南画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
大画堂画譜、1803出版

南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。

南宗画[編集]

南宗画は17世紀に莫是龍を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論画禅室随筆』で流布した。即ち、に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対し、王維の画法渲淡(暈し表現)から始まり、董源巨然米芾米友仁元末四大家に連なる水墨、在野の文人士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である[1]

日本南画[編集]

日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年)(甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜』を独学し長崎派河村若芝に添削指導を受け、柳沢淇園も長崎派英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。明治20年にフェノロサ岡倉天心主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された。しかし、富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、富田渓仙(1868年 - 1938年)、小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている。 池大雅の弟子桑山玉州は『絵事鄙言』で松花堂昭乗宗達光琳も南宗に加え[2]中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ渲淡画様式を南画としてとらえている。南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品逸格、「去俗」を重要視した。

流派・画家[編集]

主な流派と画家は次の通り。

[編集]

  1. ^ 『画禅室随筆』巻二「禪家有南北二宗,唐時始分畫之。南北二宗,亦唐時分也,但其人非南北耳。北宗則李司訓父子。著色山水,流傳而為宋之趙幹趙伯駒趙伯粛,以至馬夏(馬遠夏珪)輩。南宗則王摩詰(王維)始用渲淡,一變鉤斫之法,其傳為張躁、荊關(荊浩關仝)、郭忠恕、董巨(董源巨然)、米家父子(米芾米友仁。以至元之四大家趙孟頫吳鎮黃公望王蒙),亦如六祖之后,有馬駒(以下略) http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%95%AB%E7%A6%AA%E5%AE%A4%E9%9A%A8%E7%AD%86/%E5%8D%B7%E4%BA%8C
  2. ^ 『絵事鄙言』二十四丁表「近衛公ノ戯墨惺々翁宗達光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ言ハンカ」

参考文献[編集]

  • 長尾雨山、『中国書画話』 筑摩叢書、1965年
  • 飯島勇 編、『文人画』日本の美術、第4号、至文堂、1966年
  • 『世界美術小辞典 日本編 「絵画 近世」』 新潮社
  • 武田光一『日本の南画』 世界美術双書 東信堂 2000年

関連項目[編集]