふうに扱うか、他人は自分にどんな態度を見せるかといったことを気にして、それに同一化することである」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第八章(電子版講話録より

「センター」)[編集]

頭、心、体という三区分に対応した頭のセンター(知性センターまたは思考センターという)、心のセンター(感情センターという)、体のセンター(正確には運動・本能・性センターという)の三者を「三つのセンター」という。このうち体のセンターだけを三つに分けて(運動センター・本能センター・性センターに分けて)見た場合、「五つのセンター」という見方となる。さらに「高次思考(知性)センター」と「高次感情センター」を加えると「七つのセンター」という見方になる。これらの見方の間に矛盾はないが、言葉の用法上の問題もあり、ウスペンスキーによる初期の叙述の時点で大きな混乱が生じている。

「とりあえず言っておきたいのは、人間機械すなわち人の身体の働きは、単一の脳によってではなく、おのおのが完全に互いから独立し、別々の機能と活動領域を与えられた複数の脳によって制御されているということだ。まずはこれを理解しなさい。これを最初に理解しないことには、他のことを理解するのは不可能だからだ」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第三章(電子版講話録より

これに続くウスペンスキーの説明は誤解である。

ウスペンスキーの主張: 多くの人たちは最初の説明とその後の説明の間に矛盾を見い出し、ときにはつじつまを合わせようとして、Gが実際に言ったこととは無関係の空想的な理論を作り上げた。その結果、一部のグループ(ふたたび言っておくが私とは無関係のグループ)の者たちは「三つのセンター」という考えに固執した。そしてその考えは「三つの力」に関する考えと結び付けられたのだが、実際には無関係の考えである。第一にセンターは三つではなく五つあるからだ。

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第三章(電子版講話録より

解説: グルジエフはその著作および記録された講義において「三つのセンター」という見方を基本にしていて、それを明らかに「三の法則」と結び付けている。 グルジエフは人間を、思考・感情・本能のそれぞれを受け持つ「三つの脳」(three brains)を備えた生き物)と見なした。これらは「三つのセンター」とも呼ばれる。グルジエフの著作においては「それぞれ独立して精神を付与された三つの部分」とも描写されている。以上が基本となる見方だが、これら三つのセンターのうち本能をつかさどるセンターは、さらに運動・本能・性の三つのセンターに分かれていると見なされる。 人間の調和的な成長の観点から見ると、グルジエフが「三の法則」と呼んだ原理に従った能動・受動・和解の三つの力のそれぞれを宿した運動・本能・性の三つ組(triad)がひとつの統合体として、思考のセンターおよび感情のセンターとやはり「三の法則」に基づく関係を結ぶことで、思考・感情・本能の三つ組が成立するということになる。さらにこの三つ組が、「高次思考センター」および「高次感情センター」とやはり「三の法則」に基づく関係を結ぶことで、さらに高度な段階の三つ組が成立するということになる。 グルジエフは「三つのセンター」の観点から各種のエクササイズを組み立て、学院のプログラムのなかで六つのセンターの協和的な働きを追求した。

同時に二つ以上のセンターを使う[編集]

「三つのセンター」(頭/心/体)という見方に基づく話として、人はふつういずれかひとつのセンターを独立して制御する能力を高めるべく教育および訓練され、この種の能力を高度に発達させた者たちのことを賞讃するが、そのような発展には多くの代償が伴い、そしてそのような片寄った発展では人の個としての発展とは異なるという見方をグルジエフは示し、ムーヴメンツをはじめとする具体的なメソッドをもって、複数のセンターの協働を志向するアプローチを追求した。


グルジエフ:「われわれの弱さの主たる理由は、自分の意志を三つのセンターのすべてに対して同時に適用できないことにある。」

質問者:「個別になら意志を適用できるということですか?

グルジエフ:もちろんそれならできる。三つのセンターのいずれかを一時的に意のままに操り、とても驚くべきことをやってのけることさえある。」

※出典:ロンドンでの質疑応答(一九二二年)(電子版講話録より

「二つ以上のセンターが関与してはじめて、理解は成立する。いっそう完全な認識のかたちもあるが、まずは、ひとつのセンターからもうひとつのセンターを制御する[もうひとつのセンターにアクセスする/うかがいを立てる]というのをやってみなさい。あるセンターに認識が生じたとき、他のセンターがその中身を吟味して、そのとおりだ、またはそれは違うと判断する。こうしたことの結果として理解は生じる。」

※出典:グルジェフ講話録(一九二一年十一月二十四日ベルリン)(電子版講話録より

魔術師と羊/人類の不自然な眠り[編集]

「何千ものことが人の目覚めを妨げ、人をその人なりの夢の支配下に留めようとする。目覚めを求めて意識的にそれに対抗するには、人を眠りの状態に留めようとする諸力の性質を知らなければならない。

真っ先に理解するべきこととして、人がそのなかで生きるところの眠りは、自然な眠りではなく、催眠性の眠りである。人は催眠下にあり、この催眠状態はつねに維持および強化されている。[自然界・惑星界が]なんらかの力をうまく働かせるためには、人間を催眠状態に留め、人間が真実を見て自分の現状を理解するのを妨げたほうが好都合なのだと思われる。

ある東洋の小話によると、むかしとても裕福な魔術師がいて、たくさんの羊を飼っていた。この魔術師は、とてもケチだった。羊飼いを雇いたくない。羊たちのうろつく草原に柵を設けるつもりもない。羊たちはよく森に迷い込んで、断崖から落ちることもあった。それによく逃げ出した。魔術師が自分たちの肉と皮を欲しがっているのを羊たちは知っていて、これは勘弁してもらいたかったからだ。

ついに魔術師はいいことを思いついた。彼は羊を催眠にかけ、羊たちに暗示した。第一に、おまえたちは不死身であり、皮をはがれてもだいじょうぶ。それは健康によいことで、気持ちいいぐらいだ。第二に、魔術師は良き主人であり、羊たちが大好きだ。羊たちのためなら何でもする。第三に、何が起こるにせよ、それは今日のことではないので、心配はいらない。さらに魔術師は、おまえたちは羊ではないのだと暗示をかけた。何匹かには、おまえたちはライオンなのだと言った。何匹かには、おまえたちはタカなのだといった。何匹かには、おまえたちは人間だと言った。何匹かには、おまえたちは魔術師だといった。

このすべてを終えた後、魔術師はもう、羊のことで気をもんだり、心配したりすることがなくなった。羊たちはもはや逃げようとせず、魔術師が彼らの肉と皮を必要とする日が来るのをおとなしく待つようになった。 この話は、人間の置かれた状況をよくあらわしている」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第十一章(電子版講話録宇より

目覚めること/自分が無であることの自覚[編集]

上の「魔術師と羊」の話との関係でなら理解しやすいこととして、グルジエフはこの人類的な「眠り」から覚めるということ、「目覚める」ということを、たいへんな苦しみを伴うもの、自分が無であることの自覚を伴うものとして描写した。

「目覚めるとは、自分が空っぽであることの自覚を意味する。自分はまったくもって機械のようであり、まったくもってなにもできないことを自覚することだ。これを哲学的なこととして言葉のうえで理解するのでは、じゅうぶんではない。あからさまで単純かつ具体的なこととして、しかも自分のこととして、これを自覚する必要がある。

人は少しでも自分について知りだすと、やがておぞましいと感じざるをえないものの数々を自分のなかに見るようになる。自分を見て恐慌をきたしたことのない人は、まだ自分についてなにも知っていない。人は自分のなかにおぞましいものを見いだす。それを投げ捨てたい、やめたい、終わらせたいと思うだろう。だが、どれだけ努力しても、なにも変わらず、これはどうにもならないのだと思い知らされる。このとき人は、自分にはなにもできないことがわかる。自分は無力である、無価値であることを知る。」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第十一章(電子版講話録より

映画マトリックスでの目覚めの描写をこれに重ねる見方がある。「魔術師と羊」の話、全体の目的に対する人類の従属、そしてこの従属を維持するためには人類を眠らせておいたほうが都合がよいのであって、その催眠的な支配を脱するには個に目覚めた者の熾烈な格闘が必要であるという見方の点で、この映画に盛り込まれた人間観・世界観はグルジエフの思想に近い。

「良心」[編集]

「良心という概念と道徳という概念は、互いにまったく無関係だ。良心とは、普遍的かつ不変のものだ。それはすべての人間のなかで同一だが、緩衝器[自分をありのままに見ることを妨げるもの]がなくなってはじめて、それを感じられる。さまざまな種類の人間についてあなたが理解できるよう、ここで言うのだが、内側に何の矛盾もない人間にとっての良心というものがある。そのような人間にとって、良心は苦しみではない。それどころか、それは、われわれには理解できない、完全に新しい質を帯びた喜びだ。だが、数千もの小さな「私」からなる人間にとっては、良心の一瞬の目覚めさえ、苦しみをもたらさずにはいない。だが、そうした良心の目覚めの瞬間がだんだんに長くなり、そして当人がそれを恐れるのではなく、むしろ歓迎し、それらの瞬間を長引かせようとするなら、微妙な喜びの質が、それらの瞬間に宿されていく。それは、未来に得られるかもしれない、曇りなき良心の先触れだ。」

※出典:グルジェフ『注目すべき人人との出会い』第八章(電子版著作集より

「自分を覚えていること」[編集]

「これはいわゆる自覚ある状態。人が主体としての自分と機械としての自分の両方を意識している状態である。われわれは瞬間的にならこのような状態を体験するが、それは一瞬しか続かない。自分がしていることを意識するのに加え、それをしている自分を意識する瞬間である。「私はここにいる」という認識において、「私」と「ここ」の両方を意識する、あるいは怒りのなかにあって、怒りそのものと、その怒りのなかにある私の両方を意識している、というようなことである。これを「自分を覚えている状態」とか呼びたいなら、そう呼んでもよろしい。」

※出典:グルジェフ講話録(一九二一年ロンドン)(電子版講話録より

「自己想起」の独自の解釈を中心に据えたウスペンスキーの教えをグルジエフは支持していない。

「イギリスの首都に暮らす者たち[ウスペンスキーとその生徒たち]の場合、これがいわば『イングリッシュ魂』にぐっときたと見えて、私の提示した理論体系を要約する例の言葉、つまり必要に迫られて私も使わざるをえなかった『自己想起』という言葉に『クレージー』になり、これを自分たちの固定観念とするに至った。」

※出典:グルジェフ『生は≪私が在る≫ときにのみリアルである』(電子版著作集より

宇宙論のあらまし[編集]

万物を貫く二つの流れ(インヴォルーションとエヴォルーション)の間でのダイナミズムによって維持される宇宙(大宇宙から小宇宙まであらゆる規模の宇宙)のヴィジョンをグルジエフは提示し、そのなかでの全体と個との関わり、地球上の人類が置かれたとくに不利な立場、個人に残された進化の可能性を論じた。宇宙規模でのエネルギー収支を意識したエコロジー的な視点がとられているが、人類が自分たちの福利のために自然界の生態系について考えるというのではなく、宇宙規模または惑星規模のエコロジー的な利害に従属して生かされる人類の悲劇に目を向けるところが、多くの人を驚かせるところである。

生まれてきたことの意味に疑いをさしはさむようなこの視点は、一部のグノーシス思想に見られるものではあるものの、多くの人にとって意外かつ呑み込みがたいものであるうえ、しかも古い邦訳では、インヴォルーションとエヴォルーションという特別に厄介な用語の扱いに問題があることから、グルジエフの宇宙論は、とくに日本では実際以上に難解なものと見なされてきたきらいがある

グルジエフはこの両方向での流れを支配する法則として、「三の法則」(肯定・否定・和解もしくは能動・受動・中和の原理)ならびに「七の法則」(オクターブの法則/現象の展開における不連続性の法則)を論じた。エニアグラムは、この二つの法則の間での結び付きと、それによって可能となる調和的発展や宇宙的協和の可能性を表す。現象の展開における不連続性(非線形性)、複雑な相互作用によって存続を維持される生命系、全体と個との間での関わり合いに関する洞察は、現代の複雑系研究の先触れと見なすことができる。

「宇宙のあらゆるものには物性があり、宇宙の法則に従って、すべては動きのなかにあり、つねにそのありかたを変えている。こうした変化の方向は二通りである。もっとも精妙なものからもっとも粗雑のものへというのが一つの方向、逆にもっとも粗雑なものからもっとも精妙なものへというのがもう一つの方向である。 この二極の間で、物質はいろいろな密度[density:物性もしくは粗雑さの度合い]をもつ。また、この二極の間での密度の増減は、均等の速度で連続的あるいは継続的に進行するのではない。

この展開の過程における特定の位置に停止点もしくは中継局のようなものがある。とても広い意味での有機系(太陽、地球、人類、微生物など)がこうした中継局を形成する。これらの中継局は、上から下への流れ(すなわち精妙なものが粗雑なものに変わりゆく過程)でも、上から下への流れ(すなわち粗雑なものが精妙なものに変わりゆく過程)でも、変換器としての役割を果たす。これらによる[物質の]変換は完全に自動的に進行する。

宇宙のどこでも物質は物質だが、階層に応じて密度が異なる。したがって、個々の物質には、物性の尺度[密度に応じたスペクトル]の上で所定の位置がある。また、個々の物質は、精妙さを増していく流れのなかにあるか、それとも粗雑さを増していく流れのなかにあるかのどちらかであって、この点においても区別される。

変換器の規模はいろいろだが、働きは同じである。個々の人間も地球や太陽と同様に一種の送信機であり、その内部では地球や太陽におけるの同様の機械的な諸過程が進行する。すなわち個々の人間の内部にも、高次の物質が低次の物質に変わりゆく流れと、低次の物質が高次の物質に変わりゆく流れがある。

この二方向への物質の変成の流れを、回帰的進化[evolution:下から上への被造物の回帰の流れに沿った物質の変成]および進展的退化[involution:上から下への創造の進展の流れに沿った物質の変成]と呼ぶ。これは絶対的な精妙さから絶対的な粗雑さへ、およびその逆に絶対的な粗雑さから絶対的な精妙さへという本流に沿って進行するほか、そこから分岐した支流として、あらゆる中継局で、そしてあらゆるレベルで進行する。

なんらかの独立体がみずからの必要なものを摂取するとき、摂取された物質はその独立体の内部で回帰的進化または進展的退化の過程をたどる。ありとあらゆるものはなんらかのものを外部から摂取する、すなわちなんらかのものを食べる。そしてみずからも、なんらかのものに食べられる。これを相互給餌と呼ぶ。この相互給餌は、有機物と無機物の両方を含めた万物の間で進行する。」

※出典:グルジェフ講話録(一九一八エッセントゥキ)(電子版講話録より

人類の従属的な役割/全体的進化の不可能性と個人の立場[編集]

「人類全体は進歩も進化もしない。進歩または進化と見えるのは、たんなる部分的な改変で、その裏で起きる逆方向への改変によってすぐにでも帳消しとなりうる。人類は、他の姿をした有機的生命と同じく、地球の必要と目的を満たすべく地球上に生まれてくる。まさに現時点における地球の必要を満たすべくである。[……]人間はその内側に進化の可能性を秘めている。だが、地球および惑星界の全体的な福利にとって、人類全体の進化、すなわちあらゆる人間、大多数の人間、あるいは多くの人間がこの可能性を発展させるのは無用どころか、有害で致命的ということもありうる。したがって、人類の多数が進化することを妨げ、人類を現在のレベルに留めておくため、(惑星レベルで)特殊な力が作用している。[……]

これを理解しなければならない。あなたはあなた自身のためにだけ、あなた自身の成長を必要とする。他人にとってはどうでもよいことだ。だれにもあなたを助ける義務はない。だれもあなたを助ける気などない。そのうえ、人がおおぜい進化することを阻止する力は、個人の進化も阻止しようとする。人は狡猾にもその力を出し抜いて進化を求めなければならない。」

※出典:P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第三章(電子版講話録より

「ワーク」[編集]

グルジェフがしばしば使ったwork on oneself(自分を相手にした取り組み)という表現に由来するが、the workというのは、グルジェフ自身というより、一部の生徒たちが好んで使った言葉のようで、グルジエフの著作では、「いわゆる『ワーク』」というように、カッコ付きで使われている。

グルジエフによる用例

「彼女は心からの意欲をもって彼女自身を相手にした取り組み[work on herself]を始め、彼女に一回でも会った者はみな、彼女からこの取り組みの成果を感じることができた。」

「私といっしょに来た者たちがいわゆる『ワーク』を続けられるよう……大きなアパートメントを借りた。」

※出典:グルジエフ『注目すべき人々との出会い』(電子版著作集より

グルジエフの音楽と舞踏[編集]

グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマン(1885-1956)との共作で数々のピアノ曲を残した。ハートマンの手記によると、グルジエフはピアノを一本指で弾くことで、あるいは口笛によって旋律を指示し、ハートマンがそれを展開させていくと、さらにグルジエフが新しいパートを加えるなどして、曲が生み出されていった。

これらの曲は作風の違いからいくつかに大別され、全集の多くでは、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)などのタイトルを使用している。

ハートマンとの共作以外にも、グルジエフ自身の演奏の録音が残されており、公開されているものもある。

グルジエフが教えた数々の舞踏や体操は「ムーヴメンツ」と総称され、200余りの作品が現在まで伝えられているという。グルジエフの自伝的著作に基づく映画『注目すべき人々との出会い』の最後に映像が収められている。

伝承の系譜とワークのグループ[編集]

グルジエフはその著書で、「ワーク」として知られる取り組みを主導するに至った主要な動機のひとつとして、戦争・動乱・革命などの現場で目の当たりにした異常な集団心理や人類の集合的な病からの解放に向けての取り組みの必要性に関する自覚を挙げている。

これは個としての目覚めに向けての取り組みでありながら、グルジエフは、集合的な自動性に対抗するうえでの個人の無力さを指摘し、共同の取り組みの必要性を強調した。

グルジエフは、学院におけるコミューン的な状況のなかでの活動に終止符を打った後も、アメリカとフランスで複数のグループの指導にあたった。1940年代になると、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小規模なグループでのワークを指導するようになり、これは第二次大戦中を通じて継続された。そして戦後には、英米からの多くの元弟子や新しい生徒を迎え入れたが、みずからの死後のためにひとつにまとまった組織を用意することはなかった。

グルジエフの死後、パリのグループでグルジエフを補佐してきたジャンヌ・ド・ザルツマン(1889-1990)がグルジエフ後期のワークを引き継ぐかたちとなり、彼女の親族や支持者が中心となって、グルジエフ・ファウンデーション/ソサエティなどの団体が結成され、世界各地で小グループの定期的な集まりを中心とする活動を主導するようになった。

また、戦後に大勢の生徒を連れてグルジエフのもとを訪れていたJ・G・ベネット(1897-1974)は、1920年代の初頭におけるグルジエフの活動にならって、コミューン的な環境でのワークを追求し、まずはイギリス、のちにアメリカに学院を設けた。

ザルツマンとベネットは初期において協力を模索したが、やがて方向性の違いが際立つようになった。また、グルジエフから直接に学んだ人たちの周辺に生まれたグループはこれに限られず、ウスペンスキーほかグルジエフから離反した人たちの周辺に生まれたグループもあり、さらにはグルジエフと血のつながりのある人たちの間での複雑な関係も絡んで、「正統性」をめぐる議論が白熱するに至った。

いわゆる「教えの継承」をめぐるグルジエフみずからの見解は、その主著である『ベルゼバブ』の第四十四章からうかがうことができ、それは一般に「正統性」として語られる上から下への流れを不可欠のものと見なしながらも、これはそれ自体としては退化性の流れであり、それに対立する流れとの接触と摩擦があってはじめて、それは創造的な役割を果たしうることを告げている。

著書と関連書籍[編集]

著書

以下のうち(1)から(3)はAll and Everythingと題された著作三部作を為しており、グルジエフはこれらは必ず順番どおりに読むように求めた。もともとロシア語とアルメニア語で書かれたものを生徒たちが英語に翻訳した。

(1) Gurdjieff: Beelzebub’s Tale to His Grandson

グルジエフの主著で原書で千ページを越える超大作。グルジエフはまずこれから読むように強く求めた。若き日の反逆ゆえに宇宙の中央を追放されて惑星地球にやってきた主人公ベルゼバブが宇宙船カルナークのなかで孫に語る人間に関する壮大な物語。宇宙、人間、歴史、文明、芸術、宗教、教育などをめぐるグルジエフの見解が総合的に反映されている。英語版も日本語版も翻訳が二種類ある。

  • グルジエフ『ベルゼバブの孫への話 - 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語 - 人間の生に対する客観的で公正な批判』 郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(2) Gurdjieff: Meetings with Remarkable Men

自伝的体裁の著作だが、「竹馬に乗って砂嵐のなかを旅する」など、あからさまに実話ではないストーリーも含まれていて、ノンフィクションとはなっていない。父、少年時代の師、青年時代に探求の旅を共にした「真理の探求者」のグループの仲間たちなどを章ごとに取り上げ、彼らの人生の軌跡や彼らと共にした東洋の辺境をめぐる旅などについて語る。最終章「物質的問題について」は、カネをめぐるグルジエフの奇想天外な立ち回りや壮絶な闘いの記録となっている。電子版の新訳は、原書の段階から表記などに細かい誤りが多かった地名や人物名や民族・歴史的事項を再調査のうえ、脚注と地図リンクを付与したものである。

  • グルジエフ『注目すべき人々との出会い』 星川淳訳、めるくまーる
  • グルジエフ『注目すべき人々との出会い』(脚注・地図リンク付き新訳版) 郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(3) Gurdjieff: Life Is Real Only Then, When ‘I Am’

グルジエフはこの第三集で最終的な知識の開示を計画していたが途中で執筆を断念する。現在はその未完の状態のままに出版されている。

  • グルジエフ『生は<私が存在し>て初めて真実となる』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『生は<私が存る>ときにのみリアルである』郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(4) Gurdjieff, Struggle of the Magicians(バレエ劇の台本)

  • グルジエフ『魔術師たちの闘争』郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(5) Gurdjieff, The Herald of Coming Good

  • グルジエフ『来たるべき善きものの先触れ』郷尚文訳、電子書籍:Amazon

1924年の自動車事故後の活動の再開および著作の出版の先触れとして1933年に配布された小冊子。非常に長いセンテンスのほか、元生徒らや精神世界に関心を寄せる人たちへの批判的な言辞が多大な反発を招き、ウスペンスキーはこれを焚書にするなど、宣伝的な目的にとっては逆効果となった。のちにグルジエフは出版を取り消し、生徒たちにはこれを読まないように告げた。しかし、おそらくは『注目すべき人々との出会い』よりもありのままを語ったと思える興味深い自伝的記述などを含み、正直すぎる告白ゆえに人々の無理解のなか葬り去られた著作という側面もあり、コリン・ウィルソンほか、グルジエフの生涯や行動をめぐる謎の部分に関心を向ける研究者の注目を集めてきた。

講話と対話の記録(年代順)
  • グルジエフ『エニアグラム講義録』郷尚文訳、電子書籍:Amazon
  • グルジエフ『グルジエフ講話録 第一編 ロシア~コーカサス~ドイツ』[1915~1922/『奇跡を求めて』からの抜粋を含む]郷尚文訳、電子書籍:Amazon
  • グルジエフ『グルジエフ講話録 第二編 フランス』[1922~1923]郷尚文訳、電子書籍:Amazon
  • グルジエフ『グルジエフ弟子たちに語る』 前田樹子訳、めるくまーる[「垣間見た真理」+1917~1931の講話]
  • グルジエフ『ミーティングの記録』(1941〜1946)、郷尚文訳、電子書籍:Amazon

『エニアグラム講義録』は一九一五年ごろロシアでの講義の記録で、そのときグルジエフが示した図形なども収録されている。『ミーティングの記録』は、第二次大戦中、グルジエフのパリのアパルトマンで定期的に開かれていたミーティングでの質疑応答の記録。グルジエフの指示により、ジョークに至るまで克明に記録されたもの。

グルジエフの講話の内容を主体とする記録:
  • * 『垣間見た真理』(1914年/モスクワのグループメンバーによる手記)郷尚文訳、電子書籍:Amazon
  • P. D.ウスペンスキー 『奇蹟を求めて』 浅井雅志訳、平河出版社
弟子たちの手記
  • トーマス&オルガ・ド・ハートマン『グルジエフと共に』前田樹子訳、めるくまーる
  • フリッツ・ピータース『魁偉の残像』前田樹子訳、めるくまーる
伝記
  • ジェイムズ・ムア『グルジエフ伝神話の解剖』 浅井雅志訳、平河出版社
小説
関連書籍
  • 郷尚文『覚醒の舞踏グルジエフ・ムーヴメンツ創造と進化の図絵』単行本(市民出版社)
  • 前田樹子『エニアグラム進化論』 春秋社

音楽および映像作品[編集]

ピアノ曲のシリーズ
  • The Music of Gurdjieff/de Hartmann (3 CD), Piano by Thomas de Hartmann、G-H Record
  • Gurdjieff/de Hartmann Music for the Piano (Vol. 1-4), Piano by Laurence Rosental, etc., VERGO
  • The Music of Gurdjieff and de Hartmann (Vol. 1-12), Piano by Alain Kremski, Naive
  • The Complete Piano Music of Georges I. Gurdjieff and Thomas de Hartmann (Volumes 1-3), Piano by Cecil Lytle, Celestial Harmonies
  • Music for Movements, Piano by Wim van Dullemen, Channel Cl.
オーケストラ作品
  • Oriental Suites, Basta Music(パリとニューヨークでのムーヴメンツ公演に使われた音楽のオーケストラによる再現)
アルメニアの音楽家たちによるグルジエフ/ハートマン作品のアレンジ(古楽器によるアンサンブル)
  • Music of Georges I. Gurdjief by Levon Eskenian & Gurdjieff Folk Instrument Ensemble (2011, ECM)
グルジエフによるハーモニウム演奏
  • Harmonic Development, Basta Music(グルジエフ自身によるハーモニウムの演奏の録音)
グルジエフの自伝的著作の映画化作品
  • 『注目すべき人々との出会い』(監修ジャンヌ・ド・ザルツマン、監督ピーター・ブルック)(DVD発行:ブロードウェイ株式会社)[原作に忠実な作品ではなく批判も多い。『グルジエフ伝』の作者ジェイムス・ムアの回想録Gurdjieffian Confessions: A Self Rememberedが背景を明かしている。映画に対する強い批判を含むが、監督ピーター・ブルックは同書の出版を支持する声明を発表した。]
他の映像作品
  • In Search of the Miraculous - Fragments of Unknown Teaching(監督Zyko Nikolic)。歴史的映像と実写を組み合わせてウスペンスキー『奇跡を求めて』の一部を原作に忠実に再現したビデオ作品。45分、英語。
  • ほかにもアーカイブ映像を織り込んでグルジエフの生涯を扱ったビデオなどがYouTubeで公開されている。1920年代に撮影されたムーヴメンツの映像の断片、晩年のグルジエフの映像などを見ることができる。

関連項目[編集]

グルジエフに由来する事項[編集]

科学の分野で関連する事項[編集]

地理的/文化的背景[編集]

歴史的背景[編集]

グルジエフのもとで直接に学んだ人たち[編集]

ロシア時代より:

フランス:

パリに暮らしたアメリカ人の女流作家:

アメリカ:

イギリス:

脚注[編集]

  1. ^ Moore, J. Gurdjieff: The Anatomy of a Myth. [ジェイムス・ムア『グルジエフ伝―神話の解剖』(平川出版社)]
  2. ^ Tcheshovitch, C. Tu L’aimeras: souvenirs sur Geogii Ivanovitch Gurdjieff[1990年代に遺稿が発見されたチェコヴィッチの回想録]
  3. ^ Gurdjieff, G. Meetings with Remarkable Men
  4. ^ Gurdjieff, G. The Herald of Coming Good[グルジエフ『来たるべき善きものの先触れ』]
  5. ^ Gurdjieff. G. Beelzebub’s Tales to His Grandson[グルジエフ『ベルベバグが孫に語った物語』]
  6. ^ Gurdjieff, G. Life is real only then when “I am”[グルジエフ『生は「私が在る」ときにのみリアルである』]
  7. ^ 上掲書
  8. ^ Ouspensky, P. D. In Search of the Miraculous
  9. ^ Tcheshovitch, C. Tu L’aimeras: souvenirs sur Geogii Ivanovitch Gurdjieff[チェコヴィッチの回想録]

外部リンク[編集]

グルジエフの著作・講話・音楽など
グルジエフ関連ホームページ(団体/グループの紹介を主目的とするものを除く)