テマ制

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バシレイオス2世治下のテマ制(1025年)。「アルメニア」のように、現在の地域と呼称が一致しないテマがある。

テマ制(テマせい、ギリシャ語: θέματαThemata)とは、東ローマ帝国中期あるいはビザンツ帝国[注 1]の地方行政制度。日本語では軍管区制とも呼ばれる。なお、「テマ」という言葉は元々ギリシャ語で「軍団」を表す言葉であるため、ここで述べるテマ制が開始される前から存在するが、この記事とは異なった意味で使用されていることに注意する必要がある。また、中世ギリシャ語では「セマ」となる。

概説[編集]

テマ制とは、兵装を自前で用意できるストラティオスと呼ばれる自由農民を兵士として徴発して国土の防衛に当たるという兵農一致の制度である。自分の土地を守るために戦う兵士たちの士気は当然のことながら高かった。

かつてはテマ制はヘラクレイオス王朝統治下で計画的に導入されたとする見方が多かったが、現在では各地を防衛していた軍団が臨時に取った措置を帝国政府が追認したものではないかとする見解もある。いずれにせよ、未だに国際ビザンツ学会でも論争中であり、テマの起源については戦乱の時代で記録が少ないこともあって諸説あるのが現状である。10世紀の人々にとってもテマ制の起源は謎であったらしく、皇帝コンスタンティノス7世は『テマの起源について』という書を記し、解説を試みている。

テマ制は計画的に導入されたとする説[編集]

初期の東ローマ帝国の地方制度は古代ローマ以来の属州制度を継承していた。即ち、中央から派遣された属州総督が行政を担当し、国境線の防衛は軍司令官が担当するという、軍事と行政の分担制度である。

しかし、ヘラクレイオスの時代ともなると、ユスティニアヌス1世以来の相次ぐ戦役により国家財政は悪化し、サーサーン朝ペルシア帝国は辛うじて退けたものの、新たに勃興してきたイスラム帝国やバルカン半島のブルガール人の侵攻により毎年のように首都コンスタンティノポリスが脅かされるようになり、従来の中央集権型の地方制度では敵国の同時侵攻に対応しきれなくなっていた。そこで異民族の侵入に素早く対応できるようにするために、現地の防衛司令官(監督官、Catapan)が行政権を兼任するテマ(軍管区制)が導入された。

バルカン半島方面では自由農民の他にも勇猛さで知られたスラヴ人なども任用され、これも戦闘力の増強に一役買ったという。このストラティオティスは屯田兵でもあり、これらが各地に入植することで拠点を構築し、税収増や国防力強化へと繋がっていく。初期には土地の委譲が法律によって禁止されていたため、テマ単位での大規模な屯田を行うなど帝国によって厳重に統制されていた。特にコンスタンス2世の時代にスラヴ人を小アジアに入植させた政策は有効だったらしく、彼の時代にはウマイヤ朝を創始してイスラム帝国を継承したムアーウィヤも東ローマの小アジアにおける防衛線は突破することが出来なかった。

テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人ペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。ヘラクレイオスの時代にはサーサーン朝イスラム帝国の侵攻によって従来の帝国の穀倉地帯であったシリアエジプトが奪われており、「パンとサーカス」という言葉で有名な小麦の配給も廃止せざるをえなくなるほど帝国全体の生産力が低下していた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。

テマ制は計画的に導入された制度ではないとする説[編集]

かつては主流であったテマ制が計画的に導入された制度であるとする説は近年では疑問視されるようになってきている[1]。このように考えられるようになった理由としては、従来の説を支持する記録が10世紀以前の資料からは見つかっていないこと[2]、初期の記録においてはテマは反乱軍として記録されていること[3]、東ローマ帝国に由来する行政区の民政機構がテマとは別個に存在していたことが分かってきたこと[2]、テマの所在地と名称とが一致していないこと[4][注 2]、各テマの長官たちが称した称号が一様でないこと[5]、テマは必ずしも帝国政府の意向を尊重する存在ではなく皇帝との個人的な関係によって独自の行動をとっていたこと、等が挙げられる。近年の説によれば、テマ制の誕生の経緯は以下のようになっている。

まず、6世紀末から7世紀初頭に起こった反乱と政治的混乱によって602年から610年の間に東ローマ帝国が滅亡した[6][7][8][注 1]。東ローマ帝国の滅亡によって各地で小王国が独立したが、これらの小王国はアラブ人の勢力に押し出される格好で政治的空白地帯となっていた旧東ローマ帝国領域の内へ内へと移動を開始し[注 3]、現地に残されていた東ローマ帝国の行政機構を徐々に支配下に置いていった[1]。こうした小王国が、かつての東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルを獲得したアルメニア人ヘラクレイオスによってテマ連合として再編成され、新帝国「ビザンツ帝国」が誕生した[6][7][8][注 1]。つまり、フン族やアラブ人に押し出される格好で西ローマ帝国に定住していったゲルマン人の王国が8世紀フランク王カール大帝の登場によって中世ローマ帝国として再編成されたのと同じ事が、7世紀東方世界においても起こっていたと考えられるのである。

テマ一覧[編集]

 899年に作成された「フィロテオスのクレートロロギオン英語版(フィロテオス文書)」に登場しているテマ長官の一覧表(括弧内は主な都市[11][12][13]

小アジア
バルカン半島
クリミア半島
イタリア半島

脚注[編集]

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注釈

  1. ^ a b c ビザンツ史研究においては「ビザンツ帝国は東ローマ帝国とは異なる帝国である」とする見解も根強く、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続いている[9][10]
  2. ^ 例えばアルメニア軍管区やトラキア軍管区は、アルメニアトラキアから来た人々が構成したテマ(軍管区)であって、その所在地はアルメニアでもトラキアでもなかった[4]
  3. ^ これによってテマの名称と所在地とに不一致が生じた。

出典

  1. ^ a b 朝治2008、「テマ」の項。
  2. ^ a b 根津2008、p.28。
  3. ^ 世界の歴史11、pp.71。
  4. ^ a b 世界の歴史11、pp.69-70。
  5. ^ 尚樹1999、p.328。
  6. ^ a b オストロゴルスキー2001、pp.109-112。
  7. ^ a b ルメルル2003、pp.84-85。
  8. ^ a b 世界の歴史11、pp.71-72。
  9. ^ 井上2009、p.5。
  10. ^ 井上2009、p.363。
  11. ^ J.Haldon[2005]
  12. ^ G.Ostrogorsky(原著) 和田広(訳)[2001]
  13. ^ 井上浩一[1982]

関連資料[編集]

  • J.Haldon著『The Palgrave Atlas Of Byzantine History』Palgrave Macmillan,2005年,ISBN 978-1403917720
  • ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』和田廣訳、恒文社、2001年。ISBN 9784770410344
  • ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』西村六郎訳、白水社、2003年。ISBN 4560058709
  • 朝治啓三『西洋の歴史基本用語集 古代・中世編』ミネルヴァ書房、2008年。ISBN 9784623050871
  • 井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店、1982年。ISBN 4000045555
  • 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、1990年。ISBN 406149032X
  • 井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年。ISBN 9784122051577
  • 井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年。ISBN 9784876988433
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316
  • 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年。ISBN 9784634349421

関連項目[編集]