マラズギルトの戦い

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マラズギルトの戦い
131 Bataille de Malazgirt.jpg
戦争セルジューク・東ローマ戦争
年月日1071年8月26日
場所マラズギルト英語版
結果セルジューク朝の勝利
交戦勢力
セルジューク朝 Flag of Palaeologus Emperor.svg東ローマ帝国
指導者・指揮官
アルプ・アルスラーン Flag of Palaeologus Emperor.svgロマノス4世ディオゲネス
戦力
30000 70000
損害
不明 ~2,000[1] – 8,000人[2]が死亡(スカンジナビア人、アングロサクソン人の傭兵を含むヴァラング隊のすべてと皇帝に忠誠をつくしたトルコ人傭兵2,000人を含む)。
~4,000人が捕虜に[1]
(半数以上が逃走。おもに戦闘の継続を拒否したフランク人、ノルマン人傭兵)。

マラズギルトの戦い(マラズギルトのたたかい、トルコ語:Malazgirt Savaşı、ギリシア語: Μάχη του Μαντζικέρτ Mache tou Manzikert)は、1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国セルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。

戦闘が行われた地名について、東ローマのギリシア語文献はアルメニア語の「マンツィケルト」(Mantzikert)[3]を転写した「マンツィケルト」(Μαντζικέρτ, Mantzikert)なる表記で記している。一方、セルジューク朝関連のペルシア語文献では「マラーズギルド」( ملازكرد Malāzgird)或いは「マナーズギルド」( منازكرد Manāzgird)などの表記を採り、アラビア語文献では「マナーズジルド」( منازجرد Manāzjird)などとも記されている。

戦闘の主力は職業軍人である東西のタグマとそれより多い傭兵に頼っていた。アナトリアの徴募兵は早々と戦闘から遁走し生き残った。[4]

マラズギルトの戦いの敗北は、東ローマ帝国にとって破滅的なもので、帝国の通常の国境防衛能力を弱体化させる内戦と経済的危機を引き起こした。 [5] これは中央アナトリアに大量のトルコ系移民を招き、1080年までに30,000平方マイル (78,000 km2)がセルジューク朝によって獲得された。アレクシオス1世コムネノス (1081年-1118年)が帝国の安定性を回復させるのはこの戦い以後の30年に渡る内戦の後である。歴史家のThomas Asbridgeは「1071年に、セルジューク朝は帝国軍をマラズギルトの戦いで撃破し、歴史家たちはまだこれをギリシャ人にとっての完全なる逆転劇と考えていないが、鋭い挫折であった」[6]

背景[編集]

1038年に、ニーシャープールエスファハーンを拠点としてホラーサーン以西のイラン全土を支配下に置いたトゥグリル・ベクは、麾下のオグズテュルクメン)系テュルク遊牧民の軍勢を率いてアッバース朝の首都バグダードに入城し、トゥグリルはカリフカーイムからスルターンの称号を正式に許可され、セルジューク朝が開基されると、その勢力は西方のアゼルバイジャンシリア方面にのびていった。第2代スルターンとなったアルプ・アルスラーンの頃にはグルジアファーティマ朝治下のシリアに進出。さらにアルメニアに食指を動かした。 これが、東ローマ帝国との対立を生ずることになり、この戦いにいたった。

東ローマ帝国は中世には強大な勢力を誇っていたにもかかわらず、[7] 帝国は軍事的に無能な皇帝、コンスタンティヌス9世コンスタンティノス10世の治世の下で衰退をはじめ、イサキオス1世コムネノスの2年の短期間の軍事改革がかろうじて帝国軍の崩壊を先延ばしにしていた。[8] 東ローマ帝国が大セルジューク朝と接触を持ったのはコンスタンティノス9世の時代であり、アルメニアのアニであった。しかしコンスタンティノス9世はビザンツ帝国とセルジューク朝との間に和議を結んだ。この和議は1064年にセルジューク朝がアルメニアの首都アニを征服するまで続いた。 [7]コンスタンティノス10世は前任者にたいして多くの不名誉を犯した。1067年にはアルメニアは、カエサリアに続いて、セルジューク朝によって奪われた。[9]

1068年ロマノス4世は権力を握ると短期間にわずかの軍事改革ののち、甥のマヌエル・コムネノス(皇帝イサキオス1世コムネノスの甥)にシリアのヒエロポリス攻略の許可を与え、対セルジューク朝遠征にために軍を率いることをゆだねた。 ビザンツ帝国のシリアでの反撃が成功すると、トルコのイコニウム攻撃は阻止された。 [10] しかし、マヌエルが敗れ、セルジューク朝の捕虜になると遠征は大失敗に終わった。 ビザンツ帝国の遠征の失敗にもかかわらず、アルプ・アルスラーンはすぐに東ローマ帝国と和平を模索し始めた。彼はエジプトファーティマ朝を主要な敵とみなしており、東ローマ帝国との無用な戦闘にかかわりたくはなかった。[2] それゆえ1069年に東ローマ帝国とセルジューク朝との間に平和条約が締結された。

1071年2月、ロマノスは1069年の条約更新のためにアルプ・アルスラーンに大使を派遣した。ロマノスの使節はエデッサの外のスルタンに到着したが、そこは彼が籠城しているところであった。ビザンツに対して北方のわきの安全を確保するために、アルプ・アルスラーンは幸いにもこの条件に同意した。 [2]包囲が解けると、彼はすぐに軍を率いてアレッポのファーティマ朝の軍を攻撃した。しかし平和条約の更新の申し出は実は、ロマノスの計画の鍵であった。ロマノスが大軍を率いて、アルメニアに攻め込み、スルタンがそれに応戦する前に、失陥した要塞を回復するのに十分な時間スルタンから注意をそらすための鍵であった。[2]

戦闘準備[編集]

セルジューク朝のアルプ・アルスラーン

ロマノスに同行したアンドレニコス・ドゥーカスは摂政であり直接の政敵でもあった。軍は5,000の西方の属州からのローマの職業軍人ともしかしたら同数の東方の属州からの軍勢、すなわちルーセル・ド・バイユール指揮下の500人のフランク人ノルマン人傭兵に、アンティオキア公指揮下のトルコ人(オグズ族ペチェネグ族)とブルガール人の傭兵からなる歩兵とたまたま参加したグルジアとアルメニアの軍勢とヴァラング隊の軍勢から構成されおりこれは全部で4万から7万であった。 [1][11] ローマの属州(テマ)の軍の量はロマノスが継承する前年までに減少してきた。中央政府が財力を、帝国内の党派争いに関与させやすい傭兵の徴募に流用していたのだ。 傭兵が使用されたときでさえ、彼らはのちにカネの節約のために解散させられた。

小アジアを横断する進軍は長く困難なものであり、ロマノスは豪華な荷物を持ってくることで軍を手なずけていた。ローマの住民はまたロマノス軍のフランク人傭兵の略奪に苦しんでいた。彼は解任されることを余儀なくされた。 1071年、6月にテオドシオポリス(いまのエルズルム)に到達した遠征軍はハリュス川セバスティアで最初の休息を取った。そこでは将軍のなかには進軍を続けて、セルジューク朝の領内に侵入し、アルプ・アルスラーンが陣容を整える前にこれをとらえてしまうことを示唆するものがいた。ニケフォロス・ブリュエンニオスを含む他の将軍にはここで休み、その陣地を強化することを示唆するものもいた。最終的には進軍の継続が決定した。

アルプ・アルスラーンは遠くにいるか全く来ないかのどちらかだと考え、ロマノスはヴァン湖まで進軍し、可能ならヒラート要塞より近い、マラズギルトの奪還を期待していた。 ところが、アルプ・アルスラーンは実際にはこの領域に3万のアレッポとモスルからの騎兵とともにいたのである。アルプ・アルスラーンの斥候はロマノスの居場所を正確に知っていた。その間ロマノスは敵の動きを知らなかった。

ロマノスは将軍のイオセフ・タルカネイオテスにローマ軍とヴァラング隊と従軍しているペチェネグ族とフランク族の軍勢にヒラート要塞をとるように命令し、その間ロマノスと残る軍勢はマラズギルトを目指して進軍した。この軍の分割で両軍の数は2万人ほどになった。イオセフス・タルカネイオテスと彼とともに分割された軍に何が起きたかはわからない。イスラームによるとこの軍はアルプ・アルスラーンによって壊滅させられたと。しかしロマノス側の記録では出会いは平穏なままだと残っている。一方で東ローマの史家のミカエル・アタラレイアテスはローマ軍の評判を考えるとありそうにないことだがタルカネイオテスがセルジューク朝の光景を見て逃げたと示唆している。いずれにせよ、ロマノスの軍は当初の4万から7万のから半分以下に減少した。 [1][11]

戦闘[編集]

1071年のビザンツ帝国とセルジューク朝の戦い。ビザンツ帝国 (藤色)、ビザンツの攻撃(赤)。セルジューク朝(緑)セルジューク朝の攻撃(緑)

ロマノスはタルカネイオテス軍の失踪を知らず、マラズギルトへの行軍を続け、彼は8月23日にこれをやすやすと攻略した。セルジューク朝は弓隊による激しい侵攻で応じた。[11] 翌日、ブリュエンニノス 指揮下の狩猟採集隊がセルジューク軍を発見し、マラズギルトから撤退を強いられた。アルメニアの将軍バシラケスとともに出陣した。ロマノスこれはアルプ・アルスラーン軍全部だとは信じなかったので騎兵隊は全滅し、バシラケスは捕虜となった。ロマノスは軍を率いて、陣を布いた。左翼にはブリュエンニノスを配した・彼はすぐにトルコ軍に包囲され、またもや撤退を強いられた。ロマノスには反撃できないようにしつつ、セルジューク軍は夜間に近くの丘に隠れた。 [10][12]

Having made peace talks with the Byzantines the Seljuk army intended to attack Egypt when Alparslan learned of the Byzantine advance in Aleppo. The Seljuks returned northeast and met the Byzantines north of Lake Van.

8月25日にロマノスのトルコ人傭兵の中に、セルジューク軍のなかの親戚に接触しようとしたものが現れ脱走した。ロマノスはセルジューク側の和議の使者を拒絶した。彼は東方面の問題とトルコの絶え間ない侵入を決定的な軍事的勝利によって解決したかったし、もう一つの軍の引き上げることは困難で高い代償になると理解していた。皇帝はタルカネイオテスを呼び戻そうとしていたが、彼はもはやここにはいなかった。その日は交戦の日ではなかったが、8月26日は東ローマ軍は独自の戦闘態勢に終結し、トルコ陣営に進撃した。左翼はBryennios指揮下であり、右翼はw:Theodore Alyates指揮下であり、中央を皇帝が指揮していた。 そのとき、トルコ兵がアルプ・アルスラーンに言った「陛下、敵は近づいております」と。アルプ・アルスラーンは「我らもまた彼らに近づいている」と言ったといわれる。後方で愚かな間違いを犯したアンドロニコス・ドゥーカスは予備兵を率いていた。彼がドゥーカス家の忠臣だと考えるとである。セルジューク軍は4キロほどの幅の三日月形の態勢に軍を組織した。 [13] セルジューク軍の弓隊が東ローマ軍に近づきながら攻撃をした。三日月の中央は絶えず後方へと引き下がって行った。その間、三日月の両翼が東ローマ軍を包囲するように移動した。

東ローマ軍は弓矢の攻撃が遅れ、午後の終わりまでにアルプ・アルスラーンの本陣を占拠した。だが個々の部隊がセルジューク軍に激戦を挑もうとしたときには左右両翼は、弓隊が殲滅され、ほぼ壊乱した。セルジューク軍の騎兵隊はこのとき、草原の戦士の古典的な一撃離脱戦法を行うのを止めにした。 セルジューク軍の戦闘回避によって、ロマノスは夜になるまでに撤退命令を出すのを余儀なくされた。しかし右翼が命令を誤解した。ロマノスの政敵のドゥーカスは意図的に皇帝を無視しマラズギルトの外の陣に帰り、皇帝の撤退をふさいだ。東ローマ軍は完全に混乱し、セルジューク軍は好機を得、攻撃をした。 [10] 東ローマの右翼はすぐに敗走させられ、内部のトルコ救援兵に裏切られた。ノルマン傭兵は戦うことをあからさまに拒否し、騎兵からなるトルコ傭兵は戦い前夜にセルジューク軍に合流した。それらはロマノス軍に不安を引き起こした。ブリエンニノス指揮下の左翼はわずかながら維持されていたが、それでもこちらもすぐに敗走した。 [4] 皇帝とw:Varangian Guardを含む、東ローマ軍の中央の残党はセルジューク軍に取り囲まれた。ロマノスは負傷し、セルジューク軍の捕虜となった。 生存者は野戦から逃げ、夜間に追われたが、それ以上はわからないものが多く、東ローマ軍の中核の職業軍人らは壊滅し、その一方で農民軍や賦役軍の多くはアンドロニコスの指揮下で逃走した。 [4]

捕虜となった皇帝[編集]

ロマノス帝を辱めるアルプ・アルスラーン。ボッカチオの『著名人の運命(w:De Casibus Virorum Illustrium)』の写本の挿絵(15世紀フランス)より。

ロマノス4世がアルプ・アルスラーンに面会した時、アルプ・アルスラーンはほこりにまみれたぼろぼろの血まみれの男が全能のローマ皇帝だとは信じられなかった。敗残の男がローマ皇帝だとわかると彼は皇帝の首を靴で踏みつけ、彼に地面に口づけを強要し[4]、歴史上有名な会話が交わされた。[14]

アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」
ロマノス「たぶん、貴殿を殺すか、首都コンスタンティノポリスの街頭でさらし者にするだろう」
アルプ・アルスラーン「私の罰は、それよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にする」

アルプ・アルスラーンはロマノスを丁重に遇した。[15]そして、戦闘前に提案した和議の条件を再び提案した。

ロマノスは1週間、捕虜として抑留された。この時、スルタンは皇帝にテーブルでの食事を許可している。一方で譲歩は同意された。アナトリアの周辺部のアンティオキアエデッサヒエロポリスとマラズギルトはセルジューク朝に割譲された。一方、手つかずのアナトリアの重要な中心が東ローマ帝国に残されることになる[5]。スルタンからから1000万枚の金貨の支払いがロマノスの身代金として要求され、これはロマノスに高すぎるとみなされ、アルプ・アルスラーンはかわりに150万枚の金貨を頭金にし、毎年36万枚の金貨を支払いを求めることで当座の費用を減額した。[5]さらに、政略結婚がアルプ・アルスラーンに息子とロマノスの娘の間でなされることになった。[2]アルプ・アルスラーンはロマノスに多くの贈答品と二人のアミールと100人のマムルークの護衛をコンスタンティノポリスまでの道中につけた。

彼の帰還後、ロマノスはその統治が深刻な問題にあることが分かった。彼は忠実な軍の育成を試みたにもかかわらず、彼はドゥーカス家との3度の戦いに敗れ、失脚させられ。目をつぶされ、プロティ島に追放された。ほどなく、彼は残忍な目つぶしが原因の感染症がもとで死去した。ロマノスの、彼が守ろうと奮戦したアナトリアの中心地の最期の時は、つぶれた顔でロバに乗っての恥辱であった。[5]

結果[編集]

The Turks did not move into Anatolia until after Alp Arslan’s death in 1072.

東ローマ帝国のアナトリアでの影響力が低下し、アルプ・アルスラーンによるダーニシュマンド朝などのセルジューク系のオグズ・テュルクメン諸侯勢力の入植によって、アナトリアのイスラーム化とテュルク系民族の進出の端緒となり、ルーム・セルジューク朝、さらに後々のオスマン帝国の勃興、東ローマ帝国の滅亡へと繋がる遠因ともなった。また、セルジューク朝の脅威にさらされることになった東ローマ帝国は、西ヨーロッパに救援を要請し、これが十字軍となった。

東ローマ帝国にとって長期にわたる、戦略的な破局にもかかわらず、マラズギルトは決して初期の歴史家が推定したような虐殺ではなかった。 現代の学者は東ローマ側の損失を相対的に少ないものだと見積もっていて、 [16][17] 多くの部隊が戦いでそのまま生き残り、数か月以内によそで戦っていたと見做している。東ローマの戦争捕虜は後に解放された。[17]たしかに東ローマ側の多くの司令官 (ドゥーカス、タルカンネイオテス、ビリュエンニオス、ルーセル・ド・バイユールとその上に君臨する皇帝)は生き残り、のちの歴史的な事件の登場している。[18] この戦いは直接的に東ローマ帝国とセルジューク朝のパワーバランスを変えなかった。しかしこれに続く東ローマ帝国の内戦はセルジューク朝にとっては大きな利益をもたらした。 [17]

ドゥーカスは無傷で逃走しすぐに首都コンスタンティノポリスに帰還し、そこでロマノスにたいして反乱を起こし「皇帝(バシレイオス)」ミカエル7世ドゥーカスを即位させた。 [5] ブリエンニノスもまたそ敗走にさしてはわずかしか兵力を失わなかった。セルジューク軍は逃走する東ローマ軍を追撃しなかったし、この時点ではマラズギルトを再占拠しなかった。東ローマ軍は再編成しw:Dokeiaに進軍した。そこで彼らは1週間後に解放されるロマノスと合流した。最も深刻な物質的な損失は皇帝の豪華な手荷物のようであった

惨敗の結果は、簡単に言うと、東ローマ帝国のアナトリアの中心地の喪失である。w:John Julius Norwichは彼の「ビザンツ帝国三部作」の中でこの敗北は「残る地域が陥落する前に数世紀も維持されたにもかかわず、帝国の死の一撃であった。アナトリアのテマは文字通り帝国の心臓部であり、マラズギルトの戦い後の数十年内にこの地域は失われた」

彼は小さな著作「ビザンチン小史("A Short History of Byzantium")」でNorwichはこの戦いを東ローマ帝国、建国の700年にして建国から滅亡まで1000年の歴史の半分を迎えるまでに被った最大の災厄と表現している。 [19] スティーヴン・ランシマンは『十字軍の歴史』の第1巻の第5章に「マラズギルトの戦いは東ローマ帝国の歴史上、最も決定的な災厄であった。帝国それ自身に幻想はもうない。たびたび歴史家はこの戦いを恐るべき日だと言及している」と記している。 アンナ・コムネナは実際の戦いののち数十年後にこう書いている、

…ローマ帝国の運命は、引き潮の極みに至った。東方から軍は四方八方に散らばったために、トルコは版図を拡大し、黒海とヘレスポントエーゲ海とシリアの海[地中海], とパンフィリアキリキアに洗われるさまざまな湾とそれ自身は何もないエジプトの海[地中海]の諸国の支配権を獲得した。[20]

数年、数十年後、マラズギルトの戦いは帝国の災厄としてみなされるようになった。ゆえに後世の記録は軍の人数と死傷者の数を誇張した。東ローマ帝国の歴史家は頻繁に振り返っては、この日の「災厄」を慨嘆し、帝国の衰退が始めるにつれそれを指摘するようなった。 それはすぐの災厄ではなく、この敗北がセルジューク朝に東ローマ帝国は無敵であり「難攻不落の千年帝国」(東ローマ帝国もセルジューク朝もそう呼んでいた)ではないことを見せつけることになった。

Settlements and regions affected during the first wave of Turkish invasions in Asia Minor (until 1204).

アンドロニコス・ドゥーカスの簒奪はまた、帝国を政治的に不安定にし、この戦い後のトルコ系の流入にたいする組織的な抵抗を困難にした。10年以内に、小アジアのほぼ全域にトルコ系であふれかえった。[19] その過程は「空白(であった)アナトリア中央平野が東ローマの有力者によって牧羊地に変わることによって」促進された。ついに皇帝らの陰謀と廃位、とくにロマノスのそれは恐ろしいものだが、はそれ以前に行われており、不安定化は数世紀にもわたり波紋を投げかけてきたことであった。

戦いのあとに続いたものは一連の歴史上の事件であり、それは帝国が没落していくものであり、戦いがまず関係しているものであった。それにはロマノスの悲惨な運命とルーセル・ド・バイユールがフランクとノルマンとゲルマンの傭兵3000人を用いて行ったガラティアに独立王国樹立の試みも含まれる。 [21]彼は反乱を鎮圧しようとした皇帝のおじのヨハネス・ドゥーカスを破り、首都にむけて進軍しコンスタンティノポリスとは海峡を挟んでアジア側のクリソポリス (ユスキュダル) を破壊した。ついに帝国は拡大しているセルジューク朝から ルーセル・ド・バイユールに鎮圧対象を変更した(セルジューク朝もそうした)。しかしトルコは彼の妻を人質に取っており、若き将軍アレクシオス・コムネノスが彼を追捕する前に、彼は捕縛された。 これら出来事は、みなトルコ系でいっぱいになる空白を相互作用で作り出した。ルーム・セルジューク朝1077年ニカイア(イズニク)に首都を遷した選択は、帝国の紛争が新たな好機をもたらすのではないかと見る、願望によって説明可能ではないだろうか。

後知恵に、東ローマと現代の歴史家の両方ともこの戦いを東ローマ帝国没落の運命の日だということで一致している。Paul K. Davisは「東ローマ帝国の敗北は、主たる兵力の徴発地であるアナトリアにたいする帝国の統制の消失により、帝国の力をひどく限定的なものにした。これよりイスラム教徒がこの地を統治するようになった。東ローマ帝国は直ちにコンスタンティノポリス周辺地域に限定され、帝国はふたたび強大な軍事勢力になることはなかった」。 [22] 後の十字軍の根本的な原因として、解釈された。その中で1095年の第一次十字軍は特にアナトリア喪失後の東ローマ帝国の西ヨーロッパに対する軍事的支援の要請の応答であった。 [23] 別の観点から、西ヨーロッパはマラズギルトの戦いを東ローマ帝国はもはや東方正教会の守護者たりえない、あるいは中東の聖地巡礼の守護者たりえないシグナルと見た。

Delbrückは戦いの重要性は誇張されてきた。しかし、この戦いの結果、帝国は以後長きにわたり野戦において軍を効果的に用いることができなかったのは、資料から明らかであると考えている。 [24]

ミュリオケファロンの戦いはまた、東ローマ帝国没落の重要な事件としてマラズギルトの戦いと比較される。[要出典] 二つの戦いは100年程の間があるが、高価な東ローマ軍はいっそう神出鬼没のセルジューク軍の待ち伏せにはめられたことに気づいた。しかしマヌエル1世コムネコスが戦後も権力を保持したせいでミュリオケファロンの戦いの重要性は当初は限定的なものであった。 ロマノスと同じとは言えない。ロマノスの敵は「勇敢で正しき人」に殉じ、結果「帝国は復活することはなくなった」 [21]

注釈[編集]

  1. ^ a b c d Haldon 2001, p. 180.
  2. ^ a b c d e Markham, Paul. “Battle of Manzikert: Military Disaster or Political Failure?”. 2008年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月26日閲覧。
  3. ^ 現在はアルメニア語で "Մանազկերտ" (: Manazkert)。
  4. ^ a b c d Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 240. ISBN 0-679-45088-2. 
  5. ^ a b c d e Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 241. ISBN 0-679-45088-2. 
  6. ^ Thomas S. Asbridge The Crusades (2010) p 27
  7. ^ a b Konstam, Angus (2004). The Crusades. London: Mercury Books. pp. 40. ISBN 0-8160-4919-X. 
  8. ^ Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 236. ISBN 0-679-45088-2. 
  9. ^ Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 237. ISBN 0-679-45088-2.  — "The fate of Caesarea was well known."
  10. ^ a b c Grant, R.G. (2005). Battle a Visual Journey Through 5000 Years of Combat. London: Dorling Kindersley. pp. 77. ISBN 1-74033-593-7. 
  11. ^ a b c Norwich 1991, p. 238.
  12. ^ Konstam, Angus (2004). The Crusades. London: Mercury Books. pp. 41. ISBN 0-8160-4919-X. 
  13. ^ Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 239. ISBN 0-679-45088-2. 
  14. ^ Peoples, R. Scott Crusade of Kings Wildside Press LLC, 2008. p. 13. ISBN 0-8095-7221-4, ISBN 978-0-8095-7221-2
  15. ^ Knight, Charles. The English cyclopædia Bradbury & Evans, 1857
  16. ^ Haldon, John (2000). Byzantium at War 600–1453. New York: Osprey. pp. 46. ISBN 0-415-96861-5. 
  17. ^ a b c Mikaberidze, Alexander (2011). Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia. ABC-CLIO. pp. 563. ISBN 1-59884-336-2. 
  18. ^ Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 240–3. ISBN 0-679-45088-2.  — Andronikus returned to the capital, Tarchaneiotes did not take part, Bryennios and all others, including Romanos, took part in the ensuing civil war.
  19. ^ a b Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 242. ISBN 0-679-45088-2. 
  20. ^ Medieval Sourcebook: Anna Comnena: The Alexiad: Book I”. 2008年9月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月26日閲覧。
  21. ^ a b Norwich, John Julius (1997). A Short History of Byzantium. New York: Vintage Books. pp. 243. ISBN 0-679-45088-2. 
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Further reading[編集]

  • Haldon, John (2001). The Byzantine Wars: Battles and Campaigns of the Byzantine Era. Stroud: Tempus. ISBN 0-7524-1795-9 
  • Treadgold, Warren (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford: Stanford University Press. ISBN 0-8047-2421-0 
  • Runciman, Steven (1951). A History of the Crusades. Vol. One. New York: Harper & Row. 
  • Norwich, John Julius (1991). Byzantium: The Apogee. London: Viking. ISBN 0-670-80252-2 
  • Carey, Brian Todd; Allfree, Joshua B. & Cairns, John (2006). Warfare in the Medieval World. Barnsley: Pen & Sword Books. ISBN 1-84415-339-8 
  • Konstam, Angus (2004). Historical Atlas of The Crusades. London: Mercury. ISBN 1-904668-00-3 
  • Madden, Thomas (2005). Crusades The Illustrated History. Ann Arbor, MI: The University of Michigan Press. ISBN 0-472-03127-9 
  • Konus, Fazli (2006). Selçuklular Bibliyografyası. Konya: Çizgi Kitabevi. ISBN 975-8867-88-1 

外部リンク[編集]

座標: 北緯39度08分41秒 東経42度32分21秒 / 北緯39.14472度 東経42.53917度 / 39.14472; 42.53917

関連項目[編集]