スライマーン・イブン・アブドゥルマリク

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スライマーン・イブン・アブドゥルマリクسليمان بن عبد الملكSuleiman bin Abd al-Malik674年 - 717年9月22日)は、ウマイヤ朝の第7代カリフ(在位:715年 - 717年)。ワリード1世の弟。

生涯[編集]

ワリード1世は弟スライマーンではなく自分の子を次代のカリフにしたいと願い、イラク総督アル=ハッジャージュなど功臣たちの賛同を得て、その根回しを進めていた。しかし、事が成る前にワリード1世は没してしまう。即位したスライマーンは廃されかかった恨みをはらすべく行動を開始した。

アル=ハッジャージュは間もなく病没したが、後に残った部下たちはハッジャージュの副官であったクダイバを中心にまとまりを見せていた。スライマーンはハッジャージュの後任のイラク総督にハッジャージュの政敵であった男を送り込む。身の危険を感じたクダイバは叛乱の準備を始めたが、それを察知したスライマーンは使者を送って兵士たちのこれまでのペルシア方面征服戦での健闘を称え、スライマーンの即位祝いとして報奨金を下し、遠征に疲れた兵士たちに待望の帰還命令を与えた。喜んだ兵士たちはスライマーンと戦う気持ちをすっかりなくしてしまい、クダイバは粛清された。更に、北アフリカを征服してイベリア半島にまでイスラム世界を広げたムーサー・イブン=ヌサイルや、インド方面にて活躍中だったムハンマド・カーシムらの武将たちも次々に地位を剥奪されて粛清されていった。

また、弟マスラマに命じてコンスタンティノポリスを包囲したが、これは時の東ローマ皇帝レオーン3世によって撃退されている。この時初めて『ギリシアの火』が使用されたという。スライマーンはコンスタンティノープル攻略を諦めなかったが彼の病没によって新カリフにウマル2世が即位し、その命令によって兵士たちは撤退していった。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]